極大エントロピー

 今日も夜の徘徊を終えて、部屋にこっそりと戻ってきた。
 警戒心を張り詰めていたせいで、気を緩めるとともに肩こりが出てくる。首や肩を回してやると、関節が鳴って幾分快く、身軽さをすこし取り戻せた気がする。
 身軽ついでに、七夜のナイフを鞘ごと椅子の上に放り投げた。よく鋳込まれた刀身、硬い木材の鞘、おかげで見た目よりは少々重い。それが手から離れるとともに、またすこし身軽になった。
 ナイフは放物線を描いて椅子の上に落ちていく。革張りのクッションがあるから、投げたところでうるさい音を立てることはない。

 はずだった。

 どっ、という革が弾む音。しゅっ、と金属と木材が擦れ合う音。そしてすこし重いものが絨毯に落下する音。直後、がこんと大きな音がして、椅子の足が外れ、座板が真っ二つに割れた。支えを失った背もたれと残りの足が、互いにぶつかり合ってガラガラと響きあい、床に這いつくばる瓦礫になる。

「……。」
 七夜を投げた右手を下ろせないまま、その姿勢で固まってしまった。
 一瞬考えてすぐ理解できた。ナイフが鞘から外れ、その刃が偶然にも椅子の死の点に刺さってしまったのだ。

「志貴さま、なにか物音が聞こえましたが……」
 翡翠が早くも物音に気づいて、様子を聞きに来た。
「い、いや大丈夫、ちょっとした事故があっただけだから」
 実際ちょっとした事故ではあるが、今入られては、夜中に椅子を破壊する変人と思われる。
「事故ですか? お怪我はありませんか?」
「ないない。椅子が倒れただけだから」
「――椅子が倒れた音には聞こえませんでしたが。もっと、たくさんのものが落ちたような……」
「あー、その、椅子が倒れたときにテーブルに引っかかって、いろいろと落ちちゃったんだよ。それだけそれだけ」
「そうですか。では片付けさせていただきます。鍵を開けてください。ガラスの割れ物などございましたら、危険です」
「幸いなんにも壊れてないから、自分でするって」
 翡翠は、扉の向こうでしばらく黙った。背中に冷や汗が浮くのがわかる。
「――――かしこまりました。それでは部屋に戻らせていただきます」
 その言葉を聞いて、さらに7秒待つと、翡翠が離れていく足音がした。
 ようやく、胸をなでおろす。

 瓦礫に目をやる。
 死の点や線なんてものが存在するなら、刃物は偶然の力を借りて、無限に危険な存在になる。そんなものを、鞘に入っているからなんて油断して、迂闊に放り投げるなんて。
 死が見えない一般人なら仕方ないが、少なくとも俺は、それにとっくに気づいていなければいけなかったはずだ。それを気付かせてくれた被害者が椅子で済んだのは、何よりの幸運だろう。

 瓦礫のそばで、腰をかがめる。
 ものの見事に分解された木片の山に、木材の色が違う七夜の鞘と柄が、存在感を持って見えている。それを引き抜いた。
 刀身をよく見る。死の点を突いたことで刃が傷むことはないだろうが、崩れた瓦礫につぶされて傷つくことはあるかもしれない。幸い、見た感じ刃がこぼれたりはしていない。角度を変えて眺めても、刀身が曲がったりもしていないようだ。
 安心して、鞘に刃を戻そうとした。

 刃を、鞘を持つ左手に向けた途端。

 ぞくり、と悪寒がした。

 反射的に、眼鏡を外す。
 見えたのは、左手の親指の付け根、人差し指の第二関節にある、死の線。
 ここに刃先が触れてしまえば、指は他愛もなく落ちる――

 右手のナイフを放り出そうとして、手首を振った。直後に思いとどまって、握る指は離さなかった。
 無意識に詰めていた呼吸が、ふたたび通る。そのまま荒い息になって、足りなくなっていた酸素を盛んに取り戻す。

 すこし手元を狂わせるだけのことが、指の一、二本というリスク。
 慎重に――どれだけ慎重にしても、取り越し苦労にはならない。
 そっと、ベッドのサイドテーブルにナイフを置く。幸いにも七夜は、横にして置けば、柄の末が下がってバランスする位置に重心があった。

 目を閉じて、気分が落ち着くのを待つ。
 落ち着いたら、外した眼鏡を拾って掛け直す。
 そしてテーブルのナイフを見た。それはあくまで鋭く、白熱灯の黄色い光を受けても、なお青白く輝く。
 これを鞘にもいれずに放置するのは、いかにも危険だった。

 うちには、片付けが極端に苦手な人がいる。そんな人が、迂闊にこのそばに来たとき、刃は、取り返しのつかない場所に向かうかもしれない。
 だから、せめて鞘に。

 再び、ナイフを手にした。
 手を滑らせて落としても、せめて峯から落ちるようにと、刃を上に向けて握る。
 そして左手で眼鏡を外し、鞘を握った。握る指にはしっかりと死の線が見えている。

 怖い。
 右手の震えが、ナイフの長さに拡大されて大きく刃先を揺らす。
 狂う息を落ち着かせて、そしてその落ち着きを指先まで波及させようとする。
 浅い息を深く、深く。細かい震えは、大きな揺れになって、意志がそれを打ち消す力を加えられるほどに周期を落とす。
 よし。

 そっと、刃先を鞘の口に近づける。
 線を避けるために線を見たのは、これが初めてだった。
 広大な三次元に浮かぶ、二次元の線と一次元の点。
 避けることなんて、たやすい。

 たやすい。そのはずなのに、これまでにないほど集中して、刃先を見据えている俺がいる。
 それを意識しかけて、それはまた迷いを生む思考だと気付く。
 迷っていては、いつまでも終わらない。

 ままよ、と、刃先を進めると、それは、あっけないほど簡単に、鞘のスリットに先端を収めた。
 さらに、2センチくらい進めると、もう、それは、手元が狂った横滑りで抜け落ちてしまうことはない状態になった。

「――――――――――なんだ」

 たった、これだけのことだったじゃないか。
 刃物を鞘に収める、ただそれだけのこと。日常的な動作に過ぎないし、今まで失敗したこともなかった。戦いを終えた直後の興奮状態でも、たかがこれぐらいのことに、失敗したことはない。
 安心して、刃を押す手に力をいれようとした。

 その時、鞘の縁に、黒い点が見えた。

 楕円形の鞘の、刃が収まる側の端。その縁の部分に、死の点がある。
 すこし手首の角度を誤れば、たやすく触れてしまう、そんな場所。

 また、どくんと心臓が弾む。

 ここに刃が触れれば――殺された鞘は、鞘としての存在をなくし、最早刃を包み守ることはなくなる。
 鞘の戒めを解かれた刃は、鞘だったものを握っていた俺の左手に、妨げるものもなく食い込む。しかも、ちょうど刃が切り裂きそうな部分に、人差し指の死の線がある――

 せめて、握る手をずらして、指と鞘の死の点の位置の一致を崩したかった。でも、この鞘の死の点は、そんなことで左手を動かせば、あっさりと刃に触れてしまう位置にある。握りなおすことはできない。
 一旦刃を抜く――そういう誘惑もあったが、一度刃を抜いて安心してしまってから、再びこのような恐怖と向き合えるとは思えない。
 でも、琥珀さんのために……このナイフは、鞘に収めなくちゃならない。鞘に収めることを、投げ出すわけにはいかない。

 あとは柄を軽く押すだけで、話は終わるはずだったのだ。
 そのつもりだったのに、困難が新たにのしかかってくる。先の困難より、さらにシビアな。
 刃と死の点との距離は、わずか数ミリ。刃を押し込むにつれて、刃幅は広まり、点との距離は縮まっていく。

 見えている点に狙いをつけて、一思いに貫いたことは何度もあった。今度も一思いにやってしまえば、という考えが脳裏をよぎる。
 しかし思い切れない。思い切って失敗すれば、指が飛ぶ。どうしても、リスクが怖い。
 誰かを護るために、もっと危険なことに身を晒したことはある。だが、いくら琥珀さんの事故を未然に防ぐためとはいえ、今まさに彼女に危険が迫っているわけではない。我ながら情けなくもあるが、それで度胸を出すことはできないらしい。

 だから、そっとそっと、少しずつ刃を押し込んでいく。
 鞘の内側は滑らかに磨かれて、峯との摩擦は小さい。さしたる抵抗もなく、かすかにするすると音を立てるだけだ。

 額に浮かんだ冷や汗が流れ落ちる。

 とうとう、頭も痛んできた。
 鞘の死の線は、凝視しなければ見えないものではなかった。七夜の名を持つこの短刀は、なにか曰くがあるのか、より生き物に近く思えるほど、死がはっきりと見える。
 無機物の死を見るときほどは、神経の磨耗は早くない。しかし、生物の死を見るよりは、神経は磨耗する。
 だから今まで、頭痛が起こり始めるのが遅れた。だが、神経の傷が自覚されてきたのなら、猶予の終わりが見えてきている。

 うずくような痛みが、集中力を乱し始める。
 でも、今ならまだ、集中を維持できる。

 少しでも早く、この、ばかばかしい苦行に、決着をつけないと――

 止まっているかのような遅さだった右手を、すこしだけ早める。
 それを妨げるものは、鞘の摩擦などではなく、遠野志貴自身の恐怖心だ。
 克己。ただそれだけが求められている。

 ほんの短いナイフに過ぎない七夜が、これほど長く思えたことはない。
 手を早めたつもりでも、まだまだ、刃は多くを鞘の外で空気に晒されている。
 痛みは徐々に強くなっていく。
 刃は相変わらず、遅々として進まない。それでも急いでいるつもりか、と右手を責める。しかし、右手は左手を気遣ってか、その叱咤に逆らう。

 少しずつ強まる神経の痛みが、焦りを呼び起こす。
 焦りは感情を逆なでし、イライラした気分を起こさせる。
 もう、こんな綱渡りの恐怖と戦うなんて、馬鹿げてる。
 指の一本や二本飛ぶぐらい、覚悟をきめて、一気に押し込んでしまえ。そんな声さえ聞こえてくる。

「そんな、馬鹿なこと――――」
 言葉に出して打ち消す。
 こんなことで指を失っていい、なんてことはありえない。
 死の線を斬られた指は、外科手術で回復することもない。絶対に、取り返しはつかない――
 ナイフを、鞘に収めるだけのことじゃないか。たかが、それだけのことで。

 刃が、ゆっくりと滑っていく。
 なんとか、半分まで進んだ。
 これからなお太くなる刃は、死の線と髪の毛一本ほどの隙間を進まねばならない。

 しかし――鞘にすでに収まっただけの長さの峯は、鞘に支えられて、安定を生み出している。それに気がついた。
 いつのまにか、刃先を収めるときにあれほど恐れた手の震えは、気にならなくなっていた。これは、鞘が右手を支えてくれているからに他ならない。

 窮地に思わぬ助けを得た気分だ。
 ここからはもう、鞘に峯を預けて、それに支えられながら押し込んでいけばいい。
 ならば、と、右手に力をこめようとした。

 でも――
 万一のことがある。油断こそが危ない。
 支えを知った安心とともに、焦りで瓦解しかけていた警戒心が、再び結像して俺の脳裏に戻ってくる。

 無理はせず――しかし、可能な限り急いで。
 刃は進んでいく。少しずつ速度を上げて。

 長く思えていた刃渡りが、本来のちっぽけな短刀のそれに戻ってきた。
 たった、これだけ。こんな短いナイフ。
 どんどん、鞘に収まっていく。
 油断をしているつもりも、無理をして急いでいるつもりもなかった。ただ、高速度録画のフィルムが終わって、不意に普通の速さに戻っただけだ。

 刀身の付け根、刃がつけられていないわずかな部分が、鞘の口に触れた。
 そして、押し込む手ごたえが変わった直後、コッ、と音がして、刃は鞘にすべて収まった。

「――――はぁッ!」

 息が、喉からあふれる。

 ――終わった。終わったのだ。
 この、くだらない、しかししておかなくちゃいけない、そのくせリスクばかりが大きい作業も、ついに終わった。

 すぐにでも目を閉じて、ベッドに疲れた身体を投げ出したかった。
 身体を倒しながら、サイドテーブルに七夜を置いた。

 やっと、苦役が終わった。
 その、圧倒的な開放感が、俺を最後の最後で油断させた。

「――!」

 七夜を握った左手は、体が倒れる勢いを借りて、思いのほか強くサイドテーブルを叩いた。指からナイフがすべり、跳ね落ちる。

 あれだけ苦労して収めた刃が、いともたやすく外れる。外れながら、鞘の死の線をなぞる。
 鞘は、刃が抜けるより先にその意味を崩壊させた。跳ねた刃はそれを遮るものもなく、サイドテーブルの死の点に刺さった。
 すぐにテーブルが壊れ、刃は支えを失ってさらに落下する。

 ここで、ベッドの死角になって、刃は視界から消える。
 どん、と、柄が絨毯越しの固い床に当たる音。
 ついで、ベッドに伝わったかすかな衝撃。そして、自分が重力に引かれて落ちる感覚。
 直後、背中を叩かれるような感触とともに、落下が止まる。

「そんな……こんな、偶然――」

 これは、落ちた刃がたまたま、ベッドの脚に走っていた死の線を斬ったせいか――?
 偶然に偶然が重なる、なんて。

 だが、まだ偶然は終わらない。

 壊れたものの大きさとは、あまりに不釣り合いにさえ思える、甲高い破裂音。
 その、ピシッという音の後、わずかな振動。
 そして、また重力に引っ張られる感覚。

「床っ――」

 落ちていく。二階から一階へと。

 一階の床に叩きつけられる衝撃。
 しかし、ベッドのマットが殺されていなかったことが、俺を助けた。

 一階の床は、七夜に殺されるまでもなく、二階が落ちてきた衝撃で砕けた。

「……。」

 土埃が舞い上がり、視界が塞がる。明かりは窓から差し込むわずかな月明かりだけ。まったくなにも見えないといっていい。
 これほどの惨事が起きたのに、自分自身には傷一つない。
 なんという悪運だろうか。
 ただ、眼鏡がどこかにいってしまったことだけが、すこし面倒だった。

 無用な死の線を見ないために、目を閉じてしばらく待った。
 だんだんと埃が薄れていくことは、匂いと皮膚感覚でわかる。綿埃などはすくなく、砂埃が多いのか、案外早く埃が引いていく。

 目を開く。

 埃は薄まり、窓から射しこむ月明かりに照らされた、瓦礫の山。
 たった一本のナイフが引き起こした出来事だと思うと、ほとんどシュールといっていいほどだった。

「そうだ、ナイフ……」

 目を走らせて、危険物を探す。
 すぐには見つからなかったが、やがて、コンクリートの灰色とは違う、木製の柄の色が目にとまった。

 それは、瓦礫の隙間から露出した地面に、突き刺さっていた。
 そしてその回りは、すでに死が広がり、黒く塗りつぶされている――――

 

 地震の音と揺れが、同時に起こった。