第77話 反則負け

 三戸の心が軋んだ。思わず、レフリーに棄権を告げそうになる。
 顔がレフリーの方を向く。
 と、その瞬間の時を捕らえて、拓也が組み付いてきた。左腕を両手で掴んで三戸を崩
そうとする。それに気付いた三戸が慌てて体勢を立て直そうとした時、拓也が舞った。
 両足が三戸の左肩をロックする。
 海面に飛び上がった肉食魚が獲物に噛み付いたのに似ていた。
 左腕に拓也の全体重を乗せられて、三戸がたまらずに倒れる。
 そして、このままでは腕拉ぎが極まる。
 拓也が思いきり体重を乗せている。
 こいつ……落とした瞬間に折る気か!?
 三戸の全身が戦慄と化して震える。
 これは、体重をかけて極めた瞬間に折る気だ。
「うがっ!」
 声とも、呼気の塊とも取れるものが三戸の口から飛び出す。
 拓也が思いきり上半身を振った。
 それにさらわれて三戸の体が泳ぐ。
 一瞬片足立ちになって踏ん張った三戸の左足がマット上を滑る。
 三戸の背中がマットを叩いた時、両腕で三戸の左腕を掴んで引き付けたまま拓也が上
半身を後方に倒していた。
 ぷつ。
 そんな、張り詰めた弦が切れるのに似た音を三戸は聞いたような気がした。
 靭帯が伸びてしまったようだ。
 やられた!
 三戸の表情に滲んだのは苦渋。
 関節部を折られたわけではないので、試合続行は不可能ではないが、おそらくもう左
腕がまともには機能しない。
 負けだ。
 この後、左腕が万全でない状態で闘えるかどうか、といえばそれは可能だ。左腕が全
く動かないわけではないし、靭帯が伸びた程度ならば闘える。試合中に痛い痛いと思っ
ていて後で病院に行って初めて靭帯が伸びていたことを知ったという例を何件か知って
いる。
 だが、勝てるか、と問われれば難しい。よりによって相手も悪い。
 ぷつ。
 という音を聞いた時、三戸は右手でタップしようとしたが、突如、両手両足による左
肩から左腕への拘束が解けた。
 意外であった。
 突如として見せた無垢な笑顔によってわからなくなった拓也のイメージ、その不可解
極まりない笑顔を元に新たに構築したイメージを、さらに崩す緊張したような、張り詰
めたような表情。
 そこへ、三戸がタップもしていないのに技を解いてきた。
 仕掛けた拓也の方も三戸の靭帯を伸ばしたことに気付いているはずだ。
 だが、崩されて崩されて、また新たに築き始めた拓也のイメージからはおよそ遠い行
動であった。
 その程度で技を解くような奴じゃないはずだ。
 疑問が生じる。
 生じた疑問が三戸の中の拓也に穴をぽっかりと空ける。
 意外に、相手を必要以上に痛めつけることをよしとしない男なのだろうか?
 疑問には拓也の次の行動が答えた。
 上半身を起こしつつ、左足で三戸の体をまたぐ。
 仰向けの相手の上半身の上に馬乗りになる──すなわちマウントポジション。
 だが、基本的な形と違うのは、拓也の右足の位置である。
 拓也は右足を三戸の左腕──つまり、負傷した方の腕──に乗せていた。
 三戸の口から呻き声が漏れる。
 このポジションに移行するために腕拉ぎを解いたのか。
 しかし、グラウンドでの打撃が禁じられているエクストリームにおいてマウントポジ
ションはそれほど有効な体勢ではない。
 新たな疑問が生じる。
 それには、拓也の握り拳が答えた。
 それは不意にやってきた。
 それは来ないだろう、と思っていた三戸の意識外からそれは飛んできた。
 拓也の右拳が三戸の顔面にゆっくりと降ってきた。その際既に左手で三戸の右手を掴
んでいる。
 三戸の眼前で止まり、ゆっくりと、拓也の右拳が上がる。
 まさか、次は本気で殴ってくるんじゃ……。
「おい……」
 三戸の心が軋んでいた。

 左腕……折れてはいないが、確実に靭帯にダメージを与えた。
 普通だったら、試合を棄権するだろう。
 だが、同志ならばどうだ。
 藤田浩之という、とてもいい男がいる。
 藤田浩之は腕を折られても反撃してきた。
 この男はどうだ?
「おい……」
 どうした?
 なんだ。その顔は、まさか、もうやらないなんていうんじゃないだろうな。
 藤田浩之は腕を折られてもまだやるといったぞ。
 よく考えてものをいうんだ。
 僕は、お前の次の言葉で判断するつもりだぞ。
 同志か否か──。
「止めろ」
 なぜ?
「もう終わりだ」
 終わりなのかい?
「左腕の靭帯がイカれた。もうやれねえ」
 その答えていいんだな?
 同志じゃ……ないんだな?
 違うんだな?
 瞼の上から指で押したり、僕の指を極めようとしてのも、違うんだな?
 僕はあれを同志だというメッセージだと思ったけど、違うんだな?
 だったら、もう用無しだよ。
「終わりだ」

 右拳が降ってきた。
 さっきみたいにゆっくりとじゃない、速く、強く、一辺の容赦も無く三戸の鼻を叩い
た。
 浮いて……また落ちる。
 今度は唇の辺り。
 三発目もまた同じ箇所。
 四発目も同じ。
 五発目も同じ。
 六発目も同じ。
 口の中が血の味で一杯になる。

 違うじゃないか。
 お前なんか違うじゃないか。
 腕の靭帯が伸びただけで降参するなんて違うじゃないか。
 騙したな。
 嘘をついたな。
 全然違うじゃないか。
 ほら、反撃してみろよ。
 要らないよ。
 お前なんか、僕には必要無いよ。
 さよならだ。

 素早い小刻みなパンチが立て続けに入った時に、レフリーが動いたが、彼が拓也の右
腕を制するまでに、計六発のパンチが三戸の顔に炸裂していた。
 右腕を掴んで引き剥がした瞬間、拓也がレフリーの腕を極めてマットに這わせた。
「ふん」
 手を放し、歩き出す。
 三戸にも、レフリーにも、観客にも、一切視線を行かせなかった。
 前だけを見て歩いていた。
 試合場を下り、歩いていった。
 入場口のところにいた英二にすら一瞥もくれずに歩いていった。
 それを見送った英二の腕に、いつの間にか理奈がしがみついている。
「何よ……あの人」
 場内には、月島拓也の反則負けがアナウンスされている。
 拓也の背中が通路の奥へと消えた時、英二は理奈の腕を振りほどいた。
「ちょっと、行ってくる」
「私も行くわ」
「……好きにしなさい」
 理奈を説得することで時を費やすことを恐れて、英二はいった。
 今の試合、英二は技の攻防、力の移動よりも拓也の表情を観察していたといっていい。
 入場から試合序盤、いつものように細い目で無表情であった。
 試合中盤、突然、拓也が笑顔になった。無邪気な子供のようなそれだった。
 終盤、張り詰めた、怒っているような表情になり、その表情のまま三戸の腕を伸ばし、
上に乗り、殴った。
 そして今、自分の横を通り抜けた拓也は、いつものように細い目で無表情であった。
 変わらぬ顔で去っていった。
 だが……何かが違う、ということを英二は感じ取っていた。
 とにかく違うのだ。
 今の拓也には、普段より一層、危なっかしさがある。
 野放しにしてはいけないような気がした。

 歩きながらどこへ行こうとは考えていなかった。ただ、前に進む。道が分かれていれ
ばその瞬間に思った方へと曲がる。
 先に何があるかを考えてはいなかった。
 なんだか、同じところをぐるりと大きく回ったような気がする。
 どこへ行こう。
 どこへ行けばいいのか。
 目的の無いまま拓也は歩き続ける。
 その時、拓也は悲しんでいた。
 それを指摘すれば必ず拓也自身はそれを否定したであろうが、この時、確かに拓也は
悲しくて、寂しくて、彷徨っていた。
 だから、出た結論はこうだった。
 同志に会おう。
 同志に会ってこの気持ちを打ち明けよう。
 もちろん、口でじゃない、言葉でじゃない。
 同志たる者と自分には共通の言語がある。
 それで打ち明けて、付き合ってもらおう。
 自分は、悩みや寂しさを他人にさらけ出すタイプの人間じゃない。むしろ、そういう
行為を嫌う方だ。
 でも、同志ならいいな。
 それに、この寂しさを満たしてくれるのは同志しかいない。
 だが、藤田浩之と柏木耕一はどうであろうか。二人とも間違いなく同志だと思うのだ
が、この二人はこれから二十分の休憩を挟んだ後に試合をすることになっている。
 付き合ってくれないかもしれない。
 緒方英二──。
 そういえば、さっき擦れ違ったような気がしないでもない。でも、この男は先程、耕
一と試合をして相当消耗しているはず。
 付き合ってくれないかもしれない。
 あの人はどうだろう?
 あの人も、絶対に同志だ。口ではなんといっても、ギリギリの闘いに身を浸すことが
できる人間だ。
 この会場には来ているはずだ。さっき、女子の部の決勝で優勝した選手のセコンドに
ついていたのを見ている。
 あの人なら付き合ってくれるかもしれない。

 浩之は控え室のモニターで試合を見ていた。が、この拓也のいう「同志」は拓也の行
動がわからない。なぜ、あんなことをしたのかがわからないし、試合場を去っていく際
に彼が何を思っていたのかがわからない。
 だが、何か理由があったのだろう、とは思う。
 無性に、気にもなった。
 浩之は、控え室のドアを開けて表に出た。次の試合まで二十分。ちらりと時計を確認
する。

 耕一は試合場のすぐ下からあの試合を見ていたので、控え室のモニターで観戦してい
た浩之よりは細部のことがわかった。マウントポジションからパンチを打ち下ろすまで
の間に、拓也と三戸が何か会話を交わしているらしいことが知れた。
 あそこで、三戸が何か拓也の気に触ることをいったのだろうか?
 去っていく拓也には、何か鬼気迫るものを感じた。
 少し気になった。

 一方、拓也の表情無き表情にある種の感情を見出した人間は会場内に二人いた。

 祐介は、思ってもいなかった……いや、ある意味で、予想していた最悪の事態で終わ
った試合の結末に二階席から見ているだけでも疲労感を感じていた。
「長瀬ちゃん」
 そこへ、彼の恋人が声をかけてくる。
「なあに? 瑠璃子さん」
「お兄ちゃん、寂しそうだね」
「え?……」
 寂しい……のか?
「ちょっと話をしてくるよ」
 席を立った瑠璃子を追って、祐介もまた立ち上がった。

「あー、駄目ですよ。ちゃんとルール守らなきゃ、エクストリームが野蛮なものだと思
われてしまいますよ」
 と、いうのは、女子の部で優勝などして、色々とそれなりにエクストリームに対して
生じた自らの責務というものを自覚しつつある御堂静香である。
 彼女は横に立っている柳川祐也に向けて先程まで「これから、エクストリームの発展
のために自分が何を出来るか……」などなどと話していたのだ。
「ああ、そうだな」
 それに対して相槌を打ちつつ、柳川は入場口に消えていく拓也を見ていた。二人がい
るのは拓也が入場してきたのとは逆方向の入場口近辺である。
「あいつ……寂しそうだな」
「え?」
「すぐ戻る。ここにいろ」
「は、はい」
 奇異な視線を背中で受け流しつつ、柳川は手近の入場口に消えた。




     第78話 喜色

 いないな……表に出たのか?
 奇しくも、緒方英二と柳川祐也はほとんど同時にそれを思った。
 二人とも、試合場を出て、それぞれ控え室を覗き、試合会場をぐるりと取り囲んだ通
路を回った後であった。

 表に出て帰ってしまったのだろうか?
 藤田浩之と柏木耕一はほとんど同時にそれを思った。
 二人とも、この後試合を控えているだけにそれほど熱心に月島拓也の姿を探し求めて
いたわけではない。
 一階のロビー、入り口と売店がある場所に出た浩之は、既にその場に来ていて入り口
から表を見ている耕一を発見した。
「耕一さん」
 20分後……いや、もう15分後に試合を控えた耕一がウォーミングアップもせずに
こんなところにいるわけを浩之はなんとなく悟っていた。と、いうよりもある一つの理
由しか思い付けなかった。
「おう、浩之か」
 15分後、拳を交える相手に対してとは思えぬ屈託の無い顔で耕一は答えた。
 それは浩之も同様で、一度の対戦を経て、この二人の間には言葉では表現が困難な絆
が存在している。
「月島さん、探してるんすか?」
 自然と、それが口から出ていた。
 耕一は一瞬だけ笑顔を見せた。
「なんだか……気になってな……お前もか?」
「はい」
 二人で軽く情報交換などしていると、耕一の視線が浩之から外れた。
 左肩の上を通り抜ける耕一の視線を追って、自らのそれを絡めた浩之は一人の男が近
付いてくるのを見た。
 あの人……確か……さっき綾香の決勝戦の時に、棄権させろっていいに来た人だ……。
「どうも」
 耕一が頭を下げる。
「知ってる人なんですか?」
「ああ、ちょっとした顔見知りでね。刑事だよ」
「へえ」
 二人の会話を聞き流しながら、柳川祐也はその場を立ち去ろうとして思い止まった。
一応、こいつらに聞き込みをしてみよう。
「今さっき試合をした月島拓也を見なかったか?」
「え!?」
 自分でも驚くほどに、浩之の口から大きな声が出た。
 自分たちが正に拓也を探していた、というのもあったが、刑事が探しているというこ
とで、早くもなんかやったか!? と思ったわけである。
「見ていないのならいいんだ」
 そういって去ろうとする柳川を浩之が追う。
「ちょっと待って下さいよ、月島さん、なんかやったんすか?」
 外に出ようとした柳川を追った浩之は、ガラス越しに見知った顔を見付けて、柳川の
無言の返答も気にならずに視線と意識をそちらに奪われた。
「英二さんだ……何してんだろ?」
 そういいながら、なんとなくわかっていた。
 みんな、月島拓也を探しているのだ。
 足早で英二の元に向かう浩之を見送りながら、マイペースの歩調で踏み出した柳川の
横に、いつのまにかぴったりと耕一がついていた。
「どうも、おじさん」
 その言葉に、柳川はなんら感情を動かされたようには見えぬ。
 ただ、ちらりと一瞥をくれただけであった。
「おれと千鶴さんだけは知っている。梓と楓ちゃんと初音ちゃんは知らない」
「ああ」
 それが暗に、だから三人にはいわないでくれ、ということをいっていると了解した柳
川がそれを了承した。元々、いうつもりも無い。
「格闘技を始めたんだな」
 さすがに、静香に付き添ってやってきたこの会場で、柏木耕一が出場していることを
知った時には驚きがあった。
「ああ、色々とあるからな」
 曖昧にはぐらかしたのではない。
 耕一には格闘技を始めるにあたっては本当に入り組んだ理由があった。それは結局は
ある一つの、彼が持つ血筋、大層ないい方をすれば「血統」とでも呼べるものが原因で
あった。
 それを知る、いや共有する柳川にならば、それだけで大体のところはわかってもらえ
るはずだ、と耕一は考えている。
 柳川はそれで全てを悟ったわけではなかったが、元々、この甥とそれほど突っ込んだ
話をするつもりは無い。
「それに……おれが守りたいからな……」
 その言葉を柳川は聞いてはいたが、それを自分に向けられたものだとは思っていなか
った。
 耕一が、自分で自分にいっているように思えた。
「四人とも……おれの家族だから」
 その声は、先のそれよりもさらに小さく、外側にベクトルを持っていなかった。
 内側に、自分自身に──。
 そんな声だった。
 家族。
 柳川にはそういうものは無い。
 そういえば、この柏木耕一には両親は既に亡く、兄弟はいないはずだ。
 その辺り、自分と境遇は似ている。
 だが、所詮、別の人間であり、別の人生を歩んできた二人だ。
 深いところを知ろうという気は、柳川には無かった。
 それよりも、今は月島拓也──。
 あの男。
 冷たい眼差しを持った男だった。
 熱くならず、冷たいままに人間を壊すことができる男だ。
 柳川が彼に怖さを感じた。
 冷たさを感じた。
 だが、それ以外のものをそれ以上に感じてもいた。
 危なさ──。
 他人を侵す危なさも持っていた。
 だが、それ以外のそれをそれ以上に持っていた。
 自分を滅ぼしかねない危なさ。
 この男は自分にいった。
「殺して……やる」
 と。
 そういいながら人を殺したことはあるまい、と柳川は思った。まだそこまで踏み込ん
でいないだろうと、その目を見てなんとなく思った。
 危うい。
 理性と狂気の境界線で綱渡りをしているに似た危うさがある。
 そんな男が見せた寂しさが気になった。
 自分に何ができるかはわからない。何もできないかもしれない。
 でも、無性に会いたかった。
「耕一さん!」
 英二と、それと一緒にいる理奈と合流して会話を交わしていた浩之が耕一に向けて声
を上げ、さらに激しく手招きしている。
 耕一と柳川が会場を出て、さくらの木に挟まれた並木道に出る。
「あっちから、声聞こえませんか?」
 浩之が指で示した「あっち」というのは並木道から外れて少し行ったところにある公
園の方であった。
「声?」
 耕一が耳を澄ませた時、柳川が既にそちらに向かって歩き出していた。
 その背中を見ながら耕一がいった。
「聞こえる……これ、喧嘩か何かしてるんじゃないのか?」
 頷いた英二が柳川の後を追う。
「理奈……お前は戻っていろ」
 なおも着いてくる妹にいったものの、
「駄目よ、今の兄さん、どんな馬鹿するかわからないもの」
 一蹴された。
「おれたちも行ってみましょう。耕一さん」
「そうだな」
 既にこの二人の試合時間は約十三分後に迫っているが、これから起こることを見届け
たいという欲求がそれを圧した。
「よし、行きましょう」
 だが、それを見逃さなかったのは、会場の二階の出入り口のところにいた志保であっ
た。もちろん、あかりも横にいて、そもそも会場の外にいる浩之に気付いたのは彼女だ。
しかし、大声を張り上げたのは志保だった。
「ヒィィィィィィロォォォォォォォ!」
 耳を澄ませる必要などないその大声は浩之の耳に達した。
「なんだ。志保か」
 誰かと思ったが、自分をそう呼ぶのも、あんな大声で人を呼ぶのも知人には一人しか
思い付かない。
「あんた! 試合がもうすぐなのに、そんなとこで何やってんのよー!」
「ちょっと用事があるんだよー!」
「用事って何よー!」
「んなもん、詳しく説明してる暇ねえって!」
「雅史が浩之がどこかに行っちゃった、って心配してたわよー!」
「試合前には戻るから! あいつにはそういっとけって!」
「あんた、どこ行こうっていうのよー!」
「あー、もう、うるせえ! 戻るから心配すんな!」
「うるせえとは何よ、人が心配してやってんのにー!」
「いいから、雅史に大丈夫だっていっておいてくれー!」
「ちょっと待ってなさいよー! 今からそっち行くからー!」
「来なくっていいって!」
 浩之はそこで志保との遠距離会話を打ち切って、なんとなく二人のやり取りを見てい
た耕一を促して、遅ればせながら柳川たちの後を追った。
「ちょっと待ちなさいよー!」
 志保の声を背中で受け流す。
「志保……」
 大声張り上げて頭に血が上った志保にあかりが声をかける。
「何よ」
「今、浩之ちゃんと一緒にいたのって柏木耕一さんじゃなかった? 次に浩之ちゃんと
試合する……」
「……そういえばそうだったかしら」
 志保が公園の方に向かっている浩之と、そしてその隣を併走する耕一のことを見て、
目を細める。確認はできないが、いわれてみればそうなような気もする。
「よし、行ってみましょ」
 元々、好奇心は異常に旺盛な志保である。試合を前にした二人がどこかに行こうとし
ている。その行く先に何があるのかに激しく興味を覚えた。
「ヒロったら、なんかあるのよ」
 あかりを促して下に行こうとした時、
「すいません」
 一人の男が志保に声をかけてきた。
「何よ?」
 既に急ぎ足だった志保が胡散臭そうな視線で一瞥する。
 でも、まあ、決して悪くはないわよね。
 同時に、瞬時にして値踏みする。
「すいません、ちょっと今の見ていたんですが……」
 と、いうよりも、この場にいた人間ならば嫌でも今の志保と浩之のやり取りは耳目に
入っているだろう。
「あの人? 藤田浩之さんですよね。彼とは一度だけ会ったことがあるんですけど」
「え、ヒロの知り合い?」
 志保が後ろにいるあかりを振り返る。
 あかりは、自分は知らない、という風に首を横に振った。
「ちょっと自分たちも着いていっていいですか?」
 と、そういった男──長瀬祐介──の横にひっそりと立っていた月島瑠璃子が頷く。
「たぶん、お兄ちゃんがいるとしたらあの公園の方だよ……少なくとも、この会場内に
はもういないと思うよ」
「そうか……よし、行ってみよう。もしかしたら藤田くんたち、月島さんを見付けたの
かもしれない」
 話が全く見えない志保とあかりは、二人の会話をわけもわからず聞いているだけだっ
たが、二人が背を向けるとその後を追った。

「へえ」
 英二は、心底感心したような声を出した。
「な、なによこれ」
 理奈は恐怖を露骨に顕わにしている。
 だから、着いてくるなといったのに……。
 英二はそんな理奈を庇うように移動する。
 僅かに先に到着して、表情も感情も微動だにさせずに立っていた柳川がそれに目をや
って、目を細める。
「な、なんなのこれ、あの人がやったの?」
 さすがに、血を吐いて白目をむいている人間や、肘が外側に曲がっている人間や、口
角に泡を溜めて痙攣している人間などは刺激が強すぎたようだ。
「怖がることはない、おれがついてるから」
「……怖がってはいないわよ」
 二人から目を離して、柳川は視線を転じた。
 彼が探していた男は、下を向いていて、彼に気付いてはいないようであった。
 後ろから、靴が地面に擦れる音が近付いてくる。
「うおっ! また、派手にやりやがったなあ」
 これは……確か、藤田浩之とかいう青年の声。
「一……二……三……全員一人でやったのか……」
 これは……柏木耕一……甥の声だ。
 公園の奥まった一角。
 三人の人間が転がっていた。
 血を吐き、白目をむき。
 本来曲がるはずのない方向へ曲がった腕を健在な方の手で押さえて呻き。
 泡を吹き、ぴくぴくと痙攣し。
 三つの人体が転がっていた。
 その向こうで、下を向いている。
 ベンチに座って、下を向いている。
 注意して見れば、そのベンチにも血液がべっとり付着しているのがわかる。
 その男が吐血した様子は無い。どこかを怪我している様子も無い。おそらく、ベンチ
のすぐ側に転がっている吐血している男のものだろう。
「おい」
 柳川が一番最初に、声をかけた。
 下を向いていた顔が上がった。
 月島拓也は……奇妙なほど嬉しそうに笑っていた。





     第79話 仕返し

 いつしか、表に出ていた。
 気付いた時には桜の花が舞い散る中であった。
 その日、風は強くはない。が、無風でもなく、頭髪をゆらゆらとそよがせる程度の風
が吹いている。
 それに乗った花びらが空中で回り、翻り、上昇している。
 風が止む。
 宙に舞っていた花びらがゆっくりと地に落ちる。
 月島拓也は下半身を道着のズボンで覆い、上半身を黒いTシャツに包んでいた。
 首の辺りに汗が滲んでシャツの色が濃く変わっている。
 額にも頬にも首にも汗が浮いていた。
 表に何があるというわけではない。むしろ、自分が探している人間は試合会場の中に
いるだろう。
 戻ろうか。
 ここにいてもしょうがない。
 風が、また動いた。
 向かい風だ。
 拓也に向かって風が来る。
 低く、地を這うように吹いた風が桃色の絨毯のように地面に落ちている花びらたちを
滑らせる。
 一枚、大きく舞い上がった花びらが汗に湿った拓也の額に貼り付いた。
 やはり、戻ろう。
 それを拭い取りもせずに拓也は身を翻した。
 背中に吹き付ける風が冷たく、心地よい。
「月島拓也だな」
 その声を拓也の聴覚は感じてはいたが、自然と無視していた。
 自分が会いたい人間ではなかったからだ。と、いうよりも拓也が一度も会ったことの
無い人間だった。
「間違いないな、月島拓也だ」
 男がそういって、背後にいる二人の男に目配せすると二人は素早く拓也の背後に回っ
た。よく見れば三人とも同じ色合いのジャージの上下を着ている。
 左胸のところに小さく文字が縫い込んであるが拓也にはどうでもよいことだった。
「辻原(つじはら)さん、やっちゃいましょう」
 拓也の右後背に回っていた男がいった。
 拓也の正面に立っている男は辻原というらしい。……やはり知らぬ名だ。
「三戸雄志郎と同じジムに通っている……といえば用件はわかるな?」
 辻原はそういって拓也を見た。睨む、というほどに鋭い眼光ではない。なんとなくだ
るそうな表情をしていた。
「三戸の奴、腕の筋伸びて前歯折れて後頭部をマットで打ったんで病院に運んだよ」
「……」
 拓也は無関心に、無感動に、それを聞いていた。
「お前のせいだってのはいうまでもないわな」
 いってから辻原は口に手をあてて欠伸をした。
「そんなもん、おれはどうでもいいんだけどよ」
 欠伸のせいで潤んだ目で拓也を見ながら辻原がさらりといった。
「辻原さん、それは無いっすよ」
「そうっすよ、三戸さんの仇討ちましょう」
 後ろから二種類の声がやってくる。この二人は辻原とそして三戸の後輩らしいが、こ
ちらは三戸の仇討ちに積極的なようだ。
「まあ、あいつはおれよかなんぼか面倒見のいい奴なんでな、こういうふうなこという
後輩がいるわけだ」
 辻原が苦笑する。
「んでもって、先輩にもそういうこという人間はいるわけだ。うちをナメくさってるあ
の細目野郎をやってこい、ってな……ああ、細目野郎ってのはその先輩がいったことだ
ぜ」
 別に彼らのジムをナメているわけではない。そもそもそんなジムのことなど気にも止
めていなかった。とは、思ったものの、それを口に出してわざわざ弁解する拓也でもな
い。
 むしろ、不意に自分を取り囲んだこの事態を歓迎する気持ちが芽生えていた。
「ほれ、あそこ、二階から後輩がお前さんを見付けたんでな、すぐに駆けつけてきたわ
けだ」
 溜め息をつく。見付けなけりゃよかったのに、といわんばかりである。
「お前、なんでさっさと逃げなかったんだい? あんなことしたんだ、やばいとは思わ
なかったのか?」
「……」
 それに答えずに拓也は俯いていた。
 逃げる?
 この男は何をいっているのだろうか。
 自分が……逃げる?
 何から?
 逃げる必要がどこにある。
「おい……お前……」
 それまで緩みきっていた辻原の表情に張り詰めたものが浮き上がる。
「何かおかしいのか?」
 拓也は、笑っていた。
 拓也の右後背にいた男が回り込んで拓也の顔を覗き込んでその笑顔に気付いた。
「っのやろっ!」
 男が拓也に向かって振ろうとした右腕が止まる。
「待て、臼井(うすい)」
 辻原が左腕を横に伸ばして男──臼井の腕を止めていた。
「ここはまずい、人が見ているからな」
 そういわれて、臼井が舌打ちしながらも引き下がる。確かにこの出入り口の真ん前は
二階から丸見えで、休憩時間の今は二階席の客が通路にたむろしている。
「そんな顔してるからには断らないだろうな。すぐ近くに公園がある。そこまで付き合
ってもらおうか」
 やや緊張感のある顔で辻原がいう。
「……いいですよ」
 冷静にいおうとしたその声からいいようもない歓喜が滲み出していた。
「よし、じゃあ行こうか」
 辻原が先に立って歩き、その後ろに拓也、そのまた後ろに臼井ともう一人の男が続い
た。
 やがて公園に入った。
 子供連れの主婦が歓談している一角を抜けて、人気の無い奥地へと進んで行く。
 辻原が身を翻し、拓也と向き合ってから距離を取る。
「よし、やれ」
 その声に応じて拓也の背後で気配が動いた。
「おれがやります」
 この声は臼井という男だ。
 すぐに前に出てきて拓也と向き合う。
「二人でやれ」
 臼井が構える前に辻原がいった。
「おれ一人で十分です」
 臼井が両手を上げて構える。
「いや、二人でやろう」
 拓也の背後から声がした。
「塩崎(しおざき)……おれ一人で大丈夫だ」
「こいつ……なんかやべえ。二人でやろう」
「一人でやれる」
 臼井の声が張った。ムキになっている。
「でも、こいつは三戸さんと互角以上の試合をした奴だぞ……三戸さんが押されてたの
……お前も見てただろ」
「万が一……おれがやられたらお前と辻原さんとでやればいい」
「臼井ぃ……」
 辻原の声に”ドスが利いて”いた。
「……わかったよ……そこまでいうなら一人でやれよ」
 少しだけ躊躇った後に塩崎がいった。
「おいこら、塩崎」
 辻原が塩崎にもドスを利かせた声を向ける。
「……しょうがねえなあ」
 だが、すぐに苦笑して臼井を見た。
「お前、そこまでいったからには無様さらすなよ」
「はい!」
 臼井のその返事が消えぬ内に拓也が口を開いた。
「あの……」
「なんだ?」
「もう攻撃していいんですよね?」
 臼井の表情に一瞬で赤味が差す。
「ああ、いつでもいいよ。な、臼井」
「はい……」
 臼井の視線が放つ眼光が拓也を貫く。
 拓也の笑顔を貫いていた。
「行くぞ、おい!」
 臼井が拓也との距離を詰めようと前に出た瞬間、拓也が体勢を低くしてタックルで突
っ込んできた。
 絶妙のタイミングで決まり、腰を捕まえられた臼井がなんとかこらえようとする。
 速いっ!
 そのことには十分驚きつつ、辻原は、それ以外のことにそれを上回る驚愕を感じてい
た。
 拓也がタックルを決めたのと同時に塩崎の右ハイキックが空を斬っていた。
 辻原の感じた驚愕はそのまま塩崎が感じたものでもあった。
 驚愕は疑惑を伴って二人を打った。
 塩崎が後ろから攻撃してくることを読んでいたのか!?
 先程、塩崎が引き下がった時に辻原が咎めると、塩崎は意味ありげに微笑しながら頷
いた。背中を向けていた拓也と、それから拓也を睨み付けていた臼井も気付いていなか
った。
 臼井と一対一でやらせると拓也に思わせておいて背後から強襲しようというのだ。
 臼井が前に出ようとした瞬間、塩崎の右足が高く上がって疾走していた。だが、まる
でそれをよけるかのように拓也がタックルで臼井に突っ込んでいたのだ。
 偶然か!?
 読んでいたのか!?
 驚愕から二人が立ち直る前に、拓也は臼井の腰に取り付いたまま滑るように回ってバ
ックを取っていた。
「てめえ!」
 怒声が来る。そしてそれに僅かに遅れて右の肘が来る。
 拓也が臼井の体を手放して上半身を後方に逸らしてそれをかわす。と、同時に右足を
蹴上げていた。
「!!……」
 臼井が両手を股間に持っていって体を「くの字」に曲げる。
 キンタマやりやがった!
 辻原の位置からでもそれはわかった。
 この男、思っていたよりも喧嘩慣れしている。だとすると、やはりさっきのも偶然で
はない。
「塩崎ぃ!」
 辻原の声に弾かれるように、思い切り振ったハイキックの空振りから体勢を立て直し
ていた塩崎が前進する。
 だが、前にのめって苦しんでいる臼井が邪魔だ。横に回って……と思った時には前方
から肉弾がぶち当たってきた。
 拓也が臼井の腰を突き飛ばして塩崎に当てたのだ。
 呻きながら臼井が塩崎の胸にすがりつくように寄りかかった。
「おい、大丈夫か!? 臼井」
 塩崎の視線が臼井の顔を見るために下方を向く。
「バカヤロっ!」
 既に駆け出していた辻原が叫ぶ。
「他人の心配なんぞ!」
 素早いステップで距離を詰めた拓也の右のハイキックが刈り取るように塩崎の左側頭
部を打ち抜いた。
 ぐらり、と揺れる。
 塩崎が、寄りかかっていた臼井もろとも横倒しに倒れる。
 間に合うか!?
 自らに問いながら辻原は駆けていた。
 拓也の背中まで後僅か。
 まさか、ここまで短時間に二人がやられるとは思わなかった。
 走る。
 拓也との距離をゼロにする間に後悔が頭を巡る。
 甘く見た。
 自分がスパーリングで互角にやり合っている三戸をあんなにした奴だ。これぐらいの
芸当をやってのける奴と見るべきだった。
 だが、こういう後悔が無駄なことも辻原は知っている。
 とにかく、拓也が背を向けている今、それに向けて全速力で走ることに全ての力を注
いでいた。
 辻原が接触する前に拓也が振り向く。
「えあぁぁぁっ!」
 急には止まれない。止まれない以上、走ってきた勢いを利して突っ込むまでだ。
 右の肘を突き出して激突していった。
 拓也の頭が沈んだ。
 拓也がしゃがみ込んで体を縮める。
 走ってきた辻原はそれに躓いて前方に転倒する。
「くっ!」
 前回り受け身を取って身を起こそうとした時に後頭部に何かが衝突してきた。おそら
く、拓也の足だ。
 しまった……。
 思った時には右腕が取られていた。
 腕拉ぎ逆十字固め。
 これまた速い!
 三戸との試合を見ていてこの男の関節技のキレはわかっているつもりだったが、自分
がかけられる立場になってみるとより一層その速さが全身に鳥肌を生んだ。
 極められた。
 抵抗する気も失せるような激痛が右肘の辺りを横断する。
 凄まじい激痛は時間の流れを遅く感じさせる。実際は十秒ほどだったその時間は辻原
には三十秒ほどに感じられていた。
 ぺきっ。
 自分の右腕から発された乾いた音を辻原は聞いてはいなかった。
「があぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 声を張り上げて叫びながら、辻原は覚悟を決めた。
 三戸との試合は克明に覚えている。この後に頭部を踏み付けられるぐらいはあるだろ
う。
 だが、予想に反して何も降って来ない。
 右腕の激痛に耐えながら顔を上げた辻原の視界で拓也と塩崎が睨み合っていた。
 バカヤロっ!
 怒鳴りつけてやりたいがそれが声にならない。
 黙って寝てりゃいいんだ。
「塩崎ぃ、逃げろ!」
 その声が塩崎の耳に届いたのかどうかはわからなかった。
 ただ、塩崎は拓也に向かって前進した。
 バカヤロっ! 逃げろっていってんだろ!
 それも、声にならなかった。





     第80話 不要

 エクストリームはアマチュア格闘家にとっては夢の舞台といっていい。
 特に、プロを目指している人間にとっては、だ。
 そのショーアップされた世界を嫌い、それほどの価値を認めていない人間もいるが、
それは少ない例外である。
 ジム長は自分のところのジムからゾロゾロと選手を出すのをみっともないと考える人
間だったので大会前に選抜のために試合を行った。
 三日を費やして行われた選抜に勝ち抜いたのは三戸雄志郎であった。
 決勝戦で辻原と五十分に及ぶ関節の取り合いをしての勝利だった。
 そして当のエクストリーム、一回戦、二回戦を勝ち上がった三戸に対する感情は既に
憧れにと昇華していた。
 それが潰された。
 納得いかない潰され方だった。
 腕拉ぎ逆十字固めが完全に極まり、その後すぐに変形のマウントポジションへと移行
して殴った。
「反則じゃねえか!」
 叫んだ。
 隣で観戦していた同輩の臼井も似たような意味のことを叫んでいた。
 先輩の方から「あの月島とかいうのをやっちまえ」といわれた時、望むところと勇躍
した。
 彼と臼井を率いて、試合場から姿を消してしまった月島拓也の捜索をすることになっ
た先輩の辻原は気乗り薄で、三戸と拓也の試合が納得行かないという二人に、
「あんなもん、ちょっとエキサイトしただけだろ、あの腕拉ぎで勝負は決まってたよ」
 と、いってひたすら面倒臭そうであった。
 だが、とにかく納得がいかなかった。
 勝負が決まっていたのなら、あの後に何も反則のマウントパンチをやる必要は無いで
はないか。
 反則負けで決勝戦進出を棒に振ってまでなんであんなことをする必要があったのか。
 今、その男が前にいる。
 間近で見てみると悽愴な気をまとった男だった。
 自分がまともに行っても到底勝てまい。
 臼井と二人がかりでやればなんとかなるだろう。
 だが、臼井が一人でやるといって聞かない。それならば、臼井と向き合っているとこ
ろへ後ろから蹴りを見舞ってやろう、と思った。
 どんな手段を使ってでもやってやる。
 だが、月島拓也は思っていた以上の男だった。
 狙い澄ましたハイキックははずれ、臼井が金的を蹴り上げられ、自分はハイキックを
貰い、辻原までもが腕を折られた。
 自分は立ち上がっていた。
 そのまま寝ていればいいと思わないでもなかったのだが気付いた時には立っていた。
「塩崎ぃ、逃げろ!」
 辻原が叫んでいたのだが、逃げられなかった。
 逃げようにも、足が動かなかった。
 月島拓也が近付いてくる。
 三戸とほぼ互角の技量を持ち、スパーリングでは自分や臼井を子供扱いにする辻原が
あっさりとやられたのだ。
 逃げるべきであった。
 逃げたかった。
 足が竦んだ。
 どうしても足が動かない。
「けあぁぁぁぁっ!」
 叫んだ。
 足が前に出た。
「けえぇぇぇぇっ!」
 どうしても動かなかった足が前に出た。
 何も考えずに突っ込んで行った。
 接触した次の瞬間には右腕を極められていた。
 拓也は腕を極めて塩崎を自在にコントロールする。
 極められまいと塩崎が動くと、どうしてもバランスが崩れてしまう。だが、そうせね
ば折られてしまうためにそう動かざるを得ない。
 バランスが崩れたところに、死角から拓也の右肘が襲ってくる。
 そして今度は左腕が極められた。
 またさっきと同じ、操られる。
 今度は片足立ちになったところに、軸足を引っかけられた。
 宙を舞った塩崎の目に飛び込んできたのはベンチの背もたれだった。
 自分の体重と、そして拓也のそれまでを乗せた塩崎の顔面が背もたれに激突する。
 激痛に目が眩む。
 鼻血が出ていた。
 口の中一杯に血の味が広がった。
 顔を浮かせた時、目の前は赤であった。
 ベンチにべっとりと血が付着していた。それが全て自分の血かと思うと青ざめるよう
な気分だ。
 でも、後ろにいる。
 後ろから、ぞくりとする気配が来る。
「っあえぁぁっ!」
 叫んだ。
 ろれつが回っていなかった。
 中腰になっていた塩崎の血にまみれた口に拓也の蹴りが入った。
 その時塩崎の見た拓也は不思議なほどに冷めた表情で血を吐きながら倒れていく塩崎
を見つめていた。
「後一人」
 拓也はぽつりと呟いた。
 自分が考えた通りに行った。まずは一人にタックルで食い付きバックに回って金的を
蹴上げる。そして、後ろからかかってくる奴にそれをぶつけて蹴り。
 これで二人を一時戦闘不能にしておいて少し離れて見ていた──おそらく三人の中で
は先輩格の──男と一対一の状況を作る。
 実力的には三戸と同程度と見ていた。
 それならば一対一で負ける気はしない。
 そして、その後は先に叩いた二人の後始末だ。おそらく、顔に蹴りを入れた方が金的
を蹴り上げた方よりも先に回復してくる。
 ここまでは考え通りだった。
 立ち上ってくる血の臭いを嗅ぎながら拓也の耳は地面と靴が擦れる音を聞いていた。
「てめえ……」
 睾丸を蹴り潰したわけではないので、時間さえ経てばダメージは残っていない。
 臼井が向かってくる。
 また辻原は叫ばねばならなかった。
「臼井ぃ、逃げろ!」
 だが、臼井は向かっていく。
 いい度胸、とは思うが、無意味な度胸だ。
 逆効果だ。
 そのまま寝ていればいいのだ。
 右腕が無茶苦茶痛いのだが……先輩として行かねば格好が悪い。
 辻原が立ち上がった時、二つの身体は既に接触を果たしていた。辻原は一歩を踏み出し、
続いて二歩目を踏みだそうとした。
「おおう」
 辻原は呻いた。
 さっきと同じだ。拓也が一瞬にして臼井の背後に回っていた。臼井が右肘を振ったの
も同じ。ただ、臼井は両足を内股にして金的への蹴りを警戒していた。
 拓也はぴったりと密着した。
 完全に密着されると横へ振った肘は当たらない。拓也の両手が交錯した。
 交錯した両手の中に臼井の頭部があった。
 スリーパーホールド。
 一瞬で極まっていた。
 辻原が五歩目を踏み出した時には臼井の唇の端から涎が垂れ、すぐに空気を含んで泡
になった。
 完全に落ちた。
 だが、この男、離さないのではないか。
 辻原の懸念はそこにある。落として相手を解放するような奴ならば右腕の痛みを堪え
てわざわざ立ち上がったりはしないし、ましてや向かっていこうなどとは思わない。
 落ちる、というのは脳に酸素が行かなくなって気絶したということだが、すぐに頸動
脈や気管への圧迫を止めれば酸素が通い蘇生する。だが、そのまま絞め続ければ酸素の
供給が完全に途絶え、脳細胞はどんどん死んでいく。
 長時間続ければ死ぬ。死なないまでも、後遺症が残る。
「ちょっと待て、おい!」
 辻原の叫びに応じるかのように、拓也が両手を広げた。
 臼井が崩れ落ちる。
「君たちはもう不要だ」
 拓也がぼそりといった。
 二人に挟まれ、少し離れたところにもう一人いる。
 その状況下にあって拓也の心は躍った。はっきりいって一人一人は自分に及ぶべくも
無いが三人いれば……三対一ならば何か間違いが起こるのではないか?
 自分がやられるかもしれない。
 そう思った時、拓也の心は躍った。
 そして、それを切り抜けた時、やってきたのは虚しさであった。
 虚しい表情であった。
「おい……」
 辻原は思わず声をかける。
 なんて顔をしてやがんだ、と辻原は思っていた。
「聞こえなかったのかい?」
 熱も起伏も無い声が来た。
「要らないってことだよ」
 拓也が突如、左足を蹴上げてミドルキックを放ってきた。
 右腕でガード、と咄嗟に思った辻原の右腕に鈍い痛みが響く。
 腕が上がらない。
 拓也の左足は痛烈に辻原の右腕を叩いた。
 左に、横倒しに倒れた。
「要らないんだよ」
 倒れた辻原の右腕に拓也が足を打ち下ろしてくる。
 次が鳩尾に蹴り。
 空気の塊を吐き出して辻原は悶絶した。
 足音が遠ざかっていくのを辻原は聞いていた。顔を上げるような余裕を持たない辻原
はそれで拓也が去っていったのを悟った。

 ベンチに腰を下ろす。
 べっとりと血のついた部分を避けてベンチの左端に腰を下ろして下を向いていた。
 静かだ。
 静寂に身を浸して、拓也は何を思うということもなく沈思する。
 探しに行こうか──同志を。
 餓えが拓也を突き上げる。
 禁断症状といってもいい。
 闘いによるせめぎ合いの中で感じる快感を求めてまるで自分以外の何かが自分を突き
上げるようだ。
 あれは麻薬だ。
 そもそも、自分が格闘技を始めたのは瑠璃子のためだったはずだ。いざとなった時に
瑠璃子を守るために肉体的な強さも必要なのではないか、とその程度の理由だったはず
だ。
 瑠璃子が第一だったはずだ。
 全てのことはその次にあったはずだ。
 今はどうだ。
 餓えに餓えた今はどうだ。
 瑠璃子と──同志と──両手を広げて自分を迎えてくれていたら、一体自分はどちら
を選ぶ。
 それを考えるのが怖かった。
 自分は何を置いても瑠璃子を優先するはずだから、それを考える必要は無いと自分に
言い聞かせていた。
 だが、あれは麻薬であることを自分は嫌というほどに知っている。
 その誘惑に耐えることはできない。
 それが目の前に来たら自制心などはふっ飛ぶ。
「へえ」
 遠くから聞こえる子供がはしゃいでいる声に比べて、それはより近く、はっきりとし
た声だった。
 だけど、下を向いていた。
 それに続いて別の声がした。
 さらに別の声がやってきた。
 声質の違いで、男が三人、女が一人であることがわかる。
 だが、気配は五人分あった。
 誰か一人、声も発さずにいる奴がいる。
 もしかしたら、自分が今、全身に感じているとてつもなく強い視線の主であろうか。
「おい」
 初めての声が聞こえた。
 その声に吊り上げられるように顔を上げた。
 拓也は……奇妙なほど嬉しそうに笑っていた。

 浩之はのされている三人の中ではなんとか意識を維持しているらしい男に歩み寄って
声をかけた。
「おい! おい! 大丈夫か!? 右腕やられたのか?」
 その声に応じて辻原が身を起こす。
「どういうことだ、おい」
「おれもそっちの二人も……三戸雄志郎と同じジムの人間だ。あんなのとやり合ったお
かげでこのザマだ」
 いって、苦笑する。
 浩之も、それを聞いていた耕一もそれで大体のことを了解した。
 耕一が臼井の腹部に手を押し当てて活を入れると臼井は蘇生して目を覚ました。
 その臼井が血塗れで倒れていた塩崎を起こして背負うと、辻原は浩之と耕一に型通り
の礼を述べた後に身を翻した。
「もうウチはあいつにゃどんな形であれ関わらねえ、いや、おれが関わらせねえ」
 誰にいうともなくいった。
「辻原さん……」
 臼井が抗議するような視線を向けるが辻原はさらりと受け流した。
「ジム生、全員潰されるぞ」
「……」
「十人か二十人でかからねえと……いや、それでもおれは御免だね、何人かは確実に再
起不能にされるだろうからな……車ではねろっていわれてもおれは嫌だね」
「でも……」
「臼井ぃ……若いな」
 からかうような笑顔を、辻原はした。
「あいつが怖くないのか? おれは怖いぜ」
「……」
「行くぞ……あんたらにゃ世話になったな……確か、藤田浩之と柏木耕一、こんなとこ
で油売ってていいのか? すぐ試合じゃないのか?」
「ちょっとわけありなんだ。な、浩之」
「ああ、これから起こることを見ておきたいんでな」
 二人の言葉に何かを感じ取ったのか、辻原は臼井を促して足早に去った。
「何が起こるか知らねえけど、巻き込まれるのは御免だ」
 そういって、右肩を少し上げ「痛っ」と呟いて左手を上げた。
「警察になんか報せねえよ、病院行くからそんな暇は無い」
 それが、自分たちを介抱してくれたことへの礼であるのかどうかは辻原の背中からは
わからなかった。
「おい……」
 何かいおうとした浩之の肩に耕一の手が置かれる。
「浩之……」
 耕一の視線を追った先に月島拓也がいた。
 拓也はゆっくりと立ち上がっていた。その前方、ほぼ三歩の距離に柳川が悠然と立っ
ている。
「なんだ、もう始まっちまうのかよ」
 浩之のその声が消える前に、拓也が柳川を中心にして円を描き始めていた。

                                     続く





 


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