かのんイズム7







    まえがき

      この話は自称常識的一般人である相沢祐一の目を通して
      彼の周りの破天荒(キチ)な人物たちを描き、男の好日
      とは何かを問う話です。
      祐一たちのクラスが何組だかようわからんのでこちらで
      2組ということにしました。なにしろ男の好日とは何か
      を問う話なので仕方ないのです。


 名雪の部活が休みの日、俺と名雪と北川と美坂姉妹のいつもの五人で百花屋に寄った。
その帰りに商店街を歩いていると少し前を歩いていた女性を見て栞が声を上げた。
「あ、お母さんだ」
「あ、母さんね」
「ホントだ」
「おう、美坂のお袋さんじゃん」
 香里、名雪、北川もいう。名雪も北川も会ったことがあるんだよな。俺は初めてだ。
「お母さーん!」
 栞が大きな声で呼ぶと、その女性が振り返った。これが香里と栞のお母さんか、と俺は
目を細めてその顔を見る。
「へえっ」
 思わず声が漏れていた。香里と同じウェーブヘアー、どちらかというと栞似の丸い感じ
の面立ち。かなりの美人だった。
「あら、みんな、学校の帰りね」
「うんっ」
「母さんは、晩御飯の買物ね」
 確か、以前に四十歳ぐらいだと聞いたことがある。秋子さんみたいなとても高校生の娘
がいる年齢には見えないという外見ではなく、ぱっと見、四十歳ぐらいだろうという顔だ。
変な言い方だが、秋子さんが年齢不祥の美人だとしたら、こちらは年齢通りの美人といっ
たところか。
「こんにちは」
「ちわっす」
 名雪と北川が挨拶する。
「どーも」
 俺も軽く頭を下げた。
「ああ、祐一さんははじめましてでしたね」
 そういって、栞が紹介してくれる。俺のことはある程度聞いていたらしく、美坂母は初
対面の俺に親しげな笑顔を見せた。
 香里と栞は、そのまま母親と一緒に家路についた。途中まで、北川が荷物を持っていっ
た。美坂母に夕食を誘われていたが、今日は自分が風呂の当番だからと北川は残念そうに
断っていた。
 翌日の昼休みにみんなで飯を食っている時に、美坂母の話をしていたのだが、そういう
話をしていたらどうしても気になったので聞いてみた。
「父親ってどんな人なんだ?」
 どうやら北川のことを気に入っているらしいので普通の物差しでははかれなさそうなの
だが。
「父さんは……」
 なにやら香里が言葉を濁す。
「お父さんは、すっごい素敵な人ですよー」
 栞が満面の笑みでいう。娘にこうまでいわれりゃ父親冥利に尽きるというものだろう。
「わたし、会ったことないよ」
 と、名雪がいう。
「美坂の親父さんは、うーん、上手くいえないなあ」
 北川が腕組みして首をひねる。
「なんていうか、うん、いい人だぞ」
 結局、ありきたりなことをいう。しかし、こいつが「いい人」というと素直に受け取れ
んな。
「まあ……名雪も相沢君も……来週の体育祭で会えるわよ」
 香里が溜息をつきながらいった。
 そういえば、来週の日曜日はうちの学校の体育祭だったな。名雪がいうには、昔から生
徒や保護者ばかりでなく近所の人たちも観戦に訪れてお祭り騒ぎになるらしい。
「父さん、栞が体育祭に出るのをどうしても見るんだって」
「あ、そうか」
 栞が復学してから初めての体育祭だ。病弱で明日をも知れぬ命だった娘。その娘が回復
して元気に走りまわるのを見たいのだろう。
「日曜日は絶対に来るから。父さんの仕事、日曜出勤が多いんだけど、社長にコレ見せな
がら今度の日曜は絶対休ませてもらう、っていったらしいわ」
 香里は「コレ」といって人差し指と親指を伸ばす。いわゆるシュートサインだ。やりま
すよ、マジでやりますよ、星野さん、やっちゃっていいんですか、というサインである。
「そういや、この後のHRで出場種目とか決めるっていってたな」
 一週間前に決めるんじゃそんなに練習もできないな。そもそも、お祭りみたいなもんら
しいし、勝ち負けは重要視されないんだろうな。
 って、俺は思っていたのだが……。
「ええー、僭越ながら、この度、2組の大将に選ばれましたことはぁ!」
 HR。北川が教壇の上に片足を乗せてなんか叫んでる。
「皆様の期待に応えて、一生懸命頑張ろうと思います!」
 なんでこういうことになったか……。
 HR開始後。学級委員の香里が前に出て黒板に何か書き始めた。ずらりと体育祭の種目
を書き並べているようだった。ざっと見て、100M走、400Mリレー、などなど。だ
が、気になるのがあった。一番右端に「大将」とあるのだ。どう見てもどう考えても何か
の種目の名前には思えない。
「名雪、あれなんだ?」
 うつらうつらと揺れている名雪の頭を小突いて、俺は尋ねた。
「にゅぅ……あれは、大将さんだよ〜」
「だからその、大将さんが何かって聞いてるんだろうが!」
「体育祭の時に、クラスの大将になる奴さ」
 北川が後ろから助け船を出してくれる。この男に助け船を出されてしまうのは寝惚けた
名雪ぐらいだろう。
「体育委員とは違うのか?」
「違う違う。えーっと、違うんだよ」
 どう違うのかは説明できないらしい。
「体育委員は他のクラスの同委員や生徒会と協力して体育祭の運営をするけど、大将はク
ラスの勝利を目標とする。こんなところでいいかしら?」
 呆れた顔と声。教壇のところにいる香里だ。
「あー、なんとなくわかった。……もしかして俺たちうるさかったか?」
「うるさかったわよ」
 香里さんがメンチ切ってくる。ちょっと大音量で話しすぎたか。
「うにゅぅ、祐一のせいでわたしまで香里に睨まれたよ〜」
 むすっとした名雪が文句をつけてくる。眠気がすっかり覚めたらしい。
「えへ、美坂と目が合っちゃった」
 北川がもじもじとしている。知り合ってけっこう経っているはずなのに、未だにそんな
ことで頬を赤らめるこの馬鹿はとことん幸せそうだった。
「それじゃ、誰か大将やってくれる?」
 香里がいうと、クラスがしんと静まり返る。
 その静寂が破れた。どいつもこいつもがお互いに「お前やれ」「お前こそやれ」と譲り
合いというか押し付け合いになる。
「よし、名雪やれよ」
「えー、嫌だよー」
「お前、陸上部の部長だろ、大将も勤まるってば」
 などと、適当なことをいって俺は名雪に押し付けようとする。そういうわけのわからん
ものを自分が押し付けられてはたまらん。
「だったらお前やれ、相沢ぁ!」
 やや遠くから斉藤の声がする。
「そうだよー、祐一がやればいいんだよ」
 名雪が嬉しそうに同意する。
「相沢やったれ!」
「相沢かませ!」
「相沢がいいなあ!」
 しまった。
 どいつもこいつも生贄を見つけて「よし、今だ」とばかりに俺の名を連呼しやがる。ヤ
ブヘビだったか。
「お、俺より北川がいいんじゃないかなあ!」
 苦し紛れに後ろにいる北川を推薦する。
「ん? 俺か?」
 北川はクラス中から注がれる視線を受けながら、
「みんながやれっていうならやってもいいぞ」
 そういうわけで……。
「大将じゃー! 俺が大将じゃー!」
 こういうことになった。
「天下取ったらぁ!」
 とうとう教壇に乗って叫び散らす北川。
「おっしゃあああああ!」
 男子どもがそれに和す!
「一位以外は負けじゃー!」
「おおおおぅ!」
 なんか、めっさ勝ち負けを重視する方向で行くらしい。
「それじゃてめえら! 出たい種目を選べコノヤロウ!」
「選ぶぞコノヤロウ!」
「コノヤロウてめえコノヤロウ!」
 おっそろしいハイテンションの男子連中にはっきりいって引いてしまった俺は呆然と、
みんなが黒板の前に集まって出たい種目のところに自分の名前を書いているのを見ていた。
「おい、なんなんだ。いったい」
 たまらず、名雪に声をかける。
 どーもみんな、北川に引き摺られてるとかいう感じでもなさそうだ。
「え、うちの体育祭はああやって男子が必要以上に力を入れるのが当然なんだけど、祐一
の前の学校は違ったの?」
 幾らなんでもここまで常軌を逸さねえよ。
「っていうか、あいつらさっきまであんなテンション高くなかったぞ」
「あ、それはね、みんなさすがに大将はやりたくないんだよー」
 それでか、北川が引き受けるとなった途端に異常な盛り上がりを見せたのは。
 黒板の前で北川を中心に大騒ぎしているみんな。なんか、みんなが遠くに行ってしまっ
たような気がしてちょっと寂しかった。
「相沢ぁ、お前は何に出るんだ〜!」
 北川がいった。
「あ、なんだよ相沢ぁ、お前もさっさと来いよ」
 斉藤も手招きする。
「ああ」
 俺は立ち上がり、黒板へと向かう。
「北川に次ぐ存在のお前が来ないと始まらないぜ!」
 次ぐってなんだよ、次ぐって、何が次ぐんだよ、俺。
 かなり疑問だったが、その疑問を口にしてみんなに笑顔で「アレなとこ!」とか唱和さ
れたりしたらもう立ち直れないので、黙っておいた。
 俺は楽な種目に出たかったのだが、「祐一は足速いよ〜」との名雪の推薦のせいで10
0M走に出ることになった。まあ、これも楽といえば楽だよな、十秒ちょっと走れば終わ
るんだし。
「よし、それじゃ、勝つための作戦を明日までに考えてくるぜ」
 と、北川がいっていた。
 翌朝、北川は朝から寝ていた。
「どーしたんだ?」
 いつものように時間ギリギリに来ると、北川が椅子に座って首をだらりと後ろに傾けて
寝ている。
「なんか、昨日寝てないんだって、体育祭の作戦考えて」
 と、香里がいう。作戦は今日のHRで発表するまで内緒、ということらしい。
「……どんな作戦なんだか」
 相当に疑わしい顔で香里はいった。
 一日中、北川は寝っぱなしだった。放っておくと鼾をかき始め、そのたんびに香里さん
が「うるさい」と裏拳で叩くのだが、むにゃむにゃいっただけでまた寝てしまう。
 そして、HR。
「北川君、作戦を発表するんじゃないの?」
「ん〜、美坂〜、もう立たないよ〜」
「……」
 無言で打ち下ろされる鉄槌。潰れる北川。……首折れたんじゃねえのか。
「あー、なんだ。一時間目、始まるのか?」
 数時間の時の流れから取り残された北川は真面目な顔でいった。当たり前のようにピン
ピンしている。
「もうHRよ」
「おー、ちょっと寝ちゃったかー」
「作戦を発表するんじゃないの?」
「あ、そうだそうだ」
 いいつつ立ち上がり、前に出ていく。ポケットから折り畳まれたノートの切れ端を取り
出し、それを見ながら黒板に何か書き始める。

 1 水瀬が走る
 2 優勝
 3 美坂と初めてのデート(遊園地)
 4 観覧車で美坂に告白、付き合いはじめる
 5 美坂とデートを重ねる
 6 観覧車で美坂と初めてのキス
 7 観覧車で美坂と初めてのH
 8 美坂が妊娠する
 9 みんなに祝福されつつ学生結婚
10 観覧車で陣痛が始まる
11 無事出産。元気な男の子
12 翌年、観覧車で女の子を出産

「どーだ!」
 黒板を叩き、胸を張り、誇らしげな北川。
 誰が妄想含有率の高いお前の人生設計を見せろといったか。
「みんな、大体わかったか?」
 お前が観覧車に異常な思い入れがあることはわかった。
 香里は……
「……」
 うわ、睨んでる睨んでる。めっさ睨んではるで。
「ちょっといいかしら?」
 香里さんが立ち上がり、ずんずんと前に歩いていく。
「ん?」
「北川君」
「あれ? 女の子が先の方がよかったか?」
 空を切る、というより空を押しのけるような右フック。
 北川が縦回転して飛んでくの久しぶりに見たなあ。
「それじゃ、これ無しね」
 教室の隅っこにふっ飛んだ北川に目もくれずに香里が黒板に羅列された字を消していく。
あのー、香里さん、石橋さんが北川の回転に巻き込まれてえらいことになってます。
「まあ、辛うじて同意できるのはこれぐらいね」
 と、香里が黒板消しを持った手を止めていった。黒板には最初の一項目。
 1 水瀬が走る
 というのだけが残っている。
「実際、優勝目指すためには、名雪をはじめとする運動ができる人たちに高得点の種目に
出て頑張ってもらうことになるわね」
「走るの好きだから、頑張るよ〜」
 名雪がにこにこしていう、こいつは本当に走るのが好きだからな、
「祐一も、ファイトっ、だよ」
 しかし、頼むから俺に何かを期待するなってば。
「んぐむ〜、あむぅ〜」
 不気味な再起動音を発しながら北川が起き上がる。
 だが、その時には既に香里さんがクラスの主導権を握ってしまっていて、観覧車で愛を
育むことしか考えてない馬鹿には出番が無くなっていた。
「俺、どーする?」
「北川君はどんと構えてなさい。実務はあたしがやるから」
「え、でも、俺、大将だし」
「大将はどんと構えてるものなのよ。いざとなった時に出てくるの」
「おう、そうか」
 奇跡的なほどの早さ(&お手軽さ)で権力の委譲が行われた。
「先生、保健室に行ってくるから、みんなちゃんとやってるんだぞ」
 血まみれの石橋さんが匍匐前進で教室を出て行った。さすがだ、問題児揃いのクラスを
任されているだけのことはある。

 翌日の放課後から練習が始まった。夕方六時ぐらいまで校庭や体育館を各クラスが交代
で使う。時間が余り無いのでじっくりと練習はできない。
 しかし、普段から部活、特に運動系をやっている連中にとってはいつもの部活動と同じ、
いや、むしろそれよりも軽いぐらいなので簡単なことなんだろうけど、帰宅部の俺にとっ
ては辛いことだ。
「俺は朝練やってんだから帰らしてくれー」
 とはいってみたものの、うちの影の大将にあっさり却下された。無論、朝練というのは
毎度毎度の全力疾走の登校を指す。
「名雪、祐一と一緒に走れるの嬉しいって凄い喜んでるのよ。付き合ってあげなさい」
 と、これも影の大将の言葉である。
「毎朝一緒に走ってんじゃんかよー」
「文句いわないで行きなさい」
 そういうわけで教室を追い出されるように校庭に向かった。今日は他の幾つかのクラス
と共同してだが、うちが校庭を使える日なのだ。
「祐一、遅いよ〜」
 名雪が待ちくたびれたのか足踏みしながら待っていた。しょーがねえな、付き合ってや
りますか。
 名雪と一緒にウォーミングアップに学校の回りをぐるりと一周して帰って来ると斉藤が
走っているのを見た。
「おい、どうしたんだ」
 練習という感じではない、急いだ様子で第二体育館から校舎への渡り廊下を走っていた。
「あー、ちっと1組とトラブっちまった」
 そういって、斉藤は走っていった。
 俺と名雪は顔を見合わせる。
「俺たちも行ってみるか」
「うん」
 斉藤にやや遅れて着いて行くと、斉藤は教室に入った。
「どうしたの?」
 どん、と構えた貫禄たっぷりの影の大将が斉藤と俺たちを迎えた。
「それがな」
 と、斉藤が語るには、第二体育館で練習していたところ、一緒に共有していた1組との
間にトラブルが発生したらしい、発端は両クラスの使用領域の境界線を越えた、越えない、
いや越えた、越えたにしたってそんぐらいでガタガタぬかすな、というよくあるくっだら
ない揉め事だったのだが、手を出してしまったために大事になった。
「こっちが先に手を出したの?」
 眉をひそめつつ影の大将――香里――がいう。
「悪ぃ、最初かるーく、謝ったんだけど、それでもガタガタいいやがるから、つい」
 頭をかきつつ恐縮しまくった表情で斉藤がいう。……こいつもしっかり手ぇ出した一人
だな。
「もう、しょうがないわね」
「すまねえ、そんで、向こうは大将がその場にいてさあ、こっちの大将呼べとかいいやが
るんだよ」
「と、いっても北川君は今いないのよね」
 確かに北川はどこにもいない。校庭組にもいなかったし。
「どこ行ったんだ?」
 俺が尋ねると、
「ああ、栞に貸しちゃった」
 香里は平然と答えた。
 なんでも栞は、応援用の垂れ幕などなどを作る係になっていたらしいのだが、同じ係の
男子が学校を休んでしまい、人手が足りないと嘆いていたので北川を貸し出したらしい。
 ……仮にも大将なんだから貸すなよ。
「しょうがないわね、あたしが話を……」
 香里がそういって腰を上げる。北川が首突っ込むよりも香里さんが睨みきかしたほうが
あっさり片付いて却っていいかもしれないな。
 そう思っていたら、
「たっだいまー!」
 幸か不幸か、丁度北川が帰還してきた。
「美坂〜、しっかり栞ちゃんの手伝いしてきたぞ、ん? どうかしたのか?」
 と、いいつつ、北川はアイスを食べている。バニラ味だ。
「それどうしたんだ?」
 薄々とはわかっていたが、一応聞いてみる。
「ああ、栞ちゃんがお礼にくれたんだ」
 案の定なことをいいながら、木製のヘラのようなスプーンでアイスをすくっては口に運
んでいる。
「北川君……」
 香里が、妙に座った目で北川を睨んでいた。
 ちょいちょい、と指で招く。招かれた北川は怒鳴ったり叩いたりする主人にそれでも着
いて歩くあんまり頭のよくない犬みたいな風情で香里の方へと歩いて行った。
 香里が右手を振り上げ、拳を振り下ろした。北川の頭へと。
 ごつん、と重々しい音が教室中に響いた。
「な、なんだ?」
 突然のことに、俺は驚かざるを得なかった。北川が香里にシバかれる時には、いつもわ
かりやす過ぎるほどにわかりやすい理由があり、今の北川にそんな素振りは無かった。ま
さか、北川が栞にバニラアイスを貰ったというだけでキレたわけでもないだろう。
「歩きながらものを食べちゃ駄目っていったでしょ!」
「おお、すまん」
 どうやら、歩きながらものを食べたらシバくのが香里の教育方針らしい。
「香里、お母さんみた……うにゅ」
 名雪が危険極まり無い発言をするので慌てて口を塞ぐ。
「なんかいった?」
 香里さんがこっちを向いたので俺は名雪を押さえながら首をぶんぶんと横に振った。
「お前、そんなシバかれたいのか、だったら止めんぞ」
「うー、ありがとう、祐一」
 ようやく、自分が危ない橋を鉄下駄履いて渡ろうとしていたことに気付いたようだ。
「で、なんだなんだ? なにがあったんだ?」
 さっさと復活した北川が尋ねてくるので斉藤が手短に説明する。
「北川君、大将の出番よ」
「おお、そうか!」
 よっぽど今までやること無かったのか無闇に力み返る北川。
「ようし、それじゃ行ってくるか」
「こっちだ」
 斉藤が先に立って案内しようとする。
「ちょっと待って」
 香里が北川を呼び止めた。
「一応、こっちが先に手を出したから悪いのはこっちよ、それはわかってるわね」
「うん。ちゃんと謝ってくればいいんだろ」
「でも、向こうも手を出してるんだからこっちが全面的に悪いわけじゃないわ」
「なるほど」
「下手に謝ったら駄目よ、こっちが悪いことにされるから」
「うん」
 ……段々雲行きが怪しくなってきた。
「そもそも発端は小さいことなんだから、あっちがいつまでもネチネチいいがかりつけて
くるなら、謝ってばかりいることは無いのよ」
「おうっ」
「どうしても埒が開かなかったら1組との全面戦争も止むを得ないわ」
 いよいよ物騒になってきた。
「よし、わかった。俺は鉄砲玉ということだな」
「違うわ……でも、まあ、そんぐらいの気持ちでいいわ」
 いいんですか。
「じゃ、行ってらっしゃい」
「おおう、行ってくるぜ〜、斉藤、相沢、着いてこい!」
 俺も行くのか、やっぱり。
「名雪は校庭行って練習してろ」
 俺は、着いて来たそうな名雪に強くいってから北川たちに続いた。
「おらぁ! 大将出て来い、コノヤロ!」
 北川は第二体育館の扉を蹴破った。
「な、なんだ!」
 中にいた連中が、当然のことながら驚いている。俺が見たこと無い奴らなのでたぶんそ
いつらが1組の連中だろう。
「相沢! 雑魚は俺と斉藤が引き受けた。お前は真っ直ぐに大将の首狙ってけ!」
 いきなり戦争状態にするなよ。そして俺を急先鋒にするな。
「お、お前ら、何しに来たんだよ!」
 1組の男が叫ぶ。
「謝りに来たんだよ、見てわかんねえのか!」
 見れば見るほどわかんねえよ。
「だーっ! もう、斉藤、止めるぞ」
「お、おう」
 俺と斉藤は二人がかりで北川を押さえつける。
「な、なんなんだよ、いったい」
 さすがにうちの組に関わったこと自体が間違いだと気付き始めたのか、1組の大将らし
い男が幾分青ざめた顔でいう。
「いやー」
 しょうがないので、俺がきっちりと詫びを入れようとしたが、うちの大将の飼い主のこ
とを思い出す。下手に謝ろうものならシバかれる。
「まー、痛み分けってことでどうだ?」
 できるだけにこやかに俺はいった。
「んー」
 大将としての面子があるのか、明らかにビビりまくっていた1組の大将が悩む様子を見
せる。
「……こいつ、放すぞ」
 俺は、ぼそりといった。その「こいつ」は「放せ〜! 必ず勝って帰ると美坂と約束し
たんだ〜!」とか喚いている。無論、そんな約束は全くしていない。
「うっ……」
 1組の大将はあからさまに「嫌だなあ、それ」という顔をしていた。幸い、というかな
んというか、他の1組の連中も似たような顔をしている。
「おい、北川に無茶されたらやべえぞ」
「そ、そうだな」
 とか話し合っているようだ。
「おら〜、どうすんだ〜、うちの大将は無茶すんぞ〜」
 もう自棄になって、散々脅かしてやることにした。
「そうだ、そのう、うちの大将は、あれだ……噛むぞ」
 俺に同調した斉藤の言葉に連中は蒼白になった。
「噛まれるってよ」
「嫌だなあ」
「なんか感染したりすんじゃないだろうな」
 連中は心底嫌そうな顔で話し合っている。そして……
「すんません、痛み分けでお願いします」
 そういうことになった。
 それからもちょくちょくトラブルは起きたが、我らが大将北川が解決した。なにしろこ
いつが謝りに行くと結局先方が謝ってくるのである。同じクラスで色々と苦労させられて
いるが、敵にはしたくない生き物だとつくづく思った。

 そして体育祭当日。
 嫌になるぐらいの好天だ。朝っぱらからカンカン照りの中を名雪と登校する。俺は制服
だが、名雪は体操服だ。祐一もジャージで行けばいいのに、という名雪だが、俺は制服で
行くことにした。
 学校に到着すると、校庭で既にウォーミングアップをしている生徒たちがいる。「○組
優勝!」とか「×組完全燃焼」とか「△組挺身せよ」とかいったノボリや幕がちらほらと
見られる。
「おっはよー」
 我がクラスの席に行くと、北川がいた。
「今日はやるぞー」
 ヒンズースクワットをしている北川、足元に既に汗で水溜りができている。いつからや
ってんだ、この馬鹿は。
 額にぎりりと巻いた鉢巻が勇ましくなくもない、墨で黒々と「美坂チーム」と書かれた
それはなんだか異様な存在感があった。
「へへー、これ、いいだろ。お前らの分もあるから、つけろよ」
 何がそんなに嬉しいのか。っていうか、いつからうちのクラス全体が美坂チームになっ
たのか。
「おはよう」
「おう、美坂」
 香里がやってきた。
「……何よそれ」
 北川の額に輝く文字に対して案の定機嫌がよろしくない。
「何って、美坂チームじゃん」
 答えになってるとは思えないことをいって満面の笑み。一部であれを見ると物事を深刻
に考えるのが馬鹿らしくなってくると評判の笑顔だ。
「止めなさい」
「ええー、でも、これつけてたら力が湧いて来るってみんないってるし」
 いや、お前だけだ。そんなことで力が湧いてしまうのは。
「父さんたちも来るのよ、恥ずかしいじゃないの」
「んー、美坂が止めろっていうなら止めるけど……俺は心の中では美坂チームだからな」
 わざわざ親指立てていうこっちゃないと思うが、とにかく北川は力強く断言した。
「はぁ、そう」
「俺は死ぬまで美坂チームだーーー!」
「うるさいわよ」
 叫びながらヒンズースクワットを再開する北川に香里さんのローキックが炸裂する。
「それじゃ、作戦だけど……っていっても、もうそれぞれの種目で頑張ってもらうしかな
いんだけどね、ま、頑張って」
 けっこう投げやりである。
 俺の出る100M走が午前の早い時間にあるので、俺は早速柔軟体操で体をほぐしにか
かる。
「祐一、押してあげるねー」
 頼んでもいないのに名雪が背中を押してくる。痛えっての。
「よーし、やるぞー」
 んでもって、実は俺と同じく100M走に出場する北川が隣で張り切っている。毎朝自
転車で時速50kmをマークしている脚力を見込まれてのことだ。
「美坂〜、俺も押してくれ〜」
 両足を開いて上半身を前に倒しつつ北川がいう。そもそも体が軟らかいらしく、押して
もらうまでもなく北川の上半身はけっこう前屈していた。
「はい」
 その背中を思いきり香里が踏み付けて、北川の胸が地面にべったりと接触する。
「おう、ありがとー」
「どういたしまして」
 グリグリ踏んづける香里さん。あんまり大きな声ではいえないが、ちょっとこの人はサドだ。
「相沢君も頑張るのよ、ん?」
 と、サドの香里さんがおっしゃるので頑張らないとえらい目に合いそうだ。
「よし、じゃ、マジで気張ってみるか!」
「おう」
 俺と北川は立ち上がり、100M走の出場選手の集合場所へと行った。
 俺は日頃の名雪との登校の成果と、一緒に走る組に陸上部とかそれ系の手強い奴がいな
かったこともあって、中盤に差し掛かったころには2位に安心できるだけのリードを取っ
て、そのままトップでゴールした。
 北川は俺の次だ。
 位置についてヨーイ……タタン、と音が二回鳴る。あの馬鹿、フライングしやがった。
 フライングを三回したら失格になる。
 二回目……またフライング。
「北川、落ちつけ!」
 たまらず、俺は声をかける。100M向こうなんで聞こえたかどうかは疑わしいが。
 北川はここから見てもわかるほどに全身に力がみなぎり……過ぎていた。スタート前な
んだからそんなに力入れないでいいのに。
「スタート!」
 タン、と銃声一発。今度はフライングじゃない。
 フライングじゃないんだが、スタートした瞬間に北川の後方に土の塊が舞い上がり、と
うの北川の額が地面にめり込んでいた。
「……何やってんだ。お前はぁー!」
 クラウチングスタートの体勢で、必要以上に足に力が入り、必要以上に前傾姿勢になっ
ていた北川は、スタートの瞬間に地を削るように蹴り、額で地面を打ったのであった。
「まだまだぁ!」
 大いに差をつけられた北川だが、立ち上がり、走り始めた。50メートル地点でまたも
や上半身と下半身の連動が奇跡的なほどにチグハグになって盛大にコケる。前に向かって
コケて、コケたまま進む。立ち上がる、またコケる。
 結局北川は六人中四位だった。あそこからコケながら二人抜いたのは十分に賞賛に値す
るんだけど、素直に賞賛したくない気分で一杯だ。
「いやー、まいった。ラスト20メートルで靴紐がほどけてな」
 それ以前の問題だろうが。
「何やってんのよ!」
 香里を筆頭にした素直に賞賛したくない気分の人たちにシバかれた北川を助け起こしつ
つ、乾いた喉を潤おすために飲み物を買いに食堂に行く。今日は食堂は休みだが、売店は
開いていている。
 食堂からの帰り道、外来の人間と思われる私服姿の男性に声をかけられる。
「ちうーっす」
 北川が挨拶するので、俺も頭を下げる。
「あ、こいつ、例の相沢っす」
 北川がそうやって俺を紹介する。
「ああ、どうもどうも、娘が世話になってます。美坂香里と栞の父です」
 ぺこりと頭を下げた。
 ほほう、これが香里と栞の親父さんか、一つか二つしか違わない夫婦だって聞いたこと
あるから、四十を少し出たぐらいのはずなんだけど、三十半ばに見える。若々しい……っ
ていうよりか、ちょっと童顔かな。
 とにかく、優しそうな人だ。社長にシュートサイン見せながら休暇願い出すような人に
は見えない。
「ところで北川君、相沢君」
 突如、神妙な顔になる美坂父。
「入る時にプログラムを貰ったんだが……」
 と、いう美坂父の手には生徒会が作って配っている今日の体育祭のプログラムがある。
「実は誤植というか、落丁を見つけたんだ」
 んー、しかし、今更作り直して配り直すわけにもいかないだろう。
「これは、やはり運営本部なりなんなりに知らせないとまずいだろう」
「そうっすね」
 北川が頷く。
「あの、どんな誤植なんですか?」
 大したこと無いやつだったら放っておいた方がいいと思うんだけど……。
「保護者参加二人三脚競走が抜けているぞ」
 いや、最初からそういう種目は無いです。
「……本当だ!」
 北川が叫ぶ。おい。
「よし、俺が教えて来ますよ」
「おお、頼むよ」
「はい」
 美坂父は去っていった。
「おい、北川」
「行くぞ、相沢!」
 そういって、北川はずんずんと体育祭運営本部のテントに向かっていく。生徒会の自治
権の強い我が校は、体育祭もほとんど生徒会が運営している。生徒会に各クラスの体育委
員が加わったものが体育祭運営本部と考えていい。
「北川、わかってんのか、お前。あんな種目は最初から無いんだぞ」
 限度を余裕でぶっちぎる馬鹿のこと、もしかして本当にわかっていないという可能性も
考慮して、俺は一応聞いてみた。
「ああ、わかってる」
「わかっているなら……」
「いや、美坂の親父さん、栞ちゃんと一緒に走りたいんだよ」
「……そりゃ、俺もわかっちゃいるけど」
「だったら保護者参加二人三脚競走はありだ!」
 ありかよ。
「ええい、正しいかどうかは歴史が決めること、俺は知らん!」
 正しいかどうかの判断を「歴史」とやらに思いきりぶん投げて北川はテントの前に立っ
た。
「久瀬ぇ、出てこい、おらあ!」
 テントといっても、屋根を張っているだけのものなので久瀬がそこにいるのは遠くから
でもわかるのだが、必要以上に大声を出して北川が突入する。
「北川君か、それに相沢君も」
 久瀬は落ち着いた態度でこれを迎える。周りでは生徒会役員たちが「北川が無闇にキレ
てやってきた」ということで騒然としている。
「ん? なんだこれ」
 見ると、長いものが数本立てかけられていた。長い棒の先端に二股の金具が着けられて
いる、こりゃ、江戸時代とかに捕物に使った差股とかいうのじゃないのか。
「それか、こういうイベントでは人のとこで羽目を外してくれる外部の人間も……ああ、
もちろん時に内部の人間もだが、そういう人間もいるのでね、それを取り押さえるのに使
おうと思ってね」
 それにしても物々しいな、こんなの本当に役に立つのか?
「さて、それで、なんの用かな?」
「プログラムに落丁があった」
 北川が自信を持って断言する。
「なに? そんなはずはない。それは僕が何度もチェックをして……」
「保護者参加二人三脚競走が抜けているぞ!」
「……なに?」
「保護者参加二人三脚競走」
「そ、そういう種目は最初から無かったはずだが……」
「抜けてる!」
「くうっ!」
 久瀬の顔に汗が浮き出ている。
「ま、まさか、最初から無い種目を追加させるならともかく、最初からあったものとして
扱い、抜けているから訂正しろと迫るとは……」
 荒く息をつき、久瀬が北川を睨む。
「やはり、僕の予想の範疇に入らない男だ……」
「久瀬、抜けてる」
「ぬうう」
 久瀬が唸る。
「会長、どうします?」
「こんな無茶苦茶なこといわれましても……」
「ここは断固として引き取ってもらった方が……」
「ええいっ!」
 だんっ、と久瀬がテーブルを叩いた。その音と声に、テント内が静まる。
「黙れ黙れ、これは器量の勝負だ。一人の男が、一人の男の器量を試しているんだ」
 いや、そんな大袈裟に考えるなってば、どう考えても北川のいうことが無茶なんであっ
てだな……。
「マイクを貸せ!」
「はいっ!」
 役員が久瀬にマイクを差し出す。
「あーあーあー、こちら、体育祭運営本部。本部より連絡があります」
 いうと、久瀬はきっ、と北川を見てさらに続けた。
「本日配布しましたプログラムに誤植がありましたのでお知らせします。昼休み前に、保
護者参加二人三脚競走が入る予定でしたが、抜けていました。ここに謹んでお詫び申し上
げます。なお、今から参加を受付ますので御来場の方は、是非とも奮って御参加ください」
 一息にいって、マイクのスイッチを切る。
「どうだ」
「おう、あんがとな、久瀬」
 北川がにっこり笑って背を向ける。
「ま、まだだ。まだ僕の器にはあの男はおさまりきらない。だが、いつの日か……」
 久瀬は、ブツブツと呟いていた。
 北川は意気揚々と引き上げていく。
 北川と席に戻ると、名雪が声をかけてきた。
「祐一〜、お願いがあるんだけど」
「ん? なんだよ」
「お母さんと二人三脚出てくれないかな?」
「はあ? そんなの、お前が出たらいいじゃないかよ」
「わたしは、その直前の200M走に出るんだよ〜」
 そういえば、こいつは100,200,400と競走系の種目には出倒してたな。
「走った後にすぐそっちに回ったらいいじゃないか」
 美坂父の思い込みと北川のごり押しと久瀬の男の器量とやらで無理矢理作られたお遊び
種目なんだし、それで問題無いだろう。
「でも、それだと疲れてるし」
「お前なら大丈夫だろ、そもそも突発お遊び企画なんだからそんなマジになることは……」
「お母さん、勝つ気なんだよ」
「……さいですか」
 そういうわけで名雪に手を引っ張られる。
「頑張れよー」
 北川が手を振っていた。なんだか、所在無げに見える。少し寂しそうだったようにも見
えた。あいつ、両親と仲悪いを通り越して絶縁状態らしいからなあ。なんでも笑いの波長
がとことん合わないということだが。
 んなくだらんことで、と思わないでもないんだけど、あいつがいうにはけっこう重要な
ことらしい。
「おかげで、一緒に笑ったことがないんだよ」
 と、こないだいっていた。
「俺が笑ってる時は不機嫌そうだし、向こうが笑ってる時は俺がむかついてるしな」
 って、妙に乾いた声でいってもいた。
 名雪に手を引かれた先には秋子さんがいた。名雪が貸したというジャージを着て柔軟体
操をしている。十七歳女子高生と同じ体型をしている十七歳女子高生の母、恐るべし。
「どーも」
「お願いしますね、祐一さん」
 スタートラインに行ってお互いの足を結び合わせる。って、なにドキドキしてんだよ、
俺は。
「ん?」
 その動揺が伝わったのか、秋子さんが不思議そうに覗きこんでくる。可愛いじゃねえか、
何歳なんだよ、この人は。
「じゃ、が、頑張りましょう」
 ややどもりつついって、誤魔化すように辺りを見回す。
「ふっふっふ」
「はっはっは」
 ……美坂親子と目が合ってしまった。
「祐一さんが来ましたか、でも、私とお父さんには勝てませんよ〜」
「私と栞は息ぴったりだからな」
「ぴったりなんです」
「ぴったりだ」
「ふっふっふ」
「はっはっは」
 あんま関わりたくないなあ、この親子。
「ははは、まあ、お手柔らかにな」
「私と祐一さんも息ぴったりですよね」
「……もちろんっす」
「むー、そうなんですか」
「でも、私と栞ほどぴったりではないだろう」
「そうですよねっ」
「そうに違いないさ」
「ふっふっふ」
「はっはっは」
 この親子、どう扱ったらええんじゃろ。
「あー、二人三脚に出場する人達はこれで全てですか」
 久瀬がスタート用の拳銃を持って現れた。いきなりの突発飛び入り企画だけにそんなに
参加人数は多くない、俺と秋子さんのペアを入れて九組といったところだ。
「この人数なら二つに分けましょう。そうですね……」
 いいつつ、久瀬が参加者たちの中に入る。
「僕から見て、こちらとこちらに分かれてください」
 と、四組と五組に分ける。
 その、四組の方に俺らと栞たちが入っていた。
「ふっふっふ、勝負です」
 ひたすら不適な笑みを浮かべる栞。こんな子だったかなあ……いや、なんかこんな子だ
ったような気もするなあ。
「さて、それではスタートするぞ」
 俺たちの組は後に回された。
 生徒会長自らスターターを勤めて競走は開始された。
 さすがにいきなりのことだったためか、転倒するペアが続出したが、それはそれでウケ
ていた。
 そして、いよいよ俺たちの番だ。
「祐一さん、負けませんよ」
 栞の奴は自身満々だ。
「あなたたちにこんなことができますかっ!」
 栞がそういって、父親と顔を見合わせる。
「せーの」
 すたたんすたたん、と軽快なステップを刻む。すげえ、二人三脚状態であんな軽やかに
タップを踊るとは。
「どーですかあ!」
「どーかね!」
 いや、すげえ、あんたらホントすげえ。だからもう止めてください。物凄い砂煙が立っ
てますんで。
「あらあら、強敵ですねえ」
「そうっすねえ、ちょっとあれには勝てないかな」
 秋子さんがにこやかにいうのに、俺も苦笑しつつ返す。
「敗北主義者ですか?」
「はい?」
「祐一さんは敗北主義者ですか?」
「いや、勝ちますよ、もちろん!」
 やる気っすね。
「それでは二組目の方もスタートします。準備はいいですか」
 久瀬が拳銃に火薬を詰め替えている。俺たちはラインの前まで移動した。
「それでは」
 全ペアがライン前に立ったのを見て、久瀬が右腕を上げる。
「待てやぁぁぁぁ!」
 響き渡る絶叫。
「俺たちも参加させてもらうぞ」
 北川がやってきた。隣で、美坂母があらどーも、なんて秋子さんと挨拶してる。
「む、北川さんを引っ張って来ましたか」
 栞が難しい顔になっていう。
「どういうことだ?」
「お母さんは、お姉ちゃんとペアになって出場するつもりだったんですけど、お姉ちゃん
にこういうイベントにわざわざ参加するような可愛げなどあるはずもなく、出場はしない
ことになったんです」
 聞こえないと思ってけっこういいますね、あなた。
「そうなのよ、そうしたらそこに北川君が来たから一緒に出てってお願いしたの」
「おう、お願いされたんだよ」
 いいつつ、美坂母と自分の足を結び付けている。
「頑張ろうね、北川君」
「うす!」
 のほほんとした笑顔の美坂母に相変わらずフルチャージの北川。なんか、こいつと俺、
相方を取り替えた方がいいんじゃなかろうか。
「ふふん、お母さんといえど容赦はしません。あなたたちにこんなことができますか!」
 すたたんすたたん、すたたんたん。……だから、止めろっつってんだろうが。
「じゃ、行きましょうか。ごめんなさいね、祐一さん、こんなおばさんが相手で」
 濛々と立ちこめた砂煙の中、秋子さんがいう。
「水瀬さんはお若いから相沢君も満足ですよ、北川君こそ、こんなおばさんが相手じゃね
え」
 美坂母がそういって笑う。
「そんなことないっすよ、なあ、相沢」
「そうですよ」
 北川が同意を求めてくるので、俺は強く頷いた。実際さっきはガラにも無くドキドキし
ちまったからなあ。見た目の若さでいったらそりゃ秋子さんなんだけど、美坂母もかなり
綺麗な人だし。
「人妻最高っすよ! なあ、相沢!」
「いや、そりゃ、お前」
 北川が一際でかい声で同意を求めてくるので俺は言葉を濁す。そんなことでかい声でい
うんじゃねえよ。おい、生徒会長、なんとかいってくれ。
「お、恐ろしい男だ。あの男には禁忌というものが無いのか」
 しかし、久瀬はひたすら北川を恐れているだけで使えやしない。
「確かに人妻は最高だが」
 十分俺に届く音量でいいやがったな、この馬鹿会長。
「おい、久瀬、スタートしないのか」
「そうか……それでは、みなさん準備はいいですか」
 俺が呼びかけると、ようやく自分の仕事を思い出した久瀬が参加者に問い掛ける。
「それでは」
 誰からも声が上がらぬので、久瀬が右手を高く上げる。
「位置について……よーい……」
 タン、とスタートの音が鳴った。
「ようし、お父さん行くよー」
「うむ、私と栞の息の合ったところを全人類に見せてやろう」
 無闇に壮大な野望を口にする美坂親子。
「それじゃ、行きましょう」
「はい、それじゃ、まずは真中から」
 俺と秋子さん。一の掛け声で結び合わされた足を、二の掛け声で逆の足を踏み出す。い
い感じだ。
「うおおおおおおおぅ!」
 そして、北川潤と美坂母の非血縁ペア。やっぱりというかなんというか、いきなり北川
が、どう考えてもスタートの瞬間に二人三脚がどういう競技かを忘れ去ったとしか思えぬ
ほどに全力でスタート。
「あ、ちょっとちょっと北川君」
 片足で飛ぶように北川になんとか着いていった美坂母の声に気付いたのか、急停止する
北川。
「あのね、ちょっとおばさん、その速さには着いていけないかなって」
「あ、すんません」
 頭を下げる北川。
「あんた、母さんに怪我させたら殺すわよ!」
 客席から香里さんのドスの利きまくった声が聞こえる。
「美坂に殺されるなら本望!」
 そういう問題ではないのだが力一杯断言する北川。
「……母さんに怪我させないでね、頼むわよ」
 さっきの言い方がさっぱり効果無しと見て、即座に対応を変える香里さん。
「美坂に頼まれた」
 余程の衝撃だったのか、硬直する北川。いや、競技中なんだが。
「よおおおし、やるぞお!」
「北川君、そんなにうちの香里のこと好き?」
「もう、大好きです!」
 校庭中に響き渡る大声で断言する北川。早くしなさい、早く! と急かす香里さんの怒
声。
「よし、行きますよ」
 北川たちは、走り出した。
 かくいう俺らも一、二、一、二と声を合わせて足を合わせて走っている。
 かなり息の合ったコンビネーションだと思うんだが、美坂親子に追いつけやしねえ。あ
いつら、普通に走るのとほとんど速度変わらねえぞ、あんなん勝てるか、畜生。
「あっ!」
 後方から悲鳴に似た声が聞こえる。あれは美坂母か。
 心配になったのでちらっと後ろを見る。躓いて転んだようだったが、地面との間に北川
が挟まっているのでそんなにダメージは受けていないようだ。
「ありがとう、北川君」
「美坂に頼まれましたから」
 どうやら、美坂母が倒れるところへ北川が間に入ってクッションになったらしい。北川
の顔に美坂母の胸が押しつけられる体勢になっている。野郎、上手いことやりやがったな。
「くそ、北川君め、上手いことやったな」
 だから、聞こえてるってんだよ、この馬鹿会長。
 結局、俺と秋子さんは二着でゴールした。
「ふっふっふ」
「はっはっは」
 美坂親子が勝ち誇っているのでできるだけ目を合わさないようにする。
 すたたんすたたん、すたたんたんたん。
「風上でやるんじゃねえ!」
 全身砂っぽくなった俺が体を手で叩いていると北川たちがやってきた。どうやらビリだ
ったようだな、スタート直後にあんだけもたついてちゃ当然なんだが。
「おつかれ」
 いつのまにか、香里が来ていた。心配そうに母親の方にと向かっていく。
「大丈夫? 怪我とか無い?」
「ええ、大丈夫よ」
「お母さん、祐一、おつかれー」
 香里の後ろから名雪も来た。
 これから昼休みだということを告げるアナウンスが流れている。そういや、腹減ったな。
「相沢」
 北川が声をかけてきた。何度も転んだりしたのでなかなか汚れまくっている。
「手とか洗ってくら、ついでにパンも買ってくる」
「あ、おれも行くぜ」
 それに、飯なら秋子さんが多めに弁当作ってきたみたいだからわざわざ買わなくてもい
いぞ、っていおうとしたら、香里が俺たちを呼んだ。
「あたしたち、父さんたちのとこ行ってるからね」
「おう」
「ああ」
「それと北川君」
「ん?」
「母さんと栞が、あなたの分も作ってきたから、パンとか買ってこないでいいわよ」
「え、俺の?」
「そうよ、要らないの?」
「いや、要る要る」
「じゃ、さっさと手洗ってきなさい」
 それから、俺たちは水道のところに行って手を、北川は足と頭も洗って席の方に戻った。
「おう、来てたのか」
 秋子さんと名雪と一緒にいる真琴とあゆに声をかける。
「あ、祐一くん」
「肉まんは上げないからね」
 いらんわい。
「やあ、北川君」
「たくさん作ってきたから遠慮無く食べてね」
「ささ、北川さん、お姉ちゃんの隣にどうぞ」
「ちょっと、栞」
 北川は美坂家の方に引っ張り込まれていた。
 ある程度秋子さんの弁当を食べたら、美坂家の方のと取り替えたりする。
 食い終わったら雑談して、残りの時間を過ごす。一際大きな笑い声が聞こえた。北川が
またなんか馬鹿なこといったらしく、美坂家四人――香里は苦笑いだったけど――と北川
が笑っていた。
 やがて、昼休み終了を告げるアナウンスが入る。
 俺と名雪は立ち上がる。向こうでも、北川と香里と栞が立っていた。
 途中で栞と別れて、自分たちの席に向かう。前を名雪と香里が、その後ろを俺と北川が
歩いていた。
「なあ、相沢」
 北川が、いった。
「俺、あの人たちのためなら……」
 そう、言葉を切ったきり、後を続けない。また、しばらく歩いた。
「ん、悪ぃ、なんか、上手くいえないな」
「そうか」
「でも、あれだな、俺は美坂も栞ちゃんも、二人の御両親も、好きだな」
「そうか」

 午後の種目を消化していく。
「よし、一番だったよ〜」
 女子の400M走が終わり、名雪が帰って来る。やっぱりこいつは大したもので、出場
している競走系の種目では軒並みぶっちぎりで1位を取っている。他も、それなりにクラ
ス内で足の速い奴が出て来ているだろうにやるもんだ。
「えっと、そういえば得点はどうなってんだ?」
 今まで気にしてなかったけど、残り種目も少なくなってきたし。
「うちは四番目ね、ちょっときついけど」
 香里が、いう。
「でも、最後の騎馬戦で取ればなんとかなるわ」
「へえ」
 騎馬戦は、男子のみの種目だ。俺らが頑張らないと駄目ってことか。
「よーし、やってやるぜえ」
 北川がやたらと力み返っている。
 そうこうしているうちに最終種目、騎馬戦の時間になる。
「行くぞお!」
「おっしゃあ!」
 大将の北川を先頭に校庭に出ていく。歓声が大きく上がる。明らかに、今日で最大のそ
れだ。
「うお、すっげえな」
「花形種目だからな」
 と、いったのは斉藤。
「近所の人で、これ見るために来る人だっているぐらいなんだぜ」
「そうなのか」
「うちのはけっこう激しいからなあ、見てて面白いんだよ」
 騎馬戦は8組のクラス対抗によるトーナメント戦である。1位2位に3位2クラスの4
クラスのみに得点が入る。
 この得点配分がなかなかに極端かつ不均等で、ここまででかなりの差をつけられていて
も1位を取れば十分に逆転可能だ。
「最初の相手は7組か」
 離れたクラスなのでよく知らないが、斉藤がいうには「警戒する相手じゃない」という
ことだ。
「大将が鉢巻取られたらそれでおしまいだからな、俺らの責任はけっこう重大だぜ」
 と、斉藤がいう、俺と斉藤ともう一人の男子で馬を組み、その上に北川が乗っている。
他の連中はうちは白、相手は赤の鉢巻をしているのだが、北川は大将の印として白に一本
赤線が入ったものを絞めている。
「あいつがあっちの大将だ。狙えたら一気に取ってやろうぜ」
 斉藤の指し示す先に、赤字に白線の入った鉢巻をしている奴がいる。
 馬は、俺が前に、その後ろに斉藤ともう一人がいる。
「相沢、お前一番前だから」
「ああ」
「どんどん蹴れ」
「……蹴る?」
「蹴れ」
「いいの?」
「いいんだよ、前の奴が蹴り入れて馬崩して、前に傾いて騎手の頭が下がったところをこ
っちの騎手が鉢巻取る。これがセオリーだ。OK?」
 OKじゃねえよ。
「なんだよ、それ」
「いや、だってさ、うちは……」
 そういって、斉藤が隣の男子と北川を見る。
「だってうちの騎馬戦、アリアリルールだから」
 三人声を合わせていった。
 いった直後には審判役を勤める体育教師の野太い「はじめえっ!」の声が聞こえてきた。
「おっし、行くぜえ」
 なし崩しに前に進む。相手もどんどん近付いてくる。
「大将が来たぜえ、いきなり一騎打ちで決めてやるか!」
 北川がいうように、前方から赤字に白一線、敵の大将が進んでくる。
 だが、敵の大将の前に他の騎馬が横から入ってくる。
「よし、相沢頼むぞ」
 って、マジで蹴っていいのかよ。
 相手の騎馬の先頭の奴が右足を上げ、それを突き出してくる。
「っとお!」
 それを左膝を上げてブロックする。マジっすね。
 だったら、こっちも遠慮しねえ。
 俺も右で蹴り返した。手応えあった。思い切り水月(鳩尾)。
 片膝をつく、それにより大きく体勢が崩れ、北川が手を伸ばして悠々と相手の鉢巻を取
った。
「どんどん行くぜ」
「いいのか、大将がこんな前出て」
「いいのいいの」
 単騎突出しまくった俺たちはあっという間に包囲される。
「蹴れ蹴れ、おらあ!」
 四方八方から蹴りが来る。こっちも負けずに蹴り返す。やがて、俺らを包囲してた連中
が外側からうちのクラスに包囲されていく。俺らが引きつけて頑張っている間に、その分
有利になった他の連中が包囲網外の敵を片付けて助けに来てくれたのだ。
 結局、そのまま俺たちのクラスが勝った。
 二回戦の相手は5組だったが、これも同じ戦法で勝ち。しかし、その二戦でそれなりに
ダメージを受けた俺と斉藤ともう一人は決勝戦では騎手になることになった。
「あー、もう足が痛えよ」
 俺が痛がっていると名雪が濡らしたタオルを持ってきてくれた。それで冷やす。
「相沢君、おつかれ」
 香里が来た。
「悪いわね、あの戦法考えたのあたしなの」
「あー、そうなのか」
 どうやら、あの大将が囮になる戦法は香里の考案らしい。
「まあ、決勝戦は騎手だから」
「ああ」
 話していると北川が来た。
「相沢、そろそろ時間だぜ」
「よし」
 立ち上がる。手を振る名雪に応えながら戦場に向かう。
 相手は3組。久瀬のクラスだな。そういえば、あいつが大将だったな。
 じゃ、いっちょやりますかあ!
「って……」
 対峙する両軍。
 照りつける陽光。
 横から吹く風。
 それによっていい感じに膝の高さぐらいにたなびく砂煙。
 それはいい。いいんだが。
「多くねえか?」
 俺の目がいきなりおかしくなったのでなければ、向こうのクラスはこっちの3倍ぐらい
いる。
「あー、多いわ」
「久瀬の奴、頑張りやがったな」
 とは、俺の隣にいる北川と斉藤だ。
「おい、どういうこった!」
「え?」
「だって」
 北川と斉藤とその他の連中も声を揃える。
「うちの騎馬戦、アリアリルールだし」
「だから、どういうルールなんじゃあ!」
 蹴り入れるのは千歩ぐらい譲ったらなんとか受け入れられたが、人数があからさまに多
いっていうのはなんだってんだ。
 その時、突然大きな笑い声が轟く。
「あはははははーっ! あはっ! あはっ! あはははーっ!」
 黄金バットではない。
 脳天気ななんも考えてなさそうなこの声は!?
「それについては佐祐理がご説明しますねー!」
 脳天……ピュアな笑い声の正体は佐祐理さんだ。
 そして、ずかずかと戦場に乗り込んでくる佐祐理さん。
「我が校の騎馬戦は、降伏させた相手は次の対戦で自軍に組み入れることができるんです
よ」
 そうだったのか。
 でも、そんなの俺たち考えもしなかったぞ。
「どういうことだよ」
 俺は斉藤に尋ねる。うちの作戦考えたのは香里なんだから、そんなとこで抜けがあると
も思えないんだが。
「いや、別のクラスの連中なんてどうせそんなまともに戦わないし、それならうちのクラ
スの奴だけでガッチリ固めて戦おうってことだったんだけど……」
 そういって、斉藤が言葉を濁す。
「まさか、あれだけ揃えるとはなー、ちょっとあの数相手は辛いなー」
 ていうか、あれ、一回戦二回戦の相手のほとんど全員を降伏させてないか。そうでない
とあの人数にはならないぞ。
「えっと、まさか、マジでこの人数差でやるわけ?」
「やりますよー」
 佐祐理さんが笑っている。
「この騎馬戦は戦前から続く伝統ある競技ですからー」
 そういえば、戦前からあったのか、この高校。今の制服になったのはつい五年前のこと
らしいが、それまでは学ランにセーラー服だったということだ。
「戦後GHQの政策で中止になりかけたんですよ、捕虜虐待に繋がるということで」
 なんか、将棋でそういう話を聞いたことがあるな。
「そこで激怒された佐祐理の曾おじい様がGHQの本部に乗り込んだんです。あ、曾おじ
い様は実はここの第一期生なんですよ」
 話がでかくなってきた。つーか、いきなりこんなところで戦後史開封せんでも。
「そして、ディス・イズ・ジャパニーズ・スタイルと日本の伝統を主張され、マッカーサ
ー元帥とシバき合いに……」
 いや、銃殺されんのか、それは。
「GHQのみなさんも、OH! SAMURAI! といたく感動され、それ以降、マー
さん、クラさんと呼び合う仲になったんです」
 う……胡散臭え。
「そういうわけですからー」
 つまり、おとなしくこの圧倒的な人数と戦いなさいということか。
「くっくっく」
 このどうしても陰性に分類するしかない笑い声は……。
「悪いが、数の暴力で勝たせてもらうよ」
 久瀬か。
「くっくっく、ここいらで一つ、北川君に勝っておくのも後々のためになるだろう」
 やる気だな、こいつ。
 しかし、実際この人数にかかられたら勝てるわけないぞ。なんか、既に鶴翼の陣になっ
てるし。狙いは大将首を取ることだけど、これだけ人数揃えてかかってきてるんだし、そ
もそも久瀬の性格からして最後方に下がっているだろう。
「おい、相沢、始まったらあそこだ」
 北川が、そういって指差した先に体育用具室があった。校庭の隅にぽつんと建っている
それは広さは教室一つ分ぐらいはある。
「それしかないな」
 斉藤も頷いている。
「いや、あそこって、あそこでどうするんだよ?」
「あそこに立てこもる」
 北川は断言し、斉藤は頷いた。香里……。
「……」
 香里は、無言で体育用具室を指差している。
「でも、この状態であそこに立てこもるのは窮屈じゃないか?」
 そもそも、入り口から入れんのか?
「降りる」
 北川。
「歩兵になりゃいい」
 斉藤。
「いいのか?」
 騎馬戦じゃないのか。
「だってアリアリルールだし」
 みんな。
 ……わかったよ。アリアリルールなんだな。
「それでは!」
 体育教師が出てくる。
「はじめえぃっ!」
 合図と同時に敵に背中を向けて走る。走りながら騎馬状態から歩兵になる。走った。
 目指すは体育用具室。
 中に入り、ドアを閉めた。
 敵がやってきて包囲された。窓から入ってくる奴を殴りつけ、蹴りつける。
 こりゃもう、喧嘩だ。
 ドアが破られた。まずいぞ。
「俺が防ぐ」
 北川が塞いだ。お前、大将だろうが。
「この! てめえ!」
 入り口から一人一人入ってくる敵を撃退する。まず殴らせて、そこにできた隙に反撃す
る。右のストレートで殴られたら、空いた右脇腹に左を打つ。
 一人二人三人……十人。次々に北川に倒されていく。アーマーナイトみたいな奴だ。
 戦いが無闇に白熱してきた。俺も必死になって窓から入ってこようとする敵を撃退する。
「待て、待て、待てぇい!」
 表からそんな声がしてきた。この声は……こりゃ校長じゃないのか。すぐに表からの攻
撃が止む。
「なんだ?」
 思わず訪れた休戦期間。そりゃ、こっちにとってはありがたいんだが。
 窓から表を見る。校長が、客席の方に走っていくのが見えた。
「なんだってんだ?」
「どうやら、校長め、怖気づいたな」
 そういったのは、攻撃の指揮をとっていた久瀬だ。
「このままだと大怪我する人間が出るかもしれんから、中止させようというのだろう」
 むう、それは生徒を預かる立場の人間としてそれなりに賢明な判断かもしれんな。
「で、校長はいったい何しに行ったんだ?」
「僕の父親と、それから倉田さんのお父上に了解を取りに行ったのさ」
 と、久瀬はいう。
「二人とも、毎年この騎馬戦を楽しみにしているからね」
 なるほど、それを勝手に中止にするとやばいわけか。
「あの男はあの二人の機嫌を損ねたら即解雇だからな」
 なかなか辛い立場なんだなあ、校長。
 校長が二人に説明している。
「このままでは、生徒が大怪我をするかもしれません。そうなっては責任問題に発展いた
します。なにとぞ、中止にさせてください」
 けっこう切実なことを訴える校長。
 久瀬の父親はいった。
「責任いうが、そんなもんあんたが腹を切りゃ済む話じゃないか」
 佐祐理さんの父親はいった。
「ここで死ぬならそれまでの男だ」
 そして――。
「続行ーっ!」
 血を吐くような校長の声で戦いは再開された。ちょっと泣きそうだった。
 しかし、再開したのに攻めて来ない。
「どうしたんだ?」
「あーあーあー、これ以上の抵抗は無意味である。降伏されたし」
 スピーカー越しに久瀬の声が聞こえてくる。
「くそ、もう勝った気だな」
「どーする」
「おい、ゴムのチューブがあったぞ」
 何か使えるものは無いかと探していた連中がゴムチューブを持ってくる。
「あー、たぶん、柔道部が打ちこみに使ったり、筋トレに使ったりするやつだろ」
 と、斉藤。
「これ、使えるな」
「どうするんだ?」
「これで、久瀬んとこまで飛ばすんだよ」
「何を」
「人間」
「……」
 いや、理屈は辛うじてわからんでもないんだが、そんなんしたら危ないだろう。そんな
のに耐えられる人間なんて……。
「ん?」
 気付けば、みんなの視線が北川に集中していた。
「あーあーあー、これ以上の抵抗は無意味である。降伏されたし」
 ええい、さっきからうるせえな。
「あーあーあー、これ以上の抵抗は無意味である。降伏されたし」
 しつこいな。
「あーあーあー、これ以上の抵抗は無意味である。降伏されたし」
 ……。
「あーあーあー、これ以上の抵抗は無意味である。降伏されたし」
 だーっ、うるせえっ!
 って、あの野郎、テープレコーダーに吹きこんだ声流してるだけじゃねえか。楽しやが
って、こっちはチューブとか使って苦労して作ってるのに。
「名雪、俺には奇跡は起こせないけど……」
「んな!」
 今の、俺の声だよな?
「あ、しまった。残ってたか」
 野郎、例のテープに上書きしてやがったのか(かのんイズム3参照)
「名雪、俺には奇跡は起こせないけど……」
「あ、しまった」
 リピートしてんじゃねえ。
「てめえ久瀬、コノヤロウ! そこ動くな!」
 触れられたくないものにこんな大勢の前で触れやがって、許せねえ。
 俺は、棒高跳びで使う棒を持って飛び出した。
「どけコラァ!」
 気迫で道を開けさせて、一直線に久瀬に向かう。
「でも、名雪の側にいることはできる」
「どかねえと叩っ殺すぞ、コノヤロ!」
「約束する……名雪が悲しい時には、俺がなぐさめてやる」
「命が惜しけりゃすっこんでろ!」
 久瀬は目の前だ。
 俺は棒を振った。
「こんなに証人がいたらもう別れられないよ〜」
 名雪、黙ってろ。
 久瀬の野郎の肩に一撃。
 だが、次の瞬間には足をすくわれて倒れていた。
 手が足が、即座に押さえつけられる。これは……さっき運営本部のテントで見た差股な
どの捕物道具だ。早速役に立っている。主に俺のせいで、くそ、なんか知らんが無茶苦茶
悔しい。
「くっくっく、今のはひやっとしたぞ、相沢君」
「俺は、ずっとここにいる。もう、どこにも行かない」
 すんません、頼むから、それ止めてください。
「俺は……」
 いや、止めろ、止めてくれ。
「名雪のことが、本当に好」
 あーーーーーーーーーーー!
「久ぅぅぅぅ瀬ぇぇぇぇぇ!」
 その時、それをかき消す上からの声。
「その首貰ったーーーっ!」
 北川が降ってきた。
 ずどん。
 視界を無くすほどの砂煙が立つ。
 ようやく晴れたそこにあったのは、地面から生えてる下半身だった。
 みんな、呆然としてる。
「うおおおおっ、久瀬の首取ったれや!」
 そこへ、斉藤たちが突撃してくる。
「久瀬ぇ!」
 叫んで、斉藤が拍子抜けしたような顔になる。
「ん?」
 久瀬もつられて不思議そうな顔。
「あっ」
 俺は久瀬を見て、思わずいった。
「な、まさか!」
 久瀬が慌てて、手を自分の頭にやる。だが、いくら触っても、いくら髪を描き回しても、
その手に鉢巻は触れない。
「へへへ……」
 誇らしげな声。
 ぽっかり空いた穴の横。上半身を土だらけに汚した北川が、赤字に白い線の入った鉢巻
を手にして笑っていた。
「取ったぜ」
「よっしゃあ!」
 うちの連中が和す。向こうの方から、女子の歓声も聞こえてきた。
「名雪、俺には奇跡は起」
 俺は、リピートし続けるテープレコーダーを滑り込んで止めた。

「美坂〜、貰ってきたぞ」 
 北川が、貰ってきたばかりの優勝トロフィーを香里に渡す。
「よし、次は観覧車で愛を育むだけだ」
 まだ諦めてなかったのか、それ。
「美坂、今度一緒に遊園地行こう」
「観覧車は乗らないわよ」
 思いっきり釘を刺される。
「でも、遊園地行きたいね、みんなで」
 名雪が、笑ってそういった。
「栞ちゃんも誘って」
「そうだな」
「いいですね」
「ぬあ」
 また、いきなり後ろから現れやがって。
「みなさんと遊園地行きたいです。私、体治ってからまだ行ったこと無いんですよー」
「そうか、それじゃあ行くか、丁度明日は振替休日だしな」
「はいっ!」
 栞が嬉しそうに頷いた。
「お、栞ちゃんじゃねえの、丁度いいや」
 そこにカメラを持った斉藤がやってくる。よくうちのクラスにやってくる栞のことはみ
んな知っている。
「シャッター押してよ」
「あ、いいですよ」
 カメラを手にした栞を前にクラス一同が思い思いの姿勢で並ぶ。
「じゃ、撮りますよー」
 栞が、シャッターを押す。瞬間、北川が盛大に倒れる。……たぶん、香里と肩組もうと
してシバかれたんだろう。
 後日できあがった写真では、北川だけ思い切りブレていた。

                                    終



     次回予告

        遊園地にやってきた祐一たち。無邪気な様子で北川と腕を
       組む栞。
       「私がこうやって北川さんにモーションかけてお姉ちゃんを
       焦らすんですよー、これでお姉ちゃんと北川さんはくっつき
       ます」
        と、いうのだが、そんなもん香里が北川が栞に手出してる
       と思って激怒するだけなんじゃないだろうかと危惧する祐一。
        そして悲しいぐらいに予想は当たり、切なさに胸が絞めつ
       けられるぐらいに巻き込まれるのであった。
       「全て私の掌の上ですー」
        全て栞の掌の上なのか!?
        傍観者でいたいのに傍観者であることを許されない男の背
       中を通して男の好日とは何かを問う。
        鋭意製作中。








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