鬼狼伝










     第20話 桐生崎

「おーっす。先輩まだ来てないな!」
 空手部の一年生の前原が慌てた様子で道場にやってきたのは授業が終わってから二十
分ばかり経った頃であった。
「おせぇよ!」
 同級生から声がかかる。道場の掃除はほぼ終わっていた。今日は女子も一緒なので、
早く終わったようだ。
「わりぃわりぃ」
 前原が頭を掻きながら入ってくる。
 まだ、先輩は一人も来ていない。後輩が道場を掃除しておくことになっているので、
先輩は大体ゆっくりとやってくる。
 前原が道場中央の辺りまで来た時、扉が開いた。
 もう、一年生は全員集合している。
 当然、先輩の誰かだろうと皆は思った。
「押忍!」
「おう」
 声に迎えられて、藤田浩之は鷹揚に頷いた。
「全員揃ってるかあ?」
 正規の部員のような顔でズンズン入ってくる。
 この男──空手部とはやや因縁のある人物である。
「磯辺は……いねえのか? 一応、あいつに話通しとこうと思ってんだけどな」

 葵と会って話していたためにだいぶ遅れてしまった。
 最近、綾香がどういう練習をしているかとかいう話になると、ついつい聞き入ってし
まう。なんといっても、来栖川綾香は彼女にとって宿敵の一人である。
 坂下好恵は急ぎ足で道場に向かっていた。
 真面目な後輩たちなので、自分が行かなくても準備運動を始めているだろうが、それ
にしても主将があまり大きく遅れるのは問題だ。
「おう」
 急いでいる好恵を呼び止める男がいた。
「あ、押忍……」
 好恵は神妙に頭を下げた。
 男は、ごつい顔に無表情を貼り付けて立っていた。
 背はそんなに高くないが、制服を着ていてもその下に息づく筋肉の存在がわかる。
 その顔と合わせて見れば、この男に喧嘩を売るような人間は校内にそうはいないだろ
う。
「今日、あとで顔出すからよ」
 それだけいって、男は道場とは逆の方向に去っていった。
 好恵は大きく息を吐き出し、去っていく背中に向けて一礼してから道場に向かった。
「うぎぃぃぃぃぃぃぃ!!」
 道場の前に来るとそんな悲鳴が聞こえた。あまり部活中に聞いたことがない質の声だ。
どちらかというと、打撃によるものではなく、関節技でキリキリと関節を極められた時
に発される類の声だ。
「関節技の練習でも始めたのか?……」
 好恵は首を傾げた。誰かがふざけて関節技をかけているのだろうか?
 そういえば、ここ最近、好恵が来栖川綾香と松原葵と闘うためにエクストリームに出
場するそうだ。などという噂があって、好恵当人が否定しているのに収まる気配が無い。
「エクストリームかあ……あれに出るとしたら立ち技だけじゃなくて寝技もできないと
駄目だよなあ」
 などと男子空手部の面々がいっていたような気がする。
 エクストリーム目指しての練習でも始めたのだろうか?
 好恵は、扉を開けた。
「いだだだだだだっ!」
 叫び散らしているのは一年生の前原らしい。
 その前原に腕ひしぎ十字固めを極めているのは、浩之だった。
「なにやってんのよ」
「よっ、坂下」
 技を解いて浩之がいった。が、刹那の間を置いて前原をひっくり返して脇固めを極め
る。
「あだだだだだだっ!」
「ちょっと協力してもらってんだ。磯辺の同意は得てる」
 磯辺とは、男子空手部の主将だ。
 その磯辺は、道場の隅で他の連中と一緒に輪になって何やら話している。
「どうすんだ。すっかりあいつに仕切られてんじゃねえか」
「お前、主将だろ、なんとかしろよ」
「どうしろってんだよ、あの野郎、おれたち五人がかりでも勝てるかわかんねえような
奴だぞ」
「下手に刺激したら報復が怖いしな……」
「押忍、今、考えついたことなんっスけど」
「おう、なんだ?」
「前原を生贄に差し出すというのはどうでしょうか?」
「おお」
「それは……なかなか……」

「今、おれの名前呼びませんでしたかぁ!!」

「いや、呼んでないぞお」
「関節極められてるのによく聞いてるな……あいつ」
「よし、そんじゃ前原には悪いが……」
「あんたたち」
 好恵が声をかけると車座が一斉に散開した。
「な、なんだ。坂下かよ」
 磯辺が目を見開いていった。
「どういうことなの?」
 つまりは、いきなり浩之がやってきて、自分の寝技の練習台に空手部員を使っている
のだという。
「ま、知らねえ仲じゃねえしよ、協力してくれんだろ、ん?」
 にっこり笑って、目だけは笑わずにいう浩之に磯辺は抗しきれずにろくな部活動もで
きずに現在の状況に至っているらしい。
「お前の方からなんとかいってくれよ、坂下、藤田と仲いいんだろ」
「誰がいったんだよ、そんなこと……」
 好恵は、浩之との接触はほとんど葵と綾香を介したものでそれほど仲がいいというわ
けではない。もちろん不仲ではないが、かなり浅い関係の知り合いに過ぎない。
「自分でなんとかしなよ、情けないな」
 磯辺は、好恵から目を逸らして頭を掻いた。
 この男もそれほどに情けない男ではないと好恵は思っているが、話によると磯辺たち
は先日、浩之にほとんど一方的に負けており、そのことが男子空手部一同に浩之に対す
る苦手意識を植え付けてしまったようだ。
「桐生崎(きりゅうざき)さんがあとで顔出すっていってたよ」
「……な!」
「ま、マジか!」
 色めき立った磯辺たちがまた車座を作る。
「ど、どうすんだ!」
「この体たらくを見られたら……」
「殺されるかもな……」
「ここはだな、前原を生贄に差し出してどっか別んところに行ってもらってだな」
「おうい、磯辺」
 足下にぐったりとした前原を見下ろして、浩之が磯辺を呼んだ。
「お、おう、どうした?」
「こいつ、もう駄目だわ、誰か変わってくれよ、ちょっと別のことやりたいんだ」
「こ、今度はなんだ?」
「いやぁ……どの程度首を絞めたら人間は落ちるのかを知っておきたいんだが……」
「!!……」
「なあ、誰か……」
 その時、扉が開いた。
 まさか!
 磯辺らは絶望的な思いで開いた入り口を見た。
「やってるか……」
 その男は、低い声でいった。
 それほど背が高いわけではない。浩之よりやや低いだろう。
「なにしてんだ?」
 棒立ちになっている部員を見ながら、その男はいった。
 ごつい顔を左右に振った。
「全員揃ってるようだな」
「押忍!」
「桐生崎さん、お久しぶりです!」
 磯辺が、腰を直角に曲げて叫んだ。
「お久しぶりです!」
 他の連中も同じように叫んだ。
 一人だけ背筋を伸ばして突っ立っている浩之は当然目立つ。
 桐生崎と浩之の目が合った。
「お前……新入部員か?」
 桐生崎の視線の先に、浩之がいた。
「え、ええっと、こいつはですね」
「二年の藤田浩之っス、部員というわけじゃないです」
 磯辺が何かいおうとするのに先んじて浩之がいった。
「部員じゃない?……」
「はい、ちょっと練習に付き合ってもらってたんですよ」
「ほう」
 桐生崎の顔色を伺う後輩たちには目もくれずに、その視線は浩之を真っ正面から捉え
ている。
「去年まで主将をやっていた三年の桐生崎だ」
 にこりともせずにいった。
「藤田浩之か……聞いた名だな」
 やはり、にこりともしない。
「そんなに有名ですかね、おれ」
「空手部と喧嘩した奴だろう」
 特に表情に変化は無い。
「へえ、知ってたんですか」
「二年生が全員停学になんてなったらその原因を調べてみるさ」
 桐生崎がチラリと向けた視線に磯辺たちが硬直する。
「じゃあ、全部知ってるんですね」
「ああ、お前が停学明けのあいつらに復讐したこととかな」
 硬直したまま冷や汗を流し始めた後輩たちをさっと一瞥して、桐生崎はいった。
「もう、仲直りしたのか」
「はいはい、もう、頼まれたらいやといえない仲ですよ」
「それはよかった」
 そういって、桐生崎は初めて笑顔を見せた。
「藤田……一手、試合おうか?」
 笑顔のままいった。
 磯辺たちだけでなく、好恵までもが目を見開いて浩之の口元を注視した。
 浩之の口が開いた。
「いいですねえ、やりますかあ」
 左の掌に右拳を打ち付けて浩之はいった。全身が瞬時に躍動を始めたように見えた。
「嬉しそうにいいやがるな」
「そうっスかあ?」
「ルールは、フルコンタクト制の空手ルールでいいか?」
「ええっと、拳で頭とか顔とか殴るのは無しってやつですか?」
 桐生崎は頷いた。フルコンタクトと呼ばれる非寸止めの空手の大会などで一般的に使
われているルールである。
「なんの遺恨も無いんだ……潰し合いにはしたくない」
 桐生崎は本気でそう思っているようであった。
「いいですよ、それで行きましょう」
 浩之とて、月島拓也という男との闘いをそう遠くない未来に行うつもりである。ここ
で大怪我をするのは避けたいところだ。
 桐生崎は制服の上着を脱いで道場の隅に放った。浩之の方は道着のズボンに黒いTシ
ャツを着ていて既に戦闘態勢だ。
「時間は三分……磯辺、審判やれ」
「押忍!」
 磯辺が腕時計を取って来るまで、浩之と桐生崎は互いに探るように見合っていた。相
当の実力者であろうと浩之は桐生崎を値踏みした。
 おそらく、磯辺よりは数段レベルが上だろう。
 問題はフルコンタクトルールということは、すなわち、寝技や関節技の類は無しだと
いうことだ。
 さらに、拳で頭部を殴れないので頭部にダメージを与えるには足を蹴上げて蹴打せね
ばならないということだ。
 と、なると、KO率は確実に下がる。
 ローで下半身を攻め、隙を見て上段蹴りを叩き込むか……。
 浩之が思案をまとめた頃、腕時計を持った磯辺がやってきて二人の間に立った。
「それじゃ……時間は三分……構えてっ!」
 磯辺が右に左にと視線を転じて二人が構えたのを確認する。
「始めっ!」
 磯辺が叫んで、後ろに下がり……浩之と桐生崎の間には何も邪魔するものは無くなっ
た。




     第21話 酌み交わす

 様子見の右のローキック。
 浩之の右足が低空で飛ぶ。
 桐生崎の左膝が上がり、スネでブロックする。
 それが着地すると同時に桐生崎も右のローを放ってきた。
 浩之の左足の腿が音を立てる。
 もう一度来た。
 もう一度鳴った。
 もう一度来そうだった。
 浩之はそれに備えた。
 前に出て正拳を胸部にぶち込む。
 そのつもりだった。
 桐生崎の右足がローキックを放つ。いや、ややローというには上の……ローとミドル
の間ぐらいの位置の蹴りだった。
 そう見えた。
 それが瞬時にして上段回し蹴りに変じて頭部を襲ってきたのは次の刹那であった。
 左手で防いだ。少しでも左手を上げるのが遅れていたら側頭部を蹴り抜かれていただ
ろう。
 しかし、防いだといっても完璧にではない。不意をつかれただけにガードに使用した
左手にそれほど力が籠もっていなかった。
 押されて浩之は上半身を大きく右に逸らした。
 浩之の右手が桐生崎の眼前を横切って彼の右の膝裏に掛かった。
 一瞬後、その手が離れた。
 桐生崎の右足が下がると同時に左拳が打ち出された。それを横から浩之の右手が弾く。
 すぐに右拳が来た。
 脇腹の辺りを狙ったそれを体をずらしてかわす。
 浩之と桐生崎の体が激しく接触し、その衝撃ですぐに離れる。
「!!……」
 桐生崎が気付いた時には、浩之の左手に右手首を掴まれていた。
 ぱっ、と浩之の手が離れる。
 互いに距離を取り合い、睨み合う。
「ラスト、一分!」
 磯辺が叫んだ時、二人は同時に前に出た。
 凄まじい打ち合いになった。目まぐるしく拳が交換され、時折、足が跳ね上がる。
 好恵も、磯辺も、他の誰も何もいわない。
 肉と肉が──鍛えられた肉と肉が激突する音だけが妙に澄んだ音で響いていた。
「それまでっ!」
 磯辺がそういって二人の間に割って入った時には、双方、息を切らしていた。ルール
の性質上、顔は綺麗なものだが、服の下の体はアザだらけになっているに違いない。
「坂下ぁ、タオル取ってくれよ」
 好恵の足下に浩之のカバンが置いてあり、その上に一枚のタオルが被さっている。好
恵はそれを手に取って、浩之に向かって投げた。
 浩之は受け取ったタオルを額に当てた。
 こいつ……ここまでやるとは……。
 好恵は戦慄をもって、汗を拭っている浩之を見やった。
「あんた、なかなかやるね」
 タオルを顔を拭いている浩之に、好恵がいった。
「あん? やるのは前からわかってただろうが?」
 浩之がぬけぬけといってのける。
「桐生崎さんとまともにやり合えるほどだとは思ってなかったよ」
 桐生崎の名を聞いて、浩之の表情に真剣味が差す。
「やっぱ、あの人やるんだな……」
「ああ、一年の時にそこそこ大きい大会で優勝したことあるらしいからね」
「へえ」
 浩之が桐生崎の方を見ると丁度、こちらに向かってくるところだった。
「お前、やるなあ」
 ごつい顔が少しだけ綻んでいる。
「おれは大会に出た時に荒っぽいっていわれたんだけど……お前、まともに打ち合って
きたもんなあ」
 確かに、荒っぽい闘いだった。これで拳による顔面攻撃がありのルールだったら、今
頃どちらの顔も見れたものではなかっただろうし、どちらかがKOされていたに違いな
い。
「まあ、大会で判定になったら僅差でおれの優勢勝ちだろう……ルールに助けられた勝
ちだが……」
「はあ」
「お前、何度かおれの関節取ろうとしただろう」
「あれ、気付きました?」
「ああ……おれはほとんど関節技の知識は無いからな、寝技、関節技がありのルールだ
ったらお前の勝ちだっただろう」
「いや、そうとは限らないっスよ」
「藤田ぁ……」
「はい」
「なんか食いに行くかぁ」
「は、はい」
 よくわからんが、気に入られてしまったらしい。
 浩之が着替えている間、桐生崎は磯辺たちと何か話していた。
「ども、お待たせしました」
「おう、藤田」
 そういった桐生崎の背後に並んでいる連中が揃いも揃って意気消沈しているのが一目
でわかった。
「これからも時々、こいつらに稽古つけてやってくれや」
「あ、はい」
「んじゃ、行くか……おめえら、ちゃんと練習しとけよ」
「押忍!」
「お疲れさまでしたぁ!」
 相変わらず、腰を直角に近い角度で曲げて磯辺たちが叫ぶ。よほどこの桐生崎という
のは恐れられているらしい。
「主将だった頃は、随分あいつらをしごいてやったからな」
 と、道を歩きながら桐生崎はいった。
「ま、あいつらも、根性は人並み以上にあるんだ。部を辞めなかったんだからな」
「はあ」
「しかし、磯辺の野郎は素質は悪かないんだが、ちぃと甘いな」
「はあ、そうっすかねえ」
 と、話しながらも桐生崎は浩之の半歩前を進んでいく。なんでも行きつけの店に連れ
ていってくれるらしい。
「ここだ」
 学校からそう遠くは無い駅前であった。浩之は徒歩通学だが、電車通学をしている生
徒のほとんどがその駅を使っている。
「ここっすか?」
 俗にいう、ガード下にある飲み屋だった。看板の文字が掠れてしまっていて店名がよ
くわからない。

「ま、飲めよ」
「あ、ども」
 桐生崎がビール瓶の口を突き出してきたので、浩之はコップを、泡が立たぬように傾
けて出した。
 コップ越しに冷たさが伝わってくる。
 凍って固体化するギリギリ寸前のように冷たい。
 つい先程まで汗をかいていたこともあり、そのビールが無闇に美味かった。
 そう広くない店の奥の方のテーブル席だった。二人が向かい合って座る小さな席だ。
 二人とも学生服である。店内は暖房が少し効いているので上着は脱いで、自分が座っ
ている椅子の背もたれに引っかけている。
 浩之とて、酒を飲んだことがないというわけではない。むしろ、嫌いな方ではないの
で時々飲む。
 しかし、さすがにこのような格好で飲み屋に入るのは初めてであった。
 いいんだろうか?
 と、思いつつ、冷たいビールが美味であるのは否定しようのない事実であり、早くも
浩之は一杯目を空にした。
 周りの人間は、どこかの大学の運動部とでも思っているのか、学生服の二人に特に視
線を注いでくるということもない。
 お酒は二十歳になってから! と、黄色いナレーションで注意されることもなく、浩
之は二杯目のビールに口をつけた。
 桐生崎が、日本酒の熱燗と肴を幾つか店員に頼んだ。
「ところで、さっきの話なんだが……」
 いいつつ、桐生崎が湯気の立つ猪口を口に持っていく。
「は? さっきの話って……」
「磯辺の野郎がちぃと甘いって話よ」
「ああ、その話っすか」
「一応、後輩をまとめちゃいるようだがよ、もう少しばかり怖がられるぐらいでいいと
思うんだよ」
「はあ……」
「その点、おめえはいいなあ」
「そうっすかねえ?」
 確かに、空手部の一年は自分のことをやたらめったら怖がっているが。
「素質も、磯辺にゃ悪いが、お前の方が全然上だ。藤田よ、空手部に入る気はねえか?」
「え!?」
 思わぬ桐生崎の言葉に浩之は狼狽して、沈黙した。
「おめえさえやる気なら、磯辺の奴を張り倒してでもお前を主将にしてやってもいいぜ」
「それは……」
 これはまた随分と高い値段をつけられたものだ。会ってから二時間も経っていないと
いうのに。
「すんませんけど、おれは……」
「だろうな……」
 桐生崎は、初めからわかっていたとでもいうように、納得した表情で頷いた。
「お前のやりたいことは『空手』じゃねえんだろうな」
「……はい」
「見たところ、今流行りの総合格闘ってやつだな……エクストリームとかに出ようとし
てんのか?」
「はい、その内に出場しようとは考えてます」
「でも、お前、突きとか蹴りとかの打撃技は空手に似てるな。どこかでやってたのか?」
「はい、まあ……」
 浩之の格闘技の師匠は後輩の松原葵である。その葵もエクストリームを志す以前は空
手一本をやっていたので、自然、打撃技にはその名残が濃厚であり、それは当然、浩之
にも受け継がれている。
 さらに、葵が他の道場に行くので休みになってしまう月曜と水曜にはちょくちょく家
の側にある小倉四郎(おぐら しろう)の空手道場に顔を出していたのでやはり自分に
は空手が身についてしまっている。
「お前、公式の試合には出たことないのか?」
「はい、それはまだっすねえ」
「でも、非公式なやつなら何度かやってるな……しかも、けっこうルールが無いに近い
ようなもんをよ」
「わかりますか?」
「ああ、なんとなくだけどな、お前の目とか……闘気っていうのか? とにかく、そう
いう気配とかでな……」
「そうっすか」
「おれはな……ねえんだ」
「え?」
「そういう闘いをやったことがねえんだ。こう見えても、中学生になってから喧嘩なん
てしたことがねえ」
「はあ……」
「だから……」
 桐生崎はいった。
「お前が怖かったよ」
 信じられぬことをいった。
 この空手部の連中に恐れられている男が、浩之のことが怖かったといった。
「おれが……」
「そうだよ……」
「まさか……」
「本当だ」
 桐生崎は割り箸をテーブルの真ん中に置いてある丼に伸ばした。
 先程頼んだモツの煮込みだ。
 浩之はつられるように割り箸をモツの煮込みへとやり、モツと白菜とネギをまとめて
摘んだ。
 それを口に運ぶ。
 濃い味噌味が効いていた。少し濃すぎるのではないかと思うほどに濃い。
 モツは味噌味がした。白菜も味噌味がした。ネギも味噌味だ。
 とにかく、味噌の味しかしない。
 素材の味を生かす。などという料理哲学に真っ向から反したような一品だ。
「最初の……ほら、おれが低い蹴りを上段蹴りに変化させた時、お前はその蹴りをガー
ドして、おれの膝裏を取っただろ」
「はい」
「あれ、あのままおれをうつ伏せに転がすことができたはずだ」
「はい」
「あの時にわかったのさ、こいつはおれの知らねえ技をたくさん持ってやがるってな…
…そんで、怖くなったのさ」
 一度言葉を切って、桐生崎は徳利を猪口の上で傾けた。猪口の半分ほどを満たして、
酒の流れは止まった。
「こいつがキレちまって……ルールなんて関係ねえ闘いを仕掛けてきたらどうしようか
と思ってたよ」
 そういって、飲んだ。
「意外っすね」
「そうか? でも、お前はおれを怖がっちゃいなかっただろう」
 怖がっていなかった。というわけではないと浩之は思う。現にローに近いキックがい
きなりハイキックに切り替わるような足技の上手さには戦慄を覚えた。
「以前、フルコンタクトルールの大会で、おっかねえ奴と当たっちまってなあ」
 桐生崎が遠い目でどこかを見ている。
「関節技とかは無しのルールなのに、審判の目の届かねえところで平然とやってきやが
んだよ、これが」
「へえ……」
「そんで負けちまったよ」
「……」
「あれ以来、どうも臆病になっちまってなあ」
 桐生崎が、また日本酒の熱燗を頼んだので、浩之も一緒に頼んだ。
「ところで、お前の関節技はどこで習ったんだ?」
 桐生崎が尋ねた。
「家の近くの小倉四郎って人の道場で習いました」
「小倉……四郎……?」
 桐生崎がその名を呼ぶ響きに、何か思い当たっているような様子があった。
「知ってるんですか?」
「おれが通ってる道場の先生の友人……だったと思う。おれはあまり顔を合わせたこと
はないが……」
「へえ」
「小倉道場だったら月島拓也ってのがいるだろ」
「いや、おれは会ったことないんですけど、話は聞いてます。知ってるんですか?」
「一度、大会で当たったことがある……負けちまったけどな」
「それじゃ……さっきのおっかねえ奴って……」
「月島拓也」
「……おれ、近い内にそいつとやろうと思ってるんです」
「なんだと……」
「少し、教えてくれませんか?」
「……いいだろ、なんかの足しになるかもしれねえからな」




     第22話 怖さ

 おれが一年生の時だったよ……。
 
 そろそろ混み始めたガード下の飲み屋の奥まった席で、桐生崎が話し始めた。

 十ぐらいの空手道場が主催の大会があったんだ。それが確か、一番最初の大会だった
な……そんなに歴史のあるもんじゃねえ。
 その、主催してる道場ってのにおれが通ってたとこと、小倉道場があったのさ。
 それぞれの道場から何人か出てきてよ、年齢別でよ、八人でトーナメントをやったん
だ。おれは十六歳の部に出てよ、まあ、くじ運も良かったんだがドンドン勝ち進んで…
…結局優勝しちまったんだ。
 あん時は嬉しかったよ、小さい大会でよ、それほど選手のレベルも高いってわけじゃ
なかったが、やっぱり優勝だからよ。
 おれが二年の時にも大会はあった。
 おれは十七歳の部に出場したよ。もちろん、優勝候補だっていわれて……ま、いい気
になってたのさ。去年より出場選手が増えて十六人のトーナメント戦になってたんだけ
ど、関係ねえって思ってた。優勝するのはおれだって思ってたよ。
 おれはAブロックになったんだが……トーナメント表を見て、笑い出したくなったぜ、
去年、手こずった強敵どもがさ、ゾロゾロとBブロックに雁首揃えてやがんだ。
 今年もくじ運がいいぞ。って思ったね。
 Aブロックには何人か注意しなけりゃならねえ奴らはいたけどよ、油断さえしなけり
ゃ負けやしねえと思った。中には、白帯巻いてる奴までいやがる。
 ……まさか、その白帯に負けるとは思わなかったがな……。
 一回戦、二回戦は全然危なげなく勝ったんだ。二回戦の相手はちょっと手こずるかな
と思ってたんだが、相手が堅くなってるところへ出会い頭に回し蹴りが思い切り頭に入
って一発でおしまいさ。これは今日は行けると確信した……。
 さ……こっからがおめえの聞きたい話だ。
 三回戦……つまり、Aブロックの決勝で月島拓也と当たったのさ。

 月島拓也は、一見すると格闘技とは不釣り合いな柔和な表情をしている青年であった。
 全くそれまで無名の選手であった。それもそのはずで、空手をやり始めてまだ一年程
度しか経っていないということだった。
 桐生崎が、彼のことを安全パイだと思ったのも無理はないことであった。しかし、そ
れまでの拓也の試合を観戦もせずにいたことは、明らかに油断であったろう。
 試合場に上がった時、既に拓也の右目の上が腫れていた。二回戦で蹴りを貰ったのだ
という。
 ほとんど攻撃を喰らうことなく勝ち上がってきた桐生崎と比べて、随分と体を痛めつ
けてきたようだ。
 そのことからも、桐生崎が己の勝利を確信したのも不思議ではなかった。
 試合開始してから、牽制気味の正拳を二発放った後、桐生崎はいきなり上段回し蹴り
で拓也の頭部を襲った。
 二回戦、これ一撃で勝負を決めた必殺の攻撃だ。
 拓也は腕を上げてガードしたが、その上からでも大きなダメージを与えたであろうこ
とが見ていても一目瞭然だった。
 今ので仕留められなかったのがむしろ意外と思いつつ、桐生崎は数発立て続けに胸に
正拳を放った。
 どっ、どっ、どっ。
 重々しい音が連なって響いた。
 フルコンタクトルールなので、顔面を拳で殴ることはできない。自然、胸や胴体を殴
る場面が多くなる。
 拓也は辛うじて反撃してきたが、拓也が一発繰り出す間に、桐生崎は三発送り込んだ。
 試合は完全な桐生崎ペース。
 むしろ、拓也が昨年の優勝者に対してよくやっているという雰囲気が会場に流れてい
た。
 拓也への賞賛はもちろん、桐生崎にとって気分のいいものではない。
 さっさと決めてやる。
 桐生崎の攻撃に荒々しさが増した。
 昨年、大会の主催者の先生方に非難された獰猛な攻撃だ。
「強いのは認めるが、荒々しすぎる」
 とか、どこかの先生がいっていた。
「これはあくまで、空手を通じて青少年を健全に育成しようという大会であって、潰し
合いではない」
 とも、いわれた。
「押忍」
 と、いいながら、そんなものはいざとなったら無視すると決意していた。
 決意を生かす時がやってきたのだ。
 ここまで来ては、桐生崎も拓也がよくやっていると認めざるを得ない。
 認めたから、行くのだ。
 桐生崎のラッシュが始まった。
 おおーっ、と低い歓声が四方から聞こえてくる。
 盛んにハイキックで頭部を狙う素振りを見せておいて腹部への正拳を叩き込む。
「うぅっ……」
 拓也の唸りが、桐生崎の耳にまで届いた。
 拓也の上半身が前に倒れる。
「!!……」
 桐生崎の口から、声にならぬ声が発されたのは、次の瞬間であった。
 拓也の腹部に突き刺した正拳を引こうとした桐生崎の表情が変わっていた。
 引けない。
 ガッチリと固定されている。
 どのように固定されているのかは、拓也の上半身が前に折れ曲がっているためによく
見えない。この大会の試合場は、観客席より低い位置にあるために、そこから見てもわ
からないだろう。
 腹への正拳が効いて体を曲げているのだと桐生崎は思っていたし、試合を見ている者
も思っていただろう。
 しかし、もしかしたら、拓也はそれで桐生崎の拳を取っているのを隠しているのでは
ないだろうか。この大会のルールでは投げ技、関節技は禁止されている。
 とにかく、桐生崎の視線を阻む拓也の上半身の向こう側で、拳が捕らえられているの
は間違いない。
 桐生崎が異変を察知して強く手を引こうとした時──。
 痛みが生じた。
 拓也に捕らえられている右拳の親指だ。
 親指をへし折ろうとしている!
 これまで関節技は無縁のものであった桐生崎の背筋に未知の──ものが走った。
 手を引き、拓也の腹に足を押し付けて引き剥がそうとする。
 親指を絡め取った拘束はすぐに解かれた。
 これ以上は、動きが不自然になって審判に見咎められると踏んで、拓也が自ら離した
のだ。
 桐生崎が審判を見る。
「大丈夫か? できるか?」
 審判が、上半身を前に倒したままの拓也に尋ねている。
 どこに目をつけていやがるのか。
 桐生崎は思わず審判に、先程の拓也の指取りの反則を主張しようとしたがやはり止め
た。
 昨年優勝者の自分が、白帯の男に指を取られたということが恥であると思い直したか
らだ。
 そのようなことを喚くよりも、あの男を叩き潰すことを考えよう。
 もう決めた。
 もうキレることに決めた。
 潰す。
 拓也は、審判に向かって、大丈夫です、といいながらファイティングポーズを取って
いる。
 そうだ。
 ここで、まいったされて逃げられてはたまらない。
「はじめっ!」
 審判が手刀を振り下ろした。
 試合再開だ。
「はぁぁっ!」
 裂帛の気合とともに中段回し蹴りを放つ。
 拓也はそれを腕で受けたものの、大きくよろめいた。
 続けて、正拳を打ち込む。
 親指はしっかりと握り込んでいるので取られる心配は無い。
 胸を、どしんと叩いて、すぐに前蹴り。
 拓也は、前蹴りを受けて倒れた。どう見ても、その蹴りによって倒されたように見え
る。
 無我夢中で拓也が倒れまいと桐生崎の足にしがみついた……ように見えた。
 桐生崎は引き倒されながら拓也の目を見ていた。
 こいつ!
 故意だ。
 二人はもつれ合って倒れた。
「っ!……」
 桐生崎の口から苦鳴が漏れる。受け身のために掌を開いたところを人差し指と中指を
まとめて握られたのだ。
 ゴロリと拓也が転がってその上に覆い被さった。動作に特に不自然なところはなかっ
た。
「くあっ!!」
 と、呻いているので、受け身を取り損ねてその痛みに身をよじったように見えた。
 しかし、その行動によって、握られた桐生崎の指が外部からは見えにくくなってしま
った。
 野郎っっっ!
 またやりやがった。
 桐生崎の中に熱いものが生まれた。
 恐怖であり──。
 戦慄であり──。
 その二つが混ざり合ったものだった。
 なぜか……怒りはその成分に含まれていない。
 なんとか、それを振りほどいた……というよりも、先程と同様、桐生崎が拓也の体を
押し退けると拓也が自ら離した。
 結局、拓也は桐生崎の指を折ることには成功していない。
 しかし、桐生崎には確実に恐怖が生まれた。成功失敗の問題ではなく、拓也が「躊躇
せずに」ああいうことを仕掛けてくる男だということを知って、桐生崎の心に拓也に対
する恐怖心が芽生えたのだ。
「立って!」
 審判が叫んだ。
 二人が立ち上がって、それぞれ開始線に戻る。
 注意、とも、警告、とも、審判はいわなかった。
 ただ、手刀を振り上げた。
 それを振り下ろせば試合再開だ。
 桐生崎は、その目の節穴ぶりを呪いたくなった。
 審判は神様だという言葉がある。
 確かに、スポーツにおいて審判の言葉は絶対とされており、神に近い権限を与えられ
ているといえるかもしれない。
 しかし、当然のことながら彼らは神様ではなく、普通の人間だ。
 だから、「神の権限」を「与えられて」はいても、「神の能力」を「持っている」わけ
ではない。
 だから、目の届かないところでの反則は取りようがない。
 例え観客の何人かが気付いたところで、審判が気付かねばどうしようもないのだ。原
則的には……。
「はじめっ!」
 次はどう来るだろうか……。
 桐生崎はそう思っていた。
 思考がとことん受動的になってしまっている。
 次はどういう風に来るだろうか……。
 桐生崎は不安と闘いながら拓也と向かい合った。
「せぇぇぇぃっ!」
 不安をかき消すように思い切り左の中段回し蹴りを放った。
 拓也の右腕がそれを受けて振動する。
 瞬間──。
 拓也の右手がスルリと桐生崎のふくらはぎの上を滑るようにして左足に巻き付いた。
「!!……」
 何かが来る。
 桐生崎は戦慄した。
 その拓也の右手が、ぱっ、と離れた。
 ?
 何事かと思った。
 拓也の左足が床から離れたのを見た次の瞬間、桐生崎の右側頭部は鳴っていた。
 ゴツッ。
 重々しい音が鳴っていた。
 ?
 どうなったのだろうと、天井を見上げながら考えた。
 ああ、奴は、おれの意識が自分の左足と奴の右手の方に行ってしまった瞬間を狙って
左足でおれの頭を蹴ってきたのか……。
 理解した。
 自分が倒れていることを理解したのはその少し後だった。
「立てるか!」
 審判が自分を見下ろしてそう叫んでいる。
 節穴の目で自分を見ている。
 この節穴のせいで……いや、いうまい。
 自分が意地を張ってそのことを主張しなかったのにも原因の一端がある。
 神様じゃないんだから……見えていないところの反則は取りようがないだろう。
 もう、いうまい……。
「立てるか!」
 難しいな……。
 でも、桐生崎は立った。
 自分の意地はまだ終わっていない……ような気がした。
 もう少し意地を張らねばいけないような気がしたのだ。
「はじめっ!」
 朦朧とした意識のまま、桐生崎は前に出た。
 強烈な右のローキックが来た。
 腹と胸を正拳で連打された。
「強いのは認めるが、荒々しすぎる」
 とか、どこかの先生がいっていた。
「これはあくまで、空手を通じて青少年を健全に育成しようという大会であって、潰し
合いではない」
 とも、いわれた。
 その先生方は、今、役員席でこの試合を観戦している。
 駄目じゃねえか……。
 青少年の健全なる育成なんだろ?
 そのための大会なんだろ?
 だったら……。
 こんな奴出場させちゃ駄目じゃねえか……。
 見ろよ、おれを殺してもおかしくない目をしてやがるぜ。
 いつ人殺しになっても平気なような目をしてやがるぜ。
 拓也の右手が桐生崎の道着の奥襟を掴んだ。
 まずい……。
 思った時には奥襟を引き落とされていた。
 もちろん、それに引っ張られて頭部も落ちていく。
 跳ね上がってくる拓也の右膝を、最後まで目を開いて見ていたことは、桐生崎の意地
だったのかもしれない。

「それで……ノックアウト負けさ……」




     第23話 転章

「雅史よう」
 浩之が、雅史の席にやってきたのは、木曜日の授業が終わった時だった。雅史はサッ
カーの大会が近いためにこのところ、放課後は連日部活に費やしている。
「今度の日曜……どうだ?」
「ごめん……今度の日曜からなんだ……大会」
「ああ、そうか」
 浩之は頭を掻きながら、
「ま、いいや」
 と、いった。
「もちろん、おめえも出るんだろ、頑張れよ」
「うん」
 部活に行く雅史を見送って、浩之は教室をぐるりと見回した。
「浩之ちゃん、一緒に帰ろ」
 あかりが近付いてくる。
「おう」
 あかりを連れてくわけにはいかねえしなあ……。
 そんなことを思いながら、浩之はあかりの半歩前を歩き始めた。
「浩之ちゃん、今度の日曜日、サッカー部の試合があるんだって」
「おう、雅史に聞いたよ」
「志保が応援に行こう、っていってたよ」
「志保の奴がか?……」
「うん、なんか他の女の子たちも何人か行くみたい」
「へえ」
「浩之ちゃんも行くんでしょ」
 と、にっこり笑っていったところを見ると、あかりも行くらしい。
「いや、おれは今回はパスだ」
「えっ……」
「ちょっと用事があるんだよ」
「そうなんだ……」
 あかりが残念そうに呟く。あかりは、浩之と一緒に出かけるのを楽しみにしていたの
だろう。彼女のことだから、弁当のメニューも色々と考えていたに違いない。
「次だ次……予選の一回戦で負けたりしねえだろ」
 ま、相手にもよるが、雅史から一回戦の相手が凄い強豪だ。などという話は聞いたこ
とがない。
「じゃ、次ね」
「おう、そのためにもしっかり応援しておいてくれや」
「うん」
 大会か……。
 あかりと一緒に歩きながら、浩之はいつになく真剣な、難しげな表情で何かを考え込
んでいた。
 あかりはそれがわかっているのだろう。浩之に声をかけずに沈黙している。
 そもそも、浩之の最終目標はエクストリーム大会への出場、そして優勝であった……
はずだ。
「先輩っ」
 そんなことを考えていたからだろうか。後輩の松原葵が近付いてきた。
「おう」
 葵は、今日も綾香のところに練習に行くところらしい。
「葵ちゃん、あんま手の内見せんなよ」
 浩之と空手部とのいざこざからエクストリーム同好会設立を葵が断念した時、葵が綾
香のところで練習できるように手配したのは浩之なのだが、どうも段々と不安になって
きた。
 葵のことだから、一緒に練習する内にすっかり綾香に手の内をさらしてしまうのでは
ないか、という不安である。
 綾香はお嬢様に見えて、そこら辺の駆け引きは侮れない。勝負なのだから当然とばか
りに葵に嘘を教えて足下をすくうことぐらいはしてもおかしくない。
「はい、気をつけます!」
 葵の快活な声を聞きながら、浩之は顔をしかめた。葵みたいに真っ正直な人間がいく
ら気をつけても人をだまくらかすのが得意な人間にとっては無防備同然である。

 いや、別におれが葵ちゃんをだましたことがあるとかいうわけじゃねえぞ。

「そうだ。先輩、先輩も独自に練習してるんですよね」
 葵がそんなことを突然いったので、さすがに浩之は驚いた。そのことを知っていて、
葵と接触しそうな人間といえば坂下好恵がいる。特に口止めもしていないから、彼女が
喋ったのだろうか。
「体を見ればわかりますよ」
 葵にいわれて、浩之は我が体を見てみた。それほどに外観が変化したようには見えな
いのだが。
「特に肩の辺りが……」
 と、葵はいう。やはり、見る人間が見るとわかってしまうものらしい。
「今度のエクストリーム、出るんですか?」
「今度?」
「はい、三ヶ月後にエクストリームがあるんです」
「へえ……葵ちゃん、出るのか?」
「はい!」
「すると……初出場か」
「はい……それで、ちょっと悩んでるんです」
「へ? 何が」
「今大会から、一般部門の年齢制限が無くなったんです」
「えっと……つまり……葵ちゃんでも一般部門に出れるってことか?」
「はい」
 エクストリームには、高校生部門、大学生部門、一般部門があり、基本的に高校生や
大学生は一般部門には出場できなかった。しかし、その年齢制限が撤廃されるのだとい
う。
「綾香さんが……今回は一般部門に出るとかで……」
「ああ、そうか」
 綾香は、もはや高校生部門では敵無しといっていい。その綾香が一般部門でさらなる
猛者との闘いを望むのは当然であろう。
 で、そうなると、綾香目当てでエクストリームを志した葵としては心が動くわけであ
る。
「うーむ」
 浩之としては軽量の葵がいきなり一般部門に出るのは反対であるが……。
 松原葵というのは、一度決めたら他人のいうことに左右されるような子ではない。
 と、それよりも……。
 浩之の脳裏にある考えが点灯した。
 年齢制限が取っ払われたということは、自分と柏木耕一が当たることもありえるとい
うことだ。
「先輩、どうするんですか?」
 やりてえなぁ──。
「先輩」
 あの人と思い切り大舞台で──。
「あのう……」
「浩之ちゃん、松原さんが呼んでるよ」
 葵が何をいっても反応しない浩之に、今まで黙っていたあかりが声をかけた。
「あ、おお、なんだ」
「先輩はどうするんですか? 今回」
「あ、うーん……考えとく」
「そうですか……あ、私、そろそろ行きます」
「ああ、頑張れよ」
「はいっ! 先輩も今度、来て下さい。綾香さんも会いたがってましたから」
「おう、近い内に顔出すわ」
「では、失礼します!」
「おう」
「さようなら、松原さん」
 学校の校庭を走っていく葵の後ろ姿を見送りながら、浩之は拳を握り締めていた。

 その晩、浩之は緒方英二に電話をした。なんでか知らんが携帯の番号とかいうものを
教えてもらってしまっていたのである。ファンが知ったらえらいことになるかもしれな
い。もっとも……英二の熱烈なファンというのは昔に比べてだいぶ減った。現役で活動
していないのだから当然ではある。だが、ミュージシャンとしての全盛期の頃の緒方英
二の人気というのはかなり凄かったと浩之は記憶している。
 あることを頼むと、英二は快諾してくれた。
 浩之はそれから机の上の便箋に何かを書き始めた。
「決闘したい……うーん、決闘を所望する。の方がサマになってるかな」
 などといいながら、浩之はゆっくりとペンを走らせていった。

 金曜日。
 柏木耕一は道場にやってきた。
 試験も終わり、なんとか首の皮が繋がった耕一は、ますます武道に励んでいる。
 道場では、師の伍津双英と緒方英二が向かい合って茶を飲んでいた。
「……」
「やあ、柏木くん」
「おお、耕一、お前も上がって飲め」
 耕一は、無言のまま道場に入った。
 湯飲みに自分で茶を入れて、耕一はそれをすすった。その間、探るように双英の顔を
うかがう。
 なにやら英二と談笑などして機嫌はいいらしい。
 どちらかというと気難しい師匠なのだが、いつのまにやら英二に籠絡されてしまって
いる。
 そもそも──。
「ここに入っていいのは、伍津流を学ぶ者か、伍津流と闘う者だけだ」
 などと日頃から断言している師匠が道場に客を上げて、そこで茶を飲むなどという光
景はかつて見たことがない。
「丁度いいところに来たな」
 双英は六十二歳の老顔に、何やら異様な熱気をたたえていった。この師匠は時々血気
が盛んになる。
「今、緒方くんにこれを見せてもらっていたところだ」
「えっと……それは」
 双英が持っている雑誌に、耕一は見覚えがあった。
 『ザ・バトラー』という、一年ほど前に発行され始めた格闘技雑誌だったはずだ。い
わゆる「総合格闘」がメインになっており、アマチュアが参加できる格闘技の大会の特
集も組んでおり、その中でエクストリームの扱いは一際大きい。
「これが何か?」
「ここを見てみろ」
 双英が開いたページには大きなゴシック体で「エクストリームまで後三ヶ月!」と、
書かれていた。
「ええっと……」
 と、呟きながら隅から隅まで目を通すと、小さな「伍津流」という文字を見付けた。
 別に伍津流がメインというわけではない。ページの四分の一ほどのスペースで、加納
久(かのう ひさし)という選手が今度の大会の一般男子の部に出場を決定したという
ことが書かれていた。
 その記事によると、加納はかつて柔道でかなりの実績を残した後、実戦空手で打撃技
を身につけ、総合格闘の世界に足を踏み入れた人物らしい。
 歳は二十五歳。
 先々月に行われたある空手道場のオープントーナメントで優勝をさらっていったとい
うのが最近での最も華々しい経歴であった。
 そのオープントーナメントの加納の戦績の中に伍津流の人間の名があったのである。
「エクストリームへ向けてまあまあ、いい肩慣らしにはなりましたがね、ちょっと手応
えが無かったかな? あの、なんとか流の……保田っていう人はまあ、そこそこでした
けど」
 そんな加納の言葉が載っている。そのなんとか流の保田という人は会ったことはない
が自分と同門である。
「あのう……これが何か?」
「なんとか流とは伍津流も舐められたものだ」
「はあ……」
「耕一、こいつを潰せ」
 事も無げにいった。
「ええっ!」
「今度のエクストリームに出ろということだ。伍津流の威信をお前にかける」
「え、そんな……他の道場から誰か出ないんですか」
 日本各地に、双英の五人の弟子たちがそれぞれ道場を構えていたはずなのだが……。
「あの馬鹿ども、急な話でエクストリーム対策が万全にできないだろうから次の機会に
……などと抜かしおった」
 ……そう、間違った考え方でもないと思うのだが……双英は思い切り気に入らないら
しい。
「伍津流は実戦格闘技だ。わざわざ対策を練る必要などないわ」
 年甲斐もなくヒートアップしている師匠から英二にと、耕一は視線を移した。
 あなたが焚き付けたんですね。
 と、その視線がいっていた。
 英二は、微笑でそれに応えるだけであった。

「ん?」
 ポストに手紙が入っていた。自分宛だ。
 差出人は……知らぬ名だ。
「藤田……浩之?」
 封書を開けてみると、中にはやたらとストレートな内容の「果たし状」が入っていた。

 今週日曜日。
 決闘を所望する。
 場所は小倉道場。
 時刻は午後一時。
 いざという時のために立会人を連れてくるのが望ましい。

 条件に不都合のある場合は小倉先生へと連絡を頂きたい。
 連絡無く、約束の日時に現れぬ場合は、逃亡と見なす。

                                藤田浩之

「……」
 無礼な手紙だ。
 無礼だが、小細工も誤魔化しも無い手紙だ。
 見たところ、小倉四郎を介して自分を知ったらしい。
 だとすれば、自分が破門にされた理由などを知っているはずだ。
 その上で、挑戦してきている。
 つまり、「そういう闘い」をしようということだ。
 先日、柳川祐也との対決が消化不良気味に終わってから……ずっと疼いていた拓也の
体が……静かに、躍動を始めていた。




     第24話 その男

 十二時には、既に浩之は英二とともに小倉道場に入っていた。
 約束の時間まで一時間ある。
 浩之は道場主の小倉四郎に挨拶をしてから、Tシャツに道着のズボンという戦闘態勢
に着替え、ウォーミングアップを始めた。
 十二時半。
 二人の男がやってきて、道場の隅に座している小倉の前に座った。
「お久しぶりです」
 細い目をした背の高い男がいった。
「はじめまして」
 どことなく、ひ弱そうな男がそういった。
 どちらも、不思議といえば不思議な感じがする男たちだった。
 特に、細い目の男より年下に見える男の方は、外見をさっ、と一瞥しただけではあま
り強靱そうな印象を受けぬが、その目は強い意志の存在を示していた。
「どっちが月島さんだい?」
 浩之が二人の男の背に向かっていった。
「僕だよ」
 細い目の男が振り返った。
 それに一瞬遅れてもう一人の男が振り返る。
「僕の方の立会人だ」
「長瀬祐介です。よろしく」
 そういって、その男は頭を下げた。
「こちらはおれの立会人」
「緒方英二だ」
 拓也と祐介は、僅かに怪訝な色を表情の端に見せただけであった。
「時間より早いが、始めるかね」
 英二がそういって、その場にいる一同を見回す。
「おれはいつでも」
 浩之がいった。
「僕は少しだけウォーミングアップをしたいのですが」
「よし、だったらそっちのアップが終わったら開始ってことで」
「ああ」
 初めて、浩之と拓也の目線が合った。
 すぐに拓也がそれを逸らした。
 ぞくっ、と浩之の体が凍える。
 拓也の目線が自分の体に移っていた。
 心なしか、両手両足の関節部分を見られているような気がする。
 物色してやがるのか。
 浩之は、背を向けた拓也の後ろ姿を睨み付けていた。
 拓也のウォーミングアップは十分ほどで終わった。ごくごく普通の柔軟運動をやった
だけだ。着用しているのは、拓也がこの道場に通っていた時から使っている道着だ。
「それでは……私が審判を勤める……」
 小倉が二人の間に立っていた。
「目突きと噛み付きは無し……金的は、藤田くんの方はいいといっている」
「僕もかまいません」
 一瞬の躊躇いもなく、拓也はいった。
 目への攻撃と噛み付き以外は全てあり、いわゆる「バーリ・トゥード・ルール」だ。
 最近、その関係の愛好者の耳には既に馴染んだ名前であろう。ポルトガル語で「何で
も有効」「何でもあり」という類の意味を持つ。
 これまた一つの潮流となりつつある「エクストリーム・ルール」と大きく異なるとこ
ろは、金的への攻撃が許可されていることに加えて、肘と額による攻撃の許可、さらに
は倒れた相手への打撃技が許されていることである。
 最後の項目によって、マウントポジションを取っての殴打が可能になり、これがこの
ルールではいわば「決まり手」の一つのようなものになっている。

「ミュージシャンの緒方英二さんですか?」
 道場の隅に並んで座ってすぐに、英二は祐介にそう尋ねられた。最近、道場とかそう
いうところでこの質問を受けることが多い。まあ、当然ではあるが。
「そうだ」
「どうして……ここに?」
「あの藤田くんに立ち会うように頼まれてね、彼とはちょっとした知り合いなんだ」
「へえ……僕は……」
 と、祐介は自分のことを話し始めた。相手のことを聞いたのだから、自分の方もそれ
をいわねばならないと思っているらしい。
「あの人の妹さんの……恋人……って、まだ月島さんには認めてもらってないんですけ
どね……」
 そういって、祐介は苦笑した。
「おかげで最近、キスもできません」
 もう一度、苦笑した。
「緒方さんは、格闘技とかお好きなんですか?」
「ん? 学生時代に少しボクシングをやってたけどね……結局音楽を取ったからな。今
は見るだけだね」
「そうですか……それじゃ、いざとなったら僕が止めないといけませんね」
 平然とした顔で、そんなことをいった。
 この長瀬祐介という青年、どう見ても肉体的に強いとは思えない。むしろ、同年代の
平均よりも体力は低いように見える。
「君は、何かやってるのか?」
「いえ、全然……体育はいつも2です」
「あの二人を止めるというのか?」
「ま、片方はあの先生が止めてくれるでしょう」
 に、しても、片方だけでも十分に祐介の手に余ると英二は思うのだが。
「ようは手を触れなければいいんです」
 不思議なことを祐介はいった。
 にっこり笑った笑顔は自然なものであった。
 この青年……少し電波系か?……。
 英二は祐介を見ながら思った。

「君らが本気でやり合おうというんだ。ギリギリまで止めんつもりだ」
 小倉はいった。並々ならぬ決意が表情に浮いている。
「しかし、命に危険が及んだり、後遺症が残りそうな場合は無理矢理にでも止める」
 そう、続けた。
「そうして下さい。さすがに人殺しは御免です」
 浩之がそういって、にっ、と笑った。
「そうだね、僕も同感だ」
 拓也がそういって、にいっ、と笑った。
 もちろん、本心じゃない。
 そう思った。
 そう思っていた。
 しかし、一瞬、何かが拓也の心に引っかかった。
 引っかかったものをよく見てみると、それは柳川祐也の姿をしていた。
「人の死は冷たい」
 あの男がいっていた。
 人の死は冷たいのだと──。
 だから、人殺しなどしない方がいいと──。
 拓也の、歯と歯が擦れて音が鳴った。
 ぎりっ、と──。
 ぎちっ、と──。
 鳴った。
 違う!
 自分はあの男のあの言葉を恐れてなどはいない。人の死の冷たさなど恐れてはいない。
 そう思おうとした。
 拓也は、浩之を見た。
 こいつ……殺してやろうか?
 さすがに、この場でそれを決意することはできなかった。
 だが、これから始まる闘いで、この男がさっさと敗れてくれれば良いが、もしも下手
に手こずらせようものなら……。
 自分は、この男を殺すかもしれないな。
 そんなことを、他人事のように思っていた。

 マジか。
 マジか、あいつ。
 浩之のうなじの辺りに悪寒があった。
 あいつ、人殺しは御免だなんて思ってねえんじゃねえのか?
 たまらねえな。
 たまらねえな、おい!

「うーん」
 低く、小さく、祐介は唸った。
 これはまずい。
 拓也の状態が危険なものであることを、祐介は悟っていた。やはり、いざとなったら
自分が「力」を使わねばならないようだ。
 拓也が格闘技にのめり込んで危険なルールで試合をするのは、なんとか認めるが、人
殺しにだけはさせてはならない。
 そうなったら、瑠璃子さんが悲しむから……。
 もちろん、自分だって悲しくなるだろう。
 でも、それの何倍も悲しんでしまうであろう瑠璃子さんのために……。
 祐介は、いざとなれば、この自分を未来の弟と認めてくれない未来の兄を止めねばな
らなかった。
「長瀬くん」
 英二の目が、食い入るように浩之と拓也を見つめている。
「目が離せないねえ」

「では……時間は無制限、目突きと噛み付きは禁止、どちらかが戦闘不能と見なした時
点で私がストップをかける。それでいいね?」
「はい」
「いいですよ」
 静寂。
 ただ静寂。
 張り詰めた静寂。
「はじめっ!!」
 叫んで、小倉の体が二人の間から消えた。
 ゆらっ、と拓也の体が揺れた。
 体勢が低く沈んでいる。
 微かに、拓也の手が、肩が、空中で揺れていた。
 ゆらっ。
 明らかに、空手の構えではない。
 突き、蹴りの打撃技よりも、タックルに行くのに適した体勢である。
 浩之が近付いた。
 拓也が来た。
 真っ直ぐに来た。
 速い。
 当初の予定では、タックルに来るところへカウンターで膝か、肘を顔に叩き込んでや
ろうと思っていた。
 だが、予想を遙かに上回る速さだ。
 下手に膝を上げようものなら体勢を崩す手伝いをするようなものだ。
 浩之は下がった。
 足を後退させ上半身は前のめりに。
 どすっ──と、拓也が浩之の腰にぶち当たってきた。
 足で踏ん張って、上半身を拓也の背中に被せるようにする。
「おおう!」
 浩之の右肘が拓也の後頭部に落ちた。
「っ!……」
 効いてはいるはずだが、かまわずに押してくる。
 浩之の右膝が上昇して拓也の腹部を突き上げる。
 一瞬、拓也の動きが止まった。
 浩之は少し距離を取って、右の掌底をアッパー気味に振った。
 狙いは拓也の顎。
 だが、既に拓也は動いていた。
 浩之の右腕が伸びきった時、拓也の頭部が浩之の右脇の下の辺りにあった。
「この!」
 拓也の体がするりと、浩之の体の表面を滑るように右回りに移動した。
「!……」
 寒気がした。
 ヌメヌメとした軟体動物が、自分の体の上を這っているように思えた。
 しかし、それどころではなかった。
 バックを、取られた!
 後ろから、二本の腕がやってきて、右が横になって浩之の喉元へ食い入ろうとしてい
た。左は、縦になってその掌が浩之の後頭部に当てられている。
 柔道でいう裸締め、プロレス風にいえばスリーパーホールド。頸動脈ではなく、真正
面から喉を圧迫しようとしているので、いわゆる、チョークというやつだ。
 顎の骨が、みりみりと鳴りそうだった。
 浩之は顎を引いて、拓也の右腕の侵入を阻んでいたのだ。
 三十秒ぐらいだろうか。
 浩之は拓也がチョークスリーパーに行こうとするのを阻んだまま、じっと耐えていた。
 ふっ、と、左腕の力が弱まった。
 浩之の左目は、拓也の左手の親指をはっきりと見ていた。

                                    続く




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