かのんイズム6






    まえがき

      この話は自称常識的一般人である相沢祐一の目を通して
      彼の周りの破天荒(キチ)な人物たちを描き、男の好日
      とは何かを問う話です。
      警察法とか窃盗は現行犯じゃないととか色々あるでしょ
      うが、なにしろ男の好日とは何かを問う話なので仕方が
      無いと諦めてください。


 昼休み、学食から帰ってきて俺たちは駄弁っていた。
 しばらく話していると、いつもは一番うるさい男が静かなのに気付く。
「北川……なにしてんだ?」
 後ろを見れば、北川が紙にボールペンでなにやら書きこんでいた。
「ああ、バイト許可願い出さないといけないんだ」
 そういえば、うちの学校は基本的にバイトは許されておらず、止むに止まれぬ事情があ
る場合は特別に許可を出してもらうようになっているんだったな。まあ、止むに止まれぬ
事情というのもその審査は担任に一任されているために、先生によってその緩急はまった
く違うと聞いた。
「一ヶ月ごとに出さないといけないからけっこう面倒臭いんだよなあ」
 北川は苦笑しながらボールペンを動かし続けている。
 えっと、どれどれ……。
「お前、新聞配達してるのか」
「おう」
 手元を覗き込んで尋ねたら手を止めずに答えた。
「朝刊だけだけどな。夕刊は、学校がちょっと遅くなっただけで間に合わないから」
「うちへの新聞も北川君が配達してるんだよー」
 名雪が、相変わらず何がそんなに嬉しいのかというほどに嬉しそうにいった。
「お母さん、感心してたもん」
「おう、秋子さんには何度か朝飯誘ってもらったんだけど、水瀬んちって俺の配達ルート
の真中にあるんだよなー。最後の方で時間があったらお呼ばれするとこなんだけど」
「お母さんが朝起きて朝ご飯の仕度してると遠くから北川君の声がするんだって、うおお
おおおーーーって」
「自転車だからな、気合入れないと」
 笑いながら北川はいう。俺らの歳だと原付免許ならば取得できるが、学校に禁じられて
いるので、自転車でやっているらしい。
「バイクより速いって評判なんだぜ」
 と、北川はいう。
 で、俺たちと話しながらも、北川は用紙の欄を埋めていく。
 理由の欄には「やらないと食えない」と書いていた。切実である。
「よっし、そんじゃ美坂、ハンコくれ」
「……なんであたしが……」
「保護者のハンコがいるんだよ」
「……いつからあたしが北川君の保護者になったのよ」
 盛大に溜息をつく。
「いや、こないだから」
 そういえば、久瀬が保護者指定したとかいってたなあ。(かのんイズム4参照)
「頼むよー、他にいねえんだよ」
「お前、今までどうしてたんだよ」
「ああ、自分のハンコ押してた。親に押してもらったって嘘ついて」
 北川は辛そうにいった。馬鹿なだけでなく馬鹿正直な奴でもあるので、嘘をついていた
のが後ろめたいのだろう。
「……ったく、しょうがないわねえ。明日でいい? 印鑑なんて持ってきてないわ」
 それを見かねてか、香里が用紙を手に取っていう。
「おう、ありがと」
 にへーと笑う。
「お前、バイトして一人暮しして、大変だな。家賃払って、あとは食費と光熱費だろ」
 とてつもない馬鹿ではあるが、生活力はあるのだろう。その辺りは俺も名雪も香里も素
直に尊敬している。
「まー、なんとかなってるよ、勘当された時に高校を卒業するまでにかかる金を大体で貰
ったしな」
「金?」
「手切れ金みたいなもんだな。これでもう親と思うな、っていってくれたんだよ。んなも
ん、こっちは最初っからもう二度と親なんて思わないつもりなんだから、はいそうですか、
って貰っておいたよ。まあ、それでもできるだけそれに手ぇつけたくないからバイトして
るんだ」
 うあ……。
 名雪も香里も、北川をすっげえ気遣わしげな目で見ているのだが、なにしろ本人がのほ
ほんといつもの笑顔でいうので余計痛々しい。
「北川君、寂しくないの?」
 名雪が遠慮がちにだが聞いた。香里も、真剣な顔をしている。この二人は色々あって家
族というものへの執着が強いようだ。
「んー、寂しいもなにも……一緒に住んでた頃は楽しいことなかったからなあ。今の方が
いいなあ」
「そうなんだ……」
「バイト先も、住んでるアパートもいい人らばっかりだし、学校来たら美坂たちがいるし、
特に不満は無いぞ」
 んー、これは喜んでいいんだろうか。
「でも、心の通い合う家族っていいものですよ」
「ぬあ!」
 いきなり後ろから声をかけるなと何度もいっているのに、こいつは……。
「栞、びっくりするだろ」
「ふふふふふ、ごめんなさい」
 絶対反省してねえな、こいつ。
「それはそうと北川さんっ!」
「ん?」
「家族はいいものですよ。私は両親とお姉ちゃんを愛しています」
「あー、そりゃ、栞ちゃんたちの両親はいい人だけどさー、俺のあれは駄目なんだってば、
顔見たら喧嘩なんだから。そういや昔、遠くに出かけてはぐれそうになったことあるんだ
よ。ありゃ絶対に捨てようとしてやがったな」
「子供は親を選べませんからね」
「そうそう」
「でも、私は思うんですが家族って血が繋がってないといけないものでしょうか」
 栞は、そういうと、俺と名雪を見る。
「私、もちろん自分の家族も好きですけど……祐一さんたち四人の家族が凄い好きなんで
す」
「え?」
「わたしたち?」
 俺と名雪が驚いていると、栞は頷いた。
「名雪さんと秋子さんはともかく、祐一さんは血が繋がっているとはいえ今まで離れて暮
らしてて、真琴さんはそれこそ血の繋がりが無いじゃないですか」
 んー、いわれてみれば、うちはそういうややこしい家族構成だったのだなあ。
「そんな四人が、ずっと一緒に暮らしてきた家族みたいで、凄いと思います」
「そうね、あたしもそれは思ってたわ。名雪、あの子のこと本当の妹みたいに可愛がって
るものね」
「そうかなあ」
「そうですよっ! そこで……北川さん!」
「んむ?」
 話の主題が自分から水瀬家に移ったものと思いこんで油断していたのか、突如栞にいわ
れて北川が妙な声を出す。
「今までの話を踏まえまして」
「うん」
「今日、うちに晩御飯食べに来てください」
「なんでそうなるのよ」
 北川が返事をする前に逸早く反応したのは香里だった。
「だって、北川さんが一人暮しして毎日大変だっていったらお母さんが是非に、っていう
から」
 にこにこと笑いながら栞がいうのに、香里は頭を抱えた。聞いた話だと、北川の奴は二
人の両親に気に入られてるらしい。
「どうですか、北川さん」
「おう、喜んで御馳走になるぞ」
「ちょっと……」
 香里が何か文句をいおうとして口を挟みかけたが、
「今月は苦しくてなー」
 と、北川がいうのを聞くと、口をつぐんだ。……そういや、香里の奴、ここんとこ頻繁
に北川に奢らせてたな。香里が栞にアイスを奢ってその香里は北川に奢ってもらうという
妙に手間のかかることをしていた。
「一人暮しは大変でしょうし、何かできることがあったらいってくださいね」
「うん、ありがと、栞ちゃん」
「……ま、いいけど」
 全然よくなさそうな顔で香里がいった。
「あ、一人暮しといえば」
 名雪が突如何か思い出したらしく話を振ってくる。非常に珍しい事態にみんなして机な
どを掴んで魚雷接近中の軍艦乗りみたいな対ショック姿勢をとる。……ノリのいい連中だ。
「あゆちゃん、大丈夫かな、ちゃんと暮らせてるかな」
「ん、あゆか……」
 名雪の言葉に、俺は思わず声を落としてしまう。
「そういえばあゆさん、退院したんですよね」
 栞が我が事のように嬉しそうにいう。いや、実際完全な他人事ではないのだ。七年間の
昏睡から目覚めてリハビリのために入院生活を送るあゆを俺らの間で一番多く見舞ってい
たのは栞だった。
「あれ? あゆちゃん、お前らと一緒に住んでるんじゃないのか?」
 北川がいうと、香里も頷く。
「秋子さんが引き取るっていってたんじゃなかったっけ?」
「いや、それが……」
 あゆの奴は秋子さんの申し出を断って、一人で生きていくことを選んだ。そこまで世話
になれない、と。
 親の残した財産もあるし、なんとかやっていけるからと。
 困ったことがあったらいつでも頼ってこいと強く言い聞かせて、俺は、あゆのことを見
守ることにした。と、いってもここ一ヶ月ぐらい会っていない。電話をしても今忙しいと
いわれてあまり話してもいないのだ。俺と同い歳の女の子がバイトをしながらの一人暮し、
当然暇なわけは無い、辛くないわけは無い。名雪が心配をする気持ちもわかる。
「ね、今度あゆちゃんをうちに招待しようよ」
「ああ、そうだな」

 翌朝、登校すると香里が少々沈んだ表情であった。その隣の北川はえらい機嫌よさそう
である。と、なるとこいつが原因の可能性が高い。
「香里、どうした?」
 俺は軽い調子で尋ねた。
「……昨日、家に帰って、疲れたから一眠りしてたの」
「うん」
「夜の八時頃に目が覚めて居間に行ったら……お風呂上りの父さんと北川君が将棋を指し
てたの。和気藹々と」
「そうか」
「……はあ」
 たぶん、また散々聞いたんだろうなあ、父の「いい青年じゃないか」を。
「おう、美坂の親父さん、将棋凄い強いんだよ。十回やって一回勝てるかどうかだったぜ」
 北川が話に加わってきた。
「へえ、そうなのか」
「ヘボ将棋よ。二人とも」
 即座に香里が断言する。
「北川君が父さんの王を角で取れるの二人とも気付かないでずっとそのまま指してるんだ
もの」
「ああ、俺も親父さんも俺の方の王ばっかり見てて気付かなかったんだよ」
 なるほど、ヘボだ。
「あ、そういえば相沢」
「なんだよ」
「昨日、あゆちゃんに会ったぞ」
「え、本当か?」
 俺が、北川の言葉に反応して腰を浮かせてしまったのにはわけがある。昨日、家に帰っ
てから、早速あゆを呼んでやろうと電話をかけたのだが、少し話すと忙しいからといって
切られてしまったのだ。なんだか、何かを隠されているように感じて、ずっと気にしてい
たのだ。
「どこで見たんだ?」
「いや、なんか、隣の部屋に引っ越してきた」
「……はあ?」
「美坂んちで飯食わしてもらって、十時頃に家に帰ったら、空いてたはずの隣の部屋に電
気がついててな」
「ああ」
「丁度前通った時に、あゆちゃんが出てきたんだ。話を聞いたら、前に住んでたところは
家賃が高いんで越してきたって」
「えーっと、お前が住んでるところって」
「三畳一間、風呂無し共同便所。家賃一万円。築……40年っていってたかな」
「だよなあ」
 何度か行ったことがある。
 ううーむ、実際あそこに住んでる北川らには悪いが、いい環境……とはいえないよなあ。
そこに女の子が一人暮しって、大丈夫なのか。それよりもなによりも……。
「あいつ、生活苦しいのか」
 しょっちゅうすっ転んでうぐうぐ泣いている奴だが、変に精神的に強いところがあって、
ギリギリまで耐えて助けを求めないのではないかと心配はしていたのだが。
「引っ越し祝いにたい焼き買ってきてあげたら貪るように食ってたぞ」
「うーむ」
 これは、放課後行ってみるべきか。
 そういうわけで、北川と一緒に俺はあゆが引っ越してきたという北川の隣室を訪ねるこ
とにした。名雪も来たがったが、部活のため断念。あゆに会いたいという栞と、栞が行く
ならと香里が着いてきた。
「いやー、嬉しいなあ」
 北川はさっきからずっと上機嫌だ。
「美坂が来てくれるなんて」
「……別にあなたの家に行くわけじゃないわよ」
 香里が釘を刺す。
「いやー、そうじゃなくっても、美坂が俺んちの近くに来るというだけで嬉しいんだよ」
 けど、さっぱり効果無し。
「ほら、着いたぜ」
 やがて到着した。何度か来たことのある俺はともかく、香里と栞は物珍しそうにそのア
パートを見る。
「北川さん、あのドラム缶はなんですか?」
 アパートの建物と壁の間にちょっとしたスペースがあり、そこにドラム缶が置いてある。
「ああ、風呂。ここ風呂無いから。大家さんの好意で、ドラム缶風呂沸かして入ってる」
「え、え、でも、表を歩いている人に見られませんか?」
「見られるけど、まあ、俺は気にしないから。他の連中も」
「……あんたら、その内猥褻物陳列罪で捕まるわよ」
 香里が溜息をつきながらいった。
「あゆちゃん女の子だから、一番風呂入れたげようとしたら断られた」
 ばこん、と一発、香里さんのスナップを効かせまくった裏拳が炸裂。
「当たり前でしょう。女の子にそんなデリカシーの無いこといわないの!」
「うん」
 香里のいうことなので素直に頷いているが、どーせすぐに忘れるだろう。それがわかっ
ていながらいちいち矯正する香里も付き合いのいい奴だ。ま、この馬鹿の馬鹿行為はけっ
こう馬鹿の善意が元だったりするので本気で怒れないのだが。……それが厄介ともいえる
な。
「よし、こっちだ」
 北川が先に立って、二階への階段を上がる。
 二階の奥の隅っこが北川の部屋である。俺はそれを知っていたので、あゆの住んでいる
部屋もすぐにわかった。
 その部屋の前に、二人の警察官がいて、何やら話していた。
「あ、どーも」
 北川が親しげに声をかける。
「ああ、北川君じゃないか」
「なんだ。君はここに住んでいたのか」
「どーしたんすか?」
 こいつ、なんで警察官の知り合いがいるんだ。……そりゃまあ、いつ何時でも警察の厄
介になりそうな男ではあるけど……。
「相沢君、ほら、あの時の」
 香里が脇腹をつんつん突付いてくる。
「あ、そうか」
 以前、北川と栞が二人で出かけるというので尾行した時に、どう見ても変質者にしか見
ようがないパンツ一丁の北川に心の底から感心していた警官たちだ。(かのんイズム2参
照)
 なんかあれからまた色々あって親しくなったらしい。
「ここの部屋の住人のことなんだけど」
「あゆちゃんがどうかしたんすか?」
「うん、月宮あゆなんだが、実は……」
 警官が眉をひそめてその名を口に出すのに、俺が平静でいられるわけもなかった。
「ちょっとすいません、あいつ、何か事件に巻き込まれでもしたんですか?」
 思わず、北川を押しのけるように前に出て尋ねていた。
「ああ、実は、月宮あゆを無線飲食の容疑者として連行しに来たんだよ」
「ええっ!」
 俺ばかりではなく、その場にいた全員が声を上げる。
「既に100回は商店街のたい焼き屋で品物を受け取って金を払わないで逃走する、とい
う犯行を繰り返しているんだ」
「そ、そうなんですか」
 確かに、あいつのたい焼き食い逃げは常習といっていいほどだったが、まさか警察が本
格的に動き出すとは……これまでそれを知りつつ見過ごしてきた俺たちにも責任はある。
「店主がこれまで被害届を出さなかったので我々は動いていなかったんだが、この度、無
線飲食を徹底的に取り締まることになってね、情報を集めたら真っ先に月宮あゆの名前が
出てきたわけだ」
 どうも警察が本腰入れてるらしいな、これは非常にまずいぞ。ここは、あゆに一刻も早
く自首させるべきだ。未成年だし、一応……初犯だし、鑑別所とかに収監されることはな
いだろう。
「お巡りさん、俺らに説得させてくれませんか? 自首させますから」
「ふむ、自首すれば罪は軽くなるからね。いいだろう」
 話のわかる(北川の一件から鑑みると「わかりすぎる」ようだが)人たちのようで頷い
て承諾してくれた。
 俺は、軽くドアを叩く。
「あゆ、いるか?」
 何度か声をかけると、
「……祐一くん?」
 中からあゆの声がした。
「どうしてここが……」
 やや困惑気味の声だ。
「北川に聞いてな、ちょっと様子を見に来たんだ」
「あ、そうか。北川君に聞いたんだ」
「それでな……」
 俺は少し迷ったが、はっきりといった方がいいと判断したので、単刀直入にいうことに
した。ここに警察官が来ていることを告げ、自首することを薦める。
「う、うぐぅ! 嫌だよっ」
 中からはあゆの頑なな声が返ってきた。
「あゆ、今の内に自首すれば軽い処分で済むから」
「嘘だよ、そんなの嘘だよっ!」
「嘘じゃないって、お巡りさんもそういって……」
「嘘だよっ。捕まったら特等鑑別所に入れられるんだよっ」
 特等鑑別所って、こいつは漫画読んで変な影響受けとるな。真琴みたいな奴だ。
「あゆ、そんなことはないから、な」
「嘘だよ。特等鑑別所ではイジメの毎日だよ。新入りは人身御供に毎日ケダモノのような
看守にいやらしいことをされるんだよっ」
「いや、だからそんなことないって」
「嘘だよっ。女囚あゆだよ」
「わけのわからんこというな!」
「う、うぐぅ」
 あ、いかん。怯えさせてしまった。
「祐一さん。ここは私に任せてください」
 栞がそういうので、俺は場所を譲った。ドアの前に立った栞が優しく呼びかける。
「あゆさん、とにかく顔を合わせて話をしましょう」
「そ、それじゃ、栞ちゃんだけ部屋に入っていいよ」
 少しだけ、ドアが開いた。一瞬だけ、その隙間に足突っ込んでこじ開けて突入すること
を考え、身体も動きかけたが、それではあゆだけでなく栞までも傷付けてしまうことにな
る。
 思い止まった俺の肩に、香里が手を置いた。
「栞に任せてあげて」
 振り向くと、とても優しい笑顔でいった。
「ああ」
 俺は、頷いた。
「それじゃ、失礼します」
 栞が、ドアの隙間から部屋に入る。すぐにドアは閉じられて、鍵を閉じる音がした。
「えうぅぅぅっ!」
 悲鳴が聞こえたのはその直後だった。ハッとして俺たちは顔を見合わせ、ドアを連打す
る。
「おい! どうしたんだ、栞! あゆ!」
「えうー、止めてください。あゆさん」
 中からは相変わらず栞の悲鳴。
「し、栞ちゃんを人質にとったよ!」
「コラ、あゆ! なんてことしやがるんだ、お前は」
「栞!」
 香里が取り乱して叫んでいる。今にもドアを蹴破らんという感じだ。んでもって、実際
にこのアパートのうっすいドアなら香里の一蹴りで粉砕されるであろう。
「入ってこないで! この部屋に入ろうとしたら人質にタバスコをかけるよっ!」
「そんなことされたら死んじゃいますよぅ〜」
 そんなもん脅しになると思ってんのか、この馬鹿たれ。
「かまわねえから突入するぞ!」
 いった直後に後ろに引かれた。香里だ。
「そんなことしたら栞がタバスコかけられて死んじゃうじゃないの!」
 脅しになってます。
「これは長期戦になりそうですね」
「うむ、やむを得ないな、応援を呼ぼう」
 警官二人が話している。ああ……大事にならないようにしてたのに、結局こういうこと
になるのかよ。
「えらいこっちゃえらいこっちゃ、どうしようどうしよう」
「栞、栞、栞、栞、栞ぃ〜」
 とりあえず、北川と香里はパニくってしまっている。
 しかし、いくら警察が無銭飲食の取り締まりに本気になっているといっても、所詮は三
畳一間の部屋に小さな女の子が小さな女の子を人質にして立てこもっているだけのことだ。
応援といっても、警官があと数人来るくらいだろうし、そんなに絶望的なほどに大事にな
るわけではないだろう。
 やがて、警官が頼んだ応援が到着した。
「何を好んで謗りを受ける。損は止めろといわれても、信じているんだ太陽を♪」
 む……これは。
「この世を花にするために、鬼にもなろうぜ機動隊♪」
 これは、機動隊愛唱歌「この世を花にするために」か。ってことは……。
「県警機動隊第一小隊、到着しましたっ!」
 大事だ。

 あゆの部屋の前にジュラルミンの大盾が並んでいた。
「あーあー、犯人に告ぐ。犯人に告ぐ。何か要求があれば聞こうじゃないか」
 その後ろから、県機の小隊長だという人がスピーカーで呼びかけている。
「そ、それじゃ、今食べるたい焼きと後で食べるたい焼きと、逃走用のたい焼きをよこす
んだよっ!」
 こいつはたい焼きでどう逃げようというのか。
「よし、たい焼きだな」
「あ、それからアイス……え? バニラ? うん。えーっと、バニラアイスもだよ!」
「すぐに用意させるから人質には危害を加えるなよ」
「わかったよ」
 とりあえず、事態は膠着状態になっている。
 ……なんか、背中とか後頭部とかにチクチクするものを感じて俺は振り返った。
「相沢君」
 振り返らなけりゃよかった。
 睨んでる睨んでる。めっさ睨んではるで。
「なんで、月宮さんがドアを開けた時に足でも手でも突っ込んでこじ開けて突入しなかっ
たのよ!」
 いや、ちょっと待ってくださいよ。
「栞になにかあったら責任取ってもらうわよ」
 さっきの無茶苦茶いい笑顔はなんだったんだ。
  膠着状態は続いた。
「早くなんとかしてください。栞は、今でこそ元気そうですけど、元々病弱で、精神に負
担を与えたら何が起こるかわからないんです」
 香里が、必死に警官に掛け合っている。
「たい焼き♪ たい焼き♪」
「アイス♪ アイス♪」
 いや、部屋から漏れ聞こえる声を聞く限りはあまり精神に負担はかかってないようなん
だが……。
「うーん、それだと、考えられるのはとりあえず人質交換だね」
 警官がいうや、北川が前に出た。
「よし、俺が代わりに人質になるよ」
「北川君……」
「俺、栞ちゃんのこと好きだし、美坂は怒るかもしれないけど……ちょっと、妹みたいに
思ってるんだ」
 北川が照れ臭そうにいうと、香里は横を向いて「お願い」と一言だけいった。
「よし、それじゃお巡りさん。お願いします」
「うむ。……あー、犯人に告ぐ犯人に告ぐ」
「な、なにかな」
「人質は病弱で長期の疲労心労には耐えられない。そこで、人質交換に応じてもらいたい」
「……誰が来るの」
「俺だよ、あゆちゃん」
「北川君……」
「お願い、月宮さん。栞はまだ病み上がりなのよ」
「それじゃあ……あ、駄目、駄目だよっ!」
 ちょっと同意しかけたかに見えたあゆが突如拒絶反応を示す。
「もう少しで騙されるところだったよ。盗聴機を隠し持って来ようという魂胆が見え見え
だよっ」
「おい、わざわざそんなことせんでも、薄い壁越しに部屋の中の物音は筒抜けだぞ」
「うぐぅ、そうなの?」
「そうだよ、だから……」
 と、俺が説得していたら……。
「よし、わかった。それじゃあ、フルチンで行こうじゃないか」
 力一杯断言する北川。いった次の瞬間にはベルトを外している。
「うぐぅ! そんなの駄目っ。人質にタバスコをかけるよっ!」
「えうー、止めてください」
「止めなさい!」
 栞の声を聞くや否や、香里さんが左手で北川の襟を掴んで引きつつ右の掌底で顎を横か
ら打ち抜く。首もげんじゃねえか、というぐらいの勢いで香里さんの左右の手が交差する
と、北川が真下にストンと崩れるように倒れた。
「大体、そんなことしたら栞にも見えちゃうじゃない!」
 さらにストンピング。
「でも、どうせ私、昨日の夜に脱衣所でお風呂上がりの北川さんと鉢合わせして見ちゃい
ましたし」
 ドアの向こうから聞こえる微かな声。
 見ちゃいました、ってのはあれのことだろうな。
「何してんのよ、あんたはぁ!」
 ストンピングストンピングストンピングストンピング……いい加減死ぬんじゃなかろう
か。
「えへ、妹想いの美坂って可愛いな」
 効いちゃいませんでした。
「しょうがないわ。あたしが代わりに人質になるわ」
 ボロ雑巾と化した北川に背を向けて、香里が凛とした表情でいった。
「それでどうかしら、月宮さん」
「……香里さんは怖いから嫌だよっ」
 散々北川が踏みつけられる音を聞いたからには無理も無いわな。
「それじゃあ、誰ならいいのよ!」
「……祐一くんなら……」
 はい?
「相沢君。頼んだわよ」
「いいなあ、相沢、役に立てて」
 俺ですか!?
「隙を見て取り押さえるのよ」
 香里が耳打ちしてくる。
「そうか、わかった」
 俺なら、多少タバスコ引っ掛けられたって大丈夫だからな。
「それじゃあ、まず祐一くんが一人で部屋に入ってくるんだよ。変な素振りをしたら洗面
器に浸したタバスコに栞ちゃんの顔をつけるよっ」
「わかったわかった」
 俺はゆっくりとドアを開いて中に入る。
「ほら、栞を解放してやれ」
「わかったよ」
 あゆが栞から手を離す。
「ありがとうございます。祐一さん」
「おう、早く行け。香里が心配してるぞ」
「はい」
 栞はペコリと頭を下げて出ていった。
「さて、あゆ」
 いいつつ、部屋を見回す。北川の部屋に来たことがあるので間取りは承知していたが、
改めて入ると狭い。だから、家具もロクに置けないらしくタンスが一つあるだけだ。
「あゆ……お前、なんで……」
 秋子さんが誘ってくれたのに、なんで……。
「祐一くんのいいたいことはわかるよ……でも……」
 俺だって、あゆのいいたいことはわかる。でも……。
「あゆ、お前。最近の食い逃げは……金を忘れたからじゃないんだろ」
「……」
「そんなに苦しいなら、なんで俺や秋子さんを頼ってこないんだよ。困ったことがあった
ら、いつでも頼ってこいっていったじゃないか」
「う、う……祐一くんは人質なんだからおとなしくするんだよ」
「あゆ!」
 俺は、手を伸ばしてあゆの手を掴んだ。
「抵抗するとこれをかけるよっ!」
「タバスコか、そんなものは……」
「違うよ、硫酸だよっ!」
「は? なんでそんなもん持ってるんだよ」
「栞ちゃんが持ってた。アイスと交換に貰ったんだよ」
 あ、あのマッド薬剤師(無免許)はなんちゅうことしてくれとんじゃ。いや、そもそも
硫酸は薬ですらないが。
「相沢君! どうしたの! 月宮さんは取り押さえたの!?」
 表から香里の声が聞こえる。
「すまん……人質に取られた」
「は? 何やってんのよ」
「お前の妹から犯人に硫酸が渡ってんぞコノヤロウ!」
「なによそれ、栞、どういうことなの」
 香里がドアの向こうで栞を詰問しているようだ。
「えうー、タバスコが怖かったんですよぅ」
「あ、栞、泣かないで。それは怖かったわねー、お姉ちゃんがいるからもう怖くないから
ねー」」
 一瞬、沈黙。
「相沢君。栞は悪くないわ。そうよね」
 もちろんっす。
「無理矢理部屋に入ってこようとしたら人質を犯すよっ!」
 いかん、犯される。
 なんじゃかんじゃで、また膠着状態に陥ってしまった。
「ゆーうーいーちー!」
 む、あの声は……名雪か。
「香里、祐一は中なの?」
 どうやら、香里が呼んだようだな。
「祐一、無事なの!? あゆちゃん、祐一を返してよ」
 泣きそうな声が聞こえてくる。
「名雪さん……」
 あゆの顔に困惑が浮かぶ。そういえば、こいつは水瀬家に泊まりに来た時に名雪の部屋
で寝ていて、仲良くしてたな。
「落ちつきなさい、名雪!」
「そうだよ、相沢のことだからそう簡単にくたばるもんか」
 お前にそういわれるとは光栄だ。
「駄目だよ〜、早くしないと、いつまでも二人きりにしたら、祐一があゆちゃんを襲うよ!」
 ……貴様、俺をそんなふうに思ってやがったのか。
「お、襲ったら舌を噛むよ……」
 あゆがガタガタ震えている。
 くそ、なんで俺がこげな扱いを受けにゃならんとですか。
「あ……」
 突如、あゆが小さく声を上げた。
「どうした?」
 その声が弱々しく、おどおどとしたものだったので俺は真面目に心配して声をかけたの
だが、あゆは「なんでもないよっ!」といってそれきり黙ってしまった。
 やがて、小刻みに足踏みを始める。
「あゆ……お前……」
「な、なんでもないよっ! なんでもないっていったらないよ!」
「……トイレ行きたくなったろ」
「うぐぅぅぅぅぅ!」
 真っ赤になったあゆがポコポコパンチで肩を叩いてくる。
「ここは共同便所だからなー、部屋の中には便所が無いんだよなー」
「う、うぐぅ……」
「あゆ、ここらが潮時だろう。まさか洗面器にするわけにもいかないだろ」
 あゆは、羞恥に顔を染めながらも、いった。
「トイレに行くよ」
 そういうわけで……。
「近付かないで、少しでも近付いたら人質に硫酸をかけるよっ」
 こういうことになった。
 俺はあゆに引っ張られるようにして部屋から出て、共同便所へと入った。
「で、入ったはいいけど、どうするつもりだ」
「……」
 あゆは右手に硫酸の入った瓶を持ち、左手で俺の腕を掴んでいて両手が塞がってしまっ
ている。
「俺がパンツ下ろすか?」
「うぐぅぅぅぅ!」
 ポコポコ殴られる。まあ、今のは俺がアレだけどさ。
「ぼ、ボクは逃げるよ。ボクのことは忘れてください」
「おい」
「動かないで!」
 叫んで、あゆはトイレにある小さな窓から身を躍らせた。よう通るな、こんな狭いとこ。
っていうか、ここは二階だぞ。
「あゆ!」
 あゆは、窓のすぐ下にある隣家との境界線にある壁の上に着地して、その上を走ってい
くところだった。
「あゆが逃げた!」
 ドアを開けて、俺は叫んだ。
「……よく通るわね、こんなとこ」
 トイレの窓を見て、香里が俺と全く同じ感想を述べる。
「くそ、まさかあそこを通るとは、不覚じゃあ!」
 小隊長が指揮棒を床に叩きつけた。
「逃がすな、ひっ捕らえい!」
 機動隊がドカドカと床を踏み鳴らして外に出ていく。
「うう……やっぱり、逃げたら処分重くなるのかなあ」
「もう、こうなったら私たちであゆさんの身柄を確保するしかありません」
 栞が握り拳を作りながらいう。
「いや、でもな、警察が探してるんだぞ、俺らが先にあゆを見つけるなんて……」
「あゆさんが行きそうなところとかを探すんです。そういう情報は私たちにあって警察に
はありませんから」
 む、そういわれるとそうだな。
「それじゃ、警察に聞かれる前にこっそりここを出ましょう。唯一優位な点ですからね、
絶対に教えちゃ駄目です」
 なんつーか、めっさ張り切ってますね、栞さん。
 コソコソとアパートから離れる俺たち、遠くから見ると、アパートの前で機動隊員たち
が整列している。そこへ、新たに人数が加わっていた。
「第二小隊、到着しましたっ!」
「応援ご苦労さまです!」
 ポリさんら、他にやることねえのか。
「よし、とりあえず商店街に行こう」
 そして、商店街に着いた俺たちは手分けしてあゆのことを探すことにした。
「十分後に、一度ここに集合しよう」
「うん、わかった」
「わかったわ」
「わかりました」
「おう」
 俺たちは散った。歩きつつ、時々道行く人に聞いてみるのだが成果は無い。
 そろそろ十分になるので最初の場所に行くと、名雪と香里が既にいて、俺と同時に北川
も戻ってきた。
「駄目だよ、全然見つからないよ」
「こっちも駄目だったわ」
「悪ぃ、俺もだ」
「……栞はどうした?」
「戻ってこないのよ」
「でも、約束の時間からもう二分経ってるぞ」
「ちょっと、遠くまで行き過ぎたんじゃないかな」
 名雪がそういった直後だった。
「お姉ちゃ〜ん」
 少し離れたところから微かに声が聞こえた。
「お、戻ってきたか」
「でも、なんか、ちょっと悲鳴みたいな声だったよ」
 そういえば確かに……。
 香里が、すぐにその声の方向へ走り出していた。俺たちも一瞬遅れて続く。
「栞〜!」
 ヤクザが道を譲りかねない気合の入った声で愛する妹の名を呼びつつ香里さんが走る。
その先にいる一般人の方々は悉く左右に避けて、そこそこ混雑した商店街に一本の道がで
きていた。
「栞!」
「お姉ちゃん!」
 栞は、どう見てもあまりガラのよくなさそうなのに周りを囲まれていた。
「どうしたの?」
「あゆさんのことを聞こうとしたら、この人たちが離してくれないんです」
 香里が、キッと男たちを睨みつける。
「その、あゆ? そのお話聞くために喫茶店でも行こうっていってただけだよぉ」
「俺、この姉ちゃんのほうがいいなあ」
「俺は妹の方が」
「相変わらずそっち趣味だな」
「うっせえな」
 好き勝手なことを喋っている男たち。栞が「そんなこという人嫌いです」と呟き、それ
が香里さんの耳に入ったとも知らずに。
「いいから、うちの妹返してちょうだい、さもないと……」
「さもないと、なんだよ?」
 男の一人が、ずいと顔を突き出して香里に近付ける。
「痛い目に合うわよ」
「へっ」
 完全に馬鹿にした笑みを漏らして、男はさらに顔を近付ける。
「……」
 香里さんはその眼光にもさっぱり怯まずガンの飛ばし合いを受けて立っている。殺る気
っすね。
「っだらあ!」
 何かをいおうとした男に横から拳がぶち当たってきた。こめかみを思いきり打ち抜かれ
て男が倒れる。
「コノヤロウ!」
 男を殴り倒したのは、北川だった。
「この!」
 倒れた男を蹴り付ける。明らかにいつもの様子と違う。
「てめえ、なに美坂の吐いた息吸ってんだ、コラァ!」
 もう一発蹴った。
 相変わらず香里が絡むとキレる角度が予想できない。
「美坂が吐いた息を一秒以内に吸うのは許されねえんだ!」
 襟首を掴んで引き起こす。
「俺だっていっつも我慢してんだぞ、畜生!」
 そんなもん我慢してたのか、この馬鹿。
 ……もっと他に我慢するもんがあるだろ、お前は。
「こ、こいつ!」
 他の男たちがようやく事態を理解して襲いかかってくる。
「来い、コラァ!」
「ちょっと北川君、あたしにも取っておいてよ」
 あーもー、こんなことしてる場合じゃないのにぃー。
「待て、喧嘩は止める」
 後ろから声がした。やば、警察か!? なにしろ今この近辺は非常に警察関係の方々の
密度が濃くなっている。
「みんな迷惑する。よくない」
「舞じゃないか!」
 そこにいたのは舞だった。以前に会った子分だという三人組(かのんイズム3参照)も
引き連れている……っていうか、なんかその後ろにまた何人かいるけど、こいつらも連れ
か?
「なんだぁ……てめえら。人の喧嘩に口出すんじゃねえよ」
「おい、待て、こいつらまさか……」
 男たちがボソボソと耳打ちし合っている。
「か、川澄連合会!」
 そういうことになってるのでありますか。
「喧嘩、止める」
「も、もちろんっすよ。川澄会長に逆らおうなんて、なあ?」
「ああ、喧嘩なんてしませんから」
「それじゃ、俺たちはこの辺で、ども、すんませんでした」
 ペコペコしながら男たちが去っていった。
「川澄さん、どうもすいませんでした。ほら、北川君も謝る」
「すんません」
 香里と北川が舞に謝る。
「ちょっと前から見てた。北川は、香里のことが本当に好き」
「あっはっは、大好きです」
「とても、いいと思う」
「川澄さんにそういわれると元気出ます」
「……あんまりこの馬鹿に元気与えないで欲しいんですけど」
 ブツブツと香里が呟いている。
「そういえば、舞。連合会とか会長ってのはなんだ?」
「それはわしから説明させてもらいまっさ」
 舞ではなく、その後ろの大男が答えた。
「先日、姐さんはここいらのチームを統一しはって、その連盟の川澄連合会を結成されは
ったんですわ」
 また、ちょっと見ないうちに太うなりよったな。
「暇だったら、なんか食べに行く」
「あ、いや、暇じゃないんだ」
 そうだ。あゆを探してたんだ。思わぬところで時間を食った。
「実は、あゆを探してるとこなんだ。ほら、舞も何度か会ったことあるだろ」
「あゆ……あゆ……うぐぅ?」
「そうだ、うぐぅだ」
「それじゃ、みんなに探させる」
 舞がいった。そうか、こいつは今や大勢の子分を持っているんだ。
「頼む、舞」
「あの子のこと、かなり嫌いじゃないから」
 舞は、そういって、微かに笑みを浮かべた。他の奴が見ても無表情だろうけど、俺には
わかるのだ。
 それからまた皆で探したのだが、一向に見つからない。
「いい加減、腹減ってきたな」
 そういえば……ここからたい焼き屋が近いな。
「ちょっと、たい焼きでも食うか」
 俺は、みんなを誘ってたい焼き屋へと行った。
 いつもの親父が、たい焼きを焼いている。
「すいません、たい焼きください」
「はいよ」
 言葉短く答えて親父がたい焼きを焼き始める。
「あの……あゆの奴は、いや、来てないっすよね」
 さすがに、あれからここには来ていないだろう。
「あの子のこと、みんなで探してるみたいだな」
 親父が、いった。
「警察が来たので話したら、大事になってしまったようだな」
 いいつつ、手際良くたい焼きを作っている。
「あの……一度お聞きしたかったんですけど、なんで被害届出さないんですか?」
 何度も同じことされて、警戒している様子も無い。
「あゆに、同情してるんですか?」
 まさか、この親父があゆのことを知っているとは思えないが、薄々察しているのかもし
れない。
「あの子は、いい目をしているからね。いい子なんだろう」
 一つ二つと焼けたたい焼きを紙袋に入れる。
「いつかあの子は……」
 それきり、親父は口をつぐんだ。紙袋を差し出してくるので、俺は金を払った。
 たい焼きを分配して食べていると、少し離れたところで何やら子分の話を聞いていた舞
がやってきた。
「あゆが見つかった。公園」
「そうか、よし、行こう」
 公園に移動すると、段平を背負った男が近付いてきた。
「どこ?」
「すんません、すばしっこくて捕まえとりゃせんのです。でも、すぐに公園の周り封鎖し
ましたけえ、必ずこの中にいるはずですけん」
 うーむ、とうとう追い詰めたか。でも、これだけ大掛かりな動きをしていると、警察も
察知するだろう。
「いいこと考えたぞ、相沢」
 北川が嬉々としていう。
「ちょっと待ってろ」
 どこかに走って行って五分後、どっから調達してきたのかでかい籠と棒とロープを持っ
てきた。
「たい焼きまだ残ってるよな」
 俺が渡すと、紙袋を地面に置き、その上にたい焼きを乗せる。
 まさかとは思うが……。
 ロープを結びつけた棒を立てる。
 その上に籠の縁を置いて籠を斜めにする。
「よし、隠れろ!」
 ここまでの馬鹿だったのか、お前は。
 しょうがないので、いわれるままに隠れる。
「あ! たい焼きだ!」
 隠れて一分後にあゆ登場。
「わーい!」
 たったったっ、と走ってくるあゆ。
「あぐあぐ」
 あゆ……。
「よし、引けーっ!」
 北川がロープを引く。
「うぐぅ!」
 籠が被さる。
「うぐぅぅぅ! はかったねっ! 酷いよっ!」
 お前、ここまで馬鹿だったのか。

 それから、すぐに警察を呼んで「自首」という形であゆは連行された。
「これで、よかったのかな」
 誰にいうともなく呟いた俺に、名雪が首を傾げる。
「なんか、結局、無理矢理あゆを捕まえて警察に突き出して「自首させた」って自己満足
してるだけなんじゃないかってな」
「そんなこと……」
 とはいうものの、完全にそれが否定できないのか、名雪は後に続ける言葉を失った。
 俺たちは、なんとなく、連行されるあゆに着いて歩いていた。あゆはジャンバーを被さ
れている。
 商店街に入り、たい焼き屋の前に来ると、警官があゆを連れていく。
「悪いけど、確認してもらうから、ジャンバー取るよ」
 警官がそういって、ジャンバーを取る。あゆと、親父が向き合った。
「この子に間違い無いですね」
 警官の問いには答えず、親父はちらっとあゆを見ただけで、またたい焼きを焼き始める。
「いくつだい?」
 親父が、いった。
「え」
「たい焼き。いくつ欲しいんだい」
 あゆの方を見もせずに、たい焼きを焼いている。
「おじさん……」
 あゆが、いって、鼻をすすった。
「ごめんなさい、ボク、お金持ってないから」
「……そうか」
「ごめんなさい、ボク、悪い子でした」

「ただいま」
「ただいまー」
 その日は名雪が部活の無い日なので、俺たちは一緒に帰ってきた。
 リビングの方から楽しそうな話し声が聞こえてくる。
「お母さん、ただいま。あゆちゃん、来てたんだ」
「ただいま帰りましたー。おう、あゆ」
 リビングでは、秋子さんとあゆが話していた。
 あゆはあれから保護観察処分を受けた。で、その保護司を買って出たのが秋子さんであ
る。警察に掛け合ったら一秒で了承されたというから凄い人である。名雪がいうには、秋
子さんは面倒見がよくて無闇矢鱈と人の面倒を見ていたために、この街のいたるところに
秋子さんに世話になったことがある人間がいるらしい。
 最強だとかジャムだとか笹川良一に一億五千万積まれてそれを受け取らなかったとか、
とかく色々な風評のある人だが、実態は無類に面倒見のいい優しいお母さんだ。
 保護観察処分中は、保護司の家に定期的に訪れて色々と報告をしたりすることが義務付
けられているので、あゆも時々やってくる。
 それまで「秋子さんに迷惑をかけたくない」と気遣うあまりに水瀬家から遠ざかってい
たあゆも、これで水瀬家の客になることが多くなった。
 あゆは、俺にはバイトをしているといっていたが、実際はどこも採用してくれずしてい
なかったらしい、でも、最近、秋子さんの紹介でバイトも始めた。
「それでね、大家さんの好意で、庭にみんなで畑を作ってるんだよ」
「あらあら、それは凄いわね」
「ボクは力仕事はできないから、草をむしる係なんだ」
 あゆは得意そうに語っている。テーブルの上にノートが開かれていた。報告のために日
記をつけているといっていたな。
 どれどれ……。
 日記っていうか絵日記だな。
 えっと、この黄色いスライムみたいなのは北川か。
「それと、北川君がボクのためにお風呂の周りに壁を作ってくれたんだよ」
「あらあら、それはよかったわねえ」
 香里が見てないところでいい奴だったりするんだよな、あいつは。
「そういえば、あゆちゃん、今日は泊まっていくんでしょ」
 秋子さんがいうと、あゆは躊躇いがちに「でも……」と声を小さくする。
 俺は、後ろからあゆの頭に手を乗せた。
「迷惑なんかじゃないからな」
 俺はそういって、頭を撫でてやろうと思って……やっぱり止めて、髪の毛をわしゃわし
ゃとかき回してやる。
「わ、止めてよっ」
「あはははは、お前はもうちょい真琴を見習え」
 そういえば、あの図々しいことこの上無い奴はどうしたんだ。
「ただいまー、秋子さん、お腹空いたー」
 ちょうど、帰ってきたようだ。ドタドタドタと傍若無人の塊がリビングにやってくる。
「あうー、なに見てんのよぅ」
「あん? 別にぃー」
「何よぅ」
 こいつも、家族だ、なんて思ってもいえるかっての。
「あゆ」
「なに? 祐一くん?」
「あー、やっぱ無し」
「うぐぅ、気になるよ」
「あー、無し、無し、なんでもない」
「教えてよっ」
「無し無し無し!」
 離れて暮らしてても、お前も家族なんだぞ、なんていえるかっての。

                                    終

     次回予告
      体育祭の日がやってきた。
      そして、体育祭の花形種目、騎馬戦。
      快調に勝ち進む祐一たちのクラスだが、戦略に長けた久瀬が三倍
     の兵力をもって襲いかかる。徒歩兵となって体育用具室に立てこも
     るが、果たして勝機はあるのか!?
     「いや、お前ら、もう一度この種目の名前を確認してみよう。頼む
     から」
      戦争とは? 指揮官とは?
      戦う男たちを描いて平和希求の願いを高らかに謳い、男の好日と
     は何かを問う。




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