お題「澱粉」「老齢基礎年金」「ベンチュリ」
大阪の都心に近い、とある社会保険事務所のガレージに、一台のクーペが滑り込んだ。
『イタリアのフェラーリに対する、フランスからの回答』として設立された自動車メーカー・ヴェンチュリーの、アトランティーク300だ。
プジョー・ルノー・ボルボ共同開発による3リッターV6ターボエンジンは、210馬力を超えるパワーを発揮する。
シルバーのボディは、フランスらしく優美な曲線を描く。ポルシェともフェラーリとも違うラインだ。
無様な切り返しなど一度もなく、スムーズに駐車枠に滑り込み――この程度の技術を持つことは、美しい高級車のオーナーにとって義務といえるだろう――エンジンが止まると共に、右のドアが開いた。
降り立ったのは、身長五尺五寸の老人であった。
決して大柄ではないし、ツータックのチノパンにMA-1フライトジャケットという平凡な身なり。髪はすっかりグレーになり、最早若くないことは隠せない。
しかし、まだまだ萎びた老人にはなりえない活力が溢れている。
中浪喜六、64歳。
かつて「北浜の狼」の異名をとった名相場師である。
広めの歩幅で颯爽と歩き、入り口の自動ドアをくぐる。
「俺もええ年やさかいな」
社会保険事務所、つまり年金を取り扱うところの世話になる年齢になったことを、かすかに自嘲をこめて呟いた。
相場の世界で四十年。若い頃には負ければ首をくくるという勝負も切り抜けてきた。今はもう総崩れになることはないにせよ、サラリーマンの生涯賃金くらいが一日で消え去ることも十分ありえる。
そんな厳しい世界に、さすがに疲れも感じ始めていた。
来年からは妻とふたり、年金で静かに暮らそうか、そう考えてここに来た。
相談窓口にまっすぐ歩いていく。
係員が顔を上げる。
「年金のことなんやが」
「あ、そちらの番号札をお取りになってお待ちください」
「ん」
うなづいて、中浪は番号札を取る。
只者ではないがヤクザではないから、社会のルールはきちんと守るのである。
年金記録を確認にきた爺婆数人の手続きが終わるのを待つうち、中浪の番号が呼ばれた。
すっと立ち上がり、自然に背筋を伸ばして窓口に向かう。
待っている何人かの老人が、場違いに若さを放つ中波に視線を向けた。そのうち半分は、もの悲しげに視線を落とす。
「年金記録のご確認ですね。こちらの用紙に」
「いや、違う」
席に着くなり勝手に切り出した職員に、手のひらを向けてさえぎる。
「は」
ここ最近、例の問題で同じ問い合わせばかり続き、つい流れ作業的に仕事をしていた職員が、意外そうな顔を向ける。
「ちょっと相談があってな」
「はい、なんでもご質問ください」
気を取り直した職員が、書類を引っ込めて姿勢を変えた。
「俺ももう六十五になるから、年金貰う歳なんや」
「そうですね、老齢基礎年金の支給は65歳からです」
「そろそろ引退して、年金でゆっくり暮らそうと思てたんやが」
「ええ」
言葉を切った中波に、職員は相槌を打つしかできない。
「実は今まで、国民年金納めたことないねん」
「は?」
問い返されて、中波は頷くだけだ。
「えー、どこか会社にお勤めでしたら、国民年金ではなく厚生年金に加入する形になっておりますが」
「いや、会社に勤めてたことはないな。ずっと自営というか個人事業というか」
「でしたら、国民年金になりますね……。納付なさっていなかった」
「そうなんや」
「では残念ですが、受給資格は得られませんね」
決して突き放すような言い草ではなく、顔色には同情の色が見えた。
「いや、それで相談に来たんやけどな、今からさかのぼって納めるゆうわけにいかんやろか」
「ええ、そういう制度もあることはあるのですが」
それを聞いて、中波は満面の笑顔を浮かべる。
「せやろせやろ。ほなその手続きをしてくれへんか。やらしい話で悪いけど、金やったら唸るほど持ってるんや」
証拠として持ってきた通帳を、開いて見せつける。
職員は絶句する。
「……えー、それほど財産がおありでしたら、年金は必要ないのでは。満額でも年間79万2100円ですよ」
79万2100円がはした金に思える金額が印字されているのを見せられれば、そういわざるを得なかった。
「いやいやいや、この金作るのに苦労しすぎたさかいな。身を削ったような金を老後にちょっとずつ食い潰すて、なんか不安になってきてまうんや」
「はあ、まあ、そうかもしれませんが」
わかるようなわからないような、という顔をしている。そもそも、どうやったら食い潰せるのか。
「やっぱりのんびり暮らすための費用は、年金みたいな不労所得に限るとおもわへんか?」
「ああ、それは、そうでしょうね」
こっちはわかる。宝くじでも当たったら、エキセントリックなのも少なくない年寄りの相手なんか放り出して、気ままに暮らそうとはいつも思う。
が、年金制度はそういうイレギュラーを認めない。
「その、大変残念なことですが、保険料の追納は10年しかさかのぼれません。老齢年金の受給には25年以上の納付が必要ですから、今からでは無理なんです」
「な、なにー!」
つい中波が大声をあげた。
老いてなお盛んな体からは、実にいい声が出る。
カウンターの向こうで職員がいっせいにこちらを向き、トラブルか、と身構える。
「あ、失礼、取り乱しましたわ。えろうすんません」
照れたように頭を下げる中波を見て、奥の職員は、一応注意を払いながらも腰を下ろして仕事に戻る。
「どうにか……なれへんわなぁ」
「申し訳ありませんが、私の独断では……」
制度というのがどういうものかは、中波も大阪証券取引所その他でよく知っている。職員相手にゴネて変えられるものではないし、そういう姿は見苦しいと感じる程度のダンディズムももっている。
「年金制度変えさせるんやったら厚生労働大臣……って、今は桝●か。しもたなぁ、前の柳●やったら脅して言うこときかすネタもあったんやが。タレント議員なんぞ何できるでもないと思て、たいしたコネ作ってへんな……。大体桝●の奴、馬のネーミングセンス悪いねん。サプライズパワーなんて微妙な名前の馬で東京ダービー勝ちやがって。あの時は大損したわ」
「あ、あの、差し出がましいかとは思いますが、ご資産の預金利息でも暮らせるでしょうし、投資信託や株式投資でもっとよく運用できるのでは」
ぶつぶつ言ってる割にしっかり聞こえるヤバい独り言を聞いて、さすがにお引取り願いたくなってきた職員が口を挟んだ。
「預金や信託じゃあかんのや。自分で株なり為替で動かすほうがよっぽど儲かると思たら、とても預けるだけでのんびりしてられへん……」
相場ホリックである「北浜の狼」の悲しい性であった。
中波は失意のまま、社会保険事務所を出て行く。
「要は、今から全額追納できる年金制度の国に移住すればええわけや」
翌日、早くも立ち直るどころか反動で俄然やる気を出した中波は、アトランティークに乗って山陽道を突っ走っていた。
中途半端に煽ってくるランエボやインプレッサの若造を適当にいなしつつ、それでもかなりのスピードを出している。
「もう、フルムーンでしたらもうちょっと早く言ってくれればよかったのに」
と文句を言いつつもにこにこと助手席に座っているのは、妻のさつきだ。
「遊びにいくわけやないぞ。素晴らしい老後を送るために、涙を呑んで祖国を捨てる、行く先も決まらん長い旅になるんや」
「ロクさん、とうきび食べます?」
かばんから、竹皮でくるんだ茹でとうもろこしを出してくる。食べやすく小さめに輪切りにしてある。
「話聞きや。大体、片手で運転しながらもの食うたら危ないわ」
「あ、そうですねえ。じゃああたしだけ失礼して」
かぶりつく。くしゅっと粒のはじける音がした。
「あら、あまいとうきび。食べさせてあげましょうか?」
粒をひとつ取って差し出す。
「あーもう、一粒一粒なんか食べてられへんやろ!」
「澱粉取らないと元気でませんよ?」
戦後の貧しい時代をすごして、穀物に執着してしまう世代だ。
「車乗る前にうどん食うたとこやろ」
「そうですねえ。ところで、どこに向かってますの?」
「若い子はお前みたいなのをマイペースてゆうんや。とりあえず下関から釜山に渡って、まず韓国の保険制度から当たってみるわ」
「あら韓国。あたし、東方神起が見たいわあ」
「……誰やそれ。まあ、ただ追納できたらええわけやあれへんから、本命はヨーロッパの福祉国家やな。韓国から中国通ってヨーロッパまで行くつもりや。スウェーデンあたりに移住できたら一番ええわ」
「なら、途中で台湾に寄って、F4見て行きません?」
「台湾空軍は厳しいから、基地見せてくれたりせえへんぞ。それに台湾にファントムはおらん」
アトランティークは、話のかみ合わない年寄りふたりを乗せて、世界に向けて山陽道をゆく。