かのんイズム10








    まえがき

      この話は自称常識的一般人である相沢祐一の目を通して
      彼の周りの破天荒(キチ)な人物たちを描き、男の好日
      とは何かを問う話です。
      今回は文化祭のお話です。相変わらず時間系列が無茶苦
      茶ですが、お前ら、もういわないでもわかるだろ。



「急げ急げ」
「急ぐよ急ぐよ」
 毎度毎度の朝の疾走中である。
「校門が見えた! 三分前だ!」
「間に合いそうだね〜」
「おう」
「あれ? 北川君だ」
 名雪がいうように、校門を俺たちに先んじてくぐった人影があり、その後ろ姿がどう見
ても北川だった。あいつは新聞配達のバイトをしているのでメチャクチャ早く来てるかと
思うと、一度家に帰って10分だけ仮眠をとかいって盛大に昼まで寝過ごして午後から来
たりとその日によって極端に登校時間が違うので、どの時間に来てもおかしいという感じ
は受けない。
 まあ、たぶん今日は仮眠をとって上手いこと起きられた日なのだろう。
「おう、北川」
「北川君、おはよー」
「おーっす」
 俺らが挨拶しながら追い越すと、奴は悠々と歩いている。
「おい、ギリギリだぞ」
「む、本当だ」
「急がないと置いてくぞ〜」
「置いてくよ〜」
 俺と名雪は日頃鍛えたダッシュを見せる。
「なに、だったら俺は近道するぞ!」
 と叫んで俺たちとは別の道に行ってしまった。
「って、おい! ……近道って……そんなのあるのか?」
「うー、北川君のことだからなんか凄い細い抜け道知ってるのかも」
 ねこみたいな奴だ。
「よし、早く行くぞ」
「うん」
 なんだか知らんが北川に対抗心を燃やして俺と名雪はさらに加速した。靴を上履きに履
き替え、階段を駆け登り、そして始業一分前。
「よし、着いたっ!」
「みんな、おはよー」
「毎朝毎朝楽しませてくれるわね」
 呆れた顔で香里が出迎えてくれる。っと……北川の奴は……いない。
「お、北川の奴、まだ来てないぞ」
「えへへ、わたしたちの勝ちだねー」
「え? 北川君、どうかしたの?」
「ああ、あいつと下で会ったんだけどさ、なんか近道するとかいってどっか行っちゃった
んだ」
「近道って……」
 ドンドン。
「あ」
 ドンドン。
 窓ガラスを叩く音がする。
「うお〜い、開けてくれ〜」
 北川だった。
「何してんだ、お前は」
 鍵を開けてやると北川が入ってきた。
「近道」
 そうか、表の壁を登攀してきたのか、そりゃ近えわ。
「相沢と水瀬が入ってくる前に着いてたぞ」
「へいへい、お前の勝ちだよ」
「北川君……」
 香里が不機嫌そうに立ちあがった。
「おう、美坂」
「めっ!」
 挨拶への返答は踏みこみから腰の運びから腕の捻りまで何から何まで完璧な右ストレー
トだった。
 めきゃ、とか耳に慣れ親しんだ音を出しながら北川がふっ飛ぶ。
「土足であがったら駄目でしょっ!」
「ありゃ」
 見れば、床に転々と北川の足跡がついている。
「もう、上履き持ってこなかったらしょうがないじゃないの」
「ごめん」
「ほら、ロッカーに雑巾あるから」
「うん」
 靴を脱いだ北川がロッカーから雑巾を取り出してそれで足跡を拭く。
「石橋さんまだ来ないな、よし、上履き持ってくる」
 手に靴をぶら下げて北川は教室を出て行った。
「あ、こら、北川〜、どこ行くんだ」
「上履き取りに行ってきます」
「馬鹿、早くしろ、馬鹿」
 廊下からそんなやり取りが聞こえてくる。
「あー、おはよう」
 石橋さんが教室に入ってきた。早速出席をとり始める。
「北川潤……あー、もう、しょうがねえな、出席」
 石橋さんはとても大らかな先生だ。
「北川潤、います!」
 出席とり終わる頃に北川が帰ってきた。あー、わかったわかった、と手を振る石橋さん。
「じゃ、今日も一日頑張れよ」
 いつものようにそういってHRを終えると石橋さんは出て行った。
 午前中の授業は大過無く過ぎていった。四時間目ぐらいになるとどうにもじっとしてる
のに耐えられなくなった北川がゴソゴソと動き始め、隣の香里をちらちら見ながらなんか
描いている。
「できたー」
 後ろで声が上がる。正直、あんまり厳しい先生の授業ではないから私語も多いので、そ
れほど北川の声は目立っていない。
「ほれ」
 強制的に北川の作品が回ってくる。
「おっ」
 香里だ。それはわかっていたのだが、髪型が真琴みたいな、つまりはツインテールにな
っている。
「へえー」
 まじまじと見ていたのが不審に思われたらしくモデルの方から「こっちに貸しなさい」
といわれたので渡してやった。
「ふむ」
 なんかロクでもないものが描いてあると思っていたらしく、拍子抜けした声がする。
「あたしがこれにしたらこんなふうになるのかしら」
「やったことないのか?」
「運動する時とかにまとめてポニーにすることはあるけど、これはしたことないわ」
「見たいなー、美坂のそんなの見たいなー」
「北川君……」
「あ、見たいみたい」
「ちょっと、名雪まで」
 んでもって、今度させるよーと力強く断言する名雪に、もしできたらイチゴサンデーを
奢るという北川に、香里さんが馬鹿いってんじゃないわよ、といっている内に授業が終わ
った。
 学食に行くと席がけっこう空いていたので学食を食うことにする。飯を食って教室に戻
って寛いでいると、北川が「あ、そうだ」とかいいつつブレザーの内ポケットに手を入れ
た。
「美坂〜」
 ニコニコしながら何かを取り出す。
「今日、給料日だったんだ」
 給与、と書かれた封筒だった。
 なるほど、給料が入って潤沢になったので奢ってやるから、一緒にどっか行こうぜーと
誘う気だな。
「ほれ」
「はい」
 北川が差し出した給料袋を香里が受け取った。
 口を開けて逆さにすると札が姿を現し、硬貨が何枚か香里の掌の上に落ちた。
「えーっと」
 呟きながら香里は明細を見て、そして札を数え始める。
「ひー、ふー、みー、よー」
 手馴れた手付きで香里の指が札を弾いていく。
「うわあ」
 思わず、声が漏れていた。香里を大好きな北川、北川を好きなのかなんなのかよくわか
んないんだけど嫌ってはいなさそうな香里、この中々に複雑怪奇な恋模様を見せる二人。
いい雰囲気になったかと思えば鉄拳が唸り、正確無比に急所を貫いたかと思ったらいい雰
囲気になったり、それでもとにかくなんじゃかんじゃで仲良くやってる二人だと思ってい
たのだが、いつのまにやらこういうことになっていたのでありますか。
 隣を見る。名雪が「うわあ」になっていた。
 教室を見る。みんな「うわあ」の顔だった。
「おい」
 斉藤が苦い表情をしながらやってくる。
「お前ら、ああなる前になんとかならなかったのか」
 いや、おっしゃることはごもっとも、でもな……。
「俺たちも、今の今までああいうことになっているとは知らなかったんだ」
 俺と斉藤がヒソヒソ話をしていると、香里さんが声をかけてきた。
「ちょっと、あんたら、誤解してるでしょ」
 睨んでる睨んでる。めっさ睨んではるで。
「いや、滅相もないっす」
「あのね、北川君がこないだ電話のセールスで英会話セット一式五十万円を売りつけられ
たのよ」
 ほほー、英会話ですか。
「英会話ができると世界と繋がるんだよ」
「なんじゃそら」
「まあ、つまりはこんな具合に騙されたわけね」
「へへー、騙されたんだ」
 なぜそんなに嬉しそうか、お前は。
「で、今だと四十九万五千円に割引されてお得なんだぜ、とかあたしんとこに電話かけて
きたから、あたしが出てってクーリングオフしたのよ」
「なるほど!」
 そうか、わかった。
 見ると、斉藤もうんうんと頷いている。
「それで、四十九万五千円取られるとこを救ったんだから給料一ヶ月分を謝礼として貰う
ということになったんだな」
「ち……」
「ち?」
「違ぁーう!」
 香里さんがなんだかご立腹の様子である。なんかまずいこといったんじゃろか。
「い、いや、そんな、悪いことじゃないと思うぞ、なあ、斉藤」
「お、おう、その程度の謝礼は貰っても罰はあたんないんじゃないかなあ、ねえ、水瀬さ
ん」
「そ、そうだよ〜、やっぱり香里は頼りになるよ〜」
「だから、違ーう!」
 ビリビリと窓ガラスがわななくほどの大音声で香里さんがいわれるので思わず俺たちゃ
頭と金的をガードしながら後ずさる。名雪は俺らの後ろに隠れている。
「そういうことが無いように、まとまったお金を持たせないことにして、あたしが預かる
ことにしたのよ、北川君からもなんとかいってよ」
「わかりやすくいうと、美坂が俺の財布の紐を握ることになったんだ」
 この上なくわかりやすいな。
「えーっと、ひー、ふー、みー、よー」
 なるほど、そういうことだったのか。香里、ずるずると北川の面倒見てるなあ。
「歩合給がこれだけで、かけることの……」
 現金と明細と計算式を書いたノートに視線を走らせながら、なにやら計算している。
その前に北川がちょこんと座って見ている。
 にへらーと笑っている北川。
 真剣な目つきで金を勘定する香里さん。
 いや、わかってる。俺たちはわかってるんだ。
 でも、やっぱりそれ、見てくれは最悪です。
 なんか、なんか、なんか、ぱっと見、ほら、あれです。すっげえ自然に「あ、騙されて
る奴がいる」とか思ってしまいそうです。いや、ホントすんません。
「で、家賃でこれだけ消えるでしょ。光熱費は確定してないけど、先月の明細を基準にす
るとこのぐらい。北川君、ヒーターは使ってる?」
「ああ、ヒーターねえんだ」
「じゃあ、寒くなったといっても、それほど上がらないわね」
「うん」
 あれこれとやりくり計画を話し合っている。
「香里、北川君の奥さんみた……にゅっ!」
 小さな声だったが、しっかり香里さんの耳に拾われてしまい睨みつけられた名雪が、俺
の後ろに隠れる。
 相変わらず口で災いを呼び寄せる危険性に溢れた奴だ。ていうか、香里さん、睨まない
でください。俺の後ろの名雪を睨まないでください、なんか内臓がキリキリします。
「じゃあ、はい、これ夕食代」
 香里が北川に五百円渡した。
「無駄遣いしちゃ駄目よ」
「うん」
 そうこうしているうちにチャイムが鳴り、先生が入ってきた。
 帰りのショートHR、石橋さんはそういうものには神速を尊ぶ人なのであっという間に
終わる。ただ今日は、
「明日の5時間目のロングHRで今度の文化祭のこと話すから、適当に考えとけ」
 と、いった。適当に考えとけ、というのが非常に石橋さんらしい。油断してると生徒よ
りも適当にやりかねない。
「はあ、そういえば文化祭か、また大変ね」
 香里が溜息をつく。学年首席だからねー、美坂さん頼りになるしねー、とかなんとかい
われてまんまと学級委員を押し付けられたらしい香里は、こういう学校行事になると担任
が担任だけに働かされることとなる。誰かがリーダーシップを取ってやらないとにっちも
さっちも行かなくなり、そうなっても石橋さんは放任主義を貫くのだ。
「はっはっは、俺が粉骨あれして手伝うから安心しろ、美坂!」
 砕身という言葉は思い出せなかったらしい。
 石橋さんが出て行って、部活に行く名雪を見送ってからしばらく雑談していると、栞が
来た。
「あ、よかった。間に合いました」
 にぱっと笑って小走りでやってくる。
「このクラス、帰りのHR早いから、もう帰っちゃったかと思ってました」
「まあ、そろそろ帰ろうかっていってたとこさ、栞も帰るか?」
「はいっ」
 にこにこにっこり、いつになく嬉しそうな栞である。
「百花屋に行きましょうよ」
「お、いいな」
 まあ、お決まりのコースだけども、気に入ってるからお決まりになってるんだよな。あ
の店は落ちついてるし、かといって気軽に入れないわけじゃないし、こっちに来てからな
んだかんだで一番利用している店だ。
「きったがわさんっ」
 栞がやはり満面の笑みをしつつ北川に声をかける。
「北川さん北川さん、奢ってくださいよう、スペシャルバニラ奢ってくださいよう」
 栞が両手で北川の袖を引きながら上目遣いでお願いし出す。色々と心得ている奴だ。演
技とわかっていてもフラフラ財布に手が伸びかねない。
「ようし、奢ってやるぜえ」
 栞の手練手管には常に全身で引っ掛かっている北川が豪気に請け負った。いや、待てよ
……。
「お前、金持ってんのか?」
「ん?」
 ゴソゴソと財布を取り出して開ける。
「五百二十円しかない」
 つまり、香里に夕食代貰うまでは二十円しか持ってなかったわけか。話にゃ聞いてたが
ギリギリの生活送ってるんだなあ。
「ええっ、そんな、それじゃ千二百円のスペシャルバニラどころか七百円のノーマルのバ
ニラでさえ買えないですよ、北川さん、お給料はどうしたんですか?」
 って、こいつ、今日が北川の給料日だって知ってるのか。
「北川君の給料ならあたしが預かってるわ」
 香里がいうと栞が半泣きになって食って掛かる。
「なんでそういうことするんですかあ、今日は北川さんに確実にスペシャルバニラ奢って
もらえる日なんですよっ! 私は指折りしながら待ってたんですよっ! どーしてくれる
んですかー!」
「……あんた、給料日のたびにたかってたのね」
「たかるだなんて人聞きの悪いこといわないでください! 私が北川さんの給料日を虎視
眈々と待ってるみたいじゃないですかっ!」
「……指折りしてたっていったじゃないの」
「そんなこという人嫌いです」
「あんた、都合が悪いとすぐそういうの悪い癖よ」
「まあまあ、とにかく行くぞ」
 言い合いをしていてもしょうがないので促す。
「んー、百花屋行ったら晩御飯が食べられない」
 掌の上の五百二十円を見ながら北川が呟く。でも、美坂と百花屋に行きたい行きたいと
いう意思がありありとわかる。
「あー、じゃあ、お小遣いということで夕食代とは別に出すから一緒に行きましょう」
「おうっ」
「え」
 ぱあっと表情を明るくする北川と栞。
「……別にあなたのアイス代は出さないわよ」
「えう」

 百花屋である。
「うー」
 自腹を切ることになった栞がやたらと唸り声を上げながらメニューを見ている。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、一緒にバニラ頼みましょうよ、そんで半分こしましょうよ」
「あんた、自分でお金出すとなるとしっかりしてるわね」
 しかし、栞と半分こにするというのには抗えなかったらしく、香里が快諾した。香里は
他にコーヒーを一杯。おれもコーヒーを頼むことにした。
「うーん、何にしよう」
 北川が悩んでいる。
「この一番安いコーヒーにしときなさい」
「うん」
 結局、香里にいわれるままに一番安いのにしていた。
「そーいえば、文化祭ですね」
 栞が運ばれてきたアイスを食べながらいった。ちなみに、アイスにスプーンで線引きし
て片側が栞の取り分である。
「明日のロングHRで決めるんですけど、うちはどうなるのかな」
「楽しそうだな、栞」
「はいっ、それと今回は久瀬さんに生徒会の仕事を手伝ってもらえないかって誘われてる
んです」
「生徒会の?」
「栞、大丈夫なの?」
 香里が心配そうである。
「やばい仕事だったら北川君がいるのよ」
 色々と心配らしい。生徒会は、やばい仕事をさせそうだと思われているらしい。やばい
仕事は北川だと思われているらしい。
「生徒会の仕事ということは、みんなのためになる仕事だから、私、やってみたいんです」
「そう……でも、無理しないで、困ったことがあったら久瀬君とか、あたしにちゃんとい
うのよ」
「はいっ」
 栞が前向きなのが嬉しいらしく香里も嬉しそうだ。
 しかし、久瀬の奴、なに考えてんだろう。栞の見た目よりも遥かにやり手なところを買
っているのだろうか。
「まあ、やばい仕事だったら俺にいえって」
 北川が胸を叩いた。こいつも栞には実の姉に負けないぐらいに甘い。

 翌日、問題のロングHRの時間が近付いてきた昼休み、それとなくそんな話をしている
のだが、男子がバラバラに適当に話しているのに比べ、女子はそこかしこで集まってヒソ
ヒソ話している。んで、その集まりから集まりへ移動してる女子がいる。
「なんだろな」
 と不思議に思っていたら、その答えはHRになったらすぐに出た。
「じゃ、美坂」
 と、速やかに議事進行その他を学級委員の香里にぶん投げて隅っこに引っ込んだ石橋さ
んがニッカンスポーツを読み始めると同時に、香里が黒板に「文化祭の出し物について」
と書く。
 そして、
「何か、ありますか?」
 いうや否や、女子の一人が「劇」と提案した。定番ものなので特にブーイングが上がっ
たりはしない。他にも喫茶店とか幾つか定番が出た後で多数決を取ることになったが、女
子の支持を集めた「劇」が圧倒的な差でトップを取った
 なるほど、そのことを示し合せていたんだな、と昼休みのヒソヒソ話に合点がいった。
……のだが、示し合せていたのはそれだけではないことがその後に判明した。
「それじゃあ、劇は男子は女装、女子は男装でやるということで、多数決とります」
 女子の一人の提議によってそういうことになっていた。
 あのヒソヒソ話はそういうことか。これはなんとしても潰さねばならん。
 女子の男装なんてのはやりようによっていいように見えるもんだが、男子の女装なんて
ものは十中八九笑い者だ。
「それでは、これに賛成の人は挙手してください」
 素早く香里が採決にかかる。その短い間に俺は斉藤をはじめとする男連中に目配せをす
る。親指を立てつつ俺の視線を受ける斉藤、よし、いい感じだ。
 後ろの北川のことは一瞬考えるには考えたのだが、香里に挙手してくれといわれただけ
で条件反射で手を上げている可能性すらあり、そもそも後ろを振り向いて目配せする暇も
無かった。
 ずらっと並ぶ手。
 名雪とか、斉藤とか、斉藤、てめえ。
「あれ、相沢」
 あれ、じゃねえだろ、あれ、じゃ。
「お前、手ぇ上げないのかよ」
 あの目配せは違うわい。
 って、他にも男で手上げてる奴が多いな。
「えっと、25、26、27、で、あたしも賛成だから、賛成28ね」
 香里が賛成のところに28と書く。
「今手を上げてない人が全員反対だとしても10だから、賛成で決定します」
 うちのクラスは38人、本日欠席者無し、である。
「くそ、マジかよー」
 マジである。
 俺は体を横にして後ろの北川を見た。
「うーーーむ」
 北川は俺以上に表情をしかめて腕組みしていた。
「まいったな、相沢」
「え、ああ、そうだな」
「相沢も手上げてなかったもんな」
 あ、こいつも手上げてなかったのか。
「うーん、まいったな。女装か」
 何やら非常にまいっているようである。
「うーーーーーん」
 なんだか知らんが、俺よりよっぽどこいつの方が困っているようだ。そんなに嫌なのだ
ろうか。こいつ、女顔だから女装は似合いそうなんだが。
 北川が唸り、俺がそれを見ている間に、他の連中はみんな教壇の方へ集まって演目を何
にしようかなどとを話している。んで、ぽつんと残っている俺たちのところに香里がやっ
てきた。
「二人とも、そういうことになったから」
 俺たちが二人とも手を上げていなかったのを見ていたのだろう、香里はいかにも諦めて
協力しなさいといった口調だ。
「あー、もう、しょうがねえなあ、女装で笑われるのは嫌だけど」
 俺は観念した。
「うーーーー」
 北川は唸っている。往生際の悪い奴だ。
「観念しなさい」
「うーーーん」
「北川君なら可愛い子になるわよ」
「ぬーーー」
「まあ、よろしくね、あたしは監督だから裏方になるけど」
「なんだよ、香里は出ないのか」
 香里の男装なんて凄い受けそうなんだが。
「名雪たちに任すわ。相沢君、なんだったら名雪とラブシーンやる?」
「やらんわ」
 でも、あいつけっこう鍛えてるから俺を抱き上げるぐらいはできそうだな。
 女装してフリルドレスに身を包んだ俺を抱き上げるどこぞの王子様のような名雪を思い
浮かべてちょっと鬱になった。以後の力関係にも影響を与えそうではないか。ただでさえ
微妙に押さえ込まれがちなのに。
「うぬうぅぅぅぅ」
 北川は相変わらずぷすぷす煙が出そうなほどに考え込んでいる。そんなに嫌か? 俺だ
って、そこまで嫌じゃないぞ。
「ごめん、美坂」
「え?」
「俺、それできない。大道具とか、裏方をやるよ」
「んな」
 まさか正面きって拒絶されるとは思わなかったのか、香里は一瞬呆けたように表情を固
めた。
「な、な、なんでよ、北川君なら凄い可愛いと思うわよ」
「んー、やっぱり嫌だ」
「そ、そんなこといわないで一度やってみなさい、新しい世界が開けるかもしれないじゃ
ない」
「いや、女装なら中学の頃に何度もしたから」
「だ、だったらいいじゃない、一度やるのも二度やるのも同じよ」
「いや、もうやんないことにしたんだ」
「あたしがこれだけいっても駄目なの?」
「うん」
「お、お小遣い下げるわよ」
 大人げねえ。。
「道端の草を食ってでもやらない」
「うぬぬむぅ」
 なんか面白い音声を出しながら後ずさる香里さん。そんなに北川の女装を見たいのか…
…に、してもここまでしつこいのは香里らしくないな。
 それに北川も何度かやったことあるのに今更ここまで拒絶するとは、以前に女装した時
に何かあったのかな、例えば……。
「そうか、北川君、あなた前に女装した時に男の子に惚れられたんでしょ」
 と、香里が、俺が思っていたことをずばりいった。
「大丈夫よ、そんなのあたしたちがガードして上げるから」
「いや、みんな男が女装してることは知ってたから、そういうことはなかったぞ」
「じゃ、じゃあ、なんでそんなに嫌がるのよ」
「嫌だから」
「だから、嫌な理由は?」
「俺は男だから」
「そ、それだけ?」
「うん」
「でも、文化祭で女装するのなんかお遊びじゃない、うちのクラスは男子が女装、女子が
男装した劇をやるっていってやるんだから、そんな深刻に考えないでいいのよ」
 あ、ねこを撫でる声になった。なんとしても懐柔するつもりだな。
「うーん、美坂の頼みだから聞いてやりたいんだけど」
 やっぱり駄目だ、と北川は首を横に振った。
「うぬぬぬ」
「まあ、香里、ここまで嫌だっていってるんだから」
 俺は北川が引かぬと見て香里をなだめにかかった。こうなると、なんの計算もしないで
頑なになる北川よりも香里の方が説得はしやすい。
「ぜ、絶対にやってもらうからね!」
 しかし、香里はそう断言して身を翻した。どすどすと黒板の方へと行ってしまう。
「あー」
 俺はその背中を虚しく見送るばかりだ。
「……」
 北川はちょっと苦しそうな顔して座っている。こいつ、こうなるとテコでも動かないの
は修学旅行の一件で立証済みだ。(かのんイズム4参照)
「祐一」
 恐る恐るといった風情で名雪と他数名の女子が近付いてくる。
「おう」
「えっと、北川君、そんなに女装したくないの?」
 話を聞いていたのだろう。そんなことを北川に聞いた。
「うん、美坂にゃ悪いんだけど」
「そうなんだ……」
 名雪と女子数名、なんだかやたらと消沈している。どうしたんだ。
「にしても、香里の奴も妙にムキになりやがって、拳にものいわすことはあっても基本的
には話せばわかる奴だと思ってたんだが……」
 俺がそう漏らすと、名雪たちが顔を見合わせる。
「どうしたんだよ、さっきから、なんか様子がおかしいぞ、お前ら」
「うー、そのー」
「なんなんだ」
「香里がムキになってるのって、わたしたちのせいだと思う」
「ん?」
 名雪によると、女子一同による女装男装劇の企画はけっこう前から進行していて、その
際にヒロインを北川にしようと賛成多数で決定していた。まず見てくれ的にこれ以上の適
任は我がクラスにはいない、そして、北川なら「頼めばやってくれそう」というのがあり、
さらには「美坂さんが頼めば大丈夫だろう」という理由もあった。
 その時に女子全員で香里にこのことをお願いしてしまったらしい。
「いかんだろ、それは」
 俺は思わず難しい顔で腕組みをした。変に責任感の強い香里だ。一度引き受けた以上、
完遂を目指すに違いない。
「ごめんね、北川君、そんなに嫌だとは思わなくて」
「ん、まあ、いいさ」
 謝る名雪たちに、北川は困ったような顔でいっている。
「後で、香里にもいっておくから」
「ああ、そうしてくれ」
 しかしまあ、それで引っ込んでくれればいいんだがな。……どうも一度ムキになってし
まったのが気にかかるな。
 今日はとりあえず女装男装劇に決定したことで散会した。明後日のHRに演目について
多数決をとることになった。
 帰り際、香里が北川をきっと睨みつけて、
「絶対にやってもらうからね」
 言い捨てて教室を出ていった。衝撃で隣のクラスのドアまでふっ飛ぶんじゃねえかとい
うぐらいの勢いでドアを閉めて出ていった。
「うーむ」
 めっさムキになってはるがな。
「北川君、ごめんね」
 名雪たちは相当気にしているようで北川のところにやってきて謝っている。北川は「い
いよいいよ」と笑顔で答えている。
 まー、俺がいうのもなんだけど、あんま気にすんな名雪。
 がらがらー、と凄まじい勢いでドアが開く。な、なんじゃあ。
「北川君」
 そこには香里が立っていた。今出ていったばかりなのに、心臓に悪いことしやがって。
「忘れていたことがあったわ」
 あれですか、殴るんですね。殴るんでしょう。
「はい、今日の夕食代」
 そういって、香里は500円を北川の机の上に置いた。
「ちゃんとしたもの食べるのよ、お菓子とか買っちゃ駄目よ」
「うん」
 ああ、そうか、そういえば北川の家計は香里が一手に握ってるんだったな。
「それじゃ」
 香里は北川に金を渡すと身を翻した。
「……絶対にやってもらうからね」
 ぴしゃっとドアが閉まる。
「うーむ」
 がらり、と三度ドアが開く。こ、今度はなんじゃあ。
「どうも〜」
 現れたのは栞だった。
「あの〜、お姉ちゃんと擦れ違ったんですけど、どうしたんですか?」
 栞はわくわくとした好奇心を押さえきれない様子である。
「不機嫌そうでしたけど、何かあったんですか?」
「んー、ちょっとな」
 そして、俺は香里が不機嫌な理由を栞に話した。
「なるほどー、お姉ちゃんらしいですね」
 しかし、表情はにこにこしている。
「北川さんっ!」
「ん」
「いいです!」
「そっかな?」
「その調子ですよ〜」
 栞はやはりにこにこにっこり。何がそんなに嬉しいのか、ってぐらいに笑顔だ。
「北川さんはお姉ちゃんのこと大好きですし、それを素直にいいますし、それはいいんで
すけど、お姉ちゃんは、時々揺さ振らないと駄目ですよ。変に安心して動かなくなります
から」
「んー、別に揺さ振るつもりは無いんだけど」
「いいです! グッドです! それだから北川さんなんですよー、期待してますからね」
「うん」
「ところで、皆さん、もうお帰りですか?」
「ああ」
「それなら一緒に……」
 帰りましょう、と続けようとしたのだろう。だが、その時、校内放送用のスピーカーが
鳴った。
「あーあー、親愛なる生徒諸君。愛に国境は無い、よって国境を越える生徒会だ」
 これは、久瀬の声だな。
「1年3組の美坂栞さんは、只今より極秘任務を与えるので生徒会室まで来られたし」
 極秘任務とはものものしい。ていうか、そういうことは校内放送でいわない方がいいと
思う。でも、こないだそういう類のことを久瀬にいったら奴が無闇にキレて、
「僕たち生徒会は生まれ変わって情報公開するようになったのになにが不満だ。だったら
君、僕の恥ずかしいところまで見たいのか! 僕も暇な身ではないので失礼する。馬ひけ
ぇー!」
 と、一方的にまくし立てて自転車に乗ってえらい速さで去っていったので、以後、ほっ
ておくことにした。
「むむ、極秘任務ですっ!」
 栞がやたらと力み返ってスピーカーを見据える。
「栞、もしかしてこないだいってた……」
「そのようですね、すいません、私は生徒会室に行ってくるので」
「ああ、しょうがないな」
「頑張ってね、栞ちゃん」
「はいっ、それでは失礼します」
 栞は急ぎ教室を出ていった。
 さて、香里も栞も行ってしまった。名雪は……。
「じゃあ、わたしは部活に行ってくるね」
 うん、今日は部活の日か。
 と、なると……。
「よし、相沢、帰るか」
「ああ」
 今日は北川と二人だな。

「んでさ、北川」
「んむ?」
 そのまま帰るのもなんなので、商店街に立ち寄った俺たちは何気無くゲーセンに入って
いた。名雪たちと来ると、勢いみんなで楽しめる音ゲーとかに行ってしまい地方都市のゲ
ーセンならではのちょっと古めのアクションゲームとかはやりにくいので、丁度いいとば
かりに北川と二人プレイしていた。
「このままでいいのか?」
 ゲームも終盤に差し掛かった頃に俺は尋ねた。目はあくまで画面を見ながら。
「いや、まずいな、次にでっかい食い物出てきたらくれ」
「……じゃなくてだな」
 俺は香里のことについていったつもりなのに、ゲームに夢中になっている北川には通じ
なかったようだ。
「香里だよ」
「美坂!」
 香里の名前を出すと著しい反応を見せて左右を見回す。
「いや、いないってば」
「なんだ、美坂がいたのかと思った」
 あまりにもしょげ返るので、こっちが悪いことしたような気になってしまう。
「美坂がどうかしたのか? あ、でかい肉まん出たから貰うぞ」
「だから、香里のこと怒らしちゃったろ? ああ、小さい肉は俺が貰うぞ」
 んー、と北川はボタンを叩きながら唸り出した。
「俺も、できれば美坂のいうこと聞きたいんだ。美坂、喜んでくれると思うし」
「そんなに、女装、嫌なのか?」
「嫌だな」
「よければ……理由聞かせてくれないか? 中学の頃は、嫌でも何度かやったんだろ?」
「ん、あの頃は、頼まれたら嫌といえない性格だったからな」
 それは、今でもその気はある。相手に必死に頼まれると引き受けてしまう。ただ、嫌な
ことははっきりと嫌というし、そうなるとどうやったって動かない。
「あいつら……っていうか、俺の両親さ」
 北川は自分の両親のことをできるだけそう呼ばない。だから人と話している時に、こう
やって相手がわかるように言い直したりする。
「女の子が欲しかったんだよ」
「ああ」
「で、俺は……女顔……だろ」
 いや、うん、間違い無く女顔だ。
「こんな顔してるんだから本当に女の子だったらよかったのに、って何度もいわれてな、
なんか、女みたいだっていわれるの嫌いなんだよ。だから、もちろん女装だって嫌だ」
 そういうことなら、嫌なものだろうな。でも……。
「女装が嫌な理由はわかった。……で、その嫌な女装でも頼まれると断れない性格が変わ
るきっかけが、なんかあったのか?」
「ああ、一年の時の文化祭でな、喫茶店やったんだけど、男子で何人か女装してウエイト
レスやれ、ってことになってな」
 文化祭になると女装するという風習でもあるのか、あの学校。……まあ、お祭りのおふ
ざけとしては、よくあるといえばよくあることだけど。
「みんな、俺がいい、っていうんだよ」
 いうかもしれん。すまんけど、俺もその場にいたらいったかもしれん。
「でも、俺は嫌だったからさ、中学の頃、一度引き受けたらそのまんまズルズルと何度も
ことあるごとにやらされたから、あんまりやりたくない、っていったんだ」
 ズルズルと何度もねえ……いや、うん、たぶん、メチャクチャ似合ってたんだろうなあ、
こいつ。
「でも、みんなに絶対似合うから、頼むから、っていわれて、引き受けそうになったんだ」
「ふむ」
「そん時、学級委員で遠くから見てた美坂が来たんだ」
 声の調子が変わったので、ちらっと横を見ると、北川は陶然とした顔をしていた。
「美坂は、入学試験でトップだったっていう話でさ、美人だし運動もできるしで、早くも
みんなに一目置かれてたな。でも、男どもはあいつを美人だ、可愛い、っていいながら、
あんまり近付いてなかった」
 香里は……話してみるとけっこう気さくで、時にバイオレンスだが根はいい奴なんだけ
ど、確かに見た目とか成績とかのステータスが高過ぎて、男が気軽に話しかけるには少し
抵抗あるかもな。俺も、名雪との繋がりであいつから積極的に話しかけてこなければ、こ
こまで親しくなっていなかったかもしれない。
「俺は美坂のことは美人だとは思ってたけど、別にどうとも思ってなかった」
「そうか」
 以前、斉藤にそのことは聞いたことがある。
「うん、颯爽、としかいいようがなかったな、さーっとやってきてさ、俺の顔をじーっと
見て、俺、あの時美坂がいった言葉は全部覚えてる」
 北川は、そういって、一拍置いてからいった。
「あなた、嫌なら嫌ってはっきりいいなさいよ」
 状況が俺の脳裏に思い浮かぶ。たぶん、香里は腕組みかなんかして、困ったような笑み
を浮かべた北川にいったのだろう。
「嫌なんでしょう? はっきりいわないとみんなだってわかんないわよ。男だったらはっ
きりいいなさい。あたしは女だけどはっきりいうわよ」
 困った笑顔が、さらに困ってる北川に、はっきりといったのだろう。
「男……」
 北川の声の調子が、また変わった。それまではまるでそこに文字があるかのように、そ
れを読んでいるかのような声だったが、はっきりとした、北川自身の声に変わった。
「男になりたかったんだ」
 北川が、いった。
「昔、色々とあったからさ、俺は男なんだ、って示したかった。でも、何が男なのか、わ
からなくってさ」
 男とはなんだ? 問われても、すぐに答えられそうに無い問いだ。ついてるもんがつい
てりゃ男だと、開き直るしかない。
「一度、フルチンで学校に行こうとしたら、死ぬほど殴られた」
 お前の親にも色々と問題あるみたいだが、それは正しいと思う。
「そこではっきりするのは男だよな、って思ったんだ。だから、はっきりといった。美坂
が、北川君、嫌みたいだから止めましょ、っていって、それでそれは終わった。みんなが
離れていく時、美坂がすっと近くに来ていったんだ。そうやってちゃんとはっきりいう男
の子の方があたしは好きよ、って、くすくす笑ってた。とても綺麗な、いや、それよりも
その顔を見てたら暖かかった」
 んー、と短く唸って北川は続けた。
「たぶん、いや、絶対に、あの時に俺は美坂が好きになったんだ」
「……北川」
「相沢」
「ああ」
「そこにいると徐晃にやられるぞ」
「……のおおおおおっ!」
 削られた削られた。ライフの四分の三削られた!
「北川! 食い止めろ、おれは隅っちょで弓兵倒してるから!」
「おうっ」
 しばし言葉もなく集中する。
 やがて、なんとか凌ぎ切って大きく息をつく俺に、いや、誰にいうともなく、北川がい
った。
「美坂は、覚えてないんだろうけどなあ」

 翌朝、俺と名雪が教室に入ると、ちょうど北川と香里がなにやら話していた。
「北川君、わかったわ、こっちも少し譲歩するわ」
「む、そうか、実は俺も一晩考えて条件次第では女装しようかと思うんだ」
「え、ホント?」
 香里がぱっと明るい表情になる。北川……相当考えたんだろうな、とうとう決断したか。
お互いの譲歩の余地が折り合えば、このまますんなりと行くかもしれない。その時は……
どうしたものかな、北川に昨日聞いた話、やっぱり香里には黙っておくべきかな。北川は
自分で考えに考えて、好きな女のために嫌なことを敢えてすることを決意したんだ。
「あたしの方の条件はね、まずスカートは無し、それと化粧も凄く薄くするから、ちょっ
と見たら男の子にも見えるようにするから、ね」
 ふむ、そう来たか。見ようによっては、というふうに突いてきたか。
「北川君の条件は?」
「フルチン」
 一寸の余地も無かった。
「駄目じゃないの、そんなの」
 女装がどうとか以前に駄目でしょうな。
「あー、もういいわよ」
 苛立たしげに香里が席に座って横を向いて一時間目の授業の準備を始める。
「まったく、なんでそんなに嫌がるのかしら」
 ぽつりと呟いた声が聞こえてきた。いやな、半分ぐらいはお前のせいなんだけどな。

 翌日、授業をこなしていく。香里は、その日はやけにおとなしくて、北川が馬鹿なこと
いっても三回に二回は見過ごしていた。いつもは一回馬鹿やったら一発といわず二発も三
発もシバくのに。
 最初は、北川がいうこと聞かないのに腹を立てて無視してるのかと思っていたんだが、
なんだかチラチラと頻繁に北川のことを見ているのに、俺はやがて気付いた。
 北川がその視線に気付いて顔を向けると、すぐに香里はそっぽを向く。
 昼休み、食事を終えて、くつろいでいる間にもそういうことが度々あったので少し離れ
たところから見ていた俺は呟いた。
「何やってんだろうな」
「祐一……」
 俺が独り言を呟くと、名雪が声をかけてきた。
「香里と北川君……っていうか、主に香里、今日はなんだか変だよね?」
「変だ、っていうか、北川はいつもと変わらん」
 やがて五時間目の授業が始まり、六時間目も睡魔と死闘しつつ(名雪は負けて寝ていた)
放課後になった。
「文化祭でやる劇の演目を決めますから、帰らないでください」
 六時間目が終わると、香里がすぐに席を立ち、そういいながら教壇へと向かっていった。
ちなみに石橋さんはまだ来てないが、来てもニッカンを読んでいるだけなので香里はさっ
さと始めてしまった。
 うちのクラスの連中はみんな文化祭には乗り気で楽しみにしてはいるものの、やはり帰
るのは早ければ早いほどよい。香里の速やかな議事開始を咎める奴はいなかった。
 多数決の結果、有名な漫画の「リュクサンブールの薔薇」に決定した。っていうか、出
来レースなんだけどな、こんなもん。その証拠に、女子が既にそれらしい衣装用意して来
てるしよー。
 まあいいか、早めに香里に話通してなんか楽な役を割り振ってもらおう。
 つかつかと、香里がやってきた。真っ直ぐに北川を見ている。北川の前で止まった。
「ん?」
 北川が、なんか用か? というように微笑むと、目を逸らした。
「北川君、女装したくないわけね」
 北川を見ないままいった。
「うん、ごめんな」
「そんっっっっなにしたくないわけね」
「ああ」
「そう……」
「なあ、美坂」
「なあに?」
「好きな女が喜ぶならしてやりたいって思うんだよ、でも……」
「北川君」
 ようやく、香里がまた北川を見た。
「あたしは、どうしても嫌だったらはっきり嫌っていう男の子の方が好きよ」
「美坂」
「あたしは、よ、他の子はどうだか知らないわ」
「うん」
 また、横を向いた。
「北川君」
「ん?」
「女装しないなら、木の役にするわよ」
「木?」
「木よ、突っ立ってるだけの木」
「うん、俺はそれでいいよ」
「じゃあ、北川君は木の役ね」
「おうっ」
「……北川君」
「ん?」
「……あたし、ほら、あれよ」
「んむ?」
「今日は、用事があるからもう帰るわ、夕食ちゃんと食べるのよ」
 香里はそういうと500円硬貨を北川の机の上に置いて、自分の机の脇に掛かっていた
鞄を手に取って、教室を出て行った。
「あ、おい、美坂」
 北川がそれを追おうとするのを俺は制した。
「待て、俺が行くから、北川は待ってろ」
「でも、なんか美坂、様子がおかしかったぞ」
「いいから、俺に任せてくれ、な」
「……ああ」
 俺は教室を出た。背後から足音、名雪が着いて来ていた。
 左右を見る。香里が階段を降りていくのが見えた。
「香里!」
 駆け足になって追いかける。もしかしたら逃げられるかと危惧したが、香里は速度を早
めず、階段の踊り場のところで俺たちは追いつくことができた。
「おい、いきなりどうしたんだよ」
 香里は、その場で立ち止まって、振り向いた。笑顔だった。困った笑顔。
「昨日の夜に、北川君は、あたしがこれだけ頼んでるのに、なんであんなに頑固なのかし
ら、って考えてたの」
「ああ」
「そうしたら、思い出したの」
 俺は、この話の流れで香里の口から「思い出した」という言葉が出てきた時にその内容
を悟ったが、名雪は、一年前のその場にいたのだろうが、すぐにはそれと結びつかないよ
うで、香里に尋ねた。
「え、何を思い出したの?」
「あたし、去年、北川君にいったことがあるの、嫌なら嫌ってはっきりいいなさいよ、っ
て」
「あ……」
 名雪が思い当たったらしく声を上げる。
「男だったらはっきりいいなさい。ともいったわね、そういう男の子の方があたしは好き
よ、ともいったと思う」
「そういえば、去年の文化祭の時に、そんなことがあったね」
「どーせ、北川君は忘れてるんでしょうけど」
「いや……」
 俺は思わずいっていた。いってから、いっていいものかどうか迷ったが、香里の声に自
信が無く、明らかに北川が忘れていてくれて欲しいという願望がこもっているのを悟って
しまった時、思わずいってしまっていた。
 口止めはされていないが、果していっていいものかどうか、最後の最後にその迷いがあ
ったが、どうしてもいわずにいれなかった。
「北川の奴、覚えてるよ」
「え……」
「あまりにも嫌がってるから、妙に思って聞いたんだ。中学の頃は何度かやったんだろ?
 なんでそんなに嫌なんだ、って」
「ええ」
「あいつ、中学の頃はみんなに頼まれて仕方なくやってたらしいんだ。その頃のあいつは
頼まれたらどんな嫌なことでも嫌といえなかったそうだ」
 今の最後の一線の前では凄まじい抵抗を見せる北川からは想像しにくいが。
「だから一年の文化祭の時にそういう話になって頼まれた時も、そのままなら引き受けて
ただろうって、でも……」
「そこに、あたしが出て来たってわけね」
「ああ……」
「そして、本当に嫌なことは嫌というようになったのね」
「ああ、そして……」
 俺はまた言葉を継ぐのを迷った。でも、香里が無言でその先を促していた。
「北川は、その時にお前を……美坂香里を好きになったんだ」
「え?」
「そういうことだ」
「え?」
 それは、完全に想像の外だったらしく、香里はもう一度いった。
「え? なによそれ、なにそれ、そんなの」
「おい、香里」
「香里」
 俺と名雪の声は、耳に入っていないようだった。
「なにそれ、なによそれ、そんなのあたし……あたし、最低じゃない」
「香里、待て」
「香里が最低なら、わたしだってそうだよ」
 名雪が叫ぶようにいった。
「わたしだって、あの時そこにいて、北川君が嫌がってたの見てたのに、すっかり忘れて
香里に北川君の説得頼んだりして」
「あー、お前もそんな気にすんな」
 北川は、絶対にお前らがそんなふうになるの望んでないんだから。
「おーい、よかった。まだいたのか」
 階段の上から声がした。北川の声だ。
 ハッとして上を見る香里と名雪。
「へ?」
 二人とも、なんか面白い顔になっていた。
「うーす」
 北川が足首まで隠すスカートを両手で少し持ち上げて降りてくる。
「あ、あ、あんた、何してんのよ」
 香里が呆然とした顔でいった。
「いや、なんか、美坂がちょっと、凹んでたみたいだからさ」
「な、なんでそれでそういうことになるのよ」
「あれ? 美坂、俺の女装見たかったんじゃないのか?」
「……ば……」
「ん?」
「馬鹿っ!」
 香里の怒声があたりに反響する。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿っ! なんで、そんなことのために、しちゃうのよ!」
「え、だって、美坂が」
「馬鹿っ、しないでいいのよ、嫌なんでしょ! しないって決めたんでしょっ! なんで
……なんであたしのためなんかにしちゃうのよっ!」
「美坂」
「そんなの、あたしは嫌いよ」
「待て、美坂」
「何よっ、馬鹿っ!」
「確かに俺は、女装するの嫌だ。でも、昨日もいったように、美坂のためなら条件次第で
はしてもいい、って決めたんだ。これは、俺が決めたことなんだ」
 北川は淀み無くいった。
「ほら」
 スカートを摘んでまくり上げる。
「履いてないし」
 履いてなかった。
「んきゃああああああ!」
 すんごいオモシロげな悲鳴を上げて香里さんのラッシュが始まった。
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁ」
 怒りとその他で顔を真っ赤にした香里さんの腕の動きが止まったのは、それから十秒後
のことだった。
 貴婦人スタイルの北川は壁に貼り付いている。壁にちょっとヒビが入ってた。
「み、見せないでいいのよっ! っていうか、北川君は木の役なんだからいいのっ!」
「おうっ」
「と、とりあえず教室に戻って着替えろよ」
「そうだね、それがいいよー」
「そうね、行くわよ」
「うん」
 降りた階段を上って教室に戻ろうとすると、
「あ? 北川、何やってんだよ」
 別のクラスから顔を出した男子に見咎められた。色んな音が聞こえてくるので何事かと
外を見ていたのに見つかったらしい。
「えー、北川君だー、何してんのー」
 その声につられてゾロゾロと顔を出す。
「待て、お前ら、俺は男だ。その証拠に」
「見せないでいいの!」
 スカートを摘んだ瞬間に香里の拳が北川の頭部を叩く。
「いいから、さっさと戻るわよ」
 崩れ落ちた北川を抱えて引き摺るように、香里が教室に走っていく。
「俺たちも行くぞ」
「うん」
 その後を追う俺と名雪。
「あ、そういえば」
「なんだ?」
「北川君の方が祐一よりおっきいんだね」
「……」
「祐一?」
「いや、知らん、もう俺、お前と口きかん」
「え、待ってよ、祐一」
「知らん、お前なんか知らーん、誰だ、お前はー」
 いうてええことと悪いことがありまんがな。
「うにゅー、今のはわたしが悪かったよ〜」
 悪い。
「イチゴサンデー奢るから許してよー」
 いらん。
「お前よりあゆとか真琴の方が可愛いよなー」
「にゅっ! そんなこといわないでよー」
「いや、いうぞ、っていうかお前誰だ」
「祐一〜」
「相沢君」
 教室に入ると香里が呆れた顔で待っていた。
「気持ちはわかるけど、許して上げなさい。イチゴサンデーで」
「ちっ、しょうがねえな」
「うー、ごめんなさい」
 くそ、俺だって一応平均よりちょと大きいんだぞ。
「ふう……あ」
 香里が一息ついて、真っ赤になった。
「父さんのしか見たことなかったのに……」
 めっさ凹んではるがな。
「どうもー」
 その時、ドアが開いて、元気な声がやってきた。
「こんにちはー」
 栞だ。にこにこしている。
「お姉ちゃんが北川さんのパンツ脱がして拉致したという話は本当なんですか?」
「本当なわけないでしょ!」
 香里が物凄い速さで妹をキャッチして拳をこめかみに当ててグリグリする。
「えーうー、確かにちょっと進展が早過ぎるとは思ってたんですよぅ」
 こめかみを擦りながら栞が涙目になっている。
「この声は栞ちゃんだな、よーう」
 教室の隅にいつの間にやら作られた更衣室から北川が出て来た。更衣室といってもカー
テンの布地で仕切ってるだけだが。
 北川はびらびらしたドレスを脱いでいつもの制服になっていたのだが、
「ズボン履いてきなさいよ!」
 下半身がパンツ一丁なので香里に蹴り戻された。
「あ、そうだ。聞いてください」
 栞が手を合わせつついった。
「私、文化祭で事件対策班の班長やってくれっていわれたんですよ」
「な、なんじゃ、そりゃ」
「けっこう昔からある特別組織よ、文化祭の時に、主に外来の人間とかとのトラブルが起
こったりしたら解決するの」
 栞ではなく、香里が答えてくれた。
「そんなのがあったのか」
「できるだけ教師の力を借りない、っていうのがうちの生徒会の昔からの主義だから」
「その班も、生徒会の一部なのか?」
「そうね、生徒会長直属だったと思う。でも、去年は、生徒会の副会長が勤めてたし、前
からそうらしいんだけど、なんで栞なのかしら?」
 栞は、生徒会からしたら完全に部外者である。
「久瀬さんは、大抜擢だ。って自画自賛してました。それと、生徒会に入ることも考えて
おいてくれ、って」
「久瀬君が栞を買ってくれてるのは嬉しいけど、事件対策班って、大丈夫なの? 危ない
こととかないの?」
 香里が心配そうに問いかける。
「やっぱり、ちょっと荒事もこなすのか?」
「去年見たんだけど、喧嘩してるとこに割って入って止めたりしてたわ」
 それだと、その時に殴られることもあるだろうな。
「でも、いくらなんでも栞にそんなことさせないだろう」
「そうなんだけど、でも、だったらなんで栞を……」
「久瀬さんは指揮をとるだけでいい、っていってました。……で、これから返事に行くん
ですけど……お姉ちゃん、私、やっぱりやってみたいんです」
「栞……」
「久瀬さんも、それに他の生徒会の方たちも、私にやって欲しいといってくれてるんです。
私、それに応えたいんです」
「そう……危ないことはしちゃ駄目よ。そうだ。北川君を護衛につけるわ、ちょっと北川
君、着替え終わった?」
 栞が前向きになっていると大概のことは許す香里がそれでも不安なのか、北川を呼ぶ。
「おう」
 制服姿に戻った北川が更衣室から出てくる。
「北川君、できるだけ栞をフォローしてあげて、あたしもするから」
「わかった。話聞いてたけど、栞ちゃん、凄いじゃないか、生徒会の人間でもないのに班
長になるなんて」
「えへへ〜」
 それでは、これから久瀬に承諾の返事をするために生徒会室に行こうということになっ
た。もちろん保護者っていうか過保護者の香里と、護衛の北川がついていくので、俺と名
雪も一緒に行くことにした。今日は名雪の部活が無い、部活が無い日はみんなで百花屋へ
行くと暗黙のうちに決まっているのである。
「こんにちは」
 栞がドアを開けると生徒会役員が出迎え、生徒会長室に案内してくれた。以前もいった
ように権力を思いきり濫用して作られた生徒会長室である。(かのんイズム4参照)
「やあ、よく来てくれた」
 久瀬が、マホガニーの馬鹿でかい机に肘を乗せつついった。色々と模様替えをしたよう
で備品が増えている。生活用品が増えている。とうとう寝袋を止めて布団を持ち込みやが
ったな、ていうか、いくら今日はいい天気だからって窓んとこに干すなよ。
 久瀬が机を構えた背後の壁に「世界制覇」と書かれた幕がかかっている。その下に世界
地図が貼ってあり、白い世界の中で日本列島だけが赤く塗られている。
「なんだ、その変な地図は」
 明らかにそこは後から塗られたものだ。元々は真っ白い地図だったのだろう。
「ああ、制圧したところから色を塗っていくんだ。励みになるようにな。今はまだ少ない
が」
 こいつの中では日本は既に支配下らしい。
「それで、今日はなにかな?」
「この間のお話の返事をしに来ました」
「ほう」
「事件対策班の班長というお話、お受けします」
「うむ、そうか」
「はい、よろしくお願いします」
「よし、君が協力してくれるのならば心強い、頼むぞ」
 久瀬は嬉しそうに頷いて、隣室から生徒会の人間を呼んだ。
「美坂栞さんが事件対策班の班長を引き受けてくれることになった」
「よろしくお願いします」
 栞が頭を下げると生徒会の人間たちが口々によろしく、と返す。
「ついては、こっちから護衛を一人つけたいんだけど」
 香里がそういうと久瀬は少し眉をひそめた。
「心配なのはわかるが、彼女に荒っぽいことはさせないし、我々できちんと守る」
「気を悪くしたのなら謝るわ。でも、北川君を護衛につけさせて」
「……北川君か」
「ええ」
「ふむ」
 北川の名を聞くと久瀬は考え込んだ。
「よし、姉として妹を心配する気持ちは痛いほどわかる。特別に認めようじゃないか、つ
いては北川君は栞さんと同じく一時生徒会預かりということになるが」
「ん、俺はいいぜ」
「ありがとう、久瀬君、北川君」
 そういうことで栞は文化祭突発事件対策班(それが正式名称らしい)の班長に、北川は
その班長特別補佐になった。
「くっくっく、思わぬところで北川君を取り込むことができたぞ」
 相変わらず陰性の笑い声を漏らしながら久瀬が湯呑を回している。
「駒だ。もっと駒が欲しい」
 とりあえずこいつは放っておこう。
「栞をお願いします。お願いします」
 香里は生徒会の人間に頭を下げて回っている。どっからどう見てもオカン体質である。
「いよーし、美坂に頼まれた。木と栞ちゃんの護衛、やるぞー」
 北川は「やるぞー、やるぞー」と呟きながら拳を振っている。
「それじゃあ、百花屋に行きましょうか」
 栞が提案すると、それまで黙っていた名雪が真っ先に賛成する。
「うん、行こう、いちご、いちご」
「そういや、今日はお前がイチゴサンデー奢ってくれるんだよな」
「え」
「さっきそういっただろうが」
「うにゅにゅにゅ」
 もりやまつるの漫画に出てくるシンナー中毒みたいな声を出しながら名雪が財布を取り
出す。
「うー、今月苦しいよー」
「俺だって苦しい時にもお前に奢ってやったことあるぞー」
「わかったよ、苦しいけど」
「よし、じゃあ、行くか」
 名雪に奢って貰う、というのもなかなかいい気分だな。
「名雪さんが奢るなんて珍しいですね、逆はありますけど。どうかしたんですか?」
「ああ、それはね」
 俺が止める間も無く、名雪は栞に話してしまう。
「名雪さん、それはいけません」
 栞が俺が思っていた以上に怒り出した。
「そんな、身体的なことで貶めるなんて」
「うー、そうだね」
「イチゴサンデーで許してくれるなんて、祐一さんは凄い心が広いですよ。そんな優しい
人なんですから、そんなことぐらいなんですかっ!」
「栞ちゃんのいう通りだよ、わたし、それなのにイチゴサンデー一杯ぐらいでゴネたりし
て、嫌な子だよ」
「そうですよ、そんな多少あれがあれなぐらいがなんですか、祐一さんはこんなに優しい
んだから、罰が当たりますよ」
「うん、祐一、ごめんね。本当に、ごめんなさい」
「うるせー、行くぞ、おらあ!」
 俺は声を叩きつけるように叫ぶとドアを開けた。
 別に俺のはあれじゃねえし、変じゃねえ。普通よりでかい奴より小さいぐらいでなんで
そがなこといわれにゃならんとですか。
「相沢君、秘密を守れる医者を知っているが」
 馬鹿会長、黙っとれ。

 百花屋にてイチゴサンデーを注文する。
「お金足りるかな」
 財布を覗き込みながら名雪がブツブツいっている。
「うん、足りる。わたしもイチゴサンデー」
「あたしは、エスプレッソ、ホットで」
「俺はコーヒーの安いやつ。栞ちゃん、スペシャルバニラ頼んだら? 奢るよ」
「え、ホントですか」
「今日はお祝いだ。いいだろ、美坂」
 北川が、財政を握っている香里にお伺いを立てる。
「そういうことならいいわよ。それに、それならあたしも半分出すわ」
「わーい」
 やっぱりメチャクチャ甘いなあ、この二人。
「そういえば、栞のクラスは何をするの?」
「うちはお汁粉屋をやりますよ、生徒会の仕事も大切ですけど、そっちもやらないと、み
んなで割烹着を着るんですよー」
「へえ、じゃあ、俺らも顔出すよ」
「是非来て下さいね」
 楽しい文化祭になりそうだな。あゆとか秋子さんとか真琴も誘っておこうかな。真琴は
天野から誘いが既に行ってるかもしれんが。
「さて、じゃあそろそろ行こうぜ、名雪、今日はごっつあん」
「うん……でも、なんか祐一に奢って上げるのもたまにはいいね〜」
 その調子でどんどん目覚めてくれ。俺も今日はお前がなんでここのイチゴサンデーに執
着するのかがわかった。美味いわ、ここの。
「ん?」
 店を出ると、よたよたと左右に揺れる羽リュック。
「おい、あゆ」
「あ、その声は祐一君」
 でかい買物袋を抱えたあゆが背中を向けたままいった。
「ボク、振り向くのが大変だから前に回って欲しいな」
「おう」
 いわれた通りに、俺は前に回った。でも、回っても買物袋のせいで顔がよく見えない。
「どうしたんだ、いったい」
「缶詰が大安売りしてたから、買い過ぎちゃったんだよ」
 なるほど袋からカニ缶とかサバ缶とかが見える。
「保存がきくものだから、安いとついつい大量に買っちゃって」
「でも、よたよたしてんじゃないか、持って帰れるのか」
「うぐぅ、持って帰ることを忘れてたくさん買っちゃうんだよ」
「しょーがねえなあ」
 しかし、大丈夫か。今にも転びそうだったぞ。
「よし、俺が持ってやるよ」
「え、いいよ」
 俺はあゆがいうのも構わずに買物袋を半ば奪い取るように手にした。
「重くない? 重いでしょ。ボクが持つよ」
「重い。よくこんなのここまで持ってきたな、これ、100メートルぐらい向こうにある
スーパーだろ」
「うぐぅ、休み休みここまで来たんだよ。ね、ボクが持つから」
 そういってあゆは買物袋を取ろうとするのだが、俺は放さない。
「こんなに重いってわかったらお前に持たせられるか、俺が持ってくよ」
「ごめんね、ありがとう」
「ありがとうはいいけど、ごめんねは止めろ」
 こいつ、一人暮し始めてからというものなんでも自分でやろうとして、いや、それ自体
はいいことなんだけど、俺にも滅多に頼らない。もう少し頼ってくれよ。……名雪に遠慮
してんのかな、もしかして。
「そうだ。あゆちゃん、今度うちの学校の文化祭があるんだよ」
 名雪が俺がいおうとしたことを言い出した。
「おう、あゆも暇があったら顔出せよ、俺らは劇やるんだ」
 それに乗って、俺はあゆを誘った。
「お母さんも来ると思うから、一緒に来たら?」
「文化祭って日曜日? だったら行けると思うよ」
「うちのお汁粉屋にも来てくださいね」
 話しながら歩いていると、美坂家との分岐点に至った。
「それじゃあ、また明日ね」
「北川さん、お母さんが今度鍋をやるから来て下さいといってました」
「おう、そん時はお邪魔するよ」
 美坂姉妹と別れてまた歩き出す。
「あっ」
 あゆが、なんかに気付いたようだ。
「名雪さんの家、こっちじゃないよ。祐一くん、遠回りしちゃってるよ」
 ああ、今気付いたのか。
「いいよ、持ってくよ」
「俺が持ってこうか?」
「いや、いい」
 北川がいうのに、俺は首を横に振った。隣人ということもあって、普段からあゆは北川
に色々世話になってるみたいだからな、北川もあゆに世話になっているらしいが。
 これ、嫉妬なのかな、そうまではいかなくても、男の対抗意識というやつか。
「まあ、たまにはな」
 たまの機会だからな、あゆに何かしてやるの。

 あゆの部屋まで荷物を届けてから家に帰ると、台所で真琴がはしゃいでいた。夕食の支
度をしている秋子さんにまとわりつくようにして、はしゃぎまくっている。
「文化祭って楽しいの? 楽しいの?」
「ええ、楽しいわよ」
「あうー、楽しみー」
「おい、真琴、秋子さんの邪魔するな」
 俺は見かねて注意するが、全然聞いていない。
「文化祭よ」
 しかし、とにかく矛先が俺に変わったらしく、秋子さんから離れてリビングの方に来る
のでよしとするか。
「文化祭なのよっ!」
「そんなに叫ばんでも、聞こえとる」
「文化祭へ行くのよっ、美汐に誘われたの」
 ああ、やっぱりもう天野から話が行っていたか。
「秋子さん、あゆも連れてってくれませんか?」
「ええ、いいですよ」
 にっこりと笑って秋子さんはいった。
「あゆちゃんに会ったんですか?」
「ええ、帰りに」
「あゆちゃん……大丈夫ですか? あの子、無理してないかと心配で」
 秋子さんにも色々と思い当たるところはあるらしい。
「それは、俺も心配してますけど、北川にも何かあったら知らせてくれって頼んでますし」
「そうですか、私も定期報告だけでなく、遊びに来ていい、っていっているんですけど」
 あゆは保護観察中なので保護司の秋子さんのところに定期的にやってくるのだ。
「仕事先では、だいぶ馴れてきたということで安心しているんですけど」
 あゆのバイトしているところは秋子さんの紹介なので、雇主と秋子さんは知り合いであ
る。
「まあ、あんまり俺たちが心配してもしょうがないですよ。ていうか、あいつ、最近じゃ
俺よかよっぽどしっかりしてますし」
「うふふ」
 俺が苦笑していうと、釣られて秋子さんも笑顔になった。秋子さんも秋子さんで、名雪
とか真琴とかあゆのことになると心配性なところがある。
 最強だとかジャムだとか鳥越祭でVIP待遇だったとかとかく色々な風評のある人だが、
俺が知るこの人は母性がありすぎるぐらいにある優しい女性だ。

 一週間ぐらいで香里が中心となって台本を書き上げ、本格的な練習が始まった。
「はい、それじゃ、ちょっと合わせるわよ」
「うん」
 教室の隅っこで名雪が香里と台詞合わせをしている。名雪はけっこう重要な役どころを
貰って台詞を覚えるのに忙しい、今朝など起こしに行ったら台本を手に寝ていた。
「陛下、陛下、王妃さまをお連れいたしました」
 王の側近の近衛兵である名雪がいった。
「おお、無事であったか」
 対する香里であるが、これは別に王の役ではない、結局、クラスの連中が香里を放って
おかず監督と同時に役もこなすことになったが、それは別の役だ。今は名雪の台詞合わせ
の相手役をしているだけで、その台詞も抑揚を押さえて、故意に棒読みに近いものにして
いる。
「さあ、早く移動を、忠実なるスイス人部隊がお待ちしておりますぞ」
「うむ、しかし、それほどに叛乱は激しいのか」
「陛下、これは叛乱ではありません、革命です」
 香里が微かに頷きつつ、それでも手直しを入れる。
「そこのところ、ゆっくりと首を横に振って、うん、そう、ちょっと大袈裟なぐらいでい
いわ。で、少し間を置いて、革命です。って具合に」
 ちょいちょいと香里が手招きをするので行ってみる。
「じゃ、王妃の侍女との絡みもやっておこうかしら」
 俺は王妃の侍女役である。できるだけ楽な役をと香里にいったところ台詞のあまり無い
この役を紹介された。
「祐一、よろしくね」
「おう」
「えーっと、それじゃあここのとこね」
「ああ……」
 俺は台本をパラパラめくる。
「王妃さまはいらっしゃいますか、すぐに陛下のところまで来ていただきたいのです」
「まあ、いったい、どうされたのですか」
「市中に不穏な空気があります。念のためです」
「わかりました。王妃さまに伝えて参ります」
 と、まあ、俺は名雪の近衛兵の言葉を受けてそれに応じる感じでの台詞ばかりなので、
名雪がこういったらこう返す、というふうに覚えているのでけっこう楽である。
 しかし、女言葉喋るのには最初は抵抗あったがな。
「いよう」
「あん?」
 振り返ると王妃さまが立っていた。羽根扇で顔の下半分を隠している。
 じっ、と目を見る。
「斉藤か」
「斉藤だ」
「化けたなあ」
 王妃役は斉藤だ、というのを既に知っていたからわかったが、いきなり出て来られたら
わからんだろうな、これは。
「俺も鏡見て驚いた。しかし、こんだけ姿形が変わっちまったらなんかどーでもよくなっ
てきたぜ」
「そういうもんか」
「だって、こんなの、俺じゃねえもん、俺じゃねえんだからもうどーでもいいじゃん」
 斉藤は笑って名雪と俺を見た。
「形から入るのも重要ですわよ。二人とも衣装を替えてはいかが?」
「ん……遅かれ早かれだ。行くか、名雪」
「うん」
「それでは私は宣伝がてらに練り歩いて来るとしましょう。これ、たれぞある。スカート
を持ってくりゃれ」
 リュクサンブール宮殿というより大奥っぽい喋りをしながら斉藤は去っていった。本当
に練り歩く気だな、あいつ。
「おーい、近衛兵と王妃の侍女の衣装、用意できてるか?」
 衣装係の女子に声をかける。
「あー、相沢君と水瀬さんね」
「ああ」
「よろしくー」
「みんなー、とうとう相沢君が覚悟決めたわよ、侍女の衣装用意して」
 決めたわい。好きにしろ。
 で、思いきり好きにされて侍女にされた。化粧はどうするかと聞かれたので「濃くしろ」
といった。斉藤みたいに、とことんやった方が吹っ切れるだろうと思ったのだ。
「ぎゃはははは、相沢だ。相沢!」
 相沢だよ、おめえら、笑い過ぎだ。
「早くやっといた方がいいぞ」
 そういってやる。すっかり出来あがった斉藤と、俺を見て踏ん切りがついたのか、何人
かの男が衣装合わせを願い出た。
「祐一、可愛いー」
「お前、カッコイイな」
 髪を後ろで束ねて、軍服を着て外套を羽織った名雪は、かなりサマになっていた。厚化
粧の侍女としては隣に立つのを遠慮したいぐらいだ。
「やっぱり、女の男装の方がサマになるよなー」
「祐一、可愛いよー」
 お前、美的センスおかしい。
「それじゃ、あたしもやっちゃおうかしら」
 香里がそういって衣装係の方に行った。
 無論、役者や衣装係だけでなく大道具なども鋭意作業中である。そして、教室の片隅に
北川がいた。
「……」
 無言で、立っている。
 つつっ、と足が動く。すり足で滑った足が止まると同時に手が動く。手刀。返す。返し
て、貫手。
 茶色い服を着て、高木ブー以外には需要が無いような緑色の髪の毛のカツラを被った北
川が何をしているかというと、空手の型をやっているのである。
 以前「美坂が五重塔に囚われた時のために武道の一つや二つはやっておかないと」と、
異常に限定された状況を想定して、空手とか拳法の本を読んでいたことがある。
 いや、お前、木の役なんだけどな。
「よう」
「ん、おお、相沢か」
「俺もとうとうこんなことになっちまったよ」
「悪いな、お前は女装してるのに、俺はこんないい役で」
 いい役かなあ、それ。
「俺はやるぜ」
 足を高々と蹴上げた。
「いや、木の役は、あんま動かなくていいんじゃないかなあ」
「む、そうかな」
「うむ」
「うーん、そうかあ、じゃあ、木の役はどうしたらいいんだろうなあ」
 唸りながら、ちょっと水飲んでくる、といって北川は教室を出ていった。いらんことい
ってしまったような気がしないでもない。
「おおい、あんま深く考えないでもいいと思うぞー」
 背中に向かっていったのだが、北川には聞こえていないようだった。
「お邪魔しまーす」
 北川が出て行った方とは別の扉から、栞が来た。割烹着を着て、鍋を持っている。その
後ろからゾロゾロ同じような格好した子たちが入ってくる。
「よう、どうしたんだ」
「……わ、祐一さんですか」
 祐一さんだよ。
「ぷ……可愛いですねー」
 馬鹿にしてんな、このガキ。
「栞ちゃん、割烹着可愛いねー」
「あ、名雪さん、カッコイイですねー」
「で、一体どうしたんだ。なんか、いい臭いするけど」
「お汁粉作ったんですけど、クラスのみんなで食べてもけっこう余ってしまったのでお裾
分けです。味見してください」
「おう、そうか」
「他のみなさんもどうでしょう? 20人分ぐらいありますから」
 栞のその声に、クラス中から歓声が上がる。
 紙コップにお汁粉を入れて割り箸を添えて栞が渡してくれる。
「じゃ、ありがたくいただくぞ」
「どうですか? 甘過ぎないですか?」
「ん、お汁粉ならこんなもんじゃないかな、白玉入ってるし、それよりも、紙コップはち
ょっと食べ辛いかな」
「あ、そうですか。私たちも、それはいってたんですよ。やっぱり、紙製のお茶碗みたい
なのにした方がいいかな」
「うん、それがいいな。味はいいと思うぞ」
「えへー、そうですか」
 割烹着姿の栞のクラスメイトたちがお汁粉をみんなに配ってる。男子連中なんか顔がに
やけっぱなしだ。
「あら、栞じゃない」
 更衣室から香里登場。男装し、髪を後ろでまとめている。
「わ、お姉ちゃん、カッコイイです!」
 栞がじゃれついていく。
「栞も、それ可愛いわよ」
 香里が撫で撫でしてる。
「わーい」
 すりすり。
「うふふふ」
 撫で撫で。
「うわ、やっぱそうなんだ」
 みんな。
 んで、やっぱそうなんだと思われてるのに気付かないで二人ともじゃれ合っている。
「あ、そうだ。お姉ちゃんもお汁粉食べてください」
「ええ、喜んでいただくわ」
 しばしみんなで黙々と食べる。休憩を入れてなかったので、自然とこれが休憩時間にな
っていた。
「ふー、ごっそさん」
「お粗末さまでした」
「おいしかったよ、文化祭も食べに行くよー」
「お願いしまーす」
「さてと、それじゃ、あたしも少し合わせようかしら」
 コップと割り箸を回収した栞たちが、練習してるとこ少し見たい見たい、というのでお
汁粉貰った手前見せてやることにした。まあ、別に内緒にするようなことでもないしな。
「あの鼻持ちならないオーストリア女はともかく、国王は助命しようという意見、わから
ぬでもないが、私は王を殺したいのではない、王制を殺したいのだ! 国王は死刑だ!」
 ロベスピエール役の香里の、練習だってのにボルテージが最高潮な熱演に教室はしんと
静まり返る。
「じゃあ、次、他の人も合わせておいて」
 テキパキと指示を出してこっちに歩いて来る。
「お姉ちゃん、カッコイイです〜」
「ふふ、そうかしら」
 香里がふにゃけた顔している。北川がよくする表情である。
「そういえば」
 栞が、突然横を向いて俺を見る。
「これって……」
 と、いいつつ、いきなり俺の胸を鷲掴みにした。
「パッド入れてるんですね、そりゃそーですよね」
「そりゃそーだろうが」
 パッドを当ててその上から包帯で巻いている。ブラジャーが一番いいんだけど、とか衣
装係がいうので断固拒否しておいた。パンツだってトランクスだし。さすがにそこは譲れ
ん。
「へー、そうなんですかー」
 栞がジロジロと見る。ちなみに、三枚重ねパッド入りの俺の胸。けっこうでっかい。
「そういえば、栞もけっこうその、大きくなったよな」
 病気が治って成長が再開したのか、最近なんだか栞の胸の辺りが以前に比べてアレなの
である。
「えう、いきなり何いうんですかっ!」
 確かに、いきなりいうことではないかなとも思うが、一応は誉め言葉なのでよいだろう
と思ったのだ。まあ、栞もそんなこといいながら嬉しそうだしな。
「これは、まあ、うん」
 しかし、すぐに胸に手を当ててもじもじし始めた。どうしたんだ?
「ああ、栞もパッド入れてるとか」
 と、俺は冗談をいった。
 いや、冗談だったんですよ、完全無欠に冗談。
「な……」
「うん?」
「なんで知ってるんですかー!」
「はあ?」
「なんで、なんで祐一さんが私の秘密を知ってるんですかー!」
「いや、冗談だよ。冗談」
「知られたからにゃあ生かしちゃおけねえ、です!」
「あ、いや、ちょいと待ってくださいよ」
 チキチキチキチキ。
 ひ、光り物出しやがったな、薄いけど。
「待て、落ち着け、話せばわかる!」
 いいながら、話してもわかんないような気が凄くしたので椅子から立っていつでも逃げ
られるように体勢をとる。
「えーうー」
「香里っ!」
「相沢君、やっちゃったわね。それは駄目。それは禁句なの。それはもうしばらくおさま
らないわ」
 そんな、つれないことを。いつものことだけど。
「しゃっ!」
 なんか切れ味よさそうな気合入った声を出しながら栞がカッターナイフを繰り出してき
た。
「待て待て、落ち着け」
 俺は脱兎のごとく椅子を蹴立てて逃げる。
「えいっ!」
 腰に構えて体重乗せてきやがったぞ、殺る気満々じゃねえか。
「こら、栞、危ないでしょ、止めなさい」
 さすがに見かねて香里が止めに入る。なんとかしてくれ。
 その時、ガラリと扉が開いた。
「生徒会執行部。御用改めである」
 久瀬が役員を引き連れて立っていた。
 香里を見つけると、そちらへ歩いていく。
「ここは美坂さんが学級委員だったな」
 お前、恨みでもあんのか。せっかく香里が栞を止めようとしてたのに足止めするんじゃ
ない。
「ええ、そうよ。チェックかしら」
「ああ、危ないことが無いかどうか点検させてもらうよ、ここは確か劇だったな、演目は
……」
 持っていた紙の束をめくろうとして手を止めた久瀬が俺と栞を見る。
「なるほど、八つ墓村か」
「リュクサンブールの薔薇よ」
 どっちでもええから止めろよ、生徒会長。一応、お前んとこに一時預かりになっとるも
んじゃろうが。
「っと」
 俺は扉に追い詰められてしまった。ま、そろそろ追いかけっこも飽きてきたし、取り押
さえるか。栞、おとなしくしなさい。
「しぇあーっ!」
 突っ込んできた。
 めっさ怖いんで、ちょっとパス。
 俺がサイドステップでかわすのと同時に扉が開き、
「あっ!」
 その扉を開いた人間に栞の体がぶつかった。
「あああっ」
「ん?」
 そこにいたのは北川だった。
「うわわわ、大丈夫ですか」
「よう、栞ちゃん。それ、可愛いね」
 北川がにっこりと笑った。それ、というのは割烹着のことらしい。
「ご、ご、ごめんなさい、私、なんてことを」
「ああ、大丈夫大丈夫」
 北川はにこにこしている。本当に栞には甘いな。しかし、俺もさっさと取り押さえてお
けばこんなことにはならなかっただろう。いや、かなり怖かったんで実際ビビり入ってた
のも事実なんだが。
「北川君、ごめんなさい」
 香里が、さすがに慌ててやってきた。
「いやー、大丈夫大丈夫」
 北川は笑いながら床に落ちていたナイフを拾う。どこにも傷は無いようだ。
「北川君……笑ってないで、怒っていいのよ、一歩間違えたら刺さってたんだから、今の
は栞が悪いわ。そして、それを止められなかったあたしも」
「いやぁー、平気平気」
 北川はなおも笑っていた。
「北川君、グリグリやる?」
 香里が栞のこめかみに両手を当てて引っ張って北川の前に出す。
「えう、こんなことで許してくれるならグリグリしてください」
「あっはっはっは、大丈夫だって、みんな大袈裟だなあ」
 今まで何度も騙されてるのに、こういう時は一瞬とはいえ、もしかしてこいつ大物? 
とか思ってしまう。
「大丈夫だよ、俺は木だから」
「は?」
 みんなの声が重なった。
「木って……それは、あくまで役であって」
 香里がいった。」
「俺は木だから大丈夫さ」
「いや、だからな」
「私が説明しましょう」
 北川の後ろから、ぬっと天野が出てきた。
「先程、歩いていると北川さんとお会いしまして、なんでも木になりたいということなの
で、暗示をかけたのです」
「暗示?」
「はい、自分は木だ、という暗示です」
「お前、そんなことできるのか」
「まあ、過去に色々と……自分は嫌われてない、とか、みんな実は自分が好きだけど恥ず
かしがって言い出せないでいる、とか、そういう自己暗示に頼っていた時期があるんです」
 ……さいですか。
「気にすんな、気にすんな」
 木の北川はそういって栞の頭に手を乗せている。しっかし、木のわりには平気で動き回
ってるぞ。
 そのことを天野に聞いてみると、
「動ける木、という暗示をかけたんです」
 とのことらしい。
「あの、北川さん、物凄い入り込んでしまいまして、普通に木だと暗示をかけたら、死ぬ
までそこから動かないようになりかねなかったので」
 なるほど。
「あー、腹減った」
「あ、お汁粉、もう無いんですよ、ごめんなさい」
「あー、いいっていいって」
 北川はふらふらと窓際に行くと照りつける陽光を浴びる。
「ふいー」
 まさかとは思うが……。
「天野……」
「光合成をしている……つもりです」
「……食費が浮くわね」
 香里さん、真っ先に出てくる感想がそれですか。
「って、ホントに光合成してるわけないんだから、何か食べさせないとまずいでしょう」
「そうですね、あとで暗示をかけなおしておきます」
「いや、暗示自体解いてくれ、こっちの頭がおかしくなる」
「同感ね」
「せっかく上手くいったのに……」
 天野は残念そうだ。
 大道具の連中と何やら話していた久瀬がこっちに来た。
「少し見させてもらったが、しっかりと出来ているな、あれならばセットが倒れたりはし
ないだろう。それと、劇中に剣や槍を使うようだが、まだそれは出来ていないようだね」
「ええ」
 今はまだ、剣とかは無い。みんな箒とか持って代用してる。
「先が尖っているものは好ましくない、それと殺陣のシーンがあるのなら、それもチェッ
クさせて貰う」
「それは小道具の人たちにいっておくわ。それと、殺陣というほどのシーンは無いわね」
「うむ、文化祭の三日前に最終チェックを行うので、それまでに形にしておいてくれたま
え」
「ええ、わかったわ」
 一応仕事してるのね。
「む」
 帰りかけた久瀬の視線が北川に向く。
「彼は何をしているのだ。日光浴か?」
「光合成よ」
「ほう……」
 久瀬の目が細くなる。
「まあ、それでは我々は失礼する」
「ご苦労様」
 久瀬は、次のクラスに行くということで去っていった。去り際に、
「あの男……どこまで行き着くつもりだ」
 と、呟いていた。香里の言葉を鵜呑みにする辺り、君もけっこうなとこまで行き着いて
ると思う。
「それじゃあ、今日はここまでにしようかしら、明日は、一度全部通してやってみるわよ」
 香里がそういうと、クラスのそこかしこから、まだ早いんじゃないか、という声が上が
る。
「早いのは百も承知、とにかく一度通してみて。まだ、台本を見ながらでいいわ。全体的
にどうなるか、見ておきたいのよ、脚本に修正入れる必要があるかもしれないし」
 そういうことなら、と皆、明日の通し稽古を了承する。
「それでは、私もクラスに戻ります。北川さんの暗示は解いておきましたから」
 天野がそういって、帰って行った。
「それじゃ、私たちも失礼します。北川さん、今日はごめんなさい」
 栞たちも引き上げるようだ。
「大丈夫大丈夫、気にすんな」
 木の時と反応があんまり変わらない。

 着々と日々準備は進んで……。
「おお、なんと気高い悠揚たる死なのだろうか。反革命罪で銃殺されてもかまわぬ、私は
あの死を称えずにはいられないのだ!」
 うちのクラスの男装女装劇「リュクサンブールの薔薇」は一応の完成を見たのであった。
「どうかしら」
 香里がやや紅潮した顔を久瀬に向ける。文化祭を三日後に控えたその日、生徒会長の久
瀬と役員たちが見守る中、一通り劇を終えたところである。
「うむ、チェック事項は完璧にOKだ。そして、劇自体もなかなかのものだったよ」
 そういって、久瀬が拍手して見せる。
「しかし……」
「なにかしら?」
 久瀬が少し思慮するような素振りでいったのに香里がすかさず尋ねる。この劇に尋常で
はない力の入れようの香里としては気になるのだろう。
「いや、別にケチをつけたりするわけではないが」
「なによ」
「北川君は、何かするのかと思っていたが、本当に立っているだけなんだな」
「だって、木だもん」
 その木は大道具たちと「おつかれー」とか騒いでいる。あいつ、実質大道具だったから
なあ。なんか、これなら最初から大道具やらせた方がよかったような気がする。
 まあ、けっこういっぱいいっぱいだった香里が木の役だ、って決めちゃって、それきり
それがそのまま通ってきてしまったのだ。
「さてと、チェックも通ったことだし、あとは本番に向けて詰めていくだけね。みんな、
台詞忘れないでね」
 香里が絞めると、散会となった。大道具連中はセットを畳み、役者連中は着替えだ。

 そして、文化祭の日がやってくる。名雪がいらんこといったらしく真琴なんぞは、
「あうー、オカマの祐一を見にいくからねー」
 とか不適切なことをいっていた。その真琴に対してオカマじゃねえと反論する暇が無い
ほどに俺は急いで家を出た。なんでかいうたら名雪に決まってる。
「おーっす」
「おはよー」
 俺と名雪が教室に入ると、他の連中は全員来ていた。
「わかっちゃいたけど、遅いわよ。名雪」
「うー、ごめんね」
「二人とも、早く着替えてね。開演前に一度通し稽古するわよ」
「おう」
 着替えてメイクしてふと見ると北川がいない。
「あいつ、どうした?」
「北川君なら栞と一緒に生徒会室に行ってるわ」
「ああ、そうか」
 まあ、あいつは立ってるだけだからな。
 開演前になって北川が帰ってきた。こいつは文化祭中はほとんど栞の護衛らしい。さす
がにかわいそうなのではないか、と思っていたら、なんでもあとで香里と一緒に文化祭を
回る約束をしてるらしいので、妙に張り切っている。
「それじゃ、行くわよ」
「あ、じゃあ美坂さん、例のやつで気合入れて」
「えっ、例のって、あれ?」
 香里が気恥ずかしそうにいった。久瀬立ち合いの元にやった時に、ついつい香里がいっ
てしまった言葉である。本人は失言だと思っているのだが、みんなに「気合が入る」と妙
にウケてしまって、時々求められるのだ。
「やってよやってよ」
「美坂、気合入れてくれ」
「……わかったわよ」
 香里は観念して、大きく息を吸い込んだ。
「トチったらギロチンよ!」
「おう!」
「しゃー、やるぞー!」

「ふう……」
 俺は、舞台の袖に引っ込んで一息ついた。今、俺の出番が終わったところである。台詞
が少ないから確かに楽なのだが、けっこう出番は多く、舞台で立っている時間が長かった
のでかなり緊張した。つか、俺が出ていってしばらくした時に上がった馬鹿笑いは絶対真
琴だ。
 やがて、劇は終了した。ギロチンにかけられる者も無く、無事に終わった。と、いって
もまだ午後にもう一回あるんだけどな。
「おつかれさまでしたー」
 体育館の舞台裏で休んでいると、栞が来た。
「なんだ。見てたのか」
「ええ、仕事を兼ねて」
 見ると、栞は「対策班」と書かれた腕章を着けている。
「あ、そうだ。みんなも来てますよー」
「みんな?」
「あうー、祐一いる?」
「あ、真琴」
 ずかずかと真琴が入ってくる。後ろから「勝手に入ったら駄目よ」と注意しながら秋子
さんも入ってくる。真琴の袖を引こうとするのに、香里が「いいですよ」といった。
「あ、祐一だー、祐一だー、あはははははははははははははははは」
 笑い過ぎだ。
「真琴ちゃん、そんなに笑ったら駄目だよ」
 あゆが、秋子さんの後に現れた。
「祐一くん、とっても可愛いよ、おかしくなんかないよ」
 ホンマ、ええ子やな、あゆは。
「うぐぅ、近くで見ると化粧濃くてけっこうきついね」
 シバいたろか、このガキ。
「秋子さん、秋子さん、さっきコンビニで買ってきたカメラ出して」
 あ、このボケ、何しやがる気が一瞬でわかったぞ。
「祐一、撮るよー」
「撮るなっ!」
「ちょっと、そこの木、祐一を押さえといてようっ!」
 真琴にいわれて木が俺を押さえつける。やめんかい、北川。
「わたしも撮ってー」
「だったらついでにあたしも」
 名雪と香里がフレームインしてくる。
「あう、撮った」
 真琴が、にやりと笑う。
「あ、ボクも祐一くんと一緒に写りたい」
 あゆがフレームインしてきた。
「あー、だったら真琴もー、秋子さん」
 秋子さんにカメラを渡して真琴も入ってくる。
「やめろ、やめんかあ。秋子さん、やめてください。いや、マジで」
 俺は逃げようとするのだが、北川にフルネルソン(ドラゴンスープレックスの前の体勢)
で押さえられて動けない。
「はい、チーズ」
 秋子さんがなんの躊躇いも無くシャッターを押した。やめてっていったのに。
 ちなみに、後で写真を見たら木に打ち付けられて死んでるみたいになっていた。
「あー、くそー、メイク落とし貸せ、畜生ー!」
「あれ、祐一、落としちゃうの?」
「落とすわ」
 午後の開演まで三時間以上あるのにその間こんな格好してられっか。
「しゃー! このまま繰り出すぞー!」
 向こうで王妃さまはそうおっしゃっているが、侍女Aの俺としては同行は拒否したい。
 メイクを落として元に戻った俺は、秋子さんたちと一緒に回ることにした。まずは栞の
クラスがやっているお汁粉屋に行ってくつろぐ。
「お父さんはまだ来てないんでしょうか」
 栞がお汁粉をすすりながらいった。
「父さんなら、半休とって午後から来るっていってたじゃない。まだでしょ」
 香里が答える。
「なんだ。あの親父さんなら、一日休みとって来そうなもんだけどな」
「最初はそのつもりだったのよ。栞が文化祭で重要な役を与えられた、って聞いたら、絶
対に見に行くっていってたのよ」
「外せない仕事があったのか?」
「前もいったけど、父さんの仕事って日曜出勤が多いの。今回もコレ見せて休暇願い出し
たそうなんだけど」
 コレ、といったところで香里が人差し指と親指を立てる。いわゆるシュートサイン。筋
書き無しの真剣。給料払わないなら方舟に逃げる、という意味合いを持つ。
「今回ばかりはどうしても、って社長がいって、いきなり立てた人差し指取って折ってき
たらしいのよ。父さんもすぐにパンチ入れてKOしたそうなんだけど、社長の執念に顔を
立てて午前中だけ出てくる、って」
 一度も聞いたことなかったけど、なんの仕事してるんだ。
「あうー、次はここ行きたい」
「あ、ボクもそこがいいな」
「それじゃあ、そこにしましょうか」
 物騒な話してる間に真琴とあゆと秋子さんの間で話が弾んでいる。俺は今日はこの三人
のお供のつもりなので、どこへでも付き合うつもりだから、行き先は完全に三人任せだ。
 お汁粉屋を出たところで、栞と北川は仕事に戻るといって別れた。
「北川君にばかり任せておくのも悪いわ」
 とかいって、香里も着いて行ってしまった。
 そういうわけで、水瀬家一同で回る。真琴は騒がしいし、あゆはバタバタ面白いぐらい
に転ぶし、秋子さんは目立つし、名雪はそもそも校内でけっこうな有名人なので人目を引
くことこの上無い。
 回っていると、久瀬と会った。
「やあ、これはみなさんお揃いで」
 如才無く秋子さんに挨拶している久瀬の袖を俺は引いた。
「ん、なにかね?」
「なあ、ちょっと聞きたいんだが、栞の奴、ちゃんとやれてるか?」
 北川と、さらには香里までサポートに着いているのだから大丈夫だとは思うのだが、ど
うにも心配だ。手練手管には長けていても、荒事はからっきしだろう。時々光り物を振り
回すけど。
「ああ、大丈夫だ」
 久瀬は、いった。
「あの美坂香里の溺愛する妹だぞ、誰も逆らうものか」
 ほっとしかけた俺を不安にさせることをいった。
「おい、それって、栞を班長にしたのは……」
「うむ、美坂香里の妹だからだよ」
「おいっ」
 俺は、自分で自分の声が冷えているのを感じていた。
「まあ、彼女自身の手腕は未知数なところがあるものの、可能性という点では期待はして
いるよ。なかなか頭が回るようだからね」
「久瀬……」
「なんだね、怖い顔をして、久しぶりだね、君にそんな顔で睨まれるのは」
「栞はなあ……」
 あいつは、久瀬さんが自分の力を認めて仕事を頼んでくれた、って喜んでたんだぞ。
 くそ、忘れてた。こいつは、こういう奴だったんだ。
「ええい、もういいよ、行け」
「いわれずともそろそろ失礼するよ。仕事があるのでね」
 久瀬はそういって去っていった。
「どうしたんですか?」
 秋子さんが心配そうな顔をして声をかけてくる。
「あの、すいません、ちょっと、みんなで回っててください。おれ、用事思い出しちゃっ
て、すぐにまた合流しますから」
「そうですか」
「えー、なによそれー、真琴たちと付き合う約束だったじゃないのよう!」
「悪ぃっ、あとで肉まん奢ってやるから」
「あうー、真琴はそんな安い女じゃないわよう。五個は奢ってもらわないと駄目だからね」
 四百円ちょっとか、安いんだか高いんだか。いや、安いな。
「それじゃ、すいません」
 秋子さんに頭を下げて、俺は小走りし始めた。
 栞は、巡回に出ていなければ、生徒会室の隣に特設された対策班の本部にいるはず。
 走りながら、俺はいったいなにをしに行くのかと思う。行って、久瀬の思惑を教えてや
るのか? そして、栞をガッカリさせるのか?
 ええ、くそ、行ってから考える。とにかく、栞のところに行きたかった。
 行く途中で北川と香里に会った。
「おー、相沢。みんなと一緒じゃないのか?」
「ああ、ちょっと、栞に用事がな」
「なによ? 何かトラブル?」
 香里が眉をひそめるのに、違う違うと手を振る。
「栞なら、対策班本部にいるわよ」
「そうか」
 と、それがわかればすぐさま飛んで行きたいところだが、どうしても好奇心が首をもた
げる。
「お前ら、どこ行くんだ?」
「そ、それは……」
 香里がそっぽ向いた。ああ、大体読めた。
「栞ちゃんが、二人で回ってきてくれっていうから、これから5組がやってるプラネタリ
ウムに行くんだ。星空の下で色々するんだ」
「そういうことなのよ。ちなみに変なことしたら星にするわよ」
「そうか、まあ、楽しんでこいよ」
 栞の奴、気をきかせたんだな。
「じゃあ、また後でな」
 二人と別れて、俺は対策班本部に向かう。
 栞との気安さから、ついついノックを忘れて扉を開けると、栞は、男子生徒となにやら
話していた。
「うわぁ、シュークリームじゃないですかあ。貰っちゃっていいんですかあ?」
 栞が嬉しそうな声を上げている。その手にはそこそこ有名なお菓子屋の箱があって、栞
はその中を覗きこんでいる。
「まあ、これでひとつよろしく頼むよ、お姉さんによろしくね」
「はーい」
「それじゃあ、まあ、よろしくね」
「わかりました」
 男子生徒がこっちに来る。
 俺を見つけると、一瞬ぎょっとしたようだが、それから、明らかに平静を装ったような
様子で俺に軽く頭を下げ、部屋を出て行った。
「栞」
「あ、祐一さん。シュークリームありますよ、食べますか?」
「いや、それはいいけど、いったい、なんなんだ。あれは」
「頑張る対策班の人に心ある生徒からの差し入れ、っていうのはどうでしょう?」
「つまり、そうじゃないんだな」
「んー、まあ、あれですよ」
 そういって、栞はシュークリームの入った袋を破る。
「あの方は、午前中にちょっとトラブル起こしまして」
「ふむ」
 つまり、その時のお礼ってことかな。
「止めに入った私を突き飛ばしたんです」
「なにっ」
 そんなことが……。
「北川は何やってたんだ」
「北川さんが劇が始まるから、っていなくなった直後のことでした」
「そうか……」
「それで、私、痛くて泣きそうになってしまいまして、まあ、それで、アレですよ」
「アレっていわれてもわからんて」
「私を泣かしたらお姉ちゃんが怒りますよ、って忠告してあげたんです。えへっ」
「はあ……」
「いやー、持つべきものは姉ですねー、みんなこの一言でおとなしくなりますよ。既に私
に危害を与えてしまったあの方は、それからすぐに駅前まで行ってこのシュークリームを
買ってきたみたいですね。殊勝な心がけです」
「あ、あのな、お前な」
 俺が久瀬にメンチ切ってここまで走ってきたのはなんだったんじゃ。
「む、何か?」
「いや、お前、そんなことして、そんなの」
「虎の威を借る狐だっていうんですか?」
「いや、まあ、そんな感じだ。……栞、お前、そんなことでいいのかよ」
「はあー」
 栞が、盛大に溜息をついた。
「祐一さんみたいな健康な五体を持った人の発想ですよね」
「う……そうか?」
「祐一さんっ!」
「はいっ」
「私をなんだと思ってるんですかぁー!」
 あ、やべえ、キレてる。
「なに、って、そりゃあ」
 ストールかぶってアイス食ってる小さ目の女の子で、あとはそれから……。
「なんだと思ってるんですかぁー! ごほごほ」
 あ、なんか今、えらいわざとらしい咳が聞こえましたよ。
「なんだと、ごほ、思って、ごほ」
「いや、えーっと……」
「ごほごほごほごほごほごほごほごほ」
「えっと……病弱?」
「うふ」
 栞が、にっこりと笑った。無邪気そのものの笑顔だ。俺も何度か騙されてます。
「そうですよー、わかってるんじゃないですかー」
 栞は嬉しそうにいって、俺の肩をポンポン叩く。
「私みたいな病弱でか弱い女の子はこうやって世の中渡っていくんですよ! なんか文句
あるんですかっ!」
「無いです」
「無いですよね、じゃあ一つあげるからシュークリーム食べてください」
 久瀬、こいつ逸材だよ。
「ん?」
 栞と色々やり取りしてて気付かなかったが、床に男が寝転がっている。うちの制服を着
ていないのでたぶん外来の客だろう。寝ているだけではなく、体を荒縄で縛られていた。
「こいつ、なにかやったのか?」
「ああ、その方はうちの女生徒をしつこくナンパしていて、注意したら凄んできたのでち
ょっと縛っておきました」
 けっこうトラブル起きるんだなあ。
「しかし、死んだように寝とるな、大丈夫か、これ」
「ああ、これです」
 と、栞がポケットから小瓶を取り出す。
「私特製の睡眠薬ですっ」
「ほう」
「これを嗅がせたら動かなくなっちゃったんですよぅ〜、うふふふふ〜」
 なぜ無闇に嬉しそうか。
「シュークリーム食べようっと、あむ、やっぱり甘いものは最高です〜」
 こんな佐山みたいな奴に班長任せて大丈夫なんじゃろか。
「班長ォ! 2年5組のプラネタリウムで事件です!」
 シュークリームを食っていたら対策班の人間が駆け込んできた。
「む、なんですか」
「喧嘩です。というか、一方的な暴行ですね。加害者と被害者を連れてきています」
 5組のプラネタリウムっていったら……。
「あ、お姉ちゃんと北川さん」
 一方的な暴行。やっぱりこいつらか。
「お姉ちゃんが加害者ですかっ」
「か、加害者ってそんな大袈裟な」
 香里は栞に詰問されてちょっと戸惑っている。
「私情は挟みませんよー、さあ、犯行の動機を聞かせてもらいましょうか!」
「えっと、それは……」
 香里が口篭もる。
「北川さん、どうですか?」
 被害者の北川は、事情を話し始めた。
 5組のプラネタリウムは、ようは黒く塗装した板に星座の形に穴を開けて後ろから光を
あてて星空を演出するという手法であったが、工夫して流星の演出も行っていた。
「流れ星といえばやっぱり願い事だろう」
 北川は断言する。
「美坂とセック」
 ぱぁーん、と抜く手も見せぬ裏拳が炸裂した。
「こういうわけよ」
「そういうわけでしたかー」
 栞は深く納得したようである。
「じゃあ、揉み消しときますねー」
 私情だ。
「やあ、やっているね」
 久瀬が入ってきた。
「美坂さん、父上が見えているぞ」
「え、ホントですか」
「いやいや、どーもどーも、栞がお世話になってます」
 生徒会役員に対してやたらと低姿勢な美坂父が現れた。社長にパンチ入れるとは思えな
いへりくだりぶりである。左手人差し指に巻かれた包帯が痛々しい。
「おお、栞」
「お父さんっ」
「頑張っているそうだな、父さんは嬉しいぞ」
 ひしと抱き合い。栞を抱き上げてそのままぐるぐる父が回り出した。
 がつん、と俺の足に衝撃が来る。
「お父さん、大好き」
「父さんも栞が大好きだぞ」
 いや、おっさん、あんたの娘の足が俺のスネに当たったんだけど。
「さてと、そろそろ巡回に出ますか」
 父親に仕事ぶりを見せたいせいもあってか、栞が巡回に出るといい出した。北川と香里
と、なんとなく俺も着いて行くことになる。もし途中で秋子さんたちに会ったらそのまま
あっちに合流させてもらうかな。
 栞を先頭にして廊下を歩いていく。俺は少し離れて着いていく。そんな俺から少し離れ
たところで美坂父が娘の勇姿をニコニコしながら見ている。
 三年生の区画に入ると、女生徒から栞に労いの言葉がかけられたり、売り物の甘いもの
をタダでくれたりする。
「ほふう、やっぱりうちの栞は人気者なんだな」
「はふう、やっぱり栞は可愛いから」
 美坂父と香里がほふうはふうと怪しげな吐息を口から出してる間にも巡回の隊列は進み、
やがて一番隅っこの教室までやってきた。
「……らっしゃい」
 黒いローブを着た舞が客引きをやっていた。あんまり引けてないけど。
「寄ってってくださーい」
 白いローブを着た佐祐理さんも客引きしている。男どもがフラフラと誘蛾灯に集ってく
るみたいに寄ってくる。
「あ、祐一さん。それにみなさんも」
 真っ先に俺の名前を出してくれるとこは、けっこう嬉しかったりする。
「どーも、佐祐理さんたちのクラスは何やってるんですか?」
「うちのクラスはお化け屋敷ですよー、是非寄ってってくださいな」
「へえ、お化け屋敷ね」
 一応二人への義理もあるし、ちょっと興味もある。寄っていこうか。
「栞はどうする?」
「少しぐらいなら大丈夫ですよ」
「そっか、じゃあ、一緒に入るか」
「道があまり広くないので一人か二人で入ることをお奨めします。人数が多いと先頭の人
ばかりが脅かされて後ろの人はつまんないですから」
 なるほど、前の方で驚いてるのを見てれば、そこに何かあるってわかっちゃうもんな。
「それじゃ、バラけるか、どーすっかな」
「そんなお客さまのためにクジを用意してますので使ってくださいな」
 そういって、佐祐理さんは割り箸を五本差し出す。
「お、それじゃあ」
 俺はさっ、とそれを一本引く。栞、香里、北川、美坂父の順で残りの割り箸も引かれた。
「あ、1番ね」
 香里がそういうと、北川がにへらーと笑う。
「俺も1番だ。仲間仲間」
「え、北川君と……」
「なんだよー、俺と一緒は嫌か?」
「北川君が嫌というか、栞か父さんか、一人がよかったのよ」
 貴様、さりげなく俺も嫌だといったな。
 と、俺の番号は……。2番だな。
「私は2番です」
 栞がいった。それじゃ、俺は栞とペアで……。
「相沢君」
 美坂父が近付いてくる。そういえば、この人は一人か。せっかく来たのに大人を一人で
回らせるのもなんだ。ここは俺のと交換して栞と……愛する娘とペアを組ませてあげよう
か。ま、こっちも十七歳とはいえ、そこんとこは大人にならないとな。
「あ、よかったら……」
「相沢君、交換してくれないか」
 いや、それは、そのつもりで……。
「いいだろう、な、いいだろ」
 美坂父の手がシュートサインになっている。メチャクチャ大人げ無いぞこの大人。
「いや、そんなことしないでも、いいですってば」
「うむ、ありがとう」
 そうなると、俺が一人か。
「祐一さん、お一人ですか、なんだったら舞がお供しますよー」
「ん、それじゃあ、せっかくだから一緒に行くか、舞」
「わかった」
 そういうわけで、俺は舞と回ることになった。
 中はおどろおどろしげな和風お化け屋敷だ。まあ、普通っていや普通だ。
「……」
 しかしまあ、期待はしていなかったが、舞がちっとも驚かない。関係者だからある程度
仕掛けを知っている上に、色々あったからこの程度では驚かないのであろう。
 驚いた女の子が男にしがみついて……ってのが定番なんだけど、そういうことはなかっ
た。
 ……俺が一回舞にしがみついたけどな。いきなり足掴むのはあきまへんがな。そら、驚
きますがな。
「ふー、終わった終わった」
 表に出ると、
「んふ〜」
 北川がふにゃけていた。
「んむふふふ」
 そよ風が吹いたらふっ飛ばされそうなぐらいにふにゃふにゃである。
「どうしたんだ、こいつ」
「ああ、中でお姉ちゃんに抱き着かれたそうです」
「なるほど」
 香里はちょっと離れたとこで、
「だから一緒に入りたくなかったのよ」
 とかブツブツいっている。
「うぐぅぅぅぅぅぅぅ!」
 声とともに俺の背中に衝撃が来たのはその時である。
 後ろからタックル貰って思いきり倒れる。痛え。
「なんだ、いったい」
 見ると、あゆだった。
「うぐぅ、怖いよ〜」
 こいつ、もしかして俺らの後にここに入ってたのか。
「あゆちゃん、待ってよー」
 今度は名雪が出て来た。
「おい、どうしたんだ」
「あ、祐一」
「大体予想はつくが、なんだ」
「一番最初のお化けであゆちゃんが走り出しちゃって」
 やはりそうか。
「あうーっ!」
 真琴が出て来た。
「あ、ちょっと待……」
 うつ伏せに倒れた俺の上に被さったあゆに躓いて真琴が思いきりコケる。
「ええい、どかんか」
 うぐぅあうーとうるさいことこの上無い。
 少し遅れて秋子さんが出て来た。真琴も一番最初のお化けに、わっ、とやられて走り出
してしまったそうだ。
「あゆの怖がりはわかっちゃいたけど、お前までなあ」
「そ、そんなのしょうがないじゃないのようっ、狸のお化けがいたのよう、逃げるに決ま
ってるじゃないのっ!」
 狸は怖い、と真琴は力説する。昔よっぽど嫌なことがあったらしい。
 それから、俺は水瀬家に合流し、栞たちと別れた。午後の部開演まで一時間ほどみんな
と回った。
 午後三時半、午後の部開演。盛況のうちに我がクラスの出し物は終了した。
「おつかれー」
 みんなで労い合う中、大道具連中がセットをいそいそと片付けている。
「これ、燃やしちゃうんだよなー」
「キャンプファイヤーの燃料になんだから、いいんじゃねえの」
「ここんとこ、えらい苦労したんだよなあ」
 役者には役者の、衣装係には衣装係の、そして大道具には大道具の感慨がある。
 文化祭後の打ち上げ祭のキャンプファイヤーに供せられる大道具運びを俺も手伝った。
そのまま校庭にいると、そのうちに生徒が集まってくる。
「火を放てい!」
 久瀬の号令がくだるや、生徒会の生徒がキャンプファイヤーに点火する。赤々とみんな
の顔が照り輝く。
 フォークダンスが始まると、俺は一回名雪の相手をしてから引っ込んだ。俺の後ろで北
川と香里が踊っていた。指先と指先をちょんと着けているだけだ。それはフォークダンス
とはいわんような気がしてならないのだが、北川はそれでも嬉しいのだろうし、香里には
それが精一杯なのだろう。
 少し離れて、燃えあがる炎と、それを取り巻く人間たちを眺める。こういう位置から、
こうやって見ているのも、いいものだ。
「あ……」
 名も知らない男子生徒が俺を見て声を上げた。
 視線を逸らして離れていく。去り際微かに笑っていたように見えた。同じ気持ちで炎と
その周りの喧騒から少し距離を取った奴だったのかもしれない。
「いやー、今日は疲れたな」
「そうね」
 北川と香里がこっちに来た。俺には気付いてないようだ。
「うん、美坂のいう通り、少し離れて見てるのもいいもんだな」
「でしょ」
 どうやら香里も、俺と同意見か。
 んー、声かけようかと思ったけど、珍しくいい感じみたいだし、ここは黙って去るか。
「北川君は、あたしのこと好き?」
 香里のその声に引かれて、去ろうとした俺の足は止まった。
「ああ、好きだぞ」
 そんなの、わざわざ聞くまでもないことだろう。北川が自分を好きかどうかなんて香里
にはわかりきっているはずだ。
 わざわざ聞くまでもないことを聞く、それが意味するところを悟って、俺は思わずコソ
コソと木の影に身を隠した。
「あたしは、北川君のことそういうふうに見れないわ。でも、嫌いじゃあ……ないのよ」
 は? と俺は漏れそうになる声を押さえた。そんなの、以前に北川に好きだっていわれ
て散々いったことじゃないのか。なんで今更……。
「うん、わかってる」
 北川はそういって、笑ったようだった。
「これからは、わからない。でも、今のあたしの気持ちはそうなの」
 俺は、距離をとりながらキャンプファイヤーの方へと戻った。名雪と話していると、北
川と香里も戻ってきて、北川は栞に呼ばれて一年生の女子たちの方へ行ってしまった。
「なあ」
 俺は一人で佇んでいる香里に声をかける。
「なに? フォークダンスなら名雪か栞としなさいよ」
「そういうことじゃなくってな」
 俺は言葉を切って、結局、正面からいうことにした。
「悪い、さっき、お前と北川が話してるの聞いてた」
「へえ、気付かなかったわ」
 別段気分を害した様子も無く、香里は淡々としている。
「それでさ……」
「なんで、わざわざあんなこといったのか、ってこと?」
「ああ」
「北川君にしてみれば、迷惑な話ね。わざわざあんなこと聞いておいて、答えは以前と変
わってないんだもの」
「まあな」
「強いていえば、ケジメね」
「ケジメ?」
「と、いっても、あたしの勝手な我侭だから、北川君には迷惑かけたのに変わりは無いん
だけど」
「どういうことだよ」
「文化祭の前に、相沢君に聞いたじゃない、北川君があたしを好きになったきっかけのこ
と」
「ああ、あれか」
 階段の踊り場でのことか、あの後にゴタゴタがあって流れていたが、そういえば香里は
けっこうショックを受けていたようだったな。
「あたし、北川君が自分のことをなんで好きなのか、わからなかったの。聞いても彼は、
美坂だから、としかいわないし」
 香里は苦笑した。
「てっきり、顔とか成績がいいとか、そういうことが好きなんだろう、って思ってたのよ。
その……あたし、自分の顔の作りがそこそこだってことは自分でも思ってるわ。成績がい
いのも、自負してるところはあるし」
 さすがに、自己賛美みたいなものなので香里はいいにくそうだった。
「でも、他には何も無いから、あたしを好きになるのなら、そこだろうって思ってたから」
 意外だった。香里が自分をそんなふうに思っているとは。
「北川君もそうだって思ってたから……やっぱり、あたしは、あたしを好きだっていう彼
の言葉に対して真剣に考えてなかったんだと思う。だから……ケジメよ」
 でもやっぱり、北川君には迷惑な話よね、と香里はキャンプファイヤーの傍らで栞と久
瀬と話している北川を見ていた。
「あのなあ……」
 俺は、このどうしようもない女に一言いってやりたくなった。
「お前を丸ごと好きじゃなかったら、あんだけ殴られても蹴られても一緒にいるわけがな
いだろ」
「……そうなのよね、考えてみれば」
「自信持て、問題が無いわけじゃないが、お前はいい奴だぞ」
 美坂香里に自信を持て、か、そんなこという日が来るとは思ってもいなかったな。
「そうかしら」
「ああ」
 ……いや、問題が無いわけじゃないんだがな。
「アイス、アイス、アイス!」
「世界制覇、世界制覇、世界制覇!」
 突然、栞と久瀬が叫び出した。いったい何事だ。
「ああ、流れ星があったんじゃないの?」
 香里がいう。なるほど、願い事を三回いったのか。非常にわかりやすい。
「ええー、今、流れ星あったか?」
「北川さん、気付かなかったんですか」
「くそー、次にあったら絶対いうぞー」
 北川は顔を上げてキョロキョロし始めた。
「あの馬鹿……またロクでもないことをいうつもりじゃ……」
 香里さんが青筋立てておっそろしい顔をしている。是非ともお近付きになりたくない顔
だ。でも北川は、香里のこんなところも好きなんだろう。……あいつ、すげえな。
「あ、来ました!」
 栞が叫ぶ。空に一筋の尾を引いて星が流れていく。
「よし」
「待ちなさい!」
 意気込む北川に香里が突進していく。
「美坂が俺のこと好きになりますように!」
「へ?」
 思っていたのとは違う言葉に、香里の足が止まる。
「美坂が俺のこと好きになりますように! 美坂が俺の……あー、消えちゃった」
「北川さん、もっと要約して短くしないと駄目ですよ」
 栞が北川に注意している。確かに三回いうには長すぎる言葉だ。まだ美坂とセ(以下略)
の方が可能性がある。
「なんだ……」
 香里は拍子抜けしたような顔をしている。が、みんなが自分を見ているのに気付いた。
「あ……」
 そして気付いた。
「なに恥ずかしいこといってんのよー!」
 あれはあれで恥ずかしいということにだ。
「あ、また来ましたよ!」
「なにっ、もう来たのか、えーっと、俺は美坂が好きだ。俺は美」
「しゃあっ!」
 北川の言葉は香里の飛び膝蹴りで中断させられた。っていうか、それ、願い事とはいわ
ない。
「美坂、白のレースのパンツが見」
「っだあ!」
 今日は白のレースのパンツを履いてるらしい香里さんが飛び膝蹴りが決まった体勢から
北川の頭頂に肘を落とすという器用なことをする。
「あ、やらかい」
 その際に胸が顔にあたったらしく、北川が頭蓋骨無えのかってぐらいにふにゃふにゃし
た顔になる。
「んなあ!」
 まさに着地せんとする足を上げて、それで北川を蹴り飛ばす。
 読者諸兄。飛び膝蹴りから肘打ちから飛び蹴りを一度も足を着けずにやってのける女は
実在する。……実際目の前におるんじゃもん。
「ああー、北川さんがキャンプファイヤーに!」
 栞が叫んだ通り、香里に蹴飛ばされた北川は物凄い勢いでキャンプファイヤーに突っ込
んだ。
「あ……」
「お姉ちゃん! やり過ぎですよ。いくら北川さんでも火はまずいです。焼けますよ、こ
んがりとした北川さんと結婚するんですかっ!」
「しないわよっ!」
「だったら早く助けてください、こんがりしますよっ!」
「だから、結婚をしないわよっ!」
 香里が栞と言い合いしながらキャンプファイヤーへ向かう。
「北川君!」
 香里が炎の中に手を突っ込もうとすると北川が出て来た。
「熱いぜ」
 そりゃそうだ。燃えてるもん。
「お姉ちゃんっ、水です!」
 生徒会の連中が持ってきた水の入ったバケツを栞が奪い取るようにして、それを持って
よたよたと香里の方へ走っていく。
「えいっ!」
 ざばっ、と香里に水をかけた。
「ほら、お姉ちゃん、何をしてるんですか、北川さんに抱き着くんですよ」
「あ、そうね」
 濡らした布などを被せるのはよく知られた消火方法だ。
「北川君」
「おう」
 香里が北川に抱き着いた。でも、背中がまだ燃えてる。
「背中も消さないと、北川君、後ろ向いて!」
「うん」
「栞!」
「お姉ちゃん!」
 ざばっ、とまた栞が香里に水をかける。
 あのさぁ……。
 いや……まあ、香里がやることだから、これが一番いい方法なんだろう。直接北川に水
かけりゃいいんじゃねえの? なんて俺は思ったんだけど。
「ふー、消えたわね」
 髪の毛から水滴をぽたぽたさせながら香里が一息入れた。北川はすっかり鎮火している。
「大事に至らないでよかったですねー」
 栞がにこにこ笑っている。普通大事に至っているはずなのだが北川は平気な顔をしてい
る。いや、香里に抱き着かれたんでにやけている。
「あ!」
 香里が、叫んだ。
「栞っ!」
「どうしたの?」
「北川君に直接水かければよかったんじゃないの!」
 やっぱりそうだよねえ……。
「そんなつまんない方法を私が認めるわけないじゃないですか」
 栞は涼しい顔である。
「そうだぞ、美坂、美坂の胸はやわ」
 たぶん、二人を取り成そうとした――いや、どうしてもそうは思えんかもしれんが、絶
対に取り成そうとしたつもりだ――北川が香里にシバかれる。
「あんたは黙ってなさい!」
「あー、北川さんがまた燃え盛る炎の中へー」
「あ……」
「お姉ちゃん!」
 ざばっ。
「だから、なんであたしにかけるのよっ!」
 香里は憤激するが、燃え盛る北川がふらふらとやってきたので、そちらに気を取られる。
……女神転生にあんな敵いたよな。
「ちょっと、それ貸して……北川君!」
 なんかまた焼身沙汰らしいと迅速に水の入ったバケツを持ってきていた生徒会の人間か
らバケツをひったくるようにして取って、その水を北川にかける。
「おー、ちべたい」
「後ろ向いて」
 ざばっ。
「お姉ちゃん」
 ざばっ。
「だーかーらー、あたしにかけるんじゃないわよっ!」
 北川も香里もすっかりびしょびしょに濡れている。
「体を乾かしたらどうかね、君たち」
 自らキャンプファイヤーに燃やすものをくべている久瀬が声をかけたので、北川と香里
はキャンプファイヤーの傍らで火にあたり始めた。
「燃えろ、燃えろ、燃えてしまえ」
 久瀬は火を見て興奮したのか、ノリノリでものを火中に投じている。
「やはり火だな」
 俺の顔を見て頷く。頷かれてもどうしようもないのだが、とにかく、なんか同意しとか
ないと話が進まなそうなので、しょうがなく俺も頷く。
「古代人が火を信仰の対象としたのも然りだ」
 せっせと働きながらブツブツいっている。しかし、燃やすものも無くなってきたな、こ
れでこのキャンプファイヤーも、そして、文化祭も、終わりだな。
「ええい、もっと持って来い。なんか燃えるものがあるだろう!」
 会長はまだ止める気は無いらしい。
 北川と香里と栞は、その反対側で火にあたっている。あ、栞が香里にグリグリされてる。
北川がそれを取り成そうとしてやっぱりグリグリされてる。
「んー」
 俺の横にいた名雪がいきなり俺の方に倒れ込んできた。何をするか、貴様……って、寝
てやがる。
 結局、俺はその日名雪を背負って帰った。

「ただいま」
「あうー、オカマが帰ってきた」
 とりあえず、グリグリしておいた。





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