かのんイズム8






    まえがき

      この話は自称常識的一般人である相沢祐一の目を通して
      彼の周りの破天荒(キチ)な人物たちを描き、男の好日
      とは何かを問う話です。
      えらい間が空きましたがコツコツと書いてはいたのです。
      


 月曜日の午前十時、百花屋の席は半分以上が空席だった。平日のこの時間だからそれも
当然だろう。昼頃になるとランチセット目当ての客でそこそこ賑わい、午後は学校帰りの
学生などで席は埋まる。
 俺と名雪が店内に入ると、北川と美坂姉妹が既に窓際の席に陣取っていた。栞は朝から
バニラアイス、香里はコーヒー、北川は何も食って来なかったのかフレンチトーストとコ
ーヒー。
「よう」
「おはようございます」
「おはよう」
 俺と名雪も挨拶しながら席に着く。
 今日は体育祭の翌日の振替休日、それを利用してみんなで遊園地に行こうとしている。
駅前で待ち合わせということになっていたのだが、香里の提案で百花屋になった。表だと
寒いし、百花屋なら先に来た人がお茶でも飲んで待てるから、というのだ。暗に名雪が遅
れるからその方がいいといっていた。んで、俺も思い切り同感だった。
「ちゃんと起きたみたいね」
 眠そうに、うにゅ〜と鳴く名雪に香里が微笑む。そう、名雪はみんなから「どうせ寝坊
するだろう」というプレッシャーをひしひしと感じ、昨夜は午後七時には就寝し、今朝は
九時には目を覚ましたのだ。それでも十四時間寝てるわけだが。
「俺はミルクティーにしとくかな」
 早速注文する。
「わたし、イチゴサンデーがいいな……」
「朝っぱらからそんなもん食うな、眠そーだからコーヒーにしとけ、ブラックな」
「うー、ブラック飲めるかな」
 やがて、俺のミルクティーと名雪のブラックコーヒーが運ばれてくる。クリープを入れ
ずに、一口二口をストレートティーとして楽しむ。
「苦いよ〜」
 あまりに泣き言をいうので、しょうがないからクリープをくれてやる。結局ストレート
になっちまった。
「まだ苦いよ〜」
 ええい、こいつは本当に甘いもの好きの苦いものは苦手だからな。
「名雪さん、一欠けらあげます」
 同志として見かねたのか、栞がアイスを一匙すくって、それを名雪のコーヒーに浮かべ
てやる。
「わ、ありがとー」
 名雪は嬉しそうだ。
「ふう、ごっそさん」
 北川が食べ終わった。香里はもうコーヒーを飲み干しているし、栞のアイスも後僅か。
アイスを投入したことで甘味が加わった上に冷めたせいか、名雪もゴクゴクとコーヒーを
飲んでいる。
 俺も少し急いで紅茶を飲み込む。
 がしゃん、と音がしたのはその時だ。その音を聞いた瞬間に「割った」と思った。その
方を見れば、やっぱり砕け散ったコップが細かいガラス片となって床に散らばっている。
「おい、何すんだよ」
 客の男がウエイトレスに文句をつけている。どうやら水がかかったらしい。
 すいませんすいませんと頭を下げているウエイトレス。俺はそれから目を離して紅茶を
すする。
「……ちょっとしつこいわね」
 香里が、眼光鋭く視線を飛ばす。その先には相変わらず謝っているウエイトレスと相変
わらず喚いている男。
「あと十秒してもやってるようだったら行くわ」
 そう言って、香里が腕時計を見た。
「ん、だったら俺が注意してこようか?」
「騒ぎが無闇に大きくなるからやめなさい」
 北川の提案を一蹴した香里が「十秒」と呟いた。
 カウントダウンされているのも知らずに男は大声で何か言っている。
「どうしました?」
 騒ぎに気付いて店長がやってきた。俺たち、そして俺たちと同じく騒動を眺めていた店
内の客たちの間にほっとした空気が流れる。これでウエイトレスの子は解放されるだろう。
 店長は経緯を聞いて平身低頭した。その態度に「行ける」と踏んでしまったのか、男が
クリーニング代云々ということをいいだした。
「水がかかったぐらいで何がクリーニングよ」
 氷塊がひび割れたような凄みのある声でいわれる香里さん。腰が浮きかける。
「兄ちゃんら、あれ見ていっとんのか?」
 と、その時、店長の声のトーンが落ちた。
 いうと同時に店長がやや上方を指差す。
 そこには、額に入った一枚の写真が飾ってあった。三人の人間が写っている。
 男たち――見るからにヤンキー高校生だが――の顔が強張る。
 俺たちも、大なり小なり、驚いていた。そこには、俺たちのよく知る人間がいたからだ。
 あははははーっ、という笑い声が写真から聞こえてきそうなほどに満面の笑みを浮かべ
る佐祐理さん。
 これまたにっこりと笑っている店長。
 そして、その店長と握手をしている無表情の黒髪美人。
 写真の右隅には、

 百花屋さんへ 川澄舞

 と、丸っこい字で書いてあった。この丸っこい字は確かに舞の字だ。別に丸っこく書こ
うとか思わずとも普通にこんな字を書くのだ、あいつは。なんかの拍子に舞のノートを見
た久瀬が絶句してたことがあった。無表情で無愛想で、でも実は優しくて可愛い奴だ、と
思っていた俺はともかく、あいつの持っていたイメージとはあまりに違ったのだろう。
 それよりなにより、この写真である。引き伸ばして額に入れられたそれについて、俺は
思い当たる節があった。
「舞は百花屋さんでは“顔”なんですよー、この前行ったら店長さんが一緒に写真撮って、
額に入れるからサインしてくれって、それで、お代もタダにしてもらっちゃいましたー」
 とかなんとか、佐祐理さんが我が事のように誇らしげにいっていたことがあった。おそ
らくあれがその時に撮った写真だろう。
「いや、どーも、すんません、そんな違うんすよ、あれですよ」
「そっすよ、水がかかっただけですから、気にしないでくださいよ」
 あからさまに態度がふにゃけた男たちがペコペコと頭を下げる。
「まあ、兄ちゃんらもこれからがある若者だし、わしも追いこむ気はないから、とりあえ
ず、割ったコップ代だけ置いてきな」
「え、コップ割ったのは俺たちじゃ……いくらですか?」
「一万だな」
「はい」
 いいのかなあ。
「ま、いいわ」
 香里さんがそういわれるならいいです。
「わぁ、川澄さんだ」
「おう、川澄さんの写真じゃないか」
「川澄さん凄いですね、私も一緒に写真撮って持っておこうかな」
 名雪と北川と栞が写真を見て無邪気に話している。いや、栞は無邪気とはいえんかもし
れんけど。
「みんな食べ終わったんなら、早速行きましょ」
「そうだな」
 香里がいい、俺がそれに答えて席を立つ。
「むー」
 キョロキョロと辺りを見回しながらアイスが入っていた器を眺める栞。たぶん、舐める
かどうか迷っている。
「うにゅ〜」
 名雪は未練がましくメニューに載っているイチゴサンデーの見本写真を食い入るように
見つめている。
「行くわよ」
「行くぞ」
 香里が栞の、俺が名雪の後ろ襟首を掴んでねこを捕獲するように立たせる。
「あんたも早くしなさい」
 いつまでも水に入っていた氷を噛み砕いている北川は、香里がぴょんと立った癖っ毛を
掴んで引っ張り上げた。
「あふぅ」
 北川の口から声が漏れる。気持ちいいのか。
 電車で五つほど離れた駅からバスに乗ってしばらく行くと、目的の遊園地はあった。遠
くから見て、観覧車にジェットコースター等々、遊園地と聞いて連想する代表的な乗り物
は揃っているようだ。
「み、み、み、みしゃか」
 どもりまくりつつ北川が香里に声をかける。
「なによ」
「見ろよ、あれ」
 指差す先にはゆっくりと回っている観覧車。
「……観覧車がどうしたっていうのよ」
「なんていうか、その、ちょっと恥ずかしいよな、いざ目の前にするとさ」
「……勝手に恥ずかしがってなさい」
 冷然と言い捨てる香里だが、観覧車の観覧の部分を無視して密閉空間であるという要素
を異常に重視して用途を完全に誤解している北川は、モジモジしながら観覧車と香里の間
へと視線を行ったり来たりさせている。
 俺たちは入園料を払って中に入った。すぐに広場があり、店が建ち並んでいる。ぐるり
と円形に建った店に囲まれた場所にテーブルや椅子が置いてあり、いくらかの人がそこで
休憩をとっていた。
 俺たちも空いたところを探すととりあえずそこに座り、入園する時に貰ったパンフレッ
トの地図を見てあれこれと計画を立てた。
「ジェットコースター乗りましょうよ、その後はこのフリーフォールに乗りたいです」
 栞が真っ先に絶叫系のハシゴを提案する。
「あなた、大丈夫なの?」
 香里が心配そうに尋ねる。一応、病み上がりといえば病み上がりなのだ。
「大丈夫ですよう」
 栞はニコニコしながらいった。まあ、顔を見る限りでは健康そのものだ。透き通るよう
な白い肌は健在のまま、血色はよくなっている。
「調子が悪くなったらすぐにいうのよ」
 栞の願いはなるたけ聞き入れる香里がみんなに姉馬鹿、妹煩悩といわれている優しい笑
顔をしながらいった。
「もし調子が悪くなったら、北川さんに助けてもらいますから」
 栞はそういって、隣に座っていた北川の右腕にしがみついた。
 ぴしっ、と空気が固形化して亀裂が走ったかのような錯覚に襲われる。
 香里さんの御機嫌は、これでもかというぐらいに斜にかまえておられる状態である。そ
こで栞が「お姉ちゃんに助けてもらいます」ということを期待していたのかもしれない。
っていうか期待していたに決まってる。
「ねー、北川さん、助けてくださいねー」
 腕にしがみついたまま、北川の肩に顔をすりつけるようにする栞。
 ぎしっ、と空気に断層ができて擦れ合ったかのような錯覚に襲われる。
「か、香里が怖いよ〜」
 その、気圧に影響を与えかねない香里の様子にさすがの天然ぼんやり系最右翼の名雪も
気が付いて怯えている。
「はっはっは、もちろん栞ちゃんがピンチになったら助けてあげるぞ」
 空いている方の手で栞の頭を撫でている北川。こいつは全く気付いていない。っていう
か、もし万が一仮に気付いていたとしてもこの馬鹿の行動は変わるまい。
「わぁーい、北川さん、大好きです」
 栞は気付いてないはずないのに、なにゆえさっきから香里の機嫌を傾けるようなことを
するのか。
「じゃ、行こうぜ」
 とにかくこの空気を有耶無耶にしようと俺は立ち上がり、ジェットコースターに向かう。
「あんまり並んでないといいですねー」
「そうだねえ」
「あ、でも、私たちは体育祭の振替休日ですけど世間一般では平日ですから、すぐに乗れ
るかも」
「お、そういえばそうだったな」
「はい」
 北川と栞の会話である。いや、内容はそれでいい、いいんだが……。
「……」
 香里さんが北川の後頭部を睨んでおられます。
 栞が北川の右腕に手を回したままなんだよ、これ、どうしましょ。
 やはり、ちょっと栞に注意した方がいいかな。体治って、久しぶりに来た遊園地ではし
ゃいでいるのかもしれないけど、久しぶりに栞と遊園地に来るのを香里だって楽しみにし
ていたはずなんだから、その栞が北川にべったりでは色んな意味で愉快ではないだろう。
 んでもって香里が不愉快だと北川にそれがぶつけられ、その飛び火が俺に飛んでくるの
だ。時速100kmオーバーの3tトラックの直撃を受けても平気な生き物がいる一方で、
その際に飛び散った破片に当たったら大怪我するのが俺みたいな一般人なのだ。
 ジェットコースターには並ばないで乗れた。俺と名雪、北川と栞が隣同士で座る。香里
は北川と栞の後ろに座った。中学生らしい男がその隣に座ってきた。香里を見て、明らか
に見惚れていた。まあ、美人だしなあ。しかし、その前方に向けて放たれる眼光を見ると
下を向いて関わり合いにならないようにしていた。
 ジェットコースターが動き出すと、後ろから、
「ううー、怖いですー、北川さーん」
「大丈夫だよ、俺がついてるよ」
 とかいう声が聞こえてきて、そのさらに後ろから突き刺すような視線を感じてどんな回
転よりもそっちの方が怖かった。
 それからもフリーフォールやら他のジェットコースターやら、栞の提案通りに絶叫系を
乗り継いでいった。
 その間、ずっと栞は北川にべったりで香里の機嫌はますます悪くなるのだが、なにしろ
ずっとべったりなので、注意するチャンスが掴めなかった。
 絶叫系に乗りすぎてさすがに疲れたので、昼にはまだ早いけど飲み物でも飲みながら小
休止しようということになった。
「じゃ、買ってくるわ」
 北川が飲み物を買うために自販機の方へと向かう。
「おい、香里も行ってやれよ」
 香里を体よく追い払って、俺は栞を見る。
「おい、栞」
「はい?」
「お前、さっきから北川にべったりじゃないか」
「そうですねえ」
「そうですねえ、じゃない。香里の機嫌が悪くなってるの、わかるだろ。もうちょい、お
姉ちゃんの相手もしてやれよ」
「そうですねえ、お姉ちゃん、御機嫌斜めですね、うふふふ」
 こいつ、確信してやってるのかよ。
「おい、どういうつもりだ」
「もちろん、私の目的はお姉ちゃんの幸せ、お姉ちゃんと北川さんをくっつけることに決
まってるじゃないですか」
「はあ?」
 それは、これまでの言動行動でわかってるけど……っていうか、それがわかってなかっ
たら、むしろ自分が北川とくっつきたがってるように見えたぞ、今日の行動は。
「まあ、今までは正攻法でしたが、今回はちょっと奇策で攻めてみます」
「どういうことだ」
「私は考えました。なんでお姉ちゃんは北川さんにつれないのか……実はそんなに嫌いじ
ゃないと踏んでるんですけどね」
「んー」
 そりゃまあ、北川の愛情表現の仕方に問題があるんじゃねえのかなあ。
「出た結論は、北川さんがお姉ちゃんを愛し過ぎているということです」
「それがなんで……」
「お姉ちゃんは安心しきってるんですよ。北川さんを無限の期限を持つキープだと思って
るんですっ!」
「はあ」
「例えば、お姉ちゃんが自分の虚栄心を満足させるだけの外面はいいけど薄っぺらい男に
騙されて散々弄ばれた挙句に麻薬を覚えて身も心もボロボロになったとしましょう」
 君、凄い例えするね。
「そんな誰もが見向きもしなくなったお姉ちゃんでも……北川さんはお姉ちゃんのことを
受け入れるでしょう」
 力一杯握り拳を作って栞が断言する。
「お姉ちゃんに、そういう安心感があるんです。だからお姉ちゃんは北川さんをずーっと
キープしとくつもりなんです」
「そ、そうなのか」
「そうなんですっ、そこで今回の作戦なのです」
「北川にべったりするのが作戦なのか?」
「うふふふ、どんなに気にしてない男でも、今まで自分しか見てなかったものが突然他の
女の方にふらつくと女は動揺するものなのです」
「確かに、そういうこともあるかもしれんけど」
「特にお姉ちゃんはプライド高いですからねー、ここで北川さんがコロッと他の女に転ん
だら襟首掴んででも自分の方を振り向かせようとするでしょう」
「コロッと、といっても、そう簡単には転ばないだろう、あいつ」
 それなら香里のつれない態度を前にしてとっくのとうに攻めあぐねて諦めているはずだ。
「大丈夫です。僭越ながら、北川さんは私のことも好きなんですよー」
「そうだったか、なんかそんなようなこといってたような」
 香里の次に栞が好きだっていってたな。まあ、DNAは似たようなもんだが。
「それに、北川さんは私のこと妹みたいに可愛がってくれてますから、私が今日みたいに
甘えたら嬉しそうに相手してくれるでしょ」
「うん、まあ」
「ようは、それをお姉ちゃんが誤解してくれればいいんです。で、私の見るところ、しっ
かりと誤解して嫉妬してますよ、んふふふふ」
 ストールで口元を隠して含み笑いを漏らす栞。めっさ悪いこと企んでそうな風情だ。
「いや、でも、それってさ」
「あ、二人が帰ってきましたよ」
 俺が言葉を継ぐのを遮って栞がいう。缶ジュースを持った北川と香里がこっちに近付い
てきていた。
「そうだ。祐一さん、それとなーくお姉ちゃんを煽っておいてくださいね」
「それとなく?」
「なんだかああしていると恋人同士みたいだ、とかそんなことですよう」
 そんなことをいわせる気かね、君は。
「じゃ、頼みましたよー、お願い聞いてくれないと一服盛りますよ、なんてね、それは冗
談ですけど」
 ……盛る気満々だな、コノヤロウ。
「北川さーん、おかえりなさーい」
 そういって北川を迎える栞、さりげなく香里のことは無視してる。
「おう、ただいま、アイスの自販機もあったからバニラ買ってきたぞ、ほら」
「わぁーい、北川さん、大好き」
「……」
 睨んでる睨んでる、めっさ睨んではるで。
「祐一……香里、凄い嫉妬してるね」
「ああ、そうだな」
「でも、あれって、栞ちゃんが北川君とばかり仲良くして自分のことほったらかしにして
るのに嫉妬してるんだよね」
「ああ」
 それ、俺がさっきいおうとしたことそのままだよ。さすがに付き合い長いな、お前。
 む!
「……」
 うわ、見てる見てる、栞が俺のことすっげえ見てる。
 ごくりと唾を飲み込む。
 北川の肩に頭を預けながら栞はなおも俺のことを見ている。
 やれっていうのか。
 一服盛りますよー。
 そんな声が聞こえたような気がした。
 奴のことだ、どこからどう俺の口に入るものへ異物毒物寄生虫等々を混入してくるか知
れたものではない。
 えらい女に見こまれたもんやで。
「……」
 ええい、わかったわい。
「いやー」
 心配そうな、本当に心の底から心配そうなんだが自分が代わろうとは口が裂けてもいい
そうにない名雪に見守られつつ、俺は口を開いた。
「北川と栞、仲良いなあ」
「え、そうですかあ」
 白々しく栞が驚いた表情でいう。
「ん、まあ、栞ちゃんとはけっこう一緒に遊んでるな」
 確かに気がつくとつるんでる。
「そ、そうしていると……まるで恋人同士みたいだなあ」
 いった。
 俺はいった。
「えー、照れちゃいますよう」
「へ? そんなふうに見えるか?」
「……」
 あの、香里さん。
「……」
 睨まれるのぐらいは覚悟してたんですけど、頼みますから親指の爪噛みながら睨まない
でください。めっさ怖いんで。俺だって命令されてやったことですがな。
 栞はチラチラと香里の表情を見てほくそ笑んでいる。こいつの一番タチ悪いところは、
悪いこと企んでる時ほど笑顔が可愛かったりすることだと思う。
「北川さーん、コーヒーちょっとくださいよー」
 栞がそういって北川の前に置かれた飲みかけの缶コーヒーに手を伸ばした。またなんか
仕掛ける気だな。
「え? 栞ちゃん、コーヒー飲めるの?」
「ブラックは駄目ですけど、お砂糖が入ってるのなら飲めますよ」
「そうか、それじゃあ……」
「待ちなさい」
 香里が慌てて制する。
「そ、そんなこと……」
 いいかけて一度言葉を切る。あ、そっか、このままだと間接キスになるな。
「ほ、欲しいならあたしのを上げるから」
「えー、でも、お姉ちゃんのは紅茶じゃないですかあ、私、コーヒーが飲みたいな、飲み
たいな」
「そ、それじゃ……そ、そうだ、今から同じの買ってきてあげるから」
「いいですよ、ちょっと一口欲しいだけですから」
「で、でも」
「北川さん、貰いますよ」
「え? ああ」
 栞がさっと缶を手に取り香里が止める間もなく口に運ぶ。
「ありがとうございました」
「ああ」
「……」
 気を抜かれて呆然とする香里。だが、北川が缶を手にしようとした瞬間に覚醒してそれ
をひったくった。
「わ、美坂、どうした」
「あら、ごめんなさい、手が滑ったわ」
 確信犯の言い訳において「魔がさした」に次いで使用頻度の高い言葉をいって香里はに
っこりと微笑んだ。
 香里は手を滑らせるとスチール缶を握り潰すらしい、気をつけよう。
「あら、これじゃ飲めないわねえ」
「いや、いいよいいよ」
「そう、ごめんね」
 二人を見てから栞が俺を見る。ぐっ、と握り拳を作っていた。
「そろそろまた回らない?」
 名雪の提案に皆が頷く。休憩なんだがさっぱり休憩になってない、むしろ精神的にだい
ぶやられた俺としては回ってる方がいい。
「それじゃ、次はおばけ屋敷行きましょー」
 栞が嬉しそうに提案し、みんなでおばけ屋敷に向かう。
 定番の和風おばけ屋敷だが、子供の頃に行ったそれよりも音響とか視界の死角とかがよ
り洗練されている感じで、おばけ屋敷も進化してるんだな。
 名雪なんかはけっこう本気で怖がって俺の腕にしがみついて、いかにも何か出そうだぞ
という所に差し掛かると顔を押しつけて見ないようにしている。
 その俺たちの前を北川と美坂姉妹が歩いている。
 栞はさっぱり怖がってないのだが怖がってるフリをしてさっきから北川に抱き着いたり
している。北川は平気なようでそんな栞に優しく言葉をかけている。
 意外なのは香里がけっこうびくびくしていることだ。おばけ、というよりもいきなりわ
っと脅かされる系のが苦手らしく時々「んきゃっ」とか面白い声を出して栞に抱き着いた
りしている。
 で、段々と日が暮れてきた。で、やっぱりというかなんというか、香里さんの機嫌は相
当に悪くなっている。
「じゃ、最後に観覧車に乗りましょう」
「か、観覧車か! そうか、よし、乗ろう!」
 栞の提案にあからさまに反応する北川。
「それじゃ二つに分かれて乗りましょう。私と北川さんと、お姉ちゃんと祐一さんと名雪
さんで……」
「待ちなさい」
 むろん、そんな編成には香里から物言いがつく。
「……相沢君と名雪のお邪魔はしたくないわ、あたしもそっちに乗るわよ」
 この期に及んでも「あたしも栞と乗りたい乗りたい」といえない香里である。
「ふーーー」
 観覧車がゆっくりと上がっていくのに合わせて俺は溜息をついた。
「一息つけるね」
「ああ、まったく今日は大変だったな」
 栞の奇策とやらの片棒担がされて冷や汗をたっぷりとかかされた俺は、名雪と二人きり
のこの空間で全身の力を抜いていた。
「あっちはどうなっていることやら」
 先の観覧車に三人が乗っている。その中に自分がいないことに心底感謝しつつ名雪と一
緒に表を見る。
 夕焼けだった。
 赤い空と建物や木々の接線がぼんやりとにじんでいた。
 赤い空に、全てが溶け込んでいるかのように見える。一日の終わりが始まる時間だ。
 どん。
 なんか、音がした。
「ん? なんだ?」
「なんか当たったみたいだよ」
 コンコン。
 窓を叩く音。
「んな!」
「え、え、え?」
「ちょっと下がっててくださーい」
「な、何やってんだ。栞!」
 栞だった。栞が、紛れもない栞が、観覧車の屋根の上に乗って窓を叩いている。
「どうするんだ」
「えい」
 カッターナイフを取り出して……って、いや、これは栞愛用のカッターじゃなくってガ
ラス切りだな。
 きこきこきこ、と窓を切っていく。
「ていっ」
 栞が丸く切りぬいたガラスを蹴ると円形のガラスが中に落ちてきた。
「よいしょ」
 その狭い穴から体を滑りこませて栞が入ってくる。
「な、何やってんだよ」
「何って、お姉ちゃんと北川さんを二人きりにしてあげたんですよ」
 栞はニコニコ笑っている。
「祐一〜」
「どうした」
 名雪が呼ぶのでそちらを見る。
「……うわー」
 香里と北川が乗っている観覧車が絶叫マシーンのように揺れていた。
「うー、北川さん、頑張って」
 栞が声援を送る。
 ぼとん。
「……」
「……」
「……」
 なんか……。
「なんか、落ちたね」
「落ちましたね」
「そうだねえ」
 えっと、あれはなんだったんだろうか。なんだったんだろう。
「北川君……かな」
「北川さん、でしょうね」
「あ、やっぱそう思う?」
 落ちた。
 よりにもよって一番高い位置にいた時に落ちた。
 いや、たぶん、おそらく、あいつのことだから大丈夫だとは思うんだが……。
 やがて、観覧車が下に到着した。
「……」
 仁王立ちで腕組みした香里さんが待っていた。
「栞ぃ〜」
「なんですか?」
「なんですか、じゃないでしょっ!」
「えう〜、怒っちゃ嫌ですよう」
 ストールを頭から被って涙を溜めた上目遣いをする栞。
「べ、別に怒ってないのよ、怒ってないんだけどね、危ないことしちゃ駄目よっていいた
いのよ、あたしは」
 弱え。
「えっと、北川の奴はどうしたんだ? なんか、途中であいつのように見えてしょうがな
い物体が落ちたようなんだが」
「栞が出ていった途端に手を握ってきたからぶん殴って捨てたわ」
 そうですかー、いや、まあ、あんたも手を握られた段階でそこまでしますか。
「おう、おかえり」
 北川がやってきた。ジュースを買いに行っていたらしい。1ミリぐらいは心配したって
のにやっぱり心配しただけ損だったようだ。
「美坂、ごめんな」
「なによ」
「俺、急ぎ過ぎてたみたいだ」
 俯いた北川が香里と目を合わさずにいった。
「ほら、手握っただろ……やっぱり、いきなりチンポ触ってもらうのは早過ぎだよな」
「そんなことするつもりだったの、あんたはぁ!」
 金玉思い切り蹴り上げてぶん殴った。
「う、そんな、やっぱり早過ぎるよ、そんな」
 切なげにうめく北川、踏みつける香里。
「作戦成功です」
 栞が自信満々に断言した。
 それまではなかった急所攻撃がレパートリーに追加されたのは成功なのだろうか。

「これからうちに来てくださいっ!」
 帰り道、栞がまたもや悪巧みしてるんですよーという顔をしていった。
「いいですよねっ!」
「わー、香里の家にお邪魔するの久しぶりだよー」
「おー、美坂の家にお呼ばれするぞ」
「……俺も行かないと駄目なんか?」
「もちろんですっ、祐一さんも来てくださいよー、嫌とはいわせませんよー、……いうわ
けないですけどね」
 いいません。
「ちょっと栞、今日は父さんと母さんいないのよ」
 香里がいった。
「はい、だからこそです。絶好のチャンスですからみんなで騒ぎましょう」
「わーい」
「おう、いいなあ」
 栞の言葉に賛意を表す名雪と北川。
「もう、明日学校なんだからね、そのこと忘れちゃ駄目よ」
「はいっ」
「それと北川君はなんか妙なことしたら張り倒すからね」
「おう、わかってるぜ」
 こいつがそういって本当にわかっていたことはない。
「……むう」
 難しそうな顔で北川がうめいた。
「……妙なことって」
 なにやら考え込んでいる。
「美坂の歯ブラシを見ながら想像の翼を羽ばたかせるのは妙なことに入るのか?」
「入るわよ」
「隣近所に聞こえよとばかりに美坂香里讃歌を歌うのはいいんだよな」
「いいわけないでしょうが」
 香里の顔に少し赤みがさす。とにかく香里を誉めるためだけに北川が作詞作曲したとい
ういわくつきの歌だ。聞いてる方が恥ずかしいようなやつである。
 美坂家に到着すると居間に通された。
「御飯作りますから待っててくださいね」
 そういって栞と香里がキッチンに姿を消した。名雪が手伝うといってその後を追う。
 俺と北川は居間のソファーに座ってぼーっとしている。俺もできんが北川も料理はでき
ない。一人暮しだからなんかしらできるだろうと思っていたのだができないという。
 それでどういう食生活を送っているのかと思ったら、出来合いの惣菜を買って来たり、
後は「とにかく火ぃ通しゃ食えんだろ」という雑だがある意味真理な方法論で料理したり
しているらしい。
「時々、あゆちゃんが作ってくれるよ」
 とも、いっている。そういえばあゆはあれから一念発起して秋子さんに料理を教わって
いて、あのあゆがそれなりに食えるものを作れるようになっていた。
 あゆと北川はお隣同士ということもあって仲良くやっているようだ。
「お待たせしましたー」
 キッチンから栞の声が聞こえてくる。その前から美味しそうな臭いが漂ってきており、
それだけで涎を分泌していた俺たちは待ってましたとソファーから立った。
「おーし、食うぞー」
「たくさん食べてくださいね、あ、その卵焼き、お姉ちゃんが作ったんですよ」
「なにっ! よし、美坂の作った卵焼きを食うぞ」
「がっついてるんじゃないわよ、もう」
「イチゴがおいしいよ〜」
「お前、イチゴと飯を交互に食うなよ」
 わいわいがやがや騒がしい食卓。和やかな雰囲気に包まれて……
「北川さん、はい、あーん」
 包まれたまま終わりそうになかった。
「あーん、あぐっ」
 栞が自分が作ったという鶏の唐揚を箸でつまんで北川に食べさせてやっている。
「……」
 そんなんしたらもちろん香里さんがアレですよ。
「ほら、お姉ちゃんも」
「なによ」
「ほら、あーん、って北川さんに」
「冗談じゃないわよ」
 ぷい、とそっぽを向く香里に、むう手強いですねえ、とでもいうような表情をする栞。
 食事を終えると談笑になるが、栞が、
「お姉ちゃんの部屋に行きましょう」
 と、言い出した。どうせまたなんか企んでるんだろう。
「えー、ここでいいじゃない」
 香里が不服そうだ。そりゃそうだ、名雪ならともかく俺と北川がいるからな、やっぱ、
男を自分の部屋に入れたくないのだろう。
「お姉ちゃんの部屋がいいな、いいな、いいな」
「もう、しょうがないわねえ」
 栞が上目遣いしながらまとわりついてお願いすると、香里はあっさりと折れた。とこと
ん栞がアキレス腱である。
「み、み、みしゃかの部屋」
 北川が挙動不審の見本例みたいな風情である。そういえば何度も美坂家に来て飯食って
風呂まで入っていくのだが、栞の部屋はともかく香里の部屋には今まで一歩も入れてもら
ってないと聞いた。
「北川君は変なことしないように、タンス開けたら殺すからね」
 二階への階段を上りつつ香里が釘を刺す。
「美坂の部屋に俺は行くぅ〜♪」
 早々に出来上がっていた。
「はい、どうぞ」
 ドアを開けて香里が部屋の中へ俺たちを招じ入れる。
 しょっちゅうお邪魔している栞と、何度か入ったことのある名雪は特にキョロキョロし
たりしないが、俺はついつい見てしまう、参考書や学術書の占める率が高い本棚などはい
かにもであるが、全身を写せる丈の高い鏡やベッドに寄りかかるように座っているくまの
ぬいぐるみなどは女の子っぽい。
「……」
 無言でタンスを見つめている北川。これほどわかりやすい男も昨今では珍しい。
「北川君、とりあえずタンスから離れなさい」
 香里が北川の癖っ毛を掴んで引き離す。
「久しぶりだね〜、くまさん」
 名雪がでっかいくまのぬいぐるみの頭を撫でている。
「随分ヨレヨレだな、そのくま」
 たぶん、ずっと昔に買ったものだろう。
「ええ、もう幼稚園の頃、十年以上前に買ってもらったやつだから」
 やっぱりそうか。
「誕生日プレゼントに買ってもらったの、当時はあたしよりずっと大きくてね、よく上に
乗って寝てたわ」
 懐かしそうに香里がいう。
「まあ、もうぬいぐるみで遊ぶ歳でもないけど、やっぱり捨てるのも抵抗あってね」
 香里はそういって柔らかい笑みを浮かべる。
「おー、かわいいな、こいつ」
 北川がぬいぐるみを抱き上げた。
 ぴくっ、と香里さんのこめかみが僅かにだが脈打つ。
「ま、まあ、あれよ、別にあたしは今更そんなぬいぐるみにどうこうっていうのはないん
だけど一応思い出の品なんだからあんまりぞんざいに扱わないでね、別にぬいぐるみで遊
ぶ歳じゃないけど愛着があるから、捨てるに捨てられないのよ」
 という香里をよそに、
「えいえい」
 北川がぬいぐるみにスリーパーホールドをかけていた。いや、気持ちはわかる。そうい
う人型のでっかいものを見たら技をかけてしまいたくなるのが男の性だ。よし、それじゃ
いっちょう次は俺が、伝家の宝刀卍固めをば……。
「べあーくんに何すんのよーーーっ!」
 香里が北川をぶん殴った。
「大丈夫? 痛くなかった? もう、北川君、止めてよね!」
 香里がぬいぐるみの頭を撫でつつ、ふっ飛んで壁に激突した北川に怒っている。
「なあ、栞」
「はい」
「べあーくん、ってなに?」
「ああ、あの子の名前です。お姉ちゃんが一晩寝ないで考えた名前だそうです」
「そっすか」
 卍やらないでよかった。本当によかった。
「うう、俺も美坂の友達のべあーくんと仲良しになりたかったんだよう」
「だったらスリーパーホールドとかしない、で、ちゃんと謝る」
「ごめんよ、べあーくん」
 薄汚れたくまのぬいぐるみに土下座する北川、相変わらず大物のように見えてしまいか
ねない馬鹿ぶりである。
「まあまあ、お姉ちゃん、そんな怒らないでください。ほら、一杯どうぞ」
 栞がビールの入ったコップを渡しながら取り成す。
「しょうがないわね、ちゃんと謝ったし、栞もこういってるから許してあげるわ、んぐん
ぐ、ぷはーっ……」
「はいはい、それじゃ、祐一さんたちもどうぞ」
「おう、そんじゃ貰うか」
「明日学校なんだから飲み過ぎちゃ駄目よ」
 飲むこと自体は止めない学年首席。
「北川さん、これでいいですか」
 なにやら透明の液体が入った瓶を栞が持っている。日本酒かな。
「ん、なんでもいいぞ」
「じゃ、どーぞ」
「おう」
 栞が北川に酌している。それを羨ましげに見ながら酒が進みまくる香里さん。明らかに
一人で飲み過ぎている。
「お姉ちゃんも一杯どうですか?」
 ビール瓶を持って栞がいうと「うふ、ありがとう」とかいって嬉しそうに注いでもらっ
ている。
「くー」
 名雪は日本酒をちびっと舐めただけで寝てしまっている。
「ありゃー、これは俺が背負って行くしかないなあ」
 こいつはそんな重くないからいいんだけども。
「そうだ、名雪さんを私のベッドで寝かせておきましょう」
「ん、いいのか」
「はい」
 栞がそういうので、俺は名雪を抱き上げた。
「ここの隣の部屋ですから」
 そういって栞が先導する。
「別にあたしのとこに寝かせておいてもいいんじゃないの、ちょっと騒いだって起きない
わよ、その子」
 と、香里がいったのに「いいからいいから」と返して栞がドアを開けた。俺は名雪を連
れて廊下に出る。それを待って栞がドアを閉めて、鍵を閉めた。
「ん?」
 おかしいと思った。大体こういう部屋のドアの鍵は内側からかけるようになっているは
ずなんだが。
「ちょっと、栞!」
 内側から香里の声が聞こえ、がちゃがちゃとノブを回そうとする音もする。しかし、ノ
ブは回らない。
「ごゆっくり〜」
 にっこりにこにことしながら栞はいった。
「ちょっと、もう、開けなさいよ、っていうか、いつのまにこんな改造したのよ!」
「みしゃか〜」
「ちょ、ちょっと北川君、止めなさい」
「美坂、美坂、好きだ」
「な、何よ、何でそんな酔っ払ってるのよ〜」
 中から声と、ドタバタとした音が聞こえてくる。
「うわー、えらいことになってんなあ……でも、あいつそんな酒弱かったっけ」
 強くもないが、今の短い時間で酔いが回るほどでもないはずだ。
「まー、度の強いお酒でしたし」
「へー、日本酒かと思ってたけど、もしかしてウオッカか何かだったのか?」
「アルコールです」
「は?」
「アルコール100%、つまり、アルコールです」
 そんなもん飲ませてたのか、こいつは。ていうか、あいつも平気で飲んでたけど。
「うー、北川さん頑張ってください。酒の力を借りるのはなんら恥ではありません」
 栞が両手を胸の前に組んで祈るように、聞こえてくる声に耳を傾けている。
 俺も名雪を床に下ろして声を聞く。
「美坂ー、そんなに俺のこと嫌いかー」
「嫌いとか、そんなんじゃなくって、北川君をそんなふうに見れないって……前に、いっ
たでしょ」
「そ、それは俺を異性として見れないってことなのか!」
「そ、そういうことになるかしら」
「よし、脱ぐ。俺のチンポを見」
「馬鹿っ!」
 ぐしゃ、とかなんとか授業中に時々俺の後ろで上がる音が聞こえてくる。
「そうか、わかった。美坂、お前もう男がいるなっ!」
「え?」
「くそ、そうだったのかー。誰だ、その幸せな奴はっ」
「別にあたし、付き合ってる人なんかいないわよ」
「そうか、わかった!」
「何よっ」
「お前、べあーくんと出来てるな!」
「どうやったら出来るのよ、べあーくんと」
「くそー、べあーくんめ、なんて羨ましい奴だ」
「あんた、人の話を……」
「その毛だな! そのふわふわの毛で美坂をたぶらかしたなっ、くそ、ちょっと抱っこし
てやる」
「ちょっと、べあーくんに変なことしないでよっ!」
「畜生っ! ふわふわしてて気持ちいいぞ、ふわふわ」
「いいから、べあーくん放しなさいよ」
「ふわ?」
「放せっ」
 どすっ。
 ボディーブローの音がドア越しに聞こえるのはやっぱり尋常じゃないと思います。
「美坂は頭いいから、やっぱり俺みたいな馬鹿は嫌いなのか? べあーくんみたいなイン
テリがいいんだな」
「インテリっていうのはどっから出て来たのよ」
「うるさいやい、どうせ俺はべあーくんみたいに大学なんか行けねえよ!」
「わけのわかんない拗ね方しないでよ、お願いだから」
「くそっ、べあーくんには悪いが、俺はやっぱりお前が諦めきれない!」
「きゃ、ちょっと、抱き着かないでよ!」
「べあーくん、お前の弱点は、自分では動けないところだ!」
「放しなさいってば!」
 ごすごすごすごす、なんか固いもので人体を殴る音がする。たぶん、肘だな。
「美坂〜」
「ちょっと、いい加減にしないと本当に怒……え?」
「んむ? どうかしたのか、美坂」
「な、なによこれ、ちょっと」
「あれ? 美坂、体が固いぞ」
「う……」
「もしかして、体動かないのか?」
「そ、そ、そんなことないわよ!」
 一体、香里に何が起こったのか。
「うふふふ、ようやく薬が効いてきましたね」
 ……お前の仕業か。
「さあ、北川さん、既成事実を作ってしまいましょー」
 ウキウキとした様子で未来の兄(予定)に既成事実作成をけしかける妹(予定)。
「美坂、大丈夫か? なんか、悪いもん食ったんじゃないのか?」
 まあ、やばい薬を飲んでしまったらしいぞ。
「うわー、どうしようどうしよう。そうだ、栞ちゃんなら薬に詳しいからなんとかなるか
も」
「……っていうか、栞のせいのような気がしてしょうがないわ」
 さすが姉である。
「栞ちゃーん、美坂が大変なんだ。助けてくれよー」
 北川がドアを内側から叩いてくる。
「むーーー」
 計画失敗のせいか、栞は機嫌が悪そうだ。
「違うんです。違うんですよ。北川さんのこういうところは嫌いじゃないんです。むしろ
好きです。でも、ここまでお膳立てしたのに据え膳食わないとはどういうことですか!」
 あ、こりゃキレたな。
 がちゃり、と鍵を開けた。
「えいっ!」
 思いきりドアを蹴り開ける。
「あ、栞ちゃん。美坂が……」
 そこにいた北川がいうのを遮った。
「もーーー、なぁーにやってるんですかあああ!」
 襟首を掴んでグイグイ押していく。
「北川さん! それでも男ですかっ、あなたは!」
「え、男だけど、脱ごうか?」
「いえ、それはこないだ見たからもういいです」
 栞は首を横に振ると、びしぃと体が硬直して転がってる姉を指差した。
「この状況で何をやってんですか!」
「ああ、美坂の体が動かなくなったんだ。どうしようか」
「どーするもこーするも、やることは一つですっ! なんのために私が痺れ薬を調合した
と思ってんですかー!」
 どっから手に入れたのかと思っていたが、こいつが調合したのか。相変わらずのマッド
薬剤師である。
「や、やっぱりあんたの仕業だったのね……」
 香里が喘ぎつつ栞を睨みつけている。
「北川さん、お姉ちゃんを抱き締めたんでしょう」
「うん」
「だったら、立ってるでしょう。立ってますかぁー!」
「立ってます!」
「だったら後は入れるだけじゃないですか、何をやってんですかっ!」
「い、入れる……」
「そんなの、わかるでしょう! わからないとはいわせませんよっ! 初心なネンネじゃ
あるまいしぃーーー!」
「しぃーおーりぃー」
 ぎしぎし音がしそうな動きで香里さんが立ち上がる。
「えうっ!」
「あんたねー」
 ぎし、ぎし、と近付いてくる。とりあえず間にいた北川が裏拳貰ってふっ飛んだ。
「よ、よくご無事で」
「お、か、げ、さ、ま、で、ね」
「お姉ちゃん……怒ってる?」
「激怒してるわ」
「えう……な、何をする気ですか」
「もちろん、お仕置きよ」
「うー」
 栞が泣きそうな顔をするが、香里も今回ばかりは許すつもりは無いらしい。
「むう」
 栞の目が座った。この目をするとほぼ99.9%の確率で居直る。
「わかりましたよっ、だったら好きにすればいいじゃないですか!」
 ほら、居直った。
「私は、この前まで病で明日をも知れぬ身だったんですよ!」
 どっかりとあぐらをかく。
「いつ死ぬかわからないという絶望の日々でした。私は一年間地獄を見たんですよ! 今
更そんなお姉ちゃんのお仕置きぐらいでビクつくわけがないじゃないですか!」
 ごろんと大の字に寝転がった。
「さーーー、スッパリやってもらいましょうかーーー!」
 御丁寧に手刀で首筋を叩きつつ栞は叫んだ。
 そんな栞の上に香里が覆い被さった。左右の手を掴んでいる。
「栞……お姉ちゃんが栞をぶったりすると思う?」
 優しげな顔で香里がいう。
「思いませーん」
 嬉しそうに栞が笑った。んふふふ、お姉ちゃんチョロいですー。とかいう声が聞こえる
ような気がしないでもない。
「お仕置きっていっても、そんなひどいことしないわよ」
 また、めっ、こつん、で済ますのだろうか。
「相沢君」
 俺ですか!? ていうか、俺は完全に背景になってるつもりなんだからいきなり振らな
いでくれ。
「なんでありましょうか」
「台所行ってタバスコ持ってきて」
「えっ」
 栞の不安そうな声を聞かないフリして、俺は階段を下りて台所に行き、テーブルの上に
あったタバスコの瓶を持ってきた。
「持ってきましたー!」
「祐一さん、ひどいです。そんなことする人嫌いです!」
「それじゃ、覚悟はいいかしら、相沢君、ちょっと手を押さえてて」
「いえっさー」
「えうーーー!」
 そっから先はあれである。のた打ち回るわ俺の手に噛み付こうとするわで大変であった。
「うううーーー!」
 栞は、たっぷりとタバスコを飲まされて断末魔じゃねえかと不安になるようなうめき声
を発している。
「祐一さんっ! 冷凍庫からバニラアイス持ってきてください、このままじゃ死んじゃい
ますよぅ」
「へいへい」
 俺は再び階段を下り、台所に行き、冷凍庫を開けた。
 バニラアイスはすぐに見つかった。だって、でっかいんだもん。業務用じゃん、これ。
「栞、バニラアイス持ってきたぞ」
「うーーー」
 唸りながらバニラアイスに顔を突っ込む。なにしろでかいので栞の顔がすっぽり入って
しまうのだ。
「もー、なんてことするんですかっ、殺す気ですかっ!」
 顔中バニラまみれにしながら栞がぷりぷり怒っている。
「自業自得よ、まったく」
 香里が呆れた顔でいった。
「んーーー」
 その背後で、北川が目を覚ましていた。
「みしゃか〜〜〜」
「えっ!」
 いきなりの背後からのタックルにたまらず香里が押し倒される。
「あっ、北川さん、復活しましたね、やっちゃえやっちゃえ」
「栞ぃ〜、タバスコ風呂に入りたい?」
「えうっ」
 香里の一睨みとあまりに不吉な言葉に栞が黙る。
「み〜しゃ〜か〜」
「ええい、離れなさいってば」
「美坂、キスしたい」
「嫌よ」
「したいしたいしたいしたいしたい」
「駄々こねないでよっ」
 いいながらもボコボコ殴っている。
「美坂っ」
「この……えいっ!」
 のしかかろうとした北川の右腕に香里が下からチキンウイングアームロックを極めてい
く。
「あだだだだっ!」
 さすがに関節を逆にいかれると痛いのか、北川が悲鳴を上げる。
「ふふん、どうよ」
 そうやって笑いながらも微妙に手の位置を変えてかかりを深くする。
「無理にキスなんかしようとしたら折れるわよ」
 勝ち誇る香里。
 それゆえであろうか。
 ここで香里はあまりにも致命的なミスを犯す。
 いってしまったのだ。
「やれるもんならやってみなさい」
 と――。
「え、いいのか?」
 北川が、いった。
 んで。
「んっ!」
 香里の目がいっぱいに見開かれる。
 唇と唇が合わさっていた。
 それはどう見ても、いわゆる一般的に俗には「キス」と呼ばれる行為に他ならなかった。
 みちっ。
 めち。
 ぶつん。
 北川の右腕が鳴っていた。たぶん、靭帯が切れたのだろう。
「んーーーー!」
 香里が真っ赤になりながら北川の右腕を絡め取っていた手を外して、拳を握った。
 思いっきり、殴った。
「馬鹿ーっ!」
 ぶん殴られた北川は床を転がって壁に当たって止まった。顔を床に突っ伏して逆に折れ
曲がった右腕が妙なオブジェのように立っている。
「あう、えう、あ、あ、そ、その、あの」
 香里は自分の唇を恐々と触っている。
「お、お、折ったぞー!」
 お前は猪木か。
「みしゃかの唇、柔らかいな」
「あーーーーっ!」
 起き上がった北川に素晴らしい速度で接近した香里が無茶苦茶に殴りまくる。
「北川君!」
「ん?」
「今のは事故よ」
「事故?」
「例えば、額と額がごつんと衝突しちゃうことってあるわね」
「うん」
「例えば、鼻と鼻がちょんと当たっちゃうことってあるわね」
「うん」
「今のもそういうことなのよ、唇と唇がちょこーーーーっと触れちゃっただけなの」
 どうやら徹底的に誤魔化すつもりらしい。
「え、でも、美坂、キスしていいって」
「事故よ、事故なのよ。これが事故じゃないとあたしが困るのよ、わかる? わかるわよ
ね、北川君なら」
「困るのか」
「物凄い困るわ」
「んー、じゃ、俺としては残念なんだけど、あれは事故だったんだな」
「そうなの、事故なのよ。よくわかってるじゃないの」
「うん、わかった」
「うふふ、北川君のそういう簡単なところは嫌いじゃないわよ」
「え、嫌いじゃないのか?」
「ええ」
「えへー、そうかー」
 なんて簡単な奴なんだ。
「むうー、当初の予定通りにはいきませんでしたが、まあ、よしとしますか」
 バニラアイスを食べながら栞がいった。……スプーン無いからって犬食いすんなよ、お
前。

 翌日、俺と名雪は二時限目の頭に学校に到着した。
「ういーす」
「おーはーよー」
「まったく、案の定遅刻してきたわね」
 既に来ていた香里がいった。昨日飲みまくったがきっちりと一時限目から来ていたのだ
ろう。
「ありゃ、北川も来てねえのか」
 見ると、あいつの席が空いている。
「あ、そういえば香里、昨日とうとう北川君と……」
 危機感というものが極めて希薄な名雪が不用意な発言に及ぶ。
「なに? ああ、事故のことをいってるのね」
「事故?」
「ええ、事故よ。事故なのよ。名雪はわかるわよねえ、わからないわけがないわよねえ、
名雪、あたしたちって友達よね?」
 めっさいい笑顔で迫る香里さん。
「……大変だったねえ、事故だったんだってねえー」
「そうなのよ、名雪はよくわかってるわねえ」
 ニコニコと二人して笑っている。一応最低限の処世術は身につけているようなのが救い
である。
「おっはよー」
 北川がやってきた。
「おう」
「おはよー」
「おはよう」
 右腕はもうなんともないようだ。昨日別れる時に医者行ったらどうだ、と一応提案した
らメンターム塗っておけば治る、と断言していたのでそれで治したのだろう。
「おう、美坂、昨日はすまなかったな」
「え、なにが?」
「俺、酔っ払っちゃってさ、ほら、お前を事故に巻き込んじゃって」
「ああ、あの事故のことね。いいのよ、事故だもの。ええ、事故なんですもの」
 これでもかというぐらいににこやかな香里さん。
「やっぱり、誤解されちゃいけないからな」
「そうね」
 なんだか妙に物分りのいい北川にご満悦の香里さんであった。
 やがて昼休み。食堂に行って戻ってくると昼の放送が始まっていた。それを聞くや否や
北川が席から立った。
「あ、そうだ。用事があったんだ」
 そそくさと教室を出ていく。その間際に、
「美坂、俺に任せとけ、なっ」
 と、言い残して行った。
「へ? 何が?」
 香里はきょとんとした表情でいったが、どうせまたなんかどーでもいいことを考えてる
んだろうということで、さっさとそのことは忘れたようだった。
 今、ヒットチャートで連続一位の流行り曲が流れていた。が、それが突如止まった。
「あーあーあー、テステステス」
 この声は……。
「北川、何するんだよ。今日はお前の日じゃないだろ!」
 放送部員らしい声もする。
「えー、北川潤だ。重大発表がある。これは発表しとかなきゃいけないことなんだ。俺の
好きな女の名誉がかかってるんだ」
 香里が、嫌な予感で歪みまくった顔をスピーカーに向ける。
「昨日、俺は美坂香里と唇と唇をくっつけて、まあ、わかりやすくいうとキスみたいな形
になったんだが」
 えーーーーーっ! と騒然とする教室。なんか隣からも下からも凄い声が聞こえてくる。
「しかし、あれは事故なんだ。額と額が衝突したり鼻と鼻があたったり、それと同じこと
だ。美坂の柔らかい唇と俺の唇が触れたことも事故! それだけはいっておかないといけ
ないんだ。いいか! あれは事故だ! わかったか!」
「ああああぁぁぁぁぁぁーーーっ!」
 絶叫。
 香里が凄まじい勢いで教室から出ていった。
「事故だぞ、事故なんだ!」
 その間にも北川のなんだかわからない放送は続いている。
「だからお前ら、美坂に俺とキスしたとかいったら駄目だぞ、あれは事故なんだからな」
「この、馬鹿ぁぁぁ!」
「おう、美坂」
「ていっ! この! 馬鹿! 馬鹿! 大馬鹿っ!」
 わー、きゃー、がしゃん、ぱりん。
「美坂さん、落ちついてつかぁさい」
「器具壊さないでください、頼みますよお」
「うるさいうるさいうるさーい!」
 がしゃん、どかん、ばりん。
「生徒会執行部だ。者ども控えい! この喧嘩、僕が預かる!」
「うっさい!」
「ぬぐおっ」
「会長、会長! しっかりしてください、会長ー!」
「ごふ、ぼ、僕はもう駄目だ。僕が死んだらその死を三日間伏せろ、その間に根回しを…
…」
 いや、伏せるも何も生中継で全校生徒に筒抜けだってば。
「むきーーーーーー!」
「美坂、大丈夫だ。ちゃんといっておいたから、誤解する人間はいない!」
「死ねぇーーー!」
 どかん、ぐちゃん、めち、みち、ぶつん。
「折ったぞーーー!」

 俺は立った。
「名雪、行くぞ」
「え、行くの?」
「いや、保健室に先回り」
「うんっ」
 俺と名雪は連れ立って教室を出た。
 俺は、うちの保健室ってメンターム置いてんのかなーとか考えていた。

                                    終





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