俺は、高子の依頼を受け、駅前の商店街まで買い出しに来ていた。
五十年前は、家庭の女が男を使い走りに使うなどということは考えられなかったが、現代の「男女平等」の思想の下では何ら不思議のないことらしい。
「蝉丸さん、申し訳ありませんけど、買い物をお願いできますか?」
高子は、手提げ篭と財布、そして買い物の覚え書きを俺に差し出しながらそう言った。
「む」
思いも寄らぬ申し出に少し戸惑って、手を出しあぐねた。
その間、穏やかな笑顔でじっと俺を見つめている高子。
どうにもこの表情が、俺が受け取ると信じて疑わない、あるいは受け取って当然と考えているかのような表情に見えた。
「あ、蝉丸、買い物行くなら今週の『山陰ウォーカー』買ってきてね」
そして、帰宅して玄関から入ってきた月代が、高子同様に俺が篭を受け取って買い物に出かけると決め込んでいるように言いつけていった。
月代は俺の返事を待たず、早々と台所に消える。間食でも取りに行くのか。
高子もまた、それを窘めるでもなく、引き続き俺に篭を差し出す姿勢を続けている。
「……よかろう」
婦女子の期待を裏切ることもできず、俺は篭を受け取った。
「では、お願いしますね」
渡すとすぐ、くるりと振り返ってさっさと台所に戻っていった。礼の一言もない。
まるで俺にこの家に居てほしくないかのような扱いだ。
空を見れば雨模様、誰しも外に出たくない日だろう。
だからこそ俺を使ったのだろうが、強化兵は一般人より水を苦手とすることは、人選において考慮されないらしい。
戦後強くなったのは女とストッキングだ、と言った者があるらしいが、確かにそうなのだろう。
まったく、確かに男子たる者女子供を護るべきだとは思うが、それを女の側から求めてくるような時代が来るとは。
婦女子の慎みはどこにいったのか。
「む」
無意識に愚痴が出ていた。
精神が乱れている。
軍人はただ任務を忠実に遂行するだけだ。愚痴が出るような意識があれば、そこから油断が生まれる。
逆に考えれば、油断が生まれても大した差し支えがない時代に居る、ということを自覚してきたのかもしれない。
昔のまま、軍人の思考を保ったまま現代を生きるか、それとも現代に合わせた思考を持つべきか。
生活の上で正しいと言えるのは、後者だろう。
後者を取ることにする。
まったく最近の女は、男女平等の名の下に女尊男卑を押しつけてくる。
男女平等といいながら、我々男子から不平等を抗議すると、「か弱い女性に譲るのは当然」と、平等でない理由を掲げる。
「坂神」
この完全体の強化兵として作られた俺が、戦うべき敵もなく女の意のままに使用されているとは。
最近は「自分の生まれた意味を探す」などということが流行しているようだが、明確な目的を持って生まれながらその目的を失った俺のような者からすれば下らぬ悩みと言える。
「おい、坂神」
それにしても、湿度が高い。
雨が絶え間なく傘を叩いている。
強化兵には厳しい天候だ。
しゅっ。
さく。
「む」
肩口への鋭い痛みに振り向くと、いつの間にか現れた岩切が小刀を突き立てていた。
「油断がすぎる、坂神。戦地なら5度死んでいても足りんぞ」
「岩切、現代どころか五十年前の戦地でも、他人を呼ぶのに小刀を刺すのは非常識だろう?」
「現代どころか五十年前でも、1度ならず2度までも呼びかけを無視するのは非常識だ」
俺と岩切ら犬飼一味は、事件がひととおり片づいた後は和解した。
今の俺と岩切は、それぞれが如何に早く現代に溶け込めるか、という新たな競争においてよき好敵手となっている。
抜きんでて溶け込んでいるのは、やはりきよみの複製身だ。これは岩切に現代の作法を教え込んでいるほどで、到底俺の及ぶ相手ではない。
俺はまさに現代人である月代や高子に教わっているわけだが、教わっている者が同等とあれば、教えている者も同等だろう。きよみの複製身はすでに完全に現代人に化けている。
ちなみに、光岡はまったく溶け込めないまま、先日旅に出てしまった。ついてこれなくて拗ねたのだろう。
「呼んでいたのか」
「いくら雨の日中とはいえ、気づかないとは情けないな」
抜いた小刀を拭いながら、ふっ、と岩切は鼻で笑った。
「現代人的な思索に耽っていると、思わず我を忘れた」
「なに」
今度は俺が鼻で笑う番だ。
「油断にもっともらしい理由をつけているだけではないのか?」
動揺の見える岩切。
「そう考える思考自体が、すでに時代錯誤だな。この現代で油断をしてはならない理由がどこにある」
「く……なるほど……」
岩切が折れた。
今はどうにも女に対していい気分ではなかったから、たとえ岩切のような男女でも、凹ませれば爽快だ。
「……負けん。ところで坂神、今日は何の日かわかっているか?」
「む」
2月14日か。
……。
何の記念日だ?
「どうした。子供でも知っているぞ」
「……」
へらへらと笑う岩切。
この現代風の他人を小馬鹿にした笑いは、実に疳に障る。こういうものは真っ先に身につけるところが岩切らしい。
しかし、何だ。
聖武天皇が、741年に国分寺建立の詔をお出しになったのが今日のはずだが、まさかこれを現代に祝っているとは思えない。現代の日本はほぼ無宗教、国分寺建立を祝う理由がない。
さもなくば平将門が死んだ日だが、新皇を僭称するような不敬な者とはいえ、死を祝うような思想は日本人のものではなかろう。
記憶に新しいところでは、ビスマルクの進水だが……。如何に同盟国の艦とはいえ、最終的に戦勝につながらなかったものを、50年後も祝っているとは思えない。
何だ。何の日だ。
かさ。
「む」
岩切が懐から、焦げ茶色の紙にくるまれた箱を取り出した。
「……本当に知らんのか?」
結びつけられた金の飾り紐をもてあそびつつ、少し寂しげな表情をする岩切。
「む……」
この包み……猪口令糖か?
猪口令糖、2月14日……。
「そういえば……耳に挟んだことがあるな……」
(ここで背景がセピア色に)
きよみ「蝉丸さん、はい、これ」
蝉丸「む」
きよみ「今日は何の日かご存じですか?」
蝉丸「2月14日か。特に思い出すものは無い日だ」
きよみ「バレンタイン・デー、です」
蝉丸「ばれんたいんでぇ?」
きよみ「はい。今日、意中の男性に、女性が猪口令糖を贈る、ということが静かな流行になっているそうです」
蝉丸「む……意中の……」
きよみ「ええ……」
蝉丸「……」
きよみ「……」
蝉丸「……」
きよみ「……」
蝉丸「……」
きよみ「……それ、犬飼さんに渡してください。私から、と」
(背景戻る)
「そうか、バレンタインデーか!」
思い出した。とんでもなくイヤな思い出を。
しかしとにかく、意味合いは思い出した。
恋する娘が、その相手にチョコレートを贈る日。
「……」
岩切が、無言で包みを俺に差し出した。
「む……」
らしくもなく、視線を合わせない岩切。
心なしか、上気しているようにも見える。
そうか……。
俺は、その包みを受け取った。
ぱしゅ。
「ぬお!?」
受け取ったとたん包みが破裂して、毒々しい赤色の水が顔から胸にかけて降りかかった。
口に掛かったそれの味は、トマトジュースのものだ。
いきなり液体を顔にかけられた驚きでか、仙命樹が騒ぎ出す。
御堂とは違って別にこれで命に関わることはないとはいえ、やはり不快だ。
「ほほほ……いともたやすく掛かるものよな、坂神」
「岩切……」
嫌みに高笑いする岩切。
俺が御堂ならすでにこの女の頭を撃ち抜いているところだ。
「一体、何だと思っていたのだ?」
「バレンタインデーに、猪口令糖の他に何があると思えというのだ」
目に入ったトマトジュースを拭いながら言い返す。
「バレンタインデー? それは貴様が勝手に思い込んだだけだろう?」
「む。それはそうだが……」
「そのような俗なことを思い込まず、2月14日などせいぜい『主婦の友』の創刊記念日だ、ぐらいに思っておけば、そのような目には遭わぬものを」
「そんな婦女子の雑誌の発売日など知るか!」
「ふ……現代人の常識だ。学習が足りんな」
「む」
主婦の友……。
五十年前から、さらに俺が子供の頃に遡ってざっと七十年前には、すでに聞いていた名前だ。
そんな歴史ある雑誌なら、現代において創刊日が広く知れ渡ることもあるのかもしれない。
「ではせいぜい、赤く濡れた着物を嗤われながら使い走りを済ませるがいい。さらば」
「む。待て!」
しかしもちろん岩切は待たず、近所の民家の屋根を飛び越えて消えていった。
こともあろうに白い着物を着ていたために、赤い染みがひどく目立ち、怖がって逃げる女、心配して医者に通報してくれる女、不審者と思って警察をよびつけてくれる 女などが後を絶たず、さんざんな目に遭いながら買い物を済ませる憂き目にあった。
「よ〜し、これならOK!」
「ええ、いい形にできましたね」
月代と高子は、台所でハート型の茶色の板の前で嬌声をあげていた。
「せっかく蝉丸をむりに追い出したのに、間に合わなかったらどうしようと思ってた」
そう言う月代の傍らには、割れたり変色したり型くずれしたり焦げたりしたチョコレートの山がボウル一杯できていた。
「う、うーん、そうですね……まあ、間に合ったからいいじゃないですか」
普通なら一時間の余裕を持って終われる、と高子の算段にはあったのだが、口に出しはしなかった。高子の役目は、黙って一時間削られた食事の準備時間を補填するように手早く家事をするばかりだ。
「うん、あとは待ちかまえて渡すだけだよ。さすがに高子さんのには見劣るけど」
「そんなことないですよ」
本当はそんなことはあった。
そしてちょうど、玄関のドアの開く音がした。
ようやく帰宅できた。
「あ、蝉丸、お帰り〜」
「お帰りなさい」
高子と月代が出迎えてくれる。
だがしかし、今日は女の顔は正直見たくない気分だ。
無言で頼まれた買い物を渡し、二人の前を通り過ぎる。
「ねえ、待ってよ蝉丸。今日何の日だか知ってる?」
「『主婦の友』の創刊日だろう。俺に関わりのある日ではない」
「は?」
月代を振り切って、俺は自室に戻った。
その夜の食卓には、俺の前にだけ大量の猪口令糖が置かれていた。
どういう訳かわからず高子や月代に問うたが、冷たく睨まれるだけで返事は無かった。