鬼狼伝17










     第65話 立て

 立ち上がった耕一を歓声が包んだ。
 無数の声が波のように押し寄せてはぶつかっていく。
 無意識の内に、その中から幾つかの声を拾い上げる。
「よし、立ったっ!」
 我が事のようだな、浩之。
「ほら、耕一はあんなもんじゃくたばらないって」
 ああ、こんなもんじゃくたばらないよ、梓。
「ああ、よかったぁ、全然動かないんだもん」
 心配かけたね、初音ちゃん。
「……よかった」
 こっちも心配かけちゃったね、楓ちゃん。
「あんなもん効いちゃおらんだろうが、さっさと立たんか!」
 先生の声は耳を澄ますまでもなくよく聞こえるなあ。こりゃ、あのまんま寝てたら後
で大目玉だったな、先生、手抜きとか大嫌いだからな。
「立ったか」
 立ったよ……英二さん。

 そろそろ本気か……。
 英二は耕一の周囲を円を描くようにフットワークを踏みながら観察者の眼光を注いで
いた。
 先程のグラウンドでのパンチは故意ではあるが、全部が全部、自らの意志であったわ
けではない。
 あのままでは足関節を取られてしまいそうだったので仕方なく殴った。
 注意一回では負けにならないことを見越した上でのパンチだった。
 だが……それで少し耕一の雰囲気が変わったように思える。
 遂に出たか。
 この試合の前から……いや、もっと前、自分がある日曜日の午後にこの男と藤田浩之
の対決を見て持っていた思い。
 この男、まだ何か隠しているのではないか……。
 その思い。
 全力を振り絞っているように見えて、まだ奥底に何かが隠れているのではないか。
 そう思わせる何かがこの男にはある。
 思えば、自分はそれを引き出したかったのかもしれない。
 さて……それを引き出せたのかどうか。
 耕一が接近してくるのに合わせてジャブを繰り出していく。
 幾つかが空を叩き、幾つかが耕一の腕を、そして僅かだが幾つかが耕一の顔に達する。
たかが知れたダメージだが、蓄積はされていく。
 しかし、耕一がそのような悠長な闘いに付き合うつもりが無いことは明白だ。先程か
ら、数多く繰り出される英二の軽い攻撃をほとんど相手にしていない。
 大きな一発を狙っている。ダメージの蓄積とかそんなものはふっ飛ぶ一発だ。それを
貰えばもう立ち上がることのできない一発だ。
 だが、そこに付け込む隙が生じる可能性がある。
 耕一に守勢気味の闘いを展開されては手も足も出ないところだ。
 すっ、と左手のガードを下げて誘ってみる。
 下がりきらぬ内に、耕一の右膝が上がっていた。
「!……」
 すぐさま咄嗟に上げた左腕に耕一の素早い右ハイキックが炸裂する。
 威力よりも速さを重視したそれだが、頭部に喰えば失神確実のものだ。
 誘うために下げたのではなかったらガードの戻しが間に合わずに、右ハイを側頭部に
貰っていただろう。
 右ハイが戻ったと見るや、英二は踏み込んで左ストレートを放った。
 耕一は、右ハイを打つために引いていた上半身を左に振ると同時に前に出した。英二
の左ストレートが右耳をかすっていく。
 耕一の右耳から、細い朱線が宙に引かれる。オープンフィンガーグローブで切ってし
まったのだ。
 英二は感じた驚愕をあますところなく表情に出しながら上半身を引いていた。右ハイ
を放って上半身を引いた状態にある耕一に左ストレートで追い打ちをかけて倒してしま
おうとしていたのに、一瞬で立場を逆転された。
 左ストレートを掻い潜った耕一が組みついてくるのを嫌って身を引いた英二をなおも
追撃してくる耕一に向かって右のショートフックを振った。
 合わせた!
 振った瞬間、英二は確信した。
 突っ込んでくる耕一の顎の先端を横から殴打できる。もし、耕一が咄嗟に身を引いて
それを回避し得たとしても組みつかれるのを嫌った英二の目的は達されるわけで、十分
に牽制の役目を果たしたことになる。
 耕一が身を引く素振りはない。
 行ける。
 顎を横から殴られれば、どんな人間でも脳を揺らされざるを得ない。一瞬でも、脳震
盪を起こす可能性が高い。
 そして、例え一瞬でも、瞬間瞬間の攻防の結果如何によってすぐさま展開が変わって
いく格闘においては、それが敗北の呼び水になることは珍しくはない。
 当たる寸前――。
 耕一の顎が思い切り跳ね上がった。
 空を切った。
 英二の右拳が耕一の顎の下、喉の前を通過する。
 当たらぬと見るや、即座に右手を戻した英二の視線の先に、耕一の目があった。体勢
を低くして接近してきていた耕一が顎を上げたのだから、英二を見上げる形になってい
る。
 落ち着いた目をしている。
 さっきまでは、少なからず動揺があったのだが、今はほとんど無い。
 霧がかかっていたのに、それが晴れた。
 その向こうにあるもの、英二が見たかったもの、知りたかったもの。
 それが見える。
 英二が想像していたものとはやや違うそれは、耕一の両目に静かに揺れていた。
 闘争本能しか持たぬ獣は、そこにはいなかった。
 その本能を持て余し、その本能に突き動かされ、狂おしいほどに、ある線のあっちと
こっちを行ったり来たりしているような姿は、そこにはなかった。
 静かであった。
 今、死力を尽くして闘っている英二のことすら憎んでいないのではないか。
 ふっ、と弛みそうになる。
 この男になんとしても勝とうという意志が弱くなりそうになる。
 だが直前、ギリギリのところで引き締まる。
 耕一の目を奥底に、あるものを見たからだ。
 それが、英二を刺激する。危険信号が凄まじい速さで唸る。
 それは色として、英二に認識された。
 赤い。
 仄かに赤く灯る光が耕一の目の奥に輝いている。
 それは錯覚だったのかもしれない。
 だが、錯覚なのかどうかなどということを考える前にその感覚は英二の背中を押して
いた。
 かわされた右のショートフックを戻すと同時に左を振る。
 上がった顎を横から殴る。
 その左ショートフックが叩いたものもまた、手応えの無い虚空であった。
 耕一の頭部が沈んでいる。
 だが、それをかわされるのは予想の範疇にあった。左を引きざま、再び右。
 沈んだ耕一の顔面を下方から、アッパーとフックの中間、斜めに走るショートパンチ
で一撃。
 ごつん、とした感触が拳から手首へ、そして腕全体に伝わる。
 固い感触だ。
 英二の右拳が打ったのは耕一の額であった。
 横から頬から顎にかけての部分を殴ろうとした英二のショートパンチが当たる寸前に
顔を左に向けて顎を引き、額でそれを受けたのだ。
 額は顔面では最も固い部分だ。さらにはオープンフィンガーグローブをはめているた
めに、痛いには痛いだろうが、後に残るようなダメージは無いはずだ。
 いや、素手だったならば英二の拳もタダでは済まなかっただろう。
 腰を低くして顔を左下に向けた耕一の体勢から英二はボディーを狙った右ストレート
が来ることを察知した。
 打ち出されたパンチのスピードは予想通り。
 ガードが間に合わないのも予想通り。
 水月に思い切り貰って体を「くの字」に曲げてマットを舐めることまで予想通りであ
った。
 どこか遠くの方からダウンカウントが聞こえる。
 激痛から己れを救い上げた時には、既にレフリーはカウントをシックスまで刻んでい
た。
 気を失いそうな苦しさが腹部を襲っている。
 英二が頭を振りながら上半身を起こした時に観客席がどよめいたのは、ほとんどの人
間が英二の負けを想像していたのだろう。
 まだだ。
 まだまだ。
 まだやれる。
 かつて、英二が最後にやったボクシングの試合の相手はもっとタフだった。
 英二の闘う心を殺した奴はこれしきのダメージでは倒れなかった。
 今の自分よりももっとボロボロになってようやく倒れたのだ。しかも、倒れながらい
ったのだ。
「……まだやれます」
 と。
 おれだってまだやれる。
 闘う心を持った自分ならまだやれるはずだ。
「さあ、来い」
 立った時、目が合った耕一に向かって、英二は呟いていた。
 試合再開。
 英二は上半身を僅かに前屈させた姿勢で近付いていった。打撃を主体とするファイト
スタイルの英二にとってはあまりいい構えではないのだが、先程痛打されたボディーを
庇う必要があった。もう一度攻撃を貰ったら立っていられないかもしれない。
 耕一はそれを熟知しているのか、いきなり右の前蹴りで腹部を狙ってきた。
 それをサイドステップでかわした英二が打ち込んだ右のフックを耕一はかわそうとも
しなかった。
 左のジャブで迎撃してきた。
 打ち抜かれるのを回避するために踏み込みを止めたことにより英二のフックの威力も
著しく軽減されてしまった。
 グローブで頬を軽く叩く乾いた音が上がる。
 前蹴りに使用した右足を一瞬マットで休ませただけで、耕一はすぐに右のミドルキッ
クを放ってきた。
 それをガードして弾きつつ英二が肉薄して左右のフックのワンツーを狙う。
「つあっ!」
 だが、英二はそれをなすことなく後退した。右手で腹部を押さえている。接近した時
に耕一が左手で打った裏拳を腹に貰ってしまったのだ。
 軽い攻撃だったのだが、先程右ストレートが入った箇所とほぼ同じところに決まった
ために効いた。
 少し距離を取った英二の視界で耕一が巨大化した。耕一が一気に距離を詰めてきたの
である。しかも右膝を蹴り上げながらだ。
「!!……」
 耕一の目の奥に赤光を英二は認めた。
 今度は、錯覚なんかじゃない。
 上半身を軽く前に倒していた英二の顔面を蹴打するその一撃を咄嗟にガードした右腕
が押し切られて鼻を叩く。
 後方に泳いだ英二の頭を耕一の右ハイキックが刈り取るように蹴撃していた。
 左の側頭部を打たれた、だけでなく、右のそれをマットに激しく叩きつけてしまった。
 かすれた声と、か細い吐気が口から漏れる。
「ダウン! ……ワーン! ツー! スリー!」
 レフリーが宣告するその声がいやに遠くに感じられる。
 それは上の方から聞こえてくる。自分のすぐ側に立ってカウントしているはずなのに
天上から投げ掛けられるもののように、それは遠い。
 頭にきついのを貰えば一瞬記憶が飛ぶ。それから立ち直った時に、はじめて見るのは
天井に輝いている照明の光だ。
 その光を見ながら、自分の体の状態を確認する。
 ボクシングをやっている時から、英二はそうだった。
 そこで、体の状態が試合続行可能か否かがわかる。
 ずっと、英二はそうだった。
 その時のそれはOKだった。行ける。確かに、凄まじい一撃を貰ってしまったが、ま
だ行ける。
 この程度でなら、あの男は立ち上がってきた。
 自分の闘う心を殺した奴は立ち上がってきた。
 そしていったのだ。まだやれると。
 だから、自分も立ち上がる。
 自分の中で闘う心が生きているから立ち上がる。
 そして、レフリーにいってやれ。
「まだやれる」
 と。
 いってやれ。
 立ち上がって、いってやれ。
 英二は顔を起こす。
「セブン!」
 レフリーが右手を振り下ろして叫んでいる。なんとか間に合ったようだ。今すぐに立
ち上がれば大丈夫だ。
 さあ、立ち上がれ。
 耕一が自分を見ていた。





     第66話 立てなかった男

 耕一がダウンした自分を見ている。
 その視線をまともに自らのそれで受け止める。
 目の奥には、やはり赤い光が灯っているような気がする。
 怖いな……。
 これ以上、この男と闘ったらまずいかもな。
 頭を振る。
 そんなことを考えている暇は無いはずだ。さっさと立ち上がらねばならない。
 殺されるかもな。
 耕一の目を見ていたら思った。
 頭を振る。
 立ち上がるためにまずは上半身を起こさねば。
「エイト!」
 ほら、急げ。
 怖気がするな。全身にくまなく、隅々まで怖気が行き渡る。
 耕一が自分を見ている。
 奥に赤い輝きを灯した目で見ている。
 怖いな……。
 頭を振る。
 そんなこと考えている暇は無いぞ。目が怖いなら、目を逸らして一気に立ち上がって
しまえ。身体の状態ははっきりいって最悪に近いが、自分はまだやれるんだ。
 もう勝てないかもしれないけど、まだやれるんだ。例え負けても、闘う心は殺されな
いんだ。
 ……だが、英二は視線を耕一の目から外すことはできなかった。
 身が竦む。
 改めて、彼が知る藤田浩之という青年に戦慄した。
 あの青年は、この男と二度目をやろうとしているのだ。
 ごくり、と唾を飲み込む。
 怖いことなんか無い。立ち上がれ。
 耕一と睨み合いながら、英二が立ち上がろうとする。
 マットについた両腕が震えた。
 そんなに怖いか。
 立つぞ、立たねば。

「テン!」

 英二の視線が耕一から外れた。
「おい……」
 弱々しい声でレフリーに向かって呟いていた。
 レフリーが両手を何度も交差させている。ゴングの音が何度も連なって聞こえた。
「おい……」
 その小さな声を聞いた者は誰もいない。
 自分に背を向けていたレフリーが身を翻して向かってくる。
 英二は立ち上がった。
 跳ね上がるように立っていた。
「おい、待てよ、おい!」
 叫んでいた。
「待て!」
 試合場を下りようとしていた耕一に向けて叫んだ。
「おい、待て!」
 レフリーに向けて叫んだ。
「待て、終わってないだろ、待てよ!」
 両目に宿る光が尋常ではなかった。
「終わりだ。テンカウントが入ったんだよ」
 レフリーが英二に言い聞かせる。その目に怯えた色があった。英二のただならぬ眼光
と気配を感じ取っているのだろう。
「何をいってるんだ。おれはこうして立ってるぞ」
「しかし、もうテンカウントが入ったんだ」
「おれはやれるぞ」
 そう……。
「まだやれるんだ!」
 叫んでいた。
「だから、例え君がぴんぴんしているとしても、テンカウントが入った以上は試合は君
の負けで終了なんだ」
 そのレフリーは、英二よりも二十は年上と思われる中年の男だった。まるで、駄々を
こねる子供を諭すようにいった。
「でも、やれるんだ」
 闘う心は死んでいないはずだ。
 今から試合再開といわれればすぐにも戦闘体勢をとれる。腹部のダメージが大きいが
なんとかなる。
「ならば、なぜテンカウント前に立ち上がらなかったんだね」
「……」
 英二は初めてそれに気付いたように放心した表情を見せた。
 なぜ立ち上がらなかったのか。
 なぜ立ち上がれなかったのか。
 その理由を自らに問うのは英二にとって酷烈な作業であった。
 結論がわかっているからだ。
 身が竦んで動かなかった。
 あの、奥底に赤い灯火を宿した両目を見ていたら、動けなかった。
 怖かったのだ。
 恐怖があった。
 恐怖が自分を押し潰した。
 それは――。
 闘う心が死んだということではないのか?
 新たな問いが生じる。
 いや、死んでいない。
 はねつけるように答える。
 その証拠に、まだやれる。
 だが……。
 また、あの目を見た時にも、そうなのか?
 新たな問いが生じる。
 生まれ続ける問いが英二を徐々に袋小路へと追い詰めていく。
 その袋小路にあるのは、一つの答えであった。
 自分が柏木耕一に負けた、ということ。
 その至極単純な答えが、袋小路で英二を待っていた。
 心が――闘う心が死んだ。
 それは、すなわち負けだ。
 だが、おれの闘う心はまだ死んでいない。と、そう叫ぶ自分が、負けたことを認めよ
うとする自分の中に確かにいた。
 おれの闘う心はまだ死んでいない!
 その声が袋小路に反響してこだまする。
 ならばなぜ立たなかった。
 問う声がする。
 身体的には立つことに問題は無かったのに立てなかったということは、つまり心が死
んだということではないのか。
 詰問する声がする。
 いや、死んでいない。
 頑なに否定する声がする。
 自分が学生時代にやった最後のボクシングの試合が思い出される。忘れようとしても
忘れられない。
 あの時、幾ら殴っても起き上がってきた男に「闘う心」を見た。
 それからだ。英二がその闘争の思想に「闘う心」という概念を持ち、それについてあ
れこれ考え始めたのは。
 身体がボロボロになるよりも「もうやりたくない」と思ってしまう――すなわち闘う
心が死ぬ――ことの方が恐ろしい。そっちが本当の負けだ。と、思うようになった。
 その思想に従えば、英二は負けた。
 完膚無きまでに負けた。
 一言の言い訳すら許されぬ負け方だ。
 身体は大丈夫だったのだ。あそこで立つことはできたのだ。だが、心がそれをさせな
かった。
 耕一の目を見て竦んでいる内にテンカウントが刻まれてしまった。
 なんという不様な負け方だ。これならば顔が倍に腫れ上がるぐらいに殴られて失神し
た方がずっといい。
 かつて英二の闘う心を殺した男がいた。
 殴られても殴られても立ち上がってきて、セコンドがタオルを投げ入れても前に出よ
うとした。もう立っているのがやっとの身体で男がまだやれるといった時に、英二のそ
れは死んだのだ。
 それに引き替え自分はどうだ。
 まだ十分に余力を残しておきながら敗北の宣告を受けている。
 こんな結末を見るために自分は帰ってきたのか。
 深夜テレビのボクシング中継であの男を見た。顔を見てすぐにわかった。やはり、死
闘を演じた相手の顔というものは覚えているものだ。
 どことなく童顔だった幼い顔に、タイトル挑戦までに味わったであろう艱難辛苦が貼
りついていい顔をしていた。
 彼は打たれても打たれても前に出るファイトスタイルを変えておらず、三回打たれて
一回返す、というような試合を展開しつつ、やがて打ち疲れたチャンピオンを一気に沈
めた。
 男はベルトを腰に巻いて天井を見上げながら泣いていた。
 闘う心を持ち続けていたから、その栄冠を手にすることができたのだと英二は思う。
 そして、それを見ながら自分の中で沸き上がるものがあった。それの正体が最初英二
はわからずにいたが、やがてそれを「闘う心」であると知った。
 もう死んだと思っていたのに……細々と生きていたのだ。
 それを知って英二は戸惑いながらもそれの求めに応じるように身体を動かし始めた。
長いブランクを払拭するために多量の汗を流した。英二の身体はまだそれに耐えられる
だけの若さを内包していた。
 長瀬源四郎に会い、柏木耕一のことを知り、彼に会いに行った道場に藤田浩之がやっ
てきた。
 そして、浩之と月島拓也の闘いに立ち合い。
 彼らが闘いに来たこの場所に英二もやってきた。
 そこで、柏木耕一と闘った。
 決して誉められた闘いではなかったかもしれないが、英二なりに必死に懸命にやった
つもりだ。
 必死に限界までやったことが敗北によるショックを和らげてくれることはよくあるこ
とだ。
 ここまでやって負けたのだからしょうがない。
 ここまでやって負けたのなら自分の力が不足していたということだ。
 そう思えば、諦めもつく。
 やりようによってはそれが次を目指す時のバネになる。
 おそらく、かつて英二に負けた現在のチャンピオンも、あの時の負けをそれほどに苦
にはしていなかっただろう。
 だが、今の自分はどうだ。
 到底、必死に限界までやったとはいえない。
 立てるのに立てないで負けた男が、それに値しないのは明らかだ。
 こんな負け方をするために自分は帰ってきたのか。
 今度こそ心が死んだ。
 断定する声。
 いや、死んでいない。
 否定する声。
 全て、英二の声だった。
 頭の中で全く噛み合わない討論会が起こっているようなものだ。
 頭が痛くなるほどだ。
 そして、実際に口から出ているのは、
「おれはまだやれる」
 その言葉だけだった。
「まだやれるんだ!」
 両手を伸ばしてレフリーの両肩を掴んで揺さぶりながらいった。
 周りからブーイングが聞こえてくる。明らかにテンカウントが入ったにも関わらず食
い下がる英二に不快感を覚えた観客が罵声を浴びせていた。
 それを聞きつつ、だが、自然と完全に無視して英二はレフリーの肩を揺すった。
「第2ラウンド、二分十二秒、ノックアウトで柏木耕一選手の勝利です」
 そのアナウンスの声も、英二の耳には届いていない。
 レフリーの両肩を掴んだまま、英二は視線を転じた。耕一が背中を向けていて、その
背中は先程よりも小さくなっていた。
「おい!」
 その背中に向かって叫ぶが、耕一は振り返りもしなかった。
 耕一は思い詰めた表情に、だが一抹の安堵をよぎらせていた。
 とにかく……終わった。
 精神的に膨大な疲労感を覚える闘いだった。
 呼吸は整っているが、鼓動は早まっている。
 どくん、と心臓が震えている。
 でも、なんとか無事に終えることができた。
 自分は柏木耕一であり、それ以外のものではない。
 振り返ろうとしたが、レフリーに食って掛かる英二を見るのが嫌で止めた。
「おい、やるぞ。柏木くんを呼び戻せ」
 それが無茶な願いであるという認識すら英二には無かった。
 だが、レフリーは首を横に振った。当然である。今の決着に不明瞭な点は全く無かっ
た。英二がテンカウントの間に”立ち上がれなかった”ことは誰の目から見ても明らか
である。
 この裁定は絶対に覆らない。ここでこれを覆してはエクストリームという競技自体の
権威は失墜するだろう。
 首を横に振るレフリーに英二はさらに詰め寄る。
 この男はわからないのか。
 自分がこれほどにやる気だということを、自分がまだやれるということを、わからな
いのか。
「さあ、早く下りなさい」
 レフリーは冷然と促す。選手がごねるのにそうそう付き合うわけにもいかない。
 だが……。
 英二の手が強く握られていることに気付いたらそれをいうのを躊躇ったかもしれない。
 どうなることかと事態を注視していた浩之が何もいわずに試合場に上がったことに隣
にいた雅史はすぐには気付かなかった。
 気付いた時には浩之は前傾姿勢をとっていた。
 その浩之の前方には英二が横顔を見せている。
 側面から英二に近付いて何をする気なのかはわからなかったが雅史は思わずそれを追
っていた。
 英二の握られた右拳が胸の辺りまで上がった。
 膨大な量の苛立ちが英二の中で沸騰していた。
 凄まじい絶望があった。
 絶望が産んだのは自暴自棄であり、それが苛立ちをかきたてる。
 全てが合わさった時、英二は拳を上げていた。
 心中に明確な目的があったわけではない。ただ、漠然と上げていた。
 その拳をどこに振り下ろそうとしていたのか……英二にははっきりとわかっていなか
った。
 ただ、その拳を使って示そうと思った。
 口でいっているだけでは駄目だ。
 まだやれる、ということを、身体で示すしかない。
 拳で誰かを……誰でもいい、思い切り殴ってやればいい。
 丁度目の前にレフリーがいた。
 一番近いところにいたのがその男だった。
 届く位置だ。拳を突き出せば当たる。
 突き出せば……。
 いきなり腰をさらわれたのはその時であった。
「英二さん!」
 そう叫んで横から腰にタックルしてきた男が何者なのかを英二は理解できなかった。
理解できないままにそのタックルを捌こうとしたが横から突然来られたために耐えられ
るものではない。
 誰でもいい。こいつでもいい。
 英二は脇腹に接触している顔を打とうと肘を落とした。が、その瞬間に足がマットを
離れて体勢が崩れて、打つことができなかった。
 もう一発を放とうとして英二はその顔を見た。
 藤田くんか!?
 だが、生じたその驚きも英二の手を止めるには至らなかった。
 肘を打とうとした腕が、掴まれた。浩之かと思ったが違う、浩之の両手は英二の腰に
巻き付いている。
 英二の腕を掴んだ雅史は、強い意志の光を宿した目で英二を見ていた。
 すぐに、大会の係員が何人もやってきて英二を押さえ付けた。
「まだやれるんだ!」
 英二が叫んだ。
 それを聞きながらも、浩之を含めて五人の男が英二を立たせて引きずるように試合場
から下ろす。
 そして、そのまま選手入場口へと消えて行った。

「……」
 冬弥は、眼下で行なわれた光景の一部始終を一言も出さずに見ていた。英二がレフリ
ーに何やら抗議をしているのはわかったのだが、突然、この後試合のある藤田浩之とい
う選手が英二に突っ込んでいって係員が何人も試合場に上がって英二を連れて行ってし
まった。
「藤井くん……私、行ってくるから」
 そういって、隣に座っていた理奈が席を立った。
「あ、待って理……」
 理奈の名前を呼ぼうとして止まった。どこに誰の耳があるかわからない。
 冬弥は理奈に僅かに遅れて席を立ち、その後を追った。





     第67話 反撥

 自分をアイドル歌手にする。
 その兄の意志に理奈は従った。
 理奈だって、それが心底嫌いというわけでもなかった。
 だが、高校を中途退学しろといわれた時にはさすがに反撥した。同業者の中には高校
に通っている間はアイドルとしての活動を控えてきちんと卒業をしたという人間も多い。
 自分もそうしようと思っていたし、兄もそうさせるつもりなのだろうと思っていたが、
どうやらそれほど悠長な計画を立ててはいなかったらしい。
 反撥して、言い争って、その末に結局はその意志に従った。
 ずっとそうだった。
 どんなに反撥しても、結局はその掌の上を出ることができない。
 自分の弱さを他人に晒さない人だった。
 理奈にだって、そんな姿を見せない。
 学生時代にボクシングを止めて以来、数年のブランクを経て突如エクストリームに出
るといい出した時に、理奈は反対した。
 理奈は今、あるドラマの撮影を行っている。
 その中での理奈の役所は、エクストリーム優勝を目指している少女、というものであ
った。
 なんでも、エクストリーム大会を主催する会社の広報の人間とテレビ局のドラマ担当
の人間の間に数年来の付き合いがあり、そこから実現した話らしい。
 エクストリーム大会では馴染みといっていい選手が多数実名で登場する、ということ
を宣伝文句にしているドラマだった。かくいう理奈も三ヶ月ほど前に来栖川綾香とスパ
ーリングをするシーンを撮ったばかりだ。
「そっちは本気で打ってきて下さい」
 綾香はそういった。
 丁度、そのシーンは理奈が来栖川綾香とスパーリングをしてその実力差を実感する、
という場面だったので、理奈が本気でやった方がリアルになると監督が考えたのだ。
 理奈も、元々運動神経は悪くないし、アイドル歌手の素養として昔からダンスなどで
体を動かしている。その上に、撮影前にエクストリーム一般女子の部で準優勝の成績を
残している御堂静香に一通りのことを学んでいたので攻撃のフォームはなかなかサマに
なっている。
 ドラマの中で派手な技も使わせたいとの監督の意向があったので、その時期に理奈は
空中で前転して踵を相手に当てていく浴びせ蹴りの練習までした。
 理奈はエクストリームチャンピオンの綾香が受けてくれるというので思い切り打ち込
んでいった。教えられたコンビネーションを一通り試してみた。
 理奈の攻撃は悉く空を切り、厚いガードに阻まれ、残り時間が少なくなった時に右の
ストレートを寸止めで入れられ、その直後にタックルを貰った。すぐに倒されてマウン
トポジションを取られた。
 そこまで撮影してカットになった。
 その結果として理奈が抱いた感想は単純に「強い人間というのはすごい」ということ
だった。
 一ヶ月の特訓によって得た程度の技術ではどうにもならないレベルだ。
 理奈が覚えたコンビネーションなどは全て読んでいて自分で打ち込んでいて全く当て
られる気がしなかった。
 何度かきわどい場面もあったが、あまりに一方的でも絵にならないと思って手加減し
てくれたのだろう。それほどに差があった。
 それ以前に、静香に借りて前回と前々回のエクストリームのビデオも見たのだが、そ
の二つの大会にもだいぶ差があった。
 予選に参加した人数も増えたようだし、所属する道場やジム、バックボーンとなる格
闘技の前歴もバリエーションが増えた。
 選手個々のレベルも、試合の内容のそれも共に向上していた。
 理奈は理奈なりにこの大会の過酷さを知っている。
 その経験から、兄に反対した。
 どう考えても潰される。と思ったからだ。
 だが、その理奈の予想に反して兄は一回戦を勝ち上がった。
 少しは心配していた理奈だが、それを見て安心した。
 やっぱり、兄さんは大丈夫だ、と。
 昔から人の助けを必要としない人だった。
 常に、理奈に与え、そしてその分、自らの意志通りに動くことを要求してきた。
 その兄が、二回戦を前にしていつになく不安そうにしているのを見た時、理奈は兄に
いっていた。
「とにかく、なにか心配事があるならいってみなさいよ」
 と。
 それに対する返答は拒絶。
 理奈の気遣いを拒絶したつもりはない、と兄は主張するかもしれないが、理奈は、
「何も無い」
 という返答を拒絶と感じた。
 やはり、兄には自分の助力などは要らないのだろう。
 そう思って、ふてくされ気味な気分で試合を見ていた。
 そう、理奈はふてくされていた。
 もしかしたら……自分が兄の役に立てるかもしれない。
 兄のプロデュース通りにアイドルとしてヒットを飛ばす。そんな形でじゃなくて……
アイドルとプロデューサーとしてじゃなくて……兄と妹の関係において……役に立てる
かもしれない。
 そんなことを考えていた。
 そんなことを考えて、少し気持ちが浮ついていた。
 それに返ってきたのは拒絶。
 そして、ふてくされていた理奈の視線の先で、試合は兄の不利のまま進んでいき、第
2ラウンド、テンカウントが入り、ノックアウトで勝負がついた。
 兄を注視していた理奈には、テンカウントが入ってすぐに兄が立ち上がったというこ
とがわかった。
 わからないのは、あんなにまだ余力があるのに、なぜテンカウントを聞いてしまった
のかということだ。
 しかし、その疑問を疑問として感じ、あれこれ考える以前に、理奈の注意は兄の行動
に移っていた。
 はっきりとテンカウントが入っての敗北にも関わらず、兄は激しくレフリーに抗議し
ていた。
 あまりにしつこいので理奈も恥ずかしくなってきて、もう止めて欲しいと思った。
 それでも、兄は食い下がっていた。
 会場のそこかしこから、理奈の周りからも怒声が上がり始めた。いい加減にしろ、と
いう類の声が初めは小さく少なく、やがて増えて大きくなっていった。
 理奈の真後ろに座っていた男も大きく声を張り上げていた。
「台無しにするなよ! てめえ!」
 そう叫んでいた。
 理奈はテンカウントが入った時、それと同じ声が、緒方よくやったぞ、と兄を讃えて
いたのを覚えていた。
 なんだか、胸が苦しくなった。
 だが、それはそれとして、理奈の関心は兄に吸い付いていた。
 レフリーの両肩を掴んで揺さぶる。
 物凄く険しい目でレフリーを睨み付ける。
 横からタックルを貰って係員に取り押さえられて暴れる。
 あんなに取り乱した兄を見たことはなかった。
 一体、どうしたというのか。
 わからない……だが、試合前の不安そうな英二の表情が関係しているのではないか。
 これから兄に会って何をすればいいのかわからない。
 兄が取り乱したままだったらどうしたらいいのかわからない。
 そう、わからない。
 取り乱している兄など見るのも接するのも初めてなのだから。
「理奈ちゃん」
 周りに誰もいないのを確認してから、冬弥は理奈を呼び止めた。が、理奈は止まらず
さらに歩幅を広げて速度を速めていく。
 冬弥が小走りになって追いつこうとした時、二人は関係者以外立ち入り禁止の区域に
差し掛かっていた。
「ちょっと……関係者の方ですか?」
 警備員が前に立ちはだかりながら尋ねる。
「関係者です……出場した選手の家族なんですけど」
「えっと、誰の?」
「……緒方英二です」
「え?」
 警備員はその名を聞くと、じっ、と帽子を目深に被り、サングラスをした理奈のこと
を見つめる。芸能界の事情にそんなに疎くないのだろう。緒方英二の家族といえば、か
なり限られる。
「緒方理奈です」
 業を煮やした理奈はサングラスを取り、帽子を脱いで、警備員の目を貫くような視線
で見た。
「あ……はい」
 小さく呟いた警備員の横をすり抜けて歩き出した理奈を、僅かに遅れて冬弥が追う。
 歩いていくと声が聞こえてきた。
 それを頼りに選手用通路を進んでいくと、声は、試合会場から少し離れたところから
聞こえてきていた。
 さっ、と理奈が視線を巡らせただけで確認できたのは、兄と、そして自分の格闘方面
の演技指導を行い兄のファンだという御堂静香、それから彼女の試合中セコンドについ
ていた眼鏡をかけた長身の男。
 そして少し離れたところで事態を見守っているのは、確かこの大会に出場している藤
田という選手で、どうやら兄とはちょっとした知り合いらしい。
 自分を取り巻く係員たちになおも食ってかかる兄を、呆然と打つ手無しといった様子
で眺めている静香に、理奈は声をかけた。
「静香さん」
「あ、理奈ちゃん」
 静香は、救いの手が現れたとでもいわんばかりに表情を明るくした。なんとか、理奈
がこの場を収めてくれると思っているのだろう。だが、前述したように理奈にもどうし
ていいのかわからない部分が多い。
「兄さんはどうですか?」
 そう思いながらも、収められる人間がいるとしたらそれは自分しかいないだろう、と
いう諦めと……そして不思議な自負心に突き動かされて、理奈は尋ねた。
「まだやれる……まだやれる……って、そればっかりいってるのよ」
「どう見ても試合は終わってたじゃないの、ノックアウトで兄さんの負けよ」
「でも、まだやれる……って、私もなんとかしようと思ったんだけど、聞く耳持ってく
れなくて」
 そういいながら静香は悲しそうだ。
「よし、私が言って聞かせるわ」
 理奈が超然、といった表現を使用しても差し支えないような堂々たる足取りで係員の
襟首を掴んでいる兄に向かっていく。
 静香は、呆けたようにそれを見ている。
 その背後にいた柳川は、興味深そうにそれを見ている。
 少し離れた位置にいる浩之と雅史は、それに見とれていた。
「兄さん」
 後頭部に向けて投げ掛けた声に対する反応は無く、兄は依然、後頭部を向けている。
 少々ムッと来た理奈は肩に手を置いて強引に引っ張り、同時に進み出て、兄の真ん前
に立った。
「何してんのよ! 兄さん!」
「……理奈か?」
 呆然と、英二は呟いた。
「私以外のなんに見えるのよ」
「……」
 沈黙した。が、それは一瞬のことだった。すぐに英二は理奈の両肩を掴んだ。
 掴んで、揺さぶった。
 そして、いった。
「理奈! お前ならわかるだろう」
「何がよ」
「おれがまだやれるってことをだ」
 理奈は、絶句したといっていい。
 妹が現れれば、少しは取り乱している自分を客観的に見られるようになって冷静さを
取り戻すかと、一抹の期待を抱いていたのだが……。
「やれるも何も……兄さん、負けたじゃないの」
 理奈は、はっきりといった。少々の荒療治が必要だと思ったからだ。
 もしかしたら、この兄が激昂するところが見られるかもしれないという考えもその胸
中にはあった。
 取り乱すことの無い人だった。
 理奈を叱る時も、感情的になったことが無い。
 もしかしたら、怒るかも……怒って叫び出すかも……そうなったら、ちょっと面白い
わよね。
 どこかで、そんなことを思っていた。
「ふふ……」
 反応は……口辺に薄く浮かんだ微笑であった。
「何をいっているんだ。理奈」
 優しい声が理奈の耳朶に触れ、優しい表情が理奈の目の前にあった。
「おれはまだやれる……つまり、闘う心は死んでないってことだ」
 それは、ものがわかっていない妹に、ものを教えてやろうという兄の姿にしか見えな
かった。
「心が死なない内は、負けじゃないんだよ」
 そういった兄の笑顔が、理奈にはやたらと気に喰わなかった。
 負けは負けだ。テンカウントの間に立つことができなかったのだ。
 素直に負けを認めればいいではないか。
「負けてないから、あの試合の続きをやらなきゃいけない」
 こんな未練がましい兄を見るのは初めてだった。
 笑顔も、とても薄っぺらいものに見える。
 こんな嫌な顔で笑う兄を見たのも初めてだった。
 その薄い表皮を剥げば、そこには泣き出しそうな弱々しい顔があるのではないか。理
奈にはそう思えた。
 腹が立った。
 こんな兄は見たくはなかった。
「わかるだろ? 理奈」
 英二が、理奈に同意を求めた。
 自分に同意を求める兄は、初めて見たわけではなかった。
「これでいいだろ?」
 と、仕事のことで同意を求められたことはある。だが、それは意見を求めているとい
う色合いも強く、理奈も気に入らないところや改案した方がいいと思うところなどはど
んどん意見をいうし、文句もいう。
 だが、この時の英二のそれには、どことなく懇願の響きがあった。
 見た目は堂々と、妹に対する兄のようだが、根底の部分で英二は理奈に「同意してく
れ」と頼んでいた。
 こんな弱い兄を見るのは初めてだった。
 弱い兄を見たくないわけではなかった。
 だが、これは駄目だ。
 理奈は強くそう思った。
 こんな弱さは駄目だ。
 見たくない。
 無性に腹が立った。
 もちろん、こんな兄は見たくはなかった。
「落ち着きなさいよ」
 努めて冷静に理奈はいった。
「落ち着いているさ」
 そういった英二は、理奈がかつて見たことが無いほどに落ち着きが無かった。
「落ち着いている」
 英二は、自分に言い聞かせるようにいった。
「落ち着きなさい!」
 理奈が、右手を上げて振った。
 右の掌が英二の頬に接触して音を立てた。





     第68話 虚無

 兄の頬をひっぱたいた感覚が掌を伝わるのは、初めてのことではなかった。何度か、
やったことはある。
 だが、今回ばかりは、理奈の手には全力が籠められていた。さらにいえば力だけでは
なく、その他の色々なものを籠めたつもりだった。
 呆然とした英二の表情を理奈は睨み付ける。
 何をやっているのか。
 明らかに負けたくせに、いつまでも負けていないと言い張って、応援してくれた人を
嫌な気分にさせて、係員の人たちにまで迷惑かけて……。
 落ち着いて冷静になってみれば、自分がどれだけ恥ずかしいことをしていたか嫌でも
わかるはずなのだ。
 とにかく落ち着けといいたかった。
 そして、実際にそういった。
 だが、英二は口では「落ち着いている」といいながら、落ち着いていなかった。
 いや、それも所詮は自分に言い聞かせているようなものだった。
 理奈のことがあまり視界に入っていない感じがした。
 逃げてる。
 理奈はすぐにそう思った。
 兄さんは負けたと、はっきりという理奈から逃げた。
 理奈はそう解釈した。
 カッとなった時には手が出ていた。
「落ち着きなさい!」
 そういって掌を振った。
「こっち向きさないよ!」
 そういいたい気持ちもあった。
 果たして、英二は理奈の方を向いた。
 怒ってはいない。
 驚いてもいない。
 不思議そうな表情をしている。
 もしかしたら、理奈が自分に何をしたか理解していないのではないか。
「しっかりしなさい!」
 今度は、理奈が英二の両肩を掴んで揺さぶった。
「してるさ」
 英二の声にも表情にも芯が無かった。朧気で虚ろであった。
「しっかりしてるさ」
 また、自分に言い聞かせるようにいう。
 理奈の手を振りほどき、英二は四方を見回した。
 自分に味方してくれる人間を探しているようだった。
 その泳いだ目が気に入らなかった。
 以前から度々不愉快にさせてくれる兄だが、今日だけは格別だ。一つ一つの不愉快な
行為が今までのそれを大きく上回っている上に連続してである。
「兄さん」
 理奈が呼びかけた時には、英二は既に背を向けていた。
 その視線の先に浩之と、そして雅史がいる。
「おい、藤田くん、佐藤くん」
 声をかけられた浩之と雅史は、困惑を表情に浮かべていた。英二に何をいわれるかが
わかっているのだろう。
「君たちならわかるだろう。おれがまだやれるってことを」
 浩之の目に、哀れみがあった。
 雅史の目にもあった。
 理奈はそれに気付いた。
 英二はそれに気付かないのか。
 兄は、そんな目で見られていいのか。
 そんな目で見られるのをよしとするのか。
 そんな人じゃないはずだ。
 兄は、そんなのじゃない。
 はっきりいってこの兄には気に入らない部分も多い。よく腹を立てさせられている。
そういう、理奈にとっての兄の気に入らないところ……それが今は無い。哀れなほどに
自分の負けを認めない兄には、それが無かった。
 だが、それが無いことが、理奈を苛立たせる。
 兄が兄らしくないことが異様にむかついた。
「兄さん!」
 肩を掴んで、振り向かせて、もう一度兄の前に立つ。
 その瞬間まで、兄に対して何をするかを決めていたわけではなかった。
 だが、その顔を見て決断した。
 腕を振った。
 手は強く握られていた。
「馬鹿っ!」
 ただ、それだけを叫んでいた。
 顎を正面から叩く形になった。
 英二の膝が折れて、一瞬、体が沈む。
 それを立て直して身を起こした時、英二の表情は一変した。
「理奈……か……」
 初めて、彼女に気付いたかのような口調であった。
 理奈はその呆けた顔を情けなく思い、思った次の瞬間には身を翻して駆け出していた。
 その場に立ち尽くしていた英二をただ見守っていた人々の中から、やがて静香が英二
の元までやってきた。
「大丈夫ですか?」
 心配そうに覗き込むように英二の顔を見る。
 理奈に殴られたことをいっているのだろう。
 英二は顎をさすりながら、
「ちょっと、痛かったかな」
 そういって笑った。
 乾いた笑いだった。
 生気のあまり感じられぬ笑いだった。
 だが、目からは先程までの妄執といっていい黒い炎が消えていた。
「す、すいません、私が理奈ちゃんに正拳突きなんて教えなければ……」
「あれ、静香さんが教えたの?」
 そういって、また笑った。
「理奈はどっちに行ったの?」
 英二は尋ねた。
 その理奈が、背中を向けるところも、駆け出すところも目の前で見ていたはずなのに、
英二は尋ねていた。
「えっと……あっちに」
 そういったのは冬弥だった。
 それに軽く頷いて、英二は歩き出した。
 歩きながら、考えていた。
 思考を行えるだけの冷静さを取り戻しつつあった。
 自分について考える。
 負けを認めずにレフリーに食い下がってブーイングを浴びた自分も、レフリーを殴ろ
うとして、それを察知した浩之に止められ、大勢の係員に押さえられて退場した自分も、
退場した後も認めず周りの人間全てにまだやれると訴えていた自分も、不思議と英二は
嫌悪感は抱かなかった。
 さすがに、少し恥ずかしい気持ちはある。
 だが、その無様な自分を否定する気にも、嫌う気にもなれなかった。
 自分の闘う心が死んだ。
 心が折れた。
 そう思う。
 だが、完全に死んだのか、というとそうは思えない。
 なぜなら、自分に心残りがあるからだ。
 まだやれる。まだやりたい。
 そう思っているからだ。
 英二は、何発かいい攻撃を貰っているものの、戦闘不能からは程遠い身体状態にある。
まだ1ラウンドぐらいならば十分に闘い抜ける。
 だから未練がある。
 身が竦んでしまい、テンカウントを聞いてしまったことに激しい後悔がある。
 身が竦んで立てなかったということは、心が死んだということだ。
 完全な負けだ。
 そう思う自分がいるのと別に、それを否定する自分がいる。
 ダウンしてテンカウント内に立ち上がれなければ負け、というルールによって自分は
負けた。
 ルールに負けたのだ。
 そのルールが無ければああいう不完全燃焼な負け方はしていなかった。
 もちろん、そのルールが無ければ負けていなかったなどというつもりは無い。
 むしろ、遙かに凄惨な負け方をしただろう。
 あのダウンのきっかけとなった耕一のハイキックを貰った時、英二の意識は一瞬飛ん
でいた。
 ダウンカウント無しのルールだったら、意識を取り戻す前に関節を極められて意識が
戻った時にはタップか折られる以外の道が無かっただろう。
 いや、そもそも、ダウンカウントが無いルールなどは、倒れた相手への打撃禁止など
という条項も無いはずであって、頭に蹴りを打ち下ろされればそれでおしまいだ。
 ルールが自分を負けさせた。
 ルールが自分をああいう不完全な形で負けさせたのだ。
 立ち上がればよかった。
 立ち上がって、完膚無きまでに叩きのめされ失神させられてしまえばよかったのだ。
 最終的に英二が認めたくなかったのは敗北という事態ではなく、あの敗北そのものだ
った。
 余力を残して負けたことがどうにも納得できなかった。
 叩き潰されればよかったのだ。
 試合中は、もし負ける時は叩き潰されてもいいと思っていたのだ。
 だが、最後の最後で気がくじけた。
 それは、心が死んだということだ。
 だが、未練がある。
 英二の思考は結局そこに巡ってくる。
 間違いなく負けた。
 それはいい。
 だが、その負け方が気に入らない。
 それがよくない。
 非常によくない。
 死んだはずなのに、まだ死んでいないような気分。
 妙な表現だが、そんな感じだ。
「誰か……」
 歩きながら呟いていた。
「殺してくれ……」
 おれの闘う心を殺してくれ。
 これで……今回のエクストリーム出場で最後にしようとしてたのに、これじゃ全然終
わった気がしない。
 あそこで立てなかったことの代償として当然のことなのかもしれないが……。
「誰でもいいんだ……」
 その声は虚無から産まれていた。
 英二の中にいる虚無が吐き出していた。
 虚無が叫んでいた。
 今から耕一の所へ行こうか。
 そんな気持ちがよぎる。
 行って何をするのか。
 すぐに打ち消す。
 行くとしたらやることは一つだ。
 自分の闘う心を殺してもらうのだ。もう心底闘いたくないと思うように……。
 そんなことができるわけはないし、耕一は拒否するだろう。こちらから襲いかかって
否応無しに闘いに引きずり込むにしても周りの人間に止められるに違いない。
 それに……そんなことをして、耕一との再戦を楽しみにしている浩之をガッカリさせ
るのも嫌だった。
「誰か……」
 誰でもいいんだ。
 誰か……。
 自分を「殺してくれそうな」人間を探して英二は歩く。
 もっと別のものを探していたような気もするな……。
 ……ああ、理奈か。
 自分をぶん殴ってそのままどこかへ行ってしまった妹を探していたんだった。
 ひっぱたかれたことはけっこうあるが、ぶん殴られたのは初めてだ。
 やられた後に何もいわれなかったのも初めてであった。大体、ぱちんと一発叩いた後
に、去るにしても何か痛烈な捨て台詞を残していくのがいつもの理奈だった。
 いつもの理奈ではなかった。
 それがいつもの緒方英二ではない自分によって引き出された理奈だということを、こ
の男は薄々気付いていた。
 理奈を探していたんだ。
 理奈に会ったらなんていおうか。
 ごめん……か?
 なんだかそれも違うような気がする。
 もう大丈夫だ。
 ……そんなもんだな。
 そういうことを考えている時にばったりと会ったらけっこう何もいえないものだ。
「……っと」
 角を曲がったところに、理奈はいた。向こうも丁度角を曲がったところらしく鉢合わ
せの状態になった。
「手は……痛めてないか」
 いおうとしていたことは何一ついえずに、そんなことをいっていた。
「……大丈夫よ」
 理奈は探るように英二を見ている。
 先程逆方向に去った理奈がこちらに向かっていたということは、おそらくぶん殴って
去ったものの、兄のことが心配になって戻ってこようとしていたのだと思うが。
「別に、兄さんのことが心配で戻ってきたわけじゃないからね」
 それを察したのか、理奈が釘を刺してくる。
「わかってるわかってる」
 そんな理奈がおかしくて、英二は笑った。
「……」
 理奈がさらに深く探る視線を放ってくる。
「見違えたわね、兄さん」
 やがて、いった。
「他人をナメきった感じが戻ったわよ」
「それはどうも」
「それはそれでむかつくけど」
「……ああ、そう……」
 そうか……戻ったか。
 理奈にはそう見えるか。
 試合会場の方から声が聞こえてきた。
 次の試合が始まるのだろう。次は、藤田浩之と加納久の試合だ。
「兄さん、見に行かないの」
 と、帽子とサングラスを装着しながら理奈がいう。どうも、一緒に選手入場口の辺り
から観戦するつもりらしい。
 いかに変装していても、自分と一緒にいればそれが緒方理奈だとわかってしまうんで
はないだろうか。
「いいわよ、別に」
 それを察して理奈がいった。今さっきといい、どうも最近この妹は自分の表情から何
を考えているかが読み取れるようになっているらしい。非常に要注意だ。
「そうだな」
 兄妹が一緒にいて何も悪いことはあるまい。
 英二は理奈に促されて歩き出した。
 理奈は、どうやら自分がいつもの緒方英二に戻ったと思っているらしいが……。
 英二の中には試合前には存在しなかった虚無が、未だにくすぶっている。
 それはなんとかせねばいけない。はっきりいっていつまでもこんなものを抱え込んで
いていいはずがない。
 これから始まる藤田浩之の試合。
 あの青年は自分の中の虚無をどうにかしてくれるか……。

 試合会場では、丁度、加納久の入場が終わったところであった。

                                  続く 





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