鬼狼伝










     第25話 制限無し

 やるのか?
 何の変哲もない親指が、鎌首をもたげた蛇のように見えた。
 やるのか?
 よく研がれた、女のように綺麗な爪だった。
 バーリ・トゥード・ルールで反則をやるのか!?
 浩之は強引に顔を斜め下方に逸らした。
 こいつならやりかねない。
 と、思ったからだ。
 それが正しかった。
 拓也の左手の親指は、浩之の左目のすぐ横、こめかみの上を滑るように突き抜けた。
 野郎っっっ!!
 やりやがった。
 ルールとは、いわば制限である。その中でもバーリ・トゥード・ルールはもっとも制
限の緩いルールといっていい。
 目突き。
 噛み付き。
 この二つ以外は何をやってもいいのだ。
 浩之も、このルールならかなり自由な闘いができると思っていた。
 ルールを破ろうなどという考えは一切抱いていなかった。
 しかし──。
 拓也はそれでも、平然と、ルールを破ってきた。
 はじめからそういうものの存在を知らぬかのように、無造作に目を狙ってきた。
 戦国時代などに創始された古武術には、現在の感覚からいうと「えげつない」ような
技が少なくない。
 その中に、目に指を突き入れ、頭蓋骨に指を引っかけて引っ張るというやり方がある
のだと浩之は聞いたことがあった。
 へえ、やっぱり戦国時代とかに作られた技は違うな。
 などと、浩之は思っていた。
 冗談ではない。
 ここに、この現代に、その技を事も無げに使う人間がいるのだ。
 そして、そいつと自分は闘っているのだ。
 おまけに、ただいまバックを取られているところである。
「くっっっっ!!」
 思わず、浩之は呻いた。
 おそらく、拓也は親指を目に突き入れ、浩之の顔を上に引っ張り上げてがら空きにな
った喉に右腕を食い込ませてチョークスリーパーに持っていくつもりだったのだろう。
「拓也!」
 小倉が何か叫んでいるが、拓也はこれを黙殺した。
「このぉ……」
 凄まじい怒り。
 だが、それと同時に同量の恐怖が生まれたのも事実である。
 怖いのだ。この男が──。
 また、拓也は目を狙ってくるかもしれない。
 正直、怖かった。
 頭に、桐生崎の顔が浮かんだ。
 ごつい顔だ。
 自分にビールを注いでくれた顔だ。
 月島拓也との試合、がんばれよ、といってくれた顔だ。
 同時に目まぐるしく、桐生崎の話が思い出される。
 自分は桐生崎と同じパターンにはまっている。平然と反則を犯してくる拓也を恐怖し
て萎縮してしまっている。
 恐怖を克服せねばならない。
 いや、逆に拓也を恐怖させるほどの気概を持たねばならない。
 だが、こんな狂った男をどうやって? ……
 自分も狂えばよいのだ。
 そう思った時、浩之の目は座っていた。
 目には目を──と、行きたいところだが、背後にいる拓也の目を突くのは困難である。
 と、なれば──。
 歯だ。
 拓也の左腕が動いた。
 親指が、浩之の左目を狙ってくる。
 先程と同じ。
 警戒などしている様子はない。
 いまいち、自分が相手をしているのがどういう男かわかっていないらしい。
 それを、教えてやらねばならない。
「があっ!」
 浩之が口を大きく開けて叫んだ次の瞬間。
「いいいぃぃぃっっっ!!」
 初めて、拓也が悲鳴を上げた。

「ど、どうなったんです?」
 丁度、二人の背中が向く位置に座っていた祐介は隣の英二に尋ねた。
「噛み付きだ」
 英二は、笑っていた。
 暖かいといっていいような微笑だった。
「普通の闘いになるとは思わなかったが……まさかこんなことになるとはねえ」
「反則……ですよね」
 祐介が呟く。
「これほど行儀の悪い闘いは初めて見るよ」
「……」
「でも……いいね、この闘いは」
 英二は、やはり笑っていた。

「浩之っ!!」
 小倉の声を、もちろん浩之は黙殺。
 浩之の白い道着のズボンに、赤い点が生じた。
「ぐあああああっ!」
 拓也が常日頃の冷静さを捨てて喚いている。
 先程までピッタリと浩之に密着していた拓也の体が離れ、二人は口と親指で繋がって
いる状態になっている。
「浩之っ!」
 小倉がもう一度叫んだ。
 その時、浩之の口が開かれた。
 同時に、拓也の右腕を両手で掴んで前に回すように捻る。
 後ろを向きながら、浩之は叫んでいた。
「ルールなんていらねえっ!」
 飛んだ。
 右腕を掴んだまま飛びついて、体重で拓也を引き倒し、そのまま腕ひしぎ十字固めを
極める。飛びつき十字固めというやつだ。
「おおっ!」
 浩之の左足が拓也の首を刈ろうとした瞬間。
「!……」
 声無き気合を発して、拓也が空いている方の左腕を突き上げた。
 拳で、浩之の左足を突き上げたのだ。
 やや、軌道が上に逸れる。
 それだけでなく、拓也は首を右に倒して、後ろに逸らしてぐるりと左に回して、まん
まと浩之の左足を潜らせてしまった。
「っっっ!!」
 目を突かれそうになった時を上回る戦慄が浩之を襲う。
 この男の本当の怖さを見たような思いだった。
 この男が怖いのは、なにも平然と反則を犯すからではない。
 当たり前のことだが、この男が怖いのは……強いからなのだ。
 反則など使わずとも、浩之と互角にやり合うだけの実力を、上手さを、この男は持っ
ている。
 反則をするのは、この男にとっては心理戦術のようなものだろう。
 それを、無意識に見誤っていた!
 仕掛けを焦り過ぎた!
 一方、拓也の方も戦慄している。
 この、藤田浩之という男を見誤っていた。
 今まで自分が闘ってきた多くの人間とは違う。
 それだけの覚悟を決めた人間だ。
 目を突こうとすれば、その指に噛み付いてくる人間だ。
 浩之は、左足をすかされて大きく体が泳いでいた。なんとか着地したものの、体勢は
崩れている。
 ここで決める。
 拓也はなおもしつこく自分の右腕を掴んでいる浩之の両手の内、右の方に、自らの左
手を走らせた。
 掴んで、引き剥がす。
 そして、右手首を素早く、力強く旋回させて手首を掴んでいた浩之の左手から逃れた。
 浩之の口から舌打ちが漏れた刹那。
 拓也が飛んでいた。
 自由になった右手で浩之の右腕を掴んでいる。
 左足が、浩之の首を刈った。
 先程やられそうになった飛びつき十字固めを、今度は拓也が仕掛けたのだ。
「おおおっ!」
 浩之は一瞬耐えたが、拓也の全体重がかかっているし、なによりも体勢がまだ崩れて
いて、万全ではない。

 どん。

 と、遂に浩之の背中は床を打った。

「まずい、極まるぞ」
 英二の声が届いていたわけではないが──
 まずい、極まっちまう。
 浩之は歯を食いしばりながら思っていた。
 拓也は、おそらく関節技に関しては浩之を一歩上回っていると見てよい。
 それが、この体勢である。
 浩之の不利は否めない。
「うがぁぁぁぁっ!」
 浩之は絶叫しながら右腕を折り曲げた。拓也の両腕に押さえられている右腕は、ほん
の少し浮き上がっただけだったが、その間に、浩之の左腕が伸びてきた。
 ガッチリと、右手と左手が合わさった。
 親指を除く四本の指を曲げて鈎状にし、それを組み合わせている。
「くうっ!」
 拓也が呻く。
 浩之が右肘を曲げるのを許してしまったのが大きな失敗だ。
 それというのも、先程の浩之の噛み付きで拓也の左手の親指が負傷していたからだ。
今も血が流れ出ている。
 だが、そんなのは言い訳になるわけがないし、するつもりもない。
 拓也は、ただ自分の弱さを責めた。
 親指の痛みなど無視して全力で浩之の右腕を握っていれば!──。
 これしきの痛みで拘束を弱めてしまった自分の弱さが憎かった。
 拓也は、浩之の頭を押さえている左足はそのままに、右足で浩之の左腕を押した。
 浩之は堪えるが、元々、手と足では力が違う。
 に、しても、浩之はよく堪えた。
 拓也は浩之の右腕を掴んだ両手を思い切り引いていた。
 浩之の手と手が、ぶるぶると震えながら、その指が次第に伸びていく。
 いいぞ。
 もう少しだ。
 もっと手に力を籠めろ。
 左腕の親指に、痛みが走った。
 忘れろ。
 忘れてしまえ。
 そんな痛みなんか忘れてしまえ。
 痛みを感じる心を無くしてしまえ。
 心を無くせ。
 そうすれば痛くない。
 心が無ければ──痛みなど感じない。
 それを自分は知っているはずだ。
 自分は、そうやって生きてきたはずだ。
 忘れろ!
 無くせ!

 死闘を展開してきて体に浮き上がった大量の汗が拓也に味方をした。
 滑る。
 もはや、浩之の両手は第一関節しか合わさっていない。
 滑る。
 大きく、浩之の両手が開いた。

 思わず、英二と祐介は腰を浮かせていた。
 小倉は、何もいわずに目を大きく開いて二つの体を見つめている。

 極ま──
「ぐあっっっ!!」
「はぁっ!」
 ──った。




     第26話 あの場所

「っぎぃぃぃぃ!」
 変な声が自分の口から出ていることを浩之は自覚していた。
 右腕がキリキリと、曲がらないようにできている方向に曲げられていく。
 完全に極まっていた。
 浩之は左腕を振った。
 堅く握った拳で、思い切り拓也の左足のスネを叩いた。
 二発目を打とうとした時、右腕にかかる痛みが激しさを増した。
 折られる!
 折られる……。
 折られるに違いない。
 右腕はもう駄目だ。
 そう思った時、不思議と浩之は落ち着いていた。
 もう右腕は駄目だ。
 もう右腕は無いものと思うしかない。
 浩之の顔は、静かな顔になっていた。

 ぺきっ。

 そんな乾いた音だった。
「おおおおおおおおお!」
 浩之が絶叫した。
 泣きそうな顔になっていた。
 いい声で鳴く。
 いい顔をする。
 拓也は、たまらなく嬉しくなった。
 これだ! と、思った。
 この瞬間が楽しみなのだ。
 この全ての音が消え去って静寂に包まれた世界に、どこか遠くから、微かに悲鳴が聞
こえてくるこの瞬間。
 相手の腕が折れたからこれでおしまい。と、いうような考え方をする拓也ではなかっ
た。
 特に、この相手は自分を散々に手こずらせてくれた。少しきつめのお返しをしなくて
はならない。
 左手で右腕を押さえて浩之は無防備な体勢で寝転がっている。
 上に乗ってパンチの雨を降らすのもいいが、その前に立ち上がって骨折した右腕を思
う存分踏みにじってやるのもよいかもしれない。
 この男はもう「敵」ではなく「玩具」だ。
 何をしてもいい。
 手がもげても、足が千切れても、もう二度と遊べなくなっても──いいのだ。
 拓也が上半身を起こした。
 浩之を見下ろす。
 浩之は、静かな顔をしていた。
 拓也にとって、信じられぬことが起こった。

 英二は中腰になり、祐介は完全に立ち上がって、それを見ていた。
「あっ!」
 と、祐介は叫び、
「おお」
 と、英二は感嘆した。
 小倉は、ストップをかけるかどうか一瞬迷った。彼は、腕を折られながらも相手の腕
を折り返し、足を折って勝った人間を知っている。確か……伍津とかいったろうか……。
 だが、痛みに悲鳴を上げる浩之を見て、小倉は決意した。あれでは到底戦えない。こ
のまま拓也にいたぶられるのがオチだ。
「勝負あ……」
 小倉が上半身を起こして、倒れた浩之に何かしようとしている拓也を止めようとした
時……。
 それが起こった。

 信じられぬことが起こった。
 「玩具」が蹴ってきたのだ。
 「玩具」のくせに蹴ってきたのだ。
 「玩具」の足で蹴ってきたのだ。
 拓也は腕ひしぎ十字固めで右腕を折って、その場で立ち上がろうとして中腰になって
いた。そこにその「玩具」の蹴りがやってきたのだ。
 左足だった。
 速くて強い蹴りだった。
 拓也は咄嗟に、なんとか右腕で防いだ。
 息をつく間もなく、今度は右足が来た。
 それは蹴りというには勢いが無かった。
 それは拓也の左脇腹に踵を引っかけて拓也を引き倒そうとした。
「!!……」
 蹴りを放った左足が右脇腹に接触していた。
「ぐっ!」
 と、いう間に──拓也は背中を床につけていた。
 腹部を挟んだ両足によって引き倒されてしまったのだ。
 二人の体は回転して入れ代わり、拓也は上に乗られていた。
 「玩具」の左拳が降ってきた。
 真正面から口の辺りにぶち当たってきた。
 唇の裏側が前歯と激しく接触して切れたようだ。
 口の中に血の味が広がっていく。
「まいったしてねえっっっっっ!!」
 「玩具」がそんなことを叫んでまた左拳を打ち下ろしてきた。
 頬に思い切り入った。
 血の味が濃くなった。
 「玩具」の三発目が顎に来た。
 あっていいことではなかった。
 「玩具」が自分を殴るなど、あっていいことではなかった。
「おらぁぁぁ!」
 四発目がもう一度顎に来た。
 こいつは……。
 「玩具」じゃなくて「敵」だ。
 五発目は、拓也の右腕に当たった。
「ちっ!」
 と、浩之は舌打ちした。このまま拓也を戦闘不能にしてしまおうとしていたのだが、
どうやらその前に、相手が張り詰めた戦意を取り戻したらしい。
 と、なると、右腕を骨折している浩之は不利である。
 この状態では掴まれただけで右腕に激痛が走る。
 浩之は拓也の右腕を掴んでそれを引っ張り上げた。
 拓也の体が浮き、僅かに生じた床との隙間にスルリと浩之が入り込んで浩之は拓也の
背後に回っていた。
 左足が横から拓也の首に巻き付き、次の瞬間、右足が左足首を抱き込むようにして左
足の上に乗った。
 その両足でできた三角形の中に、拓也の首と右腕が入っている。
 腕を上げさせ腕ごと首を絞めつけ、頸動脈を圧迫する三角絞めと呼ばれる絞め技である。
 右腕を骨折している浩之は、抜け目無く拓也の右腕を巻き込んでいた。
 拓也の左腕がバタバタと泳ぐが、浩之の右腕には到底届かない。
 拓也の腰が跳ね上がった。
 右足が信じられぬ柔軟さで伸びてきて浩之の右腕に到達し、痛烈に叩いた。
「くっっっ!」
 驚異的といっていい体の軟らかさだ。
 右腕の痛みに気を取られた瞬間に、拓也の左手が浩之の左足と、自らの頸動脈との間
にねじ込まれた。
 頸動脈をガードされてはこの技の意味はない。巻き込んだ右腕を折りに行くにしても
右腕の使えない状態では力不足だ。
 このままでは足を取られて関節技に行かれる。
 浩之は足を解いた。
 と、同時に、左拳で後ろから拓也のテンプルを打ち抜く。
 浩之は立ち上がり、数歩退いた。
 右腕をダラリと下げ、腰を低く落とし、しかし目だけは肉食獣のそれで、浩之は拓也
のことを見ていた。

 視界に、白い幕がかかっているようだった。
 思考もまとまらない。
 脳に酸素が足りなくなっているのだ。それだけはわかった。
 後ろに、物凄い殺気を感じた。
 そうだ。自分は闘っていたのだ。
 振り返って、立ち上がろうとした時──。

「しゃあっ!!」

 衝撃が来た。
 浩之の前蹴りが、立ち上がろうとしていた拓也の顔面を捉えたのだ。

 ぐちっ。

 そんなくぐもった音がした。
 拓也は後方にふっ飛んで倒れた。
 鼻血が濁流のごとく溢れ出て唇を濡らし、顎の上を滑り、喉まで赤く染めた。
 勝った──。
 そう思った浩之の顔は、一瞬だけ喜色を浮かべて凍り付いた。
 倒れた拓也が背中は床にべったりと着けたまま、顔を上げ、両足を広げ、両手を胸の
上に浮かせていた。
 拓也の両手が動いた。
 親指以外の指が揃って前後に揺れた。
 手招きしているのだ。
 浩之は悪寒が全身を貫くのを感じた。
 こいつは、まだやる気なのだ。
 浩之の面上に獣性が蘇った。
「待て」
 その声は、審判の小倉が発したものではなく、立ち上がった英二の口から出たものだ
った。
「その辺で止めたまえ」
 いつの間にか、英二が二人の間に立っていた。
「これ以上やっては、どちらか、あるいは双方が死ぬ」
「どいて下さい」
 浩之が前に出てきた。
 今までは、警戒していた浩之だが、英二に制止されて却って戦意を逆なでされたらし
い。目に、どす黒い色をした炎が揺れていた。
 瞬間。
  英二の右拳が浩之の水月の寸前で停止していた。
「止めたまえ」
「!!……」
「こんなところで大怪我しては三ヶ月後のエクストリームに出場できなくなるぞ」
 英二は諭すようにいった。
 浩之は明らかに意表をつかれたようで戸惑った表情で沈黙していたが、やがて口を開
いた。
「今回は見送ります……」
「柏木耕一が出るぞ」
「な!……」
 声は、浩之と拓也の口から同時に漏れた。
「本当ですか?」
「本当か、それは!」
 拓也が浩之の言葉に覆い被せるように叫んだ。
「?……」
 英二も、浩之も、怪訝そうな表情を拓也に向ける。
「君は……柏木耕一を知っているのか?」
 英二の問いに、拓也は答えなかった。
 ただ、荒い息を吐きながら、どこか遠くを見ていた。
 その目が、不意に光を失い、閉じた。
「無茶をしおって……」
 小倉が、もう弟子ではない男の傍らに腰を下ろし、その頭部を優しく抱き上げた。
「うむ……大丈夫だ」
 小倉と視線を合わせて、英二が頷くと、その横で、浩之がその場に、どっと倒れ込ん
でいた。
「いてぇ……」
 浩之の口からぽろりと声が漏れた。
「痛いか、藤田くん」
 英二が笑っていった。
「骨折れてんですよ、いてぇに決まってんじゃないっすか」
 その割りには、闘っている最中には一言もその言葉を洩らさなかった。
 英二は、心中でそういって、浩之を見ていた。
 微笑んでいた。
「おれも行く」
 「いてぇいてぇ」と喚いている浩之にも、拓也を介抱している小倉にもその声は聞こ
えなかったが、立ち上がって、英二に近付いてきていた祐介は、微かにそれを耳に捉え
ていた。
「緒方さん……嘘をつきましたね」
「ん?」
 突然、背後から祐介に問い掛けられて英二は一瞬驚いたようであったが、すぐに苦笑
を表情に浮かべた。
「僕みたいな素人にもわかりますよ、かなり強いんでしょう?」
「……」
 英二は、無言で微笑していた。
「ところで……どこに行くんです?」
「なんだって?」
「今、おれも行く、とかいってませんでした?」
 英二は微笑んだまま答えた。
「あそこにさ」
 そういった英二の視線の先に、浩之と、そして拓也がいた。
「あそこ?」
 道場の中央の床を見ながら、祐介がいった。
「ああ」
 藤田浩之。
 月島拓也。
 そして──。
 柏木耕一。
 彼らがいる場所。
 そこが「あそこ」だ。
 おれも行く。
 あそこに──。
 もう行かないつもりだったあそこに──。
 行く。
「おれも……あそこに行く」




     第27話 英二

 ガタイのいい男だった。
 長身で、肩幅もある。
 一目で、何か格闘技をやっていそうだというのがわかる。
 実際に、男は柔道は二段の腕前であり、現在はキックボクシングのジムに通っていた。
 今まで、喧嘩で負けたことはない。一度負けても、絶対にリターンマッチを仕掛けて
相手をぶっ潰してやった。
 元々、喧嘩が好きなのだ。
 長い間喧嘩を売られないと、自ら売る。
 相手は誰でもいい、少しガタイのいい奴……時には自分よりもでかいのに喧嘩を売る。
 酒が少し入っているようなのがいい。
 素面だと、喧嘩を買わずに行ってしまう奴が多いからだ。
 だが、酒が体内に入っていると大概の人間が理性の幅が狭くなる。
 口で喧嘩を売って、向こうが手を出してきたら開始だ。
 体が触れた途端に、拳を、あるいは脚を叩き込む。
 相手が一人で余裕があれば投げて、関節技を極めてやる。
 そんな男だった。
「よく来てくれた。佐原(さわら)くん」
 その男を、家の主は笑顔で迎えた。
 緒方英二。
 ミュージシャン──というより、最近ではプロデューサーといった方が通りがいい。
妹の緒方理奈、そして森川由綺の二大アイドルは、どちらも英二がプロデュースしたも
のだ。
 男は、以前、この緒方英二に仕事を頼まれたことがあった。
 今回も、仕事を頼みたいと呼ばれたのである。
「早速、仕事の話をしようか」
 微笑みながらいった英二に、男──佐原はいった。
「まず初めに聞いておきたいんだが……この前の奴じゃないだろうな」
 真剣な表情であった。

 佐原は喧嘩屋である。
 と、いっても、もちろん自称しているだけで世の大半の人が彼を無職と断定するだろ
う。
 きっかけはなんだったか……。
 知人に喧嘩の助っ人を頼まれたことだったろうか。
 女を寝盗った野郎をぶっ叩いてやりたいが、そいつにごつい友人がついてやがるから
助けてくれ、とか……確かそんな話だったと思う。
 首尾よく佐原はそのごつい友人とやらを叩きのめして、佐原の知人も目的を遂げた。
 謝礼に酒を奢ってもらった。
 その話を聞いた別の知人が似たような話を持ちかけてきたので謝礼を現金でよこせと
いったら向こうが承諾した。
 それがきっかけだったと思う……。
 ある時、酒場で商売抜きの喧嘩をしていたら緒方英二に出会った。
 その場を取りなしてもらい、さらに酒を一杯奢ってもらっていい気分になって自分は
喧嘩屋だといい、冗談半分で、
「あんたも殴って欲しい奴がいたらおれんとこに来なよ」
 と、いったら、なんと英二がその場で仕事を依頼してきたのである。
「喧嘩というより、試合だがね」
 英二はそういって笑い、とある道場に道場破りに行って欲しいといった。
 門下生がゴロゴロいるようなところへ道場破りに行くのは危険極まりないので遠慮し
たいところであったが、話を聞いてみると、その道場には一人か二人しかいないらしい。
 そこにいる柏木耕一という男と英二の前でやり合えばなんと十万円をくれるという。
しかも、勝ったらではない、勝敗に関わらずだ。
 もしその柏木耕一とかいうのが予想を遙かに超える強さだったとしても、佐原は自分
のタフさに自信があった。それほどに大怪我を負わされるということはないだろうと踏
んだ。
 佐原はその依頼を受け、その柏木耕一というのがいる道場へ行ったのだが……これが
ひどい目にあった。(第11話参照)
 佐原が英二にいった「この前の奴」とはいうまでもなく耕一のことである。
「もしそうだったら……おれは帰るぜ」
 佐原は表情から怯えを隠そうともしなかった。
 かなり獰猛で喧嘩っぱやい男のはずなのだが、柏木耕一という存在にだけはもう二度
と関わりたくないらしい。
 だったら来なければいいようなものだが、英二は金を持っている上に、それを惜しむ
ということをしない。
 かなりの「上客」なのだ。
 それで、ノコノコとやってきたというわけである。
 それでも、やはり、相手があの男ならば恥も外聞もなく佐原は逃げるつもりであった。
「安心したまえ」
 英二がいった。
「今回の相手は彼ではないよ」
 佐原は安堵の溜め息を吐いた。
「誰なんだい? 相手は」
 耕一ではないと知ると、佐原の表情に活力と──獣性が溢れてきた。
「おれだ……緒方英二だ」
 英二は右手の親指で自分を指していった。

「本当にいいんだな?」
 その問いが佐原の口から発されたのは、それで五度目だった。
 それで、最後にしようと思っていた。
 もう、佐原と英二は向かい合っている状態である。
 「始まる」までにもはやなんの動作も必要としていない状態であった。
「かまわんよ」
 英二がいった。
「そうかい」
 佐原は呟いて、無造作に前に出た。
 この元ミュージシャン、現アイドルプロデューサーとスパーリングをすれば、十万円
の現金が転がり込んでくることになっている。
 この男の真意が、佐原は全くわからなかった。
 一体、何を考えているのか。
 英二は決して弱そうには見えないが、それほど強そうにも見えない。
 全くのずぶの素人ならともかく、柔道二段でキックボクシングをやっている自分にと
っては怖くもなんともない相手だ。
 まあ、依頼主の我が儘に付き合ってやるつもりだった。
 金をくれるのなら文句は無い。
 場所は、緒方家の地下スタジオ。
 プロレスやボクシングのリングぐらいのスペースが空いているので、かなり自由な動
きが可能だ。
 ルールは、目、金的への攻撃の禁止。倒れた相手への打撃禁止。肘、額の使用禁止。
ヒールホールドなどの危険な技の禁止。噛み付きの禁止。
 どこかで聞いたようなルールだと佐原は思っていたが、それがなんなのかは思い出せ
ないでいた。
 知っている人間ならば、すぐにこれが「エクストリーム・ルール」に酷似したもので
あることを看破しただろう。
 佐原は数歩前に出て停止した。
 今の前進が「試合開始」の意志表示であることは英二に伝わっているだろう。
 と、なれば、英二は構えを取るはずだ。
 その構えを見て、英二の格闘技の技量、経験がどの程度のものか大雑把に量るつもり
であった。
 英二の唇が微笑の形を作った。
 こちらの意図が見透かされているような気持ちを抱かせる笑みだ。
 人を食ったような、と英二は思われることが多いのだが、その原因の半分ぐらいはこ
の笑みであろう。
 英二の足がステップを刻み始める。
 両手が拳を握って頭の高さまで上がる。
 肘は曲がっていて、脇に引きつけられている。
 ボクシングか……。
 佐原はその構えを見て思った。
 そういえば……自分が英二と初めて会った酒場で、自分が柔道とキックボクシングの
経験者であることをいった時に英二が、
「ふうん、実はおれも学生時代にボクシングをやってたことがあってねえ」
 確かに、そういっていた。
 どれほどの選手だったのか詳しく聞いたわけではないが、今、目の前の構えとフット
ワークを見る限りではそこそこできるらしい。
 ボクサーを攻めるには足だ。
 格闘技の素人でも思いつきそうな常識だ。
 だが、軽快なフットワークで動き回るボクサーの足を捕らえるのは素人では無理だ。
そのボクサーの実力にもよるが、ある程度経験のある者でも難しい。
「足を攻めればボクサーはもろいよ」
 とかいっていた奴が実際にボクサーと喧嘩になった現場に立ち合っていたことがある。
 日頃の言葉通り、そいつは足を狙ってローキックを放ったのだがあっさりかわされて
右のフックを顎の横に喰らって脳震盪を起こし、一発でダウンしてしまった。
 でも自分は違う。と、佐原は考えている。
 なんといっても自分はキックボクシングをやっている。
 単純な理屈になるが、手足を使うボクシングだ。手しか使わないボクシングよりも攻
防両面においてバリエーションが多い。
 とりあえず、浅く踏み込んでローキックを放って様子を見る。
 英二は下がった。
 ボクサーがローをかわすにはそれしかないだろうな。
 佐原はそう思った。
 瞬間。
 英二が前に出てきた。
 蹴り足が戻るのとほぼ同時に英二は佐原の前にまで移動していた。
 全身の動きが止まる前に右腕が走っている。
 右のストレートだ。
 それが佐原の右腕を叩いた。
 防いだには防いだが、右腕に痛みが生じる。
「この!」
 佐原が反撃するよりも早く。
 英二の右腕が引かれ、次の瞬間、英二の全身が佐原の腕はおろか足の射程距離外にま
で脱していた。
「くっ!」
 これは、相当のレベルのボクサーだ。
 今の極めて鮮やかな一撃離脱でわかる。英二はアマチュアだといっていたが、プロテ
ストに充分に合格するだけの実力はある。
 佐原の表情から余裕が消えた。
「シッ!」
 短く呼気を吐くと同時に、ローキックを打ち込む。
 今度は深く踏み込んだ。
 両手は頭部をガードしている。
 頭部へ反撃を受ければこれで防げる。
 もし、ボディーに来たらそれはそのまま受ける。
 英二のパンチは思っていたよりも強力なようであるが、頭部ではなく腹部であれば、
思い切り水月にでも喰らわない限り一撃でダウンさせられることはないだろう。
 喰らう瞬間に体をずらして急所への直撃を避ける程度の技術は持っているつもりだ。
 そして──。
 反撃が頭部へ来て防ぐにしろ、腹部へ来て受けるにしろ、その後の方針は決まってい
る。
 踏み込む。
 踏み込んで掴む。
 高レベルのボクサーの怖さは素早いフットワークにある。佐原ほどの体格と格闘技の
経験があれば英二程度のウエイトから繰り出されるパンチはそれほどに脅威ではない。
 素早い動きで攻撃をかわされ、体勢が崩れたところに死角からパンチを貰うのが一番
怖い。
 キックボクシングだけでなく、柔道の経験もある佐原がそれを防ぐとしたら最も手っ
取り早く確実なのが組み合ってしまうことだ。
 下は畳ではなく床だ。
 技の決まり具合によっては投げ技一発で終わる。
 バランスを崩して足払いで倒したとしても、ウエイトで勝る佐原が倒れる際に体重を
乗せていったらそれだけで英二に大ダメージを与えられる。
 やはり、自分の方が有利だ。
 予想を遙かに上回る英二のパンチ力とスピードにやや度肝を抜かれてしまったが、冷
静に考えれば考えるほど自らの有利が確信されていく。
 佐原の放ったローキックに対して英二は前に出た。
 なるほど。
 蹴り足が伸びきる前に接近してしまえば、佐原のスネ、若しくは足刀ではなく腿がヒ
ットポイントになってしまい威力は著しく軽減する。
 佐原の腿が英二の足に接触した。
 もちろん、ダメージは少ない。
 それで……その後はどうするんだい?
 この通り、頭はしっかりとガードしてあるぜ。
 英二の口から鋭利な刃物が空を切った時のそれに似た音が発された。
 そして打つ。
 ボディーへフック。
 左脇腹に右拳がめり込んでいた。
「くうっ」
 効いた。
 効いたぜ。
 でも、この程度の痛さは覚悟してたさ。
 佐原の両手が前に向かって伸びる。
 さっきみたいに逃がさねえぜ。
 こっちはもう、あんたを捕まえるのを狙って待ってたんだ。わざと腹を打たせてよ。
 先程のように英二は一撃を加えて即座に後退しようとしたが、佐原の両手がその体に
到達する方が早かった。
 左手が、英二の右手首を掴む。
「おおうっ!」
 前に引かれた英二の腹部に佐原の腰が激しく接触した。
 佐原は英二に背を向けていた。
 曲がった右腕が英二の右脇にガッチリとはまっている。
 一本背負いで床に叩き付ける気だ。
「ふんっ」
 佐原の腰が跳ね上がった。
「!……」
 技への入りはスムーズであったし、途中経過も素早くこなしたつもりだった。
 投げきれない。
 英二の両足が佐原の腰に巻き付いているからだ。
 何時の間に!
 投げられる前に英二が自分に飛びついていたのだ。
 佐原の首に英二の左腕が触れた。
 次の瞬間には、ぐるりと回って首が極められていた。
「うぐぅ」
 喉を真正面から圧迫され、そちらに意識が行った刹那、英二は佐原に掴まれた右腕を
振って拘束から脱し、それを縦にして左手の先に添え右掌を佐原の後頭部に回した。
 裸締め。
 スリーパーホールド。
 呼び方はどっちでもいい。とにかく、極められた。
 佐原の視界に薄い白い幕がかかっていく。脳に酸素が足りなくなっている証拠だ。
 このまま、落ちるのか……。
 意識が失われるかと覚悟した時、首への締め付けが緩み、やがて消失し、腰への締め
付けまでもが消えた。
 後ろから声がした。
「まだ落ちていないだろ」
 英二の声だ。
「少し呼吸を整えればまだできるだろ?」
 そういえば……。
 と、佐原は思った。
 この闘いの前に色々とルールについて打ち合わせをした。佐原は気付かなかったもの
の、それが「エクストリーム・ルール」に似たものであることは既述した。
 そういえば……。
 色々と禁止事項などを決めたが……。
 そういえば……どのような状態になった時にこの闘いが終了するのか。
 それだけは……決めていなかった。




     第28話 過去

 後ろに立っていた。
 その男が──。
 背中に、研ぎ澄まされた刃物のような気配が当たっていた。
 緒方英二が、後ろに立っていた。
 佐原の呼吸が次第に回復していく。
 脳へ酸素が順調に送られているのだ。時を刻むごとに、思考が鮮明になっていく。
「いやぁ……まいった」
 声が漏れた。
 と、その声から刹那にも満たぬ寸瞬の時を置いて佐原の上半身が左向きに回転し、左
手が伸びて疾走していた。
 裏拳で背後の英二を狙ったのだ。
 その裏拳は打ち抜けずに、すぐに何かに当たって停止した。
 英二の左腕に止められたのだ。
 佐原が中腰になっているために、その裏拳はもし阻まれなければ英二の脇腹の辺りに
炸裂していただろう。
 降参の意思を口にした直後の奇襲なのでほぼ確実に当たると思っていた。そのために
思い切り打ち抜くつもりで行った。
 だが、甘かった。
 そのような思惑など、英二は見通していたのだ。
 思い切り打ったために戻しが遅れた。
 英二の左手が翻って佐原の左手首を掴んだ。
 佐原は中腰のまま英二に体の左側面を向ける形になっている。
 佐原の左手首が捻りながら引かれた。
 捻られまいと力を込めた瞬間を見計らったかのように、英二の右拳が佐原の左耳の下
の辺りに打ち下ろされた。
 ジョーと呼ばれる急所に、英二の拳は炸裂していた。
 佐原の顎の先端が、勢いよく右にふっ飛ぶ。
 脳が激しく揺れていた。
 脳震盪、とまでは行かないがそれの直前の状態であろう。一瞬だが、意識が完全にど
こかへ飛んで無くなった。
 気付いた時には、ジョーを打った英二の右腕が佐原の左肩の上を通り抜けていた。
 左肩に、ずっしりと英二の体重がのしかかってきた。
 その重みに負けて自分の胸が床を打った。
 左腕に重く、鈍い痛みが生まれていた。
 脇固め。
 よりにもよって、柔道二段の自分がボクサーの英二に元々柔道の関節技である脇固め
を極められるとは。
 いや……。
 この男をボクサーだと思っていたのが間違いの大元だ。
 こいつはそんな簡単な形の枠にはまっている人間ではない。
「折るよ」
 耳元で声がした。
 英二の声だ。
「折るよ」
 もう一度、囁いた。
「治療費は別に出すから」
 不思議と、優しい声だった。
「待て!」
 折れた。
「くああっ!」
 左肘が折れ曲がっていた。
「これか……」
 英二は立ち上がりながら呟いていた。
 これか……。
 これが人の腕を折った時の感触か……。
「すまないな」
「う……ああ……」
「一度もね、人の骨を折ったことがなかったんだよ、関節技のやり方は知ってるのにね」
 だから、折ってみたかった。
 この男は初めから佐原の腕でも脚でもへし折ってしまうつもりだったのだ。
「病院に行こうか」
 そういって、英二は部屋の隅のテーブルに置いてあった車のキーを取り上げた。

 自分にとっては、それが引退試合であった。
 高校生の時からアマチュアでボクシングをやっていて戦績は決して悪くなかったし、
自分でもいい線を行っていると思っていた。
 しかし、ボクシングは大学三年生の夏のその試合で止めるつもりであった。
 プロテストを受けてみろと部の先輩に何度かいわれたが、その頃、既に英二は音楽に
よって身を立てる道を選択していたのだ。
 自分には、そっちの才能があるのだと、揺るぎ無く確信していた。そろそろ、音楽一
本でやっていきたいと思っていた時に試合の話が来たので、それを引退試合にすること
にした。
 音楽ほどではないにしても、打ち込んできたボクシングである。最後の試合を無様な
ものにしないためにも必死に練習した。試合前の一ヶ月だけは、全てをその時間に費や
したといっていい。
 相手は、何度か試合を見たことのある同年齢の他の学校の男だった。見るたびに体が
引き締まっていき、技術も向上しているので、これはと思っていた男だ。きっと、真面
目に練習に取り組んでいるのだろう。
 試合前に後輩が相手の情報を仕入れてきた。
 なんでも、将来はプロを目指しているらしい。来月に受けるプロテストの結果如何で
はこれがアマチュア最後の試合になるということだ。
 英二は、全力で行った。
 相手も、全力で来た。
 その日行われた試合の中でも一際客席から沸き上がる歓声は大きかった。
 2ラウンドまでに双方、幾度かのチャンスを得て激しく打ち込んだが、ダウンを奪う
には至らなかった。
 3ラウンドのゴングが鳴ってから十秒も過ぎていなかっただろう。
 英二が素早く前に出た。
 相手は一歩も退かなかった。
 接近戦になり、英二が放った右のアッパーが相手の顎を突き上げた。
 セコンドの先輩が「よおおおおし!」と大声で叫んでいた。誰が見てもクリーンヒッ
トなのは明らかな一撃であった。
 相手はロープに背中を預けて、すぐに前のめりにダウンした。
 カウント8で立ち上がってきた。だが、アッパーのダメージがまだ残っているようで
動きが良くなかった。
 大したファイトだ。と、英二は感心しながらも、容赦なく打ち込んでいった。
 感心が恐怖に変わったのは5ラウンドの半ばぐらいであった。
 何発もいいのを入れているのに相手は闘うのを止めない。
 憑かれたように前に出てくる。
 英二は打った。
 ジャブからストレート。
 フック、アッパー。
 英二がパンチを打つのに費やしたエネルギーが一体どこに行ってしまったのか。相手
の男のダメージになってその体の中に蓄積しているのは確かである。
 確かであるが、それを疑う心が英二の中に生じてくる。
 その男は、それほどにタフだった。
 5ラウンド終盤、英二は接近して立て続けに打った。
 相手がぬうっと前に出てきた。
 いや、前に出てきたのではなく、ゆっくりと前方に倒れようとしていたのかもしれな
い。
  その瞬間、英二が放った右ストレートが真正面から顔面を捉えた。
 三メートルほど後方に泳いで、相手はまた前進してきた。
 今のでダウンしない!?
 英二が思わず後ずさった時、レフリーが二人の間に入っていた。
「なんだ!?」
 無意識の内に、英二は叫んでいた。一体、何が起こったというのか?
「ストップ!!」
 レフリーが叫んだ。
 その叫びが聞こえないのか、相手は前に出てくる。
 レフリーが体全体でそいつを止めた。
 どうも相手は既に意識がはっきりしていないらしい、レフリーのことを敵だと思って
殴ってしまうのではないか。
 そんな危惧が英二に生まれた。
 だが、パンチが唸ることはなかった。
 どっ、と相手側のセコンドやボクシング部員らが五人も六人もリング上に上がってき
てレフリーに代わって前進を続けようとする男の体にしがみついた。
 そういえば……。
 打っても打っても前に出てくる相手に恐怖を感じて気付かなかったが、5ラウンドも
2分を過ぎた辺りから相手の反撃がぱったりと途絶えていた。
 その頃には、後から考えると恐怖感に引っ張られたゆえか、けっこう大振りなパンチ
を放っていたはずだ。致命的なスキもあったに違いない。
 にも関わらず、反撃を受けなかったということは、相手にそれだけの力が残っていな
かったということだ。ただ前進することに、全ての力を注いでいたのだ。
 セコンドについていた先輩に自分が勝ったことを告げられても、英二はそれを実感で
きなかった。
 自分が勝ったということがわかったのは、リングの上に一枚のタオルが落ちているの
を見た時だった。
 相手のセコンドがたまらずに投げ込んだものだろう。
 自分は勝ったのだ。
 勝った。
 勝利の感触が心に触れた。
 ふと、相手のことが気になった。
 相手はまだリング上にいた。担架が来るのを待っているらしい。
 凄い顔をしていた。
 そういう面相に仕上げた張本人だが、その顔には心から同情した。英二とてきれいな
顔はしていないが、まだだいぶマシである。
 物凄い試合だったので場内は未だに騒然としていた。
 その騒然とした中で、その小さな声が聞こえた。
「……まだ……やれます」
 確かに、聞こえた。
 確かにいった。
 確かにいったのだ。
 ボロボロの、もう立てないような男がいったのだ。
 まだやれる、と。
 その体の状態を見ればただの戯言に過ぎないように思える。
 やれるはずがない。
 その体で、やれるはずがない。
 いくらやれるといったところで、やれるはずがないではないか。
 だが、そんな体でいったのだ。
 まだやれる、と。
 体は、もうやれない。
 でも、心はまだやれるのだ。
 この男の心は、まだやれるのだ。
 対して自分はどうか──。
 確かに、体はまだ行ける。
 だいぶ疲労してはいるものの、あと1ラウンドぐらいならダウンせずに戦い抜けるだ
けの体力は残っている。
 でも、心は駄目だ。
 もうやれない。
 もうやりたくない。
 心は、もうやれない。
 全く逆だ。
 この男と自分は──。
 自分は勝ったのだ。
 紛れもない勝者だ。セコンドのタオル投入が無くともあの相手の状態と自分のそれを
見比べれば一目瞭然だ。
 相手はもう闘える体ではない。
 でも……。
 まだ闘える心がある。
 自分の心は、もう闘いをいやがっている。
 今、あの男が立ち上がり、向かってくれば、自分はリングから逃げ出すに違いない。
 英二は、この試合を最後に決めていたことを心底よかったと思った。
 もう、こんなことをしなくてもいいのだ。
 もう、こんなところにはいたくなかった。
 レフリーが英二の右手を高々と上げて、その勝利を宣言した。
 拍手と歓声を浴びながら、英二は自分の中の虚しさと闘っていた。





     第29話 転章2

 知り合いの青年が、店の窓にシャッターを下ろす音で、英二は時計の針が自分が思っ
ていたよりも遙かに進んでいたことに気付いた。
 既に、十一時を回っている。喫茶店エコーズにはもう、英二以外に客はいない。
「ああ、もう閉店か」
「英二さん、スポーツ新聞見ましたよ」
 青年がいった。そういえば、今日はこの青年とまともに言葉を交わしていなかった。
英二が来店した時はまだ店が混んでいたこともあったが、英二が、いつになく黙ってい
たからだ。
「どの新聞だい?」
「ええっと……『緒方英二血迷う』とかいう見出しのやつです」
「ああ、あれか」
 自分が三ヶ月後のエクストリームの一般部門に出場することを報じた新聞の中でも、
最もその行為を嘲ってくれたやつだ。
 と、いっても、どの新聞も「何を考えてるんだこの男は?」というのが基本的なスタ
ンスらしいが……。
「さっき、理奈ちゃんが来ましたよ。英二さんが来るちょっと前に」
「へえ」
 確か今日は、この近くのテレビ局で歌番組の収録があるはずだから、その行きか帰り
にここに寄ったのだろう。
「なんかいってた?」
「兄さんが馬鹿なことやろうとしてるから僕の方からなんかいってやってくれって……」
「はは……馬鹿なことか」
「なんか理奈ちゃんがいうには、学生時代にちょっとボクシングでいい線行ってたから
って、兄さんはエクストリームを舐めてるって」
「うーん、舐めてるつもりはないんだけどねえ……」
 しかし、理奈から見たら英二はそういう情報に疎いように見えているに違いない。自
分が妹にはその類のことを知らせないようにしているのもある。
 さらに、理奈は今出演しているドラマのために、エクストリームの試合のビデオをか
なり多く見ている。何も知らないはずの兄に向かって、一言いってやりたくなるのも当
然だろう。
 だが、英二は決してエクストリームを軽んじてはいない。むしろ、試合の観戦数は理
奈よりも多いかもしれない。
「なんでまた。エクストリームに出場しようなんて思ったんです?」
 青年がカウンターの奥で洗い物をしながら問うた。
「またやりたくなったんだよ。今度は総合格闘をね」
 やりたくなったからやる。
 やりたくなくなったら止める。
 一番英二に相応しい答えかもしれないと青年は思った。
「でも、何かきっかけがあったんじゃないですか?」
「……そうだな」
 英二は、手短に、藤田浩之という男の話をした。
 その話の過程で、もちろん柏木耕一と月島拓也の名も出た。
「それじゃあ、その人たちの試合を見たのがきっかけですか」
「いや……」
 英二は、ぽつりと呟いた。
 そして、それきり沈黙した。
 青年が、洗い物の手を止めて、英二を見た。
「たぶん、一番最初のきっかけはあれだろうな……」
「あれ?」
「昔の知り合い……っていうほどの仲じゃないかな……とにかく、知っている人間がね、
テレビに出てたんだよ」
「テレビですか」
「ああ、一年ぐらい前かな……深夜のボクシング中継だったよ」
 打たれても打たれても前に出ていくスタイルは、あの頃と全く変わっていなかった。
「プロになっていたのか……」
 深夜の0時過ぎに、英二はテレビを見ながら呟いた。
 自分と同年齢だから、ボクサーとしてはもはや若いとはいえない。
 試合途中のアナウンスで、それがウエルター級の日本タイトルマッチであり、彼が挑
戦者であることを知った。
 6ラウンドまでで三度のダウンを奪われ、7ラウンド開始早々、相手が打ち疲れたの
を衝いてラッシュを仕掛け、二分の間に二度ダウンさせた。
 その二度目のダウンから相手は起き上がれずにそのまま担架の世話になった。
「挑戦者のいつもの勝ちパターン!」
 そんなアナウンスが飛んでいた。どうやら、相変わらずのファイトスタイルでここま
でやってきたらしい。
 それを見た時──。
 心が動いたのだ。
「英二さん?……」
 洗い物を済ませた青年が、手を拭きながら英二に問い掛ける。英二は、いつしかその
時のこと、そしてあの時のことを思い出して、青年の声が聞こえていなかったらしい。
「あ、ああ、なんだい」
「で、その昔の知り合いがボクシングやってるのを見て、やりたくなったんですか?」
「ああ」
 英二はそう答えた。我知らず、拳が強く握られていた。
「おれの心が、やりたいっていうんだよ」
「……」
「おれの闘う心は……まだ死んでいなかった……」
「……英二さん」
 青年が、空になったコーヒーカップを下げ、グラスを二つ棚から取り出して、英二と、
自分の前に置いた。
「出場を辞退する気は無いんですね?」
「無い」
「……そうですか」
 青年が苦笑して、そして微笑んだ。
「ま、今ので理奈ちゃんの頼みは聞いたってことで……」
 また苦笑した。
「もう止めませんよ」
「藤井くん……」
「ブランデー、嫌いじゃないでしょ?」
 青年が、冷蔵庫からブランデーの瓶と、氷の塊を出してきた。
 アイスピックが氷解を削り、削り出された氷がコップに投じられる。
「いつからここは酒を出すようになったんだ?」
「売り物じゃありませんよ、仕事が終わったら、時々、彰と一緒に飲むんです」
「そうか」
 英二がそういっている間にも、コップにはブランデーが注がれていた。
 氷の表面を滑って琥珀色の液体がコップの底に溜まっていく。
「いや、そのままでいただくよ」
 冷水の入った水差しを手に取った青年を制して、英二は、グラスを口につけた。
「それじゃあ、おれも、今日は強く行くかな……」
 青年も、水差しを傾けることなく、グラスを口に持っていった。
「試合、見に行きますよ」
「ああ」

 あれは、確か二週間ぐらい前だったと思う。
 道場に行くと、師匠と、見たことのない二人の男が何か話していた。男の片方は、や
たらと高価そうなカメラを持っていた。
 二人の男は自分と入れ違いで帰ろうとしていたところらしい。
「おう、耕一、丁度いいところに来た」
 師匠の伍津双英がそういって手招きした。
「彼がそうなんですか?」
 と、好奇心溢れる視線で耕一を見ながら、男の一人がいった。
「よし、写真をお願いしますよ」
「うむ」
 と、双英が頷くので、耕一はカメラマンらしい男が指示するままにファイティングポ
ーズを取り、写真を何枚か撮られた。
「それでは、この記事は、二週間後発売の号に載りますから」
 そんなことを男が確かにいっていた。
「先生、あの人たち、どっかの雑誌の人ですか?」
「うむ、週刊『格闘道場』とかいう雑誌の記者だ」
 なんでも、伍津流の秘密兵器(ということになっているらしい)柏木耕一がエクスト
リームに出場するということで取材が来たらしい。
「本当はお前にインタビューがしたかったらしいんだが、時間の折り合いがつかんらく
してな、代わりにわしが答えておいた」
「はあ、そうですか」
 その時は、別になんとも思わなかった。
 ただ、雑誌に自分の写真が載るのかと思うと、やや恥ずかしいと思ったぐらいである。
 だが、二週間後、その『格闘道場』最新号を見て、耕一は開いた口をしばらく閉じら
れないことになる。

 昼休みに、昼食を済ませて席に座っていたら、少し眠気が襲ってきたので微睡んでい
た。
 別に聞こうとしていたわけではないが、隣で数人の男子が話しているのが聞こえた。
 エクストリームがどうのこうのいっている。
 薄目を開けて横を見ると、一冊の雑誌を広げてそれを見ながら話しているらしい。そ
ういえば、そいつらは格闘技が好きで、よくそんな話をしている。
「なあ……柏木に聞いてみようぜ」
 そんな声が聞こえた。
 は? あたしに何を聞くって?
 けっこう、格闘技を見るのは好きな方だが、その連中ほどの知識は持ち合わせていな
い。
「絶対、これそうだよ。鶴来屋で柏木っていったら、あの柏木家以外にねえって」
 そんな声も聞こえた。
 梓は、いい加減歯がゆくなって目を開けた。
「さっきからなんだよ。あたしになんか用?」
 眠っていると思っていた梓にいきなり問われて、そいつらは驚いたようだが、やがて、
梓の方から尋ねられたのを幸いといわんばかりに聞いた。
「お前の親戚か何かに、柏木耕一って人いるか?」
「え? 従兄弟にそういう名前のがいるけど……それがどうしたんだよ」
「これ、その人じゃないのか?」
 そういって、ある男子が広げたままの雑誌を梓の机の上に移した。
「……」
 見覚えのある人物が、ファイティングポーズを取って、こちらを睨み付けている写真
がでかでかと載っていた。

 伍津流の刺客、柏木耕一豪語す。「加納は一分で潰せる!」

 と、見出しが踊っている。
「……」
 その記事の中に、隆山にある鶴来屋という旅館の経営者の親戚であることも書いてあ
った。
「なあ、どうなんだよ」
「これ、なんて本だよ」
 梓は、雑誌の表紙を見て、それが『格闘道場』という雑誌であることを確認した。
 それから三時間ほど経った頃、柏木家の玄関を慌ただしく開いた梓の姿があった。
「楓っ、初音っ、いるんでしょ」
 梓は、居間のテーブルの上に帰りがけに買ってきた『格闘道場』最新号を置いて、そ
れを広げた。
「なあに、梓お姉ちゃん」
「何かあったの?」
 やってきた二人の妹に、梓は、開いた『格闘道場』を見せた。
「わあ、凄い。耕一お兄ちゃんが本に載ってる!」
 初音は素直に驚いた。
「……耕一さん……写真写りがいいですね」
 楓は、内容よりもそれが気になるらしい。
「全く、耕一の奴、なんか格闘技を始めたってのは聞いてたけど、こんな話は聞いてな
いぞ」
 梓は、そんな重大なことを耕一が教えてくれなかったのが頭に来ているらしい。
「応援に行かなきゃね」
 初音がウキウキとした様子でいった。
「うん」
 楓が頷いた。
「まあ……しょうがないねえ、応援に行ってやりますか」
 梓はぶつくさいいながら立ち上がり、いそいそとカレンダーに印を付けた。
 エクストリーム大会は、もう二ヶ月半後に迫っている。

「先生、なんですかこれは」
「ああ、例の雑誌か」
「先生、加納は一分で潰せるとか記者の人にいいました?」
 そもそも、耕一が今度のエクストリームに出場するのは『ザ・バトラー』誌上で伍津
流を「なんとか流」呼ばわりした格闘家、加納久(かのう ひさし)に双英が激怒した
のが原因である。
「いったぞ」
「なんか、おれがいったことになってるんですけど」
「……大勢には影響なかろう」
「そんな……なんかおれ、ヒールみたいになってんですけど」
「……試合には影響なかろう」
「まあ、そうですけどね」
「さ、練習を始めるぞ」
「……はい」

                                     続く




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