かのんイズムAIR






「おーい、相沢」
 その日、学校に着いてすぐに北川に声をかけられた。
「ちょっと話があるんだが」
 いつになく真剣な表情だ。しかし、既に何度も騙されてるので騙されない。実際聞いて
みないとわからない。
 で……聞いてみると時々、本当に重要な話だったりするから油断ならない奴である。
「あゆちゃんのことなんだ」
「なにっ」
 その名を聞いて、こいつまた馬鹿なこと言い出すんだろう、とかいうくだらない警戒は
ふっ飛んだ。
「あゆが、どうした?」
 北川とあゆは隣人である。最近では俺よりもこいつの方があゆと会っている時間が長い。
 それで、最近ちょっと、困っていることがある。
 色々と策略的、といっていいんじゃねえかなあ、そんな格好やあんな格好で俺の部屋で
くつろいでるのはさあ、というような感じで名雪とそれなりのことをしてしまって、付き
合っている俺だが、あゆのこととなると、自分でもどうしようもないぐらいにモヤモヤと
したものが心に沸き立ってしまう。以前はそうでもなかったのに、俺があゆと過ごす時間
が少なくなり、北川のそれが増えていくにつれて、そうなってきた。
 名雪には無論いえず、香里にいったら、
「名雪を悲しませたら、わかってるわね」
 何いってんだよ、そんなんじゃないってば、俺は名雪を愛してる。名雪を悲しませるよ
うなことをするわけがないじゃないか。って十回ぐらいいうまで睨まれた。
 北川があゆと仲良くしていて、昨日は一緒に飯食っただの、あゆちゃんの部屋に遊びに
行ったら思い切り寝ちまって朝になってただの、そういう話を聞くたびに、この二人はそ
ういう仲じゃない、あゆは男とかには今は興味無いみたいだし、北川はこれはなにしろ香
里一筋で一筋過ぎて諸問題を引き起こしてるような奴だから、なんにもあるわけはないと
わかっているのに、やっぱりモヤモヤとする。香里にいったら、
「嫉妬じゃないの? 名雪を悲しませたら……」
 何いってんだよ、そんなんじゃないってば、そりゃ確かにあゆは可愛いし、好きだけど、
俺には名雪という大切な人がいてその名雪の好きとあゆの好きは若干ニュアンスが違いま
して、いや、ホントに名雪とはその、将来結婚するまで視野に入れてまして、って二十回
ぐらいいうまで人差し指と中指を動かしながら睨まれた。
 握り拳じゃなくって指というのが妙に怖くて命がけで弁解したものだ。
 しかし、そういわれてしまうと、我ながら嫉妬というべき感情なのかな、とも思う。
 いや、でも、名雪を愛しているのは本心で、ぽややんとしてるように見えて、必死に俺
を誘うようなところも、計算高いようでいて、素でぽややんなところも、好きだ。
 あゆに対する感情は嫉妬などというものではなくて、あくまでも仲の良い女友達への愛
情であって、まーそのー、違うんです。とにかく、違うんですよ。
「相沢君?」
 北川の隣にいた香里さんが俺の様子を訝しげに見ながら声をかけてきた。
「いや、違うんですよ」
 とにかく条件反射で返す。
「何がよ」
「いやいや、なんでも」
 冷や汗で全身濡れながら、俺はいった。
「でさ、あゆちゃんのことなんだけど」
「お、おう、それだそれ。いったいあゆがどうしたって?」
 北川には、あゆに何かあったら知らせてくれと頼んである。
「これは、お前に知らせるかどうか迷ったんだけどな」
「迷うな、すぐに教えろ」
「あゆちゃんの部屋にな」
「おう」
「三日前ぐらいからかな」
「なんだ」
「男が住んでるんだ。あゆちゃんと一緒に」
「なぁにぃぃぃぃぃ!」
 我ながら、すげえ声が出た。
「ちょっと、それ本当なの?」
 香里も身を乗り出してきた。
「同棲……あの子、そんなふうには見えないけど」
 あゆは、まず見てくれ的にすごくちんまい。仕草言動も子供っぽい。そしていざ話して
みれば、そういう方面の知識はすこぶる乏しい。
 そういうことから、香里もあゆには男を部屋に連れ込むようなイメージは一切持ってい
なかったようだ。
「友達が遊びに来てるのかな、とも思ったんだけど、あゆちゃんが俺んとこに布団借りに
きてさ」
「ほほう」
 こめかみが脈打っているのが自分でよくわかった。
「いつか美坂が泊まりに来る時のための布団があったから貸してあげたんだ」
 ぴくん、と香里さんの眉が一瞬跳ね上がるが、話の続きが気になるので流したようだ。
「そしたら、しばらく貸して欲しい、っていうんだよ」
「へえええええ」
 いかん、冷静でいられん。
「そういうわけで、美坂、泊まりに来るなら布団が一つしか無いぞ」
「行かないわよ」
 あー、指をコキコキさせてる、コキコキさせてる。
「美坂の指ってきれいだよなー」
 北川が、自分の目とか人中とか喉とかを突き刺しかねない凶器を見ながら、うっとりと
している。
 確かに、香里の指は磨き抜かれたみたいにきれいだ。
「そうかしら」
 なんていいながら、満更でもなさそうに自分の目の前に手をかざしている。こんな細く
白い指で畳を貫通できるとは誰も思わないだろう。いや、俺も実際見たことは無いんだが、
たぶん、そのぐらいできる人です。
「いや、指はいいんだ。あゆだ、あゆ」
「うん」
「で、布団はどうした?」
「まだ貸してる」
「そーかー」
「相沢君、声裏返ってるわよ」
 裏返ってるねえ、でも、自分じゃどうにもできんのよ。
「祐一、あゆちゃんだって、女の子なんだよ」
 それまで黙っていた名雪が口を開いた。
「そ、そりゃ、わかってるさ」
 ああ、わかっちゃいるんだよ、一応は。
「男の人を好きになってもおかしくないよ、あゆちゃんは可愛いし、男の人に好きになら
れるのも、おかしくないよ」
「いや、そりゃそーなんだがな」
 このモヤモヤとしたものは、はっきりと言葉にしにくい、例えできても名雪にはいうの
が憚られる。
「嫉妬ね……」
 香里が断定する。いや、だから、モヤモヤしてんだよ、モヤモヤ。そうはっきりいわれ
ると立つ瀬が無くなるじゃなかですか。
「うにゅっ!」
 ほら、名雪が全身の毛を逆立てているじゃないか。
「そうなの? 祐一」
「いやな」
「そうなのよ、そんなもんよ」
 睨むな、睨むな、二人で睨むな。
「うーん、俺も、あゆちゃんは可愛いから男ができてもおかしくないと思うな」
 貴様もそう思うか。
「一度、見に行ってみるか」
「邪魔しちゃ悪いよ……それともやっぱり嫉妬なの?」
「ああ、そんなもんよ、そんなの」
 香里さん、さっきからえらい突き放してくれるじゃないですか。
「あのな、俺だって、あゆに彼氏ができて、二人で幸せに暮らしてるなら、祝福したいよ。
女の子の一人暮らしは、ちょっと心配もしてたし」
 後半はその通りだが、前半にはやっぱり靄がかかっている。俺は、その時、素直に祝福
できるだろうか。
「でも、あれだ、その男がいい奴とは限らないだろう」
 この不安は、本心からのものだ。
「いいたか無いが、あいつはちょっと抜けてるとこあるし」
 いいたか無いが、あいつの抜けっぷりはちょっとどころではない。
「それは、あたしもそう思うわ」
 一転して、香里が俺に同調してくれる。
「あたしも、あの子と話してて、北川君の次ぐらいに騙し安そう、って思ってたの」
「俺が一番なんだな、えへ」
 いや、騙し安い、っていってんだよ、わかってんのか、お前は。
「うー、そういうことならいいけど……わたし、今日部活」
「ああ、そうだったな」
「うーーー、わたし部長さんだから部活に出ないと」
 出たらいいじゃないか、なんで唸って睨みつけおるか。
「わかったわ、名雪。あたしも着いて行って見届けるわ」
「わー、ありがとう、香里」
「なんの話だ、お前ら」
「相沢君が嫉妬してるのかしてないのか、あたしが着いて行って確認する、って話よ」
 全く信用してねえな、こいつら。
「ええい、勘繰るのは勝手だけどな、そんなんじゃないんだ、妹を思う兄のような心情と
思え。思うんだ」
「……やたらとムキになってるのが怪しいから、やっぱり着いて行った方がいいわね」
 怪しいですか。さすがですね、香里さん。

 放課後、俺と北川と香里の三人であゆの部屋へと行った。あゆがバイトから帰ってくる
時間を見計らって時間を潰して行ったので、あゆは既に帰ってきていた。
「誰?」
 ドアをノックすると、あゆはドアを開けた。俺は不安でしょうがない。女の子の一人暮
らしなのに……ここはチェーンロックも無いし、ここで隙間に足を入れられてはおしまい
じゃないか。いや、それとも、今日は男がいるから安心しているのだろうか。
「北川だ。相沢と美坂もいるぜ」
「北川君に祐一くんっ、香里さんも」
「よう、あゆ」
「こんにちは、月宮さん」
「今日はどうしたの?」
「ん、まあ、元気でやってるかなと思ってな」
 男がいるみたいだから様子を見に来た。とはさすがにいえなかった。
「上がっていいか?」
 俺は、自然にいおうとして思い切り失敗して恐る恐る声を出した。狭い玄関にごつい男
物の、どう見てもあゆが履いているとは思えない靴が置いてあったのが目に入ってきたか
らだ。
「どうぞどうぞ、狭いけど」
「かさばるもんは俺んとこに置いてきたから大丈夫だよ」
 と、北川がいうように鞄などは隣の北川の部屋に置いてきてある。北川は「わーい、美
坂の鞄が俺の部屋に来るぞ〜、よし、美坂のは布団にくるんでおくぞ」といって物凄い勢
いで却下されていた。
「なんだ、客か」
 低い、男の声がした。北川の話と玄関の大きな靴から、もうそれはわかっているのに、
あゆが一人で暮らしている――いたはずの部屋に俺の全く知らない男がいる。そのことに
やはり違和感があり、そのことがやはり不愉快だった。
「うん、友達なんだ」
 友達。
 友達、そりゃ、まあ、友達だよな。
 名雪と付き合ってるって、いったもんな。その俺を、友達以外になんと紹介しようがあ
るだろうか。
「……」
 いや、ほら、香里さんもめっさ睨んではることだし、そのへんはもう割り切ってな。
「あゆの友達か」
 どっかりとちゃぶ台の前にあぐらをかいているその男――。
 こいつかっ!
 こいつが、あゆと同棲している男か!
 がっしりとした体格で組んでいる足の長さなどからして相当背は高そうだ。百八十は越
えているのではないか。顔立ちはそんなに悪くはない、目も鋭くって……鋭い、というか。
「国崎往人だ」
 男が、名乗った。
 じろりと、俺たちを横から順に一瞥していく。
 鋭い、っていうか、その目はなんていうかヤバかった。
 堅気じゃねえ、こんな堅気いるわけがねえ。百歩譲っても企業舎弟だ。
「美坂香里です」
「北川潤っす。俺、隣に住んでるんすよ」
「お布団貸してくれた友達って北川君なんだよ〜」
「そうか」
 男は鷹揚に頷く。別に北川に礼をいうわけでもなく、とにかく愛想が無い男だ。国崎、
といったか。
「そっちのは、なんだ」
 そっちの、と来ましたか。初対面の礼儀というものを知らないようだ。
「……」
「なんだ、名前が無いのか」
 怖え。
「相沢祐一……です。あゆの、幼馴染です」
 幼馴染を強調して俺はいった。嘘はついてない……と思う。
「寝る」
 突如そういって、国崎はごろりと横になった。疲れたから寝るのだとしても、同席する
客人へのなんの断りも無い、ただ単にこれからする行為を音声にした、という感じだ。
 俺は真琴と通ずるものを感じて悟る。おそらく、いや、絶対に生来礼というものを学ぶ
機会をほとんど持たずに暮らしてきた天然の無礼者であろう。
 やはり国崎の身長は百八十をやや越えていた。つまり、そんなのにごろりとされた日に
は三畳一間のこの部屋は狭くてしょうがない。
 しょうがないので、香里を国崎の向かい側に座らせ、俺たちはそれぞれ脇に座った。ど
うしてもこの位置だと寝そべる国崎の体に触れてしまうからだ。
 俺は思い切り触れてやったのだが、全く動く気配も無い。もう既に軽い鼾をかき始めて
いた。
「……一体、どういう奴なんだ」
 俺は、北川と香里にひそひそと話しかけた。
 ちなみに、あゆは台所で料理をしていたらしく俺たちを招き入れ、国崎との紹介が終わ
ると「ちょっと待っててね」といって再び台所……っていうか、まあ別室があるわけでは
ないのだが……に立っている。
 鼻歌に混じって時々「うぐぅ」と呻いているが、最近、こいつの作るものは普通に食え
るものになっている。
「俺はいい人だと思うな」
 俺の問いに北川が断言した。
「あゆちゃんが信用してるんだから大丈夫さ」
 すまんがそのあゆがいまいち信用できねえからこういうことになっているのである。人
を見る目がどうのとか洞察力がどうのとかいう以前に、人の悪意に対して鈍感過ぎるのだ。
 んで、断言してるこいつも人間を大雑把に二つに分けると明らかにあゆと並んでニコニ
コしてる種類の人間なので、この答えは予想済み。
 俺が聞きたかったのは、香里の意見だ。
「……ちょっと、駄目人間っぽくない?」
 ぽいかもしれません。
 あゆが甲斐甲斐しく料理を作るのを見てるだけならまだしも見もせずに寝ている。俺だ
って料理はど下手だが、居候だから皿を並べておくぐらいはする。
 しかし、国崎は既に高鼾である。
「まあ、少し様子を見てみましょう」
 栞か北川が絡まない事態においては、基本的に香里は慎重派である。
「うぐぅ〜、できたよ〜」
 鍋を持ってあゆがやってきた。
「ごめんね、みんな、二人分しか作ってないんだよ」
「いいわよ、帰ったら夕食があるし」
「ああ、俺もだ」
「俺も、美坂に夕食代貰ったから」
「ごめんね、北川君にはまた今度御馳走するね」
「おう、材料代は任せろよ。五百円までだけど」
「うぐぅ、五百円なら色々買えるよ」
 あゆは、あれとそれと、と五百円で買えるものを算段している。
 そうかー、北川は、けっこうあゆと飯食ってるんだったなあ。
 そーかー、あゆの手料理を北川はしょっちゅう食っているわけだな。
 俺は、楽しそうに話している北川とあゆを見ていた。
「……嫉妬ね」
「違います」
 信じてください。実は違わないんですけど。
「お味噌汁だよっ」
「おー」
「ご飯」
「おー」
「お新香、自分で漬けたんだよ」
「おー」
 あゆが料理を並べるたびに北川が律儀に感心している。しかし、あゆ、自分でお新香漬
けられるようになったのか、偉いぞ。
「そして、今日のメインの焼鮭。塩味が効いてて辛いのに鮭の味は消えてないんだよ。辛
いからご飯が進むよっ」
「おー、あそこの店のやつか」
「うんっ」
 そうかあー、北川とあゆはそういう共通の話題を持つ仲なわけかー、そりゃそうだよな
あ。
「……嫉妬ね」
 香里さん、鋭過ぎです。っていうか、あんた、もう決め付けてるでしょ。
「往人さーん、ごはんできたよー」
 あゆが声をかけると、国崎はむくりと起き上がり、あゆに渡された箸を受け取るや、凄
まじい勢いで飯を食べ始めた。
 音高らかにお新香を噛み飯を食う、大家の好意で開墾している庭の畑から獲れたという
長ネギを具にした味噌汁をすすり飯を食う。国崎が食べている間に、あゆは塩鮭をむしっ
て骨を取り出したりしている。
「例のやつ」
 国崎が空になった茶碗を出すと、あゆはそれにご飯をよそってむしっておいた鮭の身を
ばらばらと振り掛ける。
「往人さんは、本当にこれが好きだね」
 そういいながら、あゆは急須を持って、ご飯にお茶を振りかけた。おお、塩辛い鮭でや
ると美味な鮭茶漬けか。
 国崎は何もいわずにそれを受け取ると茶碗に顔を押し付けるようにしてサラサラやって
いる。
「ふう」
 やがて食い終わると茶碗をあゆに向け突き出す。あゆはそれにお茶を入れる。
 ぬるくなったそれを一息に飲み干した国崎は、
「あー、うー」
 なんか唸りながら、寝た。
「いただきます」
 国崎が寝てから、ようやくあゆが手を合わせていった。
「んなあああああああー!」
 香里さんがキレた。
「なんなのよ! 完璧駄目人間じゃないのっ!」
 完璧ですか。完璧かもしれません。
「殺す」
 ホントに殺っちゃいそうなので止めないといけない。
「待てっ、香里!」
 がしっと掴んで止めたりしたらシバかれそうなので肩を軽く押さえた。
「あん?」
「北川も止めんかい」
 怖いので北川の応援を頼む。
「んむ?」
 いや、お新香摘み食いしてないで手伝え。
「香里を止めろ、このままだと殺っちまってお縄だぞ」
「それは困るぞ、美坂に会えなくなるじゃないか」
「だから、止めろって」
「美坂、止めろー」
 北川が香里にタックルする。
「てい」
 すんごい絶妙のタイミングで膝を合わせる香里さん。
「相沢君、あんた、あれを黙って見てろ、っていうの」
「いや、それは……」
 なんつーか、まあそのー、危惧通りというか。どうにもこの国崎という男にあゆがいい
ように利用されてるように見えてしまってしょうがないので、俺としても黙ってられない
気分ではあるんだが、香里さんは殺傷力高いっすから。
「よし、こうしよう」
 北川が苦い表情でいった。
「正直、かなり辛いんだが、これしかない」
「なんだよ」
「殺るのは俺が性転換手術してからにしてくれ、一緒に殺れば一緒に捕まる」
 相変わらず、火種を足で踏んで消そうとしたらヘリで消化剤を散布するようなことを言
い出す北川。
「アホなこといってないで今止めろ、大体、女になったら香里と結婚とかできんぞ」
「うっ、そうか。……打つ手無し、だな」
「だから、止めろというとるだろうが!」
「あー、もー、わかったから馬鹿なこといってんじゃないわよ」
 握り拳を下ろし、飛び掛る直前と思われる前傾姿勢から背筋を伸ばして香里がいった。
「相沢君、じゃあ、どうしようっていうの?」
「う、それは……」
 やはりそれはあゆを説得して、こんな男とは縁を切らせるべきだとは思うのだが、具体
的にどうしたものか。
「うぐぅ、祐一くんたち、さっきからどうしたの?」
 飯を食っていたあゆが、大騒ぎしている俺たちに声をかけてくる。
「いや、それはだな」
 お前、その男に騙されてるぞ、といおうにも、いきなりはいいにくい。
「月宮さん、あなた、その男に騙されてるわよ」
 俺の葛藤なんか知ったこっちゃねえとばかりに香里がいきなりいった。
「えっ、そ、そんなことないよ」
「どー見たって、月宮さんをいいように利用してるじゃないの。駄目人間にしか見えない
わ」
「うぐうっ!」
 あゆが鳴いた。ちょっとムッとしている。
「違うよっ、違うよっ、往人さんは駄目人間じゃないよっ!」
 ポカポカと叩いてくる。なぜ俺を叩くか。
「往人さんは、お仕事で疲れてるから、家事はボクがやってるんだよ」
「仕事……してるの、この人」
「してるよっ、それに凄い特技があるんだよっ、駄目人間じゃないよっ」
「特技?」
「うん、人間、一つでも人にできない特技があれば、駄目人間じゃないよ」
「まあ、なにか一芸に秀でているのは立派なことね」
「そうだよ」
「いったい、その特技ってのは?」
 気になったので聞いてみる。
「うーん、凄いんだよ、凄いんだよ、もう、凄いんだよ」
 全く要領を得ない。
「実際見たらよくわかるよ、往人さん、往人さん」
 そういってあゆは国崎を起こそうとするのだが高鼾をかいたままさっぱり目を覚まさな
い。
「ねえねえ、往人さんってば」
 顔を近づけて耳元でいいながら肩を揺する。
「……嫉妬ね」
 いや、俺が何も反応してないうちに決め付けないで下さい。
「む……なんだ」
 ようやく、国崎が目を覚ました。
「往人さん、往人さん、祐一くんたちにあれを見せてあげてよっ」
「あれ? ……あー、あれか」
「うんっ」
「いいだろう、出しな」
 ずい、と掌を上に向けて突き出してくる。
「は?」
「金だ。金を出せ」
 この上も無くストレートな要求である。
「金取るのかよ」
「取る」
 国崎は断固としていった。
「往人さんは、その芸を見せてお金を貰って生活してるんだよ、プロだよっ」
「そうなのか」
「そうだ。俺はプロ。世の中タダで動くのはアマチュアと地震だけだ」
 俺は香里を見た。
「……」
 目ぇ合わせてくれません。
 しょうがねえな、俺が出すか。えっと、小銭あったかな。……ねえな。
「札しかないな」
 俺は、千円札を一枚、財布から取り出した。未練がましく香里に両替してもらおうかと
声をかけようとしたら、国崎の手が凄まじい速さで走ってきてひったくられた。
「毎度」
「わあ、千円だよっ、太っ腹だね」
 貴様ら……。
「では」
 国崎はそういうと部屋の片隅にあったズダ袋から小さな人形を取り出した。
「さあ、楽しい人形劇の始まりだ」
 企業舎弟にいきなりそんなこといわれても楽しそうではない。
 しかし、人形劇か……人形は一体だけのようだし、その人形も動かすための糸や棒がつ
いているわけではない。まさか、仮にもプロを名乗って金を取っておきながら手で掴んで
動かす、というわけはないだろう。いったい……。
「ぬ」
 国崎が低く呻くや、手を人形に向ける。その手と人形の距離は五十センチほど離れてい
る。間には、何も無い。
 ぴょこ、と人形が立ち上がった。
「え?」
 俺と香里は同時に声を上げる。
 立ち上がった人形は手足を動かしている。
「え? え? 何よ、どうなってるの?」
 香里が、思わず手を伸ばし、それを国崎の手と人形の間に持っていくが、人形は動き続
けている。
「ラジコンとか?」
「でも、全然機械的な動きじゃないわ」
「わあ〜」
「おー」
 手も触れずに動く人形の謎に俺と香里があれこれと頭を悩ませ、あゆと北川はなんも考
えんと目を輝かせている。
「ふっ」
 俺たちのそんな様子を見て国崎は口元に笑みを浮かべ目を細める。何かこの後にまたあ
るのか。確かに、この仕掛けの全くわからぬ人形の動きは凄いが、それだけでは金を取っ
てプロとは名乗れないはず。なにか、あるのだろう。俺は、固唾を飲んでそれを待った。
「ふう」
 国崎が息をつく。一息入れて、さて、なにが出るか。
 ぱたり、と人形が倒れた。
 国崎は無言のままその人形を掴み、それをズダ袋に入れる。
「じゃ」
 ごろん、と寝転がった。
「……」
「……」
「……」
「……」
「あゆ」
「なにかなっ」
 俺の問いかけに、あゆは満足そのものの表情で答えた。
「……今ので、おしまい?」
「うん、凄いでしょ、凄いでしょ、凄いよねえー」
 金返せコノヤロウ。
「あの、月宮さん、ちなみに、国崎さんは大体いつもどのぐらい稼いで来るのかしら?」
 俺と似たような精神状態ではあろうが、ビタ一文たりとも損をしたわけではない香里は
冷静さをたもちつつ尋ねた。
「うぐぅっ!」
 なんか、怒った。お前、怒りっぽくなってないか。
「この街には往人さんの芸を理解できる人がいないんだよ」
 つまり、さっぱり稼げやしねえということだな。
「失礼だけど、辛くないの? 一人の時も、楽ではなかったんでしょう?」
「うぐぅ、大丈夫だよっ、ホントだよっ」
 だいぶしんどそうである。
「あのな、あゆ、無理だけはするなよ。ちゃんと食べないと、体壊すぞ」
「大丈夫だよ」
 語気がこれでもかというぐらいに弱い。あんま大丈夫ではなさそうである。
「と、とにかくボクは大丈夫だよ、大丈夫ったら大丈夫だよっ」
「いや、そうはいってもな」
「単刀直入に聞くけど、あの人とは男女の関係なの?」
 香里さん、またストレートなことを……。
「うぐ? 男女って?」
「ほら、あれよ、あれ」
 単刀直入に聞いた割には、つぶらな瞳で返されると対応しきれない香里さん。
「つまり、俺と美坂のような関係かどうかということだよ」
 北川が助け舟を出す。助けてないけど。
「うぐぅ、ボク、往人さんの頭蓋骨が見えるまで殴ったりしてないよ」
「あたしだってしてないわよ……そこまでは」
「えっと、ほら、恋人かどうか、ってことだ」
 しょうがないので、俺がいう。……いいたくなかったんだけど。
「恋人?」
「そうだ。男と女が同じ部屋に住んでるんだ。違う、のか?」
「違うよ。往人さんは好きだけど、違うよ」
 俺は、否定して貰いたかったのかもしれない。あゆがそういって首を振った時、ほっと
――。
「相沢君、あなた今、ほっとしたわね?」
「してませんよ」
 香里が名雪の手の者だということを忘れとった。
 色々と話していたら、時間が押してきた。香里も腕時計を見ている。
「それじゃあ、時間も遅いからもう帰るけど、絶対無理はしないでね」
「何かあったら、すぐに俺か秋子さんにいうんだぞ。あと北川もいるんだ」
「何でも頼ってよ、あゆちゃん」
「うん、みんなありがとう」
 がーがー鼾をかいている国崎と、洗い物を始めたあゆを残して、俺たちは部屋を後にし
た。
「で、どうするの?」
「いや、どうするっていってもなあ、うーん」
 部屋の前で北川と別れ、香里と二人で帰る。問われて、俺は即答できなかった。とりあ
えず、あゆ本人が国崎を受け入れている以上、筋からいったら、俺がとやかくいうことで
はない。……俺が、あゆの恋人ならともかく、そんなんじゃないんだから。
「あたしとしては、とりあえず、あの国崎って人がどういう人なのか、もう少し知りたい
わね。かなり駄目人間っぽいけど……現段階では断定もできないし」
「それじゃあ……あまり気は進まないけど……つけるか」
「それしか無いわね」

 決行は、翌日がいい具合に土曜日だったのでその午後ということになった。どう見ても
朝もはよから働き出すような人間には見えなかったので、午前中で授業が終わったら速攻
であゆの部屋に急行してつけようというのだ。
「おっはよー、美坂に聞いたぞ。国崎さんを影ながら見守るミッションが発令されたらし
いな」
 あゆと一緒にあの男を信じ込んでる北川にはそういうふうに吹き込んだらしい。
「俺の部屋を基地として提供するぜ」
「ああ、すまんな」
「あれ? 相沢……」
 北川が俺の顔を見て首を傾げる。
「おはよう、相沢君。昨日もいった通り学校が終わったら……どうしたの? それ」
 香里も、俺の顔を見て訝しげだ。
「名雪にやられた」
 俺の頬には斜めに生々しい引っかき傷が走っていた。
「なによ、喧嘩したの?」
「お前のせいでな」
 昨夜、名雪が突如俺の部屋にやってきた。
「うにゅぅ!」
 全身の毛を逆立ててご機嫌斜めな様子だったのでどうしたんだ、といおうとしたらその
直前に携帯電話の画面を突き付けられた。

 嫉妬ね、あれは。

 後はもう弁解する前に手が飛び足が飛び、距離詰めて押さえ込んで愛の言葉を囁いてよ
うやく危機を脱することができた。
「まあ、痴情のもつれは第三者の関知するところじゃないとして……」
 お前が関知したからもつれたんだが……。
「どうするの? 今日は、行くんでしょ?」
「あ、ああ」
 俺は名雪を気にしつつ答えた。
「と、いうわけで名雪、俺は今日はあゆの同居人の尾行に行かないといけないんだ」
 名雪は今日も部活である。
「うん、わかったよ」
 非常に物分りがよくて助かる。
「わたし、もう祐一のこと疑ったりしないよ。昨日の祐一の言葉を聞いたから……」
 ああ、あのかつての目覚ましに吹き込んだやつを上回りかねない恥ずかしい言葉な。初
っ端が「俺にはお前しかいない」っていう。
「ちゃんと録音もしておいたから」
 すごい初耳である。色々もつれて裁判沙汰になったら証拠提出に不自由しない女である。
恐るべし。
「いいなあ、相沢」
 いいか?
「俺もたまには美坂に嫉妬されたいな、それだけ愛されてるってことだろ」
「うー、まあ、な」
 実のとこ、そうなんだよな。だから、どうにも憎めないし、可愛くもある。
 放課後、俺と香里と北川はHRが終わるとすぐに学校を出て北川とあゆのアパートへ向
かった。
 とりあえず北川の部屋に入る。そこから北川が何かあゆに用のフリをして訪ねる手はず
になっている。
「いい、ちゃんと演技してね」
 演技とかそういうものがとことん苦手そうな北川に香里が指導している。
「よし、わかった。俺は隣人のフリをして訪ねればいいんだな」
 いや、お前、正真正銘隣人なんだけどな。
「行ってまいります!」
 北川が部屋を出て行き、ドンドンとドアを叩いた。
「あゆちゃん、いるかなあ?」
 すげえ棒読みだ。
「なんだ」
 聞こえてきたのは例の国崎の声だ。あからさまに寝起きですといわんばかりのぼやけた
声である。これで、奴がいることが確認できた。後は北川は、適当に取り繕って引き上げ
ればいい。
「あれ、あゆちゃんは今日は休みじゃなかったかな」
 だから、棒だってば。
「今日は仕事だといっていたぞ」
 あゆの仕事は隔週で土曜日が休みらしいのだ。今週の土曜日は休みだと思ってたんだけ
ど……と見せかけて、全く不自然ではない完璧な作戦だったのだ、棒読みじゃなければ。
「さてと、俺もそろそろ仕事に出るかな」
 しかし、国崎はそういうことを本当に気にしないらしく、別に怪しんでいる様子は無い。
「じゃ、俺は失礼します」
「ああ」
 北川が戻ってきた。
「うん、まあ、バレなかったみたいだから、よし」
 香里は、結果よかったのでよしとするらしく、棒読みなとこには何もいわないで北川の
頭を撫でた……というよりかは軽く叩いた。
「んむふふふ」
 しかし、北川はそんなんでも嬉しくてしょうがないらしい。
 がちゃり、と隣のものらしきドアが開く音がした。
「お、出るみたいだな」
 そういえば、国崎も仕事に出るといっていた。
「行くわよ」
「おうっ」
 ここは、しっかりとその仕事ぶりを見てやろう。
 国崎の歩き方は一言でいえば、やる気が無い。ふらふらと左右に揺れながらなんとか進
んでいるといった具合だ。まだ寝てるんじゃねえか。
 国崎が進む方向は商店街への道だ。収入さっぱりながら何度か仕事をしているそうだか
ら人が集まる場所を既に知っているのだろう。人通りが一番多いのは駅前だが、少し足を
伸ばさねばならない。一番手近なのはやはり商店街だろう。
 あゆが常連のタイヤキ屋をはじめとする食い物屋が軒を連ねていて、国崎はその臭いに
誘われるようにふらふらと歩く。空腹のせいなのか地なのか、必要以上に鋭い眼光で食い
物を見ている。どう考えても、働くよりもみかじめ料を徴収し始める風貌である。
 やがて、国崎が道の端に座り込んだ。すわ、物乞いか。
「さぁ……楽しい人形劇の始まりだ」
 風貌、態度、声音、オーラ、とてもこれからその空間で楽しいことが始まるとは思えな
い威圧感をバリバリに振り撒きつつ、国崎の人形劇が始まった。
 ぴょこぴょこと人形が歩く。ぱたり、と倒れる。
「さぁ……楽しいぞお」
 しかし、国崎の芸の幅はにゃんこのデコより遥かに狭隘であるらしく、歩く、倒れる、
起き上がる、というぐらいしか人形の動作にレパートリーが無い。
 これでは誰も寄り付かない、と思っていたら寄り付いていく人がいた。
「舞、人形劇だって」
 佐祐理さんだ。国崎の目が鋭く光る。
「わあ、どうやって動いてるんだろうね」
 カモだ。カモにしか見えん。
「ねえねえ、舞はどう思う?」
 舞は、さっきからずっと人形ではなく国崎を見ている。その手を見ている。
「できる……」
 舞の表情に緊張が差した。俺も香里も、結局国崎が人形を動かしている種や仕掛けは皆
目わからないのだが、舞には、何か感じるところがあるのか、舞があんな表情をするとい
うことは、やはり何らかの超常じみた力なのか。
「さて……」
 国崎が手を差し出した。
「じゃ、金出しな」
 身の程知らずの物乞いにしか見えないが、国崎としては真面目であろう。佐祐理さんは
……。
「あ、細かいのがありません」
 とかいいつつ、
「はい、千円」
 大盤振る舞いなのであった。
「毎度」
 国崎はその千円を仕舞うと立ち上がり、よせばいいのに愛想よく手を振っている佐祐理
さんに偉っそうに頷いて歩き出した。
 佐祐理さんに貰った千円を持って、国崎は商店街の中華料理屋に入った。後を追って中
に入るまでしないでもいいだろうということで、俺らは店の前に待機。そろそろ、土曜の
午後に何やってんだろうという空気が俺と香里の間に流れ始める。
「ジュース買ってきたぞ、美坂はどれがいい?」
 香里といるだけで幸せな北川だけがなんも疑問を感じないでいる。
 やがて、爪楊枝をくわえた国崎が満ち足りた表情で店から出てきた。
 今日は帰るつもりなのか、商店街を出ようとする。と、国崎が横を見る。その先に、タ
イヤキ屋があった。
「タイヤキか……あいつが好きだったな」
 呟いて、タイヤキ屋に向かった。
「二つくれ」
 タイヤキを二つ買ったようだ。
 そして、国崎は大切そうにタイヤキの入った紙袋を抱えて、商店街を後にした。
「へえ」
 今の行動は香里さんのポイントアップになったらしい。俺は……見直すよりも正直ちょ
っと不安混じりに不快だ。
 あんにゃろう、あゆを懐柔する勘所を心得てやがる。
 道を歩きながら、国崎はタイヤキを食い始めた。アパートであゆの帰りを待ち一緒に食
べるのかと思ったが、どうやら我慢できなくなったらしい。
「ふう」
 一つ食い。そして、二つ目を食い始めた。
「……」
 なんか隣の香里さん内部でポイントダウンが著しいですよ、これは。
「あ……」
 国崎が手の中を見て呟く。
「食っちまった」
 食っちまったのである。一応、やはり当初はあゆに上げるつもりではあったようだ。
「まあ、しっぽやりゃいいか」
 しっぽだけは残っているようだ。
「……駄目人間ぽくない?」
 ぽいです。

「ただいま」
 俺は、ドアを開けて家に入った。あれから国崎がアパートに帰るのを見届けてから百花
屋で話し合いをしていたのでけっこう遅くなってしまった。
 結論としては……っていうか、結論が出なくて、また様子見ということになってしまっ
た。
 香里が慎重なのである。もう国崎を駄目人間、あれと一緒に暮らすのはよくないとほぼ
断定しつつも「月宮さん自身がそんなに嫌がってないみたいなのがネックね」とか物分り
がよいのである。これが栞だったら間違いなく国崎をシバいて追放処分にしているであろ
う。
 かくいう俺も、態度を決めかねている。あゆが、あの男を嫌っていない、むしろかなり
の好意を持っているのは事実なのだ。
 それを権謀術数をもってしてでも追い出すのが正しいことなのか、自信が無い。あゆと
恋人同士じゃなくっても、名雪と付き合ってなければもっと積極的に動いていたかもしれ
ない。
「くそ、こんなんじゃ香里にシバかれてもしょうがないじゃないか」
 実際シバかれそうになったら、しょうがないとか殊勝なこといわんで土下座してでも回
避するが。
「お帰りなさい、あの、ご飯は?」
 秋子さんが出迎えてくれる。
「あ、まだ食ってないです」
 百花屋では、飲み物だけしか頼んでいなかった。
「それじゃあ、すぐ用意しますから」
「はい、お願いします」
 部屋に上がって鞄を置いて着替えて下に降りていくと、真琴や名雪の声が聞こえてくる。
どうやら、食事の最中らしいな。
「はっはっはっ、真琴ちん、そんなに好きなら僕のを少し上げよう」
「あうー、ちょうだいちょうだい」
「よかったね、真琴」
 なんか、知らん人がおるな。
「あのー」
「お、君は? ……そうか、君が祐一くんだね」
 向こうは俺のこと知ってるみたいだ。若い男で、白いYシャツを着ている。ネクタイは
しているが、思い切りゆるめてくつろいだ様子だ。
「祐一お帰り」
「あうあう」
「ああ」
 名雪と、食うのに忙しい真琴に答えて、おれも椅子に座った。この男が座っている椅子
はどこからか調達してきたものらしい。けっこう広いテーブルなので俺が増え、真琴が増
えたところにもう一人二人増えても問題無いぐらいのスペースがある。
「祐一さん、どうぞ」
「はい、いただきます」
 秋子さんがお盆を持ってきたので、その上に乗っていたご飯などなどをテーブルに移す。
「そうそう、祐一さん、こちらの方は橘敬介さん、すぐそこに引っ越して来られたんです
よ」
「橘敬介だ。相沢祐一くんだね、君のことは秋子さんや名雪ちんたちに聞いているよ」
「はあ、どうも」
 一体、どういうわけで、その橘さんがここで飯食ってんだろうと一瞬だけ思うには思っ
たんだけど、そんなもん、なんらかのどうってことない理由で接触した秋子さんが誘った
に決まってる。
「橘さんは単身赴任されていて、一人暮らしなのよ」
 なるほど、確かにそういう話を聞いたら秋子さんならうちで食事でも、と誘ってしまう
だろう。
「真琴ちん、よく噛んで食べなさい」
「あうあう」
 真琴が懐いてる。珍しいこともあるものだ。全然いうこと聞かないでろくに噛んでいな
いが。
「あう、ごちそうさま」
 真琴が箸を置いて、てくてくと二階に上がっていく。
「なんだあいつ、慌しいな」
「早く漫画が読みたいんじゃないかな。さっき、肉まんと一緒に買ってあげたんだ」
 と、橘さんがいう。餌付けか。
 結局、橘さんは飯食って風呂まで入って帰っていった。話した感じ、悪い人には見えな
かったし、良識のある大人の男性という印象を受けた。……受けたんだけど、女の子の名
前のあとに「ちん」とかいうのは止めた方がいいと思った。

 翌日は日曜日だ。
「……いねえのかな」
 俺は、あゆのとこに電話をかけていた。コールすること三十回。全く出る気配無し。
 時刻は十一時。店も開き始めている時間だろう。
「あゆの奴どうしたのかな。国崎と出かけてるのかな」
「嫉妬ね」
「のおっ!」
 香里さん、なんでいるのよ。
「名雪と買物に行くから迎えに来たのよ」
「なるほど」
 名雪と遊ぶ時、基本的に香里はどこかで待ち合わせたりしない。名雪が悪気皆無だが寝
坊する可能性が高いことを知っているからだ。家にやってきて起こして、起きるまでリビ
ングで待っている、というのがいつものパターンだ。
「で、なに? 月宮さん、家にいないの?」
「ああ」
 んでもって、あゆは携帯電話を持っていないので連絡とれんようになってるのである。
「嫉妬ね」
 もういいです、好きなだけ決め付けてください。
「あら、電話」
 香里が携帯電話を取り出す。
「北川君ね、何かしら」
 訝しげである。
「大概くっだらないことなんだけど、栞に何かあったら知らせてくれっていってあるから
出ないと」
 ブツブツ呟きながら電話に出た。お前、俺と同じようなことになっとるな。
「あたしだけど、なぁに? ……え、栞がどうしたの?」
 俺もちょっと聞き耳を立てる。微かに、香里の携帯電話から北川の声が聞こえてくる。
「うん、栞ちゃんが、男と一緒に歩いて、うん、腕組んで」
「場所は!」
 一瞬で沸点越えした香里さんが電話壊れんじゃねえかというぐらいの怒声を上げる。
「商店街」
「すぐ行くわ、大きく移動するようだったら連絡して」
「うん」
 電話を切って、香里がずんずんと玄関に向かう。
「お待たせ香里、わ、そんなに急がないでも」
 階段から降りてきた名雪の前を通過する。
「名雪ごめん、あたし、ちょっと用事できたから」
「えー、どうしたの?」
「なんか、北川から栞のことで連絡があったらしいぞ」
「おはよう祐一……あ、待ってよ、香里ぃ」
 出て行った香里を名雪は追っていってしまった。……俺も行くか。
 俺たちは商店街へとやってきた。香里が北川の携帯に電話を入れるが出ない。
「どうしたのかしら?」
「あ、香里、北川君があそこでべちゃってしてるよ」
 名雪の指差す先に、北川はいた。そして、確かにべちゃっとしていた。
 べったりと地面にうつ伏せに倒れている。あんまし近付いたら引きずり込まれそうな凹
みぶりである。
「どうしたんだろう」
「北川があんなに凹んでるの見たことないぞ」
「もしや、栞に何か……」
 香里が北川に向かって走っていく。
「北川君、北川君、どうしたの?」
「う……美坂」
 香里に抱きかかえられて、北川が目を開けた。
「お、俺、知らなかったんだ」
「何をよ」
「美坂と栞ちゃんの親父さんが違うだなんて」
「ええっ!」
 唐突だが、凄まじい内容の北川の告白に俺と名雪は驚きの声を上げる。
「はあ? 何いってんのよ、あんたは」
 香里は全く動じていない。なんだ、北川の勘違いか。
「わけのわかんないこといってると殴るわよ」
「そうか……美坂も知らないことだったのか」
「だーかーら、何を根拠に」
「栞ちゃんが、一緒にいる男のことを、お父さんって呼んでたんだ」
「……」
 香里が無言のまま手を離し立ち上がった。べちゃ、と北川が落ちる。
「栞は、正真正銘、あたしと同じ両親から産まれたあたしの妹よ」
 力強く断言した。
「そ、そうだよなあ」
「ちょ、ちょっと驚いちゃったよー」
 俺と名雪は、ほっとしていった。しかし、そうなると……。
「栞ぃ〜」
 あ、香里さんがグラグラ煮立ってますよ。
「そういう類のいかがわしいバイトするような子だとは思わなかったわ」
 やっぱり、そういういかがわしいアレですかね。
「栞!」
 くわっ、と空腹の熊も伏目がちになりそうな顔を上げると走り出した。
「お、俺たちも行くぞ」
「べちゃってしてる北川君はどうしよう?」
「べちゃっとさしとけ、そのうち甦る」
 べちゃっとしてる北川をその場に残して、俺は香里の後を追った。
「栞っ!」
 しばらくすると目標を見つけたらしく香里が声を上げつつ加速する。その先には、栞が
男と一緒に歩いていた。北川がいっていたように腕を組んでいる。相手の男はなかなかハ
ンサムな……って、あの人は……。
「おい、香里、ちょい待」
 一応、止めたんだけど間に合わず、そもそも香里さんの耳に入るはずもなく。
「しぇぁ!」
 男は、香里の蹴りを喰らってふっ飛んだ。
 一飛びで肩に駆け上がってその足を軸足に顔面にサッカーボールキックだ。相変わらず
むごいことしますね。
「わ、お父さん!」
 栞がふっ飛んだ男に向けて叫んだ。
「栞っ!」
 香里が、ぐい、と栞の頭を掴む。
「あんたのおとーさんは二人いるの? んん?」
「えう、頭がみしみしいってます。えう」
「待て待て待て」
 とりあえず、俺はなんとか香里をなだめて栞の頭がみしみしいってるのを助けてやった。
「どういうことか、説明してもらいましょうか」
「えう」
 香里の、人を殺せる眼光に恐れをなした栞が俺の後ろに隠れる。
「相沢君」
「ま、まあ、待てよ、そんな顔されたら栞も説明したくてもできないだろう」
「相沢君、寺田屋事件て知ってる?」
 知ってますよ。オイごと刺せ、のアレだよね。
「し、栞、ここはちゃんとお姉ちゃんと向き合ってだな」
「嫌です」
「そういわんと」
「えう」
 こいつ、バックとったポジションをなんとしても維持しようとしてやがる。
「祐一さん、お願いです。助けてくださいよう」
 お前、お願いしながらストールで首絞めるなよ。
 視界に白い幕がかかり始め、あ、マジで俺、ストールで絞め落とされるのか、と思った
時、名雪が北川を引き摺ってやってきた。
「待ってよ〜」
 優しい名雪のことだ、ほっとけいわれても北川を放っておけなかったのだろう。足持っ
て引き摺ったら顔面を地面にこすりまくるからほっといた方がよかったんだけど、そんな
とこまで頭が回らな、いや、いい子ですよ、凄く。
「あ、北川さん、助けてくださいよう」
 防御用なら俺より北川の方に信頼と実績があるらしく、栞がすかさず北川の後ろに隠れ
ようとする。
「あれ? 北川さん、どうしたんですか? べちゃってしてますよ」
「あんたが父さん以外の男をお父さんとか呼んでるからでしょうが」
「え、北川さん、そんなことでこんなべちゃっとしてるんですか」
「北川君は単純だから、あたしとあんたの父親が違うとか思ってショック受けてんのよ」
「違いますよう、あれは単なるビジネ……心と心の触れ合いですよう」
「心の触れ合いねえ」
「そうなんですよう」
 めっさ懐疑的な香里さんの視線に対して、北川を心配そうに抱き起こすような素振りで
実は盾にしている栞が答える。
「そういや、さっき栞と一緒に歩いてた人……」
「あ、お姉ちゃんが蹴飛ばしたから死んだかもしれませんよ」
「ちゃ、ちゃんと加減はしたわよ」
 加減したんならトゥーキックは無いと思うな、僕は。
「ていうか、あの人、橘さんじゃなかったか。橘敬介さん」
「あ、そうか。祐一さんたちはご存知なんですね」
「お前は、どうやって知り合ったんだ」
「真琴さんの紹介です。橘さんは、単身赴任で娘さんに会えないんですよ」
「単身赴任というのは聞いてたが、娘さんがいたのか」
「そうなんですよ、だから、私や真琴さんが、娘代わりになってたんですよ。善意の産物
ですよ」
「そうだったのか」
「そうなんですよ、善意です。善意」
 いや、あんま強調せんでいい、胡散臭くなるから。
「あ、橘さ……もとい、お父さんはどうなったんでしょう」
「そうだな、死んでたら大変だな」
「だから……加減したってば」
「すぐに見に行きましょう。善意で」
 橘さんがふっ飛んだ方向に向かうと電信柱の根元に倒れていた。これが北川だったら電
信柱の心配をするところなのだが。
「お父さん、お父さん、大丈夫ですか」
「う……」
「あ、生きてます」
「だから、あたしは北川君以外は全力でやらないわよ」
「お父さーん、お父さーん」
「う……栞ちん」
「そうです、栞ちんです。お父さんが心配でしょうがない栞ちんです。善意です」
「橘さん、相沢祐一です。立てますか?」
 俺が、手を伸ばすと、橘さんはしっかりとした手付きでその手を握った。ぐい、と引き
上げる。
「大丈夫そうだな」
 この人も、実はけっこう耐性のある人なのかもしれない。
「よかったね」
 名雪もとても喜んでいる。……お前、いちいち北川引き摺ってこないでいいんだぞ。
「うーん、一体何がどうなったんだ」
「すいません、うちの姉が勘違いをしまして」
「姉?」
「これがそうなんですけど、私とお父さんの関係を疑ったりして、もう恥ずかしいたらな
いです」
「……まだ疑ってるわよ」
 これ呼ばわりされた香里は不機嫌そうだ。
「ああ、話は見えた」
 橘さんが頷いた。
「お姉さんは、妹が見知らぬ男と一緒にいて、しかもそれをお父さんなどと呼んでいる。
それで、あらぬことを考えてしまったのだろう。それも無理は無いことだ」
 橘さんは背広姿だが、その上着の内ポケットに手を入れると財布を取り出した。
「僕はこういう者です。栞ちんには、一時的に娘を演じてもらっているだけで、いかがわ
しい関係ではありません」
 財布と思ったのは名刺入れだったようだ。橘さんは名刺を取り出し、香里に渡した。
「はあ、どうも。栞の姉の、美坂香里です」
 思っていたよりも遥かに常識的な対応に、香里はやや面食らったようである。ド変態だ
と決め付けていたのだろう。
「そうだ栞ちん、何か買って上げる約束だったね」
「うー、でも私、今欲しいものが無いんです」
「そうか、じゃあお小遣いを上げるから、何か欲しいものがあったら買いなさい」
「わぁーい、大切に使いますう」
 栞はとても嬉しそうだ。
「やっぱり、今の世の中一番強いのは現金です」
 そりゃそうかもしれんけど、そういうことは声に出していっちゃいけません。
「香里、香里、べちゃってしてる北川君はどうしよう」
 名雪が引き摺ってきた北川の処置を香里に委ねる。
「あー」
 香里はつかつかと歩み寄り、跳ね毛を掴んで引っ張り上げると一発平手打ちをした。
「しっかりしなさい、北川君」
「んむー」
「つか、寝てんじゃないわよ、起きなさい」
 そりゃ香里さんが正しい。お前、寝てんじゃねえよ。
「しゃっきりしなさい」
「うん」
 ようやくしっかりと立った北川が、栞と橘さんを見る。
「ど、どうも、北川です。栞ちゃんとは仲良くさせてもらってます」
「そんな挨拶はいいから」
 ぺし、と香里が北川の頭を叩く。
「さてと、僕はそろそろ失礼するよ。栞ちん、今日はありがとう」
「いえいえ」
「橘さん、夏休みにでも娘さんに会いに行かないんですか」
 名雪が、尋ねた。そうか、長期休暇が取れれば、橘さんも娘さんに会いに帰れるかもし
れないな。
「いや……」
 橘さんの顔が曇る。仕事が忙しくて休みが取れないのだろうか、と思ったが……。
「娘には、ちょっと会えないんだ」
 そういった橘さんの声と顔は、そんなことが理由じゃないと告げていた。
「ご、ごめんなさい」
「名雪ちんが謝ることは無いさ」
 慌てて頭を下げた名雪に、橘さんはいった。
「それじゃ、失礼するよ」
「はい」
「また今度」
 橘さんは去って行った。
「かなり、まともな人みたいね、ちんとかいう以外は」
 香里さん的にも、ちん以外は好感触のようだ。
「そういうわけなんですよ〜」
「そうだったのか」
 あっちゃの方では栞が北川に橘さんとのことを説明している。
「栞ちゃんは本当にいい子だなあ」
 北川の反応を見ると、絶対本当のこといってねえです。
「ねえねえ香里、このまま買物行く?」
「そうねえ、荷物持ちもいるし」
 俺と北川のことらしい、まぁ、いいけどさ、暇だし。
「私も行きます」
「わーい、美坂の荷物持ちだ」
 さて、それじゃ駅前に行くかということになり移動したのだが。
「あ、祐一、あゆちゃんだよ」
 駅前に着くなり、あゆと遭遇してしまった。
「楽しい人形劇だよっ、ホントだよっ」
 あゆは、必死になって道行く人に呼びかけている。
「……」
 その傍らでジュースらしい缶を持った国崎が胡坐をかいている。横を向いて不機嫌そう
だ。あれでは、いくらあゆが必死に人を呼んでも誰も立ち止まらないだろう。
「あれがあゆちゃんと一緒に住んでる人なの?」
 そうか、名雪と栞は国崎のこと知らなかったか。
「駄目人間ぽくないですか?」
 ぽいぽい。
「あ、祐一くん」
「よう」
 あゆが俺たちに気付いて声をかけてくる。国崎はちらりと見たが、やはり不機嫌そうに
横を向いている。
「えっと、仕事の手伝いか?」
「うん」
 しかし、表情からして、成果は芳しくないようだ。
「最初は、ちょっと人が集まったんだよ」
 駅前の繁華街で今は日曜の午後だ。特にこれという目的も無くぶらついている人間も多
いだろうから、そこで何かすると呼び掛ければ少しは人が集まってくるだろう。
「でも、往人さんの凄い芸を見てもウンともスンともいわないんだよ。最近の日本人は感
情に弾みが無いと思うんだよっ」
 いや、弾みようが無いだろ、あの幅の狭い芸。
「……」
 香里が、すっ、と国崎の前に進み出た。
「月宮さんがこんなに一生懸命に手伝ってるのに……何をやっとるかっ!」
 踏ん付けた。なおも追撃しようとする香里の前にあゆが我が身を投げ出す。
「止めてよ、往人さんは今は梅チュー飲んでやさぐれてるけど、ホントはできる子なんだ
よっ」
 梅チュー飲んでたのか、この野郎。
「それじゃあ、私がお客さんになりましょうか。ただし、お金を払うかどうかは芸を見て
から決めます」
 見かねたのか、栞が提案する。お代を後払いというのはしっかり者の栞らしい。……そ
れで正解だし。
「あー、わたしも見る見る」
 名雪はほわほわとネギ背負ったカモの顔でいった。
「往人さん!」
「……うむ」
 意気込んだあゆに応えて国崎が頷いた。残ったいた梅チューを一息に飲み干し梅臭い息
を吐く。
「よーし、楽しい人形劇の始まりだ」
 ボディーブロー喰らって前のめりにダウンしたみたいな格好した人形に向け国崎が手を
かざした。
「……ふー、ふー、ふー」
 息が荒い。ああ見えて、実は気力体力を使うことなのかもしれない。もし超能力の類だ
としたら、それも当然だろう。
 国崎の手が、小刻みに震え始めた。アル中じゃあんめえなこの男。
 ぴょこ、と人形が立ち上がった。
「わー」
「糸とか使ってないですよね、なんで動くんでしょうか」
 名雪と栞の目が輝く。……ここまでは、けっこう普通に凄いんだよな、これ。
 ちょこちょこちょこ。ぺたり。むくり。ちょこちょこちょこ。
 歩いて座って立って歩いて。
 あれからろくに時間が経っていないのだから当たり前だが、国崎の芸の幅は1ミリたり
とも広がっていなかった。
「ふっ」
 国崎がニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
 人形はその場に座り込んでいる。
「往人さん、お疲れ」
「おう」
 あゆから梅チューを渡された国崎がぐびりと一口やってから手を出した。
「心ばかりで構わんぞ」
「え、うー、えっと」
 名雪は、なんかいいたそうにしながらもおずおずと財布を出す。
「私は一円も出しませんよ」
 さすが栞、ぴしゃりといった。
「なに、ただ見か」
「こんなので金取れると思ってんですかっ!」
 栞がキレた。もう珍しいことでもなんでもないんだが、キレた。
「……」
 うわ、めっさ凹んではるがな。
「うぐぅ……往人さんはこう見えても繊細なんだよ」
「でも、不思議は不思議です。……どうでしょう。タネを教えてくれるなら五百円あげま
す」
 輝く五百円硬貨を掌に乗せて栞がいった。いくらなんでもそれっぽっちの金でタネ明か
しをするとは思えんが。
「タネといっても……そんなものは無い」
「またまたぁ、そんなわけないじゃないですか。……千円でも駄目ですか?」
「千円か……しかし、無いものは無い」
 国崎の目はあからさまに金欲しそうであるが、タネ明かしは頑として拒んだ。
「むう、そこまでいうなら」
 栞が鞄の中から携帯電話を取り出した。栞はストラップに小さなねこのぬいぐるみを使
っている。そういえば、名雪も柄違いのねこ持ってたな。
「これを動かしてみてください」
 すっ、と遠ざけつついった。国崎は触れるどころかよく見ることもできなかった。
「さあ、どうですか? 動かせたら五百円あげますよ」
「なにっ」
 国崎の目が光る。すぐに手をかざした。震え始める。
「往人さんっ」
 あゆが梅チューを渡すと一気に飲み干した。
「よし」
 その瞬間、あれ程震えていた手が、ぴたりと止まった。……いや、本当に大丈夫だろう
な、こいつ。
「おうっ!」
 一声。
 やる気だ。つまり、やれるということ。
 栞ばかりか、俺も香里も息を飲む。結局、国崎の芸の無さは嫌というほどわかってもタ
ネに関してはさっぱりなのだ。どうしても国崎持参の人形に何らかの仕掛けがしてあるの
だと思っていた。
 それが、栞の鞄に入っていた、国崎が手を触れてもいないぬいぐるみを動かそうという
のだ。
 ぴょこ、と栞の掌の上にねこが立ち上がった。
「えっ」
 見るまではやはり、あの人形以外では無理だろうと思っていた。しかし、確かに、栞の
指定したぬいぐるみが立った。よちよちと歩き、こてんと倒れる。
「そいつは手足が短いから上手くいかん」
 国崎のいう通り、そのぬいぐるみはずんぐりとした手足が短いものだったので、歩かせ
るのは難儀そうであった。
「だが、動かすことは動かしたぞ」
 国崎が突き出した手の上に、栞は黙って五百円を置いた。
「わぁー、すごい。わたしのクロちゃんも動かして欲しいよー」
 名雪が大喜びで自分のぬいぐるみを取り出す。
「ふっ、いいだろう。金払えよ」
 国崎は名雪のぬいぐるみも動かしてみせた。
「可愛いよー、はい、五百円」
 なんか、五百円が相場になったようだ。
「お、俺も五百円あげるからこの美坂人形で可愛いポーズを、めちゃ」
 北川が潰された上に香里に美坂人形を没収されている。
「あー、香里。それわたしが作ってあげたんだよ、返してあげてよー」
「あんたかっ!」
 そんな連中を横目に栞は考え事をしているようだ。
「超能力……ですかね?」
 やがて、栞がいった。俺は、咄嗟には答えられない。にわかに信じ難いことだが、事も
無げに栞と名雪のぬいぐるみを動かされると、真琴や舞を見て、そういうことは世にあり
うると思っている俺としては、それを信じざるを得ない。
「ふっ、今日は千円の稼ぎだ。よし、あゆ。なんか食い物買って帰るぞ」
「わぁい、今日は大漁だね」
「ちょっと待ってください」
 意気揚々と引き上げようとする二人を、栞が呼び止めた。
「なんだ。金なら返さんぞ」
「そんなことじゃありません。あなたのそれが超能力……おそらくはサイコキネシスであ
ることは認めましょう」
「うむ」
 国崎は、サイコキネシスってなんじゃ、という顔をしていたが、頷いた。
「確かに、すごいですけど。たぶん……いえ、絶対にまた明日から閑古鳥ですよ」
「な、なにぃ」
「あなたは力を無駄使いしています。そんな力があったらやり方次第でなんぼでも稼げま
すよ」
「稼げる?」
 国崎の目がギラつき始める。
「そうです。もうガッポガッポで笑いが止まんないですよ」
「ラーメンライスもいくらでも食えそうだな」
「そんなの、ラーメン屋ごと買っちゃえばいーんですよ」
「店ごと!?」
「そーですっ!」
 俺は香里を見た。
「おい、お前の妹、なんか悪さ企んでないか?」
「そ、そんなことないわよ。ちゃんとやっていいことと悪いことの区別はついてるわよ、
あの子は」
 ……そうだろうか。
「俺は、正直いって、人形を動かしてそれを見せて金を稼ぐことしか考えていなかった。
何か他にガッポガッポの上手いやり方があるのか」
 国崎が栞に改めて尋ねる。
「まあ、一番最初に思いつくのは賽銭ドロボーですね」
 めっさ悪い子である。
「警察沙汰は勘弁して欲しいな」
 国崎は眉をしかめる。叩けばいくらでも埃は出そうな男だ。
「うぐぅ、ボクはホゴカン(保護観察処分)中だから警察沙汰はまずいよっ」
 あゆも、ぶんぶんと首を横に振る。
「うふふ、一番最初に思いついたってだけですよ。そんなリスク高いことはしません。あ
んまり儲かりもしませんしね」
「そうか」
「それがいいよ、警察は駄目だよ、うん」
「わかっていますよ。国家権力は敵対するものじゃなくて利用する……まあ、それは置い
といて」
 と、いいながら、物を横に置く動作をする。悪い子なんだけど、そういう仕草はえらい
可愛かったりする。大悪人の素質十分である。
「ええっと……往人さん?」
 確認するように栞がいう。そういえば自己紹介の類はしてなかったな。
「国崎往人だ」
「はい、私は美坂栞です」
 ぺこりと頭を下げる。……可愛いんだよな、悪いこと考えてるんだろうけど。
「では往人さん。大勢の人に尊敬され、お金もガッポガッポになりたいのなら、そのため
の多少のリスクは覚悟していますね」
「ああ」
「さっきもいったように、表立って国家権力とことを構えるわけではありませんが、一部
の人には、インチキ、ペテン師といわれるかもしれません。その覚悟は?」
「インチキ、ペテンといわれるのは慣れている」
 国崎はきっぱりと答えた。
「いいでしょう。それではお教えしましょう」
「おう」
「国崎さん、宗教やりましょう」
 案の定そういう方向性か。
「宗教?」
「そうです。世の中種と仕掛けでだまくらかして大儲けしてる教祖さまがいるんですから、
本当の超能力を持っている国崎さんは間違い無しですよ」
「おお、俺のこの力はそんなにおいしいものだったのか」
 一瞬で、先祖代々受け継いだ田畑に目ん玉飛び出る値段をつけられた農家みたいな目つ
きになる国崎。
「はい、はじめは超能力セミナーか何かで会員を集めてゆくゆくは宗教法人にしましょう。
税制優遇がなんといってもおいし過ぎますからね。会員を増やしてそれを票田に政治家に
取り入れば法人認可を貰うのはそんなに難しくは無いはずです。伝手も少しありますし。
そうなったら……えうっ!」
 香里さんが拳骨でこめかみをグリグリして栞の雄弁を遮った。
「えう、みしみしいってます。えう」
「そういういかがわしいことしちゃ駄目っ」
「えうー、儲かるのにー」
「儲かっても駄目」
 それでも未練げな栞を香里さんが睨みつける。
「おい、ガッポガッポの話の邪魔をするな」
 国崎が不満げに口を挟んでくる。
「うっさい!」
 香里さんが人差し指第二関節部を国崎の両目の間に炸裂させる。
「あんた、そんないいガタイしてるんだから、肉体労働でもすればそれなりに稼げるでし
ょう」
 確かに、国崎は体格はいい。力も強そうだ。今は一回り小さい女の子に耳掴まれてイワ
されてるが。確かに、ガタイはいいのだ。
「肉体労働だと……」
「それなら」
 こめかみをさすっていた栞が北川を見る。
「北川さんに聞いてみたらどうでしょう。北川さんは新聞配達だけでなく時々他のバイト
もしてますし」
「んむ?」
「そういってましたよね、他のバイトを幾つかやったって」
「おう、金のいいバイトならやったことがあるぜ」
 とにかく、香里と、そして栞にも、頼られると嬉しくてしょうがない男なので、満面の
笑みを浮かべながら胸を張る。
「一番割がよかったのは留守番のバイトだな」
「留守番……って、電話番かなにか?」
 香里が訝しげに尋ねる。そうだとすると、あんまり実入りのいい仕事じゃなさそうなん
だが。
「いや、電話とかは無くてさ、家の人が留守にしてる家に何日か泊まってればいいんだ」
「そんなことでお金貰えるの? 何か、ペットがいてそれの世話するとか、そういうこと
なのかしら?」
「いや、寝ててもいいし、テレビ見ててもいいんだよ。飯はカップラーメンとかレトルト
食品が置いてある」
「いったい、何するのよ?」
 香里の疑問は当然だ。なんか、すっげえ楽そうに思えるんだが。つか、それ、うちの居
候二号に紹介してくれんか。
「時々人が来るからそれの応対するんだ。中にはけっこう乱暴な人もいるんだよ」
「へえ」
 なんか、話が段々と物騒になってきて高給バイトという感じがしてきた。
「その間、その家を借りてるということになってるから、賃貸契約書見せて引き取っても
らうんだけど、中には暴れ出す人もいてさー」
「……」
 香里さんが眉間を手で押さえながら難しい顔をし始めた。
「北川君、それ、留守番じゃなくて占有屋だから……」
「え? なんだそれ?」
「まあ、詳しいことはいいから、とにかく、もうその手の話には乗らないようにね」
「美坂がいうならそうする。それに、最近全然話が来ないんだよな。不景気だからなぁ」
「不景気だと、お金出してお留守番頼まないんだろうね」
「うぐぅ、そうだね」
 名雪とあゆも不景気説に納得して頷いている。
「不景気だと競売物件占有してもあんまりおいしくないと聞いたことがあります」
「……確かに、動くなっていったらテコでも動かない北川君は適任だとは思うけど」
「おい、これ以上用が無いなら俺は帰るぞ」
 一連の話に一応は耳を傾けていた国崎が、もう自分とは関係無い話になったと見たのか、
そういって帰ろうとする。
「まあ、待ちなさい」
 香里がむんずと後ろ襟首を掴む。
「とにかく、もう少しなんとかしなさい」
「そういわれてもな」
「うぐぅ、往人さんの人形劇面白いのに」
 あゆは本気でそう思っているらしく、国崎の人形劇が駄目出しされまくって残念そうだ。
「とりあえず、単調なのをなんとかしないといけませんよ。人形を二つ動かせないんです
か?」
 栞が尋ねると国崎は首を振った。
「大きい人形ならばなんとかなるが、数が増えると難しいな。それぞれに違う動きをさせ
るとなると、かなり難しい」
「うーん、人形が二体になれば絡ませることで面白くなるかと思ったんですが……」
「人形を変えたら?」
 ほわほわした顔でいったのは名雪だ。
「ねこさんにしたらガッポガッポだよ〜」
 そういう可能性も無いとはいえんが、水瀬家の財政が破綻する恐れがある。
「でも、見るからに可愛らしい、動物のぬいぐるみとかはアリかもしれませんね。その人
形もよく見ると可愛いように見えないこともないんですけど、どうしても通好みっぽいで
す」
「ぱっと見で目を引くには、そういうのは有効かもしれないわね」
 わいわいがやがやと、何が可愛い、ねこが可愛い、と話している女性陣から少し離れて、
俺はやることもなく突っ立っていた。
「俺は、美坂人形が一番いいと思うけどなあ」
 なんか下手なことで口を挟んで裏拳でシバかれたりするのも嫌だしな。
「む」
 国崎が、突如眼光を鋭くして彼方の一点を凝視する。
「商売だ」
 人形を手に取ると道のど真ん中に立った。
 国崎が見ていたものが、段々と大きくなってくる。
 舞と佐祐理さんだ。二人で仲良く連れ立ってやってくる。
「楽しい人形劇の始まりだ」
 二人の行く手を遮って国崎がいった。すげえ悪者っぽい。
「あ、舞。昨日の人形劇の人だよ」
「……」
「ほら、舞。今度会ったら見せるっていってたじゃない」
「うん」
 舞が真剣な顔をしている。
 人形が、立ち上がった。
「なに!?」
 国崎が、驚愕している。
 人形を動かしているにしては、国崎の様子がおかしい。全く集中しているように見えな
いのだ。もっとこう、人形を動かしている時の国崎は、真剣な顔をしていたはずだ。
「……」
 舞。めっさ真剣である。
「まさか……舞が動かしてるのか?」
「その通りです。舞は昨日あの方の人形劇を見てから徹夜で練習したんですよ」
 佐祐理さんが解説してくれる。
「ところで、人形使いさんと祐一さんはお知り合いなんですか?」
「いや、俺じゃなくって、あゆの知り合いなんです。ちなみに、国崎往人っていいます」
「国崎さん、国崎さん、国崎さんですか。そうですか」
 佐祐理さんが何度か繰り返して国崎の名前を覚えようとする。
「ぬうっ」
 国崎が鬼の形相で手を突き出すと、人形の動きが止まった。
 小刻みに震え始める。これは……二人で人形をそれぞれ違うように動かそうとして、双
方の力がせめぎ合っているのか。
「……」
「うぬぬぬ……」
 舞は表情に変化が乏しいとはいえ、二人の表情からすると国崎が押されているようだ。
「……えい」
「うぬわっ!」
 弾かれたように人形が動き出し、同時に国崎がふっ飛ぶ。
「往人さんっ!」
 あゆが慌てて、飛ばされて倒れた国崎に駆け寄る。
「こ、こいつ……」
 国崎はやや呆然としている。国崎はけっこう大柄だ。それが飛ばされたのだから、舞の
「力」はやはり相当なものだ。おそらく……国崎のそれよりも強い。それを悟ったからこ
その国崎の声と表情なのだろう。
「ごめん、つい」
 舞はちょこんと頭を下げて謝った。人形を動かそうとして勢い余って国崎をふっ飛ばし
てしまったのだろう。
「……面白い。お前、勝負しろ」
 勝負もなにも、たった今盛大に負けたような気がせんでもないのだが、国崎は舞を睨み
つける。
「待ってください」
 栞が入ってきた。
「勝負ですか。勝負はいいですね。お金になりますよ」
「なにっ?」
 この期に及んで金の音を聞きつけて国崎の目が血走る。
「せっかく対決するんならそれをお金にしないでどーするんですかっ! 川澄さん川澄さ
ん」
 栞が舞を呼んでコソコソと何やら話している。
「国崎さん、勝負は明日の午後五時から、ここで。取り分は5:3:2になりました。国
崎さんが5です。異存は無いですね」
「……なんであと二つあるんだ」
「川澄さんが3で、私が2です」
「……お前も取るのか」
「取りますよっ! 十分の二なんてプロモーターとしては良心的過ぎますよ。ハネるのが
仕事のプロモーターとしては失格といってもいいですよっ!」
「そういうものか」
「そーいうもんですっ」
 それからも栞は「取って当然のものを取らないんだから良心的」というのを言葉を変え
て吹き込みまくり、国崎を納得させてしまった。
「ふー、上手くいきました」
 本来なんの権利も持ってないはずのとこに強引に割って入って利権をむしり取るやり口
はまさにヤクザである。
「えう、祐一さんが失礼なこと考えてます」
「考えてねえ」
「私だって色々と働くんですよ」
 むー、と栞が可愛い顔で怒っている。……もう騙されないぞ、俺は。
「それじゃ、私は根回しに行ってきます」
 そういって、栞は行ってしまった。
「くそ、帰って英気を養うぞ」
 国崎も立ち去る。つまり、寝るんだな。
「それじゃあね、祐一くんたち」
 あゆも、そそくさと国崎に着いていった。
「私も帰って特訓する」
「じゃあ、行こうか」
 舞と佐祐理さんも帰ってしまった。
「……買物、行くか?」
「なんか、疲れたわ。百花屋にでも寄って、帰りましょう」

 翌日は月曜日だ。教室に着いたら、
「はい、二十枚ほどお願いします」
 朝っぱらからプロモーターになんか渡された。
「一枚五百円ですから」
「はぁ……」
「それじゃ、私は自分の教室に行きます」
 栞はさっさと行ってしまった。
「……なあ? あんな奴だったか?」
 姉に聞いてみる。なんかあんな奴だったような気も凄いするのだが、ここまで金に執着
してはいなかったようにも思う。
「あの子、最近お金貯め出したのよ」
「なんか欲しいものでもできたのか?」
「そうじゃなくて……うん、相沢君たちになら、話してもいいわね」
 香里は少し声をひそめる。
「具体的な金額はいえないけど、あの子の治療費入院費……けっこうなものだったのよ」
「う……やっぱり、そうか」
 そうだろうとは見当はついていたものの、香里たちはそんなことは一言もいわないし、
俺たちのほうでも聞くのは憚っていた。
「家のローンはあと三年の予定が十年に延びたし、あたしは奨学金を受け取るようになっ
たわ。それと貯金はほとんど無くなったわね。あの子が全快したからこんなふうにいえる
んだけどね」
 と、香里はいうのだが、こっちとしては笑って聞ける話でもない。
「あたしたちにしてみたら、それでも家を手放してはいないんだし、その日の食事に困っ
ているわけでもない。死ぬのが決まってたようなあの子が生きていてくれることへの引き
換えとしては、本当に大したことないことなのよ」
 また少し、香里の声のトーンが落ちた。
「でも、鋭い子だし、ああ見えて、色々と背負い込んじゃってるのよ。……あたしたちを
心配させまいとして口にはしないけど、万が一また発症することがあったら……その時の
ためのお金を貯めてるみたいなの」
「そうだったのか」
「その気持ちはわかるから……あんまりあくどいことしない限りは止めないつもりなの…
…宗教関係は止めるけど」
「なるほどな」
 俺が相槌を打つのと、名雪と北川が香里に抱きつくのが同時だった。
「香里ぃ〜、わだし、そんなこと全然気付かなかったよお」
 ぐじゅぐじゅに泣いている。
「みしゃか〜、俺もさっぱり気付かなかったぜえー」
 ぐっちゃぐっちゃに泣いている。
「ちょっと、名雪、止めてよ。そんな気にしないで。……抱きつくなっ!」
 最後のは北川にいった台詞だ。もちろん同時に拳が炸裂している。
「みしゃか」
「何よ」
 名雪の頭を撫でながら北川の頭を踏ん付ける香里さん。
「俺、馬鹿で鈍いから美坂に隠し事されるとさっぱりわかんないんだ。だから隠さないで
くれ。頼むから」
「馬鹿ねえ」
 そういうと、香里は、足をどけて北川の頭を、手でぽんぽんと叩いた。
「……あたし、もう閉じ込めたりしないから。本当に辛かったら、みんなにいうから……」
 ええ話やがな。栞も、家族を思う気持ちからの行動だったんだな。

「……たった五枚ですか」
 会場の商店街に行くと栞がいたので、十五枚のチケットを返したら、家族を思う気持ち
からか、栞にすげえ睨まれた。
 しょうがねえじゃねえかよー、香里と北川と名雪と天野にはお前が既に売りつけて俺の
ただでさえ乏しいツテを潰したんじゃねえかよー。なんとか、斉藤とか、あんまり話した
こともない女子とかに売ったんだからな。
「まあいいです。たこ焼き買ってくださいよう」
 会場には、たこ焼きとかの屋台が何軒か出ていた。その一つで栞にたこ焼きを買ってや
る。一箱五百円だ。
「どうですか? 売れてますか?」
 たこ焼きを受け取りながら、栞が親父に声をかける。
「おう、かなり売れてるぞ。金は後でな」
「はい」
 栞はそういって、隣のタイヤキの屋台を見て、そこに客が数人いるのを見るとさらにニ
コニコと笑み崩れた。
「おい、金ってなんだよ」
「会場回りに出てる屋台でものが売れたら10%が私に入ってくるんです」
「ほ、ほー」
 そういうことになっておったのか。
「む、なんですかその目は」
 いや、わたくし、そんな、気に障るような目をしてますでしょうか。
「私が一番切符(チケット)売ったんですよっ!」
「そら、そうだな、うん」
「祐一さんは五枚売っただけじゃないですか、じゃあほら、百円あげますよっ!」
 前から逆ギレ癖のある子だったのだが、最近、一方的にキレることが多くなった。
「い、いや、そんなの俺は……」
「いーですよ、取っておけばいいじゃないですか」
 断ったのだが、無理矢理ポケットに百円ねじ込まれた。
「それとたこ焼きも一個あげます。はい、あーん」
 突然そんな可愛くあーんとかいっても俺は騙されないぞ。……そのたこ焼き俺が金出し
てその上10パーお前の懐に入るんじゃないか。
「はい、あーん」
「あーん」
 でもまあ、一応くれるなら貰っとく。
「あ、北川さん、お疲れ様です」
 北川がこっちにやってくる。肩にかけたタオルで額を拭っている。そういや、こいつ、
用事があるとかいって昼飯食ったらフケてやがったな。
「なんだ北川、会場の準備してたのか」
「おう、栞ちゃんに頼まれたんだ」
「北川さんにもたこ焼きあげます。はい、あーん」
「あーん」
 栞にたこ焼きを貰うと、まだ何かやることがあるらしく、北川は手を振りながら行って
しまった。
「うふふ、北川さんってなんでもいうこと聞いてくれるから大好きです」
「お前、北川は何事にも限度を知らない奴なんだから無茶させるなよ」
「大丈夫ですよ、私は北川さんのこと好きですから」
「……まあ、でなきゃ香里とくっつけようとかしないか」
「はい、北川さんはお姉ちゃんのこと好きなくせに私に普通に優しくするんですよね」
「ん?」
「最初はいくらなんでもお姉ちゃんの関心を買おうとする下心が少しはあるのかと思って
たんですけど……信じられないことに本当に無いみたいなんですよ、そういうのが」
 まあ、もう少しあった方がいいぐらいに裏表が無い奴だからな。
「私、お姉ちゃんと北川さんと三人で一緒にいるのが夢なんです」
「そうか」
「切れ者のお姉ちゃんを代表にして、行動力のある北川さんを実働部隊にして、私は表向
きは一番下の肩書きで黒幕になってビジネスやるのが夢なんです」
「……そうか」
「あ、そうだ。祐一さんもどうですか?」
「俺?」
「はい、私……できれば祐一さんとも一緒にいたいです」
 また意味深な発言を……そりゃ、栞は可愛いと思うし、ある程度の付き合いのある人間
を不幸にするような悪どさは無いのはわかっている。それよりも、味方にさえすれば実は
かなり頼れる奴だ。でも、俺には名雪が……。
「なんかあった時に頭を下げに行く役目の人がいないんですよ。北川さんでもいいかなと
は思うんですけど、なんかの拍子にお姉ちゃん関連のことで、本人以外には理解できない
理由でキレちゃう可能性ありますし」
「……」
「どうですか? ……私、祐一さんと一緒にいたいです。頭下げてりゃいーんですよ」
「断る」
 断りましたよ、物凄い速さで。

「往人さん、右右、左左だよ」
「おう」
 国崎がセコンドのあゆの指示に合わせて人形を動かしている。まだ舞は来ていないよう
だ。
「勝負って、結局どうするんだ?」
 俺は、「世紀の血戦 遺恨対決に終止符」という看板を見上げながら栞に尋ねた。
「それぞれに人形、あるいはぬいぐるみなどを動かして戦ってもらいます。ダウン五回で
負けとなります。あと、テンカウント内に人形を起こせない時も負けです」
「ファイブノックダウン制か」
「はい、最初は力の限りやってもらおうかと思ったんですけど、それだとわざと力入れな
いで温存する戦法が一番強くなってしまうので」
「なるほどな」
 一応色々と考えているようだ。
 午後四時五十分、舞が佐祐理さんと一緒にやってきた。
 セコンドの佐祐理さんを残して一人で商店街の片隅に作られたオクタゴンに入ってくる。
前には、既に国崎が待っていた。
「これ」
 舞が下に置いたのは、佐祐理さんがプレゼントしたというアリクイのぬいぐるみだ。け
っこう、ずんぐりとして安定性はよさそうだ。ていうか、国崎の人形と比べてかなりでか
かった。
「……」
 国崎はそのサイズを見て明らかに怯んだが、戦意喪失までには至らず、炯々とした眼光
で舞を睨みすえている。昨日ふっ飛ばされたのを実はけっこう根に持っているらしく、遺
恨対決じみてきた。
「それでは、始めてください。くれぐれもいっておきますが、お客さんはお金出して来て
るんだということを忘れないでください。レディー……ファイ!」
 栞の合図で、戦いが始まった。
 国崎の人形がよたよたと前進していく。
「先手必勝だよ、往人さん」
「おう」
 国崎の人形が意外に素早い動きで舞のアリクイの懐に入り、右のアッパーを突き上げた。
アリクイの尖った口先の先端部分にヒットし、アリクイはくるくると回転しながら浮き上
がった。
 そうか、ぬいぐるみは、いくら大きくても重さはたかが知れている。どんどん先手を打
って倒してしまうべし、ということか。
「えい」
 舞が一声かけると空中のアリクイがやや動いた。そのまま、すとん、と見事に着地した。
「お返し」
 アリクイが突進した。国崎の人形は思い切り弾かれて宙を飛ぶ。
「ぬわっ!」
 なんか、国崎まで宙を飛んでいた。また、勢い余ってしまったらしい。
 金網にぶつかってなんとか停止した国崎は顔を上げる。人形がくるくる回りながら落ち
てくるところだった。
 人形は、四つんばいになって着地したが、如何せん手足が細い。くにゃりと曲がって危
うくダウンするところだった。
「ちょっと待て」
 国崎から物言いがついた。
「不利だ」
 確かに、二足歩行側に露骨に不利である。
「うーん、それじゃ、一応こちらで用意した弾があるんですけど、それ使います? 安定
性ではあちらのアリクイに負けないと思いますが」
 栞が手持ちの袋からゴソゴソと何かを取り出す。
 袋から出てきたのは、舞のアリクイと同じぐらいの大きさの象のぬいぐるみだった。足
は太く、これなら相当安定しているだろう。ちなみに色はグレー。
「お、いいものがあるじゃないか。使わせてもらおう」
 国崎は人形をあゆに預けて、栞から象のぬいぐるみを借りた。
「ちょっと栞ぃ!」
 俺たちとは対極の位置に陣取っていた香里が、鬼の形相で金網を揺すり出した。
「おいおい美坂、壊れるってば」
 隣に座っていた北川が金網を押さえつけている。この俄か作りのオクタゴンの金網、確
かにそんなに強くない。X−1程度の強度なのであんまし香里さんが揺すったら壊れる。
「あんた、それ、あたしのえれふぁんとくんじゃないのよ!」
「えう、バレました」
「なんだよ栞、それ、香里のなのか」
「はい、お姉ちゃんが小学校二年生の頃に買ってもらったぬいぐるみです。それをちょっ
と借りてきたんです」
「そうか」
 とりあえず、香里のネーミングに一定のパターンがあることはよくわかった。
「ちょっと貸してくださいよう」
「駄目よ、そんなの、なんかあったらどうすんのよっ」
「えー、子供の頃のぬいぐるみなんだからいいじゃないですかー、まさか未だに可愛がっ
てるわけでもあるまいし」
「そんなの!」
 しかし、ここで香里は気付いた。栞が切符売りまくったためにこの場にはうちの生徒が
多い。それらの間で、あの美坂香里がぬいぐるみに執着してることへの会話がひそひそと
囁かれているのだ。
「……あ、あんまり手荒に扱わないようにね、子供の頃の思い出の品なんだから」
 思い出の品をあくまでも強調して香里は座った。
「はい、それでは試合再開してくださーい」
 アリクイと象のえれふぁんとくんががっぷり四つに組み合った。
「往人さん、鼻を使うんだよ」
「おうっ」
 えれふぁんとくんの鼻がぐるりと回ってアリクイの足をすくった。上半身にかかってい
た力の方向とは逆の方へと足を払われてアリクイがたまらずに倒れる。
「ダウン!」
 背中からべったりと倒れたアリクイを指差して栞が宣告する。
「チャンスだよ往人さんっ、しっちゃかめっちゃかだよっ!」
 いや、お前がしっちゃかめっちゃかだから、落ち着け。
「よし」
 倒れたアリクイの上にえれふぁんとくんが乗っかって、鼻と耳を使って巧みに押さえ込
んでいく。
「審判、押さえ込みだ!」
 いきなり俺ルール追加だ。
「押さえ込み!」
 審判、俺ルールを認める。
「っ! 押さえ込まれた。返さないと」
 対戦相手もものすご自然に国崎ルールに則っている。
「きゃー、可愛いー」
 ギャラリー(栞が誘っただけに女子生徒が多い)は、手足の短いアリクイを、同じく手
足の短いえれふぁんとくんが鼻と耳も使って押さえ込んでいる姿に歓声を送る。
 大概、ここまで条件が揃ったらなんでも通るもんすよ。興行なんて。
「ワーン、ツー、ス」
「えいっ」
 舞が手に力をこめるとアリクイがカウント2.9で跳ね返した。えれふぁんとくんが宙
高く飛ぶ。
「ぐわっ!」
 んでもって、国崎も宙高く飛んでいる。
 フェンスのてっぺんに思い切り落ちた。あれ、背中いっちゃったぞ。
 ぼてっ、とえれふぁんとくんも転がる。
「ダウン!」
「ま、待て、直接攻撃するの止めろ」
 脊髄近辺にいい感じに衝撃を受けた国崎が、息も絶え絶えに舞にいった。
「んー、イエローカード! ロストポイント1ですっ!」
 栞が舞を指差していった。
 これで残りポイントは国崎4に対して舞が3になった。
「気をつける」
 舞は、そういって、本当に気をつけているらしく、それからはアリクイが見るからに力
弱くなってしまった。
「うおおおおっ」
 好機と見たのか、国崎が躍起になって攻め掛かる。
 舞の額に汗が浮いていた。先ほどまではそんなことはなかった。どうやら力を押さえる
方が神経を使うらしい。
 一応、メチャクチャ真剣な勝負なのだが、見てくれ的には手足の短いぬいぐるみが二体
でもぞもぞしてるだけである。
「可愛いー」
 でも、可愛いらしいので興行的に全く問題無しである。
「おらっ!」
 えれふぁんとくんの鼻が唸った。どうも、アリクイのとんがった口先はえれふぁんとく
んの鼻ほどの柔軟性が無く、鼻を押さえるのにはどうしても一歩遅れてしまうようだ。
 アリクイが倒れ――
「っ!」
「ぐわ!」
 舞が思わず全力を出したらしく、国崎が飛ぶ。捻りを加えて頭から金網に突っ込むとい
う、わざとやってんじゃねえかと疑いたくもなる念の入った飛び方であった。
 その派手なパフォーマンス(だとみんな思ってる)に大歓声が上がる。
「イエローカード!」
 舞の残りポイントが2になった。
 栞が舞に近付いて何かいっている。注意しているのだろう。
「その調子で派手に頼みます」
 頼んでた。
「ふー、この調子なら国崎さんが勝つでしょう。国崎さんも昨日今日始めた人に負けたら
立つ瀬が無いですからね、顔を立てておかないと」
 顔ねえ……。
「たぶらわ!」
 栞が立てようとしている顔が、また金網に突っ込んだ。
「くそ、痛え」
「ごめん」
 顔面をさすりながら起き上がる国崎に謝る舞。これでもかというぐらい無表情で反省の
色は見えないかもしれんが、心底反省はしているはずである。
「……おい、審判」
 国崎が栞に声をかけるが、栞はあらぬ方向を見ていて、その声を聞いてようやくそちら
に顔を向けた。
「ダウン!」
 ひっくり返っているえれふぁんとくんを指差していった。
「ちょ、ちょっと待て、その前にイエローカードだろう!」
「えー、今のぐらいならそこまでは……」
「んなわけあるか、メチャクチャ痛かったぞ」
「国崎さん国崎さん」
 なんか、コソコソと話している。こいつがコソコソしてるということはロクなこと話し
ていないだろう。あ、俺からしか見えないとこで五百円渡したぞ。
「審判コノヤロー、今度からちゃんと見ろコノヤロー」
 形ばかりの文句をいって、国崎はオクタゴン中央に戻っていった。
 その後、力を押さえ気味の舞を国崎が押しまくって倒し、これで舞は残り1ポイント、
しかしその後に追い詰められた舞が思い切り本気出してえれふぁんとくんと国崎が飛びま
くり、審判の栞があらぬ方向を向いていて国崎にダウンを宣告、2ポイントを一気に取り
返したのであった。
「両者とも、あと1ロストポイントで負けとなりますっ!」
 アリクイとえれふぁんとくんが最後の勝負を決しようと組み合う。
「最後なんだから、どかんと頼みます、どかんと」
 小声で栞が二人にいう。
「どかん」
 舞が思い切り突っかけた。例によってというかなんというか、国崎とえれふぁんとくん
は悲しいぐらいに軽々とした様子で飛んだ。
 国崎は金網の上端へ腹を打ち付けて止まったが、軽量のえれふぁんとくんはそれをさら
に越えた。くるくる回るえれふぁんとくんは、勢いがついている。ちゃんとした姿勢で着
地したとしても弾力があるためにその反動でひっくり返ってしまうだろう。
「うぐ」
 ぽふ、と、あゆがえれふぁんとくんをトスした。
 トスした直後に栞を見て、両手を上げて「バンザイ」をして自分は触ってないとアピー
ルする。そんなわけないのだが、興行的に栞がそれを流した。
「あゆ、すまん」
 国崎が返ってきたえれふぁんとくんを受け止める。
「おい、もうどちらも限界だ」
 どっちかいうたら限界なのは国崎である。
「こうなったら、最後の一発で勝負をつけよう」
 つまり、あと一発で国崎が尽きるのだろう、色々と。
「わかった」
 よしゃいいのに、舞は頷いた。
 えれふぁんとくんとアリクイがやや距離を置いて向かい合った。
「なんだ、もう終わるようだな」
 久瀬がやってきた。何人か生徒会の人間を連れている。
「よう、久瀬。来たのか」
「ああ、栞くんに、付き合いで買えといわれてチケットを30枚ほど押し付けられたので、
せっかくだからな。しかし、仕事が長引いてしまってな」
 押し付けられてんじゃねえよ、お前も。
「うおおおおおっ!」
「……む」
 えれふぁんとくんとアリクイが、とてとてと動き始めた。
「真っ向勝負だ!」
「わかった」
 一直線にお互いへ向けてとてとてと短い足を交差させて向かっていく。
 ぶつかる寸前――。
「あ」
 えれふぁんとくんが、思い切り引いてスカした。
 べちゃっ、とアリクイが真正面から思い切り倒れる。
「んーーーー」
 栞がたっぷり五秒ぐらい唸りながら、物凄い真剣な顔でこれ以上はもう無理だと訴える
国崎と、まだまだ余裕ありげな舞を見比べてから、
「ダウン! 国崎さんの勝ちですっ!」
 宣告した。
 国崎はその場にへたり込んで、あゆに介抱されている。
「負けた」
「頑張ったねー、舞」
 しょぼんとしている舞を、佐祐理さんが慰めている。
 北川が金網を片付けだす。
 香里さんが、えれふぁんとくんをあらゆる角度から見て傷物にされてないか確認してい
る。あ、国崎に一発蹴り入れた。
「ん? 何かと思ったら、何かやっていたのかな?」
 散っていく人並みと逆流して現れたのは橘さんだ。
「お父さーん」
「やあ、栞ちん」
「実は困ってることがあるんです」
「む? 何かな?」
 ……なんかコソコソと話している。
 やがて栞が物凄い勢いでやってきて久瀬から、押し付けたチケットのうち余っている二
十数枚を奪い取っていった。
 栞と橘さんの間であからさまに金銭の授受があったようだ。
「お父さんのおかげで切符余らなくて大助かりです」
「はっはっは、栞ちんのためなら」
 メチャクチャ悪い子である。
 えれふぁんとくんのチェックに、香里がかかりきりじゃなかったら、たぶんグリグリい
かれてただろう。
「どうだ、みんな、ご飯でも食べに行かないか? 奢るよ」
 橘さんは、栞にボラれた上に、えらい気前がいい。単身赴任で、実家には奥さんと娘さ
んがいるであろうに、そんな金使って大丈夫なのだろうか?
「わーい」
「うぐぅ、ありがとう」
「よし、行くぞ、ラーメンライスだ」
「わたし、イチゴサンデー」
 しかし、おれの危惧をよそに、どいつもこいつも遠慮しやがらねえのであった。
「……まあ、いいんじゃない? ……けっこう大人の人って子供に奢って上げるのが好き
だったりするのよ」
 と、香里さんもいうてはるので、みんなでさっさと金網等々を片付けて百花屋に向かっ
たのであった。

「はっはっは、みんなどんどん食べなさい」
 という橘さんの言葉に、遠慮しない連中が遠慮しないで頼んだものが次々に運ばれてき
てテーブル上を埋めていく。
 そのうちに酒が出る時間になり(百花屋は八時以降は酒が出る)当たり前のように酒が
入ってきて収拾がつき難くなってきた。
「……ふう」
 香里は、一人落ち着いてカクテルを飲んでいる。酔っ払って絡むことも多いが、基本的
に酒は落ち着いて一人で飲むのが好きだといっていた覚えがある。
「うわ、みしゃかが二人いるぞ、すげ、うわ、みしゃかが二人!」
「うっさい!」
 しかし、隣に酔っ払った北川がいる状況で落ち着いていわれるわけもねえのであった。
「川澄さん、どうぞ」
「うん」
「ほらほら、倉田さんも」
「ありがとうございます。それと栞さん、佐祐理のことは佐祐理と呼んでくださいねー」
「はい、そうさせて貰います。それじゃあ、川澄さんのことも、舞さん、って呼んでいい
ですか?」
「うん、かまわない」
 常日頃から、舞と佐祐理さんに渡りをつけたがっていた栞がここぞとばかりに取り入っ
ている。
「食え、あゆ。タダ飯だ」
「うんっ」
 国崎とあゆが、タダ飯喰らいの好機逃さじとばかりに掻っ込んでいる。
「それで、どうなんだ。学校では」
「うん、わたしは陸上部の部長さんだから、走ってるよー」
「そうか、それは凄いな」
 橘さんは名雪と話している。
 俺も、ぼちぼちと食い物を摘んでいた。
「相沢さん、箸が進んでいないようですね」
「天野か……いたんだな、お前」
「います。後ろの方で見てまして、みなさん気付いてくださらないので影のようにここま
で着いてきたのですが、それでも気付かれませんでした」
「……い、いや、すまんな」
 けっこう、いっぱいいっぱいだったんだ。
「しかし、いいのかな、こんなに食っちゃって」
 遠慮深い天野が、同意してくれるものと思っていったのだが、天野は意外にも「いいん
じゃないですか」と答えた。
「あの、橘さんでしたか。とても嬉しそうですし」
「まあ、確かにな」
 なんか、無闇に嬉しそうである。そんなに娘さんに会えないのが寂しいのかな。
「遠慮するなよぉ! みんな橘ファミリーじゃないか!」
 ファミリー扱いである。
 飲んで食って騒いで、途中から天野が呼んだ真琴まで加わって凄まじいことになった。
「カードでお願いします」
 平気な顔してゴールドカードを出す橘さん、やはり金持ちらしい。
 店を出たところで、栞が声を上げた。
「お父さん!」
 一瞬、橘さんがそれへ反応するが、栞の目は彼の方を向いてはおらず、人ごみの中の男
性に注がれていた。
「栞、香里」
 美坂の親父さんだ。仕事帰りらしい。
「おかえりなさーい」
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
 美坂父は、俺たちにも挨拶すると、二人の娘と連れ立って帰っていった。
「いい顔をしていたね、彼女たち」
 橘さんが、いった。さっきまでかなり酔っ払っていたのに、少し、顔から赤みが消えた
ようにも見えた。

 それから一週間が何事も無く過ぎていった。国崎は相変わらずあゆのところに転がり込
んだままで、こないだの舞との対決で得た収入を食い潰しながら、金にならない芸をやっ
ているらしい。
 金曜日の放課後、様子を見に行ってみようと、俺と名雪と香里と北川と栞で、商店街に
行ってみた。
「あ、やってるよ」
 名雪が逸早くそれを見つける。
「楽しい人形劇だよっ、ホントだよっ」
 仕事帰りに合流したのか、あゆがまた呼び込みをしている。
「人形vsねこだよ、凄いよ」
 なんかと戦う路線に目をつけたらしい。
 しかし、ねこは明らかにやる気無さそうなのであった。それを人形がちょいちょい突付
くが全く反応せず、そのうちにぷい、とどこかへ行ってしまった。
「ねこさん、ねこさん」
 追いかけようとする名雪の後ろ襟首を掴みつつ、俺は声をかける。
「儲かって……なさそうだな」
「今日は三十円も収入があったんだよっ」
 一円玉が十五枚入っている。
「あ、みんなどいて、車来たわよ」
 香里が注意を促す。一台の乗用車が、徐行してきた。
 その窓が開いて顔を出したのは橘さんだった。後続車がいないのを確認してからエンジ
ンを止める。
「やあ」
「どちらか行かれるんですか」
「ああ、ちょっと、週末の休みを利用して、娘の所にね」
 なんでもないことのようにいった。以前の口振りから、そんなに気軽に会えなさそうな
様子に見えたのだが……。
 それを察したのか、橘さんはにっこりと微笑んだ。
「実は父さん、みんなに隠していたことがある」
 そ、そうなんすか、父さん。
「父さん、妻をだいぶ以前に亡くしてしまってね。その後に面倒を見るべき娘のことを妻
の妹に預けて、放棄してしまったんだ」
 優しそうで、その上、家族――娘に執着を見せていた橘さんからはイメージしにくい酷
薄な父親像だったが、本人がいうからには、本当のことなのだろう。
「十数年も経ってから、何度か、引き取ろうとしたんだが、その義理の妹が会わせてもく
れなくてね。……無理もない話だ。それで諦めかけていたんだが……この前、栞ちんたち
がお父さんに見せた笑顔を見てね……」
 自惚れかもしれない。と橘さんはいった。
 そんなことはありえないのかもしれないけど、と橘さんはいった。
「……娘のあんな顔が見たくなった。そのためなら、あいつに殴られても蹴られても、娘
を引き取ろうと思う。そのことを、頼もうと思う」
「橘さん……」
「行ってくるよ。君たちに、僕の娘を会わせることができる日が来たらいいな」
 そういって、橘さんはエンジンをかけた。
「その、頑張ってください!」
「きっと、大丈夫ですよ」
 俺たちは口々に橘さんを励ます言葉を口にした。
「ああ」
 ゆっくりと車が動き出した。
「実は、裁判所から半径五十メートル以内に近付くなと命令されているんだけど、行って
くるよ」
「え、ちょ、待」
 一気に加速して、橘さんの乗った車は走り去っていった。
「いや、ちょっと、まずいんじゃないか?」
「……聞かなかったことにしましょう」

 日曜の午後、みんなで遊んで、名雪と一緒に帰ってくると、橘さんが真琴と一緒に飯食
っていた。
「あ、橘さん」
「やあ」
 晴れ晴れとした笑顔だ。俺は思わず、辺りを見回す。もしかしたら、すぐそこに、見知
らぬ女の子がいるんじゃないか、と思って――。
「いやぁ、妹にきっぱり断られてしまってね」
 橘さんは、いった。
「そうですか」
「で、でも、大丈夫ですよ。いつかきっと」
 名雪が、慌てつつも、心底から願うように橘さんにいった。
「まあ、覚悟はしていたことだ」
「……あの、橘さん?」
 俺は気付いた。橘さんの顔に、なにやらギザギザとしたような跡がついているのだ。
「ああ、これかい?」
 そういって、橘さんは顔を撫でた。
「妹は、バイクに乗っていてね……」
「ひ、轢かれたんすか」
「三往復されたよ」
「き、きっつい妹さんですね」
 まあ、裁判所がアレして捕まらなかっただけ、よしとすべきか。いいのかなあ。

「うぐぅ、ボクもお父さんいないから、気持ち少しわかるよ」
「そうかい、よし、あゆちん、なんか買ってあげよう」
「タイ焼きがいいな」
「俺はラーメンライスだ」
 とかなんとかいうことになっていると北川から通報があった。
「なんか、橘さん、ほとんど毎日来てるぞ」
 だ、そうだ。
「嫉妬ね」
「してねーよ」
 してるかもしんないけどな。
「ふーっ」
 ほら、全身の毛が逆立ってるからさ。

                                   終





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