鬼狼伝14













     第55話 去る

 来た!
 浩之が踏み込んで右ストレートを打ってきた。
 カウンターを合わせてやれ。
 自分が唯一つ誇ることのできる武器を思い切り叩き付けてやれ。
 瞬間、凄まじい違和感が都築を襲っていた。

 おかしいぞ。なんであいつの拳がもうこんなところにあるんだ。

 今までの試合で幾度も攻防をしながら都築は浩之のパンチスピードというのを見切っ
たつもりでいた。
 大体、この程度の速さだろうと想定していた。
 それを越えてきた。 
  ……!
 速い!
 間に合わ……。

 右ストレートが一閃し二人の男を繋ぐ。
 寸瞬だけ繋ぎ合わせる。
 一瞬だけの邂逅。
 そして、片方の男が倒れた。

 右腕を高く上げた。
 雅史をチラリと見て笑いかける。
 そして、あかりを探して視線を観客席に走らせる。
 頭の黄色いリボンを目印に探していると、西側の席にあかりはいた。前から四列目だ
から目鼻立ちまでくっきりとわかる。
 目と口を大きく開いている。
 心配そうな顔だ。
 一度、思い切りダウンさせられてしまったので少々心配をかけてしまったようだ。一
回戦はもっと安心して見られる試合をしてやろうと思っていたのだが……。
 まあ、なんにせよ終わった。
 あかりに手を振ってやるか。
「藤田」
 ん? レフリーのおっさんか、何の用だ。ああ、おれの腕を上げて勝ち名乗りか、ち
ょっと待ってくれ、あかりに手を振って……。
「藤田、かまえて」
 かまえて……って……まさか、野郎。
「立ってやがる……」
 浩之は、呟いた。
 その視線の先に都築克彦が立っていた。

 衝撃が頭を突き抜けた時に自分の気持ちは終わっていたはずだった。
 そもそも、あともう一発いいのを貰ったら終わりにしようと思っていた。そうしたら
思い切り後ろに倒れて、そのまま大の字になって、カウントテンを聞いて、相手の勝ち
名乗りを聞いて、寝てしまおうと思っていた。
 それで終わり。
 終わるはずだった。
 倒れた瞬間はそう思っていたのだ。
 倒れて三秒ぐらい休んで、一応、起き上がろうとしてみた。なんとか、起き上がれな
いことも無さそうだった。
 このまま寝ていよう。
 その想いが頭に浮かんだ。
 そう決めていたじゃないか、それにどうせ起き上がったって勝てるとは限らない。
 そろそろ幕の引き時なんじゃないのか。
 その想いが浮かんだ。
 だけど……。
 想いが浮かぶ。
 さっきの藤田のパンチスピードは自分の予想を超えていた。   
  だけど……。
 今まで自分が目の当たりにしたパンチの中で一番速いというわけじゃない。あれより
ももっと速いパンチを自分は喰らったことがある。
 あの時もカウンターを打とうとして、でも、間に合わなかった。
 でも、あの時は惜しかったんだ。もう少しだった。
 それを合わせて考えると……自分のカウンターは藤田のパンチスピードに絶対に対応
できないわけじゃない。
 上手くやれば十分に合わせられるスピードだった。先程は、こちらで勝手に相手の限
界を見切ったつもりになっていたから喰らってしまった。
 もう一発あのぐらいのパンチを打たれたら、カウンターを合わせることは不可能じゃ
ない。
 ……やってみようか。
 もう少し……もう少しだけやってみようか。
 浮かぶ。
 様々な想いが浮かんでは消えていき、気付いた時には都築は立ち上がっていた。

 左のジャブを右腕でガードした。
「くっ……」
 それを受けた時に生じた振動すらきついと思える。
 都築は下がっていく。
 あまり近付いて組み合いになってグラウンド勝負に引きずり込まれるのを恐れている
のだ。
 第1ラウンドに一度だけグラウンドでの攻防になったが、浩之は都築を圧倒していた。
しつこく粘る都築を手っ取り早くしとめるために今度は浩之の方からグラウンドへ舞台
を移してくることは十分に考えられた。
 なんとか今のところそれは避けられている。
 だが、浩之が繰り出してくる攻撃に都築はなんとかクリーンヒットをまぬがれている
状態であった。
 防御するのに精一杯でとてもカウンターを打つ余裕などは持ちようがない。
 甘かった。
 自分の体はもう既に限界近くまで酷使されて疲れ切っているのだ。それを計算に入れ
ていなかった。
 腕が重いのが辛い。
 やっぱり、あのまま寝ていればよかった……。
 軽いジャブを当てられながら思った。
 また自分の悪いクセが出てしまった。
 今まで何度も、止める機会はあった。
 格闘技は続けるが、もうプロになろうとか大会で優勝しようとか、分不相応の夢は持
たないようにしよう。
 そう思ったことは今まで何度もあった。
 でも、あと一試合……次が最後と未練がましく、もう掴めない夢をまだ掴めると信じ
てここまで来てしまった。
 そして今はどうだ。
 あと一発……あと一発カウンターを決められたらもう悔いは無いと思っている。
 ついにここまで追い込まれたか。
 あと一試合があと一発に……そこまで追い込まれたのか、自分は。
 だが、その一発すらももはや遠いところにあった。
 殴られ、蹴られ、ふらふらになりながら逃げ回っているだけだ。
 そして、それが精一杯なのだから我ながら情けなくなってくる。
 浩之の右の前蹴りが都築の腹部を狙って突進してきた。
 都築はできるだけ下がったが逃げ切ることができなかった。
 突き飛ばされるように都築の体が後方に泳ぐ。
「場外!」
 レフリーの声ではじめて自分がライン外に出てしまっていることに気付いた。
 腹部に鈍い痛みがある。
 だが、なんとか水月への直撃は避けられた。今のを水月に喰らったら……いや、急所
のどこにどのような攻撃を喰らっても自分はもう駄目だ。
 中央線に戻ろうとする時、男の声が聞こえた。
「もう駄目だよ、止めさせればいいのに……」
 騒然とした声の群れの中からそれだけが妙にはっきりと聞こえた。
 それに答えるように起こった女の声もはっきりと聞こえた。
「あの人、あんなになっちゃって可哀相」
 ……。
 チッ。
 と、先に中央線まで戻っていた浩之がやってきた都築を見て舌打ちをする。
「何を笑ってやがんだ。気色悪ぃ」
「ふふ……」
 そうか。
 そうか、やっぱり自分は笑っているのか。
「そんなので小馬鹿にして挑発しようたってもう引っかからねえぞ」
「ふふ……」
「……ふん」
 鼻を鳴らして浩之がかまえる。
 都築もそれに応じるようにかまえて、試合が再開された。
 浩之は挑発にはもう乗らないといいながらも余程都築の笑みが癪に触ったのか強烈な
攻撃を叩き込んできた。
「ふふ……」
 必死にそれをガードしながら都築は笑っていた。
 心の底から笑っていた。
 浩之をではない。挑発のためでもない。
 心の底から自分自身を笑っていた。
 これがおれの結果か。
 死に物狂いになってカウンターを練習して、口で相手を挑発して、せこいとか臆病と
か卑怯とかいわれながらここまでやってきた。
 そしてこの大舞台になんとか上がっている。
 そして殴られ──。
 蹴られ──。
 挙げ句の果てには観客に哀れまれて──。
 これが──。
 これが凡人が夢を掴もうとした結果か。
「ぐう……」
 浩之の左のショートフックが顎をかすめる。
 大した威力ではないが、喰らった箇所が箇所だけに脳味噌を直接叩かれたような衝撃
が都築を襲う。
 ここで終わりか。
 自分の夢の終着点はここか。
 浩之の追撃から逃れようと後方に退こうとして足が滑った。もう足も満足に動かなく
なっているのだ。
 背中でマットを叩いた。
「スリップ!」
 辛うじてダウンは取られなかったようだ。
 しかし、それでも今の自分には立ち上がるというそれだけの行為が非常に困難だ。
 なんとか……立った。
「都築!」
 自分の名が呼ばれたような気がした。
「都築!」
 また聞こえた。
 試合は再開されて、浩之の攻撃が始まった。
「都築!」
 まただ。
 おそらく、ジムの連中だろう。
 今日、都築のジムの連中は皆この会場に来ていて自分を応援してくれている。
 今までも時折声援を上げてはいたのだろうが、最後の最後のこの状況になって一段と
それが大きくなったのだろう。
 ありがたい……。
 あと一発……。
 もう夢は諦めた。だが、その自分が最後になんとしても掴みたい最後の一発。
 それを掴むための何よりの原動力だ。
「都築!」
 その声が連なって聞こえる。
 随分、大声を張り上げているな。
 大きなうねりのような声。
 ……十人や二十人程度が出す声じゃないぞ。
 練習生が二十人いないようなうちのジムの連中にこんな大声援が出せるのか。
「都築!」
 これは……。
 百人……二百……三百……いや……桁が一つ多い。千人ぐらいの人間が出す声だ。
 この会場には一万人前後が入っている。
 それの一割程度が自分に声援を送っているのか。
 哀れんだあまりの声援か。
 いや……そんなことはどうでもいい。とにかく、おれの名前を叫んでいる人々がいる。
 もう夢は諦めた。
 でも、今──。
 夢の欠片ぐらいはこの手に──。
 都築は右手を強く握り締めた。
 浩之が踏み込んでくる。
 右のストレートが来る。都築はそれに賭けた。
 先程のそれのスピードを越えていないのなら決められる。
 今なら合わせられるような気がした。
「!……」
 浩之の右ストレートが伸び切らぬ内に都築の頭部はその延長線上から消えていた。
 都築が、右でカウンターを放つ。
「っ!……」
 驚いたか、藤田。
 こっちは、こればっかりやってきたんだよ。
「っっっ!!……」
 喰らえ。
 体の中に残っている体力も筋力も気力も総動員だ。
 こいつを喰らえ!
 
「ダウン! ワン! ……ツー!……」
 レフリーのその声を都築克彦ははっきりとはしない意識の中で聞いていた。膝を曲げ、
腰を落とし、腿の上に腕を乗せ、頭を垂れてマットを見ていた。
 甲高い歓声がどよめきに変わっていく。
 カウントファイブの辺りで、浩之が自分の頭を軽く小突きながら起き上がろうとして
いた。
 そうだ。
 ここで、あの程度で倒れるような奴じゃない。
 調べたところ、あの藤田浩之というのは格闘技を始めてまだ一年も経っていないらし
い。その前に何かスポーツをやっていたとしても、やはり驚異的なことだ。
 もっと経験を積めばもっと強くなるだろう。
 自分が上がってきた階段などは一段抜かして駆け上がっていくような種類の人間だ。
 だから……藤田よ。
 お前は、おれみたいな小物は悠然と踏み潰して行くぐらいじゃないといけない。
 けっこう辛そうだな、藤田よ。
 おれもおれなりに一矢報いたってことか。
 立ち上がって……ファイティングポーズを取ったな。ギラギラしたいい目をしてやが
るな。すぐにでもおれをぶち殺してしまいたいって目だぜ。
 でも、悪ぃな。
 おれは、もう駄目なんだ。
 もう、寝るよ。
 それで、これで最後なんだ。
 だから、もうお前の相手はしてやれない。
 お前はまだ殴り足りないんだろうけど、まあ、勘弁してくれ。
 それじゃあ……。
 おれは……もう、寝るよ。
 ここから去るよ……。

「おい」
 立ち上がりファイティングポーズを取って前方を見据えた浩之はレフリーにいった。
 自分の肩を越えて後方に走る浩之の視線を追ってレフリーが振り返る。
「おい、担架を!」
 離れた位置から見ても、もう完全に気を失っているのがわかったのだろう、担架を持
ってくるように指示を出してからレフリーは浩之に背を向けて小走りに走り出した。
 大の字に寝転がった都築の元へと。
 ゴングが激しく乱打されていた。

 八分五十秒(第2ラウンド) TKO 勝者 藤田浩之





     第56話 抜け殻

 浩之が試合場を下りた時、横合いから手が現れた。
「やったな」
 その手を目で辿っていくと、そこにはにやりと笑った耕一の顔があった。浩之はその
手に自分の手を打ち合わせる。
「次も勝てよ」
「耕一さんこそ」
 そういって、浩之は試合場を後にした。一応、医務室に行って軽く手当を受けておく
つもりだ。次の試合までの時間はそう長くは無いが、やらないよりはマシであろう。
「浩之、けっこうひやっとしたよ」
 にこにこしながら雅史がいう。皮肉と取れないこともないがいっている人間が人間だ
けにそのようには全く聞こえない。
「心配かけたな」
 浩之は苦笑した。ようやく、笑みを浮かべる余裕が生じていた。
「都築選手はどうだった?」
「やな野郎だな」
 浩之は即答した。雅史は困ったような表情をした。
「やっぱり、なにかいわれたの?」
「ああ……思い出すのも嫌なんであんまいいたかねえけど、あかりのこととかな」
「うん」
 雅史は頷いた。浩之が思いきり不用意に突進してカウンターを貰ってしまった場面が
あったが、それはそういうことだったのだ。
 付き合いの長い雅史は浩之があそこまで憤激するのはあかりのことで何かいわれたの
ではないかとほぼ確信していたが。
「でもな」
「うん」
「なんていえばいいんだろうな……手抜きとか、そういうことは絶対にしない奴だった
よ」
「相手も必死だったんだね」
「……とにかくあの野郎、自分の持っているもん全部をぶつけて来たよ」
 浩之は軽い脳震盪を起こしていたものの、もはやそれからは立ち直り、外傷も無く、
ダメージの蓄積も無いので次の試合をするのになんら問題は無し、とのありがたいお言
葉を医師から貰った。
「そういえば……都築くんがそこに寝てるよ」
 何気ない医師の言葉に、浩之は「そこ」に視線を走らせた。
 衝立の向こう側に確かに人の気配がした。
 浩之は椅子から立った。
 自分が何をしようとしているのか、それすらはっきりとわからぬままに衝立の向こう
側へと足を踏み入れた。
「あっ」
 と、浩之の顔を見て声を上げたのはベッドの傍らに付き添っている若い男だった。浩
之よりも若い……まだ中学生なのではないだろうか。
「なんだ」
 そういいながらうっすらと目を開いた都築の表情に驚きは無かった。
「よう、藤田」
 笑ってはいない。
 怒ってもいない。
 恐れてもいない。
 試合中のように無表情で無感情なわけでもない。
 その時、都築克彦は不思議なほどに無垢な表情で浩之を見上げていた。
 覇気。
 勝ちたいという気持ち。
 それらの種類のものがその表情には一切無かった。
 試合中の都築は確かにそれを持っていた。パンチを喰らう度に浩之はそれを感じるこ
とができた。
 それが今は無い。
「藤田よ、おれは引退することにしたよ……ま、引退っていってもおれはアマチュアだ
し小物だからな……別にそれがどうってことも無いんだがな」
「格闘技……止めんのかよ」
「格闘技は続けるよ……やっぱり、好きだからな」
 いいながら、より一層それを確信していた。自分はやっぱり、格闘技が好きなのだ。
「ただ……もう上を目指すのを止めるよ」
 そこに横たわっているのは一個の抜け殻であった。
 この場合、都築が使った「上を目指す」という言葉は、今より強くなるというような
意味合いではない。
 どのような人間でも格闘技をやる以上そういう気持ちを持っている。今よりも強くな
りたいと思っている。
 その中でもプロになったり、道場を持ったりする人間は極わずかな一握りの存在であ
る。
 その一握りの存在が都築のいう「上」であった。
 格闘技をやる人間の多くは、はじめからそのような夢は持っていない。それぞれがそ
れぞれなりに自分の限界を見極めてその範囲内で強くなろうとする。
 一部に、夢を持つ人間がいる。
 そして、そのまた極一部が夢を実現する。
 さらに、そこから数えるほどの少数の人間たちがそれぞれの格闘技の世界で頂点に立
つ。
 都築克彦は、まさか自分が頂点に立てるとは思っていなかった。
 だが、その前の段階は可能なのではないかと思った。
 そして闘って闘って、自分の限界がぼんやりとだがわかった。
 はっきりとした輪郭を持ったラインではないが、自分の限界というものがわかった。
到底、自分は夢を実現できる人間ではない。
 結局、自分は、夢を持ちながら、それを実現できなかった種類の人間なのだ。
 それがようくわかった。
 色々とやった。
 手段を選ばないことだってあった。
 その結果は、エクストリーム一回戦敗退。
 これ以前にも何度か他の大会に出たが、そこでもせいぜいが準決勝まで行ける程度。
 浩之は、都築の言葉を使えば「上を目指している人間」である。
 先程までは……互いに拳と足刀を交換し合っていた時までは、都築も浩之と同じとこ
ろにいる人間だった。
 だが、もうそれが無い。
 そういった意味で、都築はもはや死者であった。
「おれはここまでだった」
「……」
「一応、おれなりに努力もして、おれなりにやれることは全部やったつもりだったがこ
こまでだった」
「……」
「お前は、おれより上に行くんだろうな」
「当たり前だ」
「お前は、そういう種類の人間だよ」
「……」
「こいつ……」
 と、都築は自分の枕元に佇立している青年を見やった。中学生ぐらいと思われるまだ
幼さの残った顔立ちをした青年は浩之から見ても、なかなかいい体をしていた。
「おれのジムの後輩だ。タッパ(身長)もあるし、才能もおれなんかより全然ある」
「とんでもないっス」
 その後輩は照れたように俯く。
「明日から、こいつにつこうと思ってな」
 後進を育成する道に、都築は進もうとしていた。
 こいつに夢を託そうとか、そういうことを考えていないといえば嘘になる。
 が、それよりも、別の気持ちが強かった。
 おれは駄目だった。
 だが、おれよりもずっと才能があるこいつがどこまで上がっていけるのか──。
 それが見てみたい。
 それの手伝いがしたい。
「こいつも、おれよりずっと上に行ける人間だ」
 都築は澄んだ声でいった。

 控え室の隅に陣取って浩之は椅子の上に胡座をかいて腕組みをしていた。
 医務室から控え室にやってきてそこでその体勢になってから少しも動かない。
 時折、まばたきをしているだけだ。
 雅史は彼を気遣って声をかけずにいる。
 浩之は下を見ている。
 視線の先に、自分の二つの拳があった。
 その拳が乗っているのは自分の脚だ。
 ここ数ヶ月、人を打ち、投げ、極め、制圧するために鍛えに鍛えて、既に凶器と化し
た自分の体だ。
 今日も、先程、そのために活動したばかりだ。
 その結果、都築克彦という男が浩之と同じ世界から去っていった。
 都築克彦という男が持っていた夢が消えた。
 それを、すまないと思う気持ちも──。
 それを、負けたのだから当然と突き放す気持ちも──。
 どちらの感情も浩之の中には無かった。
 ただ、夢を持っていた男がいて、それを倒した自分がいる。
 そして、自分にも夢がある。
 一人の男の夢に自分が引導を渡した。
 今までの野試合ではあまり感じなかった気持ちが浩之に芽生えていた。
 これか。
 こういうことか。
 他人の夢を潰すとはこういうことか。
 それが当然のこととして存在する世界だ。いや、格闘技に限らない、二人以上の人間
が一つの場所を目指して競争する世界では、日常茶飯事のように起きていることだ。
 それでも、いいのだ。
 他人の夢を潰してもいいのだ。
 向き合う二人の人間は対等だから、いいのだ。
 どっちも潰すつもりでいる。
 だからもちろん、どっちも潰されることもあることを覚悟している。
 結果、潰されたとしても相手を恨みようがない。
 恨むのならば自分だ。自分の努力の足りなさ、自分の精神の弱さ、自分の読みの悪さ、
それらを責めて責めて責め抜いて、明日への糧にするしかないではないか。
 そこで泣き言をいうような奴は覚悟が決まっていない中途半端な偽物だ。
「その点……あいつは本物だったな」
 ぼそり、と浩之は巡り回る思考の中で思わず口に出していた。
「浩之」
 それまで、彼をずっと見守っていた雅史がようやく声をかけた。
「ん、おう」
「二回戦の第一試合が始まるよ、見に行こうよ」
「ああ……」
 二回戦第一試合と聞いて浩之はすぐに立ち上がった。かつて手を合わせたことのある
月島拓也の試合だ。
 自分がこのまま勝ち上がっていけば優勝決定戦で当たるかもしれない相手だ。
「おし、行くぞ」

「また下になった」
 英二が呟いた。
 試合が開始されてから二分あまりの間に、これで三回目だ。
「よし、まだ終わってねえな」
 そういいながら小走りにやってきたのは浩之と、そして雅史だ。
「どんな感じです?」
 英二の姿を見付けて声をかけてくる。
「月島くんが押さえ込まれてるよ」
「え……」
 と、視線を試合場に転じると、今正に、拓也が相手選手に押さえ込まれていた。柔道
でいう横四方固めに近いかたち、いわゆるサイドポジションともいう体勢になっている。
 腕を極めようとしてくるのをかわして、なんとか体勢を入れ換えていく。
「動きが鈍いな……おれとやった時みたいなキレが無いぞ」
「一回戦で精英塾の深水征とやった時のようなキレもね」
 拓也が相手にしている選手は、英二が見るところ、明らかに浩之や深水よりは一つ二
つ実力が下のようだ。
「あの程度の相手ならグラウンドになっちまえば三十秒で行けるだろうに……」
 不思議そうな浩之の声に英二も同感であった。
「三分過ぎたか……」
 電光掲示板に映し出された時計がそれを告げていた。
「おっ!」
 浩之と英二はほぼ同時に声を上げていた。
「動きがよくなった」
 これも、二人同時にいっていた。

 三分間待った。
 もしかしたら……という思いをずっと三分間持ち続け、待ち続けたが、やはり駄目だ
ったようだ。
 相手の選手、一回戦を勝ち上がってきただけに悪くないものを持っているが、惜しい
ことにまだ若く、場数を踏んでいないようだ。
 正式な試合の経験はほとんど無いながらも、幾度も、凄まじい緊張感を強いられる闘
いを経験済みの拓也にとっては、精神的にそれほど怖い相手ではなかった。
 純粋に技術面だけを見ても、グラウンドに引きずり込んでしまえば確実に自分が有利
だ。
 それでも、三分間待った。
 待つ内に、相手の緊張が取れてくるのではないか?
 待つ内に、相手が思わぬ力を発揮してくるのではないか?
 待つ内に、相手が自分を喜ばせてくれるのではないか?
 そう思って待った。
 だが、諦めた。
 三分が過ぎた。
 丁度、互いにもつれ合うようにして有利なポジションを取ろうとして体は密着してい
た。
 ぽつり、と。
「君じゃ駄目だ」
 呟いた。
 それが合図だった。

「おっ……おっ……おっ……おおっ!」
「ふむ……ふむ……ふむ……へえ」
 浩之と英二がそれだけをいう間に、拓也が腕ひしぎ逆十字固めを極めタップを奪って
いた。
 試合時間は三分十秒。
 しかし、実際の試合時間がせいぜい三十秒程度に過ぎぬことを浩之も英二も、そして、
二階席にいた耕一も、そして、この試合が始まる直前、顔に眼帯をした御堂静香ととも
に会場に帰ってきた柳川も看破していた。





     第57話 闘う心

 Aブロックの二回戦第二試合。
 一分二十四秒。
 アームロックから移行した腕ひしぎ逆十字固めで三戸雄志郎(さんのへ ゆうしろう)
が勝利した。
「すぱっ、と決まったな」
 と、いった浩之の横で雅史が頷く。
 それほどに格闘技に精通している雅史ではないが、今の試合は三戸が対戦相手を終始
押し続け、一度もピンチになることなく、無理もせず、きっちりとタップを奪って見せ
たことはわかる。
「Aブロックは、あっさりした試合が多いね」
「まあな」
 確かに雅史のいう通りで、元プロレスラー中條辰がKOされた耕一の試合や、劣勢に
追い込まれた都築克彦が意外な粘りを見せた浩之の試合など、Bブロックにあったよう
な激しい試合がAブロックには無い。
 試合時間も短く、あっさりと決まる。
 選手同士の実力差がある程度開いてしまっているような対戦が多かったためだ。
「だけど……あの三戸ってのなかなかやるぜ、月島さんがどう闘うかな」
 そういってから、浩之は背後を振り返った。そこに立っていた英二の意見を聞こうと
思ったのだ。
「あれ?」
 だが、そこに英二はいなかった。
「英二さん、どこ行った?」
「次が試合だから控え室に帰ったんじゃないのかな」
「ん……ああ、そうか」
 二回戦Bブロック第一試合。
 緒方英二VS柏木耕一戦は二十分の休憩時間を挟んで行われる。

 汗が背中を湿らせているのを、英二は感じていた。
 軽いウォーミングアップをしただけとは思えぬ量の汗が背中に浮いている。
 なんだ、これは?
 一瞬、全身を寒気が縦断したような感覚が襲う。
 寒い。
 冷や汗か、これは?
 怖いのか?
 おれは怖がっているのか?
 肯定。
 そうだ、怖がっているのだ。 
 おれはこれから始まる試合を怖がっている。
 こんな感じは始めてのことだ。
 似たような感覚は、学生時代にやっていたボクシングの試合で感じたことがある。
 最後の試合であった。対戦相手は打たれても打たれても闘うことを止めずに英二の前
にやってきた。
 まるで、殴られるためにやってきた。
 一発殴るごとに怖くなった。
 その時の怖さとはまた違う。
 その怖さは純粋にその対戦相手のタフさ、闘争本能の凄まじさに対して抱いたものだ。
 英二にとって本当に怖いのはそういうことじゃない。
 あの試合の後、打たれに打たれてボロボロになった男がいったのだ。
「……まだ……やれます」
 それを聞いた時、英二の中で何かが切れた。
 ぷつん、と音を立ててそれは切れていた。
 もうやりたくない……。
 そう思ってしまった。
 この相手と、じゃない、もうボクシング自体をやりたくなくなってしまった。
 その時、既に音楽の仕事をすることを決めていた。英二には進む予定の道があった。
 迷わず、その道を行った。
 ある意味で、あの時のあの試合で何かが切れたことが英二のボクシングに対する未練
を断ち切ったともいえる。
 その自分が今、こんなところにいる。
 エクストリーム大会の選手控え室にいて、自分の試合の時間が来るのを待っている。
 なぜ、こういう場所に戻ってきたのか……。
 心が──もうやりたくないはずだった闘う心が、もう一度やりたいといったからだ。
 自分の中の何かを切った男が、チャンピオンに打たれながら前に進む姿を見て──。
 藤田浩之という男が、叩き潰され、立ち上がるのを見て──。
 動いたのだ。
 柏木耕一が、月島拓也が闘う姿を見て──。
 闘う心が動いたのだ。
 英二はそれに従った。
 もう、迷いは無いはずだ。
 なのに、なぜ怖い。
 これから闘う柏木耕一が怖いのか?
 強い男だ。中條辰を轟沈させた攻撃を果たして自分が受け切れるのか。
 でも、殴られたり、蹴られたりすることはもう覚悟の上のはずだ。
 なんだ?
 一体、自分は何を怖がっているんだ?
 正体不明の怖さの正体を必死に探す。
 柏木耕一……彼自体を怖いとは思わない。むしろ、怖いとかそういう感情とは逆のも
のを人に抱かせる資質に恵まれた青年だと思う。
 柏木耕一の強さ……自分はそれが怖いのか?
 いや……彼の強さ自体ではなく、それがもたらすもの……。それが怖いのではないか。
 柏木耕一は、自分の闘う心を砕いてしまうのではないか……。
 かつて、死んだと思っていたその心。
 死なずに、自分の奥深くに眠っていたその心。
 段々と蘇ってきたその心。
 それを柏木耕一は「殺して」しまうのではないか?
 英二の肩に手が置かれていた。
「……君か」
 英二の前に藤井冬弥が立っていた。
「すいません、試合前に……」
「なんだい」
「理奈ちゃんが……表に……」
 ぼそりと小声で呟く。
 英二は黙って立ち上がった。冬弥の後についていくと廊下の行き止まりの場所に理奈
が立っていた。
「調子、どうなの?」
「まあまあさ」
 話している二人から少し離れたところに冬弥と由綺と弥生が立っている。見張りをし
ているのだろう。ただでさえ、英二がエクストリームに出場することで芸能マスコミの
注目が集まり、今日会場には普段は格闘技など扱わぬ雑誌の記者が姿を見せている。
 そのような状況で、試合を前にした英二と当日会場には行かないと発言していた理奈
が二人で話しているようなところが見つかったらすぐさま記者が集まってきてゆっくり
と話すどころではない。
「一回戦、見たわ……兄さんって思ってたより強いわね」
「ああ……だけど、次の相手は手強いからな」
「えっと……柏木耕一だっけ? あの元プロレスラーっていう人とやった試合すごかっ
たわよねえ」
「ああ……勝てないかもな……」
「……兄さん?」
 理奈の表情と声が、英二の口から「勝てない」という言葉を聞いた瞬間、一変してい
た。
「なによ、自信無いの?」
 それまで、どことなく突き放したような理奈の態度であったが、それが変わった。
「兄さん、調子悪いんじゃないの?」
 心配そうに、兄の顔を覗き込む。
「調子……悪そうか?」
「いつもの自分以外の人間を全部ナメきったようなふてぶてしさが無いわよ」
「……そんなに態度でかいかなあ? おれ」
「小さいわけないでしょう」
「まあ……なあ……」
 少しだが、自覚はしている。
「とにかく、なにか心配事があるならいってみなさいよ」
「いや……」
 心配事……怖いこと。
 闘う心が死んでしまうかもしれない怖さ。
 そんなこと、妹にいえるか。
「何も無い」
「嘘つかないでよ」
 理奈は即座に断定した。
「いってみなさいよ」
「無いって、本当に」
 英二が笑いながらいう。人を小馬鹿にしたような……と誤解されることが多い笑みだ。
「この期に及んでまた嘘をつくの?」
「また……って、おれ、そんなに嘘ついたことあるっけ?」
「あるわよ、長い間一緒にいるとわかるんだからね、今まで兄さんが嘘ついても黙って
たけど」
「……」
 何度か理奈に大嘘をついたことがあるが、それも全部お見通しだったのだろうか。
 あれと……あれと……いや、あれはバレてないだろう。あれがバレてたら何発か殴ら
れているはずで……。
「ちょっと、兄さん」
「ん、ああ、なんだ」
「いってみなさいよ」
「……無いって、本当だ。絶対に勝つよ」
 やっぱり……妹にそんなこといえるか。
「……」
 理奈はムッとして押し黙ってしまった。どうやら怒らせてしまったようだ。こうなる
と非常によろしくないことを英二は知っている。理奈の言葉ではないが長い間一緒にい
るとわかる。
「もういいわよ!」
 理奈はそういうと、さっと英二から視線を外して背を向けた。
「あ……」
 身を翻した理奈の前方に、二人の人間を伴った弥生の姿があった。理奈はその片方の
人間に軽く会釈するとそのまま何もいわずに去っていった。
「お二人のお知り合いですので、私の判断でお通ししてしまいましたが、お取り込み中
でしたか」
「あ、いや、弥生さん、気にしなくていいよ」
 英二が横に手を振って苦笑する。
「静香さん、目は大丈夫ですか?」
 そして、右目に眼帯をした御堂静香に声をかける。
「はい、ちょっと目の上が腫れてるだけで、眼球自体はなんともないですから」
「それはよかった」
「試合頑張って下さい、それだけいおうと思って」
「ああ、ありがとう」
「あの……私、理奈ちゃんとちょっと話して来ます」
「……ああ、お願いします」
 英二は少しだけ悩んでからいった。どうせあのまま放っておいてもしばらくすれば機
嫌は直るだろうが、静香から何かいってもらった方がよいだろう。
 弥生も一礼してその後に続き、そこには英二と、そして柳川だけが残っていた。
「君は行かないのか」
 英二がいった。
「おれが行ってもなんにもならない」
「……だろうね」
 ふっ、と沈黙が満ちる。
 英二は居心地の悪さを感じて、この、静香の法的根拠の無い保護者の前から消えよう
とした。
「おい……」
 背中に、低い声が当たった。
「もう少し、妹に気を遣った方がいいな」
「……聞いていたのか」
「けっこう、大きな声で話していたからな、特に妹の方が」
「……気は、遣ったつもりだが」
「そうか?」
「……」
「何か不安があるのなら話してみてもいいかもしれんな」
「驚いたな」
「何をだ?」
「君は、他人のそういうことには首を突っ込む人間には見えなかったんだが……」
「基本的にはそうさ」
 柳川の顔に自嘲的な苦笑が浮いた。
 この男のいう通りだ。自分は、そういう他人事には無関心、無干渉を押し通してきた
人間であるはずだ。
「妹に心配はかけられないさ」
「一応、妹のことを大事にしたいとは思っているんだな」
「それはそうさ」
「互いに補い合うことも必要なのではないのか」
 自分の口からそのような言葉が出ていたことに、柳川自身が一番驚いていた。自分が
そういうことをいう人間だとは思っていなかった。
 だが……今日、ついさっき、気付いたのだ。
 自分が保護者のように思っていた人間が、実は自分に対してある種類の力を与えてく
れていることに──。
 思えば、あの時だってそうだった。
 あるきっかけで出会って以来、自分を慕ってきた青年に対して、自分は明らかに守る
べき対象という考えを持っていた。だが、自分はその代わりに貰っていた。
 青年から──貴之から──色々なものを貰っていた。
 柳川が思うに、この男はずっと妹を自分が一方的に保護するだけの存在だと思ってい
たから、そのことに気付いていないのだ。この男だって、妹に何かを貰って生きてきた
はずなのだ。
 だが、それを告げるのは行き過ぎだと思う。いらぬお世話というやつだ。
「少し、喋りすぎたな」
 それだけいって、柳川は去った。

 中央線に立つと、目の前にいた男が握手を求めてきた。
 差し出された手を無言で握る。
 相手は落ち着いている。
 自分も落ち着かねばならない、と思うものの英二の中で釈然としないものがくすぶっ
ていた。いうまでもない、先ほどの柳川の言葉だ。
 自分は理奈に心配をかけたくなかった。
 だから何もいわなかった。
 自分は理奈に打ち明けるべきだったのだろうか。闘う心が殺されてしまかもしれない
怖さのことを。
 話していれば、少しは気が楽になっていたのかもしれない。
 ずっと、保護の対象だと思っていたが、理奈だってもう大人だ。保護されてばかりで
はないし、理奈自身があの時、少しでも兄の役に立ちたかったのではないのか。
 やっぱり……理奈に話しておけばよかったか……。
 わっ。と歓声が上がる。
 英二の意識が試合場──闘う場──へと呼び戻された。
「!!……」
 始まっていた!
 レフリーの「はじめ」の声に気付かなかったのだ。
 なんたる不覚か!
 耕一は既に至近にあった。

 ぶん。

 唸りを上げてやってきた右のストレートを後ろに下がってかわした時、耕一の腕が起
こした風が英二の顔に吹き付けた。


                                      続く


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