姉貴に伝えとけ







 妹の姿を街中で見かけて、思わず隠れた。
 なんで私が隠れなきゃいけないのよ、などと強がっても虚しいばかりだ。全て、彼女自
身に原因があった。
 私に妹なんていない。
 自己嫌悪しか生まない台詞。それを確かに、自分はいった。妹本人にいったわけではな
いが、妹にそれが伝わる可能性が大いにある相手に対して、いってのけた。
 最初から妹なんていないと思えば悲しくないし辛くないし、なんていう物凄い欺瞞。自
分を騙すこともできない最低レベルの詭弁。それに騙されたいと望む自分。最低な姉。
 自己嫌悪を元に自己嫌悪を生む。
 時々本気で、あの病人とも思えないほどに外出して歩き回っている妹よりも自分の方が
早死にするんじゃないか、とか思うこともある。
「……もう行ったかな」
 覗く。まだいた。しかも知り合い付き。しかも、予想できていたのとは別の知り合い。
「何してんのかしら」
 彼女の妹は、その男にコンビニの袋を受け取って意気揚々と手を振りながら去っていっ
た。
 彼女は、妹が角を曲がったのを確認して身を隠すのを止める。好都合なことに、妹と先
ほどまで談笑していた男はこっちに向かってきていた。
「おう、美坂!」
 美坂というのは自分だ。美坂香里、が彼女の名だ。
 進む方向に彼女を見つけた男は、元気に手を上げて挨拶した。朝でも放課後でも休日の
街中でもいつでもこの男の挨拶はこのテンションだ。
「北川君」
 いってから、続ける言葉に詰まる。が、頭の回転は速い方だ。すぐに変に構えてもしょ
うがないことに気付く。
「今の子、誰? 仲良さそうだったけど」
 実際、妹の栞と北川はなんだか仲が良さそうに見えた。
「ああ、ちょっとさっき知り合ったんだ」
「なんていう子?」
「……あ、名前聞くの忘れたわ」
 だっははは、と大袈裟に笑う。照れ隠しではなく本気で大笑いしている。こういうとこ
ろを見て物凄い大物だと勘違いする人間多数である。
「なんの話してたの?」
「ああ、それはだなあ」
 この男がこういう時に便利なのはこういうところである。なんで美坂がそんなこと聞く
んだよ、とか面倒なことを滅多にいわない。基本的にお喋りが好きなのだ。友人が聞きた
そうに話をねだったら止まらない口を持っている。
「あ、でも、待てよ」
「何よ」
 内心の苛々を隠すために、香里はとてもゆったりと忙しない様子一つ無く振舞う。
「これ、そんな簡単に人に話していい話じゃ……」
「何よ、そんなふうにいわれたら気になるじゃない」
「んー、美坂、口は……固いよな、聞くまでもない」
「そういってくれてありがとう。けっこう固いつもりよ」
「じゃあ、いいか。美坂が知ってて俺が知らないならともかく、その逆だから問題無いだ
ろう。大いに無いな、うん」
「じゃ、場所変えましょう」
「おう。あ、でも、美坂もその内あの子と顔合わすかもしれないけど、絶対にあの子には
内緒だ。いや、いうまでもなかったな、悪い」
「いいわよ。でも、なんで私があの子と顔を合わせるのかしら」
「あの子、相沢の知り合いなんだよ。じゃ、あそこがいいな、近くの公園。情けねえこと
に喫茶店に入る金も無いんだ。それに、その公園があの子と会った場所だから」
「ええ、いいわ」
 北川君、あなた、どこまで知ってるのよ。

「えっとな、もういきなり核心を話すことにする。心して聞いてくれ」
「ええ」
 北川は息を吸いこむ。
「あのな、あの子、実は重い病気でもう幾らも生きられない、って医者にいわれてるらし
いんだ」
「えっ」
 驚く演技は、感情を押さえこむそれに比べて、少し難しいだけだった。
「で、そもそもあの子と会ったのは」
 と、北川は辺りを見回し、やがてある一点に視線を止めると小走りでそこへ向かってい
く。香里も、黙ってその後を追った。
 北川が停止したのは噴水のすぐ側だった。
「ここ」
 と、いいつつ、地面を指差す。
「ここにあの子が倒れてたんだ」
「……そう、それで、そうよね、大丈夫だったのよね」
 高鳴る動悸を静めるのに、香里は思っていたよりも多くの時間を要した。
「で、おれがたまたまここを通りかかったらあの子が倒れてたんで、とにかく生きてるこ
とを確認して、救急車呼ぶから頑張れ、っていったんだよ」
 御丁寧に、北川はその時の状況を再現して、積もった雪の上に片膝をついて、何も無い
空間に少女の体があるかのような手つきをした。
「そしたら、時々ある発作だから心配しないでいい、っていうんだよ。んで、構わないで
行ってくれ、っていうからさ、さすがにそういうわけにもいかないだろ、そこのベンチま
で運んだんだ」
 いいつつ、また北川は移動を始める。自然と、北川と香里はそのベンチに座ることとな
った。
「とりあえず、あったかい缶コーヒー買ってきて、あの子の発作がおさまるのを待ったん
だ。調子よくなってから色々話したんだけど、最初風邪だっていうから、そうなのかなと
思ってたんだけどな。んでまあ、色々と話してたのさ。そしたらさ、あの子が呟いたんだ。
俺にいってるんじゃなくって、独り言をさ。この制服、祐一さんと同じ制服だ、ってね」
 疑問がまた一つ氷解した。名前も知らないのに祐一と知り合いだということだけは知っ
ているなど、妙だとは思っていたのだ。
「まあ、こっちも特に話すこと無くなってたしな。何気なく、それって相沢祐一か、って
いったんだよ。そしたらドンピシャ」
 ドンピシャ、のところで心の底から嬉しそうな顔をする。香里が半ば本気で、そんな程
度のことでそれだけ大喜びできたら人生楽しくてしょうがないのかも、とか思ってしまう
顔である。
「いや、もう、そしたら盛り上がった盛り上がった」
 香里にとっては、なにがそんなに嬉しいのかと疑問に感じるはしゃぎっぷりだ。もちろ
ん、そんな北川にはすっかり馴れてもいて、今更そんな疑問は感じもしないのだが。
「でさ、相沢のこと話してる内に思い出したんだけど、俺、その子を見るの初めてじゃな
かったんだよ」
「え?」
 それは完全に初耳である。
「その子がうちの学校の中庭でずっと立ってたんだ。だから俺、相沢にそのこと教えてや
ったんだよ。で、まあ、そしたら相沢の奴、あの子に会いに行ったみたいなんだな、なん
ていうか、行動力旺盛な野郎だよ」
「そう、だったの」
「それいったら、あの子、それじゃ、あなたは私と祐一さんの愛のキューピッドですね、
とか可愛いこといい出すんだ、これが」
 少々、ほんの少々だが、香里が不快を感じるほどにデレデレとした北川の顔が元に戻る
のに少し時間がかかった。
「まあ、それがきっかけでその子、心開いてくれて、病気のことも話してくれたんだよ。
実は風邪なんかじゃない、って」
 病気の話が出ると、北川の顔が一変した。ふざけた要素は微塵も無くなる。
 こういうところは、香里が北川を認めていることに大きく寄与していた。周りには、美
坂と北川がよくもまあ長い間付き合ってられるもんだ、という人間も多いらしいが、この
男は、その辺りのけじめをきっちりと付けることができる。
「そんでまあ、色々と話してたんだけど、どうも妙な方向にな」
「どういうことよ」
 妙な方向、というのに大いに刺激された香里は身を乗り出す。
「私、この病気のせいでお姉ちゃんに嫌われちゃったんですよ、って、笑っていうんだよ。
すっげえ無理した笑顔でさ」
 いいつつ、北川は右の拳で左掌を強く打った。
「あの子は、しまったって顔してさ、でも、こっちはそんなの聞いたら流せやしないから
さ。どういうことだか教えてくれって頼んだんだよ」
「ええ」
「土下座までしちまったよ」
 あはははは、と豪快に笑う。これは明らかに照れ笑いであった。
「な、なんで北川君がそこまでするのよ。そんなに知りたかったの?」
 いや、もう、知りたくて知りたくて、などと笑いながら答えていたら香里はこの男の評
価を下げていたであろう。そもそも、そんな男ならとっくに付き合いを切っているはずで
はある。
「いや、だってよ、聞き逃せないじゃないか、そんなこと」
 そこに笑みは無かった。
「だからあ」
 が、途端に笑み崩れる。
「この話は内緒なんだよ、頼むぜ、おい」
「わかってるわよ」
 思わず、香里も笑う。
「そんでな」
 と、顔が切り替わる。けっこう器用な男である。
「このことは相沢にもいってないらしい。たぶん、相沢は察してるだろうし、相沢と一緒
にいる時にそういう話をしたくないから、って。……あ、そうそう、そんで、そこでいう
んだよ、ごめんなさい。あなたならいいやってわけじゃなくて、あの、その、ってさ」
 北川の口元に微笑が浮いた。
「可愛いもんさ。ま、そこで俺は当然構わないからいってみろ、ってな。たぶん、誰かに
吐き出したかったけど、吐き出せる人間がいなかったんだ、って思ったんでな」
 北川が香里を見る。
「ん、退屈?」
 と、香里が、どうも北川が見る限り退屈そうでしょうがないというのが気になるらしか
った。
「そんなことないわ、続けてよ」
 香里がいうと、北川は、おう、と頷いた。
「直接いわれたわけじゃないけど、姉貴が自分に妹なんていない、っていってるのを聞い
ちまったらしいんだ」
 ぱん。
 音が鳴った。拳が、掌を強く打っていた。
「酷え姉貴だよ。妹が病気で苦しんでるってのに、自分は他人面してやがんだ。しかも、
ずっと離れて暮らしてたとかずっと仲が悪かったんじゃないんだぜ、ちょっと前まですげ
え仲のいい姉妹だったんだぜ!」
 北川は前方の虚空に声と白い息を吐く。
 前だけを見ていた。憤り語るために、横を向いている余裕が無いようだ。
 香里にとって、そのせいで自分の顔を見られないのは幸いであった。
「俺には信じられねえよ、なんでそんなことできるんだよ。あまりにも酷過ぎるぜ。でも
な……」
「待って」
 香里は、遮っていた。そんなつもりは無かった。北川が何をいおうと、黙ってそれを聞
いているつもりだった。自らが饒舌になることは最もやってはいけないことだと思ってい
た。だが、香里の口からは言葉が出ていた。
「待って……」
 気持ちを落ちつけるように、もう一度いって、ゆっくりと深呼吸。
 そこで、いいわ続けて、といえば、北川は香里は自分の話を聞いて息苦しいような思い
を感じたのだろうと解釈していたかもしれない。もし疑問をぶつけて来ても、あまりに酷
い話なので胸が苦しくなった、とでもいえばいい。そこから先を追及してくるような男で
はない。 
 だが、香里はいうことにした。
 そこで何もいわなかったら、自分がどうしようもなく死にたくなってしまうような気が
した。
「そのお姉さん。妹のことが好きで好きで、それであまりに辛くてそう思おう、そう振舞
おう、そうすれば、悲しくない、そんなことを思っているんじゃないのかしら」
 意図した通りの、冷静な表情と声。その大成功をおさめた演技を、香里は嫌悪する。自
分勝手で都合のいい自己弁護。それを自己弁護という形すらとらずに、見知らぬどこかの
愛する妹を想う優しい姉を弁護する。
 やっぱり、いわなければよかった。
 香里は後悔した。これはこれで、死んでしまいたくなったからだ。
 北川が見ている。
 表情にも声にもおかしなところは無かったはずだ。そう、死にたくなるほどの名演技だ
ったはずだ。
 へえー、と北川は感心したような顔をしている。
「何よ、その顔」
「いや、おれが続けようとした話と同じだよ、それ」
「え?」
「当のあの子がさ、俺がキレてるのに、そんなこといってんだよ」
「どういうことよ!」
「その話聞いて、俺はもうそりゃキレたさ、その姉貴をぶん殴ってやりてえと思った。で
も、あの子が慌てていうんだよ、たぶん、お姉ちゃんは私のことが凄い好きだから嫌いに
なっちゃったんです。嫌いになろうとしてるんです。ってね」
 これはこたえた。香里は両肩がずしりと重くなるのを感じた。あの、薄幸な妹を、自分
が背負うことを放棄して逃げていた美坂栞をいきなり載せられたような重さだった。
「俺はそれ、あの子が自分に都合のいい仮説を立てて信じてるのかと思ってたんだ。本当
は自分は嫌われてないんだ、って思い込もうとしてるんじゃないか、って」
 香里は返す言葉も無く北川の声を聞いていた。すぐに口を動かせそうになかった。
「でも、美坂もそう思うってことは、そういうこともありうるかもな。俺、今まで人の死
に目って生きるだけ生きたから後はお迎えを待つばかり、ってもう大威張りで死神を待っ
てるような爺さん婆さんばっかりでさ。ちょっと、そういう、若い肉親を失う人の気持ち、
わかってなかったみたいだ」
「わ、私のも、仮説の一つに過ぎないわよ」
「いや、美坂のが正解じゃねえの? つい最近まで仲良かったのにいきなりそんな酷えこ
といい出すなんて、そうだよ、そっちの方が辻褄が合うってもんだ」
「そ、そうかしら」
「いやぁ、よかった。あの子は本当に嫌われてるわけじゃないんだな」
「よ……よかったわね」
 ぎこちない笑みが自分の顔に貼り付いているのを自覚しながら、香里はどうしようもで
きなかった。救いは北川が「あー、よかったー!」とやたらと興奮してどこまでも青い空
に向けて叫ぶのに忙しく、香里の方を見ていないことであろう。
「あ、いや、よくないぞ」
 突如、テンションの下がった北川は、今度は「あー、よくないよくない」といいながら
辺りをぐるぐると回る。
「どうしたのよ、突然」
「いや、そりゃあ、あの子が姉貴に本当に嫌われたんじゃないってのはいいとしてさ、や
っぱりまずいだろ、このままじゃ」
 そう、北川の認識が変わっただけで、現状はさっぱり変わっていないのである。
「あの子がかわいそうだってのもあるけどさ、姉貴だって、妹が生きている間、そんな態
度とってたら、いざ亡くなった時、絶対に死ぬほど後悔するぜ」
「あ……」
「もう後悔して後悔して、後を追おうとか思っちまうんじゃないだろうなあ」
 香里は、何もいわない。北川の言葉を一切否定できなかった。
「美坂も、そう思うだろ」
 不意に、北川が自分の方を向いた。
「ええ」
 考えるまでも無いことだった。
 あんなことをいって、あんな態度をとって、妹を支えるどころか突き放して、それでい
ざ妹が、栞が死んだら、そんなことをした自分がどうなってしまうかなど考えずともわか
ることだった。
「私もそう思う。きっとその人後悔するわ」
「だよな、っていっても、所詮俺たちが何かできるわけじゃない。せいぜい大好物のアイ
スを土産に持たせるぐらいだ」
 核心には触れない疑問であったので後回しにしていた疑問。別れ際に北川が栞に渡して
いたコンビニの袋の謎が、ここで突然解けてしまった。
「ここはやっぱり相沢からびしっといってもらおう」
「相沢君にいわせるの?」
「いわせる、俺はキューピッドなんだから、相沢は俺のいうこと聞くべきだ」
 自信たっぷりに断言する北川。思わず笑ってしまう香里。
「よし、じゃ、帰るか」
「そうね、そろそろ暗くなってくるわ」
「今日は思いきって美坂に話してよかったよ。俺だけだったら、あんなこと考えつかなか
ったしさ」
「あんなことって」
「ほら、あの子の姉貴が、本当にあの子を嫌ってるんじゃない、ってことだよ」
「ああ、それ」
「美坂は優しいんだな。いや、もちろん今まで優しくないと思ってたわけじゃなくてさ」
「別に、私は優しくないわよ」
「いや、優しいよ。俺は怒りをぶつけることしかできなかったあの子の姉貴の身になって
考えてやってるんだから」
 少し軽くなっていた香里の心がまた重くなる。
 本当に優しいのは、自分じゃない。
「うん、美坂は本当にいい奴だよな」
 そんな笑顔で誉めないで欲しかった。
 でも、本当のことをいうのは怖かった。
「よし、送ってこうか」
「いいわ、私の家、すぐ近くだから」
「そういえば、そうだっけ。じゃあ、ここでお別れだな」
「ええ」
「薄暗くなってきたな。ちゃんと、人通りのある道通って帰れよ」
「そうね」
 いつもだったら、少し捻くれた言葉を返すところだけど、今日は素直に頷いておいた。
「よし、そんじゃな! さぁて明日は朝に相沢……いや、駄目だ、あいつら本鈴が鳴って
る途中に教室に入ってくるような奴らだからな、やっぱり昼に……」
 ぶつぶつと呟きながら北川が去っていく。呟きながらも、何度か振り返って手を振った。
「ごめんなさい」
 香里もまた呟き。北川の姿が見えなくなると家路を急いだ。
 これから、帰って、栞に……。
 なんていおう、なんていったらいいのだろう、あの子は許してくれるだろうか。
 わからない。
 わからないまま、門を潜る。
 わかるまで、家に入るのを止めようかという思いを打ち消す。
 わからないまま、ドアを開ける。
 わからないまま、靴を脱いで、わからないまま、廊下を歩いて、わからないまま栞の部
屋へ――。
 全部、わからないままにやった。
 だから、栞の部屋のドアノブを回した時も、ドアを開けた時も、目の前にたくさんの空
になったバニラアイスのカップを置いて幸せそうにしている妹を見た時も、全くわかって
いなかった。
 でも、今日やらないといけない。
 そんな、強迫観念にすら似たものが香里の背中を押す。
 だってそうしないと、宿題が二つになってしまう。
 いくらなんでも、二つも背負い込んだら潰れてしまう。
 とりあえず、今日はこっち。あっちの方は、また今度。
 ごめんなさい、もう少し待ってね。こっちの宿題を片付けたら、私、もう少し強くなっ
ているはずだから――。
「わ、わ、わ、わ」
 色んなことが頭を巡る。最初に何をいおうかとずっと考えていたことたちが。
 ごめんなさい、栞。
 私は、あなたのお姉ちゃんよ。
 あなたは、私の妹よ。
 だが、それも全てふっ飛ぶ。
 いわゆる、頭の中が真っ白状態。
 真っ白な香里の頭は、見慣れた目の前の光景に、いおういおうとしていた言葉よりも、
まず過去に何度もいったことを――。
「わ、わ、わ、わ、ノックしないなんて酷いです!」
 そういいながらアイスのカップを無理に決まってるのに両手で抱えて隠そうとしている
妹に、
「こら、栞。一辺にそんなに食べちゃ駄目でしょ!」

「昼に話があるから逃げるな、わかったか!」
 朝っぱらからそんなことをいわれたので、しょうがなく、祐一は午前中最後の授業の終
了を告げるチャイムが鳴っても席から動かなかった。
「よーし、後ろを向けい」
 北川が、やたらと偉そうに命令してくれる。
「なんだよ」
「いいか、話があるのだよ」
「手短にな」
「おう」
 それから北川は昨日のことを話した。祐一と付き合っているという、いつか中庭に来て
いた女の子と出会ったこと、そして声を潜めて彼女の病気のことを知ってしまったこと、
ついでに自分が彼女公認の愛のキューピッドであること、その後に香里と会ってそのこと
を話したこと。
「え、香里と?」
「おう」
 祐一がこれでもかというぐらいに複雑な表情で香里を見る。しかし、香里の方はこれで
もかというぐらいにいつもと変わらぬ表情で祐一を見返す。
「そんで、つまりは! 相沢、お前に、あの子の姉貴に伝えて欲しいんだ。俺と美坂の声
を!」
「お前と……香里のねえ」
「あんたの気持ちはわからんでもない!」
「……うん」
「でも、それじゃ妹さんがかわいそう過ぎるじゃないか、そのことをまずわかってくださ
いな!」
「……ああ」
「それに、絶対、後であんたは後悔する。死ぬほど後悔する。奈落の底より深く後悔する。
深海には、まだ人間の手が及んでないというけれど、そのぐらい深く後悔する!」
「……へい」
「だから、あんたも辛いだろうけど、妹さんを受け入れて上げてくださいな! 妹さんは、
あんたに拒絶されるのが死ぬより辛いんだと思うんだ。これマジで!」
「……おう」
「一人で辛かったら、相沢を思う存分使ってやって下さい。いうこと聞かなかったらいっ
てください。ぼかぁあいつの愛のキューピッドですから、僕のいうことならなんでも聞き
ます聞かせます」
「……おい」
「以上だ。ちゃんと身振りも覚えたか?」
「覚えるか、あんな怪しい踊り」
「しょうがねえな、じゃ、とにかく言葉だけは確実に伝えてくれよ。頼んだぜ」
 がっしりと手を握る。
「わかったわかった。そりゃ、俺もなんとかしたいしな」
「おう、頼むぜ。相沢!」
「へいへい」
「本当、お前だけしかできないことだからな」
「汚えな、急にマジ顔になりやがって、嫌っていえねえだろうが」
「ははっ、悪ぃ。でも、お前のそういうところは好……ぶ!」
 祐一の右手が凄まじい速さで北川の口を塞いでいた。
「気色悪いから、その先はいわないでくれ、頼むから」
「そりゃないぜ、兄弟」
「ったく、それより、手短にっていったのに下手な即興ミュージカルかましてくれたおか
げで二十分も過ぎちゃったじゃないか。こりゃ、パンだな」
「だったら、俺が買ってくるぜ。あ、美坂チームの分だけだぞ」
「お、いいのか」
「ま、俺のせいで遅れたんだし。えっと、相沢はカツサンドとヤキソバパン、無かったら
似たようなのこっちで見繕うぞ」
 そして、北川は祐一と名雪と香里の注文を受けると教室を出ていった。
 その間際に、
「それじゃ頼むぞ相沢。しっかり姉貴に伝えとけよ、っていっても、美坂がいってたみた
いじゃなくって、俺が思ってたような姉貴だったらぶん殴れ、いや、呼んでくれ、一緒に
殴ろう」
 たったったっ、と足音が遠ざかっていく。
「香里」
 祐一が香里の方を向く。
「えーっと、さっきのあれ、復唱しようか?」
「いえ、けっこうよ」
 香里は笑って、というよりも、笑うのを堪えながら首を横に振る。
「もう、昨日、栞とは、済ませたから」
「え……」
「あの子は、私の大切な妹よ」
「そうかぁ……」
 祐一は大きく息を吐いた。
「一緒にいられるのがあと一週間でも一日でも一時間でも一分一秒だって、あの子は私の
……」
 そこで気付く。
 今の泣きそうな顔。名雪に見られて……。
「ああ、北川にイチゴサンドとイチゴオレを申し付けられた後、速攻で寝たぞ」
 それを見抜いた祐一が自分の机の突っ伏して眠る名雪を指差す。
「はぁ、この子はもう」
「でも、あいつに感謝しないとな。それに、いつか教えてやらないと」
「わかってる。近い内に本当のことを話して、謝って、お礼をいうわ」
「そうだな」
「キューピッドだからね」
「そうかもな」
「私、相沢君を思う存分使っていいんだったわね」
「あ、いや、でもあれはあのバカが勝手に」
「嘘よ……でも、栞のことお願いね」
「ああ」
 二人とも、北川には感謝していた。だから、パン買うのにいつまでかかってんだあの野
郎とかそんなようなことは思っていてもいわなかった。
「お待たせ!」
 キューピッドさま、御帰還。
「見てくれ、水瀬と美坂の注文分はなんとしても分捕ってきてやったぜ! ああ、相沢、
悪ぃ、売り切れてたから納豆巻買ってきた」
「はっ、はっ、はっ、はっ、気にすんな、かなり嫌いじゃない」
「はっ、はっ、はっ、はっ、俺も欲しいの売り切れてて納豆巻だから気にすんな!」
 美坂香里は二人の男を見る。
 ありがとう。そして、これからもよろしくね。
 納豆の糸を引く限界を見極めたいといい出して、真っ二つに割った納豆巻のそれぞれに
噛みついて、ジリジリと距離を広げている馬鹿の限界に挑戦している姿にも、いつもだっ
たら呆れて溜息をつくが、今日だけは満面の笑みで、
「いいんじゃないの、面白いわよ」
 と、いってクラスメイトを驚愕させるのであった。

                                      終





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