かのんイズム4






    まえがき

      この話は自称常識的一般人である相沢祐一の目を通して
      彼の周りの破天荒(キチ)な人物たちを描き、男の好日
      とは何かを問う話です。
      今回は修学旅行です。祐一は二年生の一月に転校してき
      たのであり、時間軸はどうなっとんなら、という意見が
      ありましょうが、なにしろ、男の好日とは何かを問う話
      なので仕方が無いと諦めてください。


「楽しみだなあ、おい」
 北川が後ろから俺の背中を突ついてくる。
「ん、まあな」
 今日ばかりは、全面的に同意だ。
 今はHRの時間で、一週間後に迫った修学旅行の話をしているところだ。行く先は沖縄、
二泊三日である。
「お前ら、雪国育ちで寒さにゃ強いけど、暑いのには弱いのもいるだろう。暑さにやられ
んようにしろよー」
 担任の石橋が修学旅行のしおりに書いてある注意事項をダラダラと読み上げた後に、付
け加える。
 その点、俺は心配無いな。
「あー、それでだな」
 石橋が頭をかいて苦笑しながら紙の束を取り出して先頭の席の人間に配っていく。なぜ
か一つ飛ばしで、男の列にだけだ。
「学校側が、こういうもんを作ってきとるわけだ。お前ら、一筆書いてくれや」
 やがて、その紙が回ってきた。
「ほい、北川」
「おう」
 後ろの北川にそれを渡してから見る。えーっと、なになに……。

 私は、消灯時間以降、女子の部屋に入らないことを誓います。

 ってか。つまりは「夜這いしません」ってことか。
「ま、過去にちょっとそういうこともあってな。なにしろ大切な娘さんを預かっとるわけ
だから」
 石橋も、これは形式主義にも程があると思っているのか、さっきから苦笑しっぱなしだ。
 ふぅむ。
 しかしな、別に決して夜這いなどしようとは思っていないが、なんかこういうのって抵
抗あるんだよな。生徒を信じて欲しい、とかいうわけじゃなくって。
「相沢」
 と、考え込んでいたら何時の間にか石橋が横にいる。
「早くしろ、お前ら以外はもう全員提出したぞ」
 うわ、そういうことになってるのか。うーん。
「お前、いつでも夜這いできるじゃねえかよ」
 その声にクラス中がどっと沸く。くそ、今の声は斉藤だな。
 でも、なんだかはやし立てる声が暖かい。俺は、まあ、なんかそのー、多少の陰謀めい
たものを感じずにはいられないが、名雪と付き合っているということになっている(かの
んイズム3参照)
 そして、クラスの連中は俺と名雪のカップルをかなり好意的に見てくれているようだ。
「相沢〜、サインせんというなら、その気ありということになるぞ」
 ああ、はいはい、わかりましたよ、もう。
 俺は、さらさらさらっと一筆書いてその誓約書を石橋に渡す。
「よーし、それじゃ後は北川」
 石橋が俺の横を通り抜けて北川の横に立つ。
「早くしろ」
「……」
 北川は、腕を組み、目をつぶり、なにやら沈思する趣きであった。この馬鹿がこういう
ふうにとても馬鹿には見えないような顔をしている時は要注意だ。確実に馬鹿なことする
から。
「おい、北川〜」
「断る!」
 目を、カッと見開き、北川は断言した。強い声、否、強い意志のこもった声。
「な、なに!」
 石橋が負けず劣らず目を見開いた。
「そ、それはその気ありということになるぞ、いいのか〜」
「いい!」
 またもや断言した。
「っていうか、その気、大いにあり!」
 断言に次ぐ断言だ。
「なんだと〜、貴様、夜這いをする気か!」
「する!」
「本気か!」
「本気! 俺は……」
 と、北川は席を立って、隣席を指差した。
「絶対に美坂に夜這いをする。何が起こってもだ!」
 指差された香里は修学旅行のしおりを見るのに余念が無い。香里さん、このしおりの裏
表紙にはなんも書いてないっす。
「貴様、名指ししおったな!」
「当然俺の指名は美坂のみ。他には目もくれぬわ」
「ぬう、その一途さには感服いたすが、教師という立場上、許すわけにはいかん!」
「ごもっとも、先生の立場からはそれも当然と存ずる。そのことで恨み申さぬ」
 っていうか、こいつら、なんでこんな時代がかった喋りになってるんだろう。
「ええい、HRは終わりだ。帰ってよし! 北川は残っとれ」
「おう!」
 石橋は集めた誓約書を小脇に抱え「ちゃんと待ってるんだぞ」ともう一度北川に念を押
すと教室を出ていった。
「おいおい、北川〜」
 しょうがないので、なだめにかかる。
「いいじゃねえかよ、さらさらっと書いちまえって」
「やだ」
 名雪も立ち上がって寄って来た。
「北川君。修学旅行に来れなくなっちゃうかもよ」
 クラスの連中も誰一人帰らずに、こちらの様子をうかがっている。みんな考えることは
同じか。
 こんな馬鹿でもいなけりゃ寂しい。
 ってな。
 香里が立ち上がった。
 ぼこん、と一発。北川の顔面が机(みかん箱)にめり込む。
「馬鹿なこといってないで、サインしちゃいなさいよ。まったく」
「いや、俺は絶対に夜這いするんだ」
「はぁ、あのねー」
 香里がほとほと呆れ返ったという顔で溜息をつく。
「夜這いってね、レイプじゃないのよ。男が忍んで行っても、女が拒絶したら男は諦めて
引き上げないといけないの」
 うむ、女の意志が尊重されるという話は聞いたことがあるな。
「あたし、絶対に拒絶するわよ」
 はっきりといわれて、北川はちょっと落ちこんだようだが、この程度で諦める男ならと
っくのとうに諦めている。
「……でも、夜這いする」
「あんたねえ……」
「拒絶されてもいい。俺、美坂のところに行くよ」
「……」
 ぷるぷると震えてる香里。んー、あながち怒りばかりでもないと思うのはうがち過ぎか、
はたまた北川の友としての贔屓目か。
「馬鹿」
 香里がもう一発見舞おうかと手を振り上げた時、教室の扉が開いて石橋が入ってきた。
 さすがに教師の前ではそういうわけにもいかず、香里が手を引っ込める。
「なんだ、お前ら、全員残ってたのか」
 石橋が、苦笑したようだった。
 って、おい、その後ろに続くおっさんは……。
「校長先生だよ」
 おぼろげな俺の記憶を名雪が補強してくれる。そうだ。確かうちの校長だ。こらまた、
いきなり大物が出てきたな。
「君ですか。誓約書にサインしないというのは」
 北川は無言で校長を睨んでいる。
「なんでもとある女生徒に夜這いをすると宣言したそうですが。君、それを全校生徒の前
でいえるのかね!」
「いえる!」
 北川は机を叩いた。ちょっと凹んだ。
「いや、全校生徒などとケチなことはいわずにこの街の人間全てを集めてその前で宣言し
たいぐらいだ。俺は美坂に夜這いをかける! と、大声でいってやる! フルチンで」
 なぜフルチン!?
「おのれ」
「校長、こいつの決意は本物のようです」
 石橋が校長に耳打ちする。どうも、先ほどから態度を見ていると石橋は密かに、北川に
は好意的な感情を抱いているようだ。
「ならば、あれをやらねばなるまい」
 校長がにやりと笑った。なんか、うちの校長、なかなか人間的に問題ありそうっす。
「あ、あれをやるんですか! おい、北川、さっさと誓約書にサインしてしまえ」
 ぬ、いつも手抜きHRで生徒の人気を博している石橋教諭。こんな驚いた顔は初めて見
た。
 やがて、校長に呼ばれて体育教師が二名ばかりやってきた。
「おい、北川、悪いこといわんから」
「意地張るなって」
 二人とも、北川に翻意を促すが北川は一向に首肯しない。
「よし、引っ立てぃ」
 校長の命令が下って、北川が両側から体育教師に腕を掴まれて連行される。俺たちはカ
バンを持ってその後を追っていった。
「くそ、はなせコラ! ホワイトハウスとホットラインを繋げ。大統領と直接話す。俺の
夜這いを止めたら殺す!」
 大統領も忙しいんだからあんま困らすんじゃない。
 北川が連れて行かれた先は校門だった。そして、校門の脇にゴザが敷いてある。
「座らせよ」
「ええい、自分で座る」
 北川が左右からの拘束を振りほどき、ゴザの上に正座した。
「よし、あれを」
 校長にいわれて石橋が何やら持ってくる。
 それは、A4サイズほどの板切れだった。紐が取りつけられている。
 石橋は、あまり気が進まないと表情で主張しながらも、校長の命令には逆らえぬようで、
その紐を北川の首にかけた。板切れが、ちょうど北川の胸辺りに来る。
 何か書いてあるようだ。

     私、北川潤は、修学旅行の際に
     女子に夜這いをするといって憚
     らない不届き者です。

 ぐあ、これでさらし者にする気か、予想以上にうちの校長は狂っとる。
 帰ろうとしていた生徒も、部活で校庭に出て来ていた生徒も、大半が何が起こっている
のかと興味を覚えて集まってきていた。
「ふふ、これでもまだサインせんか」
「……」
 北川は沈黙している。この場合、それは拒否としか受け取りようがないし、北川も無論
そのつもりでの沈黙だろう。
「涼しい顔をしていられるのも今のうちよ。今に詫びを入れてくるに決まっておる」
 北川が顔を前に倒して、板切れを見ている。
「……小せえ」
 呟いた。校長の器の小ささを非難しているのか? 確かに、相当器は狭そうだが。
「字が、小せえ!」
 北川が叫んだ。
「これじゃあ、この学校の生徒はいいが、表を通る通行人たちになんて書いてあるか見え
ねえ。もっと大きく書け!」
 正気か、この男は。
「な、なんだと」
 思ってもいなかったことをいわれて、校長が大きく仰け反るようにして驚いた。
「貴様。何を考えて……」
「街の人間全てに宣言してもいいといっただろうが」
「ぐ、ぬ……」
 見誤ったな、校長。たぶんそいつはあんたが今まで出会ったどの人間よりも馬鹿だ。
「ふはははははははっ、よくぞいった!」
 時ならぬ哄笑。ざわめきが沸き、やがてそれがこっちに近付いてくる。生徒たちが口々
に「会長だ」「生徒会長が来たぞ」と囁いていた。
「校長、ここは彼の覚悟を汲んでやらねばなりますまい」
 数人の生徒会役員を従えて、生徒会長の久瀬が姿を現した。突然の久瀬登場に校長が明
らかに狼狽しているのがわかる。そういえば、久瀬の父親はこの土地の名士だとか聞いた
な、校長も頭の上がらない人物なのだろう。
「北川君、よくぞそこまでいったものだ。敬服する」
 どことなく楽しそうに久瀬はいった。ここ最近、やや性格が変わって明るくなったと評
判だ。俺にはどうも平地に乱を起こすのを好むようになったとしか見えんが。
「敬服の証に、僕から特大の立て看板をプレゼントしよう。どうかな?」
「おう」
 北川が頷いた。
 携帯電話を取り出す久瀬を、校長が慌てて止める。
「久瀬君、そのようなことは」
「よいではないですか。その方があなたの望む効果があるでしょう。それに、もっと大き
くしろと本人が望んでいるんです」
 そういわれては校長も声が無い。
「もしもし、僕だ。すぐに手配して欲しいものがある」
 久瀬は、これこれこういうものを至急用意しろといって電話を切る。
「惚れた女のために傾き通して見せよ!」
 そういうと、久瀬はまた異常にでかい笑い声を残して去っていった。やっぱり、どんど
んトラブルメーカーになってるような気がする。前の方がマシだったんじゃなかろうか。
 校長は久瀬に気を飲まれたのか、何もいわずに去っていった。
「北川、気が変わったらすぐに俺にいうんだぞ」
 校長の姿が消えると、石橋が北川に優しい声をかけて校舎に戻っていく。
 残された生徒たちは帰る者、部活に行く者、そしてまだ残って北川を見ている者といた。
しかし、北川は、それには構わずに背筋を伸ばして前方を見据えている。
「んー、えらいことになったなあ」
「そうだね。あ、わたし、部活に行かないと」
 名雪が未練げな表情をしながらも、俺たちに挨拶して部活に行った。
「まったく、あの馬鹿は」
 香里はとことん渋い顔をしている。
「ふふふふふ」
 いきなり、俺たちの背後で笑い声が上がる。
「うわ! って、なんだ。栞か」
「……おどかさないでよ」
 後ろで笑っていたのは栞だった。心臓に悪い現れ方をしやがって。
「さすがです。北川さん」
 栞の視線は、一直線に北川に向かっている。
「こうでなくては、私がお姉ちゃんの伴侶に見込んだ甲斐が無いというものです」
 以前尾行して盗み聞きした時(かのんイズム2参照)にそうだろうとは確信していたが、
やはりそういうつもりだったのか、美坂栞よ。
「栞……あなた、どういうつもりよ」
 うわ、睨んでる睨んでる。めっさ睨んではるで。
「どうもこうも無いです。お姉ちゃんは北川さんと結ばれるべきです。私がそう決めまし
た」
 あんたが決めたんか。
「な、なにをいってるのよ、なんでそんなことあなたに決められないといけないのよ」
「なーにいってるんですかー! お姉ちゃんなんて美人で頭がよくてクールでそんな中に
も優しさがある、凄いいい女なのよ。妹の目から見ても」
「あ、あら、そうかしら」
 いきなり妹から絶賛されて香里が少し照れているようだ。
「でも、一皮剥いたら性格きついし、男の人を寄せ付けないし、そもそも異性をあんまり
意識してないし、このまんまじゃお姉ちゃんは行き遅れます!」
 誰もが薄々思っちゃいたけどとても口には出せなかったことを直言する栞。姉妹って素
晴らしい。
「な、なによ、そんなの別に栞には関係無いでしょ」
 怒るかと思ったら動揺しているようだ。……少しは自分でも思い当たったか。
「そこで北川さんなのです」
 栞は断言する。両手が握り拳だ。半端じゃない気合の入りようである。
「北川さんはお姉ちゃんに殴られても蹴られてもいびられても大丈夫です」
「あなたは、姉の伴侶を耐久性で決めるの?」
 さすがシスコ……妹想いの香里さん。けっこう無礼なこといわれているのに苦笑いをし
ていた。栞以外の人間だったら今ごろ襟首掴まれてどっか連れてかれてるはずだ。
「もちろん愛ですよ、愛」
 栞がうっとりとした夢見がちな目を宙に向けている。大丈夫かね、このお嬢ちゃんは。
「北川さんほどお姉ちゃんを好きな人はいません。私でも勝てる自信がありませんから」
 それに……と栞は人差し指を口元に当てた。
「健気な男の子は応援してあげたくなるものです」
 香里は、呆れていると表情で主張し、その顔を左右に振って見せる。
「はあ、もう帰るわよ。北川君がいつまでやってるつもりか知らないけど」
 確かに、いつまでもここにいるわけにもいかない。俺たちは北川に挨拶をして帰途につ
いた。ちなみに俺が「無理すんなよ」栞が拳を握って「頑張ってください」香里が「あん
た、自分のしぶとさ過信してるといつか本当に死ぬわよ」ってすっげえ面倒くさそうに。

 翌朝、俺は、名雪から貰った目覚し時計の世話になることなく目覚めた。
 俺の目をぱっちりと開かせてくれたのは寒気だ。ここ最近無かったぐらいに寒い。
「寒ぃなあ」
 愚痴りながらベッドから起きる。外の様子を見るために窓を開けた。
「おお」
 思わず、声が漏れた。一面の白い世界。目の前にあるベランダの手すりを見ると5セン
チばかりの高さの白い壁がそそり立っている。
「一晩でこんなに積もったのか……いや、それより、雪降ったのかよ」
 先日、いつになったら暖かくなるんだと愚痴りまくっていた俺に、名雪がもうこの時期
になったら雪は降らないから、って請け負ったんだが。
 で、毎度毎度のことだが苦労しつつ名雪を起こして雪景色を見せると、
「わ、びっくり」
 非常に驚いた。
「この雪じゃ、さすがに北川もサインして家に帰っただろうなあ」
「これで北川君も一緒に行けるね」
 これまで、あれだけ馬鹿だ馬鹿だといっておきながらまだあの生き物への理解が浅かっ
たのを悟るのは、それからすぐだった。
 俺はいつものように、名雪とともに走って学校に行った。
「祐一凄いよ」
「あん? なにが?」
 俺はゼイゼイと肩で呼吸しながら問いかける。
「どんどん走るのが速くなってる」
「な、なにぃ」
 荒い呼吸のまま俺は腕時計を見た。なんだよ、まだ予鈴も鳴ってないのか。道理で周り
に生徒が多いはずだ。これまでだったら俺ら以外は誰もいなかったのに。
 いや、しかし、それにしても多いぞ。いくら予鈴前といっても、もう時間が遅いことは
確かなのに。
「なんか、みんなあそこに集まってるよ」
 名雪が指差す先は……おい、あそこはもしや……。
 そう、あの場所は、っていうか、でかい看板が立っているのだからそれ以前に一目瞭然
だった。

     私、北川潤は、修学旅行の際に
     女子に夜這いをするといって憚
     らないばかりか、校長に諭され
     ても聞く耳持たない不逞の生徒
     です。

 なんかちょっと長くなってるな。
 いや、それよりもなによりも、でけえ。久瀬の奴、いらん奮発しやがって……。
 しっかし、あんなものが立ってるってことは、まさかあの馬鹿。
「おい、名雪、行ってみるぞ」
「う、うん」
 昨日、北川が座っていたところに、雪が立っていた。自然にこんな積もり方するわけね
えし、やっぱり、この中にいるのか。
「北川君。おはよう」
 名雪が手を振っている。しかし、反応は無しだ。あいつのことだから大丈夫だ、とは思
うんだけど、さすがに心配になってきたぞ。
「おい、北川」
 俺はいいつつ、積もった雪のてっぺんを手で崩す。
 ぴょこり、と本人曰く「こういう髪型」というのだがクラス全員が「北川のアンテナ」
と呼び習わしている特徴的な髪の毛が姿を現す。
「おい、北川、生きてるかー」
 雪を掻いて落としていくとやがて北川の顔が現れた。
 寝てた。
 ぐっすり、と寝てた。
 それはもう、スヤスヤと寝息を立てて正座したまま寝てた。
 こんなこったろうとは思ったけど心配した俺がアホだった。
「うわ、凄い。北川君、よくこの状況で寝れるね」
 いや、お前もたぶん平気で寝るだろ。
「まあ、生きてるんなら、いいけど」
「祐一、時間が……」
 そういえば、北川に積もった雪を落としている間に予鈴が鳴っていたようだった。周り
を見れば、見物していた生徒たちもほとんど校舎に入ってしまったようだ。
「北川君。死なない程度に頑張ってね」
「お前、本当に無理はするなよ」
 俺たちはそれでも寝ている北川に声をかけて校舎に入った。
 俺の後ろの北川の席は、早速香里の荷物置き場になっていた。
 午前中の最後の授業の途中にまた雪が降り始めていたので、昼休みになったら、俺は香
里と名雪を誘って北川の様子を見に行こうと思った。何か暖かい飲み物でも買っていって
やろうか。
 しかし、授業終了のチャイムが鳴り終わったと同時、すなわち、俺が二人に声をかけよ
うとしたのと同時。
「あーあー、親愛なる我が生徒諸君。生徒会長の久瀬だ」
 突如、校内放送で久瀬の声が響き渡った。……こいつ、ちゃんと授業受けてたのか?
「美坂香里さんと、いたらでいいんだが相沢祐一君は、これより生徒会室にご足労願いた
い。茶ぐらい出すから」
 おるわい。
 あの野郎、俺が午前中で授業フケたとでも思ってやがんのか。
「はーーーぁ」
 盛大に溜息をつきながら香里が立ち上がる。
「しょうがねえなあ、パンでも買って、お茶でも飲みに行くとするか」
 俺は、一挙に両肩にのしかかってきた疲労感を振り払うように背筋を伸ばしながら立っ
た。
「うー、わたし、お呼ばれしなかったよ〜」
 名雪がちょっと悲しそうなので、かまわないから着いてこいといってやる。
 購買でパンを買って、俺たちは生徒会室へ行った。
「ようこそ、じゃ、三人ともこっちへ」
 別室へと招じ入れられる。当たり前のように「三人」といわれて名雪が、
「それじゃお呼ばれしようかな」
 と、嬉しそうだ。
 うちの学校の生徒会室というのは、教室の半分ぐらいの広さのそれとは別に同じ程度の
大きさの生徒会長室というものがある。それを知った時は、そりゃまた豪勢な、と思って
いたら、なんでも久瀬が権力をフルに活用して隣室が特に使用していない空室だったのを
幸いに作ってしまったものだという。無茶をする奴だ。そのことに関しては、
「これぞ男子の本懐」
 と、ちっとも悪いとは思っておらず、むしろ誇っているほどなので処置無しだ。
「まあ、適当にかけてくれ、暖かいお茶がそこのポットに、湯呑が戸棚に入っているから」
 そういうと、久瀬は手近な椅子に腰を下ろした。名雪が湯呑を出してきてそれに茶を注
ぐ。
「んー、ここには初めて入ったけど」
「はは、雑然としているので驚いただろう」
「っていうか、ここに住んでんのか、お前は」
 思わず、俺はいっていた。生徒会長室とかいうから事務的な雰囲気を想像していたのに、
ポットはある、湯呑はある、戸棚はある、その中には湯呑以外にも食器類が入っている。
さらにはテレビがある。冷蔵庫まである。んでもって寝袋まである。っていうか、全自動
麻雀卓があるのは本気でどうかと思うよ、生徒会長どの。
「僕だって、時にはのんびりと過ごしたいのだよ。家が嫌いなわけではないが、窮屈に感
じることもあってね」
 そういうわけで、久瀬は時々、生徒会の仕事が忙しいので学校に泊まると称して、家で
はできない自堕落な生活をここで送っているらしい。
 どうしようもねえ生徒会長だな、と思いつつも、なんだかちょっとこいつへのイメージ
が……どっちかっていうといい方向に変わったのも事実だ。
「そうだ、今度徹マン(徹夜麻雀)でもどうかね」
「何か用があって呼び出したんじゃないの?」
 強引にそっちの方に持っていかないと、いつまで経っても本題に入らないと見た香里が
久瀬に問いかける。
「うむ、そうだったな」
 久瀬の話とは、やはり北川に関することであった。
「そこで、北川君の保護者の美坂さんと、ついでに親友の相沢君を呼んだわけだ」
「なるほど」
「……誰が保護者よ」
 案の定、香里さんの御機嫌が傾く。
 そういえば、いくら馬鹿といえども、あれは完全に生徒への体罰つうか虐待だと思うん
だが、その辺、北川の本当の保護者には話が行ってるんだろうか。
「ああ、彼の両親とは連絡が取れない」
 俺がその疑問を呈すると、久瀬がいった。
「行方不明なのか?」
「北川君は二年ほど前に御両親に勘当されて、彼自身、もう親とは思っていないそうだ。
どこに住んでいるかも知らないらしい、一応、名目上は保護者ということになってはいる
んだが」
「そうだったのか。香里?」
「いえ、あたしも初耳よ」
 さすがに、香里も驚いた顔をしている。
「僕も気になって、問い質してみたんだが……見たこともない険しい表情で『あいつらと
は笑いの波長が合わない』といっていたな」
 どういう理由だ、それは。
「まあ、つまりは、彼の保護者をやるというのは疲れるということではないかな」
 そりゃ疲れそうだ。
「そうしたら北川君が『美坂がいい』というのでね」
 本人が指名するものなのか、保護者って。しかも生徒。
 香里はもう疲労感を顔一杯に表して頭を抱えている。早くも疲れてるな。
「それで、なんなのよ、用件は」
 どうやら諦めたらしい。
「うむ」
「うー、わたしは? わたしは?」
 名雪が口を挟んできた。話の腰を思いきり折る奴だなあ。
「水瀬さんは陸上部の部長だろう」
「うん、わたし、部長さん」
「そういうことだ」
「うん、わかったよ、部長さんとして話を聞くよ」
 久瀬、お見事。
 なんとなく名雪を丸め込んでしまった。まあ、これで丸め込まれるこいつもこいつなん
だけど、こういう時の名雪はまともに相手しても疲れるだけだ。
「生徒の味方がモットーの我が生徒会としては、この度の戦い、全面的に北川君のサポー
トをすることに決定した」
「戦い、って大袈裟な……」
 こいつは、けっこうオーバーアクションで演説するのが好きな奴だからなあ。なにかと
大事にしてしまうところがあると俺は見ている。
「何をいうか、これは生徒の自由を勝ち取らんとする僕たちの代表を潰そうとする学校側
との戦いだ」
 いや、だから、それが大袈裟なんだってば。
「大体、お前もあの誓約書サインしたんだろ?」
「ああ、したよ。別に夜這いしたい女子がいるわけでもなし」
「だったらお前……」
「しかし、夜這いをしたいという男がいるのならば、それを援助するのに骨身は惜しまな
いぞ。僕は生徒会長だからな」
 胸を反らして断言する久瀬。少しはまともになったのかと思ったら、ベクトルが変わっ
ただけか。
「援助するといっても、大っぴらにはできないんじゃないの?」
 香里がもっともなことをいう。
「うむ、直接何かを差し入れたりするのは難しいだろう。だが、僕の持てる力の全てを使
ってこの生徒虐待を非難する風潮を作る。おそらく、倉田さんも協力してくれるだろう」
「でもな」
 と、いって、俺は窓を見る。昼休み前にパラパラと降り始めた雪は、早くも大降りにな
っていた。視界を埋め尽くすほどの白い雪。
「この雪だ。さすがのあいつもそんなに体がもつかどうか」
「そもそも不運としかいいようがないわね。もう雪なんか降らない時期なのに、いきなり
季節はずれの大雪だもの」
 香里がいうのに、久瀬が首を横に振った。
「いや、美坂さん。僕が思うに、この雪は北川君が降らせたものだ」
「え?」
「あの男は天に嫌われている」
「……」
「天に愛されているにしろ、嫌われているにしろ、天を動かすことには変わり無し。欲し
い、我が翼下に欲しい人材だ」
 それが本音か。っていうか、あれ、欲しいか?
 久瀬が湯呑を傾けてそれを回しながら窓の外を見る。雪は弱まる気配も無い。
「くっくっく」
 ずずず、と茶をすすり、不気味な笑い声を上げる久瀬。
 生徒会室の方から物音がしたのはその時だった。争うような音が聞こえてくる。
「なんだ?」
「おのれ、校長め。生徒会が敵に回ったと知って刺客を放ったか!?」
 久瀬が生徒会長専用だという馬鹿でかいデスクの下に手を入れたかと思うと、そこから
見覚えのある一振りの剣を取り出した。
「それは……」
「川澄さんから預かっている剣だ。相沢君、こいつで一つ、やってしまってくれ」
 無茶いうんじゃねえ、この馬鹿会長。
 その間にも隣の部屋からはドタバタと音がする。香里は悠然と茶を飲んでいて、名雪は
麻雀牌を積み上げて「ピラミッド」を作っている。
 だが、やがて音が止んだ。
「会長。お騒がせいたしました。押忍!」
 役員が敬礼をしながら入ってくる。
「うむ、一体なんだったのかね」
「は、生徒会室を盗み聞きしようとしている生徒がおりましたもので」
「む、校長のスパイかもしれんな」
「不審に思い尋問しようとしたところ、カッターを振り回して暴れましたので、少々取り
押さえるのに難儀いたしました」
「ふむ、僕が尋問しよう。連れてきてくれ」
「はい」
 その役員が促すと、二人の生徒会役員に両側を挟まれた女子生徒が連行されてくる。
「えぅ〜、放してください」
 ……栞じゃん。
 なにしてんだ、こいつは。いや、とにかく、カッター振り回すなよ。
「おや、この子は確か?」
 久瀬がそういって香里を見る。香里は溜息をつきつつ頷いた。
「そうよ」
 もう一度、思いきり深く溜息。……今のはちょっとわざとらしかった。たぶん栞に心底
呆れたというのを伝えるためだろう。
「放してあげて、あたしの妹なの」
 香里が一言いうや、栞を捕まえていた生徒会役員が物凄い速さで栞から離れる。香里さ
んの病的なシスコ……えっと、違う違う、深い妹想いはよく知られているようだ。
「失礼しましたー!」
 背を向けて、両手を壁について足を広げる役員たち。……誰もそこまでしろとはいうと
りゃせん。
「大体察しはつくけど、なんで盗み聞きなんてしようとしたの?」
「だって、この状況でお姉ちゃんと祐一さんが久瀬さんに呼ばれるなんて、北川さんの件
以外に考えられませんから。どんな話をしているのか聞きたかったんです」
 と、栞はいう。
「別に、大したことは話してないわよ。ねえ」
 香里にいわれて、久瀬が今まで話したことを栞に伝えた。
「お姉ちゃんたち、そんなことを心配してたんですか。大丈夫です。北川さんの愛をもっ
てすれば雪ぐらいなんてことないです、そしていつしか氷のようなお姉ちゃんの心も融か
されてゴールインです。私、北川さんのことを潤お兄ちゃんと呼ぼうと思うんですが、ど
うでしょう?」
 どうでしょう? って、そんなの俺に振るな。
「いくらなんでも、あれだって生き物よ。万が一ってことがあるかもしれないじゃない」
「あっ、心配してますねー。素直になれない乙女心ですねー。お姉ちゃん可愛いです」
「馬鹿なこといってるんじゃないの」
 香里が声を荒げる。
「それで、久瀬さんが北川さんを助けてくださるんですか?」
「うむ、あの男はなんとしても欲しい」
「久瀬さんはなかなか人を見る目があります。伊達に生徒会長をやってませんね」
「君もわかるかね」
「わかりますとも、私、北川さんをお姉ちゃんに娶わせるつもりですから」
「それはいい、大いに娶わせたまえ。なんだったらいい仲人を……」
「あんたたちねえ……」
 うわ、睨んでる睨んでる。めっさ睨んではるで。
「と、まあ、その話は置いておいて、だ」
 さすがに久瀬は香里の睨みに耐えられずに話を変えた。やはり、あれに耐えられるのは
実の妹とあの馬鹿だけらしい。
「いきなり僕の片腕に抜擢しては反発が強い。ここは一つ、彼に功績が欲しいのだよ」
 この度、方針転換を行って生徒のための生徒会、そのためだったら学校側とも喧嘩上等
となった新生徒会において、学校側の圧力に抗することは大きな功績になるのだと久瀬は
いう。
「ここで北川君があくまで己の意志を貫いて学校側が折れたとしたら、もはや彼の抜擢に
文句をつける者はいない」
 それがこいつの狙いであるらしい。あいつは確かに見方によっては凄い奴だが、生徒会
運営に役に立つとは思えんのだが。
「……」
 無言のまま、香里が立ち上がった。
「ん、どうしたのかね?」
「悪いけど付き合ってられないわ」
「協力しない、というのかな?」
「いえ、それどころか、北川君に、誓約書にサインさせたくなったわ」
「なんだと」
「お姉ちゃん」
「まったく、北川君が馬鹿な意地張ってるからこういうくだらないことになるのよ」
 香里は生徒会長室から出ていった。
「放課後、説得するわ」
 と、言い残して。
「むう、まさか美坂さんが敵対行動に出てくるとは……」
 久瀬はさすがに困惑を表情に表している。
「あいつ、香里のいうことには従順だからな。香里が真剣に、強くいったらサインしちゃ
うだろうな」
「それはいかん、いかんぞ」
 なんといっても北川に最も大きな影響を及ぼす人間といえば香里だ。久瀬とてそれは承
知しているから、渋面になって室内を歩き回る。
「くっ、もはや我が策破れたりか。どうすればいい……」
 ふと見ると、栞がいつのまにかいなくなっていた。

 放課後、HRが終わると香里がすぐに席を立ち、早足で廊下へと出る。
 俺はそれを追いかけて教室を出た。
「おい、本当に北川を説得するのか?」
「するわよ」
 香里は、もう完全にそのつもりになっている。俺は止める必要も感じなかったので何も
いわずに着いて行った。
 例の位置に、相変わらず北川は正座していた。
「ん?」
 俺が首を傾げたのは、その前に、栞がしゃがみ込んで、何やら北川と言葉を交わしてい
たからだ。
 香里は、かまわずにどんどん近付いていく。その姿を認めると、栞は立ち上がり、香里
にその場を譲るように後ろに下がった。
「よう、美坂」
 北川が満面の笑みで迎える。
「思ってたよりも元気そうね」
「美坂の顔見たから元気出た」
 ニコニコしてる。香里を見てればそれだけで幸せな奴だ。
「ふふふふふ」
 その時、俺の背後で笑い声がした。
「ぬあ! ……栞か」
 いつの間にか栞が回り込んでいた。この心臓に悪い現れ方が気に入ってるのか。
「ふふふふふ」
 なおも笑い続ける栞。
 香里が北川と小声でなにやら話しているのを妙に誇らしげな表情で眺めている。
「おい、栞、北川と何を話してたんだよ」
 俺は、気になっていたことを尋ねる。
「お姉ちゃんが北川さんを説得する前にちょっと聞いておきたいことがあったんです」
「なんだよ」
「結論からいうと、北川さん、合格です」
「合格……って、なにが?」
 その俺の問いに栞が答えようとした時、香里の声が聞こえてきた。
「どうしてもサインしないっていうのね」
 それまでの声よりも遥かに大きい声だった。怒気すら含んだ険しい声だった。
 俺は、慌てて二人の所に駆け寄る。
「おい、どうしたんだよ」
 声をかけてみたが、北川も香里も、お互いへ注いだ視線を外さない。
「あたしがこれだけいっても駄目なのね」
「ごめんな、美坂」
 北川が、辛そうな表情でいった。
「じゃ、勝手にしたらいいわ」
 香里が踵を返す。
「美坂」
 北川が呼んだが、振り向こうともせずに足早に去って行く。
「ありがとな、心配してくれて」
 背中にかけられた北川の声が聞こえているのかいないのかもわからない。
「おい、北川」
 俺は北川を見る。まだ辛そうな顔をしていた。
 香里が北川を説得することを知っていた俺には、今の短いやり取りだけで、何があった
かは察せられた。
「お前、どうあってもサインしないつもりなのか」
 香里にいわれても拒むということは、絶対にしない、ということだろう。
「へへ、美坂に、嫌われちまったかな」
 弱々しい声だ。こいつのこんな声は初めて聞く。
「でも、やっぱり一度やり抜くと決めたことはなんとしてもやるのが男だって思わないか?
」
「ん……ああ」
 北川のいうことは、俺にはよくわかった。他ならぬ俺自身が、けっこう物事にのめり込
んだら一直線のタイプなのだ。
「美坂のいうことは聞いてやりたいんだけど、こればっかりはな」
 とことん気落ちした北川を見かねて何かいってやりたいが、俺も何をいうべきかわから
ない。
「大丈夫です」
 自信満々に言い放ったのは栞だ。
「北川さん、お姉ちゃんに嫌われてなんかいませんよ」
「そ、そうかな」
 香里のことをよく知る栞がそういうので、北川の顔にも生気が戻る。
「頑張ってください!」
「うん、ありがと、栞ちゃん」
「まあ、俺ももう何もいわねえよ」
「相沢……」
「頑張れよ」
「おう!」
 俺と栞は、連れ立って校門を潜った。
「どうなることかと思ったが……僕の予想以上の男だ。欲しい、なんとしても我が野望の
ために欲しい人材だ」
 久瀬がなんかいっていたが、さりげなく無視することにした。
 栞とは途中まで一緒に帰った。
「なあ、栞。さっきのことだけど」
 聞きそびれていた答えを俺は知りたかった。
「私、北川さんにいったんです。もしもお姉ちゃんがサインしろって真剣に、強くいって
きたらどうするのかって」
「うん」
「そうしたら北川さん、お姉ちゃんのいう通りにしたいけど、やっぱりできないって、一
度やり抜くと決めたことだからって」
 そういった栞は、さっきみたいに誇らしげだった。
「嘘をつきたくないともいってました。自分は絶対に夜這いするから、サインするのは嘘
をつくことになるっていってました」
 クスクスと笑いながら栞はいった。妹になんつうこといっとんだ、あの馬鹿は……まあ、
今に始まったことじゃねえか。
「でも、それでいいんです」
「何がいいんだよ。香里の奴、だいぶ機嫌悪くしてたぞ」
「でも、見直してもいるはずですよ。お姉ちゃん、なんでもいうこと聞くような男性はあ
まり好みじゃないと思いますから」
 栞は、やはり誇らしげだった。
「だから、合格なんです」

 栞と別れて家に帰り、飯食って、風呂に入ってからリビングでくつろいでいると電話が
鳴ったので、俺が取った。
「もしもし、美坂ですが」
 香里だった。
「なんだ。どうした?」
「相沢君ね。名雪は?」
「ああ、もうぐっすり」
 風呂入って飯食ってすぐに寝た。っていうか、飯食ってる時は既に寝かかっていた。
「今日はまた早いのね。まだ八時よ」
「ああ、なんか疲れてたらしくってな。どうする? 起こしてもいいけど、時間かかるぞ」
「それじゃ、相沢君でいいわ」
「ん?」
「ちょっと付き合ってくれない?」
「付き合うって?」
「百花屋へ来て欲しいの」
 と、いうことで……。
「熱燗ちょうだい」
 こういうことになった。
「相沢君。まあ飲みなさい」
「はい」
 酒気を帯びた香里ほど刺激してはいけないものは無いので、俺はいわれるままに熱燗に
された日本酒を飲んだ。
「まったく、あの馬鹿ときたら、もう知らないわ、相沢君もそうでしょ? ん?」
「はい、私めもそう思います」
 刺激せんのが一番だ。
「本当に馬鹿なんだから、もうあんな馬鹿には愛想がつきたわ。相沢君もそうでしょ? 
ん?」
「まったく同じ気持ちです」
「例え氷づけになっても自業自得よ。心配なんかしないわ。相沢君もそうでしょ? ん?」
「もちろんでございます」
「あのまま死んだって葬式にだって行ってやらないわ。相沢君もそうでしょ? ん?」
「それは……はい、そのつもりであります」
「……」
 香里が無言で睨んでくる。今のやばかったか? ちょっと最初に言葉を濁したのが逆鱗
に触れたか?
「葬式に行かないなんて酷いじゃないの。北川君がそこまでのことをしたというの?」
 ……は?
「それと馬鹿だ馬鹿だっていうけどね。けっこういいところだってあるのよ。わかってん
の?」
 ……いや、ちょっと待て。
「相沢君、あなた、北川君が今、どれだけ辛い思いをしているかわかってそういうことい
ってるの?」
 俺に、どうせいちゅうんじゃあ。
「まったく、わかったら反省しなさい」
「はい」
 畜生、世の中、理不尽なことばっかりだ。
「はぁ……」
 理不尽の元凶が、小さく溜息をつく。
「まさか、あたしのいうことに逆らうとはねえ」
「香里……さん、酒注がせてもらいます」
「ああ、ありがと」
 以後、香里が飲み、俺が注ぎ、また飲むという一連の行為を繰り返した。その間、香里
は何も喋らなかった。
 九時過ぎに百花屋を出た俺は、香里を家まで送って行くことにした。けっこう酔ってい
るので、男に絡まれたら心配だ。男の方が。
 百花屋を出ると、香里が俺の袖を引く。
「なんだよ」
「相沢君。ほら、あれ見て、あれ」
 香里が指差す先には四十代ぐらいの男が街灯に寄りかかって、何やら人を待っているよ
うであった。
「あれ、これよ」
 と、いいながら人差し指で頬に線を引く。うん、俺もそうじゃないかとは思った。
「絶対にこれよ、筋モン」
 堅気からあのオーラは出てこんでしょうなあ。
「相沢君。ちょっと殴ってきて」
 香里さんは俺の小指がそんなに目障りでありますか。
「馬鹿、そんなことできるわけないだろ」
「えぅ〜、そんなこという人嫌いです。……なんて、栞の真似〜」
 うわ、気持ち悪っ!
「なんか失礼なこと思ったりしなかった?」
「滅相もありません」
「ならいいんだけど」
 あー、やばかった。つい表情に出たらしい。
「で、殴りに行かないの?」
「行けるか、そんなの!」
「えー、北川君は行ってくれたのにー」
 行かすなよ。っていうか、あの馬鹿、行ったのか。
「北川君は『こん外道、往生せいやあ』ってアドリブまでつけてくれたのにー」
 ……。
 んー。
 怖い。今の香里に逆らうのは怖い。
 でも、いっておかないとな。
 いつも北川が香里に殴られているのは、北川が馬鹿やってるからだ。それはそれでいい、
あいつも幸せそうだし。でも、香里は北川が自分のいうことを聞くというのをわかってい
るはずだ。その上で、そんなことをさせたのだとしたら、それはやり過ぎだ。
「それは、ちょっと酷いんじゃないのか?」
 勇気を振り絞っていってみた。
「ん、やっぱり、酷いわよね」
「ああ、酷いと思う」
「うん、酷いのよ。でも、そんな酷いのに、あの馬鹿、あたしのこと嫌いになってくれな
いの」
「香里……」
「北川君に好きだっていわれてね、でも、北川君をそんなふうに見れなかったから、いっ
そのこと嫌われようとしたことがあるの。今のは、その時の話」
 俺は、なにもいえなかった。
「しょうがないから、努めて嫌われようとするのは止めたけど。まあ、それでも、彼はあ
たしのいうことなんでも聞くんだ、って思ってたわ」
 そういった香里は、自嘲的な笑みを浮かべていた。
「でも、今日は、いうこと聞かないんだもん。驚いたわ」
 香里はそういって、また笑っていた。
 栞の言葉を、俺は思い出していた。
 ――見直してもいるはずですよ。
 ああ、もう、無茶苦茶しょうもない動機だけど、ここまで来たらやり抜いてやれ、北川。
 
 日は過ぎ、とうとう修学旅行の前日となった。
 そして、北川は、
「どうだ、サインする気になったか!」
 未だ、校門脇に座り続けていた。
「いや、後ろから揉む!」
 答えになっとらん。
 しかし、さすがの北川にも疲れの色が全く無いというわけではない。つーか、目一杯や
つれ果てていた。
 ここ数日、他にすることが無いので睡眠は名雪以上にとっているようなのだが、ロクに
食事をしていない。時折、学校側の目を盗んで久瀬たちが差し入れして、それでなんとか
凌いでいるらしい。あいつは、物理的なダメージには強いけど、こと空腹に関しては人並
みだ。っていうか、むしろよく食う方なので辛かろう。
 ちなみに、頭のてっぺんの「アンテナ」が埋まるほどに雪の積もった北川にバニラアイ
スを差し入れて「大喜びで食べてくれました」といっている栞と、大喜びで食ったという
北川と、どっちもどうかと俺は思った。
「しかし、予想以上にしぶとい奴だなあ」
「北川君、凄いね。ってみんないってるよ」
「馬鹿なだけよ」
「でも、どうすんだ。明日から修学旅行なのに。このままだと、あいつやっぱり来れない
のかな」
「そうなのかなあ」
「……そういうことになるんじゃないかしら」
「んー、馬鹿な奴だけどいないと寂しいなあ」
「わたし、北川君が何をやらかすか楽しみにしてたのに」
「……そんなの楽しみにしないでよ」
 さて、一体どうなるのか。久瀬の奴がいうには、今日中に結論が出るらしい、というか
「出させる」といっていた。あいつとそれに佐祐理さんが煽ったために、生徒間に、学校
側を非難する声も多くなっている。
 放課後、俺たちが北川のところに行くと、既に人だかりになっていた。今日学校側がな
んらかの結論を出すという噂が流れているのだ。まあ、久瀬が意図的に流したんだけど。
 今頃、久瀬はどっかの会議室にて校長たちとやりあっている最中だろう。
 北川は、パンやらおにぎりやらお菓子やらを貪り食っていた。
 教師のほとんどが会議に出席してしまっているので、ここぞとばかりに差し入れされた
ものだ。山と積まれたそれを全て胃に叩き込んだ北川は、早くも痩せこけていた頬に血色
が蘇っている。
 久瀬がやってきた。真っ直ぐに北川の前まで来る。
「結論が出た。心して聞きたまえ」
 久瀬は手にしていた紙を開く。
「この度の北川潤の行為は著しく規律秩序を乱すものにて、容認し難いものの、およそ一
週間にわたって同君が見せた不屈の精神力に教育者として大いに感銘を受けるところあり」
 朗々と、久瀬は読み上げる。百以上の目にさらされても、淀み無く声が出るのは場慣れ
しているためだろう。
「ここに、同君の修学旅行参加を条件付にて認めるものなり。同君の目的たる女生徒が、
容易に特定できることから、その女生徒の保護者の許可をもってその条件とする」
「え?」
 その声は、俺からも、名雪からも、香里からも、栞からも漏れていた。それってつまり
……香里と栞の両親が許可すればいいってことか?
「よって、ここに美坂香里の保護者である、その両親にうかがいを立てた結果『うちの長
女はヤワじゃない。PS 次女は病み上がりだから優しくしてね』との返答を得るに至る」
 えっと、それって……。
「右の返答をもってして、許可が出たものと見なし、極めて特例ながら、誓約書に無記名
のままに北川潤の修学旅行参加をここに認めるものである」
 と、いうことは、つまり……。
「つまり……」
「うむ、つまり……」
 久瀬が一度言葉を切ってから、いった。
「夜這いOK!」
「おおおおおおおおおおーっ!」
 凄まじい歓声が生徒たちから上がった。
 香里は、ガックリとうな垂れていた。
「そんな、父さん、母さん……」
 うわ、めっさ落ち込んではる。
「さあ、北川君。立つのだ」
 久瀬が北川に手を差し出した。それを北川が握る。
 そして、一週間ぶりに北川は立った。
「足、痺れた」
「おい、肩を貸してやれ」
 久瀬にいわれて二人の生徒会役員が北川を左右から支える。
「もっと胸を張れ。君は勝ったのだ」
 北川が、微かに笑ったようだった。
「ふ、ふふ、わかったわよ。いつでも来なさい。返り討ちにしてあげるわ」
 香里が唇の端を吊り上げて笑っていた。なるほど、ヤワじゃない。
「ふふふふふ、これでお姉ちゃんと北川さんの仲も急接近です」
 栞が、含み笑いをしている。
「よかったね、これで北川君も一緒に旅行に行けるよー」
 名雪もとても嬉しそうに笑っていた。
 結局、みんな笑っていた。約一名、引きつった笑みの人間もいたが。
「よし、明日から修学旅行だ」
 とか、無理矢理まとめに入ってみた。

 まず、学校に集合ということになっていた。そこからバスで空港まで行く。
「明日は寝坊できないよ」
 と、いって昨夜飯食って風呂入って、午後六時には就寝した名雪が、目覚し時計が鳴り
出してから五分後に自力で起きるという奇跡を起こしたので、けっこう余裕をもって家を
出ることができた。今日は荷物が多いので、そいつを担いで全力疾走などさせられたらた
まったものではなかったな。
「おはよう」
 うちのクラスの集合場所に行くと、香里が声をかけてきた。
「雪が止んでよかったわね」
「ああ、そうだな」
 久瀬曰く、北川が降らした季節外れの大雪は、昨日の夜から降り止んでいた。しかし、
一夕にして融けるわけもなく、未だに街は雪景色を見せている。
 そのため、俺をはじめとして、みんなコートを着込んできている。
「向こうに着いたらコートが荷物になりそうだな」
「ああ、それなら空港に預けておけるらしいわよ」
「あ、そうか」
 それなら一安心だ。
 ぐるり、と見回す。
 ……なんか、俺らの学年だけにしては人数が多いような気がするな。授業が始まる一時
間前には出発するし、校庭が集合場所になっているので部活の朝練も今日は無いはず。
「おはようございまーす」
 香里の後ろから、栞が出てきた。
「何してるんだ?」
「お見送りです」
 ああ、そうか、先輩を見送りに来てる後輩がいるのか。律儀だなぁ。
「あっ、北川さんじゃないでしょうか、あの人」
 栞がそういって指差した先に、こちらに歩いてくる人影があった。
 ああ、北川だ。
 離れているから顔立ちはよく見えないけど、北川だ。
 この雪景色の中、白い半ズボンと黄色地のアロハシャツにサングラスという出で立ちの
男は馬鹿以外にありえず、今日この時間にここに現れそうな馬鹿といえば北川以外に考え
つかない。
「おっはよー! 立ってますかー!」
 確実だ。
 一際異彩を放つ風貌の北川がやってきた。いうまでもないが、一人残らずコートを着用
していて、北川のようなアロハシャツを着ている人間は皆無だ。力道山か、こいつは。
「なんつう格好をしとるんだ」
「ああ、だって沖縄だし」
 だから、ここはまだ沖縄じゃねえ。
「美坂も、おはよー」
「ふ、おはよう」
 香里さんが早くも殺る気満々の表情で北川を迎える。さて、この旅行中何発殴られるこ
とやら。ちなみに、うちのクラスの連中の間(女子も含む)では旅行中に北川が香里に何
発殴られるかで賭けが成立している。一日十発は固いという見方が強く、三十発から四十
発の間が多い。
「あ、しまった。歯ブラシを忘れた」
「なにやってるのよ、まあ、歯ブラシぐらいならどこでも売ってるでしょ」
「美坂、歯ブラシ貸して」
 ぼこん、と一発目。早っ。
「よし、そろそろ出発するぞー」
 担任の石橋教諭の声が響き渡ると、みんなの間の空気が浮き立った。キリモミしながら
雪に突っ込んだアロハシャツも元気に立ち上がる。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
 手を振る栞に見送られて、俺たちはバスに乗り込んだ。
 先輩、行ってらっしゃい。
 お土産忘れないでくださいね。
 部は俺らが守りますから心配しないでください、押忍。
 色々な声が聞こえる。
「北川さーん」
 栞が叫んでいた。
「お姉ちゃんはとにかく素直じゃありませんからー」
 香里のこめかみが確かにぴくりとしたのを俺は見た。怖いから黙ってる。
「嫌よ嫌よも好きのうちですよー!」
 十六歳女子高生の台詞とも思えん栞の声に送られて、俺たちは修学旅行に出発した。
 旅行は楽しく、あっという間にその楽しい時間は過ぎていく。
 到着早々、北川がハブに噛まれたけどピンピンしてたり。
 海岸では、黒ビキニの香里が男子一同の注目を集めたり、ああ、いや、俺もかなり食い
入るように見てしまって、名雪に目潰し食らったりした。ちなみに北川は誉め過ぎたため
に、香里の照れ隠しの一撃を食らって海面を八回ぐらい跳ねていた。まあいいだろう、幸
せそうだったし。
 そして、一日目の夜。
 消灯時間になって、みんな布団に潜りこむ。と、いってもそのまますぐに寝るなんて名
雪ぐらいで、みんな暗がりの中、コソコソと話している。んで、そんな時に圧倒的に多い
のはもちろん猥談だったりするのである。
 で、案の定、心配していた通りに「水瀬とどこまでやってんのよ、ん?」という方向に
話が行って俺が吊し上げられたりするわけである。なんだかんだで、あいつ人気あるんだ
なあ。
 しばらく話していると、それまで黙っていた北川が立ち上がった。
「おおっ」
 思わず、同部屋の一同、歓声を上げる。
「不肖、北川潤。行ってまいります」
「おお、行くのか!」
「御武運を!」
「かまわねえからやっちまえ」
「元より生還を期するな」
 みんなで囃し立てる。どいつもこいつも無責任極まる。
 北川がドアを開けると、そこには久瀬が立っていた。
「行くのか、北川君」
 どうやら消灯時間の直前から待っていたようだ。暇な奴である。
「おう、行く」
「どのような策で行くつもりかね」
「策など無い」
「なに、策が無いというのか」
「あるとすれば一つ」
「それはなんだ?」
「裸で、ぶつかるのみ!」
 言い捨てるや、北川は走り出した。女子が泊まっている部屋は一階上なので階段を駆け
上がっていく。
「ぬう、策をどのように尽くしても最後にものをいうのは気迫だという。僕は策はあるが、
気迫は……」
 久瀬が俯くが、すぐに顔を上げた。
「僕に無いものを持つあの男、やはり欲しい」
 決意も新たに久瀬がいった次の瞬間には、天井が揺れていた。
 ああ、始まったな。
 後で聞いたところによると、上階に上がった北川は、巡回中の石橋教諭に激励されつつ
(いくら夜這い御免とはいえ教師が激励すんなよ、とは思った)香里の部屋へ突入した。
 当然来るだろうと思っていた女子たちは名雪を除いて起きていた。しかし、奴は無論の
こと、眼中にあるのは香里だけだ。
「美坂!」
 その時、既に北川はパンツ一丁だったという。裸でぶつかるというのをそのまんま実行
するとは思わなかった。
「美坂! 今度デートしよう!」
 パンツ一丁で寝床に突撃してきて今度デートもへったくれも無いとは思うが、とにかく
北川はそのまま前進し、当然のごとくカウンターを貰って、しかし屈せず、
「遊園地はどうだ? 映画もいいなあ」
 と、デートプランを練りつつ、前進したという。殴られながら。
 のちに、同部屋の女生徒は語る。
「凄かった。本当に凄かったわ。百発ぐらい殴られてるのに少しずつ前に進んでるんだも
ん」
 つまりは、百発以上殴られたということだ。初日で百発って、誰もそんな大穴賭けてね
えよ。
 正確にいうと、この時、香里さんが北川のデートのお誘いを完全沈黙させるのに要した
攻撃は120発である。俺たちは、北川が何発殴られるか、というのを格闘ゲームの連続
HITのようなノリで考えていたのだが、最早格闘ゲームの域を越えて怒首領蜂みたいな
数字である。
「はい、返すわ」
 足音も荒々しく俺たちの部屋にやってきた香里さんが引き摺ってきた物体を放り投げて
帰っていった。
「おーい、大丈夫かー」
 その物体に声をかけると、
「照れる美坂もいいなあ」
 必要以上に大丈夫だった。
 そして翌日。
「不肖、北川潤。行ってまいります」
 消灯時間前だというのに北川が立ち上がり敬礼した。
「おい、早くねえか?」
 皆でいったのだが、
「しかし、不肖、北川潤。昨夜はなんとか耐えたのでありますが、最早天井一枚隔てた一
つ屋根の下に美坂とともにいることに耐えられませぬ」
 俺たちの「やっぱり夜這いは消灯後だろ」という声にも耳を貸さず、北川は出ていった。
 消灯時間になったが、帰ってこない。
 猥談に花を咲かせていたが、帰ってこない。
「今度こそ完全に抹殺されたんじゃねえだろうな」
 消灯後一時間が経過したところで俺がいうと、他の連中もやや心配そうに同調した。
「北川のことだから、とも思うけど、美坂も美坂で……そのー、やる時は徹底的にやる奴
だからなあ」
 そういったのは斉藤だ。なんでも、こいつは一年生の時も、北川と香里と一緒のクラス
だったらしい。
「そういや、北川っていつから香里のこと好きになったんだろうな」
「んー、たぶん、一年の文化祭以降かなあ。何があったのか知らないけど」
 もしかしたら入学式の日に一目惚れ、って可能性も大いにありかと思ってたんだが。
「あいつ、それ以前はみんなでクラスの女子について話してても『美坂は、美人だと思う
けど、俺は別に』とかいって興味無さそうだったもん」
「そいつは意外だな。最初っからベタ惚れしてたのかと思ってた」
「ああ、今のを見たらそう思うだろうな」
 斉藤が笑い、他の連中も「そりゃなあ」と同意する。
「それにしても帰ってこないな、その辺に捨てられたかな」
「香里なら、窓から捨てるぐらいはしそうだな」
 いつまで経っても、北川は帰ってこなかった。
 翌朝、俺は気になったので香里たちの部屋に行ってみる。別件の用事もあったし。
「起きてるかー」
 ドアをノックする。女子が一人出てくる。
「あー、相沢君だー、みんな、相沢君が来たよー」
 大喜びで中に報告する。大体なんなのか予想はつく。
「あ、ホントだ」
「わーい」
「相沢くーん」
「もう、お願いだから助けて」
「今日もお願い」
「ああ」
 やっぱり、予想通りのようだ。
「名雪起こしてー」
「了解」
 なんとか名雪を起こした俺は、北川について尋ねる。
「昨日の晩に例によってあの馬鹿が来たはずなんだけど」
「ああ、それなら……」
 消灯直前に、北川はやってきた。パンツ一丁で。
「美坂、俺間違ってた」
 最早見慣れてしまって悲鳴すら上げない女子一同の前で北川はいった。
「俺、臆病だった。裸でぶつかるといいながら、こんなものを……」
 いいながらパンツを脱ごうとしたので香里さんが物凄い速さで距離を詰めてぶん殴った
挙句にみんなでシバき回したらしい。
「子供は二人がいいなあ」
 それを最後に力尽きて沈黙した北川を部屋の外に放り出したところで消灯時間になった
ので、それぞれ布団に潜り込んで話をしていたそうだ。当たり前だが、名雪は消灯前に寝
ていた。
「で、あたしがお手洗いに行こうとしたら、部屋の前にいなかったから、もう部屋に戻っ
たのかと思ってたんだけど……」
 香里が部屋に戻ってくると、自分の布団に何かいる。誰かが悪戯で待ち伏せしていると
思った香里は「もう、誰よ」といったが、それに対しては全員から「え? 何が?」とい
う答えが返ってきた。
 その時点でさっさと真相に気付いた香里が電気をつけると、案の定、香里の布団に北川
が入っていた。
「で、あいつはどうなった?」
「あー、ここ」
 香里が押し入れを開けると簀巻きにされた北川が中で寝ていた。
「えっと、これはどういうことだ?」
「あたしは殴って窓から捨てようとしたんだけど……」
 香里がそういって他の女子を恨めし気に見やる。
「えと、だって、あまりにも幸せそうだし」
「そのー、北川君って寝顔は可愛いからちょっと殴りにくいかな、と」
 なんでも、北川は人の留守中に布団に入ってさっさと就寝していたらしい。枕を抱き締
めながら「みしゃか(美坂)の臭いがする〜」とか寝言いってる生き物を心底殺ったろう
と思った香里さんだったが、同部屋女子一同がこれを止め、簀巻きにして押し入れに放り
込み、香里さんは名雪の布団で寝ることに相成ったという。
「どうしようもねえ奴だな。おい、起きろ」
「んー、むー、えへー」
 どうやらいい夢を見ているらしい。でも、いつまでも寝かせておくわけにはいかないの
で濡れタオルを顔に当てて目を覚ましてもらった。
「おー、おはよう」
 いいつつ、キョロキョロと辺りを見回して香里を発見した北川は、目を見開いて驚愕し
ていた。……なんだ、どうした?
「ど、どうしたんだ。その腹」
「は?」
「そんなに凹んで」
 いや、香里はかなりスタイルいい方だから腹が出ていたことなんて無いぞ。
「俺たちの愛の結晶はどうした!?」
 叫びながら、北川は香里の腹に耳をあてた。ああ、大体どんな夢見てたかわかった。
 んで、顔の位置が肘を当てやすいとこだったりするわけで。
 結局、北川は窓から捨てられた。

                                    終

     次回予告
         退屈な授業中、祐一が何気なく北川に声をかけたことから
        それは始まった。
        「美坂は妹の栞を狙ってる」
         異様に信憑性の高い噂が学校中を駆け巡り、香里は怒り、
        北川は怒られ、栞は面白がり、祐一は巻き込まれる。
         いつ何時どこででも巻き込まれる男を描いて男の好日とは
        何かを問う。




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