鬼狼伝













     第50話 苛立ち

「か、勝った……」
 レフリーに片手を上げられた耕一が試合場を下りていく時、梓はようやくそれを実感
していた。
「なんだ! 耕一の奴、強いじゃないか!」
 梓は興奮して、右手を握り拳にして、左の掌を叩いている。隣にいるのが妹ではなく
従兄弟か何かだったら興奮のあまりボコボコ叩いているところだ。
「……」
 楓は、何もいわずに耕一を見ていた。彼女たちが座っている二回席の最前列からは、
耕一は小さくしか見えない。
 その小さな耕一を楓はじっと見つめていた。
「初音、すごかったな」
 梓がそういって初音に声をかけると、初音は目をつぶっていた。
「……終わったの?」
 いいつつ、恐る恐る目を開く。
「ずっと目を閉じてたのか?」
「うん、あの……お兄ちゃんの頭が逆さに落ちてから……」
 中條のスープレックス気味のバックドロップを耕一が喰らった時のことをいっている
のだろう。
「なんだ。それじゃ最後のあの蹴り見てなかったのか、凄かったんだぞ」
「つ、次はちゃんと見るから!」
 ぐっと握り拳を作る。
「まあまあ、別に無理して見ないでも……」
「見る!」
「……はいはい」

 Bブロック、第三試合。
 相手の打撃技に全く付き合わずにいきなりタックルで倒し、終始有利にグラウンドの
攻防を展開した後、場外に出てしまいブレイク。
 試合再開後、今度は一転、素早いパンチで相手を翻弄。掴みかかってきた相手の腹に
膝蹴りを叩き込み、上から頭部へ拳を打ち下ろしてダウンを奪った。そのまま相手は立
てずに試合終了。力の差を見せつけた。
 二分十三秒、加納久が勝利した。
 加納は、高校生まで柔道をやっていた。その後に総合格闘に転じた選手である。
 とある空手道場のオープントーナメントで優勝した実績があり、注目を集めている。
 一回戦の相手を軽く一蹴して控え室に戻ろうとするところを、雑誌記者たちに囲まれ
た。彼らの関心は、先の試合で元プロレスラーの中條辰を破った柏木耕一との「因縁対
決」である。
「正直なとこね、強いと思いますよ」
 さっきの試合を見て、柏木耕一についてどう思うか? という質問に加納は明快に答
えた。
「まあ、おれは一分じゃやられませんけどね」
 さらにそう続けると、微かに笑いが起こった。ここにいる記者ならば、柏木耕一が、
『格闘道場』誌上において「加納は一分で潰せる」と発言したのを知っている。
 実際は師の伍津双英がいったことなのだが、耕一自身がそういったということになっ
てしまっているのが現状である。
「だってね、中條選手を倒したんですよ」
 加納は試合後の疲れも見せずに口を動かし続ける。この辺のマスコミへのサービスは
熱心で、記者ウケはいい男だ。
「控え室で間近で見ましたけどね、中條選手ってすげえ体してますよ。元プロレスラー
といっても二回試合に出ただけで実力は大したことないとか、総合格闘の技術はまだ未
熟だとかいってる人もいますけどね、あの打たれ強さとパワーは驚異ですよ。その中條
選手を打撃でKOしたんですからね、強いと思いますよ」
「興味はわきましたか?」
 記者の一人が尋ねる。一分で潰せる発言に対して加納が「あの選手に特に興味は無い」
と応じたことを踏まえての質問であった。
「わきましたよ、是非、やってみたいですね」
 それからも、加納は矢継ぎ早に繰り出される記者の質問に答えていた。
「……」
「浩之……」
 雅史が、心配そうな顔で浩之に声をかける。この男は、しょっちゅうこんな顔をして
いる。危なっかしい親友を持つと苦労が絶えない。
「……是非、やってみたいのはこっちだってんだよ」
「まあまあ」
 加納のインタビューを遠くから聞いていた浩之はかなり機嫌が悪くなっていた。
「耕一さんと試合する前におれに勝たなきゃいけねえってのがわかってねえらしいな」
 苛立たしげに壁を蹴る。
 わかってないというか……今んとこ眼中に無いんじゃないかな?
 とは思ったが、到底口に出せるものではない。
「くそ、苛つくぜ」
 と、今度はゴミ箱を蹴っている浩之の苛立ちの本当の原因を雅史はよくわかっていた。
 これからすぐ、いよいよ浩之の試合が始まるのだ。
 これだけ大勢の人間に見られて試合をするのは浩之にとって初めてのことである。緊
張が生まれ、それが苛立ちに変わっているのだ。
 さて、どうしたものか……とセコンドとして、或いは親友として、雅史が思案を巡ら
していると、浩之の気分を落ち着かせるのに格好の人物を発見した。
「浩之、あかりちゃんだよ」
「あん?」
 雅史が指し示す方向を見てみれば、あかりと、それから志保らしき人間が係員と何や
ら話しているところだった。
「何やってんだ、あいつら?」
 その辺りは、丁度、選手と関係者以外立入禁止となっている部分と一般客が出入して
いい部分との境界の近辺である。
「全く、しょうがねえな」
 あかりに会うのは試合が全部終わってからでいい、といっていた浩之だが、この苛立
たしい気分の時に彼女の存在は正直なところ非常にありがたい。
「何やってんだ。おい」
 と、あかりに声をかけた時には浩之の声からも表情からも、先程までの無用なほどの
角が取れている。
「あ、浩之ちゃん」
 あかりの顔がぱっと明るくなる。
「君、藤田浩之か?」
 あかりと話していた係員の男が浩之に尋ねた。
「そうです」
「あー、いいとこに来てくれた。さっきからこの子が、君に会いたいっていってね」
「はあ」
「ちょっとこっちも困ってたとこなんだ。ここから先に入れるわけにはいかないから」
「ああ、はいはい、どうもすんません」
 浩之は係員に謝ってからあかりの方を向き、
「こら、駄々こねるんじゃねえって」
「……ごめん、浩之ちゃん」
「まあまあ、あかりも悪気があったわけじゃないしさ」
 志保がケラケラ笑いながらいった。
「お前、止めろよ」
「なにいってんのよ、浩之ちゃん浩之ちゃんっていい出したらあかりは聞かないんだか
ら、止められるわけないでしょ」
 そういって、また笑う。
 絶対、止めようという努力をしなかったのは明らかである。
「ええい、とにかく、なんの用だ。あかり」
「え!?」
「なんの用だよ」
「そ、そういわれると特に用は無いんだけど……」
「なにぃ?」
「ひ、浩之ちゃんの顔が見たくって……」
「……ったく……」
 そういわれては何もいえない。
「で、お前ら、どこら辺の席座ってんだ? あんまり後ろじゃおれの試合がよく見えな
いだろ」
 確か、大会の三日前になって「チケットが買えた」といっていた。そんな直前では、
既にいい席は無くなっていて、どうせ二階席の後ろの方の席だろうと浩之は思っていた。
「えっと……確か前から四列目だったかな?」
「へえ、二階の四列目か、けっこういい席じゃないか」
「違うよ、下の四列目」
「へ? 下の?」
 浩之が驚いたのも無理はない。一階の四列目といったらけっこうどころではない、か
なりいい席だ。
 おそらく、あかりと志保が買いに行った直前にキャンセルがあったのだろうと浩之は
思った。
「でも、そんな席、高かっただろ」
 一万は確実にする席だ。
「特別に三千円で売ってもらったよ」
「……おい待て、特別ってなんだ?」
「本当はタダでくれるっていわれたんだけど、それじゃ悪いから」
「お前、どこでチケット買ったんだ!?」
「来栖川先輩の妹の綾香さん、隣に来栖川先輩と執事の人もいるよ」
「あ、綾香かあ……」
 浩之は大きく溜め息をついた。ようやく納得がいった。
「余ってるっていうから」
「余ってるわけねえだろ、そんな席が……」
 呟いてから浩之はこの場にいない綾香に向かって舌打ちした。
「いらねえ気を遣いやがって……」
 だが、そういいながらも浩之の表情には微笑が浮いている。
「あの、あの、浩之ちゃん、何かいけないことしたかな?」
「ああ、お前がいかに全国の格闘技ファンに恨まれることをしたのかは後で説明してや
るから、とにかくそのいい席からおれの試合見とけ」
 あかりの後ろで志保が笑っている。こいつはなにもかもわかった上で綾香の好意に甘
えたのだろう。
「おい……」
 低い声が浩之の背中に当たったのはその時だった。
「ん?」
 聞き覚えの無い声に振り返ると、どこかで見た覚えのある男が立っていた。
 スポーツウェアを着ている。出場選手であろうか。
 誰だったっけか?
 と、それが思い出せないでいると、男がまた声をかけてきた。
「藤田浩之だな」
「そうだけど」
「そっちの黄色いリボンの子……お前の彼女か?」
「は?」
 いきなり、初対面の男にそのようなことを聞かれて浩之は一瞬戸惑ったが、やがて胸
を張っていった。
「そうだ……それがどうした?」
「いや、どうもしない」
 男は、浩之に注いでいた視線をふっとあかりに移すと、微かに笑って、去っていった。
「なんだ。あの野郎……」
 浩之が憮然として表情で呟く。あまりいい感じの男ではなかった。
「おい」
 その男と擦れ違いながら耕一がやってきた。
「あ、耕一さん、さっきの試合、すごかったっすね」
「ああ、どうも。浩之も次だろ」
「ええ」
「で、都築選手と何話してたんだ?」
「……都築って誰です?」
「お前、知らないで話してたのか」
 耕一が呆れた顔でいう。
 浩之は思いだした。
 パンフレットで見た、自分の一回戦の対戦相手をだ。
「今の、都築克彦(つづき かつひこ)でしたか!?」
「そうだよ」
 耕一はまだ呆れ顔だ。
「あ、そうかそうかそうか! あいつ、これから闘う都築克彦じゃねえか」
 確か、二年前ほどから総合格闘をやっている選手だ。
「浩之、そろそろ時間だよ」
 腕時計を見ながら、雅史がいう。
「おう、そうか、よし、あの野郎、ぶっ潰してくるぜ」
「頑張ってね、浩之ちゃん」
「ああ」
「あんたがどれだけのものか見てて上げるわ」
「おう、よく見とけ」
 浩之があかりと志保に手を振りながら控え室へと向かう。
「浩之、Bブロックの決勝戦、お前とやりたいな」
 耕一がいった。
「おれも、そう思ってました」
 浩之が答えた。なんだかそういわれたことが無性に嬉しかった。
「そうだ。そのためにはここで負けてもらっちゃ困るからうちの先生が調べておいたこ
とを教えといてやろう」
「ん? なんすか?」
「都築克彦だよ、あいつは口を使うらしい」
「口? まさか不利になると噛み付いてくるんじゃないでしょうね」
 不安そうにいった。
 その浩之とて、いざとなったら相手に噛み付きかねない男なのだが、今日は浩之はそ
ういう闘いをするつもりでここに来ていない。
「いや、声だよ、声」
「耳元で叫んでその隙に……」
「じゃなくて、まあ……悪口だな」
「悪口……」
「ああ、近付いた時とかに悪口いって相手を挑発するのをよくやるらしいんだ」
「それで、相手から冷静さを奪おうっていうんですか」
「そう、それでカーッと来て突っ込むとカウンターが待っている」
「なんか……せこい奴ですねえ」
「まあな……」
 耕一が苦笑する。
「まあ、そんなせこい野郎はボコボコにしてやりますよ」
 浩之が力強く宣言した。その時、丁度浩之を呼びに来た係員と控え室のドアの前で鉢
合わせした。
「藤田選手、時間です」
「はい」
 浩之は、係員の後に続いて、試合場へと向かって行った。





     第51話 浩之ちゃん

 来栖川綾香が松葉杖を使いながらあかりの横にやってきたのは丁度、一回戦最後の試
合が始まる寸前であった。
「浩之の試合に間に合ったわね」
 綾香が背後の芹香を顧みていい、あかりの隣の席に腰を下ろす。
「あ、どうも。綾香さん、足の具合はどうだったの?」
 あかりが問うのへ、
「大丈夫……じゃないけど、それほど大事じゃないわ」
 快活に笑って答える。
 その間にも、周りの席に座っている人間が綾香にサインを求めてくる。
 綾香はそれを手早く片付けた後、試合場を見た。
 浩之が試合場の片隅で柔軟運動を行っている。
「あの……浩之ちゃん、大丈夫なのかな?」
 あかりが心配そうに尋ねた。あかりにしてみれば、浩之が試合をするのを見るのは初
めてであり、隣に来栖川綾香がいるのだからそのようなことを聞いてみたくなるのも当
然であった。
「うーん、実をいうと、浩之が闘っているところって見たことないのよ、体つきからし
て随分鍛えたみたいだけど……どうだか……」
 綾香は彼女にしては珍しく歯切れが悪くいって、前の席に座っている人間に声をかけ
た。
「聞いてたでしょ? 好恵はどう思う?」
 そういわれて、仕方なし、といった風情で振り返ったのは坂下好恵だ。
「あら、坂下さんじゃないの」
 志保が驚いていった。彼女もあかりも前の席に好恵が座っていることに気付いていな
かった。
 自称情報通で、実際に情報を玉石問わずにかき集めている志保などは当然として、一
緒のクラスになったことがないのに、あかりでも好恵の名前は知っている。顔だって、
見ればわかる。
「なーんだ。前にいたんなら声かけてくれればいいのに」
 志保がけたたましい甲高い声でいった。
「落ち着いて試合を見たかったのよ」
 好恵はいった。
 彼女とて、色んな意味で有名人な志保と、浩之の恋人であるというあかりは知ってい
た。
 別に直接面識があるわけではないので声をかけずにいたのだが、その選択は間違って
いなかったと思っていたところである。
 試合中、この日のために色々と情報を収集したらしく、にわか格闘技通となった志保
が非常にうるさいのである。
 あれはなんという技だの、あれじゃまだ極まってないだのと、喉が枯れるのではない
かと心配したくなるほどによく喋る。
「で、どうなの? 好恵」
 と、綾香が促した。
「藤田は……正直いって強いよ」
 好恵は、浩之が闘っているのを実際に見たことがある。寝技無し、拳による頭部の攻
撃無しといういわゆるフルコンタクト制の空手ルールであったが、去年まで男子空手部
の主将をつとめていた桐生崎という男と闘うのを見たことがある。(第21話参照)
 桐生崎は攻撃的な闘いをする男で、その上、そのルールでの闘いの経験が浩之よりも
豊富である。が、それと打ち合って浩之は倒されなかった。
 容易に動じない度胸もある。
 体はまだ完全に出来上がっているとはいい難いが、格闘技を始めてからの期間を考え
ると極めて理想的な質と量の肉がついている。
「藤田っていうのは、何かスポーツをやっていたことがあるの?」
 今度は、逆に好恵があかりに聞いた。
「浩之ちゃんは……中学二年生の時までサッカーやってたかな」
「へえ」
 綾香が感心したような声を上げた。それは初耳であるが、サッカー選手というのは前
半後半各四十分を動き続けるだけに下手な格闘家よりもスタミナがある場合が多い。
 浩之は飛び抜けて何が上手いというわけではないがどのポジションもそつなくこなす
選手で試合中はフィールド内をあっちへこっちへと走り回っていた。
 味方ゴールの前まで下がって守備につくかと思えば敵ゴールの前まで上がっていって
攻撃に参加することもある。
 試合が終わるといつもその場に倒れて荒く呼吸をしていた。
 だが、中学二年の半ばの辺りで浩之はサッカー部を退部した。
 小学生の頃から浩之と一緒にサッカーをやっていた雅史はもちろん二年の終わりまで
続けるように勧めたのだが、浩之はやる気が無くなったといって結局、辞めてしまった。
 雅史が浩之の退部にショックを受けているのを見かねて、あかりからも浩之に退部を
思い止まるよういったことがある。
「雅史は大丈夫だよ、もう……おれより上手いしな」
 浩之が、あの男にしては珍しく穏やかな微笑を浮かべながらそういった時、あかりは
あることを確信した。
 前々からそうではないかと思っていたことを確信した。
 浩之は、雅史が入るというからサッカー部に入ったのだ。
 雅史のことが心配だったのだろう。小学生の時、体育の授業で男子がサッカーをやっ
ているのを何度か見たことがあるが、雅史は決して上手くはなかった。
 浩之がそれをサポートしているような印象をあかりでさえ受けた。
 公園で夕方まで浩之が雅史にサッカーを教えていることもあった。
 あかりはそれを少し離れて見ていたが、やはり雅史よりも浩之の方が上手かったよう
に思う。
 中学二年半ばの浩之のサッカー部退部についても思い当たる節はあった。
 それより少し前に浩之が雅史のことをほとんど手放しで誉めていたのをあかりは聞い
ていた。
「あいつ、大器晩成型っていうかよ、長いことコツコツやってた努力が一気に成果にな
るようなタイプなんだな。中学生になってからすげえ上手くなってきたよ。そろそろお
れなんかじゃボールを奪えなくなるな」
 嬉しそうにそういっていた。
 浩之は、雅史の技量が自分のそれを抜いたと確信した時、退部を決意したのだ。
 それがいつかは正確にはわからないが浩之はけっこう前からそんなにサッカーをやり
たくはなくなっていたのだろう。むしろ、さっさと止めたがっていたのかもしれない。
 それからは雅史に付き合ってやっていたに違いない。
 雅史はやがて公式試合のレギュラーに抜擢されて初の公式試合で初得点を上げた。
 浩之は完全に観客としてあかりと志保とその試合を見に行ったのだが、試合が終わっ
た後、
「よくやったよ、あいつ」
 と、いっていた。
 その横顔が、なんだか「あいつ、これからもおれがいなくてもやっていけるよ」とい
っているようにあかりには思えた。
 間もなく浩之はだれた。
 サッカーを止めた当初こそ、習慣的に軽いランニングをしないでもなかったのだが、
三年生に上がる頃には完全無欠にだれた。
 元々、その気のある男だったのだが、サッカーを止めてから拍車がかかった。
 やる気しねえ……。
 というオーラを全身から振りまきながら、暇になった放課後を志保とのゲーセン勝負
などに費やしながら着実にだれていた。
 だれながら、突如、何かに打ち込むこともあったが長続きしなかった。
「おれは飽きっぽいからなあ」
 自嘲しながらも、それを改めようとはしなかった。
「器用貧乏なんだよ、おれは」
 独り言のように、浩之がそういったことがある。
 確か、高校に上がったばかりの頃、学校からの帰り道に雅史が浩之をサッカー部に誘
ったのを浩之が断り、雅史と別れた後、浩之とあかりの間で、なんとなくサッカーの話
になった時だ。
「大体なんでもできる自信はあるよ、ただ、一定のレベルまでしか行けねえし、長続き
しねえけどな」
 ぼんやりとした顔でそんなことをいっていた。
「浩之ちゃん、何か一つのことに打ち込むつもり無いんだ……」
 そういったあかりに、
「無えなあ」
 だるそうに答えた。
 その浩之が二年生になってすぐに何やら放課後、急いでどこかに行くようになった。
 ある日、帰りが志保と同じになった時に彼女からその真相を聞くことができた。
 志保は首を傾げながらいった。
「さっき、校門のところでヒロの奴と会ったんだけどさ……」
 浩之の名前をいいながら、心底不思議そうな顔をする。
 付き合いが長い上に、志保はただでさえ表情に感情がよく出る。あかりは、すぐにそ
れを看破した。
「浩之ちゃん……何かおかしいところあったの?」
「あいつさ、最近、放課後コソコソどこかに出かけるじゃない」
「うん」
「そのことを聞いたらさ、なんでもあいつ、格闘技のクラブを見学してるらしいわよ」
「……格闘技って、あの格闘技?」
「そう、殴って蹴っての格闘技、ヒロってそういうの興味あったのねえ」
「うん……普通の人よりは興味ありそうだったよ」
 中学生の時に雅史にプロレス技をかけていたのはお遊びとしても、時々深夜のボクシ
ング中継をわざわざビデオに録ったりしているようだし、ボクシング漫画を「読め」と
貸してくれたこともある。
「浩之ちゃん、格闘技始めるつもりなのかな……」
「そんなことはどうでもいいのよ!」
 志保は声荒くいった。
「あいつ、あたしにお前も何か一つのことに打ち込んでみたらどうだ。とかいってたの
よ!」
「何か……一つのことに……?」
「そうよ、あまりに似合わないこというんで偽物かと思ったわよ」
「浩之ちゃんが……そんなこといったんだ……」
 その後、あかりは浩之と結ばれた。
 だが、あかりが思っていたほどそれによって浩之との時間が増えたわけではなかった。
 浩之は松原葵という一年生と一緒にエクストリーム同好会での練習に忙しかったのだ。
「葵ちゃんってさ、すげえ一生懸命なんだ。葵ちゃんを見てるとさ、なんだかこっちも
やる気になってくるんだよなあ」
 そういって、浩之は、あかりにとって最高の笑顔で笑った。
 だが、それから、浩之が空手部の人間と喧嘩して停学になって、葵が同好会設立を断
念し、浩之が怖い顔で笑わなくなって……。
 浩之が久しぶりに家に夕食を作りに来てくれっていって……。
 夕食を作りに行って……。
 好きだ。といわれて……。
 嫌いになんかならない。といわれて……。
 浩之の腕に顔を押し付けて泣いて……。
 葵が同好会設立を断念して、てっきりもう止めたと思っていた格闘技を浩之がまだ続
けているのを知った。
 まだ続けていたのだ。
 まだ打ち込んでいたのだ。
 格闘技に……。
 一つのことに。
 あの浩之がそこまで打ち込んでいるのなら自分はそれを見守ろうと思った。
 格闘技である。
 危険が無いわけではない。そのことはあかりも知っている。
 でも、浩之がやろうとしている。
 だったら、自分はそれを見守るしかない。
「あかり、見ててくれ」
 浩之がそういったから、自分は見ている。
 浩之の一挙手一投足を見ている。
「浩之ちゃん……勝つよね」
 誰にいうともなく聞いていた。
「やってみなきゃわからないわ」
 綾香がいった。実際、浩之の実力が未知数の彼女はそういうしかない。
「同感だ。……でも、藤田は強いよ」
 好恵がいった。格闘家の目をしていた。
「なんとかなんでしょ、あいつ、いざという時は要領いいから」
 志保がいった。いいながらあかりの肩を軽く叩く。
「うん……大丈夫だよね」
 あかりは深く頷いた。
 試合場の浩之を見ていた。
 いい顔をしていた。
 頑張って……。
 怪我をしないで欲しいとか、そんなことはいわない。
 とにかく、納得するまでやって欲しい。
 浩之ちゃんが納得するなら私も納得するから……。

「浩之、耕一さんのいったこと忘れないで!」
 雅史の声が聞こえる。
 振り返ってわかったと頷く。
 雅史の隣で葵が必死な目でこっちを見ている。
 自分の試合の時よりも緊張しているようだ。
「せ、先輩!」
 両手を握り拳にしてそれだけいった。
「ああ」
 浩之は葵に親指を立てて見せる。
「……」
 無言で耕一が腕組みをしている。
 行くぞ。
 浩之は中央線に向かって歩き出した。
 行くぞ。
 あかりが見ている。





     第52話 怒り狂い 

 第1ラウンド開始から三十秒後。
 後方に飛ぶように下がった浩之はこめかみから頬へ、汗の雫が伝っていくのを感じて
いた。
 危なかった。
 前に出ようとしたところへ、いいタイミングでカウンターを合わせられそうになった。
 後一歩踏み込んでいればもろに貰っていただろう。
 対戦相手の都築克彦はクリーンヒットのチャンスを逃したにも関わらず、悔しさを面
上に一切表さずに立っている。
 感情が出ない。
 試合の前に廊下で会った時に一度だけこの男が微笑むのを見たが、その笑みも薄っぺ
らい、見せかけのものであったように思われてならない。
 とにかく、闘いに感情を持ち込まぬ男だ。
 突きにも、蹴りにも、感情が無い。
 無機質な攻撃を送り込んでくる男だった。
 そして、狙っているのはカウンターだ。
 自分からは進んで来ない。
 やりにくい相手だ。
 どちらかというと、自ら果敢に攻め込んでいくタイプの浩之にとって一番嫌なタイプ
といっていい。
 じっと待っている。
 仕方なく浩之が軽い攻撃を放っていくと、ことごとくかわされる。
 すぐに膠着状態になった。
 くそ、つまんねえ試合になったな。
 浩之は苛立つ気持ちをなんとか押さえながらも思わざるを得ない。が、いうまでもな
くこの手の相手には苛立ち、怒りなどは禁物である。
 しょうがねえ、軽く左ジャブを二発ぐらい……。
 浩之は打った。
 一発目は届かず。
 二発目は空を切る。
 こちらの踏み込みが浅いと見て、カウンターを狙いもせずにパンチをかわしている。
 こいつ……まともに打ち合ってくれればそう怖い相手じゃねえな……。
 そうは思うが、一分の隙も無いほどに待ちの戦法を取られているので浩之もそうそう
迂闊に前には出れない。
「やる気あんのか!?」
 後ろからそんな声が聞こえた。
 もう第1ラウンド開始から三分経っている。
 その間、浩之が開始三十秒後にカウンターを決められそうになって以来、ほとんど二
人に動きが無い。
 いい加減に客の中に焦れてきた者がいるのだ。
 あっちにいえよ、馬鹿野郎。
 浩之の心中に苦々しいものが沸いた。
 だが、ここで突っ込んではいけない。ここは根比べだ。
 ちょっと、別の手口で仕掛けてみるか……。
 浩之は両手をダラリと下げて顔面をノーガードにして、スタスタと無造作に前に出た。
「……」
 さすがに都築の肩の辺りがピクリと震える。
 だが、それだけだ。
 浩之の口から舌打ちの音が漏れる。
 ここまで「譲歩」してやっているのにふざけた野郎だ。
「おい、ビビってねえで来い」
 思わず口が出る。手足が出せない以上、出すのはもはやこれしかない。
「お前こそ来いよ、そんなに怖いか?」
 怖いわけねえだろうが! ビビってんのは明らかにおめえだろうが! 会場にいる人
間にアンケート取ってみろ! 大体、おめえがそんなだから野次られるんだろうが!
おれはやる気満々だっての!
「……」
 浩之は勝手に踏み出ようとする足を抑えた。
 危ない危ない。
 あらかじめ耕一に都築が試合中相手を挑発するのをよくやると聞いていなければ前に
出て息の根を止めに行っていたところだ。
 そしてもちろん、それを待ち構えていた都築のカウンターを貰っていただろう。
 くそ……挑発なんかしやがって……。
 と、浩之は自分のことは棚に上げて思った。実際、棚に上げていいと強く思っている。
 イライラしてるぞ……やばいぞ……こういう時になんかいわれたらカーッと来ちまう
んだ……落ち着け……落ち着け……。
 浩之は深呼吸をしながらも、眼光を煌々と光らせ、視線は射るがごとく都築に向けら
れていた。
 タックルで潰しに行くか……。
 顔をやや下に向けて思い切り突っ込む。
 体勢を低くして腰に食らい付いて来られれば、パンチで迎撃することは可能ではある
が大したダメージは与えられない。
 そういう接近戦でものをいう肘はエクストリーム・ルールでは禁止されている。
 そうなると警戒すべきは膝蹴りであるが、低空飛行のタックルに膝による迎撃はあま
り効果は無い。
 今大会では、先程の一般女子の部の二回戦において来栖川綾香がタックルに来る相手
の顔面に膝を合わせて相手をKOしているが、これはあの時の相手と綾香のように大き
な実力差があってこそのKOであって低く突っ込んでくる相手の顔面に膝蹴りをクリー
ンヒットさせるのは本来は困難である。
 浩之はフェイントでパンチを数発送り込む。
 あまり浅くてはフェイントの効果が見込めぬのでだいぶ踏み込んだ。
 意外にも都築が近付いてきた。
 体勢を低くして、腰に食らい付いてくる。
 胴へのタックルをあちらが先に仕掛けてきた。
「この!」
 カウンターだけじゃない、隙あらばタックルも狙っていたのだ。
 だが、浩之とて対策は練ってある。すぐさま足を引き、上半身を相手の背中に覆い被
せていって潰そうとする。
 首を右腕で抱え込んでフロントスリーパーホールドに持っていこうとするが都築もそ
れを察して左手で右手首を掴んでくる。
 浩之は右手を内側に返して瞬間的に都築の手首を捻った。
 そして右手を絡めて逆に手首を取りに行く。
 都築の方も最初に掴んだ場所に固執せずに僅かに拘束を弛め、肌の上を滑らせるよう
に掴む箇所を移動させる。
 お互いに手首を掴み合う格好になった。
 浩之は左手で肘の屈伸運動だけを利用して小刻みにショートフックを打っていったが
都築の右腕がしっかりと頭部をガードしている。
 一発、二発、三発と打ったところで、浩之は狙いを変えた。
 今度は脇腹を叩いていく。
 小刻みにダメージを蓄積させる。
 相手がこれを嫌がって動けばそれに対応してこちらも動き一気に関節を極めにいくつ
もりだ。
 さあ、動け。
 浩之はほとんど念じるように思った。
「おい……」
 掠れた声がした。
 浩之の表情に苦味が走る。
 この期に及んで口を動かすのか、こいつは。
「さっき一緒にいた子、恋人だろ……」
「……」
 答える義務などないので浩之は黙って脇腹にショートフックを送り込む。
「お前……」
「……」
 耐えろ。
 耐えろよ、何をいわれても耐えろよ。
 正直、あかり絡みで挑発されるのが一番怖い。
 どこまで自分が耐えられるかわからない。
「幼女趣味か?」
「……」
 そりゃあ……確かにあいつはガキっぽい。中学生に見えないこともない。でも、幼女
趣味とは何事だ。けっこう出てるとこは出てるし、太股なんてむっちりしててなかなか
良いのだ。
 ドスッ、とちょっときつめのフックをお見舞いした。
「お前……」
「……」
 耐えるんだぞ。
 わかってるな。
 カーッとしたら負けだぞ、耐えに耐えに耐えて、もう逆転されっこねえって状態にま
で持ち込んでから爆発すりゃいいんだ。この野郎、そん時になって泣くなよ。
「あんなのとやってんのか?」
「……」
 やってるよ!
 あんなのとはなんだ! あんなのとは!
 そりゃあ……確かにあいつはガキっぽい。中学生に見えないこともない。でも、あん
なのとは何事だ。あいつはなんでもいうこと聞くんだぞ。
 ドスンッ、とかなりきつめにフックを打ち込んでやった。
 うぐ、とか呻きやがったぞ。
 おら、おら、いつまでもこうしてるならいつまでも脇腹殴り続けるぜ。おっと、脇に
右腕を持ってくるなら顔を殴ってやる。
 ふん、すっかりおとなしくなったな。
 あんなもんで──まあ、正直かなりむかついたが──おれを挑発しようってのが甘い
んだよ。
 てめえ、さては散々いっておいてあかりみたいなのがタイプなんだろ。
 妬いてやがんな、てめえ。
 あかりはいいぞお。飯作りに来いっていえば来るし、朝起こしに来いっていえば来る
し、朝起こしに来るなっていっても来るし、弁当は作ってくるし、なんでもいうこと聞
くし、からかうと面白いし、部屋掃除しろといったらテキパキとやってくれるし、エロ
本見付けても何もいわずに元の場所に戻しておいてくれるし。
 まあ……なんだ。
 とにかく、いい女だってことだ。
 羨ましいか、おい?
 おっ、小癪にもおれの脇腹を打ってきたな。
 でもな、こっちが上になってんだ。全然威力が違うんだよ。
 羨ましいか、おい?
 羨ましいだろう。
 おれだって他の男があかりを彼女にしてたらそう思うもんな。お前も遠慮なく羨まし
がることを許可するぞ。
 おおい、なんかいってみろよ。
 おれはビクともしねえぞ。
 なんだか随分とおとなしくなったじゃねえか。
 一生懸命下から抜けようとしてるな、そうはいかねえぞ。
 ほら、潰れた。おめえ、カウンターが得意なようだが寝技はどうなんだ?
 腕を極めてやろう。
 死に物狂いで抵抗してやがる。さっきよりも顔に余裕が無いぞ、こいつ寝技はそんな
に得手じゃないな。
 一気に極めてやるか。
 ……くそ、ジタバタしやがるな……って、ラインがすぐそこまで来てんのか。あいつ
のタックルを受けた直後の押し合いでかなり移動していたようだな。
 ああ、こりゃ駄目か……あいつが足を一杯に伸ばせば出ちまいそうだ。
「場外! 両者中央に戻って!」
 レフリーがそういっておれの肩を叩いた。
 しょうがねえなあ、まあでも、こいつが寝技が苦手だってのがわかったぞ。あのレベ
ルなら月島拓也用に特訓したおれならば十分に勝てる。
 今度こそこっちからタックルを仕掛けていくか。
 あっちはもう、寝技じゃおれには勝てないということがわかったから自分からはやっ
てこないだろう。
 よし、試合再開だ。いきなり行ってやるか……いや、まずは軽く打撃で牽制だ。前蹴
りを打つように足を踏み出して、そのままタックルに行ってもいいな。
 左のジャブ二発の後に右のストレート。
 野郎は相変わらずカウンターを狙ってるな。
「おい……」
 なんだ? 立ち上がったら少しは元気になったか。
「お前……」
 なんだよ、なんでもいってみろ、ビクともしねえぞ。
「あの女相手じゃ立たないんじゃないのか?」
「……」
 ……。
 それに触れるか、てめえ!!
「てめえ! ぶっ殺……」
 勢いよく飛び出した浩之の顎に凄まじい衝撃が接触し、次の瞬間打ち抜いていた。
 背中がマットを叩いた。

「あー、もう、何やってんのよ、あの馬鹿!」
 叫んだのは志保だ。
「カウンターが思い切り入ったわ……まずいわね」
 冷静にいったのは綾香だ。
「どうしたんだ……あんなカウンター狙いが見え見えの相手に不用意に……」
 浩之の実力を高く評価している好恵は釈然としない表情だ。
「あーあ、全く、一回戦ぐらいは勝ち抜けるかと思ってたのに」
「うーん、浩之、もうちょっとやると思ってたんだけどな」
「あいつの実力はあんなもんじゃないとは思うが……初の大舞台でさすがのあいつも緊
張してたんだろうな」
 三者三様の意見が飛び交う中、あかりは両手を胸の前で合わせて、じっと試合場で大
の字になっている浩之を見ていた。
「全く、わざわざあかりが応援に来たっていうのに、ねえ」
「で、でもでも、浩之ちゃん、どうしてもあそこで行かなきゃいけない理由があったの
かも!」
「……理由?」
「うん、何か、きっと理由があったんだよ!」
「……はいはい、そういうことにしときますか」
 志保は苦笑しながら、思わずあかりの頭に手を乗せて撫でていた。

「先輩!」
 試合場に身を乗り出した葵のやや後方で雅史が天を仰いでいる。
「もう……浩之ったら、耕一さんがせっかくアドバイスしてくれたのに……」
 雅史の位置から、都築が何やら口を動かしているのは見えていた。途中までなんとか
耐えていたようなのだが、試合再開直後の一言がどうしても浩之の逆鱗に触れずにはい
られなかったらしい。
「うーん」
 耕一は、雅史の横で腕組みして唸っている。
「よっぽど腹の立つことをいわれたんだろうなあ……」





     第53話 解放

 何かが聞こえる。
 遠くの方から聞こえるそれは段々と近付いてきた。
 近付いてきて、それが自分のすぐ側から聞こえてくることがようやくわかった。
 目を薄く開けてみる。
 男が一人、自分を見下ろしていた。
 なんだ? このおっさんは。
「シックス!」
 ……ちょっと待て……もしかしてこのおっさんレフリーか。
「セブン!」
 ……待て待て待て、今なんていった。
「エイト!」
 ……待て待て待て! 待てって! ちょっと待て!
「ナイン!」
「ぬっ!」
 立ち上が……おっと。
 体がよろける。駄目だ。ここで倒れたら負けちまう。
「できるか?」
「できます」
「これ何本だ」
 レフリーが指を立ててそれをおれの目の前に翳す。
 頭がぼやーっとしててよくわかんねえ。
「四本」
 勘だ。
「じゃ、これは」
「六本」
 当たれ。
「……」
「……」
「よし、なんとか大丈夫なようだな」
 おう、大丈夫だったか。
「構えて……はじめ!」
 おし、行くぜ。

 立ち上がった浩之に対し、都築は接近してきて一気にラッシュをかけてきた。もはや
先程のカウンターで勝負が決まったと見ているといっていい。
 もう一度倒せばもう立てまい。
 浩之は今、やっと立っている状態に近い。
「浩之、このラウンドは逃げて!」
 雅史の声が聞こえる。浩之はそれに半ば無意識の内に「おう」と小さい声で答えてい
た。雅史にいわれずとも、このラウンドは逃げに徹せねばならぬことは承知している。
 先程のカウンター。真正面から顎に貰った。
 そのため、脳が揺さぶられ脳震盪が起きている。
 辛いが……脳震盪というのは時間が経てばなんとかそれなりに回復するものだ。
 だから、浩之が今欲しているのは脳を休ませる時間であった。
 だが、それを完全に理解している都築は攻撃の手を緩めようとはしない。この第1ラ
ウンドで決めなければ、ラウンド間のインターバルで浩之が大幅に回復してくるであろ
うことは明白だからだ。
 しかし、決して近付き過ぎもせずに主に頭部を狙ってパンチを放ってくる。
 あまり接近して、浩之に掴まれ、引きずり倒されて勝負の場をグラウンドに持って行
かれることを恐れているのだ。
 グラウンドでの打撃が禁じられているエクストリームでは、その状態で守りに入られ
ると非常に攻めにくい。
 しかも、既に先程の攻防において浩之が自分よりもグラウンドの技術が優れているこ
とを都築は嫌というほど知らされている。
 より上手い人間がグラウンドで守りに徹すれば攻め手はほぼ攻めあぐねてしまう可能
性が高い。そして膠着状態が続けば続くほど浩之は休みを取ることができる。
 そのような状況を作られることだけは避けたかった。
 浩之は、ぼやけてまだ覚めきっていない重い頭を上下左右に振って都築のパンチをか
わしながらも、今ここで後ろ向きに倒れてしまえればどんなに楽かと思った。
 バーリ・トゥードルールで行われるプロの試合などでは、時々、片方の選手が相手と
接触しないで自ら後方に倒れ込み、背中をマットにつけてしまう状況が見られる。
 浩之も余程そうしたかったのだが、エクストリームルールでは相手と接触せずに自分
から倒れるとすぐにレフリーから「立て」の指示が来る。
 いっそのこと、故意に軽いパンチをわざと頭部に喰らって倒れてしまおうかとも考え
た。そうすればカウントナインまで休むことができる。
 が、その浩之の企みを読み取ったわけでもないだろうが、第1ラウンドの残り時間を
一分切った途端に都築が猛然と力の籠もったパンチを送り込んできた。
 この一分に全てを賭す気か、凄まじいラッシュである。
 喰らってダウンするフリなどしようとすればいいのを貰ってしまい、フリがフリにな
らずに本当にKOされてしまいそうだ。
「つぅ!」
 浩之が思わず呻き声を上げながら後退する。
 額に右のストレートを喰ってしまったのだ。
 脳が激しく揺れる。
 畜生……。
 ここで負けるのか!?
 まだ一回戦だぜ。
 まだだぜ。
 耕一さんのいるところまではまだまだなんだぜ。
 負けるのか!?
 こんなとこで!?
 畜生……。
 そもそも、あいつの一言に思わず激怒しちまったのが悪いんだ。……っていっても、
ちょっとあれだけは我慢できなかったんだが……。
 くそ、無表情で攻めて来やがる。
 おれだけが怒って苛立って、馬鹿みてえじゃねえか。
 こいつ……怒らせてやりてえな。
 この無表情の面が歪むところが見てえなあ。
 なんかいってやろうかな……。
 馬鹿。
 屑野郎。
 死ね。
 ……駄目だ駄目だ。ただ単にボキャブラリーの貧困さをさらすだけだ。
 くそ、この野郎。
 さっき……いいやがったな……。
 あかり相手じゃ立たないんじゃないか? って……。
 野郎、思い出せば出すほど腹が立ってきたぞ。
 しっかり立つってんだよ! ……二回目からはな。
 この野郎、立たねえようにしてやろうか。
 くっ! ハイキックを打ってきやがった。いよいよ勝負に出てきたか。
 もう一発来るか!
 しっかり両腕を上げて頭をガードして……。
 ……ん?
 大股開きで……ガラ空きじゃねえか。

「っっっ!!」
 都築が前に倒れ込み、
「ストーップ! ストーップ!」
 レフリーが二人の選手の間に割ってはいる。

「故意じゃないっす。ちょっと頭がぼーっとしてて夢中で蹴り上げたら当たっちまった
んですよ」
 浩之は頭を押さえながらいってのけた。
 レフリーはなんとかその理屈に納得したようで「注意」を与えただけで試合続行を決
定した。

「え……え……今の、どうなったの? 浩之ちゃんがダウンを取ったんじゃないの?」
 あかりは困惑した表情で右の志保、左の綾香、前の好恵を目まぐるしく見回した。
 あかりの目から見て、どうも浩之の相手選手がダウンしたようなのだが、レフリーが
浩之になんらかの注意を与えていたようであった。
「金的を蹴ったから注意貰ったのよ」
 と、綾香が答える。
「それって……反則……ですよね?」
「思いっきりね……でも故意じゃないと判断されたんで注意止まりだったのよ、故意だ
と思われたら反則負けを宣告されてるわよ」
「えっと……注意というのは……」
 と、再び問い返したあかりに答えたのは志保だ。彼女はしっかりとエクストリームル
ールを勉強してきている。
「特に悪質な反則に与えられる罰則ね、これやった上にもう一回反則やったらどんな軽
いものでも負けになるわよ、ま、レフリーの人にもよるんだけどさ」
「え……そうなの……」
「付け加えるなら……」
 と、綾香が後を引き取る。
「注意なんて貰ったら、あっちが同じ注意を貰わない限りは、判定ではほぼ勝てないわ
よ。これから何回もダウン奪ったり、よほど一方的に試合を進めれば別だけど……」
 アマチュアの大会であるエクストリームは反則に対する罰則は厳しいものとなってい
る。中でも目つき、噛み付き、金的への攻撃へ対するそれは特に厳しい。
「と、それよりも……好恵」
 そういった綾香の唇の端が吊り上がる。不適な笑みがそこに浮いていた。
「なんだ?」
「あれ……どう思った?」
「どうって?」
「浩之……やったんじゃないのかな? どうも私にはそう思えるんだけど」
「……あんたもそう思ってたのか」
 好恵が厳しい表情でいった。
「なんとなく……勘みたいなものだけどね……」
「私も……それに近い。なんとなくな……」
「え? え? え?」
「ちょっとちょっと」
 二人の会話を聞いて戸惑うばかりのあかりを押し退けるように志保が口を挟んで行く。
「それってまさか、ヒロの奴がわざと……」
 さすがに、少し声を低くしていった。
「たぶん……そうだと思うわ」
「私もそう思う」
「……むう……ヒロの奴……」
 志保が歯軋りする。
「最低ね」
 断言した。
「志保ぉ……」
 あかりが泣きそうな顔を向けるがおかまいなしだ。
「わざとキンタマ蹴るなんて、あんた、最低よ、そんなの」
 いっていることがいっていることなのでさらに声を小さくしていった。
「で、でも!」
 あかりは何があっても浩之の弁護をするつもりらしい。
「何か理由があったのかも!」
「理由ぅ?」
「そうだよ、何か、あそこでキンタ……を蹴らなければいけない理由があったのかも!」
「……あかり、もちょっと声小さくね」
「あ……」
 自分の声の音量とその内容をようやく冷静に顧みて、あかりは真っ赤になって俯いた。

 三分ほどの試合中断の後、試合は再開された。
 試合の際に選手たちはファウルカップと呼ばれる金的を防護する防具をつけているが、
それでもやはり蹴られると痛い。あくまでもダメージを和らげるだけである。
 たっぷり三分ほど前のめりになって苦しむ姿を観衆の目前にさらした都築の顔に赤い
色が差していた。
 怒ったな……。
 それを確信して浩之は一人ほくそ笑む。
「はじめ!」
 の、声とともに来た。
 歪んだ表情をしていた。
 そうそう、そういう顔が見たかったんだ。
 パンチを、キックを、打ち込んでくる。
 浩之はそれをさばき、かわしながら反撃の機会を待つ。三分間、都築が股間の激痛に
耐えていた間に浩之の脳震盪はほぼ回復していた。
 今までの攻防ではっきりとわかった。都築はそれほど大した格闘家ではない。
 カウンターだけが飛び抜けて上手いが、総合力では浩之の敵ではない。
 大振りの右フックを上手くスウェーでかわすことができた。
 右のローキックを右足へ。
 それが反撃の糸口。
 都築がよろけた。

 今まで、ずっと我慢してきた。
 おれも……。

 浩之の顔が歪む。

 おれももう怒りを解放していいよな?
 おれももうこういう顔をしていいよな?

「おらっ!」
 右ストレートが都築の顔面を打ち抜く。
 左ストレートが都築の顔面を打ち抜く。
 両手が頭を抱え込んで引き落とし──顔面に膝。
 カクン、と突然足の芯を外されたかのように、都築の両膝が曲がり、それがマットに
ついていた。





     第54話 夢の幻

 都築克彦は白い世界にいた。
 上下左右の感覚がまるで無く、真っ白い世界に放り出されている。
 だが、段々と自分がどうなっているのかがわかってきた。
 ゆっくりと、だが確実に落ちている。
 どこかへ落ちていく。
 落ちちゃいけない。
 無我夢中で上ろうとする。
 無我夢中で這い上がる。
 這い上がって、這い上がって、這い上がった先に。
「都築! できるか!?」
 男が何かを自分に問い掛けていた。
 都築は半ば無意識の内に、頷いていた。
 男の肩の向こうに、もう一人の男がいる。
 鋭利な眼光を炯々と輝かせて自分を見ていた。
 そうか。自分は──。
「できます」
 あの男と闘っていたんだ。
 その眼光を自分の眼で受け止めた時、ゴングの音が鳴っていた。

 天の助けといっていいインターバルだ。正直、あの後すぐに試合を再開したらろくに
動けぬまま攻撃を貰って再び倒れ、そのまま起き上がることはできなかっただろう。
 頭を軽く振りながら休息する。
 体を休ませながらも、頭は働いていた。
 今のラウンドの何が悪かったのか。
 あのカウンターは良かった。いいタイミングで入った。
 カウンターは得意とするところだ。と、いうより、都築にとってそれが唯一の得意技
といっていい。
 165……身長はそれほど高い方ではない。高校生の頃から総合格闘技を始めて何度
も試合経験があるが、自分よりも背の低い相手はあまりいなかった。
 そんな都築の持ち味はスピードだった。
 素早い動きで相手を翻弄する。
 通っているジムでは一番速く、自分とスパーリングをするとわけがわからないと皆が
いっていた。
 二年前に小さな大会に出場した。このエクストリームよりも遙かに小さな大会だ。ど
こかのプロの総合格闘技団体がアマチュアトーナメントを開催したのだ。優勝者には、
プロデビューが約束されていた。
 都築はそれに出場した。
 もしかしたら、プロになれるかも……という考えを持っていた。
 だが、甘かった。
 通っていたジムがそれほどレベルの高いところだとは思っていなかったが、それでも
そこのジムではトップクラスの自分だ。そこそこいいところまで行くと思っていた。
 一回戦、自分よりも10センチ以上背の高い選手と当たった。
 持ち前のスピードで掻き回して……。
 もちろん、そう思っていた。
 それは、ゴングが鳴った直後だった。
 相手が近付いてきた。
 そして、ふっと消えた。
 右!
 察知した時には顎が揺れていた。
 素早い。
 自分より遙かに素早い。
 自分はそんなに長身でなくても、その分スピードがある。そう思っていた。
 だが、そいつは自分より長身で自分よりもスピードがあった。
 レベルが……違う。
 勝てない。
 思った時には意識が無くなっていた。
 その試合の後、スピードをつける訓練をしながらも限界を感じていた。
 自分は格闘技が好きだ。
 でも、自分にはそれほど才能が無いのではないか?
 才能は持って生まれた先天的なものと、幼児期に培われた後天的なものと、大雑把に
分けてその二種類がある。
 自分には前者は無い。
 そして、後者も無い。
 格闘技を始めたのが遅すぎた。それまで何かスポーツでもやっていればなんとかなっ
たのだろうが、中学生の頃までほとんど体を動かすようなことはしなかった。
 高校生の頃、急に始めてしまった。
 急にのめり込んでいき、いつしか夢を抱くようになっていた。
 プロになれるんじゃないか?
 そういうことを思いながら練習し、上達し、ますます夢を掴めるような気になって、
遂にその夢への門を叩いてしまった。
 そこには自分など問題にしないほどの人間たちがひしめき合っていて、自分はすぐに
そこから弾き出された。
 これなら負けないと思っていた武器も通用しなかった。
 それよりも鋭利な武器を持ちつつ、自分が持っていない武器を持っているような連中
が互いにしのぎを削る世界がそこにあった。
 何か新しい武器が欲しかった。
 そして都築が見出したのがカウンターだった。
 非力な自分のパンチでもカウンターで決まれば数倍の威力を帯びる。
 何度も特訓した。
 スーパーセーフと呼ばれる、一部の空手流派の試合で使用される頭部を守る防具をつ
けて同じジムの練習生に殴りかかってもらって練習した。
 都築の方は基本的に寸止めだが、相手の方には思い切り打ち抜くようにしてもらった。
 例えスーパーセーフをつけているとはいえ、何度も喰らえば脳震盪を起こして頭がグ
ラグラと激しく震動する。
 それで気分が悪くなって吐いたこともあった。
 それから何度か試合をして、勝ったり負けたりしていたが、ある時、カウンターが顎
に入った。
 一発だった。
 それまで劣勢だった試合をひっくり返す一撃。
 自分は、凄い武器を手に入れた。
 その時の手応えがいつまでも腕に残った。
 しばらくすると、相手が対策を練ってきた。カウンターを封じる一番手っ取り早い方
法は「待つ」ことである。
 前に出て行かない。そうすれば当然、カウンターなど決めようが無い。
 結局、膠着状態が続く試合が多くなり、あいつの試合はつまらんといわれるようにな
った。だが、とにかく勝利を貪欲に求めていた都築にとってはその周りの声などはさし
て気にはならなかった。せっかく上がり始めていた勝率が振るわなくなってきたことだ
けを気に病んでいた。
 ある時、焦れに焦れて口で挑発してみた。
「怖いのか?」
 とか、そういう類の言葉で挑発すると、相手選手はすぐに突っ込んできた。
 狙い澄ましたカウンターを顎にヒットさせて倒した。
 後でわかったことだが、相手の陣営では都築のことを「大した選手ではないがカウン
ターだけが異常に上手い」と認識してとにかくカウンターを喰らわぬように前に出ない
ことを徹底していたという。
 実力的にはその選手は都築などより遙かにレベルが高かった。しかし、とにかくカウ
ンターを警戒して慎重に試合を進めていたところへ、格下と思っている相手から「怖い
のか?」といわれれば思わず激昂してしまうのも無理はない。
 それから、それを多用し始めた。
 いつしかそのことが有名になり、あまり誇れないあだ名も頂戴したりしたが、今更そ
んなことに構ってはいられない。
 とにかく、勝つことだ。
 何をしてでも勝つことだ。
 その勝ち方がせこいといわれても、もうそれしかないのだからしょうがない。
 今日の試合も上手くいったはずだった。
 相手の藤田という選手は明らかに自分を上回る実力を有していたが何度も挑発されて
遂に怒り狂って突進してきた。
 そこへカウンターを合わせて、終わるはずだったが終わらなかった。
 あそこまで見事なタイミングでカウンターが入ったのに起き上がってきた相手は久し
ぶりだった。
 だが、しばらくは脳震盪の余波が根強く残り、満足な動きはできないはずだ。
 それを見越して一気にラッシュをかけた。
 一方的に攻撃している内に段々と自分で興奮してくるのがよくわかった。考えてみれ
ば、ずっと今までカウンター狙いの待ちの戦法ばかりを取ってきたのだ。それが失敗し
た時は一気に倒されたし、成功すればそれで試合は終わった。
 自分が一方的に攻め続ける状況など久しぶりだった。
 倒しに行った。
 無我夢中で拳と足刀を送り込んだ。
 このラウンドで決めねばインターバルの間に脳震盪のダメージを大幅に回復されてし
まう。
 そう考えてラッシュを始めたはずだったのに、いつしかそんなことが頭の中からふっ
飛んでいた。
 倒せるのではないか?
 このエクストリームの大舞台で行けるんじゃないのか?
 待って勝つんじゃない、前に出て思い切り相手を殴って蹴って倒す。
 それができるんじゃないのか?
 もう相手はフラフラでやっと立っている状態だ。
 行けるぞ。
 一気に決めようと思い切り大振りにハイキックを放った。
 その瞬間、股に凄まじい痛撃が来た。
 偶然であると主張し、それをレフリーも容れたようだが、都築にはわかった。あれは
故意だ。
 生半可な相手ではなかった。
 挑発に全身で乗ってきて本気でこっちを潰しに来た。
 怖い男だ。
 また、夢を見てしまったようだ。
 待ってカウンター。相手が出てこなければ挑発する。
 そんな自分が前に出て、相手をKOさせることができる……そんな夢を見てしまった。
 それができないから今の自分になったのに、また昔みたいに夢を見てしまった。
 そろそろ、自分も自分の限界に見切りをつける時期だろう。
 この試合を、その区切りにしていいんじゃないか、と思えてきた。
 インターバルの間も自分を睨み据えている相手を見ながらそう思った。
 第1ラウンドの間は全くそのようなことを考えてはいなかったが、もしかしたら、こ
の藤田浩之という男との闘いは、自分の生涯で一番いい闘いなんではないだろうか。
 無性にそう思えた。
 自分は、相手選手の恋人を貶めてまで勝とうとした。
 相手は、それに憤激して本気で自分を潰そうとした。
 夢中で闘った。
 自分の限界を這いずり上がるように越えて、自分はなんとかまだ負けずにいる。
 レフリーが、第2ラウンドの開始を告げに来た。
 黙って立ち上がり中央線へ向かって歩いていく。
 どうしようか?
 疑問が頭をかすめる。
 第2ラウンドからは戦法を変えようか?
 その思考が一瞬で生まれ、一瞬で消える。
 今更付け焼き刃の新戦法で何になるのか。
 自分が今まで最も鍛えた武器で行くしかないではないか。
 どんなに蔑まれようと、自分にはもうこれしかない。
 それを信じて──それにすがって──。
 行くしかないではないか。

「おい!」

 叫んだ。
 第1ラウンドの時のような小声ではない。観客席の観客にまで聞こえるような大声で
叫んでいた。
「全然効いてねえぞ、てめえの攻撃なんざ!」
「なにぃ……」
 浩之の顔にすうっと暗い影が差した。
「腰が入ってねえんだ! 腰が!」
 浩之はものもいわずに打ち込んできた。
 右ストレート。

 来た!
 都築は歓喜と興奮の狭間で胸の鼓動が一瞬で高鳴ったのを感じていた。
 まさか二度同じ手は喰わないだろうと思ったのだが、思い切り来た。
 カウンターを……。
 浩之の右腕が今までで一番速く突進してきた。


                                  続く





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