かのんイズム9








    まえがき

      この話は自称常識的一般人である相沢祐一の目を通して
      彼の周りの破天荒(キチ)な人物たちを描き、男の好日
      とは何かを問う話です。
      今回、本編の設定を一部改変していますが、んなもん今
      に始まったことじゃねえ。


「祐一っ、帰ろう」
「おう」
 さて、放課後である。あの体育祭の振替休日の一件(かのんイズム8参照)から三日ほ
ど経った。
「香里も帰ろう」
「そうね」
 正真正銘のファーストキスをああいう形で貰われてしまってしばらく「あれは事故、事
故なのよ」とぶつぶついっていた香里だが、ようやく立ち直りつつある。
「そういえば、北川君は?」
「鞄はあるからトイレじゃないのか? ちょっと待っててみるか」
「いいわよ、行きましょ」
 香里が教室を出て行ってしまうので俺と名雪は顔を見合わせてから、少し遅れてそれに
続いた。
「香里、まだ怒ってるの?」
「お前なあ、いい加減に北川を避けるの止めろよ」
「誰が避けてるっていうのよ」
「避けてるだろうが」
 放送室で大暴れした後、香里が北川を避けているようなのだ。どうも、みんなに北川と
の事故っていうか、キスのことを知られてしまったので、そのみんなの目を過剰に意識し
てしまっているらしい。
 校舎を出て校門まで歩いていると一年生の女子が俺たち、正確には香里を見て話してい
る。
「美坂先輩だ」
「北川先輩も、とうとう報われたって感じだよね」
「うん、まさかあの美坂先輩がねー」
「あの人、北川先輩に限らず男の人と付き合うとかそういうふうに見えないもんね」
「レズだって噂もあったのに」
「あ、知ってる? けっこう凹んでる女子多いらしいよー」
「えー、それって北川先輩じゃなくって、美坂先輩に失恋したってこと?」
「そうそう」
「でもしょうがないよ、美坂先輩はもう北川先輩と付き合ってるんだから」
 香里さんの血管が、びきびきと音を立てかねないほどに脈打つ。……実をいうと、この
類の噂が出回っているのは知っていた。これまでは上手いこと本人の耳には入らなかった
だけである。
「あなたたち、ちょっと話を……」
 あからさまにお近付きになりたくないオーラを出しながら一年生たちに声をかける。
「名雪、止めろ」
 俺が止めたいところだが、下手なとこ触ったらシバかれる。それを察した名雪が香里に
後ろから抱き着く。
「香里〜、駄目だよ〜、下級生いじめちゃ」
「ちょっと放してよ、話を聞くだけよ」
「まあ待て、香里。相手は堅気の娘さんたちだ」
「みんな〜、早く逃げて〜」
 真に迫った名雪の声に一年生たちがそそくさと逃げていく。
「止めてよ、目立ってるじゃない」
 香里がさすがにバツが悪そうにする。そんな時、また声が聞こえてきた。今度は男子で、
三年生らしい。
「二年の美坂がまた暴れてるみたいだぞ」
「やべえよなあ、あいつ、見た目は最高なんだけどな」
「まあ、あれに付き合えるのは北川ぐらいだろうな」
「そうだな」
 ぷちんと弾けそうな香里さんの血管を気にしつつ、俺と名雪で押さえている。
「はあ……もういいわ」
 ここで目立てば目立つほど墓穴を掘ると悟った香里がおとなしくなったので、俺と名雪
も離れる。
「けっこう……ああいう噂って流れてるのかしら?」
「ああ、けっこう」
 ふう、と溜息をついた香里に後ろから抱き付いてくる人影があった。
「お姉ちゃーん、一緒に帰ろ」
 栞である。その顔を見て笑み崩れる香里だが、すぐに引き締まった顔になった。
「まさか……あんたじゃないでしょうね」
 めっさ疑っている。疑われてもしょうがないんだが。
「なにがですか?」
「あたしと北川君が付き合ってるとか、そういう噂流したりしてない?」
「してませんよー」
「そう、それならいいんだけど……」
 邪気の無い栞の笑顔に香里の疑心も霧散した。
「その場にいた人間としてありのままを証言しただけです」
 したんだが、またもや集って固形化する疑心。
「なにをいったのかしら?」
「何って、嘘はいってないですよ。えっと、北川さんがお姉ちゃんにキスを迫って、お姉
ちゃんは腕をがちっとやって、キスなんかしようとしたら折れる、それでもやれるものな
らやってみなさい、っていって、北川さんが腕を折られるのも構わずにキスをした。って
いっておきました」
「……そ、そう」
 香里は、何かいいたそうなんだけど結局沈黙した。それもそのはず、栞がいったことは
大筋で間違っていないのだ。
「まあ、お姉ちゃんが、自分と付き合いたいというのなら腕の一本折れてもいいというぐ
らいの気持ちを見せてくれと北川さんを試し、見事北川さんがその試練を乗り越えた、と
いうのが一般的な解釈のようです」
 なぜか胸を張って誇らしげな栞である。
「そ、それはけっこう広まってるのかしら?」
「はい、けっこう」
「う、う……」
 香里が下を向いている。否定しようにも栞のいったその時のこと自体は嘘ではないし、
その一般的な解釈とやらも、無理が無いっていえば無理が無いのだ。
「そもそもお姉ちゃん、なんでやれるものなら、とかいっちゃったんですか。あの北川さ
んですよ。そんなの折れるのなんか構わずにキスしてくるってわかりそうなもんじゃない
ですか」
「そ、そうだけど、あの日はちょっと苛々してたし……」
 確かに、昼間散々と栞が北川にじゃれつくのを見せられていたな。
「まあ、後はお姉ちゃんと北川さんの問題ですからね、ただ、私は二人を応援していると
いうことは覚えておいてくださいね」
 栞がにこやかにいった。
「おい、やけにさらっとしてるじゃないか」
 俺は、香里には聞こえないように小声で栞にいった。
「うふふ、あまり押し続けても駄目ですからね」
 そういうわけで一時栞は退くらしい。
「おーい」
 校舎の方から、北川が走ってきた。香里がなんだか居心地の悪そうな顔でいる。こいつ
もいつまで気にしてるんだか。
「美坂っ!」
 北川はいきなり香里の前までやってきて叫んだ。
「なによ」
 目を合わさないままに香里が答える。
「お前! 北川って奴と付き合ってるって本当か!」
「は?」
 北川って……お前だろうが。
「なんでも、そいつはお前と付き合うために腕を一本折ったとか!」
 物凄いすんなりと自分以外の北川が出現したことになってるらしいな、こいつの中では。
「くそっ、なんだよ、そいつそんなにいい男なのかよ! 俺だって美坂のためなら腕の一
本や二本は折ってやるぜ!」
 いや、お前だ、お前。
「同じ北川だったら北川香里になっても画数変わんないじゃないか! 北川香里……北川
香里……」
 なんか、突如、北川香里という言葉の響きにうっとりとトリップし出す北川。
「うーん、美坂潤なんてどうでしょう? うちは女の子だけなんで」
 横から栞が提案する。
「うーむ、そちらの御両親がよければ……」
「いいですよー」
「北川君」
 最近ぴくぴくするのに忙しいこめかみの血管をまたもや酷使しつつ香里が声をかける。
「別にあたしは誰とも付き合ってないわよ」
「なに? そうなのか!」
「そうよ」
「そうかあ、よかったあー」
 心底ほっとしたようで北川が胸を撫で下ろす。
「その……最近、なんだか美坂に避けられてるみたいでさ、不安になってたとこにそんな
噂聞いたから」
 にへらーと笑っている。
「俺の勘違いだったんだな。俺って馬鹿だから」
「あんたの勘違いよ、ホント馬鹿なんだから」
「ああ、よかったあ」
 再び胸を撫で下ろしている。
「おい、ところで、俺たちは帰るとこなんだけど、お前は?」
 俺は尋ねた。見たところ、鞄を持っていないようだから、まだ何か用事があるのかもし
れないと思ったのだ。
「ああ、俺も帰るぜ。鞄教室に置いてきちまった。噂聞いてさ、窓から美坂が見えたんで
飛んできたんだ」
「……待っててあげるから、取ってきなさい」
「おう、じゃ、ちょっと行って来る」
 北川が校舎の方に走っていく。
「香里……」
 ようやく避けるの止める気になったか、とややからかうように声をかけようとして、俺
は言葉を飲み込んだ。
「はあ……」
 溜息をついた。北川の馬鹿に悩まされた時にする香里のいつもの溜息……とは少しだけ
違う、少しだけトーンの落ちた溜息。
「あの馬鹿、悪意が無いわね」
「ん、まあ、そうだな」
「あたしがあの馬鹿に怒って、どんなに悪意をもって接しても彼からあたしへは悪意が来
ないの」
「……」
「あたしの方がやり過ぎた時だってそうなのよ」
 また、溜息をついた。
「あたしの何がそんなにいいのかしらね」
「おい……」
 思わず、あることをいおうとして、俺はまたもや言葉を飲んだ。ふっと直感的に思った
ことで、我ながら違うんじゃないかとも思ったからだ。
「なあに?」
「あ、いや、まあ、打たれ強い奴だからさ、って」
 お前、もしかしたら、北川が自分に釣り合わないとかじゃなくって、自分が北川に釣り
合わないとか思ってないか?
 飲んだ言葉は、やっぱり外に出ず、行場を失って胸中に消えた。
 美坂香里だぞ。成績優秀な学年主席、運動神経も人並み以上、教師にも信頼されてるし、
そのうえ美人だ。そんな自分を卑下したようなこと考えてるわけがないよな。
「お待たせ!」
 鞄を持って北川が走ってくる。
「じゃ、行くか」
 校門のところに差し掛かった時、すぐにその人だかりに気付いた。うちの生徒が十数人、
足を止めている。
「なんだろう?」
 自然と興味を引かれて、みんなの目線の先を追っていく。そこには数人の生徒がいた。
久瀬と一緒にいたのを見たことがある、確かあれは生徒会の人間だ。
「あうー」
 その声を聞いて、俺と名雪は顔を見合わせる。
「おい、今の……」
「うん、間違いないよ」
 水瀬家に住み着いてる沢渡真琴の声に違いない。
「ちょっと、通してくれ」
 人だかりを掻き分けて進むと、そこには真琴がいて、その前に生徒会長の久瀬が立って
いた。
「だからお嬢さん、なんの用なのかね?」
「あうー」
「別に怒っているのではない、ただ、部外者が入ってはいかんのだ」
「あうー」
「ただし、何か用事があってのことならば中に入れないこともないし、人を探しているの
なら呼び出しをかけてもいい」
「あうー」
「あうーといわれてもわからん、怖くないからいってみなさい」
「……あうー」
 こりゃ駄目だ。
 あいつはある程度親しくなると傍若無人なのだが、人見知りするので、初対面の人間と
はロクに話せない。あうー、っていうのはあいつが困った時とか都合の悪い時とか何いっ
ていいかわかんない時などによく使う、まあ、鳴き声みたいなもんだ。
「おい、会長が聞いてるんだからちゃんと答えろよ」
 生徒会の男が苛々とした様子でいう。もちろんそんなものは逆効果で、真琴は縮み上が
ってしまう。どうも真琴がうちの学校の敷地内に入ろうとしたのを見咎められたらしいな。
「待て待て、久瀬」
「あ、祐一!」
 俺が見かねて久瀬に声をかけると俺に気付いた真琴がぱっと表情を明るくして俺の名を
呼ぶ。
「相沢君か、君の知り合いかね」
「ああ、たぶん、俺に会いに来たんだと思う」
「そうか、では引き渡すから連れて帰ってくれたまえ」
「ああ、手間かけたな」
「なあに、二十歳になったら有権者だ」
 わかったようなわからんようなことをいって久瀬は去っていった。それにつれて集まっ
ていた生徒たちも帰途につく。
「真琴、どうしたんだ」
「祐一に会いに来たのよう」
 やたらと胸を張り、挑戦するような目つきで見上げながら真琴はいった。
 俺に助けてもらった、ということを意識して突っ張っているのだ。以前はそういう素直
じゃない態度に腹を立てたこともあったけど、最近ではただ可愛いとしか思わない。
「へいへい、それでなんで会いに来たんだ?」
「あうー……一緒に遊ぼうと思って……」
 そんなことでわざわざ学校まで来たのか。確かにこいつは自分の欲望に忠実すぎるとこ
ろがあり「祐一たちと遊びたい!」と思ったらすぐにそれを実行に移すということは十分
に考えられることだ。
「そうか、でも、学校の中に入ったら駄目だぞ」
 俺はできるだけ優しく注意してやった。
「じゃあ、遊びに行くか」
「うんっ」
 嬉しそうに頷いた。
「よし、みんなも来るかあ?」
 俺が尋ねると北川も美坂姉妹も同行を承諾した。
「よっ、真琴ちゃん」
「あ、北川だ!」
 真琴が北川を睨みつける。
「相変わらず可愛いなあ、はっはっは」
「頭触らないでようっ!」
 北川がニコニコ笑いながら真琴の頭を撫でると真琴がそれを払いのける。
「あれれ、御機嫌斜めだな」
「あうー、あんたのせいよー!」
 真琴は両手を握ってそれでポカポカと北川を叩いた。
「おっ、やるか、よーし」
 北川は嬉しそうにその手を掴むとぐっと力を入れる。当然北川の方が腕力は強いので真
琴はすぐに押されてしまう。
「このっ!」
 真琴が苦し紛れにパチキ(頭突き)を放つが、それを受けた北川は平然と、笑みすら浮
かべながらお返しする。
 ごちん。
「あうー」
 この二人がこんな風になったのは初対面からである。北川が水瀬家に遊びに来た時にこ
いつらは出会った。
「真琴ちゃんっていうのか、よろしくね」
 北川の奴はどっからどう見てもお人好しな顔で真琴に接した。で、初対面でも相手がお
人好しだと見るとすぐに調子に乗る悪癖が出た真琴は、北川に色々とちょっかいを出した
のだが、何しろ毎日のように香里に殴られている奴なのでさっぱりこたえやしない。
「はっはっは、真琴ちゃんは可愛いなあ」
 何をやってもそういって頭をわしゃわしゃと撫でる北川に対して真琴はムキになってし
まった。悪戯したら怒ってくるという、今までの俺の反応と違ったので戸惑ったのかもし
れない。
 それからというもの「あいつは絶対に許さない」という真琴と「真琴ちゃんって本当に
可愛い子だな」という北川は会う度にこんな具合である。
「そぉーれ」
 んで、ちょっと目を離した間に、北川が真琴の手を掴んだまま回転してぶん回している。
「どうだい、真琴ちゃん」
「あうーっ! はーなーせーっ!」
「そうか、楽しいか、はっはっは」
 と、まあ、つまりは、まあ、結構仲がいい、のかな。
「北川君、そろそろ止めなさい。目回してるわ」
 見かねて香里が止めに入る。香里は名雪のところに遊びに来た時に真琴と会っているが、
真琴は本能で危険を察知したのか、香里にはちょっかいは出さない。
「うーん、真琴さん、北川さんと仲良いんですけど、明らかに恋愛って感じじゃないんで
すよねえ」
 栞が唸っている。こいつは先日の一件において、自分が北川にべったり接近すると香里
から前後の見境とか後先を考える回路などが失われることを悟り、香里の嫉妬心を刺激す
る作戦を一時中断している。
 今は香里の「恋のライバル」となるべき北川と仲の良い女を物色中なのである。
「あゆさんも最近仲が良いらしいんですけど」
 そういえばあゆが時々作り過ぎた料理をお裾分けに来たり、北川んちで鍋を突付いたり
してるという話だ。
「でも、あれもどうも恋愛という感じでは……」
 確かに、どんなにそんな話聞いても、そういう感じが全くしない。
「と、なるとあとフリーで北川さんと仲の良い女性というと、いないんですよ。川澄さん
とか倉田さんはそこまでの仲じゃないですし」
 うーむと栞は唸り続けている。
「あいつ、下級生に人気あるらしいじゃないか、栞の知り合いでいないのか?」
「うーん、それが確かに慕われてるには慕われてるんですけど、やっぱり恋人にしたいっ
て感じじゃないんですよ。みんな、面白くて無茶苦茶で、でも優しいお兄さんっていうふ
うに見てまして……えーっと、あの、言い方はほんの少し悪いかもしれませんが、なんか
キティちゃんの着ぐるみに群がる幼児のような、といいますか……」
 それ、言い方すげえ悪い。
「おーい、相沢、栞ちゃん、とりあえず百花屋入るってことになったぜ」
 と、やや遅れた俺たちに北川が百花屋の前で手を振っていった。他の連中はもう中に入
っているらしい。
「おう、すぐ行く」
 それから百花屋で軽くお茶してから商店街のゲーセンなどで遊びつつ、最後は公園で雑
談に興じる。
「あうー、このー!」
「真琴ちゃん、楽しいかあ?」
「はーなーせーっ!」
「そうか楽しいか、俺も楽しいぞ」
 担がれて回されて人間風車になっている真琴とその回転軸になってる北川からは微妙に
目を離しつつ色々と話した。
「このー、死ねぇー!」
「よーし、頭ごっつんこするか!」
 んでまた不用意にパチキかましてしまい、北川に思い切り受けて立たれてしまい、ごち
んごちんといわされて「あうー」とのた打ち回る真琴である。
 日が落ちたところでその日はお開きとなった。俺と名雪と真琴、北川と美坂姉妹の二つ
に別れてそれぞれ家路につく。
「真琴」
「なによ」
 さっきから額を水で濡らしたハンカチ(ちなみに、名雪のもの)を押し当てている真琴
に俺は声をかけた。
「どうだ。楽しかったか?」
 突然学校にまでやってきて俺たちと遊びたいという真琴に、俺は以前から薄々と感じて
いた危惧が具体化した気分であった。秋子さんは仕事へ、そして俺たちは学校へ、日中一
人で家にいる真琴は、寂しがっているんじゃないか、って。
「楽しかった」
 だから、真琴がそういった時、ほっとした。
「あ、でも!」
 だが、真琴が慌てて言葉を継ぐ。
「北川はもう絶対に許さないんだからね、あいつによくいっといてよ!」
「おう、わかったわかった」
 俺は、苦笑して答えつつ、無意識のうちに頭に手を置いていた。
「うー」
 真琴が低く唸り声を上げている。
「どうした? 頭そんなに痛いのか?」
 こいつもそこそこ頑丈な奴なんでついつい見過ごしてしまったが、よく考えたら北川と
パチキのかまし合いをしたのだから相当に痛いはずだ。
「……」
「ん、おい?」
 真琴の目から光が失われたような気がして、俺は夢中で掌を目の前で振った。
 ふっ、と目に光が戻る。
「おい、どうしたんだ? 北川にやられたとこ痛むのか?」
「北川になんかやられてないわよぅ! 全然平気なんだから!」
「そ、そうか」
 突然元気になった真琴をいぶかしみつつも、俺は安堵した。

 翌日の放課後、俺たちは部活に行くという名雪と廊下で別れてから校舎を出た。
 またまた校庭を歩いている時に栞が合流してきていつものメンツになって校門に向かう。
その校門に、今日も真琴がいた。
「真琴、また遊びに来たのか」
「うん」
 真琴は頷き、
「今日は学校の中に入ってないわよ」
 そういって足元を指差した。なるほど、学校の敷地のきっちり外側に真琴は立っている。
「そうか、よし」
 俺は頭を撫でてやった。真琴は嬉しそうにしているが、突然その顔に影がさした。
「ん? どうした?」
 らしくない表情に俺の声も曇る。
「美汐がさっき通ったの」
「へえ」
「だから、美汐も一緒に遊びに行こうっていったら、今日は用事があるからって帰っちゃ
った……」
 美汐、というのはうちの一年生の天野美汐、真琴とは親友といっていい間柄だ。その天
野が真琴の誘いを断るとは、外せない用事があったんだろう。
「美汐、真琴のこと嫌いなのかな……」
「は?」
 思わず、俺は聞き返してしまう。何を馬鹿なこといってるんだ。と、いいたくなる。そ
れほどに、俺にとって真琴がいった言葉は真実味の無いものだったのだ。天野が真琴を嫌
いになるなんてことがあるとは思えなかった。
「そんなわけないだろ」
「そうかな……」
 ますます、らしくない。
「どうしたんだよ、天野だって、俺たちだって、お前のことは好きだよ」
 こいつがあまりにもらしくないので、普段はとてもかけないような優しい柔らかい声が
俺の口から出ていた。
「じゃあ、真琴がどうなっても好きでいてくれる?」
 どうなっても……って、何をいってるんだ、こいつは。
「ああ、真琴は真琴だろう。俺は真琴が好きだよ」
 わしゃわしゃと頭を撫でてやる。
「美汐も、そうかな?」
「まあ、他人のことだが、請け合ってもいいと思うぞ。天野だって、きっとそうさ」
 さあ、行くぞ、と背中を叩く。沈んだ顔は似合わない。実際されてみてようくわかった。
本当に似合わないんだよ、お前にそんな顔はさ。
 その日も、俺たちは目一杯遊んだ。夕食の時にその話をして、部活だった名雪が羨まし
がるぐらいに楽しんでしまった。
 でも、やっぱり気になるのは、真琴が時折、沈んだ顔をすることだ。そうして、不安そ
うな目で俺を見上げるのだ。俺は頭に手を乗せる。真琴は決まっていうのだ。
「真琴のこと好きでいてくれるよね」
 らしくない。ああ、らしくないって。
 楽しかった一日の終わり、部屋の電気を消し、ベッドに潜る。秋子さんが「今日は布団
を干しておきましたよ」といった通り、ふわりとした感触、日向ぼっこしてるみたいな温
かさ、陶然とする陽光の臭いに包まれて、布団の中は、気持ちよく眠るにはこれ以上無い
という環境になっていた。
 考えながらいつしか俺は眠っていた。真琴の布団もこんなふうに暖かいはずだ。その中
で一晩ぐっすり眠れば真琴だってきっといつもの真琴になるさ。安易にそんなことを思っ
ていた。
 翌朝、名雪を起こして、っていうか半ば抱きかかえて台所に引っ張っていくと真琴がい
ない。あいつは以前、夜中に俺に悪戯していた頃はよく昼まで寝ていたが最近はそこそこ
早いはずだったんだけど……。まあ、疲れているようだったし、寝かせておいてやろう。
 秋子さんの作ってくれた朝食を食べて家を出る。さて、今日も走るか。
「名雪、行くぞ!」
 俺は走り出す。
「あ、祐一待ってよ〜」
 ようやく目を覚ましたらしい名雪の声が後ろから聞こえてくる。
「祐一、行くよ!」
 んで、えらいあっさりと抜かれたりする。てめえ、待て、畜生。
 教室に滑り込む。
「セーフ」
 香里が時計を見ながらいった。八時二十九分十三秒。本日もなんとか遅刻は免れた。
「おはよう」
「おはよー、香里」
「おう、香里」
「北川君もおはよー」
「北川、おーす」
「おっす、美坂がシャンプーを柑橘系に変えたぞ」
「んなこといちいちいわないでいいのよっ」
 すぱーん、と朝もはよから香里さんの裏拳が炸裂。人差し指の第一関節を人中(鼻と上
唇の間の急所)にえぐりこませる。相変わらず人体を効率的に痛めつけるやり方をわかっ
てるお人です。
「あれ、美坂、爪伸びてないか? 切った方がいいんじゃないか? なんかに引っ掛けた
りしたら大変だぞ」
 まあ、あんまり効いてないわけだが……。
「うるさいわねえ」
 香里は頬を膨らましながら、
「でも、ホント伸びてるわね、今晩辺り切らないと……」
 とかいって爪を見ている。
 まあ、概ねいつもの朝だ。
 そしていつものように授業が始まり、いつものように昼飯を食って、いつものように帰
る。名雪は部活、栞は今日はクラスメイトと帰るとかで、香里と北川と三人で商店街をぶ
らつく。
 今日は校門のところに真琴が来ていなかったな。
 ぶらつきながらも、そんなことを考えていた。そりゃまあ、毎日来るわけではないだろ
うが、昨日のらしくない真琴と合わせて妙に気になった。
「悪ぃ、今日はちょっと帰るわ」
 百花屋で駄弁ろうということになった時、俺はそういってお先に失礼させてもらうこと
にした。
「え、北川君と二人?」
 香里の表情が曇る。
「なんだよー、俺と二人は嫌か? 俺は美坂と一つのコップに二本のストローは大歓迎だ
ぞ」
「誰が、んなことすんのよ」
 呆れた顔をしつつ、香里は少しいいにくそうに、
「でも、二人で喫茶店なんかいたら、その、デートしてるんじゃないかって誤解されるん
じゃないかしら」
 そんなこと気にしてんのか、こいつは。
「考え過ぎだよ、美坂」
 珍しくまともなことをいう北川。
「そ、それもそうね、あたし、変に考え過ぎてたみたい」
「じゃ、行こうぜ、相沢はまた明日な」
「おう」
 百花屋に入る二人に背を向けて俺は歩き出す。
「おいお前ら、なに見てんだ! 俺と美坂はデートしてるわけじゃないぞ、そこんとこ誤
解するなよ! あ、マスター、オレンジジュース一杯、ストローは二本で」
「あああああああああーーーー!」
 ぐしゃ、とか、がしゃーん、とかいう音を背に、絶対振り向かねえと心に決めて俺は家
に向かった。
「ただいまー」
 鍵を開けて家に入る。玄関に真琴の靴が置いてあるので俺は中に向かってそう声をかけ
たのだが返事は無かった。
 台所の方に行ってみるとテーブルの上に皿がある。ラップをかぶせてあって中には少量
のおかずが入っている。傍らのメモ用紙には真琴に宛てた秋子さんのメッセージが書かれ
ている。これを暖めて食べなさいという内容だ。
 おそらく、秋子さんが仕事に出る時間になっても真琴が起きてこないのでこれを残して
行ったのだろう。で、それがこうしてこのままあるということは、真琴はまだ寝ていると
いうことになる。あいつに食欲が無かったことなど滅多になく、目覚めていたなら間違い
無く腹を空かせてこれを食べているはずだ。
「おーい、いつまで寝てんだよ」
 真琴の部屋のドアを開けると、部屋の真ん中に敷かれた布団がもっこり膨らんでいる。
「こら、いい加減に起きろ」
 もぞもぞと反応があるが、一向に起きてくる気配が無い。あんまし寝過ぎて夜眠れなく
なって俺の部屋にやってきて騒ぎまくる光景が目に浮かぶ。さっさと起きとけ、頼むから。
「あ、うぅ」
「おい?」
 布団の中から漏れる声が異常に弱々しい。
「真琴、どうした? 調子よくないのか?」
「あう、う、う〜」
 何をいっても唸っているだけだ。俺は布団に手を突っ込んだ。髪の毛らしきものに触れ、
そのまま手探りで額を探し当てる。
「あっちい!」
 思わず、声を上げていた。高熱なんてものじゃない。人間の体温ってここまで上がるの
か、ていうか、上がって大丈夫なのか!?
 ……まあ、こいつは人間じゃないっていや人間じゃないんだが。
 とにかく、冷やさないといかん。階段を駆け下りて台所に行き冷凍庫を開けると、さす
が秋子さんが使っているだけあって氷がねえじゃねえかコノヤロ、なんてことはなく製氷
室にたっぷりと氷が作ってある。
「えっと、ビニールビニール……これでいいな」
 スーパーの買物袋に氷をどかどか放り込んできつく口を縛る。
「んで、タオルぐらいは」
 脱衣所に行って棚からタオルを取り出して、それで袋を包む。それを持って真琴の部屋
に向かった。
 ドアを開ける頃には手に持った包みの表面がひんやりと冷たくなっている。
「真琴! いいもん持ってきてやったぞ」
 相変わらず布団の中で唸っている真琴にそれを渡してやる。
「あう」
「冷たいだろう、それ、おでこにあててみろ」
「……気持ちいい」
「だろう」
 ようやく真琴がまともな言葉を口にしたので、俺はほっと胸を撫で下ろした。
「たぶん、風邪だろう。お前はよく布団跳ね除けて、腹丸出しで寝てるからな」
 安心したのも手伝って軽口を叩いたが、真琴はそれに乗ってくるだけの元気は無い。ま
たいっつもみたいに突っかかって来れるようになれよ、な。
「ゆ、う……いち」
「なんだ? どした?」
「真琴……」
「おう、なんだ?」
「好きで……いて、ね」
「おいっ」
「真琴のこと……」
「好きだよ、馬鹿!」
 あー、もー、しっかりせんかい、こいつはあ!
 焦る、焦る、自分で自分がすげえ焦ってるのがわかる。でも、とりあえずは冷やさせて
おくことしか思いつかない。薬の場所も全然わからないし、せめて名雪が帰ってくれば、
救急箱の場所ぐらいは知ってるはずなんだけど。
 でも、何もしないよりはマシだ。何かしていた方が気も紛れるし……。
「待ってろ、薬探してくるから」
 立ち上がろうとすると、いつのまにか布団から生えた真琴の左手が俺の服の袖を掴んで
いた。
「真琴、薬探してくるから」
 掴まれていない方の手で真琴の左手にそっと触れる。それで離してくれといったつもり
なんだけど、離さない。
「真琴」
「薬……いらない」
「え?」
「そこにいてよ」
「ん、ああ」
 俺は真琴の手を握った。そしてどのぐらい経ったろうか、階段を踏む音がしてやがて隣
の部屋でゴソゴソと物音がする。名雪が帰ってきたんだ。
「おい、名雪!」
 大声で呼びかけると反応があった。
 少し待つと制服から着替えた名雪が部屋に入ってくる。
「祐一、真琴の部屋にいたんだ」
「ああ、ちょっと来てくれ」
 ちょいちょいと手招きして名雪を呼び寄せ、その手を真琴の首の後ろへ導く。
「わ、すごい熱」
「なあ、熱冷ましとかの場所わからんか」
「ちょっと待ってて、救急箱を持って来るよ」
「頼む」
 氷がだいぶ融けてしまい袋の中がたぷんたぷんいっている。
 名雪が持ってきた救急箱を開けて色々と見てみると、胃腸薬と風邪薬があった。風邪薬
には解熱効果もあるだろうからそれを飲ませようとしたが、そこで名雪が気付いた。
「何か食べないと駄目じゃないかな」
「ん、そうか」
 大概、風邪薬は食後に服用するようにうたわれている。箱を見てみると、これもそうだ
った。
「真琴、何か食べるか、ん?」
「あうー……いらない」
「おかゆなら食えるだろ、な」
「あうー」
「よし、名雪、おかゆを作ってやってくれ」
「うん」
 名雪が台所に下りていく、ついでに氷を入れ替えてきてくれて袋を渡す。
「待ってろよ、真琴」
 手を握りながら、俺はいった。
 しばらくすると、一人ではなく二人のものと思える足音が階段を上がってきた。
「真琴、どうですか?」
 名雪がドアを開けて、お盆を持った秋子さんが入ってきた。
「秋子さん」
 思わず、その名を呼んでいた。正直、真琴の熱は相当な高熱で俺と名雪二人では困って
いたのだ。秋子さんが帰ってきてくれて助かった。
 ドロドロに煮たおかゆを食べるというより飲むようにして真琴が口に入れる。腹が減っ
てきたので、俺たちもその場でご相伴に預かる。ほんのりと塩味がして美味しい。
 秋子さんが氷嚢を出してきて、それを真琴の額に乗せた。熱もはかったところ、四十三
度という数値を弾き出した。
「かなり熱があるから、頻繁に氷を入れ替えてあげないと」
「俺がやります」
「あ、わたしもやるよ〜」
「無理すんな」
 お前、既に船漕いでんじゃねえかよ。
「やるよっ」
「……わかったわかった」
 その晩は真琴の部屋に布団を持ち込んだ。元々、家具の類が少ないという以前に無い部
屋なので、布団を敷くスペースは積み上がった漫画雑誌を端に寄せただけで確保できた。
「よし、寝るぞ」
「うにゅ」
 さっさと寝ることにする。目覚し時計を一時間後にセットしておく。
 一時間後、微かな音で目が覚める。真琴を起こしてはいけないので音量を押さえておい
たのだ。んで、そんな程度の音では当然名雪が目覚めるわけもない。
「う〜、氷、氷替えないと〜」
 そんな寝言をいっている。夢の中で真琴の看病をしているのだろうか。気持ちはわかっ
たから寝とけ、人間、得手不得手があらぁな。
 氷嚢の氷はだいぶ融けていた。台所に下りて冷凍庫から氷を補充する。
「う、あう」
 部屋に戻ると真琴が苦しそうにうなされていたので、俺は慌てて氷をたっぷりと入れた
氷嚢を額に乗せる。
 楽になったらしく安らかな寝顔を見せる真琴。
 それからも一時間ごとに起きて氷を取り替えた。朝の六時に起きたところでもう寝るの
を止めて、ずっと真琴の手を握っていた。
 六時十分を過ぎた頃、秋子さんがやってきた。真琴の熱がいっこうに下がっていないの
を知った秋子さんとちょっと言い合いになる。秋子さんが仕事を休むというので、俺が学
校を休んでついているといったのだ。俺の両親に対する責任とかそういう厄介なものを感
じているらしい秋子さんは、なんとしても俺に学校を休ませまいとしているようだったが、
どうしても真琴が心配だといってなんとか押し切った。
 学校には堂々と電話した。
「すいません、同居人……家族が四十三度の熱出してんです。看病したいんで休ませてく
ださい」
 それを聞いた石橋さんは即座に了承してくれた。
 なんとなく名雪も一緒に休んでしまい、氷嚢の氷を替えている。自分も看病するといっ
たわりにはあっさり朝まで熟睡したのを、よせばいいのにかなり真面目に気にしていて、
自分がやるといって聞かないのだ。
 昼飯にドロドロおかゆを食べると真琴が体がかゆいといい出した。かくして、真琴の体
を拭くことになり、俺は部屋を追い出される。
 廊下に突っ立っているのもなんなので階段を下りて居間に陣取る。一時間ごとに起きて
いたために睡眠が浅かったのか、急に眠気が襲ってきてこっくりこっくりと首を倒したり
起こしたり。ちょっと、休ませてもらおうか……。
 意識が眠りに落ちる前に電話の音が鳴った。受話器を取ると秋子さんだ。昼休みに電話
してきたらしい。
 名雪が真琴の体を拭いていることを伝え、そして熱が全く下がらないことも伝える。秋
子さんはなるべく早く帰るようにしますから、といって電話を切った。
 本当の娘を心配するような暗い、曇った声だった。もう既に真琴も、そして時々やって
くるあゆも、秋子さんにとっては娘同然なのだろう。
 最強だとかジャムだとか浜口組の沢木はんとツーカーだとか、とかく色々な噂のある人
だが、その実体は世話好きで優しいお母さん以外のなにものでもない。
 受話器を置いて、ソファーに戻ろうとするとまたもや鳴った。
 秋子さんが何かいい忘れたことでもあったのかと取ってみると香里だった。
 そういえばこの時間は学校も昼休みか。
「石橋に聞いたわよ、家族が熱出したって、秋子さんなの? それとも……」
「真琴だ。ちょっと、昨日から熱が下がらなくて」
「そうなの……沢渡さんだって」
 後半は俺にではなく、受話器の向こうで他の誰かにいったものだ。
「おおい、真琴ちゃん、大丈夫なのかあ」
 声が変わった。北川だ。
「そんなに熱あるのか? 栞ちゃんも心配してるぞ」
 その場に栞もいるらしい。
「祐一さん、あとで私たちもうかがってよろしいですか?」
 と、栞に替わったようだ。
「あの、役に立たないかもしれませんけど、薬なら持ってますし」
「ああ、頼むよ」
 薬はともかく、みんなが来てくれれば真琴も心強いだろう。
 受話器を置いて、ふと天野のことを思い出した。
 天野にもこのことを知らせておこう。あいつは携帯電話は持ってないから、放課後にな
って家に帰るだろう頃を見計らって電話しよう。
 そうと決まれば、真琴にいってやろう。香里たちが来るって、天野も呼ぼうって。
「おーい、名雪、終わったかあ?」
 真琴の部屋のドアをノックしていうと物凄い勢いでドアが開いた。
「お、どうした。体拭き終わったか?」
「うん、そ、それは終わったんだけど、真琴が……」
「どうしたんだ!」
「急に今までにないぐらいに苦しみ出して……ホントに、ホントに苦しそうで」
「……真琴!」
「あう」
 真琴が寝転がっていた。いや、寝転がっているだけでなく、それはもはやのた打ち回る
といってよかった。
「あう、あう、あう」
 胸を掻き毟るように両手を動かしている。爪を立て、それが肌に食い込みそうなほどだ。
「真琴、どうしたんだ。おい!」
 抱き寄せるがぐったりと力が無い。しかし、爪を立てた両手だけは切迫した力が通って
いる。
 いったいなんなんだ。タチの悪い風邪かと思っていたけど、もっと重い病気だったのか。
いったい、どうすれば。
「なゆ……」
 振り返って、名雪の俺以上に困惑した顔を見る。そうだよ、俺がわからないんだ、名雪
だってどうしていいかわからないに決まってる。でも、この場にいるのは俺たちだけだ。
俺と名雪だけで、俺が、俺が、なんとかしないと、俺が、真琴、苦しいのか、真琴、真琴、
どうして欲しい。どうすればいい。
 思考が千々に乱れるのを感じていた。そんなことを感じられるだけの最低限の冷静さは
残っていやがる。畜生。
「あ〜〜〜」
 真琴がうめく。
「う〜〜〜」
 甲高く、高く高く。
「真琴っ! しっかりしろ!」
 頼むから、しっかりしてくれ。頼むよ。
「あ〜〜〜うう〜〜〜」
「真琴っ!」
「う〜〜〜〜ああ〜〜〜〜〜」
「真琴真琴真琴」
「あひいる!」
「しっかりしてくれよ!」
「――! ――!」
 なんだ。なにいってんだ。真琴。
「おい、真琴」
 瞬間、俺が抱いていた真琴が膨張した。何を馬鹿な、と自分が馬鹿なことを考えている
ことを確信しながら、俺はその膨張に弾き飛ばされていた。
「ゆ、祐一!」
「う、あ、あ……」
 俺と名雪は顔を見合し……。
 一目散に部屋から飛び出てドアを閉めた。
 ぜいぜいはぁはぁとお互いの息が荒い。
「ゆ、祐一、おっきなきつ……」
「待て、名雪!」
 俺は名雪の言葉を遮った。お前のいいたいことはわかる。俺だってお前が見たものを見
た。でも、でもな、にわかに信じられることじゃない。
「二人揃って幻覚でも見たのかもしれん。ここは一つ頭を冷やしてもう一度確認してみよ
うじゃないか」
「う、うん、そうだね」
 にわかに信じられないのは名雪も同じらしく、同意する。
 俺たちは息を揃えて深呼吸して、動悸の荒れ狂ったリズムを落ち着かせた。
「よし、いいか」
「うん、いいよ」
「何があっても驚くな」
「う、うん、わかってるよ」
「よし、いくぞ」
 ドアを開けた。そこには真琴が寝ているはずだった。真琴。ある日突然俺に殴りかかっ
てきた物騒な奴だ。しょーがないから家に連れてきて、色々あって、今では、俺たちの家
族の一員。生意気で素直じゃなくって、そのくせ可愛い奴で、どうしても憎めない真琴。
「ゆ、祐一」
「……うん」
 俺たちは顔を見合し……。
 大急ぎでドアを閉めた。
 ぜいぜいはぁはぁ。
「祐一、あれ」
「うむ」
 しっかり見てしまった。もう認めるしかない、認めたくないこの現実を現実と認めなく
てはいけない。
「き、狐じゃあ……でっかい狐がおる」

 恐る恐るドアを開けた。そこに、奴はいた。すぐに襲いかかってくるでもなく、こっち
をじっと見ている。
「うーむ」
「ねえねえ、あれ、真琴なのかな?」
「……そう考えるしかないだろうな、あのでか狐がいるだけで真琴の姿はどこにも見えん
し」
 耳の先から尻尾までゆうに5メートルはありそうなでかい狐は悠然と部屋のど真ん中に
横倒しに寝そべっている。
 しかしいったいどうしたものか。
 何をどうしたらいいのか、という状況は依然として変わらない。その原因が途方もなく
無茶苦茶にはなったが。
 対策を協議しようと居間に下りてきて、対策なんぞ浮かぶはずもなく呆然としていると
インターホンが鳴った。
「あ、たぶん、香里たちだよ」
「ああ、そうだな」
 香里たちにいい知恵があるとは限らないが、とにかく三人寄ればなんとやらだ。捻る頭
は多いに越したことはない、という具合に俺も名雪も考えあぐねていた。
「お邪魔するわよ」
「お邪魔しまーす」
「おーす、真琴ちゃん、どうだ?」
 香里と栞と北川が入ってくる。とりあえず見てもらうしかないな。
 ドアを開けた。
「んな」
「えう」
「おー」
 ドアを閉めた。
「……なんなのよ、あれは」
「お、おっきな狐さんです。なんですか、なんですかあれは! どこの仕事ですか! 円
谷ですか!」
「真琴ちゃんはどうしたんだ?」
「まー、待て」
 俺は一同を静める。
「えーっと、前に真琴はものみの丘の妖狐なんだぜえ、っていったことがあるな。お前ら
さっぱり信じてなかったけど」
「ま、まさか」
 勘のいい、よすぎるぐらいにいい香里が思い当たって目を見開く。
「え、え、なんですか?」
「なんだなんだ? なんだ?」
「つまり、あれが沢渡さんだっていうの!?」
 それでも信じられないという顔でいう香里。
「状況から考えて、そうとしか思えないんだ」
「そ、そんな、だって、ものみの丘の妖狐なんて、ただのおとぎ話で……」
「そ、そうだとして、真琴さん、ずっとあのままなんですか!?」
「なんだ、真琴ちゃん、体調よくなったんだな」
 そういう前向きな見方ができるお前(馬鹿)を時々本気で羨ましいと思う。
「ど、どうするんですか!」
「いや、それが皆目わからんところで……みんなの知恵を借りようとしてたんだが」
「そういわれても、どうしたらいいかなんて思いつけないわよ」
 香里のいうことももっともなんだよなあ。
「残念だが、俺に知恵など無い」
 いや、その通りかもしれんけど、自分でいい切るのはどうかと思うよ。
「誰か、他にいないの、そういう知恵を持っていそうな人は」
「あ……」
「誰か、いるのね?」
「天野……天野だ。そもそも、ものみの丘の妖狐の話もあいつに聞いたんだ」
「それじゃあ」
「よし、天野を呼ぼう」
 俺は急いで天野の家に電話した。ちょうどあいつが出る。家に帰ったところらしい。
「実は、真琴が大変なことになってるんだ。ちょっと来てくれないか」
「わかりました、すぐに行きます」
 即答である。具体的に真琴がどうなっているかをいう前に切れてしまった。
 待ち遠しくて家の前にまで出て待っていると、やがて天野がやってきた。
「ごきげんいかが、美汐でーす♪ みっしーさんと呼んでください♪」
 大方の予想通りママチャリに搭乗して現れた天野は歌など口ずさんで、大変なことにな
っているといっても真琴があんなことになっているとは予想もしていないようだ。
「よっ、美汐ちゃん」
 北川が右手を上げて声をかける。あれ、こいつら面識あったっけか。と俺は首を傾げた。
「ああ、北川さんではないですか、あ、そうそう」
 天野はにっこりと微笑んで自転車の籠に入っている鞄から小さな紙包みを取り出した。
「今日のお昼に売店で買ったんですが、食べきれなくって取っておいたんです」
 包みの中には大福が一つ入っていた。
「よろしければ、どうぞ」
「お、食う食う。ありがとな、美汐ちゃん」
 北川は嬉しそうに大福を受け取って口に入れた。
「お前ら、知り合いだったのか?」
 そりゃ、北川は俺に天野という知り合いがいることを、そして天野は俺に北川という知
り合いがいることを知っていただろうから、お互いに存在自体は認識していただろうとは
思っていたのだが、今のやり取りを見る限り、かなり親密そうだ。
「ああ、けっこう前に知り合ったんだ。お前の友達だって知ったのは最近だけどな」
「へえ、そうだったのか、いったい、どこで?」
「私は、毎朝家の前を掃除するのが日課なんです」
 と、天野がいう。
「そうしたら北川さんが新聞を配達しに来るんです。おはよう、って挨拶してくれて、そ
れから少し話すようになったんです。北川さんは有名な方ですから、名前は知っていまし
た」
「うん、俺の配達ルートの一番最後が美汐ちゃんちなんだよ、だから時間に余裕がある時
はちょっと立ち話したりな」
「へえ、そうだったのか」
「お茶菓子の残りを貰ったり、あれは助かってる。朝飯がわりになるから」
「いえいえ、そんな」
「ん、ごちそうさま」
「実はお煎餅もあるんですけど、いかがですか?」
「お、貰う貰う」
 北川が大福を食い終えると、今度は袋に入った煎餅を差し出す。
「お姉ちゃんっ!」
 突如、栞が香里の袖を掴んで揺すぶり始めた。
「な、なによ、いきなり」
「あーもー、お姉ちゃん!」
「だから、なによ」
「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん、お、ね、え、ちゃ、んっ!」
「……なんなのよ」
「大変ですよぉ〜、恋のライバル出現ですよ〜」
「……ライバルって、天野さんのこと?」
「そうですよっ!」
 叫びつつ、栞は指差す。
「あれを見てください!」
 指差す先には北川と天野と、そして名雪がいた。
 煎餅を食べている北川の首の後ろの辺りを天野が撫でている。
「北川君、気持ちよさそうだねえ」
 と、名雪がいうように北川の表情はこれでもかというぐらいにふにゃけて目を細めてい
る。
「北川さんはここを撫でると喜ぶんですよ、ほらほら、まだありますよ」
 そういいながら、天野が新たな煎餅を北川に与えている。
「どうですかー、あの見事な飼い慣らしっぷり」
 確かに、完全にやられとるな。
「天野さんに北川さんを取られちゃいますよ〜」
「……別にいいわよ」
「んふふふ」
 笑みを浮かべつつ栞が天野の方に歩いていく。
「天野さん、私はあなたのような人を待ってたんですよー」
「うふふ、そうですか」
「あ、私にも撫でさせてください」
 栞が北川の首を撫でる。ゴロゴロ言い出しそうなほど気持ちよさそうな北川。
 って、いや、違う、こんなことしてる場合じゃないんだってば。
「ちょっと、こんなことしてる場合じゃないでしょう」
 いい具合に香里さんがいってくれたので、俺は天野を家に上げ、真琴を見せることにし
た。
「まあ、上がれよ」
「ふふ、あの子のことですから、寝相が悪くて布団を跳ね飛ばして風邪でもひいたんでし
ょう」
 天野は俺のいった「大変なこと」をその程度と想像しているらしい。
「心してな」
「いったい、どうしたというんですか?」
 俺の態度にどうやら自分が思っている以上のことが真琴に起こっているらしいと感付い
た天野が急に表情を曇らせる。
「まあ、とにかく、見てくれ」
 ドアを開ける。
「……」
 閉める。
「……」
「天野、おい、大丈夫か、おい?」
 ドアの前で凝固してぴくりともしない天野の眼前で手をヒラヒラさせるが、それでもや
はり動かない。
「あ、相沢さんっ」
「じ、実はな」
「あれが真琴なんですね」
「ああ」
「そうですか、とうとう真琴にもこの時が来ましたか」
「天野、いったいどういうことなんだ。あれは」
「まあ、はしかみたいなものだと思ってください」
 思えねえよ。
「妖狐が大人になる時には必ずああなるんです。まあ、気にしないで遊んであげてくださ
い」
 気になるわい。
「なんだ。気にすることなかったんだな」
 北川がきれいさっぱり悩みの無い表情でいった。本当に気にしないつもりだな、こいつ
は。
「よーし、そうとわかったら真琴ちゃんと遊ぼうじゃないか」
 北川はそういってドアを開けて中に入ってしまう。俺たちも恐る恐るではあるが続いた。
「真琴ちゃーん」
 でっかい狐になった真琴に臆することもなく近付いていく北川。
「あーそーぼ」
 ぼこん。
 うあ、思いきり打ち下ろしのパチキ貰った。
「頭ごっつんこだな、真琴ちゃんはホントにこれが好きだなあ」
 北川が立ち上がって真琴の耳を掴んで思いきり額をぶつけていく。
「!……」
 あ、真琴がちょっと怯んだ。
 ぐしゃり、と真琴の報復で北川が再び潰れる。
「さ、相沢さんも」
 酷なこといわんでください、みっしーさん。
「真琴を動かさないといつまで経ってもあのままですよ」
「そ、そうなのか」
「ええ、大人になる際に余ったエネルギーを消費するためにあの姿になるんです。つまり
運動させたらいいんです」
「な、なるほど」
 しかし、あれの相手するのは大変だぞ。現に北川がボロ雑巾みたいになってるし。
「みんなも手伝ってくれ」
「うん、いいよ」
「しょうがないわね」
「それじゃ、応援呼びましょー」
 栞が携帯電話を取り出して誰かにメールを打ち出した。
「真琴ー、遊ぼうぜえー」
 猫じゃらしを振りながら近付いていくと北川を咥えた真琴が反応した。北川を吐き出し
てこっちに向かってくる。北川、ご苦労。
「ほれほれほれ」
 猫じゃらしを上下に揺らすとそれを追って首を上下させる。なんだ、こうして見ると可
愛いもんじゃないか。
 ぶん。
 俺の顔がほころびかけた瞬間、真琴の前足が唸った。それによって起こった風に前髪を
逆立てさせつつ、俺の顔は凍りついた。
「はっはっは」
 とりあえず、物干し竿を持ってきてその先に猫じゃらしを取りつけることにした。
「わー、ふわふわだよー」
 俺の苦労をよそに、名雪は真琴の背中に抱きついてご満悦だ。部屋の隅っちょのほうで
美坂姉妹がボロ雑巾を介抱している。
「ほれほれほれほれほれほれほれ……いい加減疲れたぞ」
 物干し竿をつけたので真琴の前足にざっくりいかれる危険性は激減したものの、片手で
軽く振るわけにもいかず、両手が疲れてきた。
「真琴ちゃーん!」
 いいタイミングで北川が復活してきてまたパチキし始めたので俺はちょっと休憩するこ
とにした。
「あれ、天野はどうした?」
 あいつ、俺たちにだけまかしてどっか行っちゃったのか、それは酷だぞ。
「天野さんなら、応援の人を迎えに行ってます」
 応援か。さっき栞がメール打ってたやつだな。
「お待たせしました」
 天野が戻ってきた。その後ろから入ってくるのは、舞と佐祐理さんに、舞の舎弟連中じ
ゃないか。
「おっきな狐さんと遊べるって聞いて来た」
 と、いうことらしい、動物好きの舞には適任かもしれんな。
「……狐さん」
 舞は真琴を見るや、うっとりとした顔になって近付いていった。
「コンコン、お手」
 舞がそういって手を出すと、真琴がそれに手を乗せた。
「コンコン、偉い」
「あははー、よかったですねー、舞ー」
「見てみい、姐さんが巨大狐に仁義切られはったで」
「さすがじゃのう」
「天下じゃあ、やっぱり姐さんは天下取る器じゃあ」
 すっかり出来あがった舞軍団に任せて、俺はしばらく休ませてもらうことにした。

 んで。
 時刻は夜の十時過ぎ。
 部屋のそこかしこに討死した連中が転がっている。
「あ、天野〜」
 帰ってきて事態を了承した秋子さんとずっと茶を飲んでいる天野のところへ匍匐前進し
ていく。
「相沢さん、お疲れさまです」
「いつまでやりゃええんじゃ〜」
 真琴は依然としてでっかい狐のままである。とりあえず今は六度目の復活を果たした北
川が相手している。
「……まあ、もう少しかと」
 もう少し、ってもう三十回ぐらい聞いたぞ。
「よかったわ、真琴が大事じゃなくて」
 秋子さん、これが大事に見えないんですか。
「あーはーはーはーはー」
 間延びした笑い声を出しながら佐祐理さんが匍匐前進してきた。この人はそこまで疲れ
てないが、ただ単に匍匐前進が楽しくてやってるだけだ。
「大丈夫ですよ、佐祐理が助っ人を呼びましたからー」
 佐祐理さんが舞以外に呼ぶような助っ人っていったら……。
「あ、メール来ました、もう家の前に来てるようだから迎えに行ってきますねー」
 佐祐理さんはそういって部屋から出ていった。
 やがて、声と足音が近付いてくる。
「すいませんねー、わざわざ」
「かまいませんよ、今回は相沢君と川澄さんもてこずっているそうではないですか、恩ほ
ど人を縛るものはありませんからなあ」
「あははははー」
「くっくっくっく」
 ドアが開かれた。
「君たちが敬愛して止まない生徒会長だ。立ち上がれ生徒諸君」
 やはりこいつか……。
「ふむ、想像以上にでかいな」
「よう、久瀬」
「相沢君か、倉田さんに聞いたのだが、あれが本当にこの前の少女なのかね」
「そうだよ」
「まあ、そういうことにしておこう」
 さっぱり信じてねえな、コノヤロウ。
「さて、とりあえずコミュニケーションを取らねば話にならんな」
 恐れる気色も無くずんずん近付いていく。大丈夫か、おい。どう見ても動物に好かれる
ような人間には見えんぞ。
「ぬあ!」
 あ、真琴の尻尾に捕まった。
「動けんぞ、なにをするか、貴様」
 久瀬は、尻尾にぐるぐる巻かれて頭だけ出ている状態になっている。
「ええい、離せ馬鹿者」
 真琴は後ろを向いて久瀬の頭を前足でいじっている。
「貴様、止めんか」
 思いっきし押し潰されて久瀬の顔が歪んでいる。
「あははー、楽しそうですねー」
 確かに楽しそう(真琴が)だけど、いっこうに元に戻る気配が無いな。もう時刻は十一
時を回っている。
「これは、今日は無理そうですね」
 いや、ちょっと待ってくださいよ、みっしーさん。
「それじゃ続きは明日ね、帰るわよ、栞」
「はーい」
 随分とつれないじゃないですか。
「真琴ももう寝てますし」
「ありゃ」
 ホントだ、寝てやがる。
「それじゃ、私たちも引き上げる。狐さん、また明日」
「あははー、ごきげんよう」
 おう、ご苦労だったな、舞も佐祐理さんも舎弟の人らも。
「よし、俺は美坂たちを送っていくぜ」
 うん、そうしてくれ。遅くなっちゃったからな。
「離せ、貴様、離せい」
 ……久瀬は、まあ、泊まってけよ。

 翌日の放課後、昨日のメンツが合流して大部隊になった俺たちは家に帰ってきた。
「おーい、真琴ー」
 ドアを開けると、真琴は相変わらずでか狐のままだった。
「おう、久瀬、ご苦労さん」
「遅いぞ、君たち」
 散々いじり倒されたのか、やつれ果てた久瀬が相変わらず尻尾に巻かれて待っていた。
「会長」
「おお、どうした」
 生徒会役員が同行していた。なんでも今日中に決済してもらわないといかん書類がある
らしい。
「これ、頼みます」
「そうか、今日が期日だったな、わざわざすまんな」
 そういいながら久瀬は書類に目を通す。
「ふむ、そこのところ、上から三段目、今回は時期尚早だ、のあ」
 最後のほう、肉球で叩かれた。
「ほれほれほれほれ」
 猫じゃらしをぶんぶん振って真琴の相手をする。名雪は背中にしがみついて寝てるし久
瀬は尻尾に巻かれてるし北川はパチキ貰って戦線を退いている。
 真琴がじっと俺を見る。真琴のこと好きでいてくれる? そういった時の目に似ている
ような気がした。こいつ、こうなることを薄々わかってたのかな。だから、突然学校にま
で遊びに来たり、あんなことをいったり……。
「真琴ー、俺もこいつらもお前が好きだぞー」
 ぶんぶん振った。
「うー、疲れた」
 さすがに疲労で腕が動かなくなると、舞が後ろから声をかけてきた。
「祐一、交代する」
「おう、まかせた」
 俺は控えていた舞軍団と交代した。
「ふー、舞たちが来てくれて助かったな」
 天野のところへ行くと、天野と佐祐理さんと香里が茶を飲んでいる。
「あんたら、何しとんの」
「舞が私は休んでていいっていうんですよー」
「最近肩が凝ってしまって」
「あたしは働いてるわよ」
「ほう、香里は何かしてるのか」
 茶菓子つまんで茶ぁ飲んでるようにしか見えんぞ。
「……北川君の回復してるわよ」
「北川の回復って……それは栞がやってるんだろうが」
 今もお茶会の横で栞が北川の頭とかに傷薬を塗ってやっている。
「み〜しゃ〜か〜」
 北川が這いずってきた。
「どうしたの、痛いの?」
「うん、痛い」
「じゃ、痛いの痛いの飛んでけー」
 香里がぽむぽむと北川の頭を叩く。
「よし、飛んでった。ありがと、美坂」
 いきなり北川が立ち上がった。
「真琴ちゃーん、あーそーぼー!」
 走っていって、真琴にパチキかました。
「……ね、回復してるでしょ」
 回復っていうのか、あれ。
「お茶どうですか?」
「ああ、貰う」
 天野にお茶を貰ってすする。しかし、いったいいつまでこんなこと続けりゃいいんだ。
天野に聞いても「もう少し」としかいわんし。
「香里ぃ〜」
 名雪がふにゃけた声で香里を呼んだ。
「香里も真琴の背中にべたーってしようよー、ふわふわだよー」
「そんなの……」
「行ってきたらいいじゃないですか、お姉ちゃん、ふわふわなの好きでしょ」
「それは……」
「香里ぃ〜」
「もう、しょうがないわね」
 香里は首を左右に振りながら立ち上がり、真琴の方へ向かった。
「あーもー、気乗りしないけどしょうがないわねー」
 とかいっている、でも香里さん、あなたが今しているような動きを普通はスキップと呼
びます。
「ふわふわー」
「ふわふわねー」
 遅れ馳せながら似ても似つかないように見える二人が親友なわけがわかったような気が
する。
 よし、それじゃあおれもそろそろ復帰しますか。真琴ー、猫じゃらしだぞー。
「ぬうりゃっ!」
 がつん。
 すげえ音がした。
 北川のパチキが真琴に炸裂したのだ。
 真琴の体がぐらりと傾き、どう、と倒れた。
「だー! 真琴ー!」
「うにゅ〜」
「な、何してんのよ、この馬鹿ー!」
 真琴に潰された名雪と香里がジタバタしてる。
「ふう、助かったぞ」
 尻尾から久瀬が脱け出していた。
「どうだ、俺の勝ちだぞー」
 北川は勝ち誇っている。お前は手加減というものを知らんのか。……ああ、いや、手加
減とか適当とかほどほどとかいう言葉は知らないで生きてるんだったな。
「真琴、大丈夫か!」
 俺が呼びかけると反応があった。むくりと起き上がる。
 その視線は一直線に北川へと注がれている。
「真琴ちゃん、おれの勝ちだぞー」
 にへらーと笑っている北川。
 真琴の前足が空を切ってその頭をかっさらっていったのは次の瞬間であった。
 北川がすんごい面白げな体勢でふっ飛ぶ。それを追って真琴が跳んだ。
「あー、さすがにやばい!」
 俺も跳んだ。でも、全然間に合わない。
 真琴の前足が再び北川をふっ飛ばす。
「えらいこっちゃあ、とりあえず真琴を止めないと!」
 俺はみんなを顧みた。
「すまんが僕は肉体労働は不得手だ」
 久瀬がそそくさと部屋の隅っちょに避難する。
「私も最近肩が……」
 みっしーさんもそれに続く。
「えう、私病み上がりなんですよう、ごほごほ」
 栞が香里の後ろに隠れる。
「あたしも頭脳労働専門だし」
 んなわけねえと思うんだが。
「う〜、祐一、ごめんね」
 名雪……は、まあ最初から期待してはいない。
「大丈夫です。舞がいます!」
 同じく隅っちょに避難していた佐祐理さんがいった。
「……任せる」
 おお、舞がいたんだ。頼りになる奴だ。
「狐さん、怒らないで欲しい」
 舞は木刀を捨て両手を広げて真琴に近付いていく。
 ぶん。
 真琴の前足が容赦無く舞を横殴りにした。
「うぅ」
 舞がうなりながら倒れる。
「舞!」
 俺は駆け寄って舞を抱き上げる。鍛えてるだけあって急所を外したのか、それほど大き
なダメージではなさそうだ。
「このでか狐、姐さんに何しやがる!」
「わりゃ、足の一本二本じゃカタつかんぞ」
「待たんかい、おどれら、姐さんがなんかいうてはる」
「狐さんは……悪くない」
「舞……」
 舞は俺の腕の中から立ち上がり、再び丸腰で真琴に向かっていった。
「悪いのは環境を破壊した私たち人間」
 姐さん、そういう問題になっとるんですか。
「狐さんの怒りは驕り昂ぶった人類へ大自然が鳴らす警鐘」
 いや、北川の馬鹿がパチキかましたせいなんですけど。
 真琴が前足を振り上げる。危ないっ。
「真琴ちゃーん」
 横から北川が突っ込んできた。真琴の注意がそちらへ向く。
 ぶん、とうなる前足。
 それを掻い潜って北川が真琴の顔に抱き着いた。真琴が暴れるが、やがて倒れた。
「な、なんだ。どうした」
 北川は抱き着いてただけで何か衝撃を与えたような素振りは無かったぞ。
「ふう、どうやら効いたようですね」
「栞……お前がなんかしたのか?」
「私特製の睡眠薬です。北川さんの服に振りかけたんです」
「なるほど、それで……」
 真琴と一緒に北川まで寝てるのか。
「うふふ、気持ちよさそうに寝てますね」
 天野が真琴を撫でている。
「これは睡眠薬のせいばかりでもないでしょう。きっと、遊び疲れたんです」
 ついでに北川の喉も撫でている。
 ゴロゴロと北川の喉が鳴っている。いよいよヒト科かどうかも疑わしくなってきた。
「うむ、苦しい戦いが終わったな。よくぞ耐え抜いたぞ、皆の者」
 いや、お前、尻尾に巻かれてただけじゃんか。
 しかし、ようやく終わったな。
 俺たちの好きだって気持ち、真琴の奴に少しは伝わってくれたかな……。
「おにぎり食べませんか?」
 秋子さんがドアを開けて顔を出した。
 おにぎりが山盛りになっている大皿を秋子さんが持って入ってきた。
「あ、すんません」
「右半分が鮭で、左が梅干ですから」
「いただきまーす」
 みんなしておにぎりを食っていたら、
「あうーっ!」
 突如、声がした。そういや、真琴と北川をほったらかしてたな、二人ともぐっすり寝て
たから。
 声の元に目をやれば、そこには真琴がいた。狐ではなく、女の子の真琴だ。
「真琴、元に戻ったのか!」
 俺はすぐに駆け寄
「あーうーーーぅぅーーー!」
「な、なんだ」
 またでっかい狐になるんじゃあるまいな。
「あうー、き、北川ぁ〜!」
 さて、北川。
 でっかい狐にもたれかかって眠っていた彼は今や真琴の下半身を枕にすやすや眠ってい
る。
「真琴」
「み、美汐〜」
 天野を見つけた真琴が北川を突き飛ばし、御丁寧に頭を踏んづけてから天野のところへ
走っていった。
「うわーん、北川に汚されたよ〜」
「まあまあ、野良北川さんに噛まれたとでも思って」
「りょーじょく、りょーじょくされたよ〜」
 りょーじょくってのは陵辱のことか。変な言葉覚えやがって、やはりあいつがレディー
スコミックを持っているを見つけた時に張り倒してでも奪っておくべきだったか。
「ん〜」
 ストンピングで目が覚めたのか、北川が目をこすりながら起き上がる。
「北川君」
 香里さんが北川の前に仁王立ちしていた。
「おはよー、美……」
「めっ!」
 足の親指で人中を突く荒技を披露して、香里さんは北川の頭髪のアンテナを掴んで引き
上げた。
「女の子泣かしたら駄目って、いつもいってるでしょっ!」
 北川を引き摺ってドスドスと真琴の所へ行く。
「北川君、ここは責任を取らないといけないわ」
「責任?」
「そうよ、あたしも一緒に謝ってあげるから」
「うん」
「沢渡さん、ごめんなさい」
「真琴ちゃん、ごめん、チンポ以外なら好きにしてくれ、チンポは美坂の……」
 ぐしゃ、と香里が北川を踏んづけた。
「あう……そんなのいらない」
 耳から血を流す北川に怯えまくった真琴は天野の後ろに隠れつついった。
「よかったわね、沢渡さんが許してくれるって」
 ミスした若い衆を必要以上にシバき回して、文句つけに来た堅気を引かせるヤクザの手
口を思い出したりはしないさ。
「おう、ありがとう、真琴ちゃん、また今度遊ぼうな」
 血だらけの歯を出して北川が笑った。
「あう、ま、負けないからね!」
 嫌がりはせんのな、こいつもこいつで。
 さて、みんな引き上げることになったのだが、さすがに今日はでか狐とパチキし合うこ
と五十余回が効いたのかグロッキーの北川を俺が背負って行くことにした。……まあ、こ
いつにも今回は世話になったからな。
 北川んちの途中に美坂家があるのでついでといってはなんだが美坂姉妹を送っていくこ
とになる。
 美汐は舞軍団と一緒に帰ったので安心だろう。
 四人で歩いていく、名雪も着いて来たがったが、いかにも眠そうなので置いてきた。
「今日は疲れましたね〜」
 栞がいうのに、俺たちも同感であった。
「北川君、大丈夫かしら?」
 北川は俺に背負われて眠っている。
「んー、さすがに今日ばかりはしんどかったみたいだな」
「最後の蹴り、そんなに効いたのかしら」
「ん、いや、真琴とパチキしてたせいだろ、それと栞の睡眠薬の効力がまだ残ってるんじ
ゃないのか?」
「そうかしら」
「そうだろ」
「……人中じゃなくって、ボディーにしとくべきだったかしら?」
 いや、正味の話、俺にそんなん聞かれてもわかんないっす。
「また、やり過ぎちゃったかな」
「んむ〜、みしゃか〜」
 北川は香里の夢でも見てるのか、そんな寝言をいいながら……後ろから俺を抱き締めて
くる。止めい、気色悪いわ。
「北川君北川君」
「ん〜」
 北川はその呼び声が聞こえたわけでもないだろうが、返事をするかのようにうめいた。
 一段と声を落として香里が囁く。
「あなたは、こんなあたしのどこがそんなに好きなの?」
「ん〜、みしゃかなとこ〜」
「……馬鹿、それじゃわかんないわよ」
 どん、と香里が北川を押した。
 ばたん。
「あ、ごめん」
「痛えよ」
 北川を俺が背負ってるってことを忘れないでくれ。思いっきり倒れちまったじゃねえか。
「んふふふふ〜」
 栞か、なんだ。
「駒が揃ってきましたよ〜、天野さんがあんなに北川さんと仲が良かったとは好都合です。
なんか見た目お似合いにも見えますし、これで次の手が打ちやすくなりましたよぉ」
 まあ、似合いいうたら似合いかもしれん、トップブリーダーと飼い犬に見えんこともな
かったけどな。
「それに今日はいいこと聞きました」
 そういいつつ、栞が北川の首の後ろを撫でる。
「ふふふー、北川さん、気持ちよさそう」
 右手で撫で、左手で香里を突付く。
「お姉ちゃんもやってみなよ、こっちまで嬉しくなってきますよ」
「いいわよ、そんなの」

 翌日。
 寝過ごしまくって四時間目からやってきた北川が、授業開始三分と経たずに机に突っ伏
した。
 後ろから軽い鼾が聞こえてくる。
 まったく、しょうがねえ奴だな。
 って、授業ロクに聞かないで、窓際なのをいいことに外の風景見てる俺も似たようなも
んかな。
 窓ガラスの向こうに街並みが見える。この窓から見る街の風景は好きだけど、今日は黒
い雲が空を覆っていて、あとで一雨来そうなのが難点か。
 窓ガラスに北川が映っている。気持ちよさそうに寝ている。くそ、なんだかこっちまで
眠くなってくるじゃないか。
 隣の香里はさすがにちゃんと授業を聞いて……はいないな、なんかキョロキョロしてる。
どうかしたのかな? 声をかけてみようかな。そう思って振り向こうとした時、香里の左
手がそろそろと北川に伸びた。
 なんだろう。鼾がうるさいと起こすつもりか、はたまたなんか知らんがとにかく逆鱗に
触れたのでシバく気か。
 香里の左手が北川の首に触れる。ツボか、なんかツボ突く気か。俺が知らない痛くなる
ツボがその辺にあるんだな。
 撫でた。
 撫でる。撫でる。撫でる。
「へー」
 香里がねえ……。
 思わず、呟きが漏れていた。んだもんだから、窓ガラスを中継して俺と香里さんの目が
合った。
 ばっ、と即座に目線を逸らして下を向く。
 肩がわしっと掴まれた。
「見てないわよね?」
「もちろんっす」
 
                                    終




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