「無謀庵かく語りき」は、2002〜3年ごろ、left HOPE.に「双恋Wiki」が設置されていた時期に執筆された雑文集です。
近頃、ゲームセンターからは人が減り、ゲームメーカーはバタバタ潰れるかパチンコ機メーカーに版権目当てで買収される、という、酷い状況が続いている。ゲーム市場は不況を極めたといっていいだろう。
かろうじて残っている店も、賭博ッ気の強いメダルゲームで素人からむしるか、プレイ単価が極めて高いトレーディングカード物などでマニアからむしるか、あるいはレトロゲームで昔からのマニア層や、ブーム期を知る元ゲーマー層を掴もうという商法で生き残りを計るばかりである。
私は元ビデオゲーマーで、しかも博打やるならメダルゲームのような現金のペイアウトがないものではなく麻雀やるほうが良いと思っているし、トレカ集めるような趣味もないので、できることならゲームセンターには昔のようにビデオゲームで勝負してもらいたい、とは思う。
でも悲しいかな、それでは利益はあがらない。必死で100円を投入する現役ゲーマーはもう少数すぎるから、それで儲かるのは限られた店だ。我々元ゲーマーは、もはやそんなにお金を落とさない存在になったから「元」なのだ。今でも時々暇つぶしに立ち寄ることはあっても、せいぜい客単価は数百円。
そんなどうしようもない苦境。
それでもあくまでビデオゲームで、昔のようにゲームセンターをにぎわすことはできるだろうか?
それをやれるとすれば、手立てはただひとつ。大ブームを起こすような新作をリリースして、今までゲームセンターに通わなかったいわゆる一般人層を、熱心にゲームをするゲーマー層に転換させること。そしてさらに、ゲーマーになってしまってからもやりこみ続けられる、マニア受けの要素も兼ね備えていること。
かつてのスペースインベーダー、ストリートファイターII、ビートマニア/ダンスダンスレボリューションなど、実際に成功したゲームはいずれもそういう、一般を取り込み、マニアを熱中させるものだった。
だが、そう簡単にそんなゲームを作れる苦労はない。
具体的に、一体どういうゲームを出せばいいのだろうか。
まず、ゲーマーになってもらうべき一般人を引っ張り込む必要がある。
近頃の新作はただでさえリリースペースが遅いというのに、過去の人気ゲームキャラを一同に集めるような、根本的にゲーマー以外をターゲットにしていないゲームばかりだ。これでは、ただでさえ少なくなったマニアに、タコが自分の足を食うかのごとき娯楽を提供しているに過ぎない。
一般人に受けたゲームとはどういうものか。
最近の具体的な例は、「太鼓の達人」であろう。何しろこれ一丁で2002年度のナムコは大幅増収であった。2004年の今なお、どこでも置いてあるおなじみのゲームになっている。
これも、いわゆる音ゲーのひとつである。
しかし、音ゲーの始祖・ビートマニアやDDRは、ブーム期はみんなやってたのにどんどん素人が逃げ、オタしかやらなくなり、そして人気の火が消えてシリーズが途絶えてしまった現在がある。
これは、シリーズが続くにつれて難易度が上がり、一般人または新人ゲーマー層にとって、ビートマニアは一目見ただけでムリと思える、DDRはバタバタと見苦しいと感じるものになってしまったからだ。
要するに、難しいから逃げたのだ。
だがしかし、その素人離れを危惧したコナミが、ビートマニア・DDRで難易度をぐっと下げてみたことがあった。だがその作品は、マニアには「ぬるい。つまらん」と見捨てられ、かといって一度逃げた客は戻らなかった。
難易度に関しては、難しくては逃げてしまう。しかし、簡単だからという理由ではやってもらえない、ということだろう。
ところで、同じコナミのヒット作であるビートマニアとDDR、どちらが一般受けしたかといえばDDRだろう。この差はどこから来るか。
コナミ音ゲーで比較的一般受けがよかった「POP'n MUSIC」も加えて考えると、そのプレイ時の動作に決定的差異があることに気が付く。
ビートマニアは「押す」「回す」である。しかしDDRは「踏む」、ポップンは「叩く」。すなわちDDR・ポップンの方が暴力的といえる。
我々ゲーマーがゲームをする理由は、上手くなり、クリアし、スコアを稼ぐことである。すなわちゲームそれ自体が目的なのだ。だが一般人にとってのゲームは、ストレス解消や暇つぶしの手段でしかない。よりスカっとするものに流れるというのは当然ではないだろうか。
「キーボードマニア」や「ギターフリークス」が一般受けしたか? いやしない。スカっとしないからだ。
ゲームとしての印象がバラエティゲームっぽく、いかにも一般受けしそうな音ゲー、例えば「サンバdeアミーゴ」や「パラパラパラダイス」が成功しなかったのも、「振る」「手をかざす」という動作に爽快感がないからだ。
ドラムマニア、という「叩く」ゲームでありながらも一般ウケがほとんどないゲームがひとつ存在するが、これはどういうことだろう。
実際に一般受けしている三作を、受け具合の順に並べれば、太鼓>DDR>ポップンだろう。(DDRの初期はブームの加熱が過ぎたが、3rdあたりですでにオタしかやってなかったから太鼓より下とする)
見てのとおり、操作のわかりやすい順に並んでいる。しかるにドラムマニアは、ドラムセットという何か威圧的で素人には触り難いものを、両手と足を駆使して叩かなければならない複雑さが敬遠される。実際にマニアがプレイしているのを見ても、なにか異常なスピードで流れる譜面を異常な速さで激しく叩いているように見えて、とても真似できそうに思えない。
繰り返すが、ゲーム自体が目的ではないのだから、一般人はそんな複雑なものを身に付けようと思わない。
こうして考えれば、「ぶっ叩いたり蹴り飛ばしたりで爽快」「ルールが単純明瞭」なゲームが好い、ということがよくわかる。
その条件を満たしつつ、オタにも歓迎されるゲームが作れないだろうか。
ルールがわかりやすい、ということでは太鼓の達人以上はない。これ以上単純だと、もはやゲームではなくなるだろう。
よって、そのまま爽快感を上げる工夫をする。
そこで提案なのだが、太鼓にパンチ力センサーを内蔵してはどうだろうか。思い切り叩けば叩くほど、画面に派手な演出がかかる。これで、一般人の皆さんは、ぶち壊さん勢いで太鼓を叩いてスッキリ爽快。
では、オタはそれにどう満足すればいいか。
ここはゲーマーの皆さんは誰もがご存知、ソニックブラストマンを起用する。90年代格闘ゲームブーム期からゲーセンにいる人たちは、どこに行っても置いてあったソニックブラストマンはおなじみの存在だろう。時には彼になり代わってトラックをパンチで止めたこともあるはずだ。
レゲーブームの昨今、これほど相応しいキャラはない。知名度ではワルキューレやビッグバイパー、マイク・ハガーをも上回っているだろう。
題して「太鼓のソニックブラストマン 〜私の鉢を受けてみよ!〜」。これで大ブレイク間違いなしである。
問題はソニックブラストマンがタイトーのキャラであることだが、このゲーム不況でメーカー間協力をなくして生き残りはない。カプコンとSNKが共同でゲームを出す時代じゃないか。
ぜひタイトー・ナムコの両社には前向きな検討をお願いしたい。
ストリートファイターIIという、アーケードゲーム業界において、おそらく「スペースインベーダー」と同等かそれ以上の金字塔となったゲームがあった。
まさに空前絶後の大ブームだった。
それは、ゲームセンターから「不良の溜まり場」というイメージを拭い去り、子供と若者たちがみんな集まる社交場に塗り替えた。
それは、ゲームの主流を、ひとりで遊ぶものからふたりで対戦するものに切り替えた。
それは、その後数年間、アーケードゲームの作品群のうちほぼ半数をその亜流で占めるほど、絶大な影響力を残した。
それは、スーパーファミコンから3DO、FM-TOWNS、PCエンジンに至るまで、幅広いプラットフォームに移植された。
それは、ハリウッドで映画にもなった。
そして、それは――
一枚の、イメージソング集をも残したのであった。
『熱唱!ストリートファイターII』――
それが、そのイメージソング集のタイトルである。ブームの熱病に浮かれたアーティストたちの心に残る、今は癒え、忘れられた古傷――それが、このCDであった。無論、買った私の古傷でもある。多分当時12歳ぐらいだったと思う。
このアルバムは、ストII各キャラのステージBGMを再編曲し詞をつけたものを、12人(組)のアーティストが歌う、というもの。メロディはゲームのまま、耳慣れたあのメロディにそのまま歌詞が乗っている。
前奏や間奏には、音楽のリズムに乗って「波動拳!」「スピニングバードキック!」といった、おなじみのキャラたちのボイスが入る。このへん、いかにも企画モノ的で恥ずかしい。
編曲のレベルとしては、当時のゲーム音楽のアレンジ版にしては上等、歌謡曲レベルとしては辛いか……というところ。
後に「熱唱!ストII インスト版」なんていう、歌を抜いてシンセでメロディを入れたバージョンが出たりもした。歌い手に失礼だろう……と思うところだが、まあ、ボーカルは一度聞いたらインストの方が良かったと思えてしまうという出来であった。
そう、その歌い手。
これが、あまりにも多種多様。専業歌手、元がついてしまう直前の専業歌手、アイドル、外国人ブルースシンガー、ジャニーズ、お笑い芸人、元ダチョウ倶楽部リーダーを含むあのパフォーマー集団など、列記すると頭が痛くなりそうな凄まじいメンバーなのである。
意外と金が掛かってそう(ネギま!の12ヶ月連続シングルすべてを合計した以上に掛かっているのではないだろうか)だが、金の使い方というのは難しいものだとしみじみ感じさせてくれるのだ。
アルバム収録順に曲を見ていこう。
まず先頭を切るのは、春麗のテーマソング「夢へのポジション」である。
歌い手は、アイドルグループCoCo?(現在は解散)の宮前真樹。ライナーノーツには、彼女が春麗のコスプレをした写真が載っている。お約束のようになんか怖い写真である。アイドルだからそう不細工ってわけじゃないはずだが。
ちなみにこの曲はシングルカットされ、コスプレ写真がジャケットに印刷されて全国に販売されたし、テレビの歌番組にもその衣装で登場し、振り付けと共に歌を披露もした。
さらにシングルにはストII大会の参加券が同封されており、優勝すると宮前真樹と対戦できるという特典もあった。
ちなみにシングルの方は若干バージョンが違い、間奏の「スピニングバードキック!」の掛け声を宮前自身が喋っている。味気ない音声合成のアルバム版に比べ、より一層背筋のむずがゆさを強めた代物である。
歌詞は、「夢に向かって辛い試練の道へ最初の一歩を踏み出す少女の、心細さと決意」を歌うような、いかにもアイドル的な歌詞である。春麗よりも宮前の方に合わせた作詞のようだ。
ライナーの歌詞と同じページに、「行方不明になった麻薬捜査官の父の敵をとるため、関与していると思われるシャドルー(ベガの率いる秘密組織)を追って戦いの旅をする」という、ストIIにおける春麗のバックストーリーが書かれており、それと見比べるといかにも空気が違う。
こういう企画モノで、キャラではなく歌い手の方に合わせてしまう……というのは間違いな気もする。根本的に、こういう企画を立てちゃうこと自体が間違いではないのかとも考えてしまうが、そういう現代の価値観で歴史に善悪をつけるような行為は間違いだ。考えてはいけない。
タイトルの「夢へのポジション」だが、言葉としてどうも妙だ。歌詞の中でも「夢へのポジション 今スタートしたばかりだね」と、いまいち日本語として意味が通らない使い方をされている。
歌唱力は……ごくありふれたアイドル(アイドル歌手ではなく)並。声優とあまり変わるほどでもない。
二曲目。ケンのテーマソング「紅のケン〜Burning Blood〜」である。
宮崎アニメ映画「紅の豚」もこのアルバムと近い時期の作品で、参考にしたタイトル付けなのは明らかだろう。ケンの空手着が赤いからといってあまりに安直なネーミングだ……と思うなかれ。ケンの燃え滾る熱い血潮の赤とも掛けたネーミングである。
やっぱり安直であった。
歌い手は、あの「ミッシェル」の愛称で人気を博した(とライナーに書いてある)影山ヒロノブ御大である。ライナーに写真はあるが、あいにくコスプレではない。コスプレで出てくる恥ずかしい歌手は春麗とリュウだけだ。
歌詞は、頭の弱そうな格闘バカが、自分の強さと気力を言葉足らずにアピールしているかのような、いかにもケンらしい歌である。頭に血が上りすぎたのか、歌が終わりに近づくほど変な歌詞になり、「あたたたたた!」と掛け声が入ったり、唐突に「ごめん、君を忘れたんじゃない」などと女にかける言葉が入ったり(実際ゲームでもそういう女が居ることになっているのだが)、支離滅裂になっていく。
三曲目。
なんと電撃ネットワークを起用した、ブランカのテーマソング「ブランカが街にやって来た!!」。
ブランカが東京や大阪にやってきて、子供や大人やお年寄りが大騒ぎする、というだけのコミックソング風のものである。間奏の必殺技の掛け声も、ブランカには叫び声しかないので、代わりに電撃ネットワークのマイクパフォーマンス「ロケット花火」が入っている。
ブランカってそんなギャグキャラじゃなかったはずながら、まあ電撃ネットワークの勢いに持っていかれた感のある曲である。
四曲目は、エドモンド本田の「張り手一発 日本の心」。
歌い手はあのビジーフォーのドラマー、ウガンダ。見た目で起用したのだろうか。
ウガンダ、別に歌が上手いとも思えないが、声がいかにもエドモンド本田らしくて、また歌詞も、外人の勘違いによる日本人像を描いたようなまさしくエドモンド本田的なもので、案外キャラソングとして一番よくできているのかもしれない。本田のキャラソングがよくできていて誰が喜ぶのかという話もあるのだが。
五曲目。ガイルの「ロンリーウルフ」。いかにもやる気の無さそうなタイトルである。歌手も、おそらく燻ったまま鎮火してしまったであろうロックバンド「RABBIT」の岩佐友晴。
「あー炎のソニックブーム」「うなれサマーソルトキック」などといかにも頭使ってなさげな、やる気の希薄な歌詞。内容も、「キミとの愛を守るため闘う」などと、ライナーに書かれたガイルのバックストーリー(妻と子に別れも告げずに家を飛び出して、殺された親友の仇を討ちに行く)とはやはり乖離したもの。
アレンジもいかにも芸の無いギターロック仕上げで、いかにもやっつけ仕事くさい仕上がりである。
六曲目はダルシムの登場。「遥かなるIndia」である。
このアルバムのプロデュースを務める、フェアチャイルド(現在は解散)の戸田誠司が歌う曲である。心なしか、自分の歌だけあってアレンジ頑張ってるようにも思われ、環境音楽っぽく聞きやすく仕上げてある。
この戸田誠司という男、普通のJ-POPシーンからいつのまにかゲーム音楽のプロデュースの方に流れていったようで、最近意外なところで名前を目にした。シスタープリンセス『Kaleidoscope』の『KISEKI no HITO』『Tangerine Sunset』のアレンジをやっていた。私にしてみれば、10年の歳を経た邂逅である。
ちょっと凹んだ。
気を取り直して七曲目。ザンギエフのテーマソング「恐怖!バキューム男」であるが……。
なんと、歌っているのが吉本新喜劇でおなじみ、パチパチパンチの島木譲二なのである。ここまで来ると何考えてるかわからない起用だ。もちろん歌唱力なんて望月久代に勝るとも劣らないレベルであり、歌としてどうこう評するような曲でもない。
そしてパチパチパンチだけで吉本を生きた男・島木譲二、この曲の間奏でも大阪名物パチパチパンチ、ポコポコヘッドを披露。今は毒舌バラドルとしてテレビでおなじみの、元フェアチャイルド・YOUの冷たいツッコミをものともせず、「大阪の島木譲二や! ロシアは強いけど大阪は負けへんど!」と啖呵を切ってみせる。そして最後は「パチパチスクリュー」という必殺技まで編み出してみせる。
コスプレまでして春麗になりきる宮前真樹に対し、あくまで自分を譲らない島木譲二。流石だ。ストIIのキャラごときに食われるようでは大阪では芸人として生きていけないのである。
譲二に元気をもらって次に行くのであるが、八曲目は真打リュウの登場。「嵐になれ」である。
これも春麗と同じくシングルカットされ、一度はオリコン74位まで上り、数秒ながらゴールデンの歌番組にも顔を出した。 ネギまのやる気のないシングルがオリコン10位を突破するのが2004年であったが、「嵐になれ」は一般アーティストのCDが売れまくっていた92年末リリースである。かなりの成績といえるだろう。
歌い手は光GENJIの山本淳一。もちろん、この頃すでに光GENJIは落ち目であった。しかし腐ってもアイドル。歌詞の方はやはりリュウより山本に合わせて「倒れても負けずに立ち上がれ!」とリスナーを応援するかのような、爽やか系の代物になっている。
それでもやはり落ち目アイドルは悲しいもので、リュウのコスプレで波動拳のポーズを決めた写真は、今となっては哀愁漂いすぎて陰惨でさえある。ジャニーズのトップアイドルからストIIコスプレ。諸行無常だ。
この曲をひっさげてテレビ出演の折り、「リュウの必殺技やってくれ」とリクエストされ、「昇龍拳!」と叫んで波動拳のポーズを取ったという逸話もあり、ますます悲しい光GENJIの山本である。
なんだか譲二にもらった元気を山本に掻き消されたが、それでもアルバムはまだ続く。
九曲目。バイソンのテーマソング「Bison's Dream」である。やる気の無さここに極まれり、といったタイトル。
シンガーはHi Tide Harris。サンフランシスコ生まれのブルースシンガーで、カリフォルニアで名をあげてから日本に活動の場を移した変り種。ちなみに今でも活躍中である。ブルース界では実力派で通っているシンガーらしく、歌唱力はさすがに島木譲二とはわけが違う。
英語の作詞が出来る面子がいなかったのか、歌詞もHi Tide Harrisの手によるもの。さらにギターも自ら弾いてレコーディング。
さすが本物の仕事だけあって、これがなかなか普通に悪くない曲である。
ただ、弾き語りで歌ってるだけなら良かった気もするが、あいにくイメージアルバムにするためのアレンジ(間奏の部分に、ストIIのパンチ音がリズミカルに入っていたり)でいろいろと台無しになっているのが惜しい。
十曲目。バルログのテーマソング「仮面のナルシスト」。やはり微妙にやる気の無いタイトル。やる気があるならセンスが無い。
このボーカリストのETHICAという人物は、謎のロックボーカリストということにされていて、プロフィールも写真もない。歌唱力はなかなかいける方だと思われるが……。
調べてみたところ、ロックバンド「DEAD END」のボーカル・MORRIEじゃないか、と思しき情報の断片があった。元祖ビジュアル系みたいな位置にいる人らしいが、なるほどこの仕事で身分隠したくなるのもわかる。
よくわからないものは飛ばして次。サガットのテーマソング「タイガー伝説」。頼むから1分ほどは頭使ってタイトルつけていただきたい。
ボーカルはヒカシューの巻上公一。なにぶんメロディーはゲームのままという縛りがあるため、わずか4小節しかないメロディを5回繰り返すだけの、サビも展開も何も無いというどうしようもない曲で、歌として体裁が成り立っていない。いくら企画モノだからといって、これはあんまりだ。これでヒカシューに対して評価を下すのは、さすがに傲岸不遜な私にも憚られる。
そしてようやくの大トリである。
「沈黙の墓標」――ベガのテーマソング。
そして歌い手は――ストロング金剛である。
歌なのに「沈黙の」というタイトルはこれいかに? という疑問が過ぎるかもしれないが、その答えはあまりといえばあまりなこの曲それ自体によって知らされることになる。
歌詞がないのである。
歌詞がないのにボーカルがある?
すなわち、サミングである。3分57秒の曲の間、ストロング金剛が「♪ふんふーん」と鼻歌を歌い、時として「ふっはははは」と笑い、「ぐぉぉぉ」と唸り声を上げ、それが延々続いているのである。
前衛的。あまりにトンガった曲ではあるまいか。
これで、すべての曲の紹介が終わった。
文章で説明してさえ異様であるが、やはり十ニ年経った今聴き直してみても異様なアルバムである。
今では、ただ単なるゲームの1ジャンル以上のものではもなく、プレイヤーも少なくなってしまった格闘ゲーム。しかし、10年以上前のビッグバンの折には、その後長く続くブームを飾る星々とともに、このようないびつな彗星も生み出すほどの力があったのである。
ストIIブームは、歴史的であった。
眼鏡っ娘の人気というのは今も昔も変わらず根強いものであるが、ノンフレームの眼鏡をかけていて人気が出た例は少ないのではないだろうか。
ノンフレーム眼鏡っ娘を思いつく限り挙げれば、鞠絵、荻島歌夜、尼子崎初子、猪名川由宇、一文字むつき、七転ふみつき、といったところである。
この中で、「眼鏡っ娘だから」人気がある、というキャラはいるといえるだろうか。眼鏡といえば、の枕詞にその名を連ねられるのは鞠絵ぐらいのものだ。眼鏡以外に売りのないむつきや鞠絵は人気がないし、由宇などは人気があるが眼鏡が原因のものではない。
これは何故なのかと考えてみると、ノンフレームの眼鏡は絵的には眼鏡の役目を果たさず、単なる記号としての存在に成り下がってしまうことが理由ではないだろうか。
そもそも顔を漫画に描いたとき、人の顔面として適正なバランスで描くと、目鼻口が小さくてややインパクトの弱い絵になってしまう。それを回避するために、漫画家たちは眼を大きくしていくという手段で対応してきた。
しかし、あまりにも眼を巨大にしすぎると、数年前の樋上いたるのような著しくアンバランスな顔面になってしまう。
それをすることなく、キャッチーな顔を描くにはどうするか?
眼鏡を描く――眼を線で囲んでしまえばいい!
絵の上では、眼鏡を描くことによって眼が大きくなったかのような錯覚を与えることができる。眼鏡は、顔面をアンバランスにすることなく萌えな絵を作ることができる、魔法のアイテムといえるのだ。
実際、元々眼が巨大な絵柄の漫画家・イラストレーターは、あまり眼鏡を描かない。樋上いたるの絵柄で眼鏡を描くなら、あきらかに眼より小さいファッショングラスのようなものか、顔から著しくはみ出す不自然な眼鏡しか描けないであろう。
しかるにノンフレームの眼鏡というのは、その「目を目立たせる」という眼鏡絵本来の責務を全うしない。先に例示したキャラたちも、おそらく、眼鏡を描いてない絵を見せられたとしても、違和感を感じる程度で何が違うのかすぐにわからない程度のキャラばかりだ。
やはり眼鏡はフルフレームでなければならないのだ。それもできるだけ大きい、太くて黒いフレームがよい。細いフレームが多いという現実を適用してはならないのである。
葉鍵ゲームのキャラが不細工だったら、という仮定に基づくゲーム世界を考えてみる。
不細工といわぬまでも、現実的リアリティ(変な言葉だが、物語的に説得力があるという意味のリアリティとの区別と思っていただきたい)がある程度の、美女率不細工率の「こみっくパ〜ティ〜」はどういう代物か。
やはり玲子派(現・あやか派)頭領である私としては、まず玲子率いるチーム一喝に触れたい。
オタク少女四人組がすべて美少女である、ということは、確率的にまずありえない。ゼロとはいえないにせよ、リアリティはない。よって、各人に少なからぬ顔レベル格差があると思われる。むしろ全員ヤバいという可能性も十分にあるくらいだ。
もっとも、容姿で勝負するコスプレサークルなのだから、全員がブスということもない、という程度なら、まだリアリティを失わずにいられるだろう。 全ブスではなく、かわいい子もいる、としておきたい。
では誰が美女なのか?
女性というのは仲がよさそうに見えても、裏では嫉妬が渦巻いているものだ。女性4人組があれば、だれかひとりがいないときは、残りの3人で居ないひとりの悪口祭りが始まる、というのは世界の定説といえる。
よって、我々の愛して止まぬ、リーダーである玲子が4人のうち一番かわいい、というのは、あいにく考えづらい。
なぜなら、一番かわいい子は、嫉妬による攻撃に晒されぬように、常に一歩引いて発言力を落とすようにする、というのが、女性グループに属する美少女の、最善にして唯一の処世術だからだ。リーダーになろうなんて考えもしないだろう。
置かれている立場から想像すると、一番かわいいのは、上の条件がそのまま当てはまる夕香であろうという考えが妥当である。
他の3人はどうか?
まず、玲子をさらに深く掘り下げよう。
玲子はまず、リーダーである、ということから考察していきたい。
先の「嫉妬」による理由で、まずかわいくてはいけない。容姿だけでなく、マンガの技術その他あらゆる要因において、抜け出した存在ではいけない。女性の場合、身近な女性がどんなに偉大であっても、彼女に対して嫉妬を尊敬が上回ることはまずありえない。ゆえに、嫉妬も許さないほど決定的に上回ったスーパーリーダー、というものはありえない。
リーダーは凡庸でないとつとまらない。しかし完全に無能で何の取り柄もない、となると舐められるしリーダーにもさせてもらえないだろうから、「何をやっても仲間内で2番」ぐらいの実力が妥当であろう。
ただ、いざというときに責任をなすりつけ頼りやすいような性格や事情があれば、リーダーに持ち上げられるだろう、とは考えられる。例えば、家が金持ちであるとか、こみパ準備会方面にコネがあるとか、そういうことなら嫉妬されながらも便利に利用されるはずである。
性格も、こういう女の性根のダークサイドをいまいち理解していない(大抵の女性は先天的に理解しているものだが)ために、本当に友情を信じて行動してしまう、女性らしからぬ明るく優しく素直な心の持ち主が妥当か。オリジナル玲子は明らかにこのタイプであり、だから私は玲子を愛している。
あるいは、ただとにかくNoといえないタイプで、友情関係を維持するために必死で奔走する、長谷部彩のようなタイプ。別にこういうのは彩みたいに陰性とも限らず、明るいようでいてそういうことやってる子もいるから、玲子にも適用できる。
以上のリアル玲子像をまとめると、心のきれいな愛すべき少女あるいはさびしんぼである。
まゆは?
なにしろ彼女はボク女だったりと、少々子供っぽいところがある。子供っぽいということは、女性間ではかなり軽蔑される要素である。その上に顔がかわいかったりしたら、もう確実にいびり出される。
子供っぽいのに無事にチーム一喝内に地位を得ているということは、適当に蔑視されつつも、積極的に追い出す必要も感じないような、あんまり取り得のない、偏差値オール42ぐらいのタイプとするのが妥当か。長所の無さは玲子に近いようだが、玲子は「何でもやれるけど何も一番じゃない」であり、まゆは「なにやっても3番」である。
一番普通の子だと言えるかもしれない。魅力もなにもない、普通の子。
では最後に残った美穂は?
美穂は、顔も性格も4人で一番悪い、しかし当人に自覚はまったく無し、という線と見る。
リーダーとして節度ある行動をとる玲子、保身のため引っ込み思案な夕香、自分より下とみなしてるまゆに囲まれ、内心他の3人をみくびりつつ付き合い、わがままの尻拭いはみな玲子に振ってるような。まあ、厨房である。
こみパ本編から見える美穂像をリアルに拡大解釈すれば、こういう娘になる。大体、オタ女が4人もいて、厨房がひとりで済むなら、リアリティに欠陥を感じるぐらいだ。
この美穂像に基づいて、玲子シナリオのイベント考察してみよう。
美穂は昔から、自分より多くカメコを集める玲子を、いつも若干の羨望を覚えつつ、「まあ、私が本気だせば玲子以上の人気なんていつでも取れるわよ」とか思って見ていたのだ。不細工な女が美女を見るときにする勝手な仮定である。これはコンプレックスの裏返しから発生するもので、まあ要は「自分より玲子の方がかわいいから人気がある」という現実から目をそらすための妄想である。
そして、その玲子が露出多めのコスに走って、いつもよりドカーンと人気を集めた。美穂は面白くない。「なによ、大してかわいくもないくせに、売女みたいな真似して人気かき集めて、さもしいったらないわ」と思うであろう。
しかし、そんなことを当人に言ったら「僻み?」と言われることは予想できている。立場が逆なら自分が絶対そう言うからだ。
ならどうするか。「私も本気の露出コスで、玲子以上の人気集めてやろうじゃないの」と考えるのだ。さっき売女扱いしたことなんて、もう忘れてるか、「玲子と同じ土俵に上がって勝負するため」と恣意的な理由はいくらでもつけられる。厨房が自己正当化能力に長けているという事実は、考察の必要すらない真実だ。
そして次のこみパで、思い切り見せまくりのコスに走る。果たせるかな、カメコもいつも以上に集まる。
「胸の低い玲子と違って、結構巨乳な私だからこれぐらいの人気は当たり前よ」などと思いながら、バスト86だけどウェスト69(自称)の腹を腹筋で引っ込めつつ写真を撮られる。撮ってるほうはまあ、衣装着てるし、エロいポーズもとってくれるし、顔はアイコラで張り替えればいいや、と思っている。
そして、改心したらしい玲子が、露出コスを咎めに来る。
美穂は、待ってました、と言わんばかりに「僻んでんじゃないわよ」。
ブスは、ブスであるがゆえに性格までゆがむ(ことがある)、という好例になりそうだ。それにしても、あまりに無理なく考え付くこの厨房美穂像!
玲子ファンの私にとってはあまりに悲惨なチーム一喝像が出来てしまった。しかし、この満ち溢れぬばかりのリアリティ。チーム一喝が実在するとすればこんなものなのだろう。
なお私は、女性蔑視主義者ではない。
シスプリ。
あれは要するに、12人の妹がひたすら兄であるあなたを誘惑しまくってくる、というシチュレーションを面白がるものだ。
斜に構えて見れば非常に楽しめるものであるが、「花穂とセックスしてぇーーー!」とか叫んでるようなお兄ちゃまがすぐ身近に居たりすると、変態かコノヤロウと引いてしまうところも正直ある。
しかしまた一方、同人界では少なからぬ量のシスプリエロ同人誌が氾濫しているのも確か。それどころかオフィシャルのはずのゲームでさえ、「義妹と入浴・実妹と添い寝」というシーンを設けている有様。
本当にあの12人の妹軍団が居たとして、劣情を催すことができるのか? そんなやつは変態だけなのか?
それを、現実的リアリティの元に考えてみよう。
ところで、あなたに生き別れの妹が居たとして、お互い十代後半になって初めて会って、突然いっしょに暮らすことになったとしよう。
そしてそれが、顔はとびきり可愛いのだが、夜になると寝床に裸で忍びこんでくるニンフォマニアックな性格を持ち合わせていたと。
あなたは、その妹を拒めるだろうか?
断じて否。
別にあなたを変態妹マニアだと言っているわけではない。私も拒めないであろうから。
人間の本能で、「家族に性的欲求は感じない」ものではあるが、それは「近しい血縁があるから」ではなく、「家族として幼い頃から共同生活をしていたから」ということが理由だという。
生物学的に考えて、近親相姦を本能が禁じるなら、近親しかいない時には繁殖ができなくなる。それは生物として異常だ。近親相姦を拒むのは、社会というものを持った人類が身に付けた後天的な思い込みにすぎない。
兄妹を生まれてすぐ引き離し、20年ぐらい育ててから何も知らせずヤらせれば、おそらく平気でヤるだろう。そんな非人道的な実験をやれるわけがないので実証は無理だろうが、「兄妹は離れていても通じ合える」なんて超能力か宗教じみたことを言い出さない限り、そうなるだろうということは予想がつく。
ということは、自分の家族ではない、と本能が認識できていない人間となら、ヤりたくなっても何ら異常はない。
ゲーム版シスプリ序盤を見ると、春歌・四葉・亞里亞の3人については、そういう妹が存在することすら知らないままで初顔合わせ。それどころかアニメ版においては、そもそも誰一人として面識なく、顔を合わせても妹だとわからなかったほどの有様。
これでは、本能では「ヤってよし」と感じられる対象になるはずだ。ヤりたくなっても何ら異常ではない。
しかし、人間は肉体のみにあらず。肉体的にヤれるからといって誰とでもヤるというのは、動物と同じである。
人間を人間たらしめるのは、精神や倫理を持つことによる社会性だ。いわゆる社会通念でダメとされていることは、限りなく本能に近いレベルで行動の枷になる。早い話、「あなたは美女を見るとレイプをしたくなるか?」ということだ。
現代日本社会には、残念ながら「妹とヤる奴は変態」という社会通念がある。それは、日本人は誰でも深く信じ込み、疑っていない。
一部妹マニアを除けば、やはり「変態呼ばわりされたくねえな」と思うわけで、そのせいで出そうとした手が引っ込んでしまう。
ところが、咲耶という、そういう社会通念から開放された自由の翼で飛び回る妹が、ひとり混じっている。こっちから手を出そうとしなくとも、向こうから社会通念の壁をロンダートで飛び越えてくる。
先の指摘のとおり、肉体的にはヤれる。障害は社会通念上ヤバいというだけで、いざ咲耶が寝床に忍びこんできて、しごいたりしゃぶったりしたとしても、勃たないほど強力に精神の規制は働くか。
そんなもの、Noに決まっている。
しかし、コトの後、兄の思考がどうなるかは個人差があるだろう。
ヤったあとに「俺は変態だったのか」と後悔しまくる人もあるだろう。「こうなったら、法的に結婚はできなくても、咲耶を内縁の妻に迎えて社会の迫害に抗して愛に生きるぞ!」と決意を燃やす真面目な人もいるだろう。「ひとりヤるのもふたりヤるのもいっしょだ」と、他の妹にも手をつけるようになる人もいる……かもしれない。
が、兄がどう考えていようと、「メスブタに抜け駆けされた!」と、咲耶の後を追って夜這いをかけてきそうな妹が何人かいる。
その筆頭格は可憐。春歌あたりも怪しい。
可憐が来たら、これも咲耶と同じ理由で拒みきれない。お兄様が「俺は咲耶と結婚する!」と心に決めていたりしても、可憐だったら咲耶を亡き者にしてでも本懐を達するだろう。
ある程度年長の妹たちは、この二人が兄を襲ったことを引き金に、なし崩し的に兄に飛び掛ることだろう。
3、4人もヤってしまえば、少々真面目な人であろうと「もう誰とヤっても一緒だ」という考えに至ってしまうのは間違いない。
こうなってしまえば、もう堕落はたやすい。なんせ、獲物は手の届くような距離にいる。やたら短いスカートで尻を振っている妹、今時ブルマで朝からまとわりついてくる妹、金のためならよほどの要求にもこたえそうな妹。
実に扇情的な妹たちが揃っているだけに、これらに手を出さずにいられる精神状態ではないだろう。
身長142cmの幼女である白雪に手を出す頃には、兄の頭のネジも何本か飛んでる状態であろうから、「ペドはやばい」なんて社会規制すら頭から消え去り、雛子とか亞里亞を襲うという痛ましい事態も起こるだろう。
さて、この爛れた兄の堕落っぷり、一見リアリティが無いようにも思えるが、今一度自分の胸に手を当てて考えてみよ。あなたは、あの妹12人を前にして、こうならずに居られると、本当に思えるのか?
異常者を前にして、正常で居られる常人はいない。それこそ、現実的リアリティと呼ぶべきものではないだろうか。
書くタイミングを逃したので付記するが、日本の法律では近親結婚は罪になるが、近親相姦を罰する法律はない。
シスプリゲーム版はいちいちアニキに名前をつけねばならない。しかし、何人もの妹を攻略するうち、ネーミングのネタが尽きた。
身近なひとの名前も、すでに姥神さんを可憐に、弘井さんを四葉に使った。咲耶は桃字お兄様で決まりだろう。
だが、鞠絵はどうしたものだろうか? 鞠絵がお気に入りなんて人は身近にいない。
よって、どこか別のところから名前を借りなければならないのである。
もっと幅広い分野に目を向ければ、鞠絵にあてがうべき兄上様の候補は色々ある。
なにしろ文学少女。今まで筆一本で名をあげてきた人物は数多いる。
例えば、井上ひさし兄上様などどうだろうか。
「手鎖心中」で直木賞を受賞した昭和の大作家にして、ひょっこりひょうたん島を手がけた名放送作家。この文学知識あふれる兄上様には、鞠絵もクラっとくること請け合い。眼鏡っ子つながりでもある。
……しかし、「手鎖心中」はあまり病弱な美少女が、わが身の不幸に酔いしれながら雰囲気作りに読むような代物でもない。
こういう娘は、えてして舶来信仰で海外の翻訳なんかを読んでいたりするもの。それもカフカの「変身」だとかカミュの「異邦人」のような電波系ではなく、イプセンの「人形の家」のようなロマンチシズム溢れるものを。
日本人の舶来コンプレックスは根強いもので、21世紀を迎えた今でもなお、オーディオなどの趣味性が強い分野では未だに舶来しか認めない連中が多い。文学もそうだと言えるだろう。
鞠絵などは、西洋趣味に部屋を飾ってモーパッサンの「女の一生」のようなフランス文学でも読んでるのが素敵、などと、国防挺身隊に見られたら怒鳴られそうな趣味をしているはずである。大体マリエという名前からして西洋趣味だ。
では、遠藤周作兄上様なんてのは如何か。
昭和文学界に残した偉大な足跡は語るに及ばず、またフランス留学経験もあるバイリンガル。クリスチャンでもあり、その信仰から生まれた文学作品はその敬虔さを映し出す鏡の如し。それでいて、数々の中間小説やエッセイなどでそのユーモアセンスも窺い知ることができる、固いばかりではない厚みのある人物である。そんな兄上様に鞠絵がクラっとこないはずがあろうか。眼鏡っ子つながりでもある。
いやしかし……周作兄上様の敬虔な信仰心に感化されて、自らもキリスト教の道に入ってしまいそうだ。しかも入った先がキリスト教と名乗ってはいても、カトリックやプロテスタントではないところだったら。
何しろ鞠絵は病弱であって、手術などしばしば受けることになる。そのときに輸血禁止の宗教などにのめりこんでいては命が危険だ。いくら鞠絵だといっても、死んでしまう方向に話が進む兄上様とくっつけるのは少々後味が悪い。
死をにおわせる兄上様はダメだろう。
我が家の本棚に眼をやって、候補を考えてみるが……三島由紀夫兄上様など論外だ。兄妹揃って自決してしまう。太宰治兄上様も心中してしまうから論外(しかも兄上様だけ助かる)。梶井基次郎兄上様や吉行淳之介兄上様なども病弱でいけない。どちらからとなく病気が移って共倒れに。
健康的で良さそうなところ、谷崎潤一郎兄上様が目に止まった。
谷崎潤一郎兄上様と、退廃的な変態性欲の世界に埋没する展開は如何か。なにしろ足フェチだったり刺青フェチだったり、小娘に振り回されて破滅して喜んだり、そういう兄上様である。
……なかなかよい。
エロ方面は咲耶の担当と言いたいところだが、変態である潤一郎兄上様は、咲耶のような当たり前に近親相姦を求めてくるような妹には興味を持たないはずだ。
潤一郎兄上様のエロというのは、女が持つ本性――エロへの執着であったり、男を虐げようとしたり――を引き出そうとする男が、自ら引き出したその本性に飲み込まれていくところにある。最初は貞淑な女のように見えてなければいけない。その貞淑さを崩すことに血道をあげ、そして崩れたことによって自ら雪崩れに巻き込まれる。そういうものだ。
よって、咲耶のような自ら股を晒して突撃してくるような、アメリカンに健康的なエロは要らない。
日本的な貞淑の殻が重要なのだ。情緒が。
日本的、となると春歌がまず思い浮かぶが、あれは貞淑どころか性根からアメリカン突撃思考だから却下である。
可憐でもよさそうだが、可憐は本性を引き出すまでもなくすでに腹黒いから、これもつまらない。もっと成長して腹黒さを奥深く隠せるようになってからが勝負かもしれない。
するとやはり鞠絵である。
なにしろ潤一郎兄上様、少なからずロリコンである。「痴人の愛」などを見る限り、さすがに雛子や亞里亞だと幼すぎるようだが、鞠絵あたりは適齢だと言えるだろう。
血縁の背徳を感じながらも、鞠絵を少女から魔性の女へと目覚めさせる潤一郎兄上様。目覚めさせられたその魔性の翼を奔放に広げ、兄上様を手玉に取り破滅に追いやっていく鞠絵。萌えシチュといわずして何と言うべきか。
鞠絵の兄上様は、谷崎潤一郎で決まりである。
白雪は、人気が無い。
初めて電撃G'zマガジンを手にし、美少女キャラ人気投票なるコーナーを目にしたときのことである。千影と咲耶が激しく一位を争い、可憐や花穂といった妹たちがずらり上位に並んでいるというシスプリ人気の強烈さの中、鈴凛はひとり、30位以下の位置に甘んじていた。やはり鈴凛は人気ないな、と苦笑した私だったが、どうも、何かそのランキングに違和感を覚えた。しばらくその原因に気付かなかったが、ふと思いついてランクインしている妹を数えてみると、11人しかいない。誰だ、と考え直してみると、それは白雪だった。
先日カラオケに行き、ハイパージョイの部屋に通されたときのことである。インターネット上の運動により、シスプリキャラクターソングアルバム「12人の天使たち」から多数の曲がラインナップされていた。しかし、白雪のテーマソング「sweet sour cherry pie」は入っていなかった。
白雪、なぜこんなに人気がないのか?
白雪の武器は、料理だ。唯一無二のその武器は、どれほどの実効性を持つのか。
ときメモ・同級生といった古典時代から、「手料理を食べさせてもらえる」というのはエロゲ・ギャルゲーの強力なイベントとしてありつづけている。
旧来の「男は働き女は家を守る」という価値観は今なお強く人の心に残っているもの。家を守ってくれるパートナーとして、料理が上手い女性には大きな魅力を感じるのも自然だろう。すなわち、料理が上手い=家庭的、とみなされる。
別に家事は料理に限らないが、洗濯が上手いというのは男性には成果がピンとこない。掃除が上手いというのも、やはり出来映えを直接口にする料理ほどのインパクトはもてない。やはり、家庭的な女の子といえば料理。このふたつは切っても切れない関係にある。
ここで白雪を見てみよう。
果たして白雪の料理は、美味いのか?
しばしば得体の知れないメニューの料理を出してきて、我々としては「到底美味そうに思えない」ものが多々ある。そもそも「それは食い物か?」と思える場合さえある。この第一印象は、その後の兄の「おいしい」という台詞の説得力をかなりスポイルする。「更科そばカルボナーラ風」だとか「まむしもどきのカツレツ・ミラノ風」だとか、美味そうに思えるだろうか。
料理の得体の知れなさは、白雪に与えられる印象まで変化させる。美味い不味い以前に、こんな浮世離れした料理ばかり作るのでは、家庭的とは思えないのだ。
家庭的と思えない、というのは、言葉の印象以上に致命的。
手料理イベントというのは、料理してもらってそれを食べて、美味いと誉めたら照れられて、さらにその後「こうしてるとなんだか新婚夫婦みたいだね」というせりふが出る、というところまでワンセットのものである。新婚夫婦みたい、すなわちこの場合の料理は、日々の食卓に当たり前に出てくるものに限る。そうでなければ亭主と家内には見えない。
白雪のような料理が出てくるのでは、レストランのシェフと客のような関係性になってしまう。
レストランのシェフでも、それはそれで魅力を引き出す方法はある。たとえば、超一流シェフを目指して日々研鑚している、「努力している女の子」像を押し出していくなど。
が、白雪はそうではない。料理する理由は、「趣味」「自己満足」といった印象が強い。
口では「にいさまにおいしくて栄養万点のお料理を食べさせたいですの」と言ってはいるものの、出してくるのは実験作としか思えないメニューであったり、到底食いきれないほど大量に出してきたり、と、いかにも自己満足的で、相手のことを考えているようには思えない。
食べる相手のことを考えていないことは、子供らしい一種のわがままと言えるかもしれない。しかし、わがままも上手くやれば魅力になりえるが、少なくとも「家庭的」とは相反する。
と、このように白雪は、料理スキルの持ち主の王道である「家庭的」であることを放棄していながら、さらに横道を求めることもできていない。人気の出ようという道理がない。
そもそも、兄妹ネタであるシスプリという土俵で、家庭的さを押し出すこと自体が難しいのかもしれない。やはり兄妹で夫婦はない。夫婦性を避けていくうちに、この奇妙な「料理だけ」キャラが生まれてしまったのかもしれない。いっそ、社会通念を打ち破って夫婦のごとく振る舞ってしまえばいいのに!
シスプリの、あの個性的な12人の妹たちのなかで、地味とは思えないのになぜかいつも扱いが地味な春歌。
SSなど書いてみるとわかるのだが、春歌というのは、あれでどうにも使い勝手が悪い。芸がないわけではないのに、春歌でなければならないという局面がない。
アニメでさえ、春歌は奇妙なほどに出番が少なく、またピンで主役張った回ではどういうわけか「ダンス」などという、春歌でなくてもこなせそうなイベントを宛がわれた。
春歌はなぜ、こんなに使えないのか?
そもそも、春歌とは何者か。
ドイツ育ちのゲルマン大和撫子。和服という貞淑な衣装に身を包みながら、兄との不埒な妄想に頬を染めるというその二律背反性。
これは、春歌を春歌たらしめる重大な要素である。だがしかし、この個性は、他の妹に伍するだけの強烈さがない。サクラ大戦のようなあの見た目なのに強烈さがないとは、いかにも異に聞こえるかもしれないが、事実である。
ここでまず、妹をふたつに大別してみたい。基準は、兄に対する思いの寄せ方。
まずひとつは、極めてストレートに、オープンに兄に迫るアメリカンタイプの妹。これには、咲耶、白雪、雛子、鈴凛、四葉といったところが分類される。
そしてもうひとつが、想いを押し殺して鬱屈させることで、溜めに溜めていく大和タイプ。可憐、鞠絵、花穂、衛などが分類される。
それぞれを代表するのが、咲耶と可憐である。なぜならこの二人は、ただ兄への感情のぶつけ方ひとつだけ、それ以外の武器を持たずして、妹としての存在感を誇示してしまうからだ。
料理とか幼児性とか発明とかチェキとか、病弱とかチアとかスポーツとか、そういう技はふたりには一切ない。咲耶は兄に投げ出す体を飾ることだけ、可憐は病的なまでに思慕を募らせていくことだけ。たったそれだけ。それでも、12人の中で埋もれることなく、それどころか強烈な存在感を保っている。この強烈な純粋さは、妹の代表格と呼ぶべきものにふさわしい。
では、春歌はどちらに入るのか?
アメリカンタイプのように、「兄君様をお守りいたします」といって積極的に兄の傍らに近づくものの、大和タイプのように近くに控えるだけで、咲耶のような踏み込みがあるようには思えない。大和タイプのように何かと妄想を飛ばして頬を赤らめたりするものの、それをその対象である兄の前で恥ずかしげもなくやらかしたりもする。
春歌のやることはいかにも中途半端。どちらともつかない、というよりむしろ、両方についてしまうようなところがある。こんな半端では、純粋妹である可憐・咲耶には及びもつかない。
そのくせ、兄に対する態度以外の技は、あまり強力とはいえない。
「大和撫子」は一見春歌のシンボルマークになりうるもののようでいて、そうはいかない。
なぜか? では貴方に問おう。「大和撫子」とは何だ? できる限り簡潔に表してほしい。
無理だろう。そう、一言で中身を表せるものではない、極めて曖昧なものなのだ。
春歌は「大和撫子」という衣をまとうために、茶道・華道・武道・日本舞踊に唄と、色々なことに手をつけることになってしまった。これでは、キャラとして焦点がボケている。しかしそれだけ色々やらなければ大和撫子になれない、という二律背反。
この中では武道が比較的重く見られているだが、オフィシャル寄りの平和な世界では武道の使いどころがないし、一部SSの殺伐とした世界では、春歌以外の面子も戦闘力を持つから、せいぜい「他の妹よりちょっと強い」という理由付けにしかなるまい。
武道でさえこれなら、いわんや他の芸をや。この器用貧乏ぶりで、一芸を武器とするほかの妹に敵うものか。
といって、兄への態度では、咲耶・可憐に及びもつかない。兄を一番に強姦しそうなのは咲耶であって、春歌とは思えない。強姦した咲耶を真っ先に刺しに行くのも、可憐であって春歌とは思えない。
やはり春歌は、地味であるべくして地味になった妹だと言える。
衛はかなり人気のある妹である。
特に、内心あのシスプリという世界に腰が引けながらも、恐る恐る触れている人たちが、「あの中じゃ一番まともそうだから」という消極的支持を与えがちだ。
なぜ、まともな妹に見えるのだろうか。
衛には、「スポーツ大好き」という設定が付与されている。「大好きなスポーツをあにぃといっしょにやりたい」と言っているキャラなのである。
すでに、理由は明示されたのだが、より詳しく解説しよう。
他のほとんどの妹も、「この妹と言えばこれ」という第一特徴を備えている。しかし、衛と他の妹では、それに決定的な差異があるのだ。
咲耶の媚態、雛子の幼児性、亞里亞のわがまま、鈴凛の発明、白雪の料理、花穂のドジ、春歌の武道、鞠絵の病弱。 可憐はそれがないことが、千影はそれがなんだかわからないことが特徴である。
さて、これらの特徴を見てみると、いずれもその特徴自体が兄の気を引く力を持っていることが見えてくるだろう。
咲耶のはずばりである。鈴凛と白雪は、それぞれ「兄になにかをしてあげる」というものである。春歌も「お守りします」だから同様だ。
花穂はドジ踏んだあとに「見捨てないでね」と懇願する。亞里亞・雛子・鞠絵も、弱さという特徴をもち、それにより保護欲をかきたてる。可憐は保護欲すらお構いなしに一方的に依存する。
では衛のスポーツは、といえば、そういう力がない。あの兄はスポーツ好きには見えない。スポーツ少女にことさら魅せられるフェティシズムを持ち合わせているとも思えない。
そもそも衛自身、兄のためでもなんでもなく、まず自分がスポーツ好きということが先にある。春歌と違い、「運動不足のあにぃを鍛えなおすために、自分もスポーツの習慣を身に付けた」とか、兄が先に目的として存在するわけではない。
スポーツという、衛を衛たらしめる第一の要素が、兄に向けたベクトルを持っていない。これは、シスプリ妹としては極めて特殊である。そして、シスプリ以外のゲームや現実世界では、ごく当たり前のことである。普通に考えて、「兄のために」とひたむきに何かに打ち込んでるような妹なんて、異常だとか不気味だと思えるに決まっている。
そんな中、衛だけは「普通」である。シスプリとあまりディープな付き合いをする気がないファンにとっては、衛への好感度が高くなろうというものだ。
さて、ここで先に特徴を挙げなかった四葉を見てみよう。
四葉の特徴は、兄チャマをチェキすることだ。
チェキというのは、それによって兄が四葉に好意をもつ理由になるだろうか? 無論、なるわけがない。衛のスポーツと同様、自分がやりたいからやる、ということが先に来ている。
繰り返しになるが、「兄のために」行動するから異様に感じる。四葉もまた、兄より自分のために行動する、普通の人間性を持った妹なのである。
そして四葉のチェキは、衛のスポーツよりもさらに一歩、他の妹から遠いのだ。
他の妹たちの特徴は、それによって何らかの見返りを求める性質がある。可憐や咲耶が寄せるような好意は、受け入れたが最後、嫉妬の糸にがんじがらめに縛られてしまう。鈴凛には金をやらねばならないし、雛子や亞里亞はかまってやらなければならない。
衛でさえ、「一緒にスポーツをしたい」と、あにぃに合わせてもらうことを望んでいる面もある。
しかし四葉はそれすらなく、ただひたすら一方的にチェキするだけで満足する。ある意味では、非常に面倒がない。彼女の好意は、見返りを求めない。おかげで、鬱陶しくない。
表面的にチェキチェキと騒がしい特徴があるから、シスプリ入門者には引かれがちだが、少しシスプリ慣れしてきた兄チャマは、「四葉は普通」と言うことが多い。これが「普通」と言えるかどうかはさておき、他の妹が持つエグさを異常の理由だとすれば、それが欠落した四葉を「普通」と呼びたくなる心理も理解できる。