おれの桶狭間






 さて、タイトルにある通り桶狭間である。織田信長の行った戦闘において最も有名、と
いってしまって差支えはあるまい。長篠、姉川などの諸合戦もその知名度においては桶狭
間には一歩譲らざるを得ないだろう。
 この桶狭間の合戦、諸説が多い。もういいから統一見解をさっさとまとめてくれといい
たくてしょうがないのだが厳正たる歴史学にはそういうこといったらいけないらしいので
あまり表立ってはいわないようにしている。裏では物凄いいっている。
 ここ数年、歴史学の発達などにより先進の唱えた新説が裏打ちされて定説否定が多く見
られる。その中でも「とりあえずこいつをいっとけ」とばかりにシバかれているのがいわ
ゆる「定説・桶狭間の合戦」である。
 興味の無い人は全く知ったこっちゃないのだろうが、逆にある程度興味のある人間にと
ってはもはやその定説否定は目に馴染んですらいる。

 定説の一つ。今川義元は三好などの輩が政治を壟断しているのを憤り、ここに名家今川
家の当主としてそれを正さんとして軍勢を率いて京都に上洛し天下に号令しようとした。
その率いるところの兵はおよそ四万五千。

 この定説は、けっこう早期にあっさりと否定されて大した反響も無かったようだ。それ
への根拠として義元が京都への通り道や、京都周辺への根回しをした形跡が無いことが挙
げられている。いかな名家といえどいきなり軍隊連れて乗り込んでは受け入れられないだ
ろう。信長だって将軍足利義昭を奉じて通り道の近江浅井氏と同盟を結んでから事を起こ
している。ゆえに義元のこの度の軍事行動は尾張との国境での織田との争いを解決するた
めであろう。兵力四万五千というのも過大で領土の広さなどから換算した動員力からして
せいぜい二万五千が精一杯だったのではないか、といわれている。
 これは、ようするにこの戦闘勃発における義元の動機の部分である。兵数もそもそも実
数よりもでかく吹きまくるのがむしろ兵法の内のことであれば過大に今川が吹聴していた
のだろう、と納得もいく。この辺りは、別に行動そのものに関わる部分でないので大した
反響も無かったのであろう。義元の動機が上洛だろうが国境線の不穏鎮定だろうが、実際
に万を超える大軍は境を越えて尾張に侵入したのだから。

 定説の二つ。この大軍勢を迎えるにあたり、信長は緒戦を捨てても今川方の油断を誘い、
機動部隊による敵中深く長躯しての本陣奇襲作戦を行い、見事、義元が本陣を置いた窪地
を見下ろす高所に回り込み、一気に逆落としの奇襲をかけたので義元も首を討たれてしま
った。すげえぜ信長。

 いわゆる奇襲説である。これへの否定説は、実はおれはかなり前に目にしたことがある。
何かの信長関係の本だったと思うのだが、それを読んでいた時に、最近そういう否定説が
唱えられている、ということが付け足し程度のものではあるが書かれていたのを目にした。
 その根拠になっているのが信長研究をする者はとりあえずこれを読んでおかにゃあ始ま
らんといわれる太田牛一の「信長公記」である。確かに、これを見ると、義元は窪地では
なくちゃんと周囲を見晴らすことができる高地(おけはざま山と書かれている)に本陣を
置いているし、どう見ても迂回したようには思えない。もろに正面からカチ込んでいる。
これは中々に衝撃的である。その一と違い、行動そのものへの疑義であるからだ。

 定説の三つ。信長は情報を重視した。その証拠にこの合戦で功第一といわれたのは義元
の首を挙げた者ではなく、義元の本陣の場所を報せた簗田出羽守であった。大将首を獲っ
た者が功第一といわれていたあの時代にそういう一見地味ぃなしかし重要な働きをした者
を賞するとは、近代的だぜ信長。

 情報戦勝利説である。これへの否定説は実はつい最近おれは目にした。そもそも、それ
がこの文章を書くきっかけといってもいいぐらいである。
 その二において迂回奇襲説は否定されたものの、広い意味での奇襲というのは確かだっ
たのではないか。まさか小勢の信長側から突っかけてくるとは思わずに気を抜いていた今
川方だったが正確な本陣情報を掴んでいた信長がここぞと猛襲してきたためにやられてし
まったのではないか、と。運も良かったが、やはり情報戦を重視したればこそだ、と。そ
ういう「広義奇襲説」というか「心理的奇襲説」みたいなものをおれは思ったのである。
事実、奇襲説否定を受けてこういうこと考えた人はけっこう多かったようだ。
 だがしかし、これも牛一の「信長公記」によるとえれぇあっさり否定されてしまうのだ。
この簗田出羽守という人物が義元本陣の場所を報せてきた、ということが一切書かれてい
ないのだ。誰だお前は。ということらしい。
 おれも誰だお前はと思ったので所持している角川ソフィア文庫版信長公記を見てみた。
つうても全部探すのも面倒なので巻末の人名索引を引いた。ありがとうソフィア。
 それによると、一応そういう人物は実在したようだが、初出が浅井との合戦の辺りであ
り、やはり桶狭間辺りにはきれいさっぱり姿が見えない。
 そして「信長公記」によると、信長は義元本陣へカチ込む直前、山際でさすがに家臣が
止めてくださいというのに「あいつらは昨日鷲津と丸根の両砦を攻めて疲れちょる。数が
少ないがわしらは新手じゃ、恐れるな」といったということになっている。これは、明ら
かに信長が敵状を誤認していた。死に物狂いで突っ込んだところ、そこがたまたま義元の
本陣だったのであって別段情報戦を重視したということはない、とのこと。

 以上が、桶狭間における主な「定説」とそれへの「否定説」であるが、その一は、この
際論ずることもあるまいと思う。既述の通り、行動そのものへの否定ではないからだ。
 さて、これもまた既述の通り、おれがこういう文章を書いているそもそものきっかけは
その三である。信長は迂回もしてないし敵の正確な情報も掴んでいなかった。ということ
を知った時、おれは動揺した。だがまあ、それならそれでよい。しかし、それならそれで
疑問が沸いてくるのである。疑問は単純だ。
 なんで信長はこんな戦をして勝ってしまったのか。
 たまたまだ。といわれたら、まあ、そんなこともあるよね、というしかないのだが、た
またまで済むなら「歴史事実」などという曖昧なものはほとんどたまたまで済んでしまう。
たまたま以外の理由は無いのか。と、そう思ってこの文章を書き始めたといっていい。

 一連の経緯を追っていこう。その一でいうた義元出兵の理由である。この時期国境線が
不穏になっていたのだ。それは具体的にどういうことかというと、信長の父信秀の死後、
鳴海城主の山口左馬介とそれに呼応した沓掛城主近藤景春が今川につき、さらに山口が大
高城を攻め取ってしまったのでこれへの対処として信長はその周辺部に砦を築いた。これ
は付城という戦法でこの時代多用された。ちなみに城と砦の違いは規模である。城よりも
小さいのが砦である。しかし、その基準を教えろいわれたらわからん。明確な線引きがな
いのだ。
 地図を見ると、沓掛城というのは信長の本拠地からはけっこう離れたところにある。そ
のため当面の奪回は諦めたのか、付城は築いていない。
 鳴海城に対しては、善照寺砦と中島砦を、大高城には鷲津砦と丸根砦を付城として築い
ている。そうやって糧道を断っていたところ、義元がそうはさせじとカチ込んできた。
 まず沓掛城に入りそこで軍議をこらして、大高城救援のために鷲津砦と丸根砦を攻め落
とすことを決定する。その気配を感じた両砦からは救援要請が来る。
 これを信長、シカトする。もうシカトとしか形容しようがない信長のアレぶりが信長公
記に描写されている。

 戦の手立てはこれなく、世間の御雑談までにて(ちょっと要約した)

 と、ある。ここでわざわざ雑談というからには本当に関係無いことを話していたのだろ
う。少しでも迫り来る今川勢について触れていれば「雑談」という言葉は使わないだろう。
「最近どうだ」
 とか、いっていたのだろう。家臣連にしてみればどうもへったくれもねえよという心境
だろう。いつ対今川の話になるのかと思っていたであろう。すると信長、
「もう遅いから帰って寝ろ」
 と解散を命じる。みんな、寝れねえよこんな状況、とは思ったであろうが。いっぱいい
っぱいで脳みそ死んでんじゃねえのか、とかこそこそ陰口叩きつついわれた通り帰ってし
まう。
 この辺り従来の定説では、信長は既に心中に義元撃滅の策があったために余計なことい
わずにいたのだ。下手に我に秘策ありなどといってそれが義元に伝わるのを恐れたのだ、
という。
 たまたま説だと、もう何やったってしょうがねえ、明日は死んだるかい。人間五十年、
下天の内をくらぶれば……。という自暴自棄の心境であったのだろう。という。
 定説はもう否定されている。しかし、たまたま説だと面白くない、もとい、御雑談など
していたのと矛盾するように思う。そんな心境だったら別段それが義元に知れることなど
頓着せずに「明日は死を覚悟してカチ込んじゃるけえ、ついてきたい奴だけついてこい。
俺は寝る!」とさっさと寝てしまいそうなものである。
 では、どう作、もとい、どう解釈すればいいのか。
 信長は別に一発逆転の作戦もなければ、それほどに事態を悲観もしていなかったのでは
ないだろうか。難しい戦だが、今川軍を追い返すことは十分可能だ、と思っていたのでは
ないか。しかし、それにはやはり決死の覚悟は欠かせない。それを見極めようとしていた
のではないか。
 翌朝、案の定鷲津、丸根の両砦から「はよ来い!」という注進が来る。ここにおいて信
長、高名な敦盛を舞う。

 人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。
 一度生を得て、滅せぬもののあるべきか。

 と、舞うや出陣合図の法螺貝を吹かせ、具足を持ってこさせ、武装しつつ飯を立ち食い
し、兜を被って出陣した。んなハイスパート出陣をかますもんだから当然即座に着いて行
けたのは回りにいた小姓衆だけである。名前は省くがその数六騎という。
 熱田まで突っ走った信長、ここでちょっと待つ。既述の六騎に、雑兵が二百人ばかり着
いてきていた。このハイスパートに着いてくるとは騎乗の身分ではない雑兵といえど、こ
れはよほどの精兵ではないかと思われる。
 そもそも疑問なのだが。このハイスパートで大将が突っ走ってしまい、家臣が慌ててそ
れを追う、というシーン。おれはこういうシーンを信長にばかりイメージしている。他の
武将でこういうことをした、ということを寡聞にして知らない。もしかしたらあるのかも
しれないが、とにかくそういうことするのは信長、というイメージがある。
 その疑問はさておき、別の疑問だが、なんで着いていくのか、ということである。もう
そんなもん着いて行かないでいいのではないか、とか思ったりもするが、それはもう信長
が出陣を下知して出ていったら即座にそれに追随しないとタダじゃ済まない、という意識
が織田の兵たちにあった。そうなるように調練していたのではないか。
 熱田近辺で鷲津、丸根から黒煙の立ち上るのを見てもはや両砦は陥落したと見なし、善
照寺砦へと入る。
 ここで義元はおけはざま山で休息していたが両砦陥落を喜び、謡を三番うたわせた。そ
ういえば定説というほどでもないと思い書いてはいなかったが、今川義元が公家趣味のお
はぐろ大将で、この時もめっさ油断しとった。という話もあるが、これは負けたからいわ
れていることであろう。謡というが、それなら信長も出陣前に敦盛を舞っている。義元が
うたわせたその謡とやらの内容が知りたいものであるが、おれが調べた限りではわからな
かった。勝利を祝い、士気を鼓舞するような内容だったのではないか、と推測する。

 信長が善照寺砦に入ったのを見た最前線の中島砦から兵が打って出た。数は三百ばかり
と信長公記にいう。その時おけはざま山へ陣取った義元の兵力は、二万五千は各所に散ら
しているので五千程度であったかと思われる。細かい数に関しては断定はできないのだが、
一応は最前線と接しているおけはざま山に義元が陣を構えるのであるから、全体的な兵数
から見てそのぐらいはあったと考えたい。
 当然ながらその三百、返り討ちに合ってしまう。佐々隼人正、千秋四郎という名のある
武士も討ち取られてしまった。この二人は名を挙げられているだけあって
 二首(かしら)
 と書かれている。中島砦の部隊の主要人物だったのであろう。一緒に五十騎ほどが討死
したともある。三百人のうちの五十といえば、その部隊にいた騎乗の士はほとんど死んだ
のではないだろうか。
 この無謀とも蛮勇とも思える三百人の突撃に関しては、いい解釈が思いつけないでいる。
信長がやってきたことで勇気付けられたゆえの勇み足だ、ともいうのだが、数が数である。
どうにも納得できない。これはある意味、二千人で突っ込んだ信長本隊以上に勇気の要る
ことなのではないか。しかし、やはり信長がまだ善照寺にいるのだからそれが出撃するの
を確認してから出て合流してともに攻撃するべきだったのではないか。何やっとんじゃこ
いつらは。
 これへ信長、天晴れなりとも、なに勝手なことやっとんじゃ、ともいっていない。ただ、
その壊滅を見て中島砦へ兵を進める。
 これだけでは、やはり信長がこの中島砦部隊の突出にどんな感想を持ったのかは断定で
きかねる。だが、佐々、千秋の両名の行動そのものが信長の意志にそぐわなかったとして
も、少なくともこの死への突撃には、信長の、引いては織田軍へのなんらかの献身の意志
があったと見ていいのではないか。
 その、佐々、千秋の献身はただその二人のみではなく、それに付随する三百を巻き込ん
でいる。これは、逃げてもよいところではないのか。
 信長の育てた軍兵というものが、こういったことのできる。信長がそういうふうに兵を
育てていたのだ、という、これはその例証ではないか。
 中島砦に移ろうとする信長を家臣が口々に止めた、ということになっている。
 善照寺砦から中島砦への道は、深田が多く、ちゃんとした道は一本しか無く、自然と一
騎ずつしか進めない。そんなことしてたら高地に陣取る今川軍に我が手勢が少数であるこ
とが割れてしまう。というのだ。まあ、理解はできる。しかし信長、馬の轡を掴んでまで
のその制止を振り切って、堂々と小勢をさらして中島砦に移ってしまう。
 もはやこれで、迂回奇襲説などの、いわば「物理的奇襲説」は完全に崩れたと見るべき
であろう。
 この時信長、むしろ二千程度という数を知らせてしまうことで今川義元に決戦の決断を
誘ったのではないか、という気がする。制止した家臣たちのいうことがもっともな以上、
数が知られることは想定していたとしか思えない。
 信長は、この、日頃から調練とそしてなにより実戦で鍛え、ろくな具体策も示さずに飛
び出した自分に着いてきた自慢の精兵二千があれば、五千程度の敵には勝てる。勝てない
までも、ただの一戦では簡単にやられない、という自信があったのではないか。
 さて、そのたぶん自信満々の信長、中島砦からも兵を出そうとする。後はもうおけはざ
ま山の今川軍と接触するのみだ。
 当然ながら、家臣たちの制止も中嶋砦への移動の時の比ではない。

 今度は無理にすがり付き

 というから、轡を掴むどころではなく、抱き着いてぶら下がってでも行かせまいとした
のか。とにかく、こんなではさすがにどうにもならんと思ったのか、信長はここで皆を励
ますようなことをいう。
 それが既述の今川軍は鷲津丸根への攻撃で疲労しているがこっちは疲れてない(一部老
臣の精神的疲労は無視しているようだが)数が少ないからといって恐れることはない、と
いう言葉である。敵状誤認といわれるところだが、信長、敵状はけっこうどうでもよかっ
たのではないか、と思う。せっかく自分が自信満々なのに、肝心の家臣どもの腰が引けて
いるので、お前らもっと自信持たんかい、と叱咤激励したのではないか。
 その後にも、信長の「激励」は続く。

 かからば引け、退かば引っ付くべし

 敵が攻撃してくれば引き、退けば追え、という。退かせることを想定している辺り、や
はりとにかく凄い自信のように思えてならない。
 さらに、首を取らずに討ち捨てにせよ、という。これは、信長の命令の絶対化がこの軍
において浸透していると見るべきだろう。
 そして、この戦いに勝てば、これに参加した者の家名は上がり、末代までの高名は間違
いないぞ。と、首を獲ることそのものよりもこの戦いに勝つことでの名誉についていう。
 違う時代、違う風土の上にある英雄同士の相似点を殊更挙げて一体にするようなことは、
あまり歴史学では誉められたことではないのだが、おれは学徒ではないただの小説家志望
なのでこれを見た瞬間に思い浮かべたナポレオンの言葉を臆面も無く書くことにしよう。
「諸君がアウステルリッツで戦ったといえば、皆はこういうだろう。あなたは本当の勇者
だ! と」
 それは目先の功名から兵士たちの意識を引き離し、戦闘全体に参加し一部となることへ
の名誉心や喜びを与える言葉であると思う。

 進軍途中、のちの前田利家となる前田犬千代ら、中島砦の生き残りがやってきて合流す
る。彼らはなかなかの豪勇ぶりで獲った首を掲げて信長の見参に入れるが、信長は討ち捨
てのことを言って聞かせる。
 山際まで寄せたところで、有名な暴風雨が起こる。
 雨が石氷のように敵に打ちつけた。と信長公記はいう。一抱え二抱えの木が倒れたとい
うのだから相当なものだ。
 あまりのことに、熱田大明神の神軍(かみいくさ)か、と皆はいったという。
 この暴風雨による今川本陣の混乱こそ信長の僥倖、義元の不運であったという。しかし、
ここで少し疑問があるのだが、表に出ていて熱田大明神にカチ食らわされているのは信長
たちとて同様なのではないか、ということだ。今川軍に向かって吹きつけた、とはいって
も別に馬鹿正直に風雨に真っ向勝負を挑んで前を向き続ける必要はあるまい。後ろ向きゃ
いいじゃねえか、と思わないでもない。
 ここで完全な空想であるが、この時の暴風雨は滅多に無い強さのものであったとしても、
風が吹き雨が降ること自体はこの地方のこの季節にはよくあることで、信長はそういう時
に好んで調練を行っていたのではないか。そういった記録が見られないので、完全な空想
といわねばならないのだが、信長の自分の肉体をいじめぬくような鍛え方から推察して自
らの軍隊へも、そういう鍛え方をしていたのではないか、と空想するのである。
 やがて暴風雨は去る。空が晴れたのを見た信長は槍を持って「かかれ」と大音声で命じ
る。この信長の大音声、信長公記にはやたらと出てくる表現である。大きな声だったらし
いのだが、信長の声については甲高い声だったという記録もあるので、音量そのものより
も、ただの大声が心胆をただ脅かすのと違い、聞けば気が引き締まるようなよく通る、斬
りつけるような声だったのではないか、と思う。
 この信長軍の攻撃に、今川軍は壊乱する。
 信長公記の記述を見る限り、もうあっという間である。なにやら接戦を行ったというよ
うな感じも無い。すぐに、義元が乗っていた輿も捨てて崩れていった、という記述が入る。
 これは本当なのか。あまりにも弱過ぎる。最善の暴風雨がそれほどの被害を与えていた
のか。しかし、空はもう晴れている。確かに万全の状態とはいえないだろうが、昨日今日
戦争を始めた新兵集団ではあるまい。
 この文章を書くにあたって、改めて信長公記を読んでみたのだが、ここで盛大に引っ掛
かった。今川軍とはこれほどに弱かったのか。何があったお前ら。
 先に義元を公家趣味の愚将というのは後世の付言であると書いた。当然、それは暗に、
今川軍も弱卒の集まりではないぞ、といったつもりであった。しかし、これでは昨今の義
元と今川軍の再評価は、所詮それまでの低評価への反動ではないのか、と思ってもしまう。
 これまでは桶狭間の定説否定を見て、それならばどういう理由で信長は勝ったのか、と
思考し空想し書いている間、信長に対して「わけのわからん戦しやがって」という思いを
持つのを禁じ得なかったのだが、この時に至って「今川の連中、やっぱり弱かったんじゃ
ねえのか」という思いも抱いた。
 太田牛一の信長公記執筆態度は基本的に淡々としていて真摯であるといわれている。そ
れゆえに一級史料として信長研究の基本のようにいわれてきたのである。
 だが、牛一といえど時に書き飛ばすようなこともあるのではないか。ていうか、そうで
ないとこの今川軍のハイスパート崩壊をどう説明したらいいのか。わけのわからん崩れ方
しやがって。
 暴風雨で何百人かふっ飛ばされたのか。嫌んなって何百人か帰ってしまったのか。もう
わからんので先に進む。

 旗本は是なり。是へ懸かれと御下知あり。

 遂に義元の本隊中の本隊ともいうべき旗本隊が補足されてしまう。この「是」という言
葉が喚起するイメージは、馬に乗った信長がけっこう前に出てこれを指し示し後ろを振り
返って例の大音声で命じた、というようなそれである。もしかしたらここで使用されてい
る「是」と今日の我々が日常使う「これ」には距離感の違いがあるのかもしれないが、よ
くわからん。
 
 初めは三百騎ばかり真丸になって、義元を守り退きけるが

 と、飛ばした疑惑が拭えない牛一はいう。
 旗本の責務を果たさんとするその様子は健気であるが、他はどこで何しとんじゃ、とい
う思いがどうしても浮かぶ。
 五千人(推定だが)のうちには輜重隊などの純戦闘員とは呼べぬ人数が含まれていたと
しても、戦闘員が信長の二千よりも少なかったということはあるまい。それとも、戦争な
ど経験したことの無いおれには窺い知れない機微があるのか。例えば、一度も対等に干戈
を交えずに、初手から逃げ腰の軍隊というものは、こちらの想像以上に脆いものであると
か。
 義元の旗本が三百から五十ほどに減った頃、信長は馬を下り若武者どもと先を争うよう
にして敵に槍を突き入れた。信長には時折こういった、危険な最前線に身をさらす行為が
ある。
 この時になって初めて

 御馬廻・御小姓衆歴々手負・死人数を知らず

 と、信長軍の被害もまた僅少でなかったことが書かれている。しかし、勢いは完全に信
長の方にある。義元も遂に自ら刀を抜いて身を守らねばならなくなった。
 この時の義元の奮戦は有名である。服部小平太の膝を斬りつけて倒し、組み伏せて首を
獲ろうとする毛利新助に対しても死に物狂いの抵抗を見せる。信長公記には記述が無いが、
毛利新助の指を噛み千切ったという話もある。この抵抗に、劇画作家梶原一騎がいうとこ
ろの「いわゆるカッコよかないが、カッコ悪いことの試行錯誤の中から磨かれて底光りす
る真のカッコよさ」の片鱗なりともを認めるにやぶさかではないが、おれが惜しむのは、
この義元の「奮戦」が所詮は土壇場になっての我が身を守るためのものに過ぎぬというこ
とだ。信長が駆け登って攻めてきた時に、刀を抜き、或いは槍を取って、浮き立つ兵を叱
咤し、忠実なる三百の旗本を中核として抵抗の体勢を保持し得たのならば、もしかしたら、
勝敗は変わっていたのではないか。少なくとも、これほどにあっさりと首を獲られること
はなかったのではないか。

 ここまで奇襲情報戦重視の定説否定はいいが、それならどうやって信長は勝ったのか、
ということを考察せんと志してこの文章を書き進めてきた。しかし結局は、
「いや、信長の鍛え上げた二千の精兵はボクたちが思ってたよりも強かったのかもしれな
いんじゃない?」
 という、語尾がはっきりしない空想混じりの、結論ともいえないようななんか結論みた
いな何かを生み出したに過ぎなかったようだ。
 太田牛一があくまで疑惑に過ぎないのに対して、おれはもう完全無欠に書き飛ばしてい
るので遺漏も多々あろうが、ご寛恕願いたい。逆ギレするしかなくなるから。

 最後に、もう一つの空想を付け加えてこの文を終えたい。
 信長は、果たして暴風雨も起きず、今川軍も壊乱せず、反撃されたらどうするつもりだ
ったのか。やけっぱち説の多くがいうように、その時は今川軍に飲み込まれ、逆に首を獲
られるしかなかったのであろうか。
 
 かからば引け、退かば引っ付くべし

 そういうことを考えた時に、既述のこの信長の言葉が思い出された。今川軍が始終引い
ていたので引っ付きまくってそのまま義元を討ち取った信長だが、かかられたら引くつも
りだったようだ。しかし、引いてどうする。敵は丘を駆け下りて勢いに乗って追撃してく
るだろう。
 その時に思ったのが、この桶狭間の前、信長が織田一族と尾張の覇権をかけて争った一
連の戦争の際に見せた姿を描いた信長公記の描写である。当時は敵対していた柴田勝家の
手勢と対戦した時のこと、前衛が支えきれなくなって信長の前にまで逃げ崩れてきた。信
長の馬廻りも奮戦するが旗色はよくない。そこで、

 上総介殿(信長のこと)大音声を上げ、御怒りなされ候を見申し、さすがに御内の者供
に候間、御威光に恐れ立ちとどまり、終に逃げ崩れ候き。

 と、いう。怒った信長が大音声を上げてメンチでも切ったのであろうか。すると敵はさ
すがに身内(御内と書いてあるがこう解釈していいと思う)の者なので信長の威光に恐れ
て立ち止まり、とうとう逃げてしまった。
 牛一がそういっとるのだが、にわかに信じ難い光景である。信長の大音声もメンチも尋
常じゃない恐ろしさだったのかもしれないが、柴田勝家以下、それだけでビビって逃げる
ようならこの戦国の世に武人家業などやってられんだろう。ここはこの大音声での叱咤に
よって崩れかかった信長の兵が立ち直り、これを攻めあぐねて退いたのではないだろうか。
 この同じことを、そこでもやるつもりだったのではないか。すなわち、ある程度退いた
ところで兵を立て直し、その間を駆けまわって叱咤激励しつつ今川軍を撃退するつもりだ
ったのではないか。中島砦を背景に死守するつもりだったのか。或いは、空想ついでに一
つ空想するのも二つするのも同じじゃ、とばかりに羽を広げれば、中島砦をも捨てざるを
得なくなった時には、一本道しかない深田だらけの中島・善照寺間の地形を背景に背水の
陣を敷き、殿を鼓舞しつつ一本道から続々と兵を退かせて、改めて陣を敷き、一本道を縦
隊で、或いは深田に足を取られつつ進撃してくる今川軍を地の利を活かして撃退するつも
りだったのではないか。
 さすがに我ながら空想が過ぎると思わないでもないが、いわば小説家は空想稼業だと開
き直っておくことにする。
 
 なぜ信長は奇襲もせず、正面からかかって今川軍に勝てたのか。
 よくわからん。




         付記

      これはどっちに置いたらええんじゃ。
      書きながらずっと思っていた。どっち、とはこの文章を
      「小説」扱いにするか、「コラム」扱いにするか、とい
      うことに他ならない。
      悩んだ末に、結局こっち(小説)にすることにした。
      おれが尊敬する小説家の司馬遼太郎氏が
      「小説という表現方法の頼もしさは、マヨネーズを作る
      ほどの厳密さも無いことである」
      という、あまりにも心強いことをいっておられていて、
      おれもその言葉を座右の銘にしているぐらいだからであ
      る。確かにおれはマヨネーズは作れないけど小説は書け
      る。
      ちなみに、これを書きつつ、おれはつくづくガチンコの
      歴史学方面ではなく、嘘吐き(小説家)な性質しか持ち
      合わせていないのだな、と思い知った。
      まあ、ファンタジーで行きますよ。
      





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