不忠






 天正十七年(1582)十月。名胡桃城失陥の報に関白豊臣秀吉は激怒した。
 関白とは天皇の補佐役であり、天皇自らが親政をせぬ時には最高権力を振るって王土の
隅々までの政治を行う役職である。
 武家が台頭し、源頼朝、足利尊氏などのように征夷大将軍となって幕府を開く武家棟梁
が現れ、その時代が続くと、次第に朝廷から実権が去り、その復権を呼号した後醍醐帝の
没落以後は、むしろ実権を求めぬことで権威のみの存在となり細々と存続するようになっ
た。
 戦国時代になってその傾向はますます進んだが、この権威だけの存在の権威を利用しよ
うと担ぎ上げたのが織田信長である。
 大いにそれを利用したのが凄惨な戦いを続けていた石山本願寺との和睦である。和睦は
天皇の意志であるとして泥沼化していた長期戦を中断することができた。
 その信長のやり方を見ていたのが秀吉である。
 信長の織田家というのは戦国の風に乗って興ってきた家で、元は尾張斯波氏の家老の家
来のような身分であったが次第に力を蓄え、信長の父、信秀の代でにわかに勃興した。
 だが、それでも元が武家である。秀吉などはそれですらない。
 秀吉は百姓の子であった、といわれる。
 いや、その父は足軽であった、ともいうが、いわば当時珍しくもない半農半兵の足軽だ
ったのだろう。
 そこから身を起こした秀吉は信長によって引き立てられて織田軍の軍団長にまでなった。
 天正十年信長が本能寺で死亡した時に、毛利攻めから兵を取って返して山崎で明智光秀
を破って旧主の仇を打つと、その功績とさらには信長の長男で父とほぼ時を同じくして討
死した信忠の遺児三法師を擁して織田家での発言権を得た。
 天正十一年。織田家の重臣、柴田勝家を賤ケ岳に破り越前北庄において敗死させると、
織田信長の後継者は誰もが羽柴筑前守秀吉であると見るようになった。
 だが、まだ秀吉に服さぬ大名は多く、なお時代は戦国の様相を残していた。
 秀吉は朝廷に結び付きを求め、遂に関白に任じられ、天皇の補佐役、保護者として諸大
名にと向かい始めた。
 朝廷から実権が無くなるにつれて、かつては栄誉と権力の象徴であったこの役職も名前
だけの、京都の御所の中だけでの権力者の呼び名に果てつつあった。
 そこに、強大な武力を持った秀吉がやってきて、この役職に就いた。
 大きな力を持った秀吉が関白になることによって権威と実力が一つになった。
 この新しい関白は天正十五年に大軍を派遣して、九州を席巻していた島津氏を傘下に収
めてその武威をますます輝かせていた。
 翌天正十六年には聚楽第に後陽成天皇を招いてこれをもてなし、さらにはそこに集まっ
た諸大名に「以後、天皇には逆らわない」という旨の誓紙を書かせた。
 いわばこれよりは天皇の言葉には逆らわないと誓った諸大名に「我が言葉は天子さまの
お言葉であるぞ」と命令することができるようになったのである。
 西日本を支配下に置き、天皇の権威を利用してそれを固めると秀吉の目は東へと向いた。
 東には関東を五代にわたって支配してきた北条氏があり、五代当主氏直の元、勢威を誇
っていた。
 それより北、奥羽には伊達政宗があり、急速に勢力を伸ばしている。
 秀吉は三河、駿河などを領する大名、徳川家康を通じて北条氏より誰か一族の者を上洛
させて臣従を誓うようにと勧告させている。
 家康は氏規を指名した。氏直の叔父である氏規は幼少時に今川家に人質となったことが
あり、その時に、同じく松平家から人質としてやってきていた家康と知り合ったといわれ
ている。
 さらには、西の豊臣政権との和平を望んでおり、そのためには氏直が秀吉に臣従するの
も止む無しと考えている人物であったのでうってつけといえた。
 さらに家康はそれと同じ手紙にこうも書いている。
「氏規を上洛させて関白に臣従するか、さもなくば督姫を離縁させて戦か」
 督姫とは家康の娘であり、氏直に嫁いでいる。つまりは、秀吉に臣従しないというのな
らば自分と縁を切って戦だ。といっているのであり、それはその戦において家康が秀吉に
従って関東に兵を進めてくるということも暗示していた。
 ここで、徳川家康と北条氏直の関係について述べておきたい。それが結局は名胡桃城失
陥による秀吉の激怒にも繋がっていくのである。
 天正十年の信長死後、氏直は兵を起こした。
 信長によって甲斐は河尻秀隆、上野と信濃の一部は滝川一益に与えられていたが、甲斐
武田家の旧臣たちに秀隆は不人気で、本能寺の変が起こって信長の後ろ盾が無くなると秀
隆は彼らに殺されてしまった。
 それにより、甲斐は無主の地となった。氏直はそれを一大好機と見て領土拡大のために
甲斐への派兵を決意する。
 だが、小田原から直接甲斐入りはせずに上野へ出て信濃を通りつつ南下して甲斐に入ろ
うとした。甲斐入りの前に滝川一益を攻めて関東から追い出そうとする意図が明らかな進
軍コースであった。
 これを迎えた一益はさすがに歴戦であった。初戦において北条軍を破って退ける。だが、
一益が動員できる兵が約一万八千なのに比して氏直は五万以上の大軍を持っており、その
豊富な本隊の到着をもって体勢を立て直した。
 翌日、神流川で両軍は激突した。
 勢いよく攻めてきた滝川軍を防ぎとめるうちに大兵力ゆえに余裕をもってその側面背面
に展開し、滝川軍を包囲下に置くことができた。
 そうなればもはや決したようなもので滝川軍は大崩れに崩れて『豆相記』によれば北条
軍に三千七百余の首級をあげさせてしまった。
 一益はこの敗北で関東支配を諦めるに至り、信濃に逃げ、さらに上野以前に与えられて
いた自領、伊勢長島に帰ってしまった。
 氏直はさらに勝利の勢いを殺すことなく、すぐさま信濃に進出した。
 道々、地元土豪を傘下に従え信濃支配を確固たるものにしつつ、甲斐への侵攻に取り掛
かった。
 だが、無主の地という魅力ある土地に他に目をつけない者がいないわけがない。徳川家
康もまた甲斐に兵を出していた。
 氏直と家康は八月七日より若神子において対陣。八十日にわたって睨み合った。
 その間、互いに鉄砲隊を前に出して撃ち合い、弾丸を交換し合うだけで人馬が揉みに揉
み合う決戦には至っていない。
 対陣二ヶ月。上野侵攻の際に北条の味方についていた上田城の真田昌幸が家康方につい
た。甲斐で家康と睨み合っている最中に、上野で昌幸に動き回られると厄介なことになる。
特に上野はまだ支配下にしたばかりであり、築き始めている北条支配の地盤に亀裂を入れ
る余地は十分にあった。
 さらには、甲斐の旧武田家家臣の取り込みには家康が一歩も二歩も先んじて、甲斐へと
着々と根を張りつつあった。
 和睦。
 そのことは、氏直の脳裏に浮かんだであろう。
 家康にも和睦に応じる理由があった。
 まず、甲斐に厳冬が近づいていること。冬の酷寒は軍の動きを阻み、陣を張っているだ
けで消耗を強いるであろう。
 そして、京都にいる織田信雄から早く氏直とは和睦して上京して欲しい、と催促されて
いた。
 両者において和睦の意思が一致し、すぐさま条件交渉に入った。十月二十七日に和睦は
成立し、三つの条項を確認の上、締結された。
 土地の領有に関しては第一の条件において氏直が家康に信濃・甲斐の領有を、第二の条
件において家康が氏直に上野の領有を認める旨が明言されている。さらに第二条件には附
帯事項があり、氏直が領有する上野の沼田は真田昌幸の領地であり、昌幸がこれを氏直に
明渡す代わりに家康がその代わりの土地を昌幸に与えることになっていた。これが後にこ
じれにこじれていくことになる。
 そして第三の条件、家康の次女督姫を氏直の妻として両家は姻戚関係を結ぶこと。
 これらに互いに同意し、兵を退いた。
 翌年(天正十一年)八月十五日。氏直と督姫の婚儀は小田原城において大過無く行われ
た。
 この時期既に秀吉は賤ケ岳において柴田勝家を敗亡させており、その台頭に恐れをなし
た信雄は家康に接近をはかっていった。
 家康との同盟後、氏直は矛先を北へ――下野、常陸方面へと向けた。
 北条軍の侵入を恐れた佐竹義重、結城晴朝、太田資正らはその圧力に抗するために秀吉
に好を通じてその元に連合し、対北条の防衛戦を張った。
 天正十二年には秀吉と家康が小牧・長久手で合戦して後に和解。家康は息子である於義
丸(のちの結城秀康)を秀吉へ、人質として送った。
 家康すら傘下におさめて、いよいよ秀吉は北条氏に対して干渉し始めた。
 秀吉は、下野、常陸の佐竹、結城、太田と北条の戦いを「私闘」であると断じて、戦乱
終結を大義に大名間の私闘を禁じる「惣無事令」を出した。この時のそれは軽んじられて
しまったが天正十五年、九州征伐を終えると秀吉は改めて惣無事令を発した。
 西日本を制圧し、東へ兵を向けるのに後顧の憂いの無くなった秀吉である。この二回目
の惣無事令は、今度こそ破ったら許さぬという秀吉の意志がありありと感じられ、それは
氏直にも伝わった。
 ここにおいて秀吉配下の各大名の間から「北条征伐」の声が上がり始める。
 そして家康から氏直へ「秀吉に臣従するか、督姫を離縁して戦か」という手紙が届いた
のである。
 家康からの最後通牒といえた。これを蹴れば家康は秀吉と氏直の仲介を止め、秀吉の軍
の一翼を担って攻め込んで来るだろう。
 氏直は断固拒否すべしという父氏正らの対秀吉強硬派を押さえて和平派の氏規を上洛さ
せて秀吉に拝謁させた。この時点で、氏直の気持ちは和平に傾いていた。
 秀吉は氏規が驚くほどに北条家内部の情報に詳しかった。
「氏直よりも、父の方であろうが」
 と、なんでもないことのように言い放った時にそれを悟った。
 和平に反対なのは現当主の氏直よりも、先代の氏正であろうと茶飲み話のように口にし
たのである。
 氏規は家康との和睦で北条のものになるはずであった上野沼田領を真田昌幸が明渡さな
いので、これを北条領に属さしめてくれれば氏直か氏正を上洛させて北条家が臣従するこ
とを約束した。
 昌幸は家康が沼田に代わる代替地をはっきりと指定せぬのを契約不履行と見なして上田
城に籠もった。家康は得たりとばかりに兵を向けたが昌幸の操る真田の小勢に散々に討ち
散らされた。
 おそらく、戦術指揮能力において昌幸は、日本史上に数え上げられていいほどに傑出し
た存在であったろう。
 そしてこの、大勢力の間を遊泳してきた小豪族は打てる手は打っている。その時既に上
杉景勝に次男幸村を人質に送って服属を申し入れていた。
 さらに、家康の軍を寡兵をもって撃退したことに浮かれることもなく、すぐに秀吉と接
触し、その傘下に入ることによって家康を牽制した。
 秀吉は家康と昌幸を和解させてもう争わぬと誓わせた。さらに昌幸も、いつまでも家康
と対立していても得策ではないと思い、長男の信幸を家康に仕えさせた。
 その間も、依然として上野沼田は真田領であり続けた。
 北条としては本来そこは自領であるという意識を当然持っていて、できることなら自力
で攻め取ってしまいたい。家康の大軍が敗れたりとはいえど、北条軍は武田信玄の甲斐兵、
上杉謙信の越後兵と戦い、しばしばこれを破った。なんの真田の小勢がごとき、という思
いがある。
 だが、ここで北条が兵を出すのは家康の面子を潰すことになりかねない。当主氏直の舅
であり、心強い同盟者である家康の顔は立てておきたい。
 家康がなんとしても、再び大軍を派遣して追い出してでも、沼田を北条に渡すのが筋で
はあるが、家康も、今は昌幸とともに秀吉傘下となった以上、そうもいかない。
 そこで氏直は、その問題を秀吉に持ち込んだのである。秀吉のお手並み拝見という気持
ちもあったであろう。ここで昌幸にいうことを聞かせられぬようでは関白だのなんだのと
いってもたかが知れている。臣従するのも考えものだ、というわけだ。
 秀吉は昌幸を呼び、そのことを持ちかけた。
 この、天下人と信州育ちの戦の天才の間に交わされた会話についてはあまり詳しい記録
は残っていないが、最終的には相互に譲歩した形となった。
 すなわち、家康の大軍を退けてまで守った沼田の三分の二を割譲することで昌幸が秀吉
の顔を立て、秀吉はその代わりに昌幸の「沼田は真田家歴代の墳墓の地ゆえに全土割譲は
できない」という主張を飲んで残り三分の一を真田家墓地として昌幸の手に残した。
 氏直の方もこれを承諾してようやく、七年の間、北条、真田、徳川、豊臣を巻き込んで
揉めに揉めた沼田領問題は決着した。
「めでたし」
 と、秀吉は大層喜んだが、逐一入ってくる北条に関する情報に目を光らせていた。
「はよう、氏直か氏正を上洛させい」
 あまり機嫌のよくなさそうな顔でそういうことが多くなった。
 秀吉の入手した情報では、北条領では沼田領問題決着後も依然として武備を整えて、今
にも戦を始めるような準備に余念が無かった。
 氏規が上洛して沼田領問題について交渉が続いている間はおとなしかったようで秀吉も
安堵していたのだが、沼田の問題が解決してからむしろ活発になりつつある。
「悪いようにはせぬ、氏直を上洛させよ」
 その内に氏正の名を出すことが無くなった。北条の戦仕度は氏正が率先してやっている
ことであり、氏直はそれには反対をしているという情報を得たのである。
 おそらく、着々と戦争準備をしつつもあちらから戦端を開いてくることはあるまいと秀
吉は見ていた。ありえぬ例えではあるが、もし天下の士庶の悉くが、
「豊臣と北条、近きうちに開戦は必至」
 と思っていたとしても、沼田のことが解決し、表面上は豊臣と北条に和によった決着が
つきそうになっている現況では戦を起こすようなきっかけを作った方が悪と見なされる。
 特に、秀吉が全土ではないとはいえ沼田の三分の二を北条に属さしめて氏規の申し出を
果たして、あとは氏直か氏正を上洛させるという約束を北条が実行するばかりという段階
にあって北条が兵を動かすような行為に及べば尚更であった。北条に信義無しと非難され
るであろう。
 秀吉は和戦両面の考えであった。ことごとに反抗的で、そして関東に太い根を張った北
条家を滅ぼしてしまいたいとは思うが、早雲以来五代にわたって関東を支配してきた北条
家が秀吉の勢威に服して干戈も銃火も交えずに降ったということにより得られる名望もま
た魅力である。
 とにかく、その時は将棋に例えれば北条が磐上に一手を打つべき状況であって、秀吉は
情報を収集しながらそれを待っていればよかった。
 果たして、来るか。
 来なければ家康を通じてきつめの詰問を伝えることになろう。
 いっそ、兵を起こしてどこかの城でも攻め取るなどという暴挙に及んでくれれば、こち
らも思いきりよく、天下の兵をこぞって関東に攻め寄せるのだが、などと思うこともあっ
た。なかなか行動に出ない氏直、氏正に秀吉も多少の焦れを感じざるを得なかった。
 そして天正十七年十月末日。
 真田昌幸よりの早馬が急報を持ってきた。
「まことか」
 それを知らされた秀吉は一瞬信じられぬ顔をした。
 昌幸の家臣、鈴木主水が守っていた沼田の名胡桃城が北条方の猪俣邦憲によって攻めら
れ、主水は自刃、名胡桃城には北条兵が入って防備を固めているという。
 秀吉は激怒した。
 北条がここで暴挙をなせばそれを口実に、公然堂々と攻めることができると考えてはい
たものの、氏直が氏規をよこしてきた以上、その可能性は無いとも考えていたのである。
 しかも、他の地の他の城ならば、まだ氏直や氏正の預かり知らぬところで北条家家臣が
勝手次第に兵を動かしたとも思えるが、北条がそこをくれれば臣従するというので秀吉が
三分の二とはいえ与えた沼田領においてのこの暴挙である。
 北条が手中にできなかった残りの三分の一の真田家墳墓の地に兵を出したということは、
満天下に向けてあからさまに露骨に高らかに、三分の二を与えるという秀吉の処置への不
満を明らかにし、秀吉との戦など恐れぬという意思を明らかにし、公然と秀吉の発布した
惣無事令を踏みにじってみせたということに他ならない。
 幾重にも、秀吉を侮辱した行為である。秀吉が満面朱となって憤激したのも当然であっ
た。
「北条めが、愚弄しおるか。ならば望み通り天下の軍勢で震え上がらせてくれようぞ」
 側仕えの小姓たちがとばっちりの手討ちあるを覚悟したほどの秀吉の怒りは、しかし、
あまり長くは続かなかった。
 怒りは確かにあるが、秀吉はそれがものを考えるのに百害のみしか無いことを知ってい
る。
 だが、秀吉はまだ怒っていた。
 頭の中では火を噴く感情が冷静な思考に座を譲っていたのに表情はなお、怒りを浮き上
がらせていた。
 秀吉の怒りは演技のそれへと変化を遂げていたのである。
「なんとも北条のしざまは許せぬ」
 いつのまにか、話し方や身振りなどがその場にいる他の人間に聞かせ、見せるためのも
のになっていた。
「関白たるわしへのこの侮辱は、お恐れながらも天子さまへのそれよ、関白として、わし
はそれが悔しゅうてたまらぬ」
 わしの怒りは天子さまのための怒りぞ。
 皆にそう思わせるために、秀吉は怒っていた。
 そして、その実、頭の中身は熱情を排した思考が旋回している。
 即日、全国の諸大名に集合が命じられ、北条攻めが満天下に触れられた。
 翌月には十一月二十日付で五ヵ条からなる宣戦布告文が氏直、氏正の元へと届いた。
 勅命に逆らう輩は、早々に誅すべし。必ず節旗を携えて進発し、氏直の首を刎ねるべし。
 と、並々ならぬ決意と戦意を示したそれを見た氏直は驚き、慌てて家康にとりなしを頼
んだが、名胡桃城の一件の暴挙を犯し、いまや朝敵とされた氏直を既に見捨てていた家康
は上洛して、北条攻めの作戦会議に加わっていた。
 もはや戦と氏直も決意した。
 その戦の発端となった名胡桃城の件であるが、猪俣邦憲の独断とは考えられない。誰が
それを命じたかはっきりとしたことはわかっていないが、この時期にそのようなことをす
ればそれが大戦の発火点になるであろうことは武将ならば、いや、ならずとも考えずにわ
かることである。一城主である猪俣の判断に余る。
 氏直の命令とも思えぬのである。氏規を派遣して秀吉との交渉を始めた氏直がこの時期
にこのような背信行為を画策するとは考えられない。
 猪俣邦規の主人は主戦派の氏邦である。氏邦は氏直の叔父であり、氏規の兄でもある北
条一族の重臣であり、先代の氏正とともに対秀吉の主戦派の両翼を張っていた。もはやこ
のままでは氏直が上洛し、秀吉に臣従してしまう。そうなればいかに氏正と氏邦が秀吉と
の決戦を叫んでも、北条家の分裂は避けられない。そして、分裂してしまえば秀吉に抗す
るべくもない。
 この状況で秀吉と戦に持ち込むのは非常に簡単である。どこか秀吉方の城を攻めてしま
えばいいのだ。それだけで着々と進められていた和平は一朝にして瓦解する。事実、そう
なった。秀吉は怒って、必ず氏直の首を刎ねるという挑戦状を送りつけてきたのである。
 確たる証拠は残っていないが猪俣は、氏邦、氏正の意思によった可能性が高い。
 十二月に先鋒を命じられた家康は領国に帰って兵を整えて進発、二月二十四日に長久保
城に入った。沼津の長久保城から北条の誇る堅城小田原城へは間に山中城と幾つかの砦を
数えるのみで、いわば長久保は秀吉陣営の最前線基地であった。
 そこに先鋒の家康が入り、小田原はにわかに緊張した。
 二月二十八日には秀吉が後陽成天皇に出陣の挨拶をした。
「帝の威をわからぬ愚か者の成敗は、全てこの秀吉めにおまかせあれ」
 大見得をきった秀吉は聚楽第に帰ると、出陣前に歌会を開いた。連歌師、里村紹巴は、
「関越えて行く末なびく霞かな」
 と、詠んだ。
 三月一日秀吉出陣。
 その軍勢はまさに行く末が霞んで見えぬような長蛇の列で、さらに秀吉の本隊は美々し
く装い、勇ましい歩武を揃えながら京の街路を行進した。これを見物しようと洛中洛外は
いうに及ばず、堺、大阪、奈良辺りからも見物人が押し寄せたという。
 三月二十七日に秀吉の本隊は沼津に入り、家康の迎えを受けた。翌二十八日には北条の
最前線基地、山中城とその周辺の地形を視察した。その後に長久保城内で開いた軍議にお
いて山中城と、その南にある韮山城に兵を向けることが決定し、織田信雄を総大将とした
部隊が韮山を、羽柴秀次を総大将としたそれが山中を攻めることとなった。
 これら諸国の兵がそれぞれ並進して富士の裾野に集結してきた模様を『小田原御陣』は
「山野の獣、足を立べき所なく、飛鳥も翼を休むべき便りなし」と記している。それら山
野の獣と飛鳥の居場所を無くすほどの大軍が二手に分かれて山中、韮山の、箱根防御線に
攻めかかった。
 三月二十九日、両軍はそれぞれ進軍して与えられた任務を遂行し始めた。
 四万を越える兵で韮山城を囲んだ信雄は一挙に落とさんと総攻撃を命じた。
 韮山を守るのは和平派として上洛し、豊臣と北条の間を取り持つのに奔走した北条氏規
であった。志と違ったこの事態に、氏規はもはや与えられた部署を死守せんと決意してい
た。
 この時、氏規とともに韮山に篭もった兵は三千から七千といわれる。最大限に多く見積
もっても押し寄せる攻め手の五分の一以下に過ぎない。
 これまで、氏規は外交官として他家との同盟交渉などにあたることが多かった。だが、
実戦経験が無いわけではなく、父であり、武田信玄、上杉謙信らと戦い抜いた北条三代の
氏康の薫陶も受けている。一度決意するや城兵を掌握、心服せしめて大軍を迎え撃った。
 しかも、城壁に寄って頑強に抵抗するかと思えば機を見て小部隊を繰り出し、しばしば
攻城軍を撃退した。
 一方、山中城には秀次の率いる軍が向かい、二十九日未明より攻撃を開始した。
 城将は、北条家の重臣松田憲秀の甥、松田康長であった。その下に間宮康俊などの歴戦
の武将がつき、さらに玉縄城から城主北条氏勝が援軍としてやってきていた。
 山中城には「岱崎」と呼ばれる砦があった。ほとんど山中城とは隣接しているがそれ一
個に独立した城壁を持ち、本城の兵と連携し、呼応し、鉄砲を撃ち放ち、或いは小部隊を
出撃させて敵に出血を強いることを目的とした小要塞である。
 攻撃はこの岱崎に集中した。
「風の起こるが如く、川の決するが如く」
 といわれた攻撃が始まり、城兵は休む間もなく防戦に駆られた。
 その攻めは凄まじく、正しく突風か濁流か、無数の人の形をした天災が襲い掛かってき
たのかと錯覚するほどであった。
 岱崎の兵たちは防戦に次ぐ防戦に驚嘆すべき働きを見せた。
 間宮康俊と玉縄からの助太刀、北条氏勝は岱崎を守って頑強な抵抗を見せ、攻城軍の武
将、一柳直末がこの岱崎攻めで討死した。だが、城攻め開始後、僅かな時間で岱崎は瀕死
といっていい状態に陥り、昼頃にはもはや絶望的となった。
 氏勝はさらなる抵抗を志して岱崎より山中城に移ったが、間宮康俊は死を決した。
「命を、いつのために惜しまん」
 言い放つや、討って出た。間宮康俊、この時、齢七十に達していた。
「惜しまん、惜しまん」
 と、いいながら何人かの兵がこれに同道し、飛び出した老将を追い、付き従い、この小
さな――砦を攻める秀吉軍に比べて哀れなほどに少数の小勢が、その大軍をたじろがせる
という奇跡のような現象を起こした。
 大軍の兵たちが自分たちは大軍であり、これに斬り込んで来た小勢はもはやここで死ぬ
つもりで戦術もなにもなく突出してきただけなのだと気づいた時に奇跡は終わった。あっ
という間に包囲され、康俊以下、悉く討死した。
 余談だが、康俊の間宮家は子孫が残ってそれが徳川幕府に仕え幕臣となり、後年、樺太
探査で知られる間宮林蔵を生んだ。
 早々に岱崎を落としたことに気をよくした攻城軍は、一気呵成に山中城へと攻撃を集中
した。日の落ちる前に落としてくれようとばかりの旺盛な戦意を叩きつけるような攻撃で
あり、奮戦と抵抗でそれに応えるも長くは続かなかった。
 北条氏勝はまたもや再戦を期して落ちて行ったが、松田康長は本丸を守って討死を遂げ
た。これにより、北条が箱根峠の防衛拠点として築き、秀吉の軍が侵攻してくる直前(二
月末日)まで改修が行われていた山中城は僅か一日で陥落したのである。
 小田原に秀吉が辿り着く前に、山中城で多大の損害を強いるのが北条の基本戦略になっ
ていただけに、このことが北条に与えた衝撃は小さくはない。その衝撃にさらされた戦意
を支えたのは山中の南、韮山城においては氏規が頑なに敵を寄せ付けず。さらには、幾度
となく信玄、謙信の攻撃を退けた小田原城はなおも健在であるということであった。
 しかし、それでも秀吉の軍勢が予想以上の戦力を有していることは確かであり、北条の
将士はそれを認めざるを得なかった。
 これでよかったのか?
 という疑問が上がるのは仕方が無かった。構想の初手から崩れてしまったのである。そ
の正しさに疑いが持たれるのは当然であった。
 秀吉を迎え撃つにあたって大まかにその構想は二つあった。
 籠城か出戦か、である。
 結局、籠城と決まった。出戦を主張したのは北条氏邦であったが、兵力差を考えて籠城
説を主張する人間が多く、衆議に押し切られる形となった。
 小田原城内でも、山中城が一日で陥落したことを取り沙汰する声は多かった。籠城説を
主張した一人である重臣、松田憲秀はなおも小田原が健在であることをもって自説の正し
きことを主張した。
「我らは秀吉に攻められているのではないぞ」
 という不思議なことをこの男はいった。
「秀吉めを誘い込んでおるのよ」
 秀吉を本拠地から遠く離れた小田原に誘い込み、引き付け、天下の堅城を頼りにこれを
叩き、その威信を地に落とせば、秀吉に付き従っている大名のうちに離心する者も出てく
るであろう。
 北には伊達政宗がいて、秀吉に対抗する気配を見せている。天正十七年六月、名胡桃城
陥落に先立つこと四ヶ月、政宗は会津に兵を入れてその地を支配していた芦名氏を攻め滅
ぼして北条よりも先に惣無事令を破っているのである。さらに政宗は兵を南下させて芦名
氏に従っていた山内氏勝らを攻めた。
 そのことに秀吉が激怒したのはいうまでもなく、天正十八年一月には秀吉の側近、石田
三成が山内氏勝にあてた書状に「政宗と氏直は同罪。北条を討伐した後は政宗を討つ」と
いう意味のことが書かれている。
 秀吉の力が弱まれば、勇躍して政宗は南下してくるだろう。当然、北条と伊達の間に使
者の往来はある。
 そして、その上に期待できるのは今は秀吉軍に組み込まれている徳川家康である。
 小牧・長久手で秀吉に対抗したことや、そののちの秀吉の懐柔策に容易に応じなかった
こともあって、家康が心底より秀吉に服していないというのは定説として人々に受け止め
られていた。
 さらには、氏直は家康にとって娘婿である。北条の者に、情勢の変化によっては徳川殿
はこちらに味方してくれるはず、と期待する人間は多い。
 秀吉にも、家康は人質を出しはした。嫡子の長丸という十二歳の少年を昨年の十二月二
十二日に秀吉の元に送っている。秀吉は北条討伐にあたって家康の動向を気にしていただ
けに大いに喜び、元服させ、自らの名前から一字を与えて「秀忠」とした。のちの徳川幕
府二代将軍である。そして、秀吉はこの秀忠を家康の元に送り返している。
 長男を人質に出したということで家康の心が北条から離れているのを確認できたことも
あり、自らの度量の広さを見せたわけだが、当然、秀吉よりも北条との同盟に利があると
なったら気兼ねもなにもなく家康は行動できる。
 家康が離反すれば秀吉は本拠地への帰り道を閉じられるに等しい。大阪・小田原間の最
短距離を取るとすれば家康の領内を通らざるを得ない。
「秀吉を引き付け、逃げられぬところまで引き付け、網を打つのよ」
 と、松田憲秀はいう。
「網を打つのは舅どのよ」
 とも、付け加えた。舅とは、いうまでもなく家康のことを指している。
 山中陥落に動揺はしながらも、北条の戦意は保たれていた。
 山中城攻防についての詳細は生き残って小田原城まで落ちてきた兵の口から伝わってい
る。松田康長も、間宮康俊も、北条氏勝も、怒涛か波涛かと押し寄せる大軍を相手に一切
の卑怯な振る舞いもなく、よく戦った。
「皆、ようやってくれた」
 と、氏直が語るのは松田左馬助秀治。重臣、松田憲秀の次男で氏直の側近く仕えていた。
秀治とは英春と書くこともあり、さらには直憲という名もあるが、この項では彼のことを
秀治と統一して呼ぶこととする。
「まことに、特に間宮豊前どのなどは失礼ながら老骨とは思えぬ働きであったとか」
 間宮豊前とは康俊のことである。康俊は豊前守であった。
「うむ。力の限りに戦ってくれた……わしは果報者よ」
「はっ」
「じゃが、山中は落ちたわ」
「殿……」
 氏直もまた秀吉の力を痛感していた。いや、この小田原城内で最もそれを強く感じてい
るのは氏直であったかもしれない。
 二人が語るのは小田原城内に設けられた茶室である。籠城中に兵の気持ちが倦むことを
避けるために、手の空いた兵は囲碁・将棋・双六などの遊戯や、酒宴を開いて舞を舞うこ
とや茶の湯を楽しむこと、連歌会を催したりすることを奨励されていた。そのために作ら
れた茶室の一つに、二人はいた。
「やはり、今は秀吉を敵にすべきでなかったわ……いや、詮無きこと」
 氏直は漏らすようにいった。秀治と二人きりの時にはついつい本音が口外に洩れがちで
あった。
 北条氏直。この時、二十九歳の青年大名であった。
 覇気もある、軍才もある、内政手腕もある。
 名君続きといわれる北条家の五代目当主に相応しい能力を有した傑物である。
 だが、戦国乱世の大名に時に必要とされる火の噴くような決断力と実行力についてはど
うかというと、氏正、氏邦らの主戦派を押さえきれずに和約破りの名胡桃城攻めという失
態を犯してしまったことは減点対象であろう。だが、それも先代の氏正がなお大きな影響
力を持っていることと、西に勃興した豊臣政権という巨大な勢力の進出が重なってのこと
であり、それだけで氏直に統率力が不足していると決め付けるのは酷である。
 それに、秀治は氏直のそういったところが決して嫌いではない。
「叔父上も韮山で頑張ってくれておる。そなたの父のいうことにも期待は持てる。そして
なにより小田原城は健在」
 天下の堅城。
 小田原城の存在は北条家将士の拠り所といって過言ではなかった。かつてどのような強
敵をも退けた。今度もそうなるに違いない。
「そろそろ、ここも戦場になるな……」
 いつしか、氏直は茶筅を回す手を止めていた。秀治ももはやそんなことは気にしてもい
ない。
「やはり殿は、秀吉がすぐに小田原に兵を向けてくるとお考えですか」
「うむ、山中が落ちたからには阻むものは無い。韮山には押さえの兵を残しておけばいい
こと」
 そして、さらに秀吉は小田原城を囲むだけの兵を残し、自分はその包囲陣の指揮をとり
つつ、別働隊をこしらえて小田原城の後方にある支城群を攻めさせるであろう。北方から
は既に秀吉到着前に前田利家、上杉景勝の両将が北国勢を率いて上田に入り、真田昌幸と
合流して北の支城を攻めている。安中、厩橋などの城が落とされたが、要ともいえる松井
田城は重臣、大道寺政繁が堅守して威容を誇っていた。
「もはや秀吉は長久保城を発っているやもしれぬ」
 おそらく、数日中に秀吉の軍勢が小田原城から望見できる位置にまで進出してくるであ
ろう。
 果たして、秀吉は山中城陥落の報に接するや大笑、大喜びで将士を労った。北条が苦心
して築いた箱根峠の防衛拠点を一日にして陥落せしめたのは予想以上の戦果であった。
 一方の韮山城の防戦も山中が落ちたとあってはそれを誉める余裕すらある。秀吉は氏規
の見事な攻防の妙を伝え聞くや、
「氏規とは、他家との折衝などをよくする者と思っておったがそれだけにあらず。やはり
武門の一族よの」
 と、その勇戦奮闘を称えるに言葉を惜しまなかった。
 これは、韮山は容易に落ちそうにないわ。
 秀吉は思ったが、落とせぬわけではない。山中攻撃を終えた羽柴秀次の軍勢を南下させ
て信雄の韮山攻城軍を助けさせれば支えきれるものではない。だが、損害が軽微で済むと
いう保証はない。氏規はそれほどに見事な戦をしてのけていた。
 韮山に大軍を差し向けて、なおも醜態をさらし死傷を重ねれば秀吉の武威は軽んじられ
る上に箱根峠で足止めするという北条の基本戦略を達成させてやることにもなりかねない。
 山中が落ち、韮山が落ちぬというのは幸いであった。これが逆であったならば小田原へ
の最短距離は閉ざされてなんとしても山中を落とすか、大きく迂回して小田原城に行かね
ばならなかったであろう。
「韮山を落とすのは難しくはないが……」
 と、秀吉はなんでもないことのようにいった。秀吉ほどの武将がそういえば、側仕えの
小姓などはそう思うものなのだ。
「氏規は、ほんに和睦に骨を折ってくれたわ」
 秀吉の表情が優しげである。この演技巧者は時に演技のつもりで演技でなくなることが
あり、それがまたその演技に真実味を与えていた。もはや天性の役者とっていいかもしれ
ない。
「されど、一度戦となると必死の奮戦。わしは氏規の健気さが哀れでならぬわ」
 慈父のような顔をしながらも、
「わしが出張ればすぐさま落ちるような小城に寄っての奮戦、健気じゃ健気じゃ」
 平然と、そんなことをいった。この時期既に秀吉には「城攻めがお得意」という風評が
立っており、放言とも思えるようなそんな発言も秀吉ならば韮山をたちまち落とす秘策が
あるのではないか、などと皆が思ってしまうのである。
「氏規は殺したくないのう」
 しんみりとした口調でいった。
「韮山は、押さえの兵だけを残して捨て置くことにするか」
 結局は、それが本音であった。
「それに……」
 と、秀吉は言葉を切ったきり、後を続けぬまま立ち、蜂須賀小六と福島正則の二人を韮
山城の押さえとして残して、他の部隊は小田原包囲に加わるように命じた。
 それに……氏規は生かしておけば後々、氏直への使者に使えるわ。
 秀吉の命令はすぐに実行された。
 韮山城の氏規は山中城陥落の報を既に受けており、蜂須賀、福島の両軍を残して去って
いく軍勢が小田原へ進軍していくことを悟っていた。
 悟っていながらも、どうすることもできない。秀吉は押さえに十分な兵力を残していて、
城壁に巧みに寄ってこその戦果を上げていた氏規の軍は城から出たら兵力差に押し潰され
てしまうしかない。
 しかし、小田原城の防御力への信仰にも似た思いは氏規にもあった。あとは、小田原の
城壁と氏直の武略を信じて、自らは韮山を死守するのみである。
 秀吉の軍勢は箱根を越え、秀吉自身も四月六日、湯本に到着して本陣を早雲寺に置いた。
早雲寺は北条氏の菩提寺であり、このことは多少の動揺を招きはしたが、位置関係からし
て十分に予想はされていたことでもあり、それほど深刻なものにはならずにすぐ収まった。
 徳川家康、宇喜田秀家、織田信雄らを中核とした軍が小田原城を陸上から包囲すれば、
海上には九鬼、長曾我部らの水軍が軍船を浮かべた。制海権は完全に秀吉が制していた。
この度の大軍の兵糧調達を遂行した長束正家は尾張、遠江、駿河で買い上げた米を輸送す
るのに船を使ったが、それも制海権を得ていたから滞りなく行えたのである。
 攻めかかってくれば小田原城の堅固さを見せてくれようと意気込んだ城方の意に反して
秀吉は小田原城を包囲するに止めた。力攻めするには甚大な被害を覚悟せねばならぬし、
各支城群が健在であればそれが守兵に力を与えて奮戦をさせるであろうことを恐れたので
ある。
 北では、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らが、大道寺政繁の籠もる松井田城を攻めあぐ
ねてはいたものの、その他の城を着実に落としていた。
 秀吉は小田原包囲陣の中から浅野長政や家康配下より本多忠勝、鳥居元忠らを抜き出し
て別働軍を作ってこれに各城の攻略を命じた。攻略を重ねつつ利家らと合流し連携して遂
には小田原城を丸裸の孤城としてしまうのを目的としていた。
 小田原包囲を完成した秀吉は、
「慌てることはない。万事ゆったりとせい」
 と、短兵急にことを進めることをせずに陣を構えた諸大名には屋形や書院を建てること
を奨励した。
 数え切れぬほどの船舶から運び出される兵糧によって兵は腹一杯に飯を食うことができ、
さらには町人らが市場を開き、京や地方の遊女までもがやってきて小屋を作って兵を呼び
込んで大層な賑わいとなった。
 しかし、兵は遊女に引かれるままに気を散じることもできようが、まさか大名たる者が
急造された遊女小屋に入っていくわけにもいかない。
 秀吉は正室の寧々に、お前の次に自分が気に入っている淀君をこちらに来させてくれと
いう手紙を送って側室の淀君を呼び、諸大名にも妻女を呼ぶように勧めた。
「茶々が来るぞ」
 秀吉は相好を崩して誰にいうともなくいった。茶々というのは淀君の名前である。淀君
というのは秀吉が彼女のために淀に城を建ててやったことに由来する呼び名であった。
「茶々のために屋形を建てよ」
 相好を崩したままに命じて、
「さすがに茶々の来る前に城は完成すまい」
 と、いった。
 秀吉は早雲寺に入ってから小田原城を見下ろせる笠懸山に城を築かせていた。小田原城
攻めのための付城にしては本格的に石垣を積み上げて長期的な使用に耐え得る城塞になっ
ている。のちに石垣山城と呼ばれる城である。
 また、石垣山一夜城ともいう。秀吉が一夜にして築いたという伝説がその名の由来だが
実際には二ヶ月近くを要している。『関八州古戦録』には、秀吉は骨組みだけをあらかじ
め別の場所で作らせ、それに紙を貼って白壁のように見せ、さらに前に林立していた樹木
を一斉に伐採して除けたために小田原城からはまるで一夜の内に城が生まれたかのように
見え、城兵が秀吉は天魔の化身かと震え上がったという話が採録されているがこれはどう
やら作り話であるらしい。
 ただ、その城が俄普請の城ではなく、とても二ヶ月もかからずに完成するようなものと
は人々に思えなかったのは確かであった。
「聚楽第や大阪城にも劣らぬ普請にせよ」
 と、秀吉がいったということからもそれは察することができよう。
 五層にもなる天守閣すら備えたその城については秀吉は日々完成を楽しみにしていた。
 四月も半ば、その工事現場を視察に訪れた秀吉は奉行らに、
「一番早く、しっかりと持ち場を完成させた組には褒美を惜しむな」
 と、賞金をもって競わせることを命じた。秀吉が織田家の一家臣時代からよく使った手
である。
「たかが小田原城を討つのに大袈裟と思うておるじゃろう」
 見回る内に側仕えの者に、戯れに問い掛けた。この主君は、こういった時にはいえいえ
滅相もない、などというよりも、正直そう思いまする。殿下におかれては何ゆえこのよう
な大掛かりな築城を、と問い返した方が喜ぶことを皆知っている。
 早速そう問い返すと秀吉はにんまりと嬉しそうに笑った。
「わからぬか……わしはあの天守閣から小田原城だけでなく、遥か奥羽の地まで睨み据え
てくれようぞ」
 その場にいた者、悉く得心がいった。その様子を見てさらに笑顔を深くした秀吉は、伊
達の小僧が悪戯をしようとしても全てわしのお見通しよ、と高笑いをしつつ去った。
 秀吉にすれば、満天下の大小名が北条攻めに参陣しているというのに一向に姿を見せな
い奥羽の伊達政宗への軽い牽制であった。あの独眼の「小僧」の耳に自分がそういったこ
とが入るのを見越しているのだ。
 四月二十日、遂に松井田城が降伏し、城門を開いた。
 城主、大道寺政繁は息子を前田利家の元に人質として出し、その上に手兵をもってその
軍の道案内をしつつ、昨日までの味方を攻める先鋒となってしまった。
 政繁は北条家の重臣であり、これが北条の将士に与えて衝撃は大きかった。
 この時代、降伏した武将がその証としてかつての敵に協力するということは珍しくはな
く、むしろよくあったことではあるが、政繁は主戦論を唱えた重臣の一人である。それが
敵の先鋒となって攻めてくるとあっては兵の士気を挫くのに十分以上の効果があった。
 あの大道寺政繁が敵に降った以上、元々開戦に反対であった和平派などは戦う意義を見
出せず馬鹿馬鹿しさを感ずるであろうし、主戦派であった政繁がああも尽くすのは、やは
り秀吉強しということを思い知ったからであろう、あの政繁がそう思ったのならばそれは
正しく、それに倣うのもよいかもしれぬ……などと考える者もあった。
 そのことを聞いた時、氏直はしばし声が無かった。これにより起こる人心の動揺は容易
に察することができた。
「秀治、茶でもどうじゃ」
 その誘いを、二人きりで話がしたいのだと秀治は悟った。是非とも、と返事をし、二人
で茶室へと向かった。
「政繁もよく戦ったのだが」
 氏直は責めの言葉を口にせずにそういった。事実、政繁は降る前は実によく善戦したの
である。
「直繁は、松山城か」
 直繁とは、政繁の息子である。今は松山城に入っていた。
「直繁も辛かろうな」
 主家に忠ならんとすれば父親と戦わねばならない。
「父は父、子は子じゃ」
「はい」
「されど親子の情は断ち切り難くもある」
 自らの父親であり、主戦派であり、この度の戦の一因となった父、氏正のことを思って
いっていることなのかどうかは氏直の表情からは窺い知ることはできなかった。
「これからは、戦わずに門を開く城が増えるであろうな」
 誰にいうともなく、ぽつりと予想を呟いた氏直は、茶室に入ったものの全く茶を立てて
おらぬことに気づき、道具を取り寄せようとしたが既に秀治が仕度を始めていた。
「本日は、拙者がもてなしまする」
「うむ」
 氏直はにこやかに微笑むと背筋を伸ばして泰然と座り直した。
 その笑みにほっと安らぎを覚えながら、秀治は着々と仕度を進めた。

 四月二十二日には、玉縄城が陥落した。
 山中城へ助太刀として駆け付けて奮戦した玉縄城主、北条氏勝も、ここに遂に弓矢を置
いて降ったのである。
 五月に入ると、江戸、河越、松山の諸城が落ち、その際に大道寺直繁も降った。
 下野には、開戦以前より秀吉の傘下に入ってその助力を頼りに北条に対抗していた佐竹
義重、宇都宮国綱らがここぞとばかりに兵を繰り出して壬生城、鹿沼城を陥落せしめてい
た。
 五月中には岩付城も陥落。
 もはや下り坂で蹴躓いたようなもので次々に城は落ちていく。
 と、なると……蹴躓いた石は松井田城か、氏直は自問する。いや、山中がそうだったの
かもしれぬ……。
 そもそも、戦略は山中から狂ったのだ。山中で秀吉の軍勢を食い止め、その間に諸城の
防備をますます固め、豊臣方大名の動揺を誘い、変化を待つ。それが根本的な戦略であっ
たのだ。
 変化とは、長引く滞陣による兵糧の枯渇、秀吉の傘下より脱して再び独立したいと願う
大名の離反、領主が兵を率いて遠方に発ってしまったあとの諸国における民乱兵乱などで
あった。
 だが、実際には山中は半日で落ち、小田原は包囲され、秀吉軍の陣所には、海上輸送に
より兵糧は余るほどに積み上げられている。
 山中以後も、幾つかの例外を除いてどの城も短期間で陥落し、その中の幾つかは戦わず
して城門を開いた。秀吉の作戦は順調に進んでおり、これでは諸大名の離反など期待すべ
くもない。
 六月に入った時点で健在だったのは本城である小田原城と、八王子城、忍城、鉢形城、
韮山城であった。
 もう一つの希望であった奥羽の伊達政宗の来援もこの状況では見込めまい。秀吉より、
小田原出陣の命令を受けて以来、政宗は鈍い反応を見せた。他の東北諸大名が遅れてはな
らじと急ぎ出陣する中、政宗が軍を発したのは既に小田原城が包囲されていた四月になっ
てからのことである。
 しかも、政宗は途中様々な理由をかまえて軍を引き返し、再出陣をしたのは五月になっ
てからであった。あまりにも露骨な、その意図が透けて見えるような遅れといわざるを得
ない。
 そして六月五日。伊達政宗が軍を率いて小田原に到着する。政宗はそのまま秀吉に対面
した。ここにはっきりと秀吉の傘下に入る意思を示したのだ。そもそも、ここに来るまで
の道々に点在する各城はそのほとんどが秀吉軍に占拠されており、北条に味方するなどと
いってはとても小田原まで辿り着けるものではなかった。
 それでも希望の見出せぬ籠城に無理にでもそれを見たい北条方には、政宗の行動が秀吉
を油断させる擬態なのではないか、と口にする者もあった。
 一貫して主戦論を唱え続けている松田憲秀もそれに与した。
「伊達殿は獅子身中の虫となったのよ」
 確かに、状勢の推移如何によって旗幟を別の色に変える可能性を一番多く持っていた豊
臣方大名は政宗であったろう。
 政宗は遅参を詫びるという意味を含めたのか、白一色の死装束で秀吉との対面に臨み、
この相当に芝居じみた政宗に対し秀吉は計算の上か、それとも天性の役者としての無意識
の振る舞いか、持っていた扇子を畳んでそれを平伏す政宗の首にあてて、
「もう少し遅かったら……ここが飛んでおったわ」
 ぺちぺち、と政宗の首筋を叩くと秀吉はそれでも満更な気分でもなさそうであった。こ
の政宗の参着は北条の士気を大きく減退させるであろう。
「行ったり来たりで余計に疲れたであろう」
 秀吉はにこにこと好々爺の笑顔をしていった。政宗は恐縮の意を呈する、といったふう
にただでさえ下がっていた頭を、額が畳みに触れるほどにさらに下げた。
 側仕えの者や、その場にいた諸将の中には思わず顔を綻ばせる者もあった。秀吉が明ら
かに、政宗が逡巡して一度軍を返したことを皮肉っていることがわかったからだ。
「ゆっくり休んで存分に遊べ。陣中退屈することは無いぞ」
 秀吉のいう通り、陣中は先に述べたように市場が開かれ遊女屋が看板を掲げてその賑わ
いはどこからか町が移動してきた観すらあった。
 事実、家康の家臣である榊原康政などは、肥後の加藤清正に当てた手紙の中で「御陣中
において生涯を送るとも退屈あるべしとも覚えず候」と書いている。
 そろそろ潮時、と氏直も既に覚悟を決めている。和睦の際には自分が腹を切らねばおさ
まるまい、との覚悟をも、だ。
 だが、その前になんとしても北条家の武門としての面目を立たせておきたい。今のこの
状況となっては氏正や氏邦ら主戦派も、いずれ小田原城の門を開かざるを得ないことはわ
かっていよう、氏直と同様、最後に一花の北条武士の武威を咲かせたいと思っているのだ。
 氏直のその決意は皆にも伝わっていた。なんとか秀吉を挑発して力攻めの挙に走らせる
ことはできまいか、などと軍議の席上などで論じられた。やはり、あの大軍を向こうに回
して互角の戦いをするには小田原の城郭を使うしかないということは周知のことであった
のだ。
 秀治は、自分も氏直に付き従って秀吉に一泡吹かせてくれようと意気込んでいたが、六
月九日、すなわち政宗の秀吉軍参着の四日後に、父親である松田憲秀に呼ばれた。
 きっと、殿の元でその手足となってよく働くようにと訓戒されるのであろうと父の所へ
参じた秀治は、そこで愕然とすることになる。
「潮時じゃな」
 と、父はいう。
 それはわかっている。なればこそ最後に一花をと気負った秀治に憲秀は冷徹な声を浴び
せた。
「わしは降るぞ」
 衝撃が幾重もの波となって秀治を打った。
「既に堀秀政どのに話は通してある」
 昨日、憲秀は情勢を見、先を見据えた上に北条家の滅亡を確信し「秀吉公へ通じ見んと
思慮」して堀秀政に内通のことを打診していた。
 秀吉は「天の与うるところ」と大層喜んで、憲秀が守っている箱根口を密かに開き、秀
吉軍の兵を招じ入れることを条件に「伊豆・相模の二国」を与えることを約束した。
 憲秀は思わぬ見返りに喜んだ。
「父上、なりませぬ」
「既にお前の兄も承知しておる」
 憲秀がいう兄とは、笠原家の養子となって笠原政蕘と名乗っている男のことである。一
時北条から離れて武田に属していたこともあり、この状況下では内通するのも止む無しと
は思える。
 しかし、憲秀は譜代の重臣ではないか。
「そもそも、我が家が興ったのは早雲公の元に逸早く馳せ参じたからよ」
 事実である。そのことをはじめとする数々の勲功によって、憲秀は今や北条一族の長老
である北条幻庵に次いでの禄高を得ている。長老幻庵を家臣以上の別格として見れば松田
氏は北条でもっとも高位にある家臣といってよい。
 憲秀がいうには、そういう時代である。その波に乗れずば一族郎党諸共に波間に沈むだ
けであり、こういった内通というのは早ければ早いほど相手方の印象はよいのだ。
「お前は殿の覚えがめでたい。もしも、殿の回りでわしの行動に疑問が上がれば、わしが
堀秀政と接しておるのは、相手の様子をそれで探っているのだと耳に入れておいて欲しい
のよ」
 秀治は無言であった。無論、そのようなことはできぬと突っぱねたかった。だが、息子
として、秀治はこの父の戦国武将らしい苛烈さや決断力を知っている。拒絶すれば、この
場で幽閉されるぐらいは有り得た。
「心苦しいことではありますが……」
 語尾を濁しながらそういうと、それを息子が同心したと取った憲秀は、くれぐれも頼む
ぞ、と重ねていいつつ、得意げに自らの決断を誇っていた。
 これで伊豆と相模二国を得ればわしも大名となる、松田家は益々栄えるぞ、これもいさ
さか遅かったとはいえ、これからの時代を担うのが秀吉公と気付いたればこそよ――。
 そんな父親の言葉を俯いて聞きながら、やがて秀治はその場にいるのが耐えられずに立
った。
「早速、殿に会って参ります」
 憲秀の元を辞した秀治は真っ直ぐに氏直のところへと向かった。心は決まっていた。
 父は父、子は子。
 親子の情も我が殿のためならば断ち切ってみせようぞ。
「秀治か。茶でも喫するか」
 いつものように、余人に邪魔されず伸び伸びと語ろうと氏直は秀治を茶室へと誘おうと
した。だが、秀治の様子は常とは違った。あまりにもあからさまに顔色が変わっていた。
蒼白であった。
 どうした、と氏直が問う前に秀治は平伏した。
「お人払いをお願いいたします」
 二人だけで話したければいつものように茶室に行けばよい。ここで秀治がわざわざその
ような願いを口にするのは、特別の意味あってのことであろうと氏直は即座に察した。
 小姓を下がらせ、二人きりの空間を作ると、威儀を正して下問した。
 それに対して秀治は、
「恐れながら申し上げます」
 とはいうものの、申し上げるべきことが容易に口の端に昇っては来なかった。
「我が父、松田尾張守、敵方に内通」
 秀治は平伏したまま、氏直を見なかった。
 そのようなことを聞かされた氏直の顔を見たくは無かったし、自身、氏直に合わせる顔
が無かった。
「よく、知らせてくれた」
 驚くほどにはっきりとした、そのくせに妙に弱々しい声が返ってきた。返ってくるのに
たっぷりと時間を要していた。
 その日のうちに憲秀は幽閉された。
「左馬めが」
 憲秀は唇を噛んで縛についた。左馬とは秀治のことである。
 重臣であることを考慮して幽閉されるに止められた憲秀はそのまま幽閉の身で小田原の
開城を見ることになる。
 そして、そのことが城内将兵に与えた影響はいうまでも無かった。代々の重臣で主戦派
の憲秀が内通をはかったのである。死を決して最後の晴れ舞台に、と思い定めていた者も
戦意を萎えさせてしまう者が多かった。
 さらに、一貫して主戦論を展開していた北条氏邦の守る鉢形城が善戦の末ではあるとい
うものの、六月十四日に降伏開城、氏邦は前田利家に身柄を預けた。
 そして、鉢形城を落とした前田・上杉を中核とする軍はさらに南下して六月二十三日、
遂に小田原城と彼らとの間で、唯一北条の旗の翻る八王子城に攻めかかったのである。
 その攻めは苛烈に苛烈を重ねた猛攻であった。
 これまで、利家と景勝はさすがに練達の戦闘指揮者なだけあって、兵法の常道を踏んで
多くの城を、包囲して威圧するとともに降伏を呼びかけ、交戦に及ばずに城を開かせてき
た。
 だが、これを秀吉が叱責した。
 それでは見せしめにならぬ、というのである。どこか一つ、見せしめのために苛烈な処
置を行う必要を、秀吉の政略が求めていた。
 それというのも、さすがの秀吉も、小田原城へ対して力攻めするのを控えたいと考えて
いたためである。小田原はなんとか先方から門を開かせたい。そのために、もはや数少な
くなった北条の支城の中に「見せしめ」のための犠牲となってもらわねばならない。
 小田原を除けば残るは三城。
 その中でも徹底抗戦を続ける忍城と、開戦初日より頑強に守りを固める韮山城ではなく
八王子城がそれに選ばれたのである。
 城主、北条氏照は小田原に入っていたために、横地吉信、狩野一庵、近藤綱秀らが防備
を固めていたが、なにしろ攻め手の勢いが尋常ではなかった。秀吉の厳しい叱責が効いて
いた。
 殿の留守を守らんと八王子城の将も兵もよく戦ったので激戦となった。だが、それほど
の時間はかからなかった。氏照が築き上げた八王子城も六月二十三日、すなわち、その日
のうちに陥落したのである。
 先に挙げた三人の守将をはじめ、多くの将兵が討死した。
 その首実験を行うと秀吉は、ある酷烈な命令を下した。
 八王子城の戦死者の中で家中にそれと知られた武将の首を船に乗せ、その船を小田原城
から見える位置の海上に浮かべさせたのである。
 この八王子城の陥落は契機となった。
 八王子城の城主であった北条氏照と、そして氏正の二人、つまりは主戦派の大物二人が
降伏も止むを得ないと、意見をいよいよ和睦に傾け始めたのである。
 そして六月二十四日。開戦以来、その堅守を敵味方に称えられた韮山城が降伏する。城
主氏規が、徳川家康の勧告を受け入れたのだ。
 その話が伝わり、その後に、氏規から降伏をすすめる書状が届くに至って氏直は決断し
た。
 城内の整理を済ませ、氏直が滝川雄利の陣に赴いたのは七月五日のことであった。
 雄利からその報がもたらされると秀吉は開けっぴろげの喜びを表わした。
「四ヶ月と少しか、上出来よ」
 ことに秀吉は、氏直が「自分が腹を切るから家臣たちの命は助けて欲しい」と申し出た
ことを聞くと氏直への評価を高めた。
「氏直はひとかどの男であったわ」
 そして、家康の娘婿であることなども考慮した結果、その一命を助けることにした。
 切腹を命じられたのはまず、氏正と氏照である。この二人が主戦派であり、氏直が秀吉
とは和平を望んでいたことを考えれば妥当な処置といえた。
 二人はこの期に及んではいささかも取り乱さず、氏規に介錯されて見事割腹した。
 以下辞世句。
  雨雲の おほへる月も 胸の霧も はらたにけりな 秋の夕風    氏正
  天地の 清き中より 生れきて もとのすみかに かえるべらなり  氏照
 そして、もう二人、秀吉に切腹を命じられた者がいた。松田憲秀と大道寺政繁である。
 大道寺政繁の降伏を容れて以後、それを先鋒と道案内に使っていた北陸軍の前田利家か
らなんとか切腹はお許しいただくように、といういわば「死一等を減じる」願いがあった
が、秀吉は容赦が無かった。
 堀秀政の方からも憲秀の助命嘆願が来たが、それもまた秀吉は一顧だにしなかった。
 譜代の重臣でありながら敵方に寝返ったということでは共通するものの、両者の間には
明確な違いがある。政繁は、利家と上杉景勝に降伏して以後武功を立てたものの直接秀吉
に刃向かった罪を許され褒賞を約束されていたわけではない。そして憲秀は秀吉から「伊
豆・相模の二国」を与えることを約束されていたがそれと引き換えにすべき門を開いて秀
吉の兵を城内に招じ入れるという功績を立てることができなかった。
 降伏してきた敵をまるで窮鳥のように扱うことが多かった秀吉の態度からして政繁も憲
秀も命は助けられておかしくなかった。
 だが、秀吉は無造作に切腹を命じた。
 堀秀政が秀吉に謁見し、憲秀がこれまで秀吉に刃向かって北条方の主戦論をなしていた
ことは、それは大罪であろう。しかし、途中でそれを悔やんで内応を約束したのであるか
ら出家をさせるか遠島に流刑するにとどめて一命だけはお助けを、と今一度の嘆願を行っ
たが秀吉は意を翻さない。
「よいか、秀政」
 常日頃の温顔など完全に無い。冷酷で冷静で冷徹な氷のような顔と声だけであった。
「あの両名に切腹申し付けたは、なにもわしに逆ろうたからだけではないぞ」
 天下の太閤のそのような顔と声に触れては秀政はもはや憲秀の助命のことなどとうに諦
めて、それではいかようなわけにて……と弱々しく尋ねるしかなかった。
「あの者ども、代々高禄を食んだ重臣でありながら主家を裏切ったこと、許し難い」
 秀吉の満面に赤々と色が浮いてきた。
「あの両名が腹を切らされるは、不忠ゆえよ」
 汚物を吐き出すようにいった。
 これまで、秀吉はこの度の憲秀や政繁と同種の行為をした人間をも抱きいれてきた。だ
が、伊達政宗が恭順した今となっては、もはやこれにて戦は終わりである。そうなれば秀
吉にとって不忠者、ひいては彼らの持つ主家を裏切ることを裏切りではなくしてしまう思
想は根絶したいものであった。
 むろん、そのような人の野心などが根絶やしにできるとは秀吉は考えてない。しかし、
それを放置しておくよりは、そのような行為を戒めるに越したことはない。
 秀政は、既に秀吉の意を察して深々と頭を下げるばかりである。まるで、拙者は決して
そのような不忠者ではありませぬ、太閤さまの忠実な臣でございますぞ、と媚びているか
のようであった。
 秀吉の前より下がった秀政がしたことは、政繁の助命を今一度願おうとしている利家と
景勝にこのことを伝え、忠告することであった。利家も景勝も、以後助命のことは口にし
なくなった。
 憲秀は、どうやら自分が切腹させられるらしいということを氏直が降伏してからすぐに
知った。
 功績を立てられずに幽閉されてしまったのだから仕方が無い、と思った。それにしても
一命は助けられるかとも思ったが、ずっと主戦論を唱えていたことをやはり秀吉は許さな
かったらしい。
 政繁は自分に比べて上手くやった。北陸軍が諸城を落としていくのに政繁が果たした役
割は大きい。その功によって関東のどこかに一国ぐらいは与えられるのではないか。いや
いや、もしや二国。そうなれば、自分が得られなかった伊豆と相模であろうか。
 だが、自分と同様に政繁も切腹させられるとのことであった。憲秀はそれを単なる噂と
してではなく、秀吉からの「申し付け」に触れることによって知った。そうなれば、最早
それは確実なことである。
 なぜ政繁までもが切腹なのか。
 理由は「不忠ゆえ」という。
 そのような理由によって腹を切らされるのならば、これまで秀吉への主戦論を唱えてい
たために切らされる方が得心がいく。
 不忠。
 その概念は理解している。確かに、自分は主家に、北条家に、氏直に対して不忠であっ
たかもしれない。だが、自分は時代の波に乗ったまでだ。北条早雲の元にすぐに馳せ参じ
た先祖のように。
 滅びる主家など逸早く見限らねば生き残ってはいけぬし、家も大きくはできぬ。そうい
う時代を憲秀も松田家も生き延びてきたのだし、秀吉も生き延び、のし上がってきたので
はないか。
 憲秀は自分の役割がよく理解できていなかった。秀吉が満天下の諸大名に向けて打った
「不忠者の末路はこうだ。不忠はいかんぞ」というテーマを持った芝居において不忠ゆえ
に腹を切らされる役を振り当てられたなどと到底思いつかなかったであろう。
 秀吉にとっては、その役は北条譜代の重臣で、しかしそれを裏切った「不忠者」であれ
ばよかった。憲秀と政繁が正に適役な行動をしたからそれに選んだ。
 諸将を集めた戦勝を祝う宴でも、秀吉は一言だけそれに触れた。
「わしが治める天下にはあのような不忠者は不要じゃ」
 居並ぶ諸将、悉く戦国の風雲風雪を潜ってきた古強者たちである。むろん瞬時にその意
を悟り、身を固くして恭しくこの天下人に接した。
 秀吉のその言葉を聞いたわけではないが、憲秀はその行為の直前になってなんとなくだ
が悟った。
 自分は時代の波の先端に乗っていたつもりであったが……。
 最早、その時代が変わったのかもしれぬ。
 その日のうちに、松田憲秀は腹を切った。

 氏直は、一命を助けられ妻の督姫と離縁したのち、高野山に入った。三百名の家臣だけ
がそれに付き従うことを許された。その中に、松田秀治の名も見ることができる。
 高野山で過ごすうちに氏直は天正十九年二月、すなわち小田原開城から半年と少々の時
を経た頃に秀吉に呼ばれ、大坂城へと向かった。
 そこで氏直は秀吉に下野で九千石、近江で千石の計一万石の大名に取り立てられる。高
野山の山麓に朽ちることを覚悟していた氏直にとってはそれだけでも夢のような厚遇であ
ったが、そのうえに秀吉は来年には伯耆一国を与えることを約束した。
 だが、既に氏直は病を得ていた。天正十九年十一月。享年僅か三十歳で没した。
 氏直は小田原開城時に「こうなっては主従の縁は切れてしまった。自分を慮ったりする
必要は無いので、どこであろうと好きなところへ仕官するように」という文章を家臣たち
に残している。このことからも、その死の床で、高野山に入ってから今まで従ってくれた
家臣たちに改めてそれと同じことをいったであろう。
 氏直の没後、松田秀治は加賀前田家に仕えている。
 没年は不詳。
 おそらくは、悔い無き一生だったのではないだろうか。

                                      終


      どうも、vladです。
      念願の(WEB上に公開するものでは)初のオリジナルであり、
     念願の初の歴史小説という二重に念願のかなった作品です。
      ただ、やはり初めてだけに、小説として難点も見受けられます。
     資料を調べながら「大きな間違いはしないように」と思って書い
     ていたのですが、そのせいか、テーマを鮮烈にすることに失敗し
     てしまいました。
      これからも、歴史小説は書いていきたいですね。



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