眩いばかりの陽光をその身に受け、彼女は

 カナ坊が揺れていた。
 放課後の、もう誰も残っていない教室で、席に座ってひとり揺れていた。
 窓から差し込む夕陽がカナ坊の影を床に落とし、そしてその黒い影もオレンジに塗られた床の上を同じように揺れていた。
「何をしてるかしらんが、要するにオモチャにしてくれということだな」
 口に出して言ってみても気付く気配はない。
 よく見ると耳から黒い線が垂れている。まさか耳に細長い寄生虫を飼ってるわけじゃないだろうから、イヤホン挿してるんだろう。
 この俺の前で、そんなあられもない油断した姿勢を見せるというのは、いじってくれと言ってるも同じだ。
 ということで、鞄からさっき空けたペットボトルを取り出す。
「えー、おほん。ん」
 ひとつ咳払いをして、揺れるカナ坊をメトロノーム代わりにリズムを取って、ペットボトルの底で机の角を叩く。
 こうすると、ちょうど木魚っぽいポクポクした音が鳴るのだ。
 カナ坊一振りごとに2回叩くとちょうどいいリズムだ。
「ま〜か〜はんにゃ〜は〜ら〜み〜た〜しん〜ぎょ〜」
 木魚のリズムに乗ってグルーヴィーに般若心経を読む。力強いテノールで。
「かんじ〜ざいぼ〜さつぎょ〜じんはんにゃ〜は〜ら〜み〜た〜じ〜」
 カナ坊が嫌そうな顔で振り向いた。
「靖臣くん……」
「うんかいく〜ど〜いっさいく〜やくしゃ〜り〜」
「わ、わたし、生きてる、生きてる」
 わたわたしはじめたカナ坊をあえて無視して続ける。
「と〜ちゅ〜は〜かつあいし〜て〜はんにゃ〜しんぎょ〜〜〜」
 ぎょ〜、を伸ばしながら、両手を合わせて一拝する。
「お経って割愛していいのカナ……」
「罰あたるなら俺も一緒にあたってやるから安心しろ」
「あたりたくないよ、あたりたくないよ」
 と、四分の一泣きぐらいのカナ坊の向こうで、出入り口のドアが開くのが見えた。
「おう初子、ちっと聞きたいんだが、お経って途中省略したら罰あたるのか?」
「人の顔見たとたんに何わけのわからんこと聞いてくるのよ……」
 今ごろ何をしに来たのか、初子がずんずん入ってきてカナ坊の向こうの机の上に座る。
「重要なことなんだよ。どうなのカナ、どうなのカナ」
 カナ坊が涙目で聞くと、
「え、でも、うちは神社なんだから、仏罰のことなんてわかんないわよ」
「なんだ、使えん奴だな」
「でもまあ、日頃の行いからして罰あたるのは靖臣の方だけでしょ」
 極めてこともなげに言ってくれるなオイ。
 カナ坊も、一瞬考えて、
「それで、ういちゃんも靖臣くんも、なにか用なのカナ?」
 話を変えた。
 その一瞬の思考は何だ。
「私は、まだ誰かいるみたいだったから覗いただけだけど」
「俺はカナ坊が揺れてたから悪戯しにきたんだが」
「揺れてた?」
 初子が変な顔で聞く。そりゃ普通人間は揺れない。
「お、音楽を聴いてただけだよ、だけだよ」
「へー」
「ほう」
 初子と俺の反応が同じだった。
 カナ坊が音楽。しかもヘッドホンステレオで。
 かなり意外だ。
 ていうか似合わない。
「要するに、音楽にノリにノってしまって無意識に体が揺れてしまっていたと」
「そ、そうだよ」
「そーかそーか」
 にんまりと笑顔で頭をなでてみた。
「バ、バカにしてるんじゃないカナ、バカにしてるんじゃないカナ」
「いやー、してないさー」
 唇の隙間からキラリと前歯を覗かせる。
「嘘つくなアホっ」
「ぶおっ」
 べし、と黒板消しが飛んできた。
「それでカナ、何聞いてるの?」
 俺には冷たいがカナ坊には優しい初子が聞く。粉まみれの俺は無視か。
「えっと、チャイコフスキー」
「けっ、なんでぇブルジョアめ」
「そこ、やさぐれない。大体、クラシックのCDの方が安く買えるのにブルジョアもないでしょ」
 まあそれもそうだ。よく1500円ぐらいで売ってるな。
「仕方ないな。ここはブルジョアじゃないと認めてやる」
「……それは喜ぶほうがいいのカナ」
 微妙な顔で微妙なことを問い返してくる。
「そんなのはまあどうでもいいわ。カナ、ちょっと聞かせて」
 言うが早いか、カナ坊が外したイヤホンを掴む。
「あ、いいよいいよ」
 鞄の中に消えているイヤホンの根元の方を、鞄を開いて取り出す。
 いっちょまえにクラシックなんぞを聞きたがる初子に一言釘を突き刺そう……と思ったが。
「うわ、薄っ」
「小さっ」
 もちろん胸が薄くて背も小さいという話ではなく。
 カナ坊が鞄から取り出したものが薄くて小さかった。ほとんどCDの大きさと変わらない。
「これは……CDウォークマンだよな?」
「そうだよ、そうだよ。一番小さくて軽いのがいいカナ、って」
「へっ、やっぱりブルジョアじゃねえかコンチクショウ」
 改めてやさぐれたくなった。
「これ、靖臣の持ってるやつの半分よりまだ小さいわね……」
 初子が追い討ちを掛けてきた。
「あーそうだよ昔からテープのウォークマンしか買えなくて最近やっとCDウォークマンも安くなって買えるようになったと思ったらまたでっけえし歩いたら音飛びしまくるようなやつをやっと買えるようになっただけなんだよ貧乏人の俺はっ」
「拗ねないで、拗ねないで。今度貸してあげるから」
「ならいいや」
 なんか、子供になだめられたような気がしたが。
 誰かのおかげでなだめられ癖がついてるかもしれない。
「でもさ、小さいっていっても、カナの服のポケットには入らないんじゃない?」
「うん……」
「俺のやつなんか、コートのポケットに入れるのすら難儀するぞ」
 事実だ。実にぴったりの(ぎりぎりの、とも言う)サイズで何とか入るんだが、出すときイヤホンのプラグが引っかかって出せなくなったりする。
 さらに40cmも身長が小さいカナ坊の服となれば、いくら小さくても無理だろう。
 ちょっと優越感。優越してないけど。
「まあ貧乏人の巨大CDはどうでもいいけど……MDにすればポケットに入るのに」
「うーん、でも、いつもはおとうさんのオーディオルームで聞いてるから、MDの音質だとちょっと物足りないカナ……」
「あーそうですかブルジョアはよろしゅうございますわね」
「声色使うなっ!」
「代弁してやったんだろうが」
 初子はこの俺を差し置いてMDユーザーだったはずだ。
「でも、確かにオーディオルームってのはブルジョアだわ」
 同意ではあったらしい。
「どーせスピーカー1個で何十万もするような機械使ってやがんだろ。あ?」
「あ、うーん、と……値段はよく知らないカナ」
 ……微妙に取り繕うような笑いを浮かべてるところからすると、多分何十万じゃきかないようなスピーカー使ってやがるな。どんな部屋だよ。
「……まあ、私らが聴くような曲を聴く部屋じゃなさそうね」
 初子もカナ坊の表情を同じように読み取ったらしい。
「お、音楽は、自分の好きなのを好きなように聴くのが一番じゃないカナ、一番じゃないカナ」
 プロレタリアートふたりに板ばさみにされたカナ坊は、若干居心地が悪そうだった。

「あら、仲良しさん3人集まってなにしてるんですか?」
 ちょうど気まずくなりかけたところに、ひよ先生が通りかかった。
 ずんずんと尻を揺らして入ってきて、教卓に陣取る。
「? ずいぶん小さいフリスビーですね」
 カナ坊の机の上のCDウォークマンを見ながら言う。さすが天然。
「違いますよ、違いますよ」
「CDウォークマンだ、それは」
「うそっ!?」
 最新メカが好きなんじゃなかったのか。
「はー、こんなのから音が……あ、『くるみ割り人形』ですね」
 言いながら勝手にイヤホンをはめたひよ先生が、ずばり曲名を当てた。
 当てて、揺れだした。
「……なんで揺れる」
 アクションの派手なピアニストでもあるまいし。
「ノリに乗ってるんじゃないカナ」
「ダンスミュージックじゃあるまいし」
「くるみ割り人形はバレエ組曲だから、ダンスの音楽じゃないカナ」
 そーだったのか。知らなかった。
 なんか悔しい。
 バレエなんか似合わないちんちくりんのくせにバレエ音楽など聴きおって。
 カナ坊のバレエ姿なんぞ、想像してみろ。
 白のタイツに身を包み、ハリセンを360度広げたようなスカートから白鳥の首を生やして(曲が違うが気にしない)、つま先歩きで踊るカナ坊。
「ぶはははははは!」
「と、突然なにカナ、なにカナ」
「靖臣、後ろ!」
 初子の声がした瞬間、何か大きなものが倒れこんできて、俺を座っていた椅子ごと巻き込む。
「よし取った!」
「くしゅぅぅ……」
「だ、大丈夫カナ、大丈夫カナ」
 3名分の声が重なり、俺はどしゃっと床に倒れる。
 で、俺はさらに重くてやわらかいものに潰されていた。
「……ご、ごめんなさい新沢くん」
「んぐ……とりあえず立ってくれ」
 言われて慌ててひよ先生が立ち上がって、重みが消えた。
「で、なんであの状態から俺のほうに先生が倒れてくる流れが起きたんだ」
 俺も立ち上がりつつ、横で見ていた初子に訊ねる。
 予測不能なカオス現象もいいところだ。きっとどこかで蝶が羽ばたいてバタフライ効果が起きたに違いない。
「音楽聴いて揺れてるうちに、揺れながら爪先でふらふら歩き出したと思ったら転んだのよ」
「めちゃくちゃ予測可能な転び方だな」
「だ、だってバレエ音楽だし」
「あっ、ウォークマンは? ウォークマンは?」
 そうだ。持ったまますっ転んで、地面に投げ出されて無残な最期を遂げたか?
「それなら、転びゆく先生の手からこの私が見事救出してのけたわ」
 ふふん、と鼻を鳴らす初子の手には、しっかりとウォークマンが握られていた。
「わぁ、ういちゃんありがとう、ありがとう」
 そして初子の手からカナ坊がウォークマンを受け取る。
 友情だ。
 俺なら「ひよ先生に壊されたと思って諦めろ。これは俺がもらった」と宣告するところだ。
「しかし、ひよ先生にウォークマンの類を持たせるのは危険だな。本人もまわりも」
「くしゅう……失礼な。これでも私、ポータブルにはうるさいんですよ」
 ほぉ、と、若干意外そうな顔を浮かべたのは俺も初子もカナ坊も同じだった。
「うるさい……って、しょっちゅう転んでぶっ壊すから何台も買い換えてるうちに詳しくなっただけじゃないか?」
「くしゅうううっ!」
 あ、泣いた。
「あ、♪泣ーかしたー泣ーかしたー」
「あー、先生、泣くなって。そのポータブル通の先生が選んだ一品ってどんなのか気になるなぁボク」
「やっぱり私の鑑識眼は気になりますか?」
 復活早いところだけは大好きだぞひよ先生よ。
「じゃーん♪」
 と、取り出したのは、『SOLAR WALKMAN』と大書された黒っぽいパネルがついたウォークマンだ。
「……何者ですかそれ?」
 初子がいぶかしげに聞く。
 どう見てもカセットテープのウォークマンだ。
 少なくともここ2、3年のモデルじゃないな。テレビCMも見覚えがない。
「ほら、これが太陽電池になってるんです。明るいところで充電して使えるんですよ」
「へぇ、すごいんじゃないカナ」
 先生は胸を張るが、感心するのはカナ坊だけだ。
「今はエコロジーの時代ですし、太陽電池は一番のクリーンエネルギーですよ。ほら、腕時計も電卓も太陽電池」
 と、袖をめくったり懐から取り出したり。
「クリーンですね、クリーンですね」
「くしゅふふふ」
 なんか得意げだ。
「実はこれ、私が小さい頃に買ってもらってから、唯一壊れずに残ってるウォークマンで、ずーっとお気に入りなんですよ」
「(強運なウォークマンもあるものね……)」
「(まったくだ)」
 耳打ちしてきた初子に同意する。
「今まで壊れずに長年頑張ってくれるのは、きっと私と運命の赤い糸で結ばれてたからですね」
「すごいね、すごいね」
 まあ、ある意味すごいとは思うが。確率的に。
 そんなことより。
「なあ先生、普通ウォークマンってポケットとか鞄に入れるだろ。太陽電池ついてても使えないぞ」
 当然の疑問だ。
「あ、それは大丈夫ですよ。内蔵のバッテリーに充電できますから」
「ほう」
 一応メーカーも頭は使ってるらしい。時々使ってないメーカーがあるから困るんだが。
「晴れた日に4時間ぐらい充電すれば、2時間は聴けます」
「いらんわそんなもん」
「く、くしゅぅ……」
 一番安いモデルでも、1充電で10時間ぐらい軽く聴けるこのご時世に。
「太陽電池使ってる機械があんまり無いのもわかるわね」
「不便すぎるぞ。雨降ったら使えなくなる」
「こ、これが発売された頃は、太陽電池が大ブームだったんです!」
 そんな時代があったの、といつか話せる日が来るわ♪、っと。
「それっていつごろの製品なんですか?」
「えーっと……昭和60年ぐらいですね。安くなってから買ってもらったから、使い始めはもうちょっと後ですけど」
 先生が指折り数えて答える。
「それ、俺らの生まれた年だ」
「く、くしゅう! みんなそんなに若いの!?」
 そりゃそうだろ。
「俺らがみんな何度も留年繰り返してるとでも思ってたか?」
「いえ、そんなことはないですけど……」
「ちなみにカナ坊は飛び級の上に年齢詐称だが」
「してないよ、してないよ」
 カナ坊が否定してるが、客観的に見て説得力で絶対俺のほうに分があるだろうな。
「くしゅ……じぇねれーしょんぎゃっぷ……」
 俺とカナ坊の漫才を聞いてた風でもなく、ソーラーウォークマンを手にして、ふらふらと廊下のほうへと歩き出すひよ先生。
「ひよ先生、ぼーっと歩いて転ぶなよー」
 聞こえたのか聞こえてないのか、無反応のまま廊下に出て、横に折れて視界から消えた。
「教育実習に来て、生徒との歳の差で傷付かれてもねぇ」
 初子がぼやく。
「そんなことより、これからまもなく先生が転んでご自慢のソーラーウォークマンぶっ壊すのに、学食の天ぷら定食賭けるが、受けるか? 初子」
「そんなの、私も同じ方に賭けるから成立するわけないじゃない」
「わたしもそう思うカナ……」
 3人顔を見合わせて、あははと乾いた笑いを交わす。
 そして、びたんと床に人がまともに倒れる音と、プラスチックの砕ける音と、
「くしゅうううううううっ!?」
 という鳴き声が聞こえた。