豊臣秀吉が死んでから、関ヶ原合戦に至るまでにこんな話がある。 秀吉死後、彼との間にかわした約束を反故にして公然と天下取りの意思を表した徳川家 康の元に、とある武将が招かれたおりのことである。 豊臣か徳川か、どちらにつけば家運が開けるか。時期が時期だけに悩んでいたその武将 はとりあえずは、徳川殿の機嫌をとっておくべしとて、招きに応じた。 物語などしているうちに、それは双方、戦の死線を潜り抜けてきた武将であるから、談 ずるところは自然と戦の話となった。 家康は、三方が原で甲州武田の軍勢に蹴散らされたことなども、今はよき思い出よ、な どと語って飽くことが無かった。 やがて、話は進み、小牧・長久手に及んだ。 「太閤さまと弓矢取って戦いたるは、あれが最初で最後であったのう」 得意げに家康は語る。その小牧・長久手で、家康は秀吉の軍のほころびを衝いて大勝し ている。 その武将は、そうであった、徳川殿は太閤さまにも勝ったほどの戦上手、太閤さま亡き 後、これに勝てる者などおらぬわい、と徳川につく心算を定めた、といった次第。 大坂城には、豊臣家の招きに応じて各地から今は落ちぶれたりといえどもかつては一国 の主、一軍の指揮官だった者が続々と集まってきていた。どれもこれも、千軍万馬の強者 どもなので容易にまとまらない。 家康は既に各傘下大名に陣触れして、刻一刻と開戦の時は近付いている。とにかく、誰 かをこの牢人たちの大将にせねばならないが、誰がなってもどこからか不平が上がりかね ない。 この取りまとめを任されていた大野治長などは弱りきっていた。 そこへ、隅に端然と座してそれまで一言も発していなかった男が立った。 「ひとつ、某に軍配を任せてくださらぬか」 男は、老いていた。皺深い顔は、しかし老将の顔であった。 その場に、その老人を知っている者がいた。だが、彼が人前に出なくなってから十年以 上経っている上に、隅で目立たぬようにしていたためにそれまでは気付かなかったのであ る。 「ああ、真田殿」 幾人かが口々に彼を呼ぶ。言葉短に久闊を叙する旧知の者もあった。 「家康をあしらう術については、某にいささか存念がござる。そもそも、あの者は城攻め が不得手、この大坂城を上手に使えばいかようなりとも引き回すことができましょう。上 田の小城ですら落とせなかった男ですからな」 太閤亡き後、海道一の弓取りよ、いやいや日の本一の御大将よと誉めそやされる家康を 口舌で切って捨てて大笑。初めは大言を吐く爺だと胡散臭げに眺めていた者も、上田の名 を聞くや、老人の何者であるかを悟って軽侮の相を引っ込める。 かつて徳川の軍勢を、上田城という小城にこもって撃退したその老人、真田昌幸という。 家康が小牧・長久手の話をして未だ心の定まらぬ者を恫喝したという話を聞いた時、昌 幸が長命していれば、こんなシーンが歴史上にあり得たのではないか、と筆者は空想した ことがある。 「表裏比興の者」 という昌幸評がある。字面から推測されるように、裏表があって油断ならない食わせ者 である、というような意味である。 確かにそういわれても仕方の無い行動は多いが、それは戦国時代を小豪族が生き抜いて いくために必要な措置であったともいえる。 そう、真田家というのは小豪族なのである。なにやら真田と聞くと妙にときめいたりす ることもあるが、きっちりと小豪族である。 そのくせに徳川家康という大大名に一度も負けたことが無い、というのがこの男の人生 を狂わせたように思えてならない。 上田城の以前に、三方が原がある。甲州武田に家康が散々に打ち破られたこの戦いに、 昌幸は武田傘下の豪族として参戦している。昌幸は武田信玄に目をかけられていた。 この三方が原で家康は、木っ端微塵に砕かれて敗走した。この時、昌幸の中に「家康な ど」と、いう感情が少しは芽生えたのではないだろうか。 武田信玄の死後、昌幸は武田勝頼に仕えて戦った。 武田家の滅亡後、小豪族の常としてどこかの大勢力の傘下に入ろうとした昌幸は、まず は織田家に通じている。この辺りから「表裏比興」の一面が見えてくる。本能寺の変後、 家康に属した。 「信玄公が生きておられたら……」 あの三方が原で敗走した男に膝を屈することもなかったであろう、と昌幸、嘆いたであ ろう。しかし、その徳川傘下の時期も長くはなかった。家康が北条と和議するために領地 からの立ち退きを命じたためにこれと決別。上杉景勝と同盟を結んだ。 ここで家康が兵を向けたために上田城の合戦が起こる。昌幸の勝利であった。 「見たか」 昌幸は得意であったろう。武田家の一武将としてではなく、上杉の後ろ盾があったとい はいえ真田家の当主として戦い、徳川軍を撃退したのだ。 その後、昌幸は秀吉に仕え、秀吉の死を経て関ヶ原合戦。上田城に、徳川秀忠の率いる 軍を迎え撃つことになる。 これもまた勝利。対徳川の戦績にまた白星が加わったことになる。 だが、関ヶ原の本戦場では西軍が敗退し、昌幸は再び一度も負けたことのない家康に膝 を屈することを余儀なくされる。 家康についていた嫡子信之の嘆願により昌幸と次男の幸村は一命を助けられ紀州九度山 へと配流されることとなった。 九度山の生活は、金銭的にも苦しく、鬱々として楽しまぬものであった。数年もすると 気力も萎えてそのことを信之に仕えている元家臣への手紙で愚痴ったりする姿も見られる ようになっている。 手紙にも書くぐらいであるから、手近なところにいる話相手には頻繁に愚痴を漏らした であろうことは想像に難くない。 次男の幸村は、そんな父親を励ましつつ、野良作業などに精を出していた。 或いは、家康が昌幸の心を獲るならば仕掛けるのはこの時であったかもしれない。気力 が萎え、生きているうちにこの山を降り、今は信之が治めている上田に帰りそこで余生を 送りたいと願っている昌幸を許し、親しくそばに呼んで話をし、彼の戦ぶりを誉める。当 時家康はかつて自分を叩きのめした武田信玄の旧家臣を召抱えて、信玄の戦法を吸収する のに余念が無かった。若い者に信玄公の話などしてやって武将の心得を説いて欲しい。と でもいえば、萎えていた昌幸は感激して家康に屈したかもしれない。 しかし、家康は昌幸のことなど忘れたようにほったらかしている。監視は怠らなかった だろうが、そのような昌幸の態度も或いは擬態か、と疑ったのかもしれぬ。 置き捨てられて、今か今かと許される日を待っていた昌幸だが、死期が近付いたのを悟 り、もう生きている間に許されることはあるまいと思い定めると、にわかに、家康への忘 れていたはずの対抗意識が首をもたげてくるのであった。 赦免願いや泣き言は、信之やそれに仕えている元家臣にはいえても、蘇った家康へのそ の気持ちだけはそちらへいうわけにはいかなかった。と、なれば当然それは幸村が一身で 聞くことになった。 「上田に帰り、孫と遊び、もう息子に家を譲って隠居した昔馴染みどもの仲間に入るのだ けが最後の望みであったが、その日はもう来まい」 昌幸は、最後の望みが断たれた、という割には凛とした声でいった。 「家康め、わしを許さぬつもりらしい。料簡の狭い男じゃ。太閤さまには及ばぬな」 懐かしげに、昌幸はいった。確かに、太閤豊臣秀吉は料簡は広い男であった。 「もはや望みは、秀頼君に軍配を預かって家康へ一泡吹かすことのみじゃ」 家康にもう一発カチ食らわしてくれる。 新たに抱いた最後の望みが、昌幸を再び武将の顔にしていた。昌幸の見るところ、とい うか望むところでは、豊臣家が臣従することなどありえず、またあの悪どい家康が豊臣家 を生かしておくはずがない。いつしか、両者は手切れと相成り不倶戴天の敵となろう。 そうなれば、もはや徳川に尻尾を振っているような大名連中は頼りにならない。豊臣家 は各地に流れ潜んでいる者たちへ檄を飛ばすに違いなく、徳川を幾度か破った実績を持ち、 関ヶ原でも西軍に味方し、故太閤に引き立てを受け、豊臣姓まで賜った真田昌幸へと声を かけないはずがない。 もはや関ヶ原から十年が過ぎた。武田信玄、上杉謙信、織田信長などといった人間と敵 味方は別にして同じ戦場を駆けた人間など少なくなってきている。昌幸ほどの戦歴を持っ ている武将はそうそういない。その昌幸であるから一手の将を任されないはずがなく、そ うなればそれを元手に大坂城を使っていくらでもやりようはあり、徳川の大軍を三度退け ることも夢ではない。 軍略を語るようになって、昌幸は活き活きとしてきた。その相手となった幸村もそんな 父親に、かつての強い武将の姿を見つけ、喜んで聞き役を務めるのであった。 「城を利用するといっても、初めから篭もっては芸が無い。精鋭を選んで一軍を拵え、一 戦するがよかろうな。狭隘の地の出口で迎え撃ち、後ろの軍が己が出番ではなしと油断し ているのを奇襲してもよい。広い野にいかにも罠があるようにして陣を布いて惑わして長 陣を強いるもよし」 親子のこの「軍議」において一致を見たのは、 ――篭もる前に一戦して勝ちを獲っておく。 という一項であった。 今の家康が厳しき触れを出せば集まる軍勢は二十万を上回るはずだ。その大軍のうちの 百や二百を討ち取ったところで純粋な兵の多寡からすればなんの影響も無いが、勝った、 という世間への印象、なによりも野戦において勝った、という印象が大事である。大坂城 ほどの大城郭へ篭もればある程度は持ちこたえられるのは当たり前のことである。野戦で 勝ってこそ、 ――大坂方は食い詰め者の寄せ集めに過ぎぬと思うておったが、存外に手強いぞ。 ――あの強者たちに大坂城に篭もられては、徳川方は危ういのではないか。 と人々は思う。味方も、 ――勝てるやもしれぬ。 と希望を持ち、敵方からの甘言を弄した調略にも動じなくなる。あるいは、敵方や世間 への心理的効果よりも味方へのそれが最も大きいかもしれない。力攻めをすれば被害甚大 を覚悟せねばならない以上、家康は城内へ調略の手を伸ばすはずであり、勝ち目無しと弱 気になっていてはつまらぬ空証文のような恩賞の約束にも心が動きやすくなるものだ。 「大坂城については気になることがある」 そういって、昌幸は、記憶を頼りに描いた大坂城の図上に指を置いた。城の南方である。 「大坂城はここが弱い」 昌幸は秀吉と親しく軍談を交わしたことがある。その時に秀吉が、大坂城の唯一の弱点 として挙げたのが、この城の南方であった。他の方角は海川の天嶮が自然の防壁をなして いるが、南には無い。一応、堀は巡らしてあるが、それでも秀吉はやや不安であったらし い。いかようにすべきかと尋ねてきた。 「堀を増やしたり、塀を立てるよりも、いっそのこと堀の外に出丸を築いては如何」 昌幸の出した答えはそれであった。そういった、堀や塀などの防衛線の外にある出丸と いうのは攻めてみると案外と目障りなものだ。どうしても、それを先に落としておかない と味方の被害が増すためにある程度の兵力を差し向けることになる。出丸には鉄砲弾薬、 そして射撃に長けた兵を入れておき、散々に撃ち立てる。 秀吉はそれを聞いて興味を示した。よくぞ気付いた、と誉めた。秀吉は誉めることにけ ち臭くはない。むしろ誉めるだけならタダという信念を持っていたようなところもあり、 誉める時はとにかく誉める。 「その時は、その出丸の普請は安房に任せようか」 誉めたついでにそんなことまでいった。安房というのは昌幸のことだ。昌幸は安房守で あった。 昌幸とて、それが一場の戯言であったことはわかっている。当時はもちろん、九度山に 流されてからもしばらくはそう思っていた。しかし、この九度山に放置され、ひたすらに 許しを願い、それが得られぬと悟り、家康への敵愾心が蘇ってからというものの、家康に 一泡吹かすために大坂城を利用して戦うことばかりを考えていると、家康憎しの裏返しも あって亡き秀吉の暖かい態度や、恩顧が思い起こされる。あの時のことも、なにやら因縁 めいた話のように思われるのであった。 ――よし、あの時の約束を果たすのはその時ぞ。 「城南の出丸は、わしが作らねばなるまい。日本一の城の出丸じゃ、日本一の出丸にせね ばな」 無邪気に語る昌幸に、もう憂いや気持ちの萎えは見られない。幸村も、その時は自分が それを助けるのだと決意していた。活き活きと蘇った昌幸の命数はまだまだ尽きぬかに見 えたのだ。 慶長十六年(1611年)二条城において家康と秀頼が会見したという話が伝わってき た。 この話が聞こえてきた時、既に昌幸は病床にあった。この家康と秀頼が会見し、両家の 間が上手くいっているという話を聞かせるかどうか幸村は迷ったが、結局話した。 「なんの収まるものか」 枕に頭を預け、息を喘がせつつ、昌幸は確信に満ちた声でいった。その程度で矛を収め るようなお人好しか、秀頼がはっきりと頭を下げでもせぬ限り、家康の心が動くまい。今 度の会見は、諸大名や庶人が、家康に呼びつけられた秀頼に対してどのような態度をとる か、などを見極めようとしての策であろう。 「両家の手切れは必定、動かぬ」 だが、といって、昌幸はなおも喘いだ。 「無念なことに、それまでわしの命がもちそうにないわ」 無念、であった。 無念、無念、と昌幸は何かをいう度に、まるで拍子をとっているかのようにその単語を、 言葉と言葉の間に挿入した。 「秀頼様はなんと御運のお悪いことか」 昌幸はいう、やはりその後に、無念、無念といった。 秀頼の不運についてはいうまでもない、今ここに、将来家康を打ち倒してくれる者が息 を引き取ろうとしている。 しかし、その真田昌幸とは何者であるかといえば、かつては武名を世に挙げた者である といっても、万石を持っているわけではなし、配流され蟄居している一老人である。 意識が朦朧として正常な判断ができなくなっているのだ。 そう断じても、昌幸一人が猛抗議するだけであったろう。いかに、難攻不落の大坂城が あり、その蔵に秀吉が蓄えた莫大な金銀があり、世には関ヶ原で敗れて何もかも失った牢 人たちがひしめいて乱を心待ちにしているといっても、真田家というのは所詮は信州の一 土豪である。昌幸の父幸貫の代から懸命に戦働きをして、関ヶ原では父、次男と長男が分 かれて、勝者についた信之が得たのが十万石である。確かに大禄といえばいえるが、それ より石高の多い大名などいくらでもいる。 「わしが大坂城を使えば、家康ごときは」 破るに容易い、無念! 「わしが死んだら、お主は好きにせよ」 昌幸は、枕頭の幸村にいった。幸村は、これまで散々に戦になったら手足となって働い てくれといわれてすっかりその気になっていたので、 「非才ではありますが、ここ数年、大いに軍談を交わして父上のご思案おおよそは我が嚢 中にあります。これを世に表わして、真田安房守昌幸が武略なりと満天下に知らしめまし ょうぞ」 と胸を張っていった。 それに対し昌幸は、 「わしの策は、わしがやることを前提に考えてある。お主は、まずその才がわしに劣らぬ ことを示さねばならぬ。とても間に合わぬ」 示し、皆がそれを認めた頃には戦いは進んで、あれこれと話した作戦構想の大半は使い 物にならなくなっているであろう。そもそも、その時には勝ち目自体が無くなっている可 能性が高い。 昌幸はしっかりとした言葉で告げた。その様子は、とても正常な判断力を失った者では ない。 「ああ、無念無念。家康めにこのまま天下を取られるとは口惜しい」 しかし、その後に、また「独り言」に戻ってからは、とても正気とは思えぬことを口走 るのであった。 今日、我々は、この昌幸の「無念」を察することができる。全てが昌幸の構想通りに進 まなかったにしても、この老人が今少し長生きすれば局面は変わったであろう、と思った りもする。それこそ、冒頭部で述べたようなシーンが歴史上にありえたのではないか、と。 だが―― 「しかし、それでも秀頼様からの御召しがあり次第、わしは大坂城に入りますぞ。非才無 名のわしでは豊臣家の家運を旧に復することはできぬかもしれませぬ。しかし、徳川殿に 易々と天下は渡しませぬ。また、一時なりといえど秀頼様の馬印を京に打ち立て豊臣家の 誉れといたしましょう」 幸村がこういって、さらに後にその言動通りに大坂城へ入らなければ、今日、真田昌幸 という人物への思いはだいぶ熱が下がったものになったのではないだろうか。 例え、その死の床での言葉が後世に伝わったにしても、真田家の子孫こそありがたがっ たかもしれないが、多くの人には、そのあまりの不相応な言葉は、 「あれは、昔、徳川軍にまぐれ勝ちしたのが忘れられず、死ぬ間際に夢でも見たのであろ うよ」 と嘲笑されるだけであったかもしれない。 しかし、棺桶に片足突っ込んだ老人の夢見言葉――正常な判断力を失ってのこと、など といえば猛抗議する人間が昌幸以外にもいた。その人物は昌幸の枕頭にいた。 その、昌幸の次男は、この偉大な――と彼は揺るぎ無く思っていた――父と語っている うちに、実は昌幸以上に昌幸の無念を無念がっていた。 やがて、昌幸は死んだ。 「あの大坂城を使えば面白い戦ができたであろうに、無念」 最後まで心残りなのはそのことであった。 昌幸の死から一年。幾人かの従者が引き払って故郷に帰ってしまい、寂しくなった草庵 にて幸村は静かに暮らしていた。 その草庵の背後に木が立っている。その木の枝に一人の男がよく座っていた。終日座っ ていることもある。 その男、幸村が使っている忍びの者である。名は、なんでもいいのだが、佐助にしてお こう。 さて、佐助は、ここで曲者をこの草庵に近付けぬようにするのが任務である。 一見、そのぼんやりとした顔には覇気が無く、だらりと力を抜いた全身からもなんら張 り詰めた気配は感じられない。そんなふうに見えて、実は絶えず周囲に気を配り、僅かな 物音、僅かな息吹すら逃さぬ鉄壁を五感によって張り巡らせている、というわけでもなく、 実のところ、完全にぼんやりしていたし、力も抜いていた。 本来、優れた忍びである佐助のために弁護すれば、彼も最初からこうだったわけではな い。昌幸存命の頃はその様子を探らんとする徳川方の忍びたちと丁々発止とやり合って充 実した日々を過ごしていたのである。 昌幸の死の時も、彼はこの枝の上にいた。 昌幸様が亡くなった――というのは空気でわかった。静かに枝上で哀悼の意を捧げよう とした時、その気配に気付いた。 「むっ」 と、振り返れば、五本先の木の枝に、猟師の風体をしているが、手拭で顔を隠した者が 立っていた。その足を乗せている枝の細さからしてよほどの達者であることが知れた。 「真田安房が死んだか」 その男は、そういうと後ろに飛ぼうと膝を屈めた。その瞬間を逃さじと佐助が打った棒 手裏剣は僅かに間に合わず男は地面に降り立った。 追おうとする佐助に、今度はあちらが手裏剣を放った。かわして木の幹に刺さったそれ を見る。 「伊賀者か!」 佐助は叫んだ。徳川と縁の深いのは、やはりなんといっても伊賀である。 「……服部半蔵」 その佐助の呼びかけに、男はにやりと笑って飛ぶように駆けて行った。追うかどうか迷 ったが、結局追わなかった。どうせ昌幸の死はいずれどこからか家康の耳には入るであろ う。相当な技量であるあの男を追っていく危険を冒すほどのことではないと判断した。 思えば、あれが最後の充実した日であった。今から考えると、あの男は全く服部半蔵で はないような気もするのだが、その後、興奮して朋輩に「今日、伊賀の服部半蔵とやり合 った。いやさ、背筋が凍る思いであったわ」とか話してしまっており、もうあれは服部半 蔵だったということで押し通すことにした。 なにしろ服部半蔵である。史料によって「いや、この時期半蔵は確かにここにいたよ。 九度山に行けるはずがないよ」と証明してみせようにも、服部半蔵なだけに影武者がいる かもしれず、ていうか、いて当然のような気がしてしまうので、どんなにアリバイ証明を しても「いや、でも服部半蔵だろ」といわれたら、それ以上返す言葉が無いので、佐助が やり合った男が服部半蔵ということにしても問題は無いと思う。たぶん。 あれから数年、今やすっかりダレている佐助である。理由は簡単だ。昌幸の死後、常に この草庵周辺を取り巻いていた気配がきれいさっぱり消失し、なんもやることが無いので ある。 「……幸村様にいうべきであろうか」 昌幸様が死んでから徳川の監視が全く無くなって野放し状態です。と、幸村にいおうか と思ったことは思ったのであるが、当の幸村が、 「警戒を厳重にせよ。そもそも、父上の死も毒を盛られたのやも知れぬ。おのれ家康!」 と炎上しており、とても言い出せる雰囲気ではなかったのである。それに、一応警戒し ておくのも当然だと思ったのでいわれた通り警戒していたのだが、本当に何も無いので退 屈しきってしまい、気付いた時には弛緩するのをどうしようもできなかった。 それでも、時々は怪しい者がやってきて遠目に草庵を見ていることがある。佐助は大喜 びで「よっしゃ来いや」とばかりに手裏剣を投擲するのだが、遠いので当たらないのを見 越してか、相手はノーリアクションで去っていくのである。 「おおい、佐助」 気付くと、木下に先ほども書いた朋輩が来ていた。気付かない佐助も相当なものだが、 この男も相当弛緩している。最近全然草履が減っていない。別に名前はなんでもいいのだ が、才蔵にしておく。 「柿を取ってきたけん、食えや」 「おお」 才蔵が投げた柿を受け取って齧り付く。 「のう」 「なんじゃ」 「やっぱり幸村様にいうた方がええんじゃないかのう」 才蔵もそのことは考え続けているのである。 「お前がいえや」 「……嫌じゃ」 いつも、こうである。どちらかがなんとなく切り出すのだが、じゃあお前が、というと そこで話が終わる。 「わしら、ここで朽ち果てていくんかのう」 「そうかもしれんのう。幸村様は、きっと近いうちに豊臣と徳川に戦が起こるけん、そん 時は大坂城に入城して家康に食らわせたるんじゃいうとられるが、あと何年待てばええも んやら」 柿を食いながら駄弁っていた二人だが、そこはダレていても忍びとしての素養はある。 草庵から微かな物音がするのを聞き取ると柿を捨てて気を張った。 「怪しい者は近くにおらんか」 草庵から幸村が出てきて、二人にいった。佐助が、 「幸い、今はおりませぬ」 と、いった。今だけではなく十日に九日ぐらいは誰も寄り付かないのであるが、警戒し まくっている幸村を見るとそれに付き合って険しい顔をしていわざるを得ない。 「よし、鑓の鍛錬をいたす。警戒を頼むぞ」 「はっ」 幸村は、時にこうして鍛錬をする。肉体の鍛錬は、野良仕事や山歩きで賄うことができ ても、やはり鑓に見立てた鍬を振っているだけでは気が入らなくもなってくる。 気合を声にして発し、幸村は鑓を突く、突いては上げ叩き下ろし、まことに見事な鑓捌 きではあるのだが、それを振るう日が果たして本当に来るのか、豊臣と徳川の戦など起こ らず、起こったとしても幸村の死後のことになってしまうのではないか。 そう思えば、なまじ見事に鑓を使い、また故昌幸が認める軍才があるらしい幸村が不憫 にもなってくる。この辺りは、いかに引いて醒めているようでも常に、 「いつか父上の遺志を継ぎ、家康に食らわせてくれるわ」 と言い暮らしている幸村と起居をともにしているせいで、佐助も多少はあてられている ようであった。 才蔵も、別にこの主君が嫌いなわけではない。嫌うどころか、むしろ二人とも幸村のこ とは好きであり、もし万が一何かの間違いが起こって幸村が日頃いっているような「家康 に食らわせる」ような事態になったら、死なない程度に着いて行ってもいいかとも思って いる。 「二人とも、頼むぞ。家康は父上の軍略を授けられたわしのことを恐れていよう。死は恐 れぬが、暗殺でもされては口惜しい」 「はっ」 紀州の山奥に追放されてほとんど忘れ去られているような流人の分際で吹きまくる幸村 に、二人とも頭を下げて答えた。 そういうことがあった日は、二人だけになった時に才蔵が呟くのが常であった。 「のう、もしかして家康は、幸村様のことなんかすっかり忘れとるんじゃなかろうかのう」 「思ってもいうな」 思ってもいわない佐助は顔をしかめて才蔵をたしなめるのが、これもまた常であった。 さらに二年、彼はこんな時を過ごさねばならなかった。 「幸村様にいうたほうがええんじゃないかのう」 「お前がいえ」 「嫌じゃ」 その二年間に幾度と無くこういった会話を交わしながら佐助と才蔵もそれに付き合って いた。 昌幸の死から三年が経った頃、才蔵が興奮した面持ちで情報収集から帰って来た。大坂 近辺の住民がすわ戦じゃと荷をまとめて逃げているという。 すわ戦か、と九度山中の真田一味もにわかに色めき立った。率先して色めき立っていた 幸村はやがてやってきた豊臣の使者を迎えると、大坂城に入城せよ、との秀頼の誘いに即 座に応じた。 「九度山を下りるぞ」 使者が帰り、家臣を集めて幸村がいった時、さすがに一同感慨深いものがあった。 下りるにあたっては、少し策略がいる。近隣の百姓には浅野家から幸村を逃がすなとい う通達が一応出ている。 幸村は父昌幸の法要といって高野山から僧を招いた。それを理由に近隣の庄屋も招いて 酒食を振る舞った。酔い潰してしまう魂胆であった。 その夜、幸村らは九度山を下りた。道々の百姓でそれに気付いた者もいたが、なにしろ 主立つ者が一人残らず真田草庵へ招かれている上に、完全武装の幸村たちが立ちはだかる 者には食らわせる気迫を持って驀進してきたために皆道を空けてしまった。おれでも空け るわ、そんなもん。 翌日、そのことに気付いた庄屋たちは、たぶん二日酔いの頭を振りつつ、浅野長晟へ有 りのままを伝えると、 「真田ほどの者を百姓に止めよと命じたのがそもそも間違い。咎める必要は無い」 と、いって百姓どもは全くの不問に処した。そもそも止める気あったのか、と思わない でもないのだが、家康も咎めていないので長晟的には問題無かったらしい。 大坂城に入城すると、幸村はすぐに城の南方を見回った。出丸を築く場所を選ぶためで ある。 ――太閤は南が弱点とおっしゃられたそうだが。 なんの、この城南の防衛線とて脆弱ではない。さすがは太閤縄張りの城と幸村は感嘆し た。しかし、それはあくまで防衛のそれというのは否めない。そこに出丸を押し出して建 て、攻撃性を持たせようというのが、秀吉が誉めた昌幸の案である。 「恐れながら、真田安房が子、真田左衛門佐、ここに出丸をば普請させていただきまする」 思わず、声に出して虚空に呟いたのは、感慨を押さえきれぬゆえであった。いや、それ 以上にこの巨城を見上げるにつれ、ここに家康率いる大軍が押し寄せ、それを我が出丸に 引き寄せ打ち払い武名を鳴り響かせることを想像すると、震えが来るほどだ。 ――男子の本懐ではないか。 ふつふつと、血が沸き立ってきた。この時、幸村は家康と、まるで差し向かいで勝負し ているかのように興奮していた。 興奮している幸村に付き従っていた佐助と才蔵が、やってくる一団に気付いて幸村にそ れを告げた。一団は、何やら地面に棒切れで線を引いたりしている。その様子は、どう見 ても何やらそこへ構築する際の下準備にしか見えなかった。 「待たれい」 当然、幸村はそれを見咎めた。彼らに話を聞くと案の定、ここに出丸を築こうとしてい るとのことであった。 「なんと、ここへはわしが出丸を築くのじゃぞ」 幸村はそういうのだが、相手も、既に我らが大将が大野治長に許可を得ているといって 反論した。 「わしは太閤さまに許可を得ておる」 幸村は大真面目にいった。もちろん、そんなの得てない。 その者たちは幸村の真面目な顔や態度に、なんかやばいものを感じたのか、その大将と 話してくれといってかわした。幸村とて、それは望むところだ。 「して、うぬらの大将とはどなたかな」 と、問えば、後藤又兵衛基次であるという。 「おお、後藤殿か」 世上に名の聞こえた武人である。幸村ももちろん知っている。 「よし、話そう。どちらにおられるのかな」 「後でこちらに様子を見に来るといっとられました」 「そうか、では待とう」 幸村は、待つことにした。 幸村は待っている間に、佐助と才蔵に又兵衛のことを話した。 秀吉に仕えて功あった黒田官兵衛孝高(如水という号の方が有名であろう)に愛されて 官兵衛の嫡子黒田長政とは幼い頃からともに育った。 のちに、長政は自分よりも優秀で、それを鼻にかけるような又兵衛の態度に立腹、又兵 衛は黒田家を退転した。長政は又兵衛を許さず各大名にこれを召抱えたりすんな、といっ たために又兵衛はその才、豪勇を世に知られながら仕官できずに落魄した。というのだが、 長政とてただのぼんくらではなく、筑前五十二万石を保ちこれを次代に伝えた優れた武将 であり、それ以上に政治家であった。なんか又兵衛も相当長政に対してやらかしてしまっ たように思えてならない。 ともかく、落魄した又兵衛は物乞いをするまでに落ちぶれた、という。しかし、それで も人々はこれを馬鹿にせず、むしろ長政に頭を下げて許しを乞えば仕官がかなうかもしれ ぬのにそれを敢えてせぬとは「又兵衛さんらしい話!」と絶賛大好評だったのである。 幸村の話を聞いて、二人とも改めて又兵衛の凄さを知ったのであるが、その又兵衛が先 に許可を取って(幸村にいわせるとそれより以前に秀吉に許可を貰っているらしいが)出 丸を普請しようとしているのに割って入ってそれを譲らせることなどできるのであろうか と危惧した。 やがて、又兵衛がやってきた。幸村はこれに怖気を全く見せずに近付いていき、親しく 言葉を交わした。 「かねてより御高名は耳にしております」 又兵衛は丁重にいった。正確を期すれば、又兵衛の耳に入ってる高名とは昌幸の戦歴戦 功であったろうが、その辺りは又兵衛はぼかした。 出丸についての話し合いは、さすがに又兵衛も難色は示したものの、幸村が熱意と情熱 で押しまくったら又兵衛が引いてくれた。その又兵衛を見て佐助も才蔵も、豪勇なだけで なく、人間も出来ておられる。と感嘆した。対する我が主君の人間はどうなんであろうか と思わないでもなかったが、思わないことにした。 「ふうむ、又兵衛殿はさすがじゃのう」 幸村は又兵衛に感じ入ること多であったらしい。そんなに出丸の普請を譲ってもらった のが嬉しかったのであろうか、と二人は思ったのだが、そうではない。 「この城中に、家康めを討てるほどの者はわしか、さもなくば御主だけじゃと目で語って おった。さすがじゃ」 なんか、自分を見抜いていたのが凄いということらしい。 「のう」 後で二人になった時に才蔵がいった。 「なんじゃ」 「幸村様、この城に入ってから、ちぃと逆上せとりゃせんかのう」 それは佐助も感じていることであった。待ちに待った乱が起き、思惑通り秀頼に招かれ 一軍を預けられることになって幸村の吹き上がるような言動が目立つのである。 「ちょっと、勘違いされとるんじゃなかろうかのう。一軍を預けられたのも、昌幸様の名 があってのことじゃろう」 要するに、親の七光り、ということである。佐助はいつもなら、そんなことはないと嗜 めたり、思っててもいうなと嗜めたり、でかい声でいうなと嗜めたりするのだが、この時 は黙っていた。実は、佐助もそう思わないでもなかったからだ。城中の者が真田という名 前を畏怖し尊敬しているのは、あくまでも真田昌幸の赫赫たる武勲に対してである。 「……正直、それはわしも思わんでもない。しかし、そういうたってしょうがなかろ」 それをいっても幸村は聞きゃしないであろうし、だからといって彼を見捨てて去るには、 二人とも真田幸村という男との付き合いが長くなりすぎてしまった。どんなに逆上せあが って勘違いしていようが、もはや通った情が捨てるに忍びないという気持ちを起こさせる に十分であった。 又兵衛に譲ってもらった城南出丸の普請を行っていると、不快な噂を佐助が聞き込んで 来た。 「わしが内通するというのか」 幸村、呆然として呟いた。打倒家康の執念に炎上する幸村は、そのようなことは考えた ことすら無い。 詳細に聞くと、徳川方の大名である兄と気脈を通じて、戦もたけなわとなった頃、裏切 るのではないか、という不安であるらしかった。 一体誰が言い出したのか、と思うものの、実際、兄が徳川方である以上、戸など立てら れぬ人の口に、いつかはどうしても上るような噂であろう。 離間策かもしれぬ、と幸村は思った。 「おのれ家康」 なんかことあるごとにいっている台詞を、この時も幸村は吐いた。 「お袋様の耳にも入り、大野殿への御下問があったとか」 お袋様、とは淀殿のことである。秀頼を中心に物事を見る大坂城内では、淀殿とか淀の 方とかいうよりも、秀頼の母であるという意味でそう呼ぶ者が多かった。 それに対して幸村は激しく憤った、というわけでもない。 ――大事に育てられてきた婦人じゃ、仕方なかろう。 我が子の命がかかっていることでもあり、はじめ姫様、のちに天下人の寵愛第一の側室 として生きてきた女性が不安な噂を聞き、取り乱したとしても不思議とは思わなかった。 幸村の気がいささか滅入ったのは、大野治長がそれを即座に否定せずに後藤又兵衛など の牢人に意見を聞いてから、 「真田左衛門佐に限ってそのようなことはありませぬ」 と淀殿へ言上したことである。 かといって、それ以降、治長と話した限りでは、彼は幸村のことを疑っておらず、むし ろ信頼しているようなのである。 又兵衛は、治長に、 「左衛門佐は、既に名のある武門の者、今更そのようなことをしても武名は上がるどころ か落ちるばかり、さようなことはすまい」 と、いったという。さらには、さすがに治長には遠慮していわなかったが、心開いた者 に、 「禄を得ようとかいう俗世の野心功名のためならば、なにもこの城に入らずとも、兄に頼 み徳川殿へ取り成してもらって寄せ手に加わり働けばよいこと。その方が確実じゃ」 そういったという話もある。 その話を聞いて幸村は感激し、さすが又兵衛殿、打倒家康の同志に相応しい御人よ、と 勝手に同志にしていたのだが、治長に関しては不安を持たざるを得なかった。 その又兵衛の言葉を信じたのかもしれぬが、それにしても屈託が無い。治長の家臣らも、 「我が殿は、真田殿を信頼しておりますぞ」 と、いう。実直であり、腹芸が使える連中にも見えなかった。 観察していて次第にわかってきたのは、治長は基本的には幸村も、又兵衛も信頼してい る。ただ、城南の出丸に篭もった幸村勢が裏切ったら、という仮定を想起した場合、それ への恐怖が先に立ってしまったらしい。幸村は裏切るか否か、という考えをすっ飛ばして 裏切ったということをまず「事実」と確定し、そこから未来を想像した時に、どれだけ味 方の不利になるかという考えばかりが浮かんだようなのだ。 治長の幸村への「疑惑」がほとんど無いようなものであることがわかり、それは良いの だが、 ――統率者として、それでは困る。 幸村は思うのである。 そこは、内心自らも疑っていてもそのようなことは顔色にも出さず、はっきりと否定す るべきなのだ。 入城当初、幸村は穏やかで忠義に篤い治長に好意を持っていたのだが、段々と、治長の 欠点が見えてきた。むろん、欠点の無い人間などいないし、治長は決して無能でも奸悪で もない。官僚としての能力はあるし、人柄もよい、家臣を愛しているために、彼の家の者 は忠誠心が篤い者が多い。 しかし、大将の器ではないだろう。人材としては決して無能ではないが、将器が無いの に将となって大戦を切り回す立場になったという点では、関ヶ原合戦における石田三成に 似ている。 「まあ仕方あるまい。出丸普請の方が大事じゃ」 そういって幸村はこの件は流して以後口にしなかった。 「某が家康なんぞに降るわけがありませぬ、そこんとこ納得して貰えるまでここを動かん」 とばかりに治長邸にカチ込むことを覚悟していた佐助と才蔵はとりあえずほっと胸を撫 で下ろした。 ――どうも、慎重過ぎる。 軍議の席上、幸村は思わざるを得ない。 軍議、とは、慶長十九年十月に行われた軍議である。既に徳川は動員令を発して開戦し ていた。豊臣もそうなると遠慮せずに兵を堺へ出してこれを占領した。大坂城に近く、物 資集積の地である商都だから、まずこれを押さえようという意見が出ると反対する者もお らず、速やかに作戦は実行された。 慶長十九年十月の軍議は、そんな時のことである。ろくに守兵もおらぬ堺占拠は当然の ことではあるが一応は勝利であるため、 「幸先良し」 とばかりに士気はなかなかに奮っていた。 この状態ならば、出戦が可能ではないか、幸村はかねてより考案していた作戦案を披露 した。 徳川の軍はまだ集結していない。今ならば、城を出てもすぐさま包囲殲滅されることは ない。そこで思いきった軍勢を出す。一手を、山崎へと向け、秀頼の出馬を仰いで本陣を 天王山に置く。 一手を、大和へ向け、宇治と瀬田の橋を落として川を天然の堀として布陣、さらに伏見 城を攻略、京都を占拠して気勢を上げれば武名大いに上がり、味方に馳せ参じようという 者も出るだろう。 治長は、出戦するというのに驚いた。 「この城は落ちぬ。固く守れば、寄せ手には太閤恩顧の者も多い、忠心を思い出す者も出 るだろう。危険を犯して野戦に及ばずともよいのでは」 物理的に考えれば、治長のいうことは正しい。最終的には大坂城の城郭に頼る可能性が 高い以上、遠くまで兵を出したりせずにひたすら城の防備を固めていればよい。 しかし、低い方の可能性も、可能性は可能性だ。宇治、瀬田の線で防戦しているうちに どのような事態が起きるかわからない。上手くいけば、まだ集結しきっていない敵の一部 を補足して痛打を加えられるかもしれない。いや、被害を与えられなくとも、撤退させる だけでもいい。野戦での勝利を取っておく。それが昌幸との間に一致を見た戦略であった。 これがあると無いとではそれからの流れが大きく変わってくるはずだ。 この時代では「武門」は自らの武を重んじる。一度蹴散らされた大名はその武名を取り 戻すために多少の不利は顧みずに攻撃を仕掛けてくることもありうる。そうなればしめた もので二勝目、三勝目を得られるかもしれない。 そうこうしつつ、敵が集結する前に悠々と城に引き上げるのだ。 幸村の提案に賛同する者も多く、治長も心を動かされたようだが、反対する者も一人や 二人ではなかった。口火を切ったのは小幡景憲である。古今の戦例を引いて宇治・瀬田で 守って勝った例無しと難詰した。ただ例を引くだけではなく、宇治・瀬田の物理的な守り 難さも説いたから、この景憲のことを高く買っている治長は、当初の我が案と重なること もあり、そちらに傾倒した。 結局、後日また詮議しよう、ということで散会した。しかし、その「後日」が来るまで 軍兵は城を出ぬということであり、要するに即時討って出るべしという幸村案が実行され ぬということであった。治長としては幸村の顔を潰さないように配慮したつもりであった ろうが、幸村は軍略家である。そういう人種にとっては献策が容れられるか容れられぬか が全てであって、そんな心遣いなどなんの意味も無い。その方の策を用いるが、それにあ たって最も困難な、討死必至の部署を割り当てる、といわれても策を用いられるという一 点において満足する人種であり、むしろ我が手で我が策を成功に導こうと奮い立つものだ。 幸村は、もはや当初の案を諦めざるを得なかった。 普請中の出丸に帰ってきた幸村は、 「父上のいった通りになったわ」 大笑いしながら酒を飲んでいた。父昌幸を尊敬するところ無比である幸村は、父の言行 が的中したことが嘆くよりも嬉しいらしい。 華々しい野戦での勝ちを得て、それを諸大名の動揺を誘う梃子にしようという作戦案は 破れたが、幸村はめげない。めげている暇など無いほどに多忙であり、また、彼にはそれ だけの兵力と部署が与えられていた。 兵力は約三千。部署は、城南に築いた出丸である。 「策は容れられなかったが、これだけの兵を与えられておる。やるぞ皆の者」 この辺り、幸村は、所詮は信州の小土豪の倅である。三千という兵力に大いに意気を刺 激されていた。当時、動員兵力は一万石につき二百から二百五十である。三千、というの は昌幸どころか、その昌幸の遺領に関ヶ原での功績により賜った分を加えた兄信之の動員 数すら超える。 来るなら来てみろ家康、と幸村は炎上していたが、いわんでも家康は来た。全国津々浦 々、松前藩がだまくらかして連れてきたアイヌ兵まで加わった総勢二十万余の軍勢がやっ てきた。 「来たぞ来たぞ」 日々、その数が増えるにつれて大野治長はヘコみ、幸村は嬉々とした。幸村にすれば蹴 散らされる敵は多ければ多いほどよい。それに、幸村は何しろ、大軍に城を攻められるの に慣れているところがある。 「家康はどこにいるか」 というのが幸村が切望する情報であり、それを探らんと佐助や才蔵は危険を冒して敵陣 へと潜入したが、居場所はわかっても重厚な陣を張った奥に家康はいてこれを衝くのは容 易ではなさそうだ。 「まあ、いずれ好機も来よう。とりあえずは、前田勢が攻め寄せてくる気配があるという のが気になるのう」 加賀の前田といえば百万石の大大名である。これを迎え撃つのだからさぞかし本望であ ろうと佐助たちは思ったのだが、幸村的には別段どうとも思っていないらしい。 「攻めて来たら防ぐまでのことだ。それほど気負わんでもよかろう。あくまで狙うは家康 の首一つじゃ」 たかが百万石、という気概が感じられる幸村の言葉に、不覚にも佐助も才蔵も、この人 はやっぱり凄い人なんではなかろうか、と思った。一時間ぐらい。 やがて、前田家が攻めてきた。百万石の軍役であるから堂々たる大軍である。出丸の将 兵らは意気盛んで打って出ようと騒いだが、幸村はこれを止めた。 大軍を迎えてそのように攻めを主張するのは士気が高いと見ることもできるが、一面、 押し寄せる兵の波に心を奪われて一刻も早く乱戦の中に我が身を置いて忘我してしまいた い、という恐れから来る心情も否定できない。 「出てはならん。上田を守った時に我が父がそのような戦をしたか」 幸村は柱に寄り掛かり、悠然たる様子でいった。三千の兵のほとんどはこの度新規につ けられた兵だが、中には真田家の旧臣もいる。彼らは幸村の言葉に落ち着きを取り戻した。 それが波及して全軍が静まるのを見て取ると、幸村は目をつぶり、まるで眠っているかの ようになった。 さすがは真田安房の子、この人に従えばよき戦ができるぞ。と無邪気にこれを仰いでい る兵卒たちを横目に、佐助と才蔵は内心穏やかではなかった。二人にとっては、幸村はご くごく自然に自分を昌幸と同化して、無闇に家康に好戦的になっている一種の変人である。 入城以来の吹き上がりぶりを目の前で見ていることも手伝ってこれを危ぶんだ。 「殿、もはや鉄砲の届くところまで敵が」 と、細かく敵の接近を告げた。幸村はその度に微かに頷くばかりでなんの下知も無い。 ただ、一度だけ、 「兵は弛んでおらぬな」 と、いった。自分の命令が下るとともに遅滞なく攻撃に出れるかと確認したのだ。兵は 皆、意気は盛んに、しかし冷静さを保った様子であったのでそういうと、幸村は満足そう に頷いた。 「もう敵が乗り入れんとしております」 と、いった時に初めて幸村は立ち、大音を上げて攻撃を命じた。弓鉄砲を放ち槍衆を繰 り出すとたまらず敵の先陣は崩れた。しかし城、砦の類を攻める時、先陣の被害などは折 込済みのことだ。前田軍は怯まずに二陣三陣が押し出してきた。 「さすがだな」 幸村は督戦しつつ呟いた。 戦闘法を訓練され、武士の恥を教え込まれた軍隊の強さはここにある。それらの無い雑 軍というのは、野戦で勢いに乗れば正規の武士軍団を圧倒することもあるが、こういった 城攻めにおいては前陣が崩れてもたじろがぬ兵が必要になる。 しかし、攻撃が防がれ続け被害甚大になると、前田軍は退いた。これもまた玄人たると ころで、この出丸がすぐには攻め落とせぬことを悟ったのだ。 幸村たちは一息つくことができた。乱れた隊列も整え、鉄砲に弾丸を込めることもでき た。この間というのは守り手にとっては大きい。一番怖いのは被害を顧みずに延々と攻撃 を続行されることである。 この時の前田家の討死は千人前後という書物もあるが、これは過大かもしれない。しか し、相当数の被害があったことは確かであろう。前田家はいうまでもなく外様であり、外 様随一の大藩である。ある程度の討死は徳川への忠義の証として覚悟の上であったろう。 攻撃を止めて退いたのも、討死はこの程度でよい、という冷徹かつ悲しい外様大藩の計算 が働いていたのかもしれぬ。 以後の他藩の攻撃も退けて、幸村とその軍は意気軒昂であった。この城南の出丸が有名 な真田丸という名前で呼ばれるようになったのはこの頃であろう。 「やりましたな、殿」 ただの変人から、ただ者じゃない変人に評価を改めた佐助と才蔵が幸村を誉めると、そ れに鷹揚に頷きつつ、幸村の顔には焦燥の色があった。大局的な軍略などはさっぱりわか らぬが、佐助も才蔵も稼業が稼業なので人の顔色などには敏感である。 「何かご懸念でも?」 「真田の武名を挙げられたのは大いに喜びとするところだが、これでは家康を討てん」 まだ満足していないらしい。どうやらなんとしても家康を討たねばならぬようだ。しか し、それはさすがに無理な話だと二人とも思った。 その晩、寄せ手の軍中にある真田信尹が使者としてやってきたという報せが来た。信尹 は、幸村にとっては叔父にあたる。既述の通り、敵軍にある親類縁者の伝手で裏切ること を疑われたこともあるので会わずに追い返すことも考えたが、用向きだけは聞こうと密か に会見した。 「まさか叔父上ともあろう者がわしに恥を薦めに来るとも思えぬが」 と、幸村がぽつりと呟いたのを耳聡く聞いた佐助は、信尹を迎えつつ、それとなく目と 表情で「下手なこといったら斬られます」と伝えようと努めた。信尹は、小者が、何をジ ロジロと見ておるか、と瞬間不快げな顔を見せたが、幸村が腰を折って一族の年長者への 礼を払ったので、表情を穏やかにしてこれに答礼した。 信尹の用というのは、はっきりいってしまえば調略である。裏切れ、というのだ。 幸村の武略を家康が大層誉めているといい、裏切るならば信濃に三万石を与えるとの内 意を伝えた。ここで五十万石、といっている話もあるが、いくらなんでもスケールがでか すぎであろう。まず、三万石というのは妥当なところだ。それによって、この厄介な出丸 が味方になるだけでなく、城中に疑心暗鬼を産むことができる。 この場合の疑心暗鬼とは、裏切られることを恐れるばかりではなく、先を越されること への恐れも内包するものである。自分も早く裏切って恩賞にありついた方がよい、という 思案を誘発するのだ。 三万石、というのはその点から見ても適度な餌だ。大坂城を攻める手間やそれによる被 害を考えれば、内応した者へそれぐらいの恩賞はありうる、と思わせるに十分である。そ れに、別に家康はその約束を反故にしてしまってもよいのだ。 「おのれ家康」 家康なんぞおらんのだが、幸村はそういって腰を上げた。 「叔父上の言葉とも思えぬ。我が打倒家康の意志は固い、そしてまたそれは父の遺志でも ある。そのような話は呑めぬ」 あまりにも激怒している幸村に、久しぶりに会った叔父は、何でキレとんじゃお前、と いう顔をしたが、この男も鈍くはない。さては先ほどの意味ありげな小者の視線はこれで あったか、と推量した。 「この度の我が武略を誉めているとのことだが、これは全て父より受け継ぎしものにて、 わしが創案したるものなど一つも無い。なぜ父の武略を認めず、九度山に置き捨てておい たのか、父の武略のほどは徳川殿がよく知るところであろう」 凄まじい剣幕に、信尹は圧倒されたが、早々に調略のことは諦めた。 「よくいった。それでこそ武士である」 威儀を正していうと、幸村は浮かしていた腰を下ろした。 「わしもこのようなことを言いに来たのは、これがわしの忠義だからじゃ」 「なるほど」 幸村はすっかり納得したようである。 「この上は武士として潔く戦場で見えましょうぞ」 「うむ、その通りだ」 信尹は深く頷いてさっさと帰っていった。 「三万石か」 数十万石とかいうならともかく、三万というどこからともなくひねり出せそうなリアル な数字に佐助も才蔵も、受けちまえばいいじゃねえか、とあからさまに思ったが、幸村は 却ってそのせせこましい数字が気に食わないようだ。かといってでかければでかいで、 「日の本全て寄越してもいらんわ」 ということであり、どっちにしても気に食わないのであった。 「しかし、わしが働き過ぎてあちらの一族は迷惑しているかもしれぬな」 あちらの一族、とは、兄の信之を筆頭に徳川家の傘下に入っている真田一族のことを指 す。一応、そのぐらいは気がつく男であった。 「機会があれば姉上に、詫言をしたためて送っておこう」 兄の信之に対しては、わざわざ連絡を取ってそれが徳川に知られた場合に兄の立場が苦 しくなるであろうと思い、敢えてなんら接触をしないつもりであった。 しかし、 「兄上は、我が心をわかってくれよう」 と思って疑っていなかった。 ――自分は家を遺し、弟は名を遺す。これでよいのだ。幸村よ、力一杯やれい。 という激励を胸に暖かく見守る兄の眼差しが目に浮かぶようである。 「わしは、よい父兄を持った」 幸村は、しばし感涙を押さえて俯いた。 「やりすぎじゃ」 大坂城南方に築いた出丸において真田左衛門佐幸村が攻め寄せる軍勢を打ち払い大活躍。 さすがは真田安房の薫陶を受けた子よ、と評判になっている。との報せを受けて、真田信 之は頭を抱えていた。 この度、信之は体調不良を訴えて出陣していない。信吉と信政の二人の息子を代わりに 出している。 信之も代々の武門の者であるから、 「敵味方に分かれたといっても同じ真田家の者である。我が息子たちも弟も、双方が家名 を辱めぬ戦いをしてくれれば満足これに過ぎたるは無い」 とか思っていたのであるが、弟が期待以上に頑張ってしまい、胃が痛くなる思いである。 信之も並の武将ではない。その目から見て弟に秘めたる才能がありそうだ、とは思って いたのだが、それがこのような形で発揮されてしまうのは困るのである。 ただでさえ、真田家には前科がある。戦国乱世の坩堝が煮立っていた頃のことである第 一次上田城攻防戦についてはよいとしても関ヶ原の裏側で行われた第二次のそれは記憶に も新しい。 事実、この大坂の陣の後で、信之は幸村と示し合わせて内通していた、と嫌疑を吹っか けられることになる。 とにもかくにも、 「やりすぎじゃ」 やりすぎ以外の何物でもない幸村の奮戦なのである。 ――たぶんあいつ、父上に色々いわれとったんじゃろうなあ。 段々と九度山の父から来る手紙が弱気になっているのは、信之は無論感じていた。赦免 を家康に嘆願したこともある。しかし、結局家康はこれを許さなかった。 父がとうとう穏便な下山を諦めたというのも文面からおおよそ察することができた。し かし、おとなしく諦めるような男ではない。必ずや、下りるなというなら力ずくでも下り たるわ、とかそういう考えを起こしているに違いない。家康へもたっぷりと恨みを含んだ であろうし、それを側にいる幸村へと散々にいったであろうことも想像がつく。 昌幸の死後、信之は幸村へ、赦免のことを家康へ願ってみよう、と手紙を出したことが ある。しかし、幸村は、 「家康めがそれを許すはずがありませぬ」 と、突っぱねてしまった。使いの者にその時の様子を聞くと、やたらと炎上していたと いうことである。 もう幸村は、父の遺志を継いで家康に一発食らわせることしか考えていないのだろう。 そう思いつつ、信之は嘆息する。鋭敏な彼は、同時に幸村が、 ――兄上もそれを望んでいるはず。 とか勝手に決めつけているだろう、とも想像している。 「まあ、仕方あるまい」 ああいう父と弟を持ってしまったのだからもうしょうがない、と信之は諦めている。 「和議じゃと」 アホか、と続けたそうに幸村が吐き捨てた。佐助たち隠密が聞き込んできた話では、城 内に和議が成るのならば受けてもよい、という声が出始めているという。 「あの大筒のせいか」 時折、大音量の爆音が轟き、砲弾が降ってくる。家康が大筒によって城を砲撃させてい るのだ。しかし、この時代の砲弾は炸裂弾ではない。弾自体が爆発し、無数の破片を撒き 散らして人を殺傷するという類のものではないため、壁や屋根を打ち壊す効果はあっても、 それだけといえばそれだけである。戦に慣れた者にとってはそれほど恐れるものではない。 豪胆な者は「拾って鋳潰して銃弾にすればよい」といって皆を笑わせている。 「お袋様も同心か」 その大筒の弾が、先日、淀殿の居所に命中し侍女を傷付けた。それ以来、淀殿は心を挫 けさせている、との話を既に隠密たちが聞き付けてきていた。 既述のように、幸村は婦人の恐慌にいちいち腹立たしさを覚えぬが、側にある大野治長 は何をしておるか、という思いはある。 治長にも言い分はある。弾薬兵糧の減りが思っていたよりも早く、この時期、後数ヶ月 もすれば尽きる量であったという。しかし、数ヶ月でもいいからやっちまえばいいじゃね えか、と思わないでもない。その数ヶ月の間に、家康がぽっくり逝ったりせんとも限らな いのである。しかし、そこは政治が介在してくる。 まだまだ余力のある、この城は落ちぬぞ、と胸を張っていえる、そしてまた、敵もそう 思って攻めあぐねているこの段階で有利な条件を勝ち取ることはできないか。 そのような幸村みたいな炎上組からすると弱気というしかない声が城内の、それも上の 方で生じているということを知って動かぬ家康ではない。すぐに使者を派して打診してき た。豊臣方上層部はそれを突っぱねることができず、後は和議の具体的な条件が話し合わ れることになった。 家康は、城の壕を埋めることを条件にした。そして、それ以外では大いに譲歩した。秀 頼も淀殿もこの城を出なくてよく、さらにはこの度の戦闘を行った将兵にもお咎めは無し、 という。要するに、壕さえ埋めれば後は全て以前の通り、ということであった。 幸村たち新規召抱えの諸将は、それには全く参画させられず、部署を守ってことの推移 を見守るだけであった。 とうとう、和議はその条件で成立し、壕は埋められてしまった。 包囲していた大軍が視界から消えてほっと胸を撫で下ろした者も多かったろうが、前線 の将兵たちはこれを大いに嘆いた。何しろ彼らは実際に壕に寄って戦っていたのだ。その 壕がいかに敵を阻んでいたかをその目で見て知っている。 「おのれ家康」 幸村は案の定炎上していた。彼が篭もった真田丸もきれいに破却されてしまっていた。 「また近い内に戦が起きよう。壕が無くては野戦に打って出るしかない。必ずや家康を討 ち取ってくれるわ」 幸村は吹き上がっていた。 「のう、幸村様、出丸でちぃとええ感じに出来たからって、いい気になっとりゃせんかの う」 「なっとる」 才蔵の言葉に、佐助は頷いた。確かに、幸村の防戦指揮はなかなかのものであった。間 近で見ていた佐助たちも認めるところだが、野戦となれば、なんといっても兵力差がもの をいう。大軍の総大将である家康を討つなどとてもできまい。 「しかしのう、わしはもう幸村さまと一緒に死んだろう思っとるんじゃ」 佐助は、ここ最近で固まった決意を、初めて才蔵に明かした。 「決めたか」 才蔵は、いった。家康打倒という、死ぬこと確実の志を抱いて捨てる気配も無い幸村が、 やがては死地に向かっていくことは明白であり、その時どうするか、ということは酒を飲 みながら幾度も話題にしたことがある。 佐助は、 「わからん」 才蔵は、 「着いて行けるところまでは着いていく」 と、いっていた。 その、わからんいうてた佐助がとうとう死ぬまで着いて行くことを決めたのだ。才蔵は 沈思する面持ちであった。我が身はどうか、と自然に考えざるを得ない。 「わしは、わからん」 いいつつ、佐助に近付いとる、と我ながら不安にならないでもなかった。 「まあ、元々わしらは影の者よ、討死に付き合うような筋合いは本来あるまい」 佐助は笑っていった。死を覚悟した者特有の妙に晴れやかな表情であった。今は一時の 休戦期間であるが幸村などのいうところではすぐにまた戦いが始まる。それを恐れる心は 才蔵の中にどうしようもなく存在しており、そういう時、こういう顔を見ると、つい羨ま しくなってしまう。 「わしは、わからん」 横を向いて、もう一度いった。その才蔵の心理が佐助にはわかる。その話は終わりだ、 とでもいうように陽気に瓢箪を掲げた。 「まあ、飲めぃ」 翌年には和議は早々に破れた。 「濠を掘り返しておるのは重大な和約違反である」 という名目を掲げ、家康は大軍勢を引き連れて再来してきた。事実、そういうことはあ ったらしい。だが、それに先立って「家康が和約を反故にして攻めてくるらしい」という 風評が流れていた。それを家康が流したのかどうか、といえば、流していてもおかしくは ない。ただ、大々的にそれをせずとも大坂方が受け止めたそれを何倍にも膨らませて恐怖 したというところもあっただろう。 確かに家康の言い分はもっともである。濠を埋めることを条件に他では譲りまくったの だ。それを掘り返しているのは重大な和約違反であろう。 濠を埋めるだけでいいなら、と先の和議を進めた者たちは、その政治的取引が大坂方の ほとんど唯一の利点を引き換えにしてのものであることを痛感したが、今更どうしようも ない。せめて濠の掘削作業を進めるが、そうはさせじと敵の進軍は急である。 幸村はここで夜襲案を出した。 敵の神速ともいうべき行軍速度は確かに恐るべしであるが、それは一面、強行軍を重ね てきたということでもある。むしろ、ここは最大の好機である。さすがに一晩ぐらいは休 むであろうから、そこに軍を出して一か八かの夜襲で家康本陣を衝くべし、と主張した。 成否は問わず、である。どうせ不利も不利の状況である。いずれも生還を期さぬ豪の者 を選りすぐり遮二無二突撃すれば、家康の首を取れるかもしれない。 後藤又兵衛がそれに賛意を表した。それだけでなく、又兵衛は幸村が自らその夜襲軍を 指揮するというのを退けて自分が行くという。 それに対して幸村は、「同志」の又兵衛が賛成してくれたことには喜びつつ、この家康 に食らわせる仕事を譲るつもりは無かった。 又兵衛は、そこは老朽の者である。ただの武辺者ではないから巧みに幸村を持ち上げた。 「この度、この城に残った者、或いは新たにやってきた者は、真田殿の指揮を仰ぎに来た のでござる」 冬の陣での幸村の奮戦に満天下が驚き、皆、その旗の下で戦おうとしている。その幸村 が初戦で討死するようなことがあれば城内の士気は大崩になる。ここは、某が先駆けの労 を取りたい、と。 こうまで持ち上げられたら、ついつい 「わしはそれほどの者ではありませんが、そこまでいわれるならば……」 とかいって譲って然るべきであるし、美談にもなる。 しかし、ここで幸村は断固として夜襲軍の指揮を譲らなかった。 「この後の合戦こそ大事なのだから真田殿には残ってもらわねば」 と、又兵衛はなおも幸村を立てる大人の態度を見せるのだが、とにかく幸村が自分が行 くといって譲らないため話が進まず、やがて夜襲の機は去ってしまった。 果たして、これはなんなのか。何をここまで意固地になるのか。 又兵衛もそれは思ったであろう。しかし、幸村が家康に食らわすことのみを望んでいる のだとすればこれは当然な態度なのである。むしろ幸村は幸村で察してくれと思っていた かもしれぬ。 幸村と又兵衛については、お互いに武勇を認め合った盟友であるという説と、不仲説が ある。この軍議の後に又兵衛が「なんじゃあいつは」とかいったのが不仲説の元になって いるのではないだろうか。 無論、依然として幸村の方では「又兵衛殿は同志」とか勝手に思っており、そういう態 度を取られると又兵衛としても邪険にしたりするわけにもいかず、大人な態度を取ってい た、ということであろう。たぶん。 人馬を休息させた家康は五月の初めには軍を動かした。これへ当たるべく後藤又兵衛は 約三千の兵を率いて出撃した。後に、幸村ら後続部隊も続いていたし、同時に別の道を木 村重成と長曾我部盛親の部隊も並進していたのだが霧のために連絡にも不便をきたし、敵 の大部隊と単独で当たることになった。 死闘が繰り広げられたが、又兵衛が銃撃を受けて落馬して以降姿が見えなくなると、そ の軍配を頼りに戦っていた兵たちは次第に退き始め、勢い込んで攻めてくる大軍を支えき れずに潰走した。その時既に又兵衛は自決していたという。銃弾を受けて自ら決する力が 失われたために従者に首を討たせた。 「なんと、又兵衛殿が」 幸村は、急ぎ軍を進めていたが間に合わずに訃報に接した。 「せっかく分かり合える友であったのに」 と、勝手に分かっていた幸村は悲しんだが、それよりも敗兵を収容しつつ追撃してくる 敵を迎え撃たねばならない。 なにしろ勢いに乗っている大軍だ。できれば当たりたくない相手である。 「すぐに当たるのはよろしくない」 追撃軍というのは手柄の稼ぎ時であるために勢いには乗りに乗っているが、次第に手柄 の取り合いじみてきて友軍間の連携がおろそかになりがちである。 目の前を手柄が背中を見せて逃げていく状況になれば疲労も忘れて追いすがるが、一段 落して足を止めると一気に疲労がのしかかり、いわば追撃疲れともいうべき状態になるこ ともある。幸村は追撃の勢いが止まるのを待った。友軍の毛利勝永の隊もそこは心得てい る。 伊達の軍勢一万が近付いている、松平忠輝のやはり一万には達するであろう大軍も見え る、との報に接して幸村は動ぜず、兵を伏せさせた。 伊達軍が進んで来たが、勝ちに乗じた追撃軍の勢いは無しと見た幸村は戦闘を決意した。 この時「名将言行録」などの史料には、兜を脱いで槍も置かせて伏せさせ、敵の接近に伴 って兜をつけ、もう接触するという時になって槍を持つことを命じたために、兜も槍も無 い素手の状態で心理的に不安になっていた兵たちがそれだけの、いわば当たり前の装備に 戻ったというだけで反動によって意気盛んとなり伊達軍の誇る騎馬鉄砲隊を大いに突き崩 した、とある。 この話、とても面白いので採用したいのだが、なんか眉唾ものな気もする。しかし、こ とは人間の心理の問題であるから、こういうことがあったか無かったか、ならともかく、 ありうるかありえないか、というと、ありうるだろうといわざるを得ないので採用して構 わんと思う。 「よし、敵の後詰が来る前に退けや」 そういうわけで巧みな心理操作で兵の力を引き出して伊達の先鋒を打ち破った幸村一行 はその間に退却した。同じく毛利勝永もなかなかの奮闘を見せて敵を足止めして退いた。 この時、敵が全力をもって追撃してくれば危うかったかもしれない。しかし、伊達は追 撃せよと、この方面の総大将の水野勝成に命じられたが、被害甚大を理由にこれを断った。 この辺り、既述の前田家のように、外様の計算が働いている感じもする。 他の連中もどいつもこいつも及び腰である。水野勝成は老朽の将である、であればこそ 家康が用いた。しかし、身代が小さく三万石程度でしかない。つまり、直属の兵が少ない。 「我が手に一万の兵があれば」 勝成は切歯して悔しがったかと思われる。そういいつつ、どうしても伊達や松平の、そ れこそ一万を超える兵を思っていただろう。 一万の兵力があれば、例え幸村や勝永が精兵をもって奮戦しようがその兵はせいぜい六 千か七千程度であるからしばらくは戦える。攻めかかる前に各大名に、 「わしは手勢のみで当たる。主らは好きにせえ」 とでもいってやれば、総大将を一人で戦わせたということが家康の耳に入るのを恐れて 動かざるを得ないだろう。 幸村は、そういう敵軍の事情は知らないが、どうやら敵の追撃が無さそうだと見て悠々 と退却しつつ大言を吐いた。 「東軍百万というが、一個の男子もおらんか」 東軍百万(って自分たちでいってたらしい)をタマ無し扱いして得意満面である。 「逆上せとるな、大丈夫か」 「知らん」 それを見ていつものように才蔵が佐助にいうが、もはや覚悟を決めたらしい佐助はけっ こうつれない返事をよこす。 幸村は茶臼山に陣を置いた。奇しくも家康が冬の陣で本陣を置いた場所である。といっ ても、ついつい「奇しくも」とかいってしまったが、要するに見晴らしの良さなどから本 陣を置くのに好適な場所ということである。特に、近代以前において地形とはそうそう変 わるものではなく、歴史的な戦いが繰り返し行われた場所というのはある。 壬申の乱における決戦が行われた場所がのちの関ヶ原である、というのはその最たる例 といえるだろう。 そこから幸村は使いを出した。 「秀頼様御出馬」 を願う使者であった。 野戦においては兵力差というのは、どのような名将にも手の施しようが無いところがあ る。幸村としても家康に食らわせることは諦めていなかったが、最終的な勝利となると悲 観的にならざるを得ない。野戦軍が消滅すれば、壕も無く兵も少ない大坂城など一挙に覆 滅されるに違いなく、そうなれば秀頼が無様をさらさないとも限らない。 ――いっそ、我らとともに決戦すればよい。 と、幸村は思っていた。 大野治長は秀頼の出馬に乗り気であった。豊臣恩顧と思っていた大名がことごとく家康 についた今、過度な幻想は抱かぬが、それでも秀頼が出馬すればその秀吉相伝の金瓢箪の 馬印を仰いだ敵軍の中に動揺が生まれるかもしれぬ、という期待は未だ捨て切れなかった。 寝返りを打つとまではいかずとも、秀吉の旧恩を思い出して鋭鋒が鈍り、消極的になる 大名もいるのではないか。 「秀頼様の身は大丈夫であろうか」 茶臼山まで打ち合わせに来た治長は、そんなことをいって、幸村を鼻白ませた。 ――よい家臣なのだが。 結局、幸村は治長の才能や胆力はあまり買わないようにはなっていたが、その忠勇なる ことは認めていた。治長とて、懸かっているのが己の命ならこのようなことはいわないだ ろう。その死が秀頼のためになると確信すれば進んで死地に赴けるぐらいの気概は持って いるはずだ。 ――しかし、小さな忠義だ。 そこは冷酷に幸村は思っている。ただただ主君の身の安全のみを願い過ぎるのは、主君 にも家にも恥を塗りつけることになりかねない。家臣が主君の安全をはかる時は、それは 後日の復仇を志してのことでなければならぬ。 治長は、秀頼という人間に側近く接し、間近で情をかけられたりしたために、秀頼を案 ずる心根が父兄が子弟を思うような感じになりがちである。 「無論、秀頼様についてはわしが」 幸村はただならぬ眼光で治長を見据えつついった。治長は、それをどのような意味に取 るべきか悩んだ。眼光は、それを言葉に出して問うようなことを無粋として拒絶するがご とき気色に満ちていた。 もちろん、幸村は、秀頼を迎えて大いに士気を鼓舞し、東軍を蹴散らし、豊臣家の武威 を輝かせた後に、僥倖に遭って勝てばよし、敗れれば最後の力をもって秀頼が落ち着いて 腹を切る静謐な場所と時間を確保して首を敵手に渡さない、という意味でいっていた。 治長とて、武門の者だ。かつては家康を暗殺しようとし、この度の大戦に参画した男だ。 秀頼に最後に一花咲かせることこそが忠義、という自分の考えに賛同してくれるかもしれ ぬ。 治長は、城に帰っていった。その態度などを見るに、秀頼出馬はならぬかもしれぬ、と 幸村は思った。 「それならそれでよい」 と、幸村は思っている。秀頼を呼ぶのは、これから家康に食らわせて武名を上げる仲間 に、豊臣家の当主秀頼も入れてやろう、という見ようによってはとてつもなく傲慢な気分 から来ているところが大きい。当たり前のように徳川と豊臣と真田を同じ重量で扱ってい る幸村の頭の中身が知れたら、皆、なんと不相応なことを、と呆れるか笑うか、怒る者も いないに違いない。 だが、思い起こせば四十年ほど前には、日本中に小大名小土豪が群集し、その吹けば飛 ぶような連中ですら「織田がなんだ」「豊臣などという家は聞いたこともないぞ」などと 吹き上がって割拠していたのである。 そういう意味では、昌幸の薫陶を受けて、この期に及んで徳川家康何する者ぞ、という、 四十年前の小土豪の気概を本気で持っている男は、この男一人であったかもしれない。 大坂城中の人々は、家康のことをやれ悪人だ、やれ大狸だ、といってもその強さは皆恐 れ、或いは認めている。幸村だけがどこかしら、 「あんな奴、全然大したことねえ」 とか素で思っているところがある。 「明日はやるぞ、皆休め」 そういうと、幸村は自ら安楽な寝息を立てて眠り始めた。 早朝、決戦を前にして毛利勝永などの諸将と打ち合わせを行った。しかし、打ち合わせ といっても、細かい戦術など最早意味の無いことは皆知っている。接戦しつつ敵を崩し、 崩れたところに死力を尽くして突撃するしかあるまい。 東軍の先鋒は、本多忠朝と松平忠直であったが、後者に関してはやや正確ではない、松 平忠直は抜け駆けであった。 忠直は家康の孫にあたる。父親は、家康の次男の結城秀康である。 忠直はこの度の戦でいいところが無く、汚名返上のために先鋒を熱望していたが外され た。 「ならば抜け駆けするまで」 と、思い切った忠直は陣頭に立って指揮したために、戦意も勢いもなかなかのものであ った。 忠朝の軍勢は勝永へ、忠直のそれは幸村の陣取る茶臼山に向かってきた。 接触は勝永の方が早く、戦闘体勢で忠直を待ちうける幸村のところへ盛んに銃声が聞こ えてきた。 幸村は、この時にも秀頼の出馬を乞う使者を城に送っている。 幸村にしてみれば「早くせんと間に合わんぞ」という気持ちである。 一方、大野治長も悩んだ末に秀頼を出馬させようとしていたが、城内で反対に遭って難 航していた。 「家康の孫ごとき一挙に屠れ」 幸村は、忠直の率いる越前衆の勢いをまともに受けて接戦に入った。勢いはあるが、幸 村の陣は山上にあるために、その登攀によってどうしても越前衆の勢いも減殺せざるを得 ない。 戦闘に入る前、幸村はこれを見下ろして、 「勢いはあるが、主将に引き摺られてのことではないか」 と、看破した。本当に兵の端々まで気力充実した勢いある軍は、まるで人間の集合体が 一個の生物のごとく見えるものだ。それほどの結束力は無い、と幸村は見た。 「死にたくない者は去ってよいぞ。今日の戦は死ぬこと間違い無しじゃからな」 決戦開始を前に幸村がいうと、誰一人これに肯んぜず、中には怒り出す者もいた。 このようなシーンは、戦記ものによく見られるシーンである。実のところ、この時、幸 村においてこういったシーンがあったかどうかは定かではないが、この後の猛攻を見ると 確実にあったと思われる。そうでなければいけない。 のちに、幸村の家臣がことごとく討死したことを指して幸村を賞賛する声があったが、 ここに来るまでに死を恐れる者などはとっくに逃げ出し、或いはそういう者は幸村が自軍 から外してしまっていたのではないだろうか。 死兵による後先顧みぬ突撃ほど戦争――特に野戦において不測の事態を引き起こすもの は無いが、それを実現させ持続させるには総員死兵である必要がある。恐れて逃げる者が あれば、それを見て、死を決していた者も、急に命が惜しくなってしまうことはありうる。 そういう連鎖によって「我々は皆ここで死ぬのだ」という気迫で結束している死兵集団が 瓦解してしまうかもしれない。 だから、こういったシーンは、主将が、死ぬこと請け合いの激戦に、死にたくない兵を 巻き込むことを嫌って優しい気遣いを見せたのではなく、要するに、 「お前ら死を決してるような面してるが、嘘ついてる奴はさっさと消えろ」 と、兵を試しているのではないか。 それへお決まりのように憤る者がいるというのも、それは気遣いを理解していないので はなく、怒ることによって、覚悟を表明しているのであろう。 とにかく、幸村はそういって、家臣は覚悟を示してこれに応えたのである。 「おい、行け」 佐助が才蔵を肘で小突いた。逃げろといっている。堂々と逃げるのはさすがに恥ずかし かろうが、才蔵は忍びの者である。人知れず消えてしまうことはできる。 「いや、もう少しいる」 といった才蔵に佐助は厳しい視線を向けた。その意を察して、才蔵は首を横に振る。 「味方を萎えさせるような逃げ方はせん」 乱戦になっても、そこから人知れず消えて見せる、といっているのである。 「そうか、まあ、後ろの方におれよ」 「いわれんでも」 その二人の視線の先で、幸村が軍配を今にも振ろうとしている。越前衆が眼下に迫って いた。 「来たぞ、者どもかかれ」 軍配が振り下ろされた。最前線の兵が、坂上の利を活かして槍を叩き下ろす。 当然死闘になったが、やがて越前衆が押され始めた。そして、この緒戦において目覚し い働きをしたのは、幸村よりも勝永であった。先に戦端を開いていた、ということもある が、逸早く本多忠朝の勢を蹴散らして、その崩れた兵の一部が越前衆の中へなだれ込んで 来たために、防戦指揮が乱れた。そこへ幸村が衝け込んだために、一挙に両軍は崩れ立っ た。 その後も勝永の勢いは止まらず、次々に東軍の陣を破っていった。 「見事じゃ」 この勝永の奮戦は、幸村にとって嬉しい誤算であった。 「この機を逃すな。家康の本営へ斬り込むぞ」 幸村は全軍を突撃させた。 全線にわたって猛攻を加えるとともに、小部隊をもって家康の本営を衝こうとした。い ま少しというところで僥倖が起こった。東軍の一部が浅野勢の行動を誤認したのである。 「浅野が裏切った」 という声が上がり、混乱が生じた。この浅野勢裏切りの声は、幸村が東軍に手の者をま ぎれさせて上げさせたものだ、という話もあるが、この切羽詰った状況である。打てる手 は全て打っていたであろう。あまりにも物語的ということで疑われているが、ありえない ことではない。 東軍は裏崩れした。裏崩れとは、文字通り、敵と接触している前線ではなく、奇襲や流 言などにより、後方で待機している軍が混乱し崩れてしまうことをいう。 これは、相当に忌むべきものとされている。裏崩れが前線の崩れのきっかけになってし まうことが多いためだ。これが恐ろしいので、戦に長けた将領は、後方の部隊も決して油 断させぬよう気を配るものだ。しかし、どうしても「おれらは後方だ」と思っている兵の 隅々に気を張らせるのは至難であるし、今回の場合、東軍があまりにも大軍過ぎて、後方 は、 「我らの出番はあるまい」 と、思ってしまいがちであった。 凡庸の敵が相手であってもこれが起こると危ういのである。増してや、この時の敵は、 夢も希望も無くして、かといって行く場所すら無く、華々しく戦って死んでやろうと思い 定めた悲愴なる死兵であった。 「行けるぞ、続け」 幸村は、家康の本営に向かった。右往左往している敵兵は相手にせずに突っ切っていく。 「見えたぞ、食らわせぃ」 家康の本営に突っ込んだ。 「討てるぞ、討てるぞ、家康を討てるぞ」 その突撃になんとか着いて来た才蔵が、声を限りに喚いている。 ――落ち着け。 と、佐助がいいたくなるほどの落ち着かなさであった。 「お前はそろそろ消えい」 「まだまだ、行けるとこまで行くというたじゃろ、このままだと家康を討てるぞ」 「逆上せるな、才蔵」 逆上せるのは、殿だけで十分じゃ、と佐助は思った。 「おお、お主らも来ておったか」 その二人に幸村が馬を寄せてきた。 「どうやら家康め、さっさと逃げ出したらしい。これほどの大軍を率いて情けない」 いつもの幸村の大言壮語、と思いたいところなのだが、実際に家康の本営が蹂躙されて おり、旗が倒れ、それを幸村の馬の脚が踏ん付けている状況である。 「まったくです」 二人とも、そういうしかない。 「父上だったら命は無かったぞ」 自分ごときでこの体たらくなら、真田昌幸が生きていてこの戦の指揮を執っていたなら、 家康など死んでいただろう。と幸村は揺るぎ無く思っている。 「そうですね」 と、いうしかない。 「家康め、わしを生かしておいたことを、さぞかし後悔しておろうな」 幸村は、哄笑した。 「でしょうね」 と、いうしかない。 「お主ら、頼まれてくれぬか」 「はっ」 「兄上に会い、これを渡してくれ」 そういって、幸村は懐中より巻紙を取り出した。 「兄上が見た後は、必ず焼払うのだぞ、兄上のことだから、火中に投ぜずに保存するかも しれぬ。しかし、それではそれが見つかった場合、面倒なことになろう」 「……はっ」 死ぬ気であった佐助は、やや躊躇いつつ頷いた。 「承りました」 家康が既に遠くに逃げていると聞いて、一時の逆上から覚めたらしい才蔵は、滞りなく 返事した。 「よし、わしは力尽きるまで暴れてやるわ。行けぃ、頼んだぞ」 「ははっ」 この後、幸村はなおも東軍を蹂躙し、嫌がらせかただ単に通り道だったのか知らんけど 再び家康本営を踏みにじった。 とうとう、西軍全体の力が尽き、退却になった。幸村は殿を引き受けてその戦いで死ん だ。 最後には、もはや満足に立っている力も無く、軽々と討たれてしまったという。。 家康は、幸村の首実検をした後に、 「皆、武勇にあやかれ」 といって、幸村の髪を抜いて諸将に与えた。 「お前があやかれよ」 と家康にいったであろう人物は、死んで首になっているために、そのおもしろ発言が歴 史に残ることはなかった。惜しいことである。 幸村に仕えていた忍びが二人、会いたいといってやってきている。 夜中にその報を受けた時、真田信之は、会うか会うまいか迷ったが、結局会うことにし た。 「佐助でございます」 「才蔵でございます」 「うむ」 取り次いできた者が、巻紙を差し出してきた。 「ふむ」 信之はそれを読んだ。 ――兄上の無言の励ましがあったればこそ、家康に食らわせることができました。 という旨のことが書いてあった。励ました覚えは無いのだが。 「お返しいただきたい」 信之が一読したと見るや、佐助がいった。 「うむ」 信之は深く考えなかった。亡き主の絶筆である。最後に、その文字を目に焼き付けてお きたいのであろう、と推察した。 「失礼」 だが、佐助はそれを受け取るや立ち上がって歩き出した。信之の家臣が色めき立ったが、 佐助はかまわずに部屋の隅へ行き、行灯に巻紙を近付けた。 「あっ」 と、皆がいう間ぐらいはあったが、その次の言葉を継ぐ前に巻紙に火が燃え移り、すぐ に燃えてしまった。 「信之様が読んだ後は、必ず焼けとの御命令でした」 「そうか」 信之は頷いた。 「信之様は、もしかしたら焼かずに取っておくかもしれぬゆえ、我が手で焼け、と」 「そうか」 信之はもう一度頷いた。 「あいつも今更、変に気を遣うものだ」 信之は、そういって苦笑した。 信之は九十一歳という高齢まで生きて死んだ。何かと幕府に目をつけられまくっている 家を守り通しての死であった。 その信之が大切にしていたものがある。信之は、子孫にもそれを大切にさせた。家康か ら拝領した吉光の短刀である。長持(長い箱と思えばよい)に入っていて、誰も中を見た ことが無かった。 四人の不寝番を立て、参勤交代の際には藩主とともに江戸へ運ばせた。家康から拝領し た短刀一つをかくも丁重かつ厳重に扱っているのは徳川への忠義の現れ、と見る者もいれ ば、色々と目をつけられていたから、そのようなことをして忠義を示さないといけなかっ たのだ、と見る者もいた。 やがて、維新が起こり明治時代になり、今更家康から貰った短刀一振りをそう大事にす ることもあるまい、ということになったのか、開けてみた。 中には、石田三成から信之へ届いた書状などが入っていた。昌幸宛のものもあり、関ヶ 原のおり味方を頼む内容のものであった。危険極まりない代物といえた。これを、上田城 で痛い目に遭わされた秀忠などに見られたらどうなっていたことか。 焼くべきであったろう。 実際に、焼かれてしまったこの類の書状は無数にあるのであろうが、真田家においては、 これらの徳川時代における危険書類は、信之が大層に保管し、子孫にもそうさせたために 後世に残った。 あたかも家康を尊崇するような態度を示して、実は、このようなものを残していたので ある。完全に屈した人間のやることではない。 信之もまた、不相応というしかない。 終 真田幸村について書くつもりは無かった。 これほどに書かれている男もおらず、そもそもおれはいわゆる 悲劇の名将といった類のイメージで染まった幸村が好きであり、 わざわざそれを崩すものを好んで書く気にはなれず、かといっ て、そういうイメージ通りのものを今更書くにも意義を見出せ なかった。 だが、ふとこういう幸村はどうだろう、と思いつき、その幸村 が、それまでのイメージと同じぐらいに好きになれそうだと思 い、書くことにした。 この作品を書くにあたり、酒見賢一氏の「泣き虫弱虫諸葛孔明」 に多大な影響を受けた。前に「且元さん」を書いた時にもそん なことをいったが、前のが背中を押されたのに比べて、今回は 方法論自体をパクらせてもらった。やはり重ねて感謝を表明し ておくべきであろう。みんな買えよ。