第103話 控え室

 既に夕刻であった。
 エクストリームと呼ばれるアマチュア格闘技の大会が終わった。
 六部門の各上位入賞者たちが試合場に、そして表彰台に上り激闘とその結果を賞賛され
ている。
 一般部門男子の部のそれは異様であった。
 表彰台に誰の姿も無く、柏木耕一の優勝決定戦棄権により、月島拓也との試合で反則勝
ちをしたもののその反則の攻撃で怪我をして今は最寄の病院にいる三戸雄志郎が優勝した
ことが告げられ、表彰状もトロフィーの授与も行われなかった。
 一般部門女子の部準優勝者としてその場にいた来栖川綾香は表彰式が終わるとすぐに試
合場を下りた。
 すぐさまマスコミ連に取り囲まれる。
 足を怪我していなければそんなものは捌いて逃げられるのだが松葉杖のお世話になって
いる身ではそうもいかない。
 ある程度何かいわないと解放されそうにない。
「高校生部門から一般部門に出てみての感想は?」
「レベルの違いは当然感じました。でも、越えられない壁ではないと思います。準優勝が
その証拠です。私の年齢でも一般でこれだけやれるということを示せたと思います」
「それは、高校生部門のライバル達の一般部門参加を期待するということですか?」
「それは軽々しくはいえません。やっぱり、このぐらいの年齢だとまだ完全に格闘家とし
ての体が完成していない人もいるでしょうから」
「次回は当然優勝を狙うのでしょうが、そのためにどのような練習をしたらいいか、など
の計画はもう考えていますか?」
「来年のエクストリームを見据える気には今はなれません。とにかく、足が治り次第どこ
の誰でもいいから試合がしたいです」
「それは他の大会への参加ということですね」
「はい」
「来栖川選手の試合は今までは年に一度のエクストリームでしか見れなかったので、それ
は我々としても非常に楽しみです」
「とにかく、試合して勝ちたいですね。こんな気分になったのは久しぶりで……」
 綾香は口早に根気強く記者たちの質問に答えつつその包囲を抜け出す機会を窺っていた
が少し離れたところに長瀬源四郎の姿を見て表情を明るくする。
 セバス、お願い。
 その意思を含んだ視線にすぐさま気付いた源四郎が外側から人の環を崩していく。
 手で肩を押された記者が抗議の声を発しよう、としただけで、あとは物理的な力を行使
することも無く人垣が割れた。
「お嬢様はお疲れですので……また後日にしてくだされ」
 くわっ、と凄まじい眼光で射竦める。
 空腹の熊が目を逸らしたとか進駐軍の大佐が思わず会釈したとか様々な逸話を持つ長瀬
源四郎の眼光である。
 睨むことで人間の本能に死を予感させることができる男だ。
 記者たちはそそくさと去っていった。
「ありがと、セバス」
「恐縮です」
「と、それよりも!」
 綾香とセバスとそして芹香は既に選手用通路に入っている。
「浩之はどうしたのよ、表彰式に出てこれないほどにダメージ負っていたようには見えな
かったわよ」
「……」
「あー、んー、たぶん大丈夫だと思うけど」
 芹香が心配そうな顔になるのを見兼ねてそういったものの、何かあったのかと心配する
気持ちは綾香の中にある。
「とにかく、浩之の控え室に行ってみればわかるわよ」
 その浩之がいる控え室へ行くために角を曲がったところで壁が出現した。
 そそり立つ肉の壁。
 即座に姉妹を庇って前に出た長瀬源四郎に匹敵する広さと厚みを有するそれはそう広く
もない廊下を一人でほぼ半分塞いでいた。
「どした?」
 その背後にいたこれまた厚みのある肉体をした男が前の背中に声をかける。
「いや、なんか人が来ました。可愛い女の子が二人とおっかない爺さんっス」
 主人の孫娘を守るために臨戦体勢に入っていた忠誠なる源四郎の眼光を我が眼で真っ向
から受け止めてそのようなことをいえるだけで大したものだ。
「記者じゃなさそうだな」
「通りたいんですけどね」
 苛々とした様子を隠そうともせずに綾香がいった。どうして浩之が表彰式に出てこなか
ったのかを逸早く知りたいのだ。
「ああ、ああ、えーっと、女子の部でいい試合してたお嬢ちゃんじゃないか」
 男は幾度も頷きながらいった。
「高原さん、ほら、いい蹴り打ってた……えーっと、ほら」
「来栖川綾香だろう」
「そうそう、それ、その歳で初出場の一般で準優勝しちまうんだから大したもんだよ」
「そういうあなたは……」
「中條辰だ。一回戦で負けたけどな」
 途中から綾香も気付いていた。この巨体はどうしても印象に残って一回戦負けといえど
そうそう簡単に忘れられるものでもない。
 一回戦で柏木耕一に敗退した中條辰であった。
「で、その中條さんがここで何を?」
 いつの間にか綾香が前に出ていた。
 源四郎は一歩退き、綾香を前に出しながらもすぐさま変に応じられるような体勢と心を
崩してはいない。
「ちょっと頼まれて見張りをしてるんだ」
「頼まれて?」
「緒方英二さんにね」
 つまりはこうであった。
 浩之と耕一の試合を観戦した後、通路で話していたところ緒方英二が話し掛けてきて雑
談になった。
 二人には柏木耕一と試合をしたという共通点がある。
 それをきっかけにそれなりに話が弾み、おもむろに英二がその用件を切り出してきた。
 控え室までの通路に見張りに立って欲しい、と。
「一体どういう……」
「そんなもん、試合の後に控え室に見張り立てるなんていったら決まってんだろ」
 中條は心底嬉しそうな笑顔をしていった。
「なんか納得できねえとか、まだ殴り足りねえとか、そういう時によく控え室でおっ始ま
るんだよ」
 中條の後ろで彼の先輩である高原がおかしそうに笑っている。
 この他ならぬ中條がかつてそれをやったことがあるのだ。プロレスラーとしての試合経
験は二試合しか無いくせにそういう経験はある男だ。
「もしかして……」
 綾香にも、薄々わかってきていた。
「ああ」
 中條はまだ嬉しそうなままだ。
「喧嘩だよ」

 浩之の控え室の前には七人の綾香が知る人間と、三人の知らない人間が立っていた。

 通路に急遽設置された関所は、
「この子らは通していいっていってましたよね、緒方さん」
「ああ」
 ということらしく、無事に通してもらっていた。今頃は記者連中に通せんぼしているこ
とだろう。
 あかり、志保、雅史、葵、好恵。そして緒方英二と理奈の兄妹。
 緒方兄妹がここにいる理由はいまいちはっきりとはわからないが他の皆は表彰式に出て
こない浩之を心配してやってきたのだろう。
 知らない方の三人は……それぞれに違った趣きを持つ女の子たちだ。共通点は客観的に
見て全員美人だということことだ。
 ここにいるということは浩之の知り合いなのかもしれない。あの男は無愛想なくせに妙
に、可愛い女の子とお近づきになることが多い。
「浩之、どうしたのよ? 表彰式にも出てこないで……」
 綾香はとりあえず葵に声をかけた。
「……なんて顔してんのよ」
 葵の、不安そうな顔が綾香をたじろがせる。そんな顔をされたらこっちだって元々不安
なところにそれを増幅させるようなものだ。
「浩之、中にいるんでしょ?」
 殊更笑顔になって一同を見渡すと葵だけでなくあかりも志保も雅史も似たような表情を
している。
「なによ、一体なんなの?」
 その中にあって一人だけ普段と変わらぬ顔で突っ立っている好恵に、綾香は尋ねた。
「藤田は中だよ」
 変わらぬ顔のままいった。
「なんで表彰式に出てこなかったのよ、そんなにダメージがひどいなら早く病院に……」
「ダメージが無いわけじゃないけど、藤田は元気さ」
「だったら……」
「立ち合いだよ」
 まだ、顔が変わらぬ。
「立ち合いって……」
 先程、聞き流してしまった中條の言葉が脳裏に蘇る。

 喧嘩だよ――。

「相手は?」
 急速に、綾香の表情から不安、心配、そしてそれに類するものが消えた。
「……柏木耕一」
 聞かずともわかってはいた。
 この状況であの状態で浩之が闘うといえば、それ以外には無い。
「浩之ちゃん……どうしてもっていって……」
 眼は潤み、涙声のあかりが救いを求めるような視線で綾香を見た。
 しかし、綾香は既にその救いを与えられぬ精神状態になりつつある。
 そう、おそらくは、好恵も自分と同じ――。
「来栖川さん……なんとか止められないの?」
 綾香は、その懇願に首を振る。
「浩之がやりたいっていうならどうしようもないわ」
 視界の隅で僅かに、好恵が頷いたのが見えた。
「でも……もう、そんなの……もう、あんなに自分を痛めつけて……もう、あんなに何度
も倒れて……もう……」
「あかりちゃん」
 雅史があかりの肩に手を置いて振り向かせる。
「辛いけど……しょうがないと僕も思う」
 雅史の表情からは不安も心配も消えてはいないが、その声には不思議と力がある。
 志保と葵も雅史と同じだ。
 当然、このようなことは止めさせたいはずだ。
 今、浩之に必要なのは休息である。
 客観的に見れば当然そうだ。
 だが、主観的意見がそれ以外のものを求めて、この部屋に閉じこもってしまった。
 それを止められない。
 いや、あかりだってわかってはいるが、彼女はどうしてもそこに現れた綾香に口に出し
て救いを求めずにはいられなかった。
 浩之自身の意志を尊重するべきことなど百も承知の上で、しかしその身を案じてなりふ
り構わずに綾香に懇願するあかりを見ていた志保は後ろからそっと軽く緩やかに彼女の体
に両手を回した。
「……志保?」
「大変よねえ、あかりもー」
 声質もその調子も普段と変わりはない。
「そりゃさ、あれが物凄い馬鹿だとは覚悟してたとはいえさ、ここ最近で急速に馬鹿化が
進むしねー、苦労するわ」
 ケラケラとした笑い方も普段通りだ。
「馬鹿に惚れたら大変だわ、ホントに」
 だが、あかりの体を包む両手が優しい。
「これからも苦労するわよ、でも……ま、馬鹿に惚れちゃった宿命よね〜」
「……うん」
 段々とあかりの表情から様々なものが霧散していく。
「私……」
 志保の手に触れた。
 志保が、両手を解く。
「ここで待ってる」
 ドアの前に立った。

「……で、そちらの三人は柏木耕一さんの関係者なのかしら?」
 綾香は実は先程からかなり気になっていた三人の少女の方を向いていった。
「うん、あたし、柏木梓。耕一の従姉妹だよ」
「その妹の楓です」
「初音です。はじめまして」
「来栖川綾香よ」
「ああ、試合は見てたよ、いい蹴り打ってたね」
「柏木耕一さんも……中に?」
「うん……あの子の彼氏……なんだろ? 藤田ってのも相当の馬鹿みたいだけど、うちの
もかなりのもんだから」
 そういった梓に楓がやんわりと、
「……耕一さんは人が好いんです」
「まあ、お人好しの馬鹿だね」
「梓お姉ちゃん……」
 初音が困った顔をしながらいった。
 この三人が三様の態度でいながら、結局は従兄のそういう……お人好しなところとか、
そこから来る馬鹿なところとか、馬鹿ゆえに人が好いところとかが好きなのだろうという
ことは一目でわかった。
「……で」
 綾香が再び視線を転じる。
「理奈さん」
 その先にはドラマ撮影で一緒で知った仲の理奈がいた。
「緒方さん……どうしたんですか?」
 問い掛けると同時に、またも視線の先を変える。
 廊下の壁に背中をつけて床に腰を落とし顔を下に向けてうずくまっている緒方英二がそ
こにいた。
「あー、たまには落ち込ませた方がいいから、気にしないでね」
 と、理奈はそういうがどうしても気になる光景ではある。
「……やあ、来栖川さんのお嬢さん方に、長瀬さん……」
 僅かに顔を上げ、僅かに視線を上げて、英二が呟いた。
「どう……したんですか?」
「兄さん、さっきまではおれがプロデュースしてやるっ、とかいって張り切ってたんだけ
ど……」
 理奈がどことなく楽しそうな表情と声でいった。どうも、兄が落ち込んでいるのを見る
のが純粋に愉快であるらしい。
「兄さん、ほとんど出る幕無かったんだって」
 闘いをプロデュースする際に当然決めるべきは、

 何時?
 何処で?
 どのようなルールで?

 この三項目であった。
 二人の意志を優先する、というコンセプトで双方の意見を聞き、その調整を行う。そう
いうのもプロデュースの内だ。

 今すぐにでも。
 ここででも。
 ルールはいらない。

 見事なまでに一致した答えを得て、英二は「プロデュース」した。
 それからすぐに、浩之の側の控え室で、ルール無し――二人が「やっていい」と思うこ
とは全て許されるルール――で。
 始まったのである。
 英二が介入する余地がほとんど無かった。
 廊下で立ち話していた中條に見張りを頼んだぐらいか。
 どうしてもすぐに闘いたがっている二人であった。
 そういう二人の間に入っていくことなどできまい。
「あかり、といったか……あの子」
 突然、英二がいった。
「よくできた子だね、藤田くんは幸せ者だよ」
 突然そんなことを言い出した真意がよくわからず理奈も綾香も沈黙している。
「おれだったら嫉妬してるもん」
 そういった英二の思いがすんなりと綾香の中に入ってきた。
 自分の懇願すら振り切って男が行ってしまう。
 闘いに行ってしまう。
 嫌いになったとか、そういうことじゃない。
 好きであり、愛していながら、それでもそっちへ行ってしまう。
 束縛しきれない何か魅力のあるもの。
 自分よりもその男にとって魅力のあるもの。
 そっちへ行ってしまう。
 それがなんであろうと、自分がその立場だったら果たして平静でいられるだろうか。
 装うための平静に身を包んで、その奥にあるものを誰にも悟らせない……そんな自信は
ある。
 だけど、あんなふうに静かに男の帰りを待てるだろうか。
 そんなことを思いながらも、綾香には別の思いもある。
 私だって、あっち側だ。
 本質が、あっちだ。
 たぶん、好恵もそう。
 葵は、まだちょっとその域にまで達していない。むしろ、ずっとそんなところには足を
踏み入れないタイプかもしれない。
 闘いに赴く人間。
 それが私で、好恵で、浩之で、柏木耕一で……さっき公園で闘っていた柳川裕也と月島
拓也もたぶんそれで――。
 愛するものがありながら、それに行かないでくれと懇願されながら、それでも行ってし
まう人間。
 あの、神岸あかりには、浩之のその時の気持ちはわからない。完全に理解の外であろう。
 だが、理解できないが、それを許して受け入れて帰りを待っている。
 自分だったらたぶん、悩みながらも結局はそれを理解し、許し、受け入れて――。
 思考が途絶える。
 音がドアと壁を通じて廊下にいる人々の耳にまで達していた。
 金属音。
 金属が、固いものにぶつかる音。
 金属同士がぶつかり合う時のそれとは微妙に異なる音。
 しかも、その音量からして、相当に大きな物体だろう。
 始まっている。
 中で、もう始まっている。
「っちぃい!」
 声が聞こえた。
 人間が渾身の力で人を殴ったり蹴ったりする時に出る、喉を気道の壁に擦り合わせて出
すような声。
 たぶん、これは浩之の――。

 最後に英二が扉を閉めて出て行った。
 その時、浩之と耕一はそう広くもない控え室に二人きりになった。
 互いの顔を見合う。
 耕一が微笑んでいて、浩之は照れ臭そうに顔を逸らした。
 ――ありがとうございました。
 洩れそうになった言葉を飲み込む。
 本来、耕一は受けなくていい闘いである。
 判定とはいえ満場の中で勝利が確定しているし、その試合内容も終始優勢な時間を多く
占めており、観戦した人間の誰もが納得のいく結果であった。
 耕一は、もう勝っているのである。
 いくら浩之が納得いかないとはいっても、負けは負けだ。
 だったらあのまま続けていたら勝てたのか? といわれれば浩之自身が首を横に振るし
かない。
 そんな状況で試合が終わったすぐ後に、流した汗が乾かないような時に受けてくれた。
 いや、英二の話では耕一は自らそれを望んでいたとすらいう。
 耕一といえど楽な試合ではなかったはず。その程度には善戦したつもりだ。
 苦労して掴んだ勝利だ。
 それが、この控え室での「第二試合」において無に帰すかもしれない。
 記録に残るのはエクストリームの試合だ。
 人々の眼に触れるのもエクストリームの試合だ。
 なんの記録にも残らず、誰の眼にも触れないこれから始まるこの闘い。
 そのくせ、これに敗北することは先程の勝利を無にするに等しい。
 ごく普通に考えればメリットは無く、デメリットばかりが大きいはずの闘いである。
 だが、英二がいっていた。
 耕一は、納得できていないと、はっきり明言したというのだ。
 だから、ここまでやってきたのだ。
 メリットもデメリットも無い。
 この闘いで納得が得られるのならば、それが最大のメリットなのだ。
 そういう価値観に従って耕一はここにやってきた。
 それは浩之にも通ずるものである。
 そうでなければ、こんなことはしない。
 同じ価値観を有する同じ人と――。
 同じものを求める同じ人と――。
 闘う。
 月島拓也いうところの「同志」であろうか。
「ルール……」
 やっと、浩之が口を開いた。
「ルール……どうしますか?」
「……」
 間髪入れずに耕一が首を振っていた。
 左右に、ゆっくりと。
「いや、いいだろ」
 ゆっくりといった。
「お前がしていいと思ったらなんでもしていいよ」
「……」
「おれも、そうする」
「はい」
 それが何を意味するかがわからないわけではない。
 なんの制限も無い闘い。
 それは極まれば命を奪い合う、殺し合いである。
 だが、殺し合いがしたいのかといえば、否である。
 耕一だってそうだろう。
 そのようなものに身を浸すには浩之も、耕一も、互いに情を持ち過ぎている。
 殺人を嗜好するような趣味も皆無だ。
 この二人が人に殺意を抱くには、膨大な憎悪を必要とするだろう。
 相手を殺そうとはしていない。
 それが、この二人を微笑ませていた。
 それは、例えそのようなルール無しという「ルール」であっても死まではそれが行き着
かないであろうという安心感からか。
 浩之はそれは違うと思う。
 ことの初めから殺してやろうとか再起不能にしてやろうとか考えていないし、できるだ
けそのようなことはしないつもりであるが、もし相手がそれをやってきたらそれでもいい。
 そう、思う。
 耕一も、そう思っているに違いない。
 そうなったら、そうか、と思うだけだ。
 お前は、それをしていいと思ったんだな、と納得するだけだ。
 憎んだりはしないだろう。
 何が起こっても。
 どんな傷跡が残ろうとも。
 例え、齢を重ねることができなくなろうとも。
 殺し合いになりかねない闘いだが、それに憎悪が混じることはないだろうと浩之は確信
していた。
 つまるところは、
 ――おれは、この人が好きなんだ。
 そう思う。
 そして、おそらく――。
 ――この人もおれが好きなんだ。
 そうでなければこんなことをする説明がつかない。
 好きだからそんな闘いをする。
 好きだからそんな闘いができる。
 これは説明にならないかもしれない。
 しかし、この説明が理解されないことなど承知。
 おれと、この人だけが理解できればそれで十分だ。
 誰も介入できない。
 誰も間に入れない。
 緒方英二の言葉を聞けば浩之はその通りと同意するだろう。
 女がいたら、嫉妬する。
 浩之と耕一の間の距離は3メートル前後しかない。
 すぐにでも間合いに入れる距離だ。
 だが、どのように素早く、例え予備動作の無い攻撃を繰り出したとしても奇襲を行える
距離ではない。
 どうしても動きが悟られて構えをとられてしまう……そんな距離だ。
 そんな距離を間に置いたまま、浩之はぐるりと室内を見回した。
 なんの変哲も無い控え室だ。
 控え室、というよりロッカールームといった方がその状景を想像しやすいかもしれない。
 縦に長いロッカーがドアのある壁を除く三面の壁にズラリと並び、中央には鉄パイプを
組んでその上にスポンジを、さらにその上に合成皮を貼り付けた椅子がある。
 椅子といっても背もたれがあるわけでもなく全長2メートルに及ぶために大の男が悠々
とその身を横たえベッド代わりにすることもできる。実際に試合から帰ってきてすぐにこ
の上に横になってしまう選手も多い。
 他には特に何も無い。
 試合を終えた選手が順次姿を消すことによって次第に殺風景となっていき、今は浩之が
一つのロッカーを使っているだけで他は全て空のはずだ。
 浩之がロッカーの角を手で叩いた。
 軽く、乾いた音が鳴った。
「そこに頭ぶつけたら痛いだろうな」
「そうっすね」
 浩之が椅子の鉄パイプの部分を爪先で軽く叩く。
 コツコツと鳴った。
「その椅子蹴飛ばして足に当てたらいいかもな」
「そうっすね」
 耕一が居並ぶロッカーの一つを手で引いて傾ける。
「くっついてるわけじゃないんだな、単体のロッカーを並べてあるだけだ」
「でも、持って振り回すってわけにも……」
「そうだな」
 耕一がロッカーから手を離して元に戻す。
 二人とも、この部屋にあるものを使うことを前提に話をしている。
 リングやエクストリームの試合場のようなところではなくこのような場所での闘いでは
相手の体勢を崩したらきれいに投げるよりも壁やロッカーなどに頭をぶつけてやった方が
よほど効く。
 そういう「武器」の使用はありだと浩之は思っている。
 対等であるからだ。
 耕一だって同じように自分の頭を壁にぶつけることができるのだ。
 今、身には何も帯びていない。
 おそらく、耕一だってそうだろう。
 その状態でこの部屋に入ってきた。
 部屋の中に何があるかを確認する時間が双方にあった。
 ならば、対等だと浩之は思っている。
 きっとこの人だってそう思っているに違いないと浩之は思っている。
 これで十分。
 おれとこの人にとってはこれで――。
 レフリーがいなくても――。
 明確なルールが無くても――。
 この二人の間での勝負にはなんの支障も無い。
 これで勝てたら、おれは耕一さんに勝ったんだと胸を張っていえる。
 これで勝てたら、おれはこの人より強いと胸を張って行ける。
 比べ合い。
 おれとこの人の――。
 どっちが強いか――。
 対等の条件下で闘い、勝たねば意味が無い。
 なんでもありでただ勝てばいいという闘いであれば、こんな非効率的なことはしない。
 こんな自ら闘いに身を投じるような無茶な真似はしない。
 護身術とはまったく異質の精神。
 武道が、格闘技が、自らの身を守るために生み出された――「護身」が母体なのだとす
れば、それは奇妙に歪んだ奇形。
 なんでもありの闘いの中を潜ってきた武道家は口を揃えていう。
「避けられる闘いは避ける」
 なんでもありの実戦には不測の事態がつきものであり、そもそも実戦で一番怖いのがそ
れである。
 それとはまったく異質。
 それが、浩之がこれから行う闘いであった。
「ここの柱の角なんてけっこう……」
 耕一が柱に触れている。
「ねえ……」
 浩之が、それまでとはやや異なる質の声を出した。
 ねっとりとした声だ。
 だが、その絡みつくようなそれが不思議と嫌ではなかった。
「いつ始めますか?」
 涎を垂らしそうな声でいった。
「もう始まってるんじゃないのか?」
 耕一の声も表情も平静たるものだ。
 元々、はじめの合図で始まるような性質の闘いではない。
 双方に闘う意志があることがわかっている以上、いつ突っかかっていってもいいのだ。
 油断は敗北に直結する。
 いきなり殴りかかられても、ああそうか、と思うだけだ。
 お前はそれをしていいと思ったんだな、と――。
 だからこそ、先程から二人ともなごやかに話をしながらもそれへの警戒を怠っていなか
ったのだ。
「はは、やっぱりそうでしたか」
 浩之が苦笑した。
 つまらないことを聞いてしまった、という顔だ。
 そんなことはわかっちゃいたんだよ、という顔だ。
「でもね……耕一さん」
「ああ」
「どうにも困ったもんでさ」
「ああ」
「後ろから蹴飛ばしてやろうとかいう気にならないんだよ、これが」
「ああ……」
「どうも、なんかこう……」
「おれもそうだよ」
「……」
「おれもそうだよ、浩之と同じだよ」
 浩之が苦笑していた。
「よし」
 そういった時には晴れたような顔になっていた。
「耕一さん」
「おう」
「いっそのこと、いっせーのせ、で始めましょうか」
「おう」
 耕一と浩之が向かい合った。
 それもいい。
 耕一は思っていた。
 この闘い、二人を共通に制限するルールは無い。
 それぞれが心の中にある――はっきりといってしまえば闘う上で自らに勝手に課してい
る――ルールに従うのがこの闘いだ。
 誰にそうしろといわれたわけでもない。
 時には、それに従うことが勝利への道を細く行き難いものにしてしまうことがわかって
いてもだ。
「よし、それじゃ……」
「はい」
 二人の距離は50センチも無い。
 パンチが余裕で届く位置にお互いがいる。
 二人ともリラックスして全身から力が抜けているように見える。
 いつ殴りかかられてもいいように……。
 だが、浩之はとあることに気付いてしまった。
 この人……。
 本気の本気で「いっせーのせ」で始めるつもりだぜ。
 いや、浩之にもその気持ちが無いでもなかった。
 それもいい、と思っていた。
 だから、こんなことを提案したのだ。
 だが、耕一がそれを守らないことを想定して……いや、むしろ破ってくるものと思って
耕一と向かい合っていた。
 それに対して耕一である。
 あー、こりゃ完全にそのつもりだな。
 それを確信した時、浩之の――。
「いっ」
 耕一がそういった瞬間、浩之の右拳が一直線に顔面を貫いていた。



     第104話 咆哮

 右。
 次は左。
 んでまた右。
 間断無き攻撃。
 連綿と続く攻撃。
 一瞬たりとも途絶えてはならない。
 浩之は絶えず両腕を回転させて矢継ぎ早に耕一の顔を打っていた。
 もう十数発は叩いたであろうか。
 ガードに阻まれたものもあるが、その大半がヒットしている。
 まだ、倒れねえか。
 おれの息はあとどれぐらい保つ。
 あと……おそらく二十秒。
 一息入れずこのまま殴り続けるのはそのぐらいが限界だろう。
 その間に倒す。
 拳で叩きながら、その意志で浩之は耕一を叩いた。
 せぇ……。
 叩く。
 叩きまくった。
 腕がもげちまってもかまわない。
 この人が倒れた上におれの死体が折り重なってもかまわない。
 とにかく、倒す。
 のぉ……。
 なんか、聞こえたな。
 耕一さんの声か。
 てことは、聞き間違いかなにかと思っていたさっきのしぇーだかそぉだかいう声も耕一
さんか?
 何をいってんのか知らねえけど……。
 あと二十秒。
 殴り続けるだけだ。
 それだけの時間があれば、その間にあと十発はクリーンヒットを叩き込める。
 今だってもう足が崩れかかってるんだ。
 そんだけ打ち込めば……。
 いくらこの人でも……。
 倒せる。
 倒す。
 意志――。
 膨大な意志であり、強烈な意志であり、藤田浩之という人間の脳内を心中を五体を全て
満たすこの男の限界を極めた質と量を伴う意志。
 拳で耕一を打つ。
 意志で耕一を打つ。
 打って、貫いて――。
 倒す。
 いいのが入った。
 右のストレートだ。
 耕一がよろめいて、なんとか踏み止まった。
 右の拳が脇に引き付けられている。
 おれの息――。
 あと十五秒!
 だったら五発は余裕でぶちかませる。
 不可視の何かが一直線に浩之を貫いたのはその時だ。
「!……」
 目で見ることはできないが確かにそこに存在する何か。
 すぐに理解した。耕一の視線だ。
 自分の水月の辺りを耕一の視線が貫いたのだ。
 だが、それだけならばなんということはない。
 それだけならば浩之は耕一を殴打することを続行しただろう。
 だが、浩之は咄嗟に腕を引いた。
 一瞬前まで耕一を殴り倒すために腕といわず全てを捨てていいと思っていた男がだ。
 視線の後に来たやはり不可視の何か。
 なんとも形容しがたい何か。
 何も感触は無い。
 ただ、感覚的なものだ。
 だが、臓物を押し潰されるような凄まじい感覚。
 何かが来る。
 それの予兆であると浩之は確信した。
「せぇっ!」
 耕一の気合もろともその右拳が空を裂いて疾走してきた。
 十字に組んだ浩之の両腕の交差点へと激突してきた。
 耕一の右拳。
 それが自分の腕を叩いたことなど浩之の理解の外にあった。
 それよりも、強大な力そのものが直線を引いてやってきたとしか思えなかった。
 それが耕一の右拳であることを理解するより早く、浩之の心中を満たしていたのはとに
かく助かった……という思いだけであった。
 防御が遅れていたら危なかった。
 水月へ入れば一撃で勝負を決するだけの威力を秘めた攻撃だ。
 ホッとしているこの瞬間にも自分の体は後方にふっ飛ばされているのだ。
 背中がロッカーに当たり身体がバウンドして前にのめる。
「っ!」
 まただ。
 臓物が潰されるような嫌な感覚。
 二発目が来る。
 のめった体勢を立て直すと同時に浩之は腰を落とし再び十字に組んだ両腕で水月を守っ
た。
 あの何かは、またそこに注がれていたのだ。
「おっしゃあ!」
 叫んだ。
 自分に気合を入れなければ耐える自信が無かった。
 二発目。
 一発目よりやや低い位置から放たれて一発目と同じ場所目掛けて――。
 耕一の左足が繰り出した前蹴り。
 浩之の中では、またもやそれは力そのもの。
 腰を落としていたがおかまい無しにふっ飛ばされた。
 そちらを見てはいないが、さっき背中が当たった時にロッカーの位置は承知している。
 いい位置関係とはいえない。
 この耕一の強烈極まる第二撃とロッカーの間に挟まれる。
 すぐにロッカーに背中が当たって……。
 どんっ、と当たって……。
 ズボッ、と……。
 あん?
 ズボぉ!?
 予定の位置より浩之の身体は後退していた。
 そうか。
 パンチを貰って激突した時にロッカーの戸が開いてしまっていたのだ。
 その開いたところへ飛ばされて体がロッカーに入ってしまったらしい。
 ここにもう一発貰ったら……終わる。
 戦慄を伴ったその予感を裏切って耕一はよろりと後退した。
 三歩退いて腰を落とす。
 丁度そこに椅子があった。
 耕一が数度頭を横に振った。さすがにさらなる追撃を行うにはダメージが大きいらしい。
「浩之ー」
 微かに、笑ったようだった。
「いっせーのせ、だろ」
 浩之の中で断片が繋がった。
 まず浩之の攻撃開始の引き金にもなった「いっ」
 そしてよく聞き取れなかった「せぇ」
 確かに聞こえたがよく意味がわからなかった「のぉ」
 そして反撃の右を放つ時の「せぇっ」
 いっせーのせ、だ。
 この人は……。
 いっせーのせ、で始めたんだな。
 こっちがそれを無視しようが何しようが、それで始めなきゃ気が済まなかったんだろう。
 そしてものの見事にこちらの攻撃を挫いて反撃して吹き飛ばしてくれた。
 十五秒なんてそんな時間はおれに与えられてなかったんだな。
 せぇのぉせぇっ、の間にやっちまわねえと駄目だったんだな。
 この人。
「いっせーのせ、だっていっただろうが」
 なじるような口調なのに表情に翳りが無かった。
 やってくれるぜ。
 「油断してるのが悪ぃんだ」とばかりにチンケな手に出たのを気持ちよく粉砕してくれ
た。
 やっぱり……。
 この人、すげえっ。
「はは、すんません」
 浩之は苦笑した。
 第一次接触――。
 物凄い攻撃だったとはいえしっかりとガードした浩之よりもダメージでいったら何発か
顔や顎にパンチを貰った耕一の方が大きいだろう。
 だけど……勝った気がしねえ。
 おれの負けだ。
 いかんな。
 次こそは巻き返さねえと、心が折れちまうぜ。
 チンケはチンケなりに、全力でぶつかっていかないと。
 よーし、行くか。
 耕一さん、まだ脳が揺すられたダメージから回復してねえ。
 前に出ていって頭を蹴飛ばしてやる。
 丁度蹴り安い位置にあるしな。
 ……待て。
 擬態かもしれねえな。
 罠かも。
 馬鹿。
 んなこたどうでもいいんだよ。
 足は手の三倍の力があるんだぜ。
 頭に蹴りがクリーンヒットすりゃそれ一発で終わるんだ。
 だけど、頭を蹴れるようなチャンスは滅多に無い。
 今がチャンスだ。
 これを逃す手はねえぞ。
 おいしいんだよ。
 罠がどうとか考える前においしいんだから涎流して飛びついてやればいいんだよ。
 いらねえことに頭使わないでいいんだ。
 らしくねえ。
 行ってやりゃいいんだよ。
 罠だったら?
 引っ掛かってから考えろ。
 いや、考えるまでも無え。どうせ考える暇も無え。
 引っ掛かったらその時は身体が勝手に反応して動く。
 そのために日頃鍛えてるんだぜ。
 よし、行くぞ。
 四歩だ。
 四歩進んで蹴る。
 右から踏み出して四歩。
 右、左、右、左で四歩。
 んで、右の蹴りくれてやらあ。
「行っ!」
 身体が重い。
 今更、今日の疲労が出てきたのか?
 今日はもう、都築克彦、加納久、そして柏木耕一と三戦を経ている。
 そういった疲労が後から遅れて一気に出てくるのはよくあることだ。
 それにしても、重い。
 重過ぎる。
 特に背中が……。
「あ……」
 気付いた。
 ロッカーに背中ハマっちまってる。
 それが……。
 それが……。
「どうしたあ!」
 腰を落としていた体勢の浩之が上半身を前屈させた。
 ロッカーが浮く。
「おい」
 耕一が、それに気付いた。
「なんでもないっす」
 後頭部に何かが当たって、そのまま床に落ちた。
 少し水が入ったペットボトルだ。
 ロッカーの上部に誰かが置いたまま帰ってしまったらしい。
 ちゃんとゴミ箱に捨てろよなあ。
「だっっっ!」
 浩之が体勢を低くして突っ込んで行った。
 形としては低空のタックルだ。
 だが、勢いが足りない。
 これでは、耕一の足に届かない。
 が、それでかまわない。
 なにしろロッカー付きだ。
 ロッカーが当たればいいんだ。
 耕一は椅子から立ち上がりかけたところへ顔にロッカーの天辺の直撃を受けて仰け反り
そうになった。
 この野郎。
 ロッカー背負って突っ込んできやがった。
 こんなのでやられたら恥ずかしくってしょうがないぞ。
 耕一は倒れずに踏み止まった。
 ロッカーを両手で掴み、それを左に払い除けた。
 ロッカーが倒れ床を打つ。
 金属音。
 金属が、固いものにぶつかる音。
 金属同士がぶつかり合う時のそれとは微妙に異なる音。
 そんな音が鳴り響いた。
 耕一の右側に影が躍るように、湧き出るように現れていた。
 さすが耕一さん、よくぞ支えてくれた。
 おかげで身体が外れたぜ。
 一瞬、耕一がロッカーをどちらに除けるかを待ち、それとは逆方向に飛んだ浩之であっ
た。
「しまっ!」
 た。
 耕一が思わず叫んだ。
 右手がロッカーを除けるために左に行ってしまっている。
 顔ががら空き。
 だが、浩之とて体勢が低い。
 この状態では顔に有効的な打撃を送り込むことはできまい。
 気を付けるべきは下半身。
 金的――!?
 だが、何かが来た。
 不可視の何か。
 実際の攻撃に一歩先駆けてやってくるもの。
 先程、浩之の臓物を潰そうとした何か。
 目――!
 触れるだけでダメージを与え得る急所。
 下から浩之の右手が舞い上がるように――。
 やけにふわりとしたような動き――。
 目に!
「ちぃぃぃ!」
 ぴっ。
 と――。
 やられた!
 人指し指と親指で眼球を撫でるように――。
 耕一が目を閉じる。
 右膝をやや上げ、左手を曲げ肘を左胸の上に、肘から掌までの部分を縦にして喉から眉
間に点在する急所を覆う。
 そして右手で腹部を守る。
 これで心臓、喉仏、顎、人中、眉間、肝臓、水月、金的がほぼ守られる。
 だが、目が見えないのはどうしても辛い。
 どうしても全ての急所を覆いきれるものではないからだ。
 心配なのは右手で守っている腹部だ。
 水月と肝臓の両方を右手一本で守るのは不可能に近い。
 そこへ――。
 不可視の何かが来た。
 水月を貫いて――。
「っちぃい!」
 それに僅かに遅れて浩之の蹴りが耕一の水月にめり込んでいた。
 防ぎきれなかった。
 その水月に食い入ってくる感触から、浩之が足の甲や裏ではなく爪先を揃えてそれを突
き入れてきたものであることがわかる。
 細い錐のように尖鋭な攻撃だ。
 だからこそ、水月を防ごうとした耕一の右腕の表面を滑るようにして目的地に到達し、
喰らいつくことができたのだ。
「ごはっ」
 声ではなかった。
 空気が押し出される時に喉にこすれた音だ。
 耕一の身体が崩れ落ちる。
 膝をつき、手をつき、四つん這いで身を縮めた……いわゆる「カメ」の体勢になる。
 チャンス!
 頭が蹴り放題。
 そう思った浩之が右足を上げた時、耕一の右手が床の上を抱き込むように弧を描き、そ
れが浩之の左足を刈った。
「ぬ!」
 左で片足立ちになった瞬間にそれを貰ったために浩之の体勢が崩れ、右足を打ち下ろす
どころではなくなった。
 しまった。
 浩之もその瞬間にミスを悟っていた。
 耕一のカメの体勢は確かにチャンスであったが、蹴りを落とすには耕一と浩之の間の距
離が近すぎた。
 蹴り足を上げた時に耕一が当てずっぽうで手を振ったら軸足に当たるような近距離では
満足に蹴りを落とせない。
 距離を取って……。
 だが、耕一が追ってくる。
 蹴りは……また同じことになる。
 パンチ……遠い。
 くそ。
 けっこう厄介だな、このカサコソした耕一さんのポジションは!
 上から被さって押さえ込んで殴るか膝蹴りを叩き込んだら?
 いや、それをするにも近すぎる。足を掴まれて倒される。
 それにしても、もう目が見えてんのかよ。おれの退く方向にぴったりと着いて来るぞ。
 そうか、足音を聞いてんのか。
 だったら……こいつでどうだ。
 浩之が、飛んだ。
「!……」
 耕一がまだ痛む目を薄っすらと開きながら聴覚を鋭敏に研ぎ澄ます。
 一瞬、音が途絶えたことから跳躍したことはわかる。
 どこに着地するのか。
 音が……少し高い位置から……。
 何かの上に乗った!?
 位置からして……椅子だ。さっきまで自分が座っていた椅子の上だ。
「おらぁっ!」
 そちらを向こうとした瞬間、何かが背中に覆い被さってきた。
「浩之っ!」
「こいつで!」
 浩之の腕が――右が横になって真正面から喉に――左が縦になって耕一の後頭部を前に
押す形に――。
 スリーパーホールド。
 裸絞め。
「どうだあ!」
 こいつで落とせばどんな勝負も終わりだ。
 気絶してしまえば、した方の負けだ。
「があああっ!」
 浩之が全力を込めて絞める。
「おあああああああっ!」
 声帯が血を噴くような声を上げた。
「っ! ――!」
 遂に肺の中の空気を全て吐き出して声も出なくなった。
 浩之が呼吸するのを止めた。
 正確には吐き尽くした。
 あとは吸うだけだが、そんなことをすれば僅かにとはいえ腕の力が緩む。
 冗談ではない。
 その僅かな緩みから耕一が――勝利が――逃げてしまうかもしれないではないか。
 息を吸えない。
 吸ってたまるか。
 そんなことする暇があったら腕に力を――。
 より、大きな強い力を――。
 浩之っ!
 耕一は教えてやりたかった。
 それが、利敵行為であろうとなんであろうと。
 こんな必死になっている浩之に教えてやりたかった。
 だが、そんなことをするわけにもいかない。
 そんなことをしたら、極まってしまう。
 少しでも顎を動かしたら極まってしまいそうなのだ。
 そう――。
 浩之の裸絞めはまだ極まっていなかった。
 耕一が僅かに、ギリギリのところで顎でガードしていた。
 息が苦しいには苦しいが、落ちるほどの絞め付けではない。
 そうとも知らずに――。
 この、力の入れようは浩之が極まったものと思い込んでいる証拠だ。
 浩之っ!
 極まってないんだよ!
「――! ――!」
 もう肺の中に何も残っていないはずなのに、それでも何かを吐きながら耕一の首を絞め
ようとしている浩之が哀れでならなかった。
「――! ――!」
 浩之が声なき声で叫びながら力を振り絞る。
「――! ――!」
 耕一が声なき声で呼びかけながら耐えている。
 浩之の頭には何も無かった。
 耕一の首を絞める?
 耕一を落とす?
 そして……。
 勝利?
 そんなものすら無かった。
 力を出し切ることしか無かった。
 こいつは……。
 浩之のそんな気持ちは耕一に痛いほどに伝わってくる。
 こいつは……。
 お前は、なんのために。
 目的を忘れて息を吐き尽くし、血を吐くような顔で、なんのために……。
 お前の気持ちが痛いほどにわかる。
 わかればわかるほど痛い。
 いっそ、お前がただの憎たらしい奴だったらな……。
 おれもこんな気持ちには……。
 だけど……容赦はしないぞ。
 手を差し伸べたりはしない。
 だろ?
 お前が気付いていないのならそれに最大限に付け込むだけだ。
 だろ?
 耐え切れない圧迫じゃない。
 このまま永遠に力を加え続けることは不可能だ。そうなれば、いつか必ず絞め付けは緩
む。
 そうなったらこの腕を解いて……正面に向き合って……。
 殴る。
 殴り倒してやる。
 その時にはお前の両腕は痺れて使い物にならないはずだ。
 いい加減に、そろそろ限界だろう。
 ほら……。
 ぷつっ、と張り詰めた糸が切れるみたいに……。
 ぷつっ――と。
 浩之の両腕からの圧迫が消え失せた。
「よし!」
 腕を解いて、正面から向き合って、殴る。
 殴――。
「?……」
 あまりに力が無い。
 ぐったりと、ぐにゃりと、背骨を抜き取られたみたいな浩之。
「お前……」
 ぐったりと――。
 ぐにゃりと――。
「まさか、落ちて……」
 浩之は落ちていた。
 気を失って、その身を耕一に委ねて眠っていた。
 息を吸うことを拒否し続けた結果だ。
 人間が落ちる時とは「呼吸ができない」状況下である。
 首を絞められてその道を断たれる、若しくは水中のような酸素の存在しない環境下に置
かれる。
 そういった状況において、人間は落ちる。
 だが、こいつは……。
「お前は……」
 自らの意志で呼吸をせずに落ちたのだ。
「無茶しやがって!」
 叫んだ耕一の声が、出来の悪い子供を叱る親のそれに似ていた。
 そこに酸素があれば……その道が通っていれば……人間とは呼吸をする。
 意思がするのではない。
 本能がするのだ。
 それを……。
 こいつは……。
 意思が本能を押さえつけた。
 意思が本能を貫いた。
 意思が本能を阻んだ。
 常人にできることではない。
 凄いことだ。
 そして、浩之は落ちている。
 その凄まじい酷烈な作業の代償が、気絶。
 なんなんだ。
「浩之」
 耕一が不安そうな顔で声をかける。
 肩を揺する。
 ゆっくりと浩之の腹が上下し始めた。
 外側からの何らかの力を受けて落ちたのではないから、意思が消えれば身体は自然と呼
吸を始める。
「おい、浩之」
「……」
 浩之の目が細く開いた。
 下方から走ってきたその右拳に耕一の顎が揺れた。
「浩……」
「ぬぎゃっ!」
 左で、また揺らした。
 耕一の体が後ろに――どうと倒れ――背が床を叩いた。
「……」
 残された浩之が呆然と辺りを見回す。
 わけがわからない。
 耕一が倒れている。
 自分の裸絞めでそうなったのではないことはよくわかる。
 微かに拳に残る感触。
 自分のこの拳が殴って倒したのだ。
 無意識の内にやったのだ。
 なんだか、わからなかった。
「あ……」
 わからない。
「ああ……」
 勝利か?
「あああ……」
 これは勝利なのか?
「ああああ……」
 こんなのが勝利なのか?
「あああああ……」
 これが? 本当に?
「ああああああ……」
 耕一が倒れて……おそらく気を失っている。つまり、勝利か?
「あーあーああーあーあー……」
 こんなのが勝利?
「あーあーあぁぁぁ、おぉぉぉぉぉぉ……」
 勝利ってのは、もっと鮮烈で――。
「あぁぁぁぁぁぁ! おぉぉぉぉぉぉ!」
 おれが勝者!?
「んんんんんんんんんんんんっ!」
 こんなのが勝者の気分なのか!?
「うあああああああああああああああ!」
 咆哮。
 うあ、おあ、あお、いう、いあ、いえ、おえ、うお。
 あらゆる声が連続して放たれ奇怪な重奏を為していた。
 これが――勝者の咆哮!?
 ドアノブが静かに回った。
 恐る恐る、人の顔が覗いた。
 緒方英二であった。



     第105話 倒


「……」
 その後ろから幾つもの声がする。
「どうなってますか?」
「浩之の声ですよね、これ?」
「勝負がついたんですか?」
 それに答えず英二はドアを開けて中に入った。
「藤田くん」
 歩み寄っていった。
 後ろから何人もの足音が追ってくるが気にもならない。
 視界がぼやける。
 おれが、涙!?
 無様に負けてもそんなものは流さなかったのに、なぜ今!?
 この青年の奇妙な咆哮が、一体自分の涙腺にいかなる効果を及ぼしたというのだ。
「藤田くん……」
 呼び掛けた。それがこの吠え続ける男の耳に届かぬのを承知の上で。
「君の、勝ちか」
 正直、意外といった表情であった。
 柏木耕一に勝利するとは……。
「おれの……」
 浩之がいった。
「勝ち?」
「そうじゃないのか?」
「こんなのが勝ち?」
「どんなのだっていうんだ」
「おれが気付いたら、耕一さんが倒れてて……こんなのが勝ち?」
「……」
 英二は無言で耕一の方に歩み寄って行った。
 耕一が上半身を起こしていた。頭を横に振っている。
「一体……何が?」
「はは、やられました」
 耕一の声に引き付けられるように浩之が身体ごとそっちを向いた。
 耕一は手短にことの経緯を話した。
「やられました」
 心底、そう思っている顔でいった。
「油断しました」
 油断する方が悪い。
 油断は敗北に直結する。
 耕一は敗者であった。
 闘いの渦中にあって油断した敗残の身であった。
 浩之は勝者であった。
「てめえぇぇぇ!」
 勝者が、叫んだ。
 敗者のように叫んだ。
 耕一が立ち上がっていた。
 とても敗者に見えない穏やかな顔で――。
「畜生っっっっ!」
 浩之が腰を落として身構えた。
 とても勝者に見えない険しい顔で――。
「どうして油断するんだよっっっ!」
 叫んだ。
 駈けた。
 耕一に向けて――。
 全身を一個の弾丸と化して――。
 右拳が打ち出された。
 耕一の左頬を打つ。
 左拳が唸った。
 耕一の右頬を打つ。
「油断するんじゃねえよお!」
 右足が耕一を打つ。
 左足が耕一を打つ。
「なんで! なんでっ! なんで油断するんだよっ!」
 叫びが耕一を打つ。
「こんなの……」
 悔しさが耕一を打つ。
「こんなのじゃ……」
 涙が耕一を打つ。
「胸張って行けねえじゃねえかよぉぅ!」
 浩之が耕一を打った。
「ごめん」
 耕一がいった。
 右足が旋回した。
 右のミドルキック。
 浩之の左脇腹に吸い込まれるように――。
 強風に吹き千切られた木葉よりも脆く、軽く、儚く――。
 浩之の身体が飛んでいた。
 壁に激突するまで飛んだ。
「まだまだぁ!」
 浩之が立つ。
 凄まじい激痛が脇腹を砕いているはずだ。
 だが、立った。
 向かっていった。
 走った。
 飛んで――。
 蹴った。
 痛いはずだ。
 痛くないはずがない。
 それでも――。
 蹴った。
「しッ!」
 耕一が腕を振って浩之の足を弾いた。
 浩之が頭から床に落ちた。
 落ちた次の瞬間には手を床に付いて逆立ちになり、耕一の顔を蹴った。
「ぐっ!」
 耕一の顔に蹴りがモロに入った。
「ぬあっ!」
 浩之が拳を振る。
「おおぅ!」
 耕一が拳を振る。
 拳と拳。
 交錯。
 脚と脚。
 交錯。
 頭と頭。
 交錯。
 肘。
 交錯
 膝。
 交錯。
 意思。
 交錯。
 己。
 交錯。
 全てが――。
 交わり――。
 浩之が倒れた。
 耕一が倒した。
 倒れた浩之が立ち上がる。
 倒した耕一がロッカーに手を付いて我が身を支えながらそれを待つ。
 立ち上がりざま浩之が突っ込む。
 迎え撃った耕一がパンチをかわされ顔に肘を貰う。
 浩之が続けて頭突き。
 耕一が目突きで牽制。
 浩之が怯んで顔を退く。
 耕一が頭突き。
 額で、浩之の顔を打つ。
 喰らった瞬間、浩之の左手が伸びる。
 耕一が退いた。
 コンマ5秒遅ければ右耳を掴まれていた。
 浩之が追う。
 左手を伸ばしてそれで目を突く。
 耕一がさらに退いてかわす。
 浩之の右拳が左手と入れ替わりにやってくる。
 耕一の顔を捕らえる。
 めち。
 耕一が自らの意思によらずして後ろに倒れていく。
 浩之、追撃。
 下方から、何かが来た。
 不可視の何か。
 あれだ。
 例のやつ。
 臓物を鷲掴みにしたあれ。
 顔を断ち割られるような凄まじい感覚が先行してやってきた。
「ちぃっ!」
 舌打ちしながら退いた。
 後ろによろめきながらの真上への蹴り。
 耕一が、右足を打ち上げたのだ。
 天を臨む蹴り。
 天を貫く蹴り。
 天を臨むに値する蹴り。
 天を貫くことが可能な蹴り。
 そいつが天に向けて――。
 浩之の目の前だ。
 縦に空気を割った。
 浩之の前髪が逆立って揺れる。
「っあ!」
 浩之が再び前へ――。
 上から!
 畜生!
 浩之の顔が苦渋に塗れ――。
 信じられない早さで耕一の右足が帰って来る。
 地へ打ち下ろされる踵。
 地を割るに値する踵落とし。
 落雷。
 ごお、と空気を騒がせ。
 雷が落ちてきた!
 誇張でなしに浩之は思った。
 急停止。
 できるかどうか!?
 するんだ。
 できねば……。
 死ぬかもしれねえ。
 目の前を駈けるなんとか足に見えないこともない物体。
 前髪がさらわれて額につく。
 汗に濡れた額にぴったりと貼り付いた。
 この短い時間に二度、寿命が縮んだ。
 白髪が増えたんじゃないか。
 そう思わせる天地を砕くような二撃。
 だが、当たっていない。
 すっげえけど。
 当たらなかった以上、ただの大振りな外れだ。
 怖がることは無い。
 この人がこれぐらいやるってのはわかってたことじゃねえか。
「おらっ!」
 浩之が前へ――。
「おう!」
 体勢を立て直した耕一も前へ――。
 前へ――。
 浩之の右――。
 耕一の左――。
 擦れ違い――相打つ。
 二人の顔が音を立てる。
 二人がよろめく。
 二人が後ろに泳ぐ。
 二人が体勢を立て直す。
 二人が、前へ――。
 前へ――。
 そちらにしか行けないかのように、前へ――。
 殴る。
 蹴る。
 叫ぶ。
 そして、泣く。
 細い流れが、目尻から頬へと――。
 殴。
 蹴。
 叫。
 そして、泣。
 繰り返し。
「楽しいな」
「はい」

「止めて止めて……誰か止めてよ」
 あかりが、部屋の隅で震えていた。
 志保が強く抱き締めるが収まらない。
「あかり……あかり……あかり……」
 何度も呼びかけ、その度に続ける言葉を失う。
「長瀬さん」
 志保の視線の先に長瀬源四郎がいた。
「これも、止められないんですか?」
 詰問調であった。
 明らかに責めていた。
 この状況で、これを止められる力を持ちながらそうしない源四郎をだ。
 自分にそんな力があったら止めているのに。
「申し訳ありません」
 源四郎は志保にそう答えながら、魅せられたように浩之と耕一を見ていた。
「お兄ちゃん……大丈夫かな?」
 初音が恐る恐る尋ねる。
 二人の姉は無言。
 大丈夫なわけがないということが嫌というほどわかった。
 梓が、楓の手を取った。
 楓が、初音の手を取った。
 一人では耐えられそうになかった。

 浩之の血が、床に落ちた。
 耕一の血が、床に落ちた。
 二人の血が、床で混ざった。
 赤い色が濃くなったかのように見えた。
 その血溜まりを踏みつける。
 踏みつけながらも傷口から血を流す。
 血を流しながら、新たな傷を作り合う。
 なんのために――。
 そのような考えが入り込む余地も無かった。
 こんなことをしてなんになる――。
 余地、無し。
 ぴちゃ。
 ぴちゃ。
 ぴちゃ。
 血を踏む度に音が鳴った。
 血の池で全身を朱に染めてのたうつ罪人のようであった。
 その罪人が二人で何かの罰を受けているかのように闘い合っているように見えた。
 少なくとも、それを見ている人間にはそう見えた。

「ねえ」
 志保は声をかけられた。
 泣きじゃくるあかりを抱き締めながら、志保は顔を声の元へと向けた。
 梓が、困惑した笑みを浮かべながらそこにいた。
 梓の手は楓の手を握っていた。
 楓の手は初音の手を握っていた。
 初音の手は梓の手を握っていた。
「あたしらも仲間に入れてくれないかな?」
 志保が、三人に向けて手を差し出した。

 五分。
 浩之が落ち、耕一が落ち、二人の常軌を逸した闘いが始まってからそれだけの時が刻ま
れた。
 空を切り裂く速度は色あせていた。
 力も、目に見えて衰えていた。
 午後過ぎから試合場で三試合。
 それから、ここで闘い、ペース配分もクソも無い全力の喰らい合いを始めて五分。
 当たり前だ。
 ここまでやって力も速さも判断力も鈍化せぬはずがない。
 打つ。
 打って。
 打ち。
 打たれて。
 打。
 鉄を舐めているような口の中。
 血を何度も飲み下した。
 少し距離を取った。
「浩之」
 耕一がいった。
「楽しいか?」
「いや、全然」
 苦笑を交わす。
 疲労が、苦痛が、既にこの闘いを楽しむ余裕などとうに奪っていた。
 楽しくもなんともない。
 疲れるだけだ。
 痛いだけだ。
 苦しいだけだ。
 辛いだけだ。
「止めるか?」
「ははっ」
「ははっ」
「ははっ」
 同じ声で笑う。
「今のは、忘れてくれ」
「はい」
 ゆっくりと前へ――。
 二人とも、前へ――。
 打。

「よくやるな……」
 ドアのところに、柳川裕也が姿を見せていた。
 それを押し退けるようにして月島拓也が入ってきた。
「おお」
 肉が肉を打つ音。
 骨が骨を打つ音。
 肉が肉を削る音。
 骨が骨を削る音。
 素晴らしき名曲を聴いたような恍惚とした顔で、拓也は数歩前に出た。
 緒方英二の横に立った。
「僕は……この二人大好きです」
「おれだってそうだよ」

「しゃッ!」
「けぇい!」
 打。

 止めたい。
 止めたくてしょうがない。
 もう眠りたい。
 もう殴りたくない。
 もう殴られたくない。
 もう傷付けたくない。
 もう傷付けられたくない。
 嫌で嫌でしょうがない。
 なんだって自分はほんの少し前まで、こんなことを楽しいと思っていたのだろうか。
 もう血を飲みたくはない。
 もうこの大好きな男の血で自分を染めたくはない。
 もう――嫌だ。
 止めたい。
 止めたくてしょうがない。
 止めたからって誰も文句はいえないはずだ。
 止めたい。
 もう眠い。
 打。
 痛。
 血。
 嫌だ。
 でも、止められない。

 おれは死ぬかもな。
 浩之の、実感である。
 リアルに形を持ったような「死」が両翼で自分をすっぽりと覆ってしまおうとしている。
 耕一さんに殺される。
 違うな。
 自分で死ぬんだな。
 そうだ。
 これは、自殺だ。
 緩慢な、自殺。
 悔の無い――。
 ありがとう、耕一さん。

 おれの中にこんなものが。
 耕一の、実感である。
 自分の中に存在し、今、血塗れで踊っている闘争本能に自分で戸惑っている。
 ヤツじゃない。
 これは、違う。
 おれの中に、ヤツじゃない、こんなものが――。
 そうか。
 ヤツはもうすっかり眠っていたんだな。
 おれが恐れていた影は――。
 おれか。
 結局、こいつもおれの中にいたおれ。
 おれだったんだな。
 今まで、ごめんな。
 無理に押さえつけちまったな。
 おれなのに……お前もおれなのに……。
 これからは、お前も、おれで――。
 浩之に感謝しないとな――。
 ありがとう、浩之。

 ありがとう。
 打。
 本当に、ありがとう。
 痛。
 お前がいなければおれは――。
 あんたがいなけりゃおれは――。
 倒。

 浩之が倒れた。
 耕一の右のフックが顎を横から叩いたのだ。
 振りぬいたフックだった。
 振りぬきすぎて回った。
 足がもつれて、倒れた。
 耕一が倒れた。
 浩之が立ち上がろうとする。
 耕一が立ち上がろうとする。
 立ち上がれない。
 それだけの力が足に残っていない。
 手を床に付いたまま突進する。
 ふらふらと泳いでぶつかった。
 闘うだけの力がどこにも残っていない。
 残り無し。
 全て使い切った。
 残っているのは、命だけであった。
 二人とも動かない。
 誰がいうともなく、誰もが二人に歩み寄っていった。

 雅史がいた。
「もういいよ、もう勝ちとか負けとかもういいじゃないか」
 勝ち? 負け?
 なんだ、それは?
 なんだか、そういうもののために闘っていたんだっけか。
「浩之ちゃん、浩之ちゃん、浩之ちゃん、浩之ちゃん」
 あかりだ。
 泣いてる。
 相変わらずだな。
「あかり……腹減っちまったよ」
 いや、その前に眠いな。

「おい!」
 なんだよ、梓、泣いてんのかよ。
 まいったな……。
 そういや、あれだ。
 全然部屋掃除してないんだよ。
「耕一、もういいだろ? もうどっちが勝ちも負けも無いよ」
 ああ、そうか。
 勝つために闘ってたんだな。
 負けないために闘ってたんだな。
 そうだったな。
「心配かけたね」
 楓ちゃんの手を取る。
 初音ちゃんの手を取る。
 ごめんね。
 もちろん、梓もな。
 ……。
 ちょっと、寝かせてくれないか。

「無理か」
 柳川がいった。
「さすがに」
 拓也がいった。
「お前がそういうのならそうなのだろうな」
「これ以上できないこともないでしょうが……」
「壊れるな、二人とも」
「ええ」
「お前なら、続けるか?」
「相手があなただったら……或いは」
 にいっ、と笑った。
「初めから見ていないのでなんともいえませんけど……」
「ああ」
「これは……闘いだったのでしょうか」
「……闘いであることに間違いはあるまい」
「でしょうね。でも……二人とも勝利を得るのに非効率的なことばかりしていました」
「ああ」
「勝者と敗者を決めるのが闘いでしょう」
「……」
「あれは闘いではなかったのでは?」
「よくわからん……ただ、こいつらにしかできない……違うな」
「……」
「こいつらしかこんなことはしないだろうな」
「そうですね……でも……」
「ああ」
「僕とあなたとだったら……或いは」
 にいっ、と笑った。
「さあな」
 柳川が背を見せた。
「行くんですか?」
「人を待たせているんでな」
「また今度」
「いや……ああ、また今度な」

 英二が何かを呟いている。
「どうしたの? 兄さん」
「理奈か」
「何をブツブツいってるのよ」
「あの二人の闘いを見ていたらいい曲が浮かんだんだ」
「そうなの?」
「ああ、レコード大賞確実のやつ」
「へえ」
「由綺のはこないだ書いたばかりだから、これはお前の、って思ってたんだ」
「うん」
「でも……」
「何?」
「忘れた」
「は?」
「二人が倒れた瞬間、全部忘れた」
「……しょうがないわね」
 理奈が、苦笑する。
「誰も信じてくれないだろうけど……絶対、絶対に凄い名曲だったんだ」
「ふうん」
「惜しいことをした」
「残念だったわね」
「おれは……なんてことだ」
「どうしたの?」
「また、あそこに行きたいと……」
「いいんじゃないの?」
「そうかな」
「兄さん、懲りない人だもん」
「そうかな」

 汗を握り締めていた手を開いた。
 葵が大きく溜め息をつく。
「なんだか羨ましいわね」
 綾香がいった。
 源四郎が沈黙したままその後ろに控えていた。
 芹香は浩之のところに行っている。
 「痛さの無くなるおまじない」のためだ。
 好恵が部屋を出た。
「好恵!」
 呼び止めながら綾香が後を追い、葵がまたその後を追った。
「もう帰るの?」
 廊下にいた好恵が振り返った。
「帰って、稽古だ」
                                     続く




一つ前へ戻る