これは、大坂の陣の話である。大坂の陣といえば戦国時代のフィナーレ、つわものども の夢の終焉、江戸幕府の第一次失業者問題(第二次は由比正雪の乱)としてよく知られて いる。片や戦国時代の寵児、成り上がった距離日本史上一の男である豊臣秀吉の築いた大 坂城に構えるその遺児秀頼。片や天下を我が物にせんと豊臣家滅亡をはかる狸親爺、影武 者説が絶えない徳川家康(影武者かもしれん)。 この両雄――と並べてしまっては家康に失礼かもしれんが、まあ便宜上そういっておく ――が片や自らの生存権を賭けて、片や老後を通り越して自分の死後のことを考えて激突 したのが大坂の陣である。 そして、その両雄の間に、一人の男が立った。ていうか、立場上そこにいたら挟まれて 色々と難儀な目に遭ってしまった。 男の名は、片桐且元。かの賤ヶ岳七本槍の一人であり、人数合わせじゃねえの、とか失 礼なこともいわれているが、秀吉が万石与えた人物なのだからそれなりに優秀だったのだ ろう。 国家安康 君臣豊楽 有名な、方広寺の鐘に刻まれた銘の一部である。 方広寺は、一度被災してぶっ壊れていたのを豊臣家が金を出して再建した。その鐘に銘 を刻んだのだが、その起草は清韓という僧が行った。こういう銘文というのは、こうあれ かし、と願う類のものだから、無邪気といっていいほどにめでたいことを書けばよい。 平和は確かに尊い、しかし、錯綜する世界情勢は――などといわないでよろしい。 「世界が平和でありますように」 といっておけばよいのである。 先の銘文も、安康だの、豊楽だの、見るからにめでたげである。 徳川家康は、この銘文の写しを見た時、字を目で追っただけで放り出した。既にこの時 期、豊臣家を滅ぼす決意をしていた家康は開戦の口実をあれこれ探していた。時間を無駄 にした、とでもいいたげに放ったそれは、 ――一応、目を通しておくように。 と、家康がその時期謀略の相談をしていた本多正純に渡された。 その正純も、御定まりのめでたい文章と見てすぐに手放した。それが、次には南光坊天 海、金池院崇伝、林道春といった連中に渡った。 この三人が家康のところへ、憤懣やるかたなしといった表情で――演技である――やっ てきた。彼らは、けしからぬ、秀頼が心胆ここに知れたりと口を極めて罵った。 「恐れ多くもここに御名が……」 その部分を指し示し、その先は恐れ多いあまり口にできぬ、というような態度をとった。 ――お、安の字を取ればわしの名ではないか。 家康は、謀略に長けてはいるが、この場合、三人が考えついた「言いがかり」が凄まじ すぎてすぐにはそれに気付かなかった。そもそも、呪術的なものにほとんど信を置いてい なかったせいもあるであろう。 「御名を裂き、呪いをかけたること間違いありませぬ」 気付いてくれないので、天海が代表していった。 彼らは、開戦の口実を探していた家康のためにこれを考えてきたのである。別に趣味で やっているわけではない。当然、家康はそれを汲んですぐに激怒してみせるべきであった が、さすがに、 ――なんということを考えるのか、こやつら。 と思い、動きが止まった。 「おのれ、許せぬ!」 間を置いて、やるべきことをやった。 「可愛い於千の婿殿と思い目をかけてやった恩も知らぬというか」 家康の息子の秀忠の娘――つまり家康にとっては孫娘になる――千姫を秀頼に嫁がせるのは、秀吉が在世中に取り決められた約束で、関が原 合戦後、豊臣家をなだめるためにその婚姻を実行している。 「こうなっては致し方無し。戦ぞ」 家康激怒の報はすぐに豊臣家家老片桐且元に伝わった。家康が「すぐに伝えよ」といっ たためだ。この激怒は満天下に知らしめて初めて政略として動き出すのだ。 京都所司代の役宅に呼びつけられてノコノコとやってきた且元は、待たされた。 ――やはり、軽く見られているのだのう。 且元は、あまり深刻には思わなかったが、一応豊臣家の権威の衰退を内心嘆いた。豊臣 家のそれが昔日のものであれば、いかに京都所司代という重職でも豊臣家の者を粗略に扱 うまい。他に用事があったとしても後回しにするはずだ。いや、そもそも「呼びつける」 という考えを起こすまい。 それにしても遅い。 ――何か急な用事が入ったのであろう。 京都所司代の板倉勝重とは懇意である。その人柄は殊更に嫌がらせなどを企むものでは なく、また、且元にとってありがたいことは、豊臣家を天下の主として立てていくべきと いう大坂城の一派に対して、一大名に落ちても家を残すべきという心であるがために苦労 の絶えない且元の立場に理解を示し、大っぴらにではないが同情してくれていることだ。 ――下手な味方よりも板倉殿と同座している方が気が楽じゃわい。 且元は心底そう思っていたし、急に呼びつけられたのもむしろ勝重の善意であり、何か 問題になりそうな火種について早々に忠告してくれるつもりなのではないか、などと思っ ていた。 やがて、勝重が現れた。座って、目線を外して、斜め上方を見ている。その先には、な んの変哲も無い天井があるばかりだ。 待たせた詫びどころか挨拶すら無い。いつもなら、 「どうしたんよ、勝ちゃん」 とか無闇に慣れ慣れしく話しかけられるのだが、そういう雰囲気ではない。態度で「今 日はそういうの駄目だから」と釘を刺してるみたいだ。いつもみたいに、 「いや、且もっちゃん、それがな」 とかフレンドリーに返してくれなさそうである。 且元は、これは内々で話をしようなどというので呼び出しのではない、と悟った。 「本日はいかなる御用でありましょう」 こちらから、用件を尋ねる姿勢をとった。 「大御所さまが大層お怒りである」 その一言だけで、且元を動転させ、内臓をキリキリいわせるのに十分であった。大御所 とは、徳川家康のこと、征夷大将軍の位を息子の秀忠に譲って以後、そう称されている。 この時期、誰が文句をつけることもなく、日本一の実力者であった。 「しかし、二条城における会見のおり、涼しげなる若者、お千は果報者ぞとありがたきお 言葉を、内々ながら某に賜りました。いったい、秀頼さまの何がお気に入らぬといわれる のでしょうか」 この片桐且元もその実現に骨を折った二条城の会見において、豊臣と徳川の平和は確約 されたと且元は思っていた。思う余り社交辞令全開の家康の言葉を信じ込んでしまってい た。 慶長十六年(1611年)二条城において家康と秀頼が会見した。 後水尾天皇の即位にあたり、祝いを述べに家康が京都にやってきた。その家康に挨拶す るために諸侯が集まったが、大坂城の秀頼は放っておいても来ないであろうと見た家康は、 「随分と長い間会っていない。婿殿の成長ぶりを見たいもの」 と、声をかけた。言い方をどんなに繕っても、呼びつける、という形には変わり無い。 豊臣家は大騒ぎになった。関ヶ原で、家康は豊臣家と戦ったのではない。豊臣家の大老と して、乱を起こした石田三成らを討った。そう唱えていた。それ以後、家康は秀頼に、 「これよりはわしが天下を持つ。お主は故太閤との縁もあるゆえ悪いようにせぬから、一 大名に甘んぜよ」 という類のことはいったことがない。秀頼とて、そのようなことはいっていない。 つまりその点においては、家康は依然豊臣家の大老であるといえなくもないが、この間 に二つ重大なことが起こっている。家康が征夷大将軍になって幕府を開いたことと、その 将軍職を息子の秀忠に譲って、徳川家の世襲で幕府を続けていく、ということを内外に示 したことである。 つまり、両者の立場、関係が非常に微妙になっているのである。この押されまくった状 況で呼ばれて出て行くのは「臣従を誓う」も同然と猛反発するグループが大坂城に存在し た。 しかし、豊臣家の中にも、その最大派閥に遠慮して大きな声こそ出さぬものの、いっそ この機に家康にへりくだってその庇護を受けた方がよいのではないかと思っている人間は いた。 その筆頭が片桐且元であった。当時の豊臣家の家老を勤めていたが、その意志を表明す るだけで勇気が要った。それだけで裏切者は斬れとばかりに暗殺されてもおかしくない空 気が大坂城にあった。 「お前ら空気読めよ!」 且元としては叫びたかっただろうが、そうすると斬られるので、ちっさい声で「戦国の 習い」とかいいながら上手いこと丸め込もうとしていた。 だが、且元は声とともに禄もちっさいが、秀吉に付き従って歴戦を経た男であり、秀吉 とともに築き上げた「豊臣家」にも、彼なりの愛情を持っていた。公然と「臣従せよ」と いうのを避けつつ、とにかく家康との会見は実現させようと奔走した。 ともに戦場を駆けた仲である加藤清正、福島正則などに話を持ち掛けると乗ってきた。 彼ら三人とも思いは同じであった。 「秀頼様、お願いですから、家康に臣従してお家を残してくだされ」 さっさと秀頼が臣従して、徳川政権下で一大名に甘んじて豊臣家が存続すれば、彼らは 自分の家と家臣の運命を賭けて徳川か豊臣か、などという選択をすることも無くなり、大 恩ある秀吉の遺児を、激動する時勢から守り通すことができたと満足して死んでいくこと ができるわけである。 暗殺を恐れた秀頼生母の淀殿をなだめるために、清正が常につきっきりで秀頼を守ると いうことで会見はようやく実現の運びとなった。会見自体は、家康も殊更尊大な態度など はとらずに大過無く終わった。 「肩の荷が下りた」 且元などは、ほっと胸を撫で下ろした。 その二条城会見の成果も見せかけ、単なる自己満足に過ぎなかったのか。大任を果たし て、そのことを今も誇りに思っている且元にとって、家康が秀頼に対して激怒していると いうのは心安らかな報せではない。 「まあ、お待ちあれ。仔細もわからず取り乱すのは如何なものか」 勝重のその声に、我に返る。我ながら情けないことではあるが、豊臣家と我が家を守ら んとする且元は、何を置いても家康殿にすがる他無し、と思っているため、どうしても家 康についての不穏な話を聞くと動転してしまうのである。 「しかし、そう申しても某も仔細を深く知るわけではないのじゃ。なんでも方広寺の鐘の 銘文にご不興とか」 「鐘銘、でござるか?」 方広寺の再建を命じ、金を出したのは秀頼だが、実際の指揮は且元が執っている。これ もまた一世一代の大仕事と誇っていた且元にとって聞き流せない。その銘を清韓に頼んだ のも、その銘文を見てそれでよし、としたのも写しを勝重に渡したのも、全て且元がやっ たことだ。 「浅学の恥ずかしさ。某が見て不穏当とは見受けられませんでした。いったい、どこがど うまずかったのでござろうか」 本当に浅学なので清韓にこれこれこんなニュアンスのいい感じのアレです、とかいわれ てそれなら良し、と通したのであろう。それでもこの銘文を見て「あ、家康の名を裂いて る!」とか指摘できる人間はそうはいなかっただろうから、そんなに凹まんでもいいと思 う。 「いや、そこまでは知らぬのだ」 勝重は、最初はただ家康が激怒している、と伝えろと命じられただけだ。具体的にどこ に家康が怒っているかは知ってはいるが、そこまではいわない。 「大御所さまにお目通り願えませぬか」 且元は、思い切っていった。知らぬという人間に聞いてもどうしようもない。それほど 鈍くはない且元は、勝重が知っていていわない、という可能性にも当然思い当たっていた が、いわない、ということはいうなと命じられているということであり、そうなればどこ をどう押しても引いても聞き出せまい。 「駿府まで行かれるのか」 家康は、駿府にいる。気温の変化が穏やかで老体にはなによりの場所と、将軍職を退い てから移り住んだのだ。 「お目通りがかなうなら、どこへでも」 気を入れて且元は勝重を見据えた。御機嫌取りの出任せではない。どこへでも、といっ た以上、実は大御所は駿府ではなく蝦夷(現在の北海道)におられます。といわれれば即 座に蝦夷まで行くつもりであった。 「わかり申した。早速駿府へ報せをやりましょう。しかし、お目通りがかなうかどうかは っきりしたことは申し上げられませぬ」 勝重は「蝦夷におられます」といってみたいのを(たぶん)堪えながらいった。ある程 度家康とその側近たちの計画を知っている勝重には「こいつ、これからえらい目遭うなあ」 というのはわかっているので、できうる限り親切にしたいとは思っている。一応。 「いや、それで十分。かたじけない」 且元は、立ち上がった。すぐにでも発ちたいところだが、そこは少し工作が要る。家康 が理由は不明ながら怒っているらしいので話を聞きに行く、とだけいっても、それは釈明 と受け取られ――事実、そうではあるが――そのようなことをする必要は無しと城内の世 論が硬化する恐れがある。 大御所さまは豊臣を絶対に滅ぼすおつもりらしい。 多少気の利いた側近ならば、それはもう察している。しかし、大御所こと家康としては ずっとそう思っていたわけではない。関ヶ原以後、征夷大将軍となり幕府を開き、それを 秀忠に譲っている中で ――秀頼が臣従してくるかもしれぬ。 と、期待をしていた時期もあった。彼我の勢力差は明らかである。家老の片桐且元など はすっかり一大名に甘んじて家を存続させる、という政策に気持ちを傾けていた。 しかし、来ない。 その間にも、家康は有力な大名と婚姻などを通じて絆を深めていた。中でも、故秀吉の 妻の実家であり、その引き立てで紀州の主となった浅野家には格別の扱いをしていた。 家康の見るところ、天下の諸大名のうち豊臣家が発する檄に応ずる者などおるまいが、 それでも万が一にその可能性が考えられるのが浅野家、福島家、加藤家であった。 しかし、清正の加藤家は、二条城会見ののちに清正が死んでからは外している。豊臣家 に味方する、などという決断をし、それを実行できるのは清正だけであって、二代目の忠 広では、もしもその決断をなし得たとしても、実行の段階で家臣が従うまい。結局その諫 言を聞いて浮きかけた腰を下ろすことになろう。 「わしは太閤さまによって引き立てられた。そのわしに引き立てられたお主らも、それと 同然ぞ。太閤さまの御子を捨てておけようか。殺すぞ」 などと清正がいえばどう転ぶかわからぬが、忠広にそれほどの胆力迫力はあるまい。 で、浅野家と福島家である。 浅野家は、確かに秀吉によって厚遇された家であるが、長政、幸長という、秀吉とごく 身近に接していた当主が相次いで世を去り、若い長晟の代になっている。長晟自身は、昔 秀頼の側近くに仕えていた、という事情があったものの、徳川家とも縁を結んでおり、厚 遇されているといえば家康にも十分にされているのである。 そして、長晟は若い。これも加藤家の忠広と同じで彼自身が決断しても先代からの老臣 たちが許すまい。 残るは、福島家である。 ここも、秀吉によって作られた大名家であるが、前二者と違うのは、初代が存命してい るということである。 福島正則といえば、関ヶ原では西軍の宇喜田家の隊と大いに戦って武名を挙げた猛将だ。 家康はこの人物のことは危険視していた。その領地も安芸広島という、いわゆる「西国」 にあり、もし兵でも挙げられれば厄介である。関ヶ原で西軍についたために領地を大幅に 削減されて、徳川に恨みを含んでいる毛利家などが組すれば侮れない。正則の領地の安芸 というのがそもそも削減された毛利家の元領地である。 「安芸は毛利殿にお返しいたす。某は先鋒大将として先駆けの労をとりますゆえ、なにと ぞ、秀頼様のために戦ってくだされ」 感情家の正則がそのようなことを言い出すことはありうることであり、毛利が動けば、 それが呼び水となって薩摩の島津などの他大名も動かないとはいいきれず、そうなれば熊 本の加藤家も引き摺られるだろう。 秀頼を盟主に頂いて西国大名を結束させての、東の盟主徳川家と西の豊臣家の並存の体 制、などという構想を、家康は恐れていた。 ――あやつは、江戸に置いておくに限る。念には念じゃ。 家康は、浅野家のように懐柔するのではなく、最初からこの猛獣のような男を檻に入れ てしまおうと考えていた。僅かの兵だけを率いさせたとしても、大坂に連れていけば、江 戸にいるよりもその領地へ遥かに近くなり、もしや、密書などを国許に届けないとも限ら ない。正則は粗暴な反面、そういった猛将によく見られるような、自分の子分は大いに愛 するところがあり、正則たっての、あの猛々しい殿が秀頼様のためを思って足ガクガクで 涙と(それだけでは当たり前すぎて弱いので)涎を滂沱と流しての願いとあらば、国許の 者も分別を飛ばさないともいいきれないのだ。 このように、家康は万が一のことも考えて豊臣恩顧の大名をある者は手懐け、ある者は 押さえ付け、ある者は力を発揮できぬように囲い込んでいた。 ――結局、あほか。 家康がそういった活動を行っているのに悠然としている――どうしてもそう見える―― 豊臣家を見るにつれ、思わざるを得ない。 ――滅ぼしてくれといっているようなものだ。空気読めよ。 家康がそう思うのも、自己正当化のためばかりでもない。戦国の世を生きてきた家康に は、どうしても豊臣家の処し方は甘く見えるのだ。秀頼は、家康が今川家や織田家の人質 になっていたような苦労をしていない。敵の只中に僅かな家臣を連れているだけで存在し ているという、自分は、いつでも呆気なく殺されてしまうのだ、という緊迫感のある日々 を日常にしたことが無い。 秀頼は、天下人を気取っているようだが、果たして天下というものを見たことがあるの か。あるまい。無いに決まってる。 家康は、織田信長という人間と出会うことで「天下」を見た。この人に着いていくべえ と、ともに天下布武の夢へと歩き始めたのだが、その道は過酷であった。散々呼び出され て戦に使われるのはまあいい(織田家の連中も使われまくっていたので)としても、息子 を殺せといわれた時は迷った。そこですっぱり息子を斬ってしまったことで、ある意味、 家康は一皮剥けた。当時は信長を恨んだりもしたが、今では、信長は「お前の息子は武田 家寄りらしいが、あんな古臭い家と組んで天下をどうしようというんか」といいたかった んだが生来口下手なんで「息子を殺せ」という説明不足にも程がある言葉になったのだろ うと解釈して、ちょっとは恨んでいるがちょっとだけだ。 秀頼は苦労を全くしていない。苦労の連続だった家康からすれば赤子の手をひねるよう なものだ。 しかし、若い。 それだけが、秀頼が官位の等級以外で家康に優越する部分であったろう。自分が死ねば 後のことが不安である。後継ぎの秀忠は、苦労は秀頼に比べたら積んでいるが、ここ一番 でいらん苦労を背負い込むところがあり、関ヶ原の時は勝手に真田氏が籠もる上田城に引 っかかって勝手に苦労して決戦に間に合わず、家康にも苦労させたほどの男である。 ――所詮温室育ち、大した男ではないわ。 秀頼について、家康はそう思っているのだが、おのれの後継ぎを見ても、 ――こいつはこいつでアレじゃな。 とか思ってしまっており、やはり、自分が生きている間に自分の采配で決着をつけてお こう、と思うに至った。 その手始めに、自分でもちょっと無理があるんではなかろうかというイチャモンを吹っ かけてみた。そしてその間も、間者を放って情報を集めている。 「お、これは使える」 そんな中から、関ヶ原合戦で家が潰れて浪人してる失業者対策にでも乗り出したのか、 秀頼がそういった連中を雇い入れているという情報を拾い上げた。 実際の実務にあたっているのは大野治長。大蔵卿局という淀殿の乳母であり、現在は侍 女を仕切っている大坂城の隠然たる実力者の息子である。それによって出世していると見 られている。 ――いや、徳川殿を討とうとした気概を買われているのではないか。 と、やや好意的な見方をする者もいる。治長は、秀吉死後、家康が野心をあらわにして 石田三成と対立していた頃に、家康を暗殺しようとしたことがある。結局露顕して流罪に されたが、淀殿は、乳母の子、という親近感を抱ける立場の男がかつてそういう勇ましい 一挙を成そうとしたことを、頼もしく思っているのだろう、というのである。 家康が色々と企んでいると、京都の板倉勝重より、且元がはたから見てもわかる必死さ でそっちに行くので、まあ、時間があったら会ってみてください。といったふうな、それ なりに且もっちゃんへの愛が感じられる報告が来た。 「おう、市正(いちのかみ)が来るのか」 来るのわかってたくせに一応律儀に驚いてみせた家康。市正ちゅうのは官位名である。 一応且元は従五位下であり、けっこう偉いのである。五位の下じゃん、とか思われる向き もあろうが、歴史上に従五位下になった者は、まあ、長い歴史上無数におるのだが、そり ゃ一般人はなれんのだ、そんなもん。 「市正には、少し苦労してもらわねばならぬな」 家康は、やや渋い顔でいった。なんかいい人ぽいが、苦労させるのはもう微動だにせん ということであり、あんまりいい人でもない。 やがて、且元が飛ばしに飛ばしてやってきた。それへの家康の反応は特に残っていない が「はえーな、このやろう」と思ったかもしれず「且元必死だな」とか思ったかもしれな い。 「会わん」 目通りを願ってきたので、速攻で拒否する。家康としてはどんなに速く来られても最初 から会うつもりではなかったのである。 「任せたぞ、伝長老とともに会ってやれ」 それを伝えに来た本多正純にそういって、家康は二度寝と洒落込んだ。 伝長老とは、金地院崇伝のこと、この物語の最初の方に既に登場している。同じく既出 の南光坊天海とともにこの時期の「脂ぎった坊さん」のトップ争いをして好事家(たぶん、 当時もいたはず)を楽しませている野心ある坊主である。 しかし、天海が老齢であるのに比べ、長老とかそれっぽい呼び方されてるが崇伝はけっ こう若い、この時期まだ五十になっていない。 「では行くか伝長老」 「うむ」 一応自分の方が年上なので敬称つけつつタメ口の正純と、年下だけど長老なんでタメ口 の崇伝は連れ立って且元が宿としている誓願寺に向かった。 一方且元、家康の信任絶大の両名が来るというので緊張しまくっていた。しかも板倉勝 重のような知恵も回るが根は実直という人間ではなく、謀略をもって家康に仕えている連 中である。 この状況で唯一救いなのは、大坂を発つ前に勝ちゃんこと板倉勝重が「大御所お怒りの 理由がわかり申した」と親切にも教えてくれたことである。実はこの「親切」、浪人雇い 入れなどの新たな大坂難詰の材料を手に入れたので鐘銘の件はもう教えてやれ、と家康が いったためである。且元は、清韓に相談してそれへの釈明を考えてこれでよし、とやって くるだろう。そうやって且元を安心させておくのが目的である。 で、その鐘銘についての件を勝重の書状にて知った且元。 「言いがかりじゃねえか、こんなもん」 とは賢明な且元は口にはしなかったが、心の中では物凄く思った。 それでも、やはり、もう家康が豊臣家をぺしゃっとやってしまうつもりで故意に首肯で きないような無理難題を持ち込んできたのだとは思いたくなかった。且元は、一応この時 期は豊臣家の忠臣のカテゴリーに入っているので、そういう事態は一番恐れるところであ った。 「お年を召してアレであろう」 爺さんになって怒りっぽくなってるんだろう。と且元は思った。 正純と崇伝がやってきた。にこやかに現れた両名は且元の挨拶を受けて丁重かつ親しみ をこめて会釈した。 「さて、板倉伊賀守(勝重の官位名ね)より既に聞き及んでおりましょうが」 正純が重々しく話し始めた。 「御名を裂き、呪いをかけたることに大御所さまは大いにお怒り。大坂城を討つ、とも」 その間、崇伝は目を閉じてふむふむと正純の言葉に小さく相槌を打っているのだが、且 元が何か下手打ったらすかさずそこを衝けるよう神経を集中させているように見えて且元 には相当なプレッシャーであった。 国家安康が家康の名を裂いている、という以外にもいくつかネタを出してきている。こ れもまた有名な「君臣豊楽」である。豊臣を君として楽しむ、ということらしい。確かに 字面はその通りである。後は「右僕射源朝臣」のくだり、これは「右大臣徳川家康」とい う意味である。右しか合ってねえじゃねえかと思われるかもしれないが、これで通じる人 間には通じるのである。僕射というのは中国における役職名で大臣に相当する。源朝臣と は朝廷の家臣である源氏の者という意味で、右大臣で源氏というと当時は家康のことであ る。しかし、こんなもん説明されにゃわからん。で、わかってるくせに家康のブレーンは わざと曲解した。源朝臣が家康であるというのはそのままに、それを射る、と読んだので ある。右と僕はどこにいったのかと思うが、前の方にくっつけたのであろう。たぶん。 且元も、浅学ながらさすがにこれはねえよと思ったが、下手にごちゃごちゃいうよりも 右と僕を引っ張ってきてきちんと説明するほうがよかろうと思い。とうとうと(清韓に教 えて貰った通り)弁じた。 槍一本でのし上がってきた男だけに、どっしり構えて「それは違いまする」と断言すれ ばそれなりに迫力がある。 ――小細工は無用ぞ。もはや誠意で押していくしかあるまい。 そう思い定めた且元は、物凄い真剣にわかりきったことを弁じた。本音でぶち当たって、 もしかしてギャグでござろうか? とかいおうものなら、 「なんと、大御所さまのお怒りをなんと心得るか!(無理も無いけど)」 とかさらなる詰問の材料にされてしまうだろう。ここはもう、お前らわかっていってん だろ、などという気持ちは毛ほども出さずに誠心誠意説明するのが有効と踏んだのだ。 果たして、最も無理のある部分であったことも手伝って、真面目に倦むことなく弁じ続 ける且元の姿に心打たれたのか、このまんまこんなわかりきった説明させてたらわしらア ホみたいだね、と両名が思ったのか知れないが(たぶん後者) 「その件については承知いたした。これは当方の勘違いのようじゃ」 と、折れてきた。しかし、ほっと息つく間もなく、そしたら他んとこはどうなんだ、と 重ねて聞いてきた。この辺り、どうしても且元は弱い。なにしろもはやこの期に及んでし まっては、 ――これは、大御所さまは豊臣家を滅ぼすと胎を決めたか。 と、思わざるを得ない。となると、この言いがかりは豊臣家を激昂させて「ならば戦じ ゃ」といわせるのが目的に違いあるまい。下手に強く出てもあちらに口実を与える。なん といっても家康は覇者であり、日本一の実力者だ。開戦の名分など形さえ整えばよい。押 して行けば諸侯はこれを支持せざるを得ない。 そこで且元が弁じた内容はようするに、 「わざとじゃねえんです」 と故意によるものではないと言い訳することであった。君臣豊楽については、どうやっ ても豊臣を君として楽しむ、とは読めないらしいのだが、そこはなにしろ他人を呪詛する ことであるから、一見してわからぬようにしたのであろう、という理屈は成り立つ。いわ ゆるアナグラムであるが、反面、そうやって隠しているだろうと仮定すればなんぼでも言 いがかりはつけられる。呪詛というものが本当に効果を持っていたと思われていた時代に は、もちろん、他人を呪詛するというのは相手が死ななくても今日でいう「殺人未遂」の ような扱いであり、実際に、そういう言いがかりをつけられて処罰された人間も多い。 「さような意味ではありませぬ。君とは天子さまのこと、そして皆天子さまの臣下である 以上、これは全ての人が豊かに楽しく暮らせるようにと祈ったものでございます」 梶原一○に監禁されたつ×だじろうのような窮地に追い込まれた且元は、これもまた至 誠天に通ず(誠をもってすれば全て上手くいく、とかいう意味)を大真面目に貫くしか無 かった。 彼の政敵である主戦派の大野治長などが見たら失笑したかもしれない。豊臣を君として 楽しむ、それが何か問題がござるのか。なぜ豊臣家の大老であった家康殿がそんなに怒ら れるのか理解できぬ、とでも言い放ったかもしれぬ。 しかし、それではこの場をなんとか切り抜けられても別の口実を見つけて攻められるだ けだ。ここはなんとしても家康の心証を害さずに収めねばならない。 後世より歴史を俯瞰できる位置から見ると、どうせ家康は豊臣を滅ぼそうとしたのだか ら、無駄なことだ。とも思えるが、家康がいつそれを決意したか、というのは現在でもは っきりと断定できない。二条城の会見で秀頼の若さを目の当たりにし、またその素質が英 邁であり磨けば玉になる可能性を見抜きこれを滅ぼす決意をした。という説があり、それ なりに説得力はあるが、直接見ずとも年齢のことなら情報として知っているわけだから、 にわかにそれで決意したということはないだろう。しかし、それが最後の一押しになった 可能性は大いにある。 とにかく、且元としては豊臣家を守るには家康にすがるしか無いと思っていた。秀吉が 残した遺臣の中で忠誠心があり、その上に天下の経営ができる人材は石田三成をはじめと して幾人かいたがほとんど関ヶ原で滅んでしまった。天下人と言い張っても実質天下を治 めるだけの力が政治軍事ともに豊臣家には無いのだからしょうがない。 「大御所さまの庇護あったればこそです。その大御所さまを呪うなどということはいたし ませぬ」 且元は、けっこう際どいこともいっただろう。 「市正殿の申されることもっともではないか」 「うむ」 慣れない弁論で疲れ果てた且元にとっては報われた思いであったろう。曲者と評判のこ の謀略家両名が、予想よりも遥かにすんなりと且元の言い分に傾倒したのだ。 「大御所さまには、貴殿の言い分を伝えておきましょう」 「よろしくお取り計らいを」 数日後、家康と会えることになり、且元は誤解が解けたと思い安堵しつつ会見に向かっ た。 しかし、家康はそこで鐘銘の件など全く触れずに新たな詰問を用意していたのである。 「多くの浪人を集めているそうだが、これは戦仕度であろう」 且元は、弁明に努めたが、鐘銘の件と違ってこれへは解答を考えてもいなかったために、 しどろもどろとなった。こうなると、元々得意ではない分野でもあり、且元は弱い。 敵対するつもりは無い、という証明のために、且元は「参勤」を提案した。 後年法制化される「参勤」いわゆる「参勤交代」であるが、この時期にはあくまで自主 的なものであった。それをしないからといって、それを理由に咎められることではない。 しかし、各大名家はいまや争って藩主やその夫人を江戸へやっている。 無論、豊臣家はしていない。且元は、それをさせる、というのだ。それならば、と家康 も首肯したが、 ――まあ、無理であろう。空気読まないしな。 冷徹に思っている。無理なら無理でよい。 「豊臣家家老の言葉とあれば重んじるべきだ」 家康はいった。 「よいな、市正」 殊更、豊臣家家老といったのは、もちろん、それを豊臣家の言葉そのものと解釈し、こ れを実行せぬ場合は敵対意思の表明と見なして断交する。ということである。 且元は、大坂に帰ると、しばらく屋敷に篭もった。 ――市正は、なぜ、すぐに登城せぬか。 それが疑いを招くことは且元にもわかっていただろうが、どうにも、自ら提案した条件 ながら、それを主や側近に説得する自信が持てなかった。 結局、且元は、もうありのままを吐こうと決意した。登城の仕度をしていると幾人か、 「登城したならば、そこで貴殿を亡き者にしようという企てがあるとか。ご用心を」 と告げてきた。且元は、一応それらにご忠告感謝いたす、といっておいたものの内心で は、まさかそんなことはあるまい、と思っていた。槍働きの一武者、せいぜいが二百、三 百という小勢の指揮官とはいえ歴戦を経た且元は、大野治長をはじめとする連中など、 ――そこまでの度胸はあるまい。 と思っていた。それに、治長は今すぐには開戦したくないはずだ。 治長には、且元は単刀直入に難詰したことがある。 「戦も辞さずというが、勝つ算段はあるのか」 あるまい、というつもりでいったのだが、治長は意外に慌てず冷静に、 「大御所は高齢、時を稼げば或いは」 と、返した。家康の死を待とうというのだ。 「そう上手くいくものかのう」 且元は、そういったものの、内心悪い案ではないと思っていた。その辺りは、若さであ ろう。家康よりも若いとはいえ六十を超え、当時ではいつ死んでもおかしくない年齢の且 元は、「時を待つ」という発想ができなかった。 その治長の戦略からすると、性急に徳川と戦を構えるのは避けなければならない。今こ こで且元を討ちでもすれば、それを口実に開戦へと持ち込まれてしまう。 「しかし、兄上」 と、念のために警戒だけはするようにといったのは、且元の弟の貞隆である。この男も 並みの男ではなく、兄とは別に自前で万石の領地を持っている。 「頭の足りぬ輩がいらん血気を出さぬとも限らん」 そういわれると、その危険性は十分に認められたので登城前に刀の具合を点検しつつ心 構えを新たにした。 「よし、斬り伏せてくれるわ」 「兄上、何も起こらないのが一番なのだぞ」 最近、兄のストレスのたまり具合を嫌というほど知っている貞隆は、刀を持ってなんで もいいからもう斬ってしまえ、という顔(妙に晴れ晴れとしている)を見て諫めた。 且元ぐらいの身代になると、登城するとなったら身一つでひょこひょこ行くわけにもい かない。それなりの人数を揃え、騎乗か駕籠に乗っていく。貞隆はそれらを確かめに行っ た。なにしろ時が時である。どのようなつまらぬ不備でも難癖をつけられないとは言い切 れないのだ。 準備万端整っているのを確認して貞隆は且元の所に戻った。 どすんばたん、と音がする。 「何をやっておるんじゃ、兄上」 且元は小姓数人と一緒にバタバタしていた。 取り囲もうとする小姓の輪から巧みに逃れて金的を蹴上げる(寸止めだけどちょっと当 たってる) 「やっ!」 と、叫んで刀を抜いた。 「何をやっておるんじゃ、兄上」 「おお、殿中にて囲まれた時のためよ。とりあえず刀を抜かねば話にならぬ。片桐且元は 刀も抜けずに斬り殺されたとあっては名折れじゃからのう」 先走りしまくってる且元だが、貞隆は一応それなりにこの兄を尊敬しており、斬り殺さ れるにしてもせめて刀を抜いて斬り合っての上でと願う且元のことを、 ――うお、たまにカッコイイな、兄貴。 とか思ってしまっていた。 「落ち着いて行けよ、兄上」 それでも立場上「よっしゃ兄貴、斬って斬って斬りまくれぃ!」ともいえないので、な だめた。血気盛んな若僧もおるやもしれぬと警戒を促したら、兄貴がいい歳して血気盛ん になってしまったので弟も大変である。この時代の若者などは血気を互いに競うところも あり、いい歳した且元がそんなでは、 ――うぬ、若いくせに血気が足りぬとあてつけておるな。ならばお望み通り斬り付けて くれるわ。 とそんなつもり無かったのにそんなつもりになってしまう恐れがあった。たぶん。 且元は登城した。 貞隆も着いて行きたかったのだが、どうせ呼ばれた且元以外は秀頼との謁見の間には入 れぬし、それに万が一且元襲撃計画が本当で、それが実行され且元が殺されてしまえば、 貞隆が片桐屋敷を仕切っていかねばならないので残ることにした。 「駿府より戻りましてございます」 秀頼に帰着の挨拶をした且元は、促されて早速ことの顛末を語り始めた。 鐘銘の件はなんとか落着したが、問題は浪人の召抱えである。これを家康は戦仕度と見 ている。豊臣家は武家なのだから、浪人していた武士を召抱えて何が悪いか、などと治長 などはいきり立った。困ったことにその通りなのである。 「そもそも、おかしい。なぜ主家である秀頼様がそのようなことをいわれねばならぬか」 そもそもおかしいというのなら、未だに秀頼が天下の支配者である、と、そういうつも りで天下に生きていることがおかしいのだが、そのどでかいフィクションを絶対の事実と 認識することで、この家は成り立っている。 しかし、もうそんな悠長なことをいっていられる状況ではないのだ。家康は最後通牒を 突きつけて来ている。 且元は「参勤」についていった。 「人質か」 甲高い声は淀殿のものだ。 「人質ではござらぬ。関東に下向して途中大御所さまの所へも寄って、江戸の舅どのへ挨 拶など。千姫様もお連れになればよろしい」 と、且元はまるで千姫の実家へ遊びに行くようなニュアンスで語るのだが、さすがにそ れで丸め込まれるほど呑気な連中ばかりではない。 「大御所さまのご懸念はもはや晴れたも同然なのですが」 とか、嘘をついた。 「江戸の公方様(将軍秀忠のこと)が浪人徴募についていたくお気に召さぬご様子とか」 もう、こうなったら秀忠を悪者にしてしまおうと覚悟を決めた。後で泣いて謝れば許し てくれるはずだ。たぶん。 「将軍として弱腰な態度はとれぬ、とのお心がけのゆえです。内心では千姫様も婿殿であ る秀頼様のことも案じておられるはず」 ちょっとフォローも忘れない。 「秀頼様が千姫様とともに訪れ、親しくお話などされれば、慈悲深いお方ですから矛を収 めるでしょう。ですからここは」 「待たれい、今の理屈おかしい」 治長が遮った。 「何がおかしいか」 「慈悲深い、とか、矛を収める、とか、まるであちらが秀頼様を堪忍してやるかのような 言い様」 「む……」 且元は詰まった。自分が凄くそう思っているだけに、ついつい、そういう言葉を使って しまった。 「とにかく、これこそ御家永続の道と信じておりまする」 且元は、これ以上どちらが主筋だどうだ、という話を展開するのは得策でもないし、そ もそも無駄と思い、話を打ち切りにかかった。 さっさと下がろうとすると、予期せぬことに上段の秀頼から声がかかった。 「市正、わざわざ駿府まで苦労であったな」 労いの言葉であった。この辺り、秀頼というこの城の主は、主戦派恭順派中立派などと いう派閥から超越しているところがある。秀頼としてみれば、且元は父秀吉に引き立てら れた男であり、且元なりに自分に忠義を尽くしており、全て自分のためを思ってのことで あろう、と認識している。 「ははっ!」 不覚にも目頭が熱くなった且元は下がろうとしていたその場で平伏した。 「修理」 下がると、治長を呼んだ。従五位下修理亮が治長の官位である。 お前ちょっと裏来いやあ、とばかりにそのへんの空き部屋に連れ込むと、 「戦になったとする。勝てる算段はあるのか。わしは勝てんと思っておる」 勝てんと思っているから、参勤などという屈辱的なことも飲まねばならぬと思っている。 お前は勝てると思っているのであろう。ならば、勝てる根拠を教えい。 「大御所は高齢ですから」 「高齢はわかっとる。わしがわかっとる、お前がわかっとる。当然大御所さまご自身もわ かっとる」 若僧! と一喝したい気持ちにすらなる。若い者が頭で理解している「老い」というも のを老人は身体で、嫌でも理解しているのだ。かくいう且元も還暦を過ぎた老人である。 「ある程度の名分さえ整えば、躊躇せんぞ。一気に滅ぼしに来るに違いない」 「そうはいっても、いざ関東下向となれば軍勢を連れていくわけには参らぬ。護衛の人数 は限られる。あちらの領内で刺客など向けられ、当方の知らぬことと開き直られてはどう しようもありませぬ」 治長の不安にも一理ある。徳川の勢力圏内で起きた事件であれば、証拠隠滅は速やかに 行われるであろうし、とぼけられては追求ができない。食い下がれば言いがかりをつける な、とそれこそそれを開戦の口実にされるかもしれず、旗頭の秀頼がいない大坂城に求心 力などあるはずが無い。孤立無援で攻められて滅亡するしかない。 「八方塞がりですな」 治長はいった。確かに塞がっているとしかいいようがあるまい。臣従すれば身命が安堵 される、というのも希望的観測に過ぎぬといわれれば、そうであろう。しかし、それでも そこを信じてそこに賭けるしか無いと且元は思っている。 「市正どのも、わしも、八方塞がったところから活路を見出そうとしている。その活路と やらの方角が違うようだが」 しかし、と治長は続けた。 「わしの活路ならば、例え失敗したとしても、大坂城に天下の大軍を迎えて一戦したとい う面目は立ちましょう」 「兄上、まずは上々でしょう」 貞隆は、帰ってきた且元の話を聞き、満足げであった。 「修理めも、何を考えておるのかと思うておったら、そんなことをいうておりましたか」 「うむ、失敗しても豊臣家の面目は立つ、と」 「アホですな」 「アホかのう」 「自分の家を立てていくべきなのに、アホでしょう」 「お前、サバサバしとるのう」 「そんな調子では困る。兄上も、片桐家の当主じゃ。そりゃあ官位石高その他において秀 頼様や大御所さまとは厳然たる格の違いがあろうが、一家の長という立場は同じですぞ」 「ふむ、一家の長か」 且元はやや気持ちを持ち直した。 そんなこんなで過ごしていたら、呼び出しが来た。 「おお、わしに任すとの仰せじゃ」 秀頼の「参勤」のことを任せるので登城せよ、とのことである。喜び且元は登城しよう としたが貞隆がサバサバとやってきた。その呼び出しの書状を見るなり且元の腕を掴み、 「罠じゃ、今度こそ殺るつもりじゃあ」 「いや、そうそう疑うものではない。秀頼様にはわしの赤心が通じたのであろう」 ――甘っ。 とか、貞隆は思ったであろうが、一応兄貴を立てる男なので、念には念を入れて少し見 合わせればどうか、と進言した。 「それもそうじゃな」 呼ばれたからとそそくさと出かけてはいかにも軽々しいし、且元も念を入れることの重 要性は知っている。 果たして、なんかもう仕込んだんじゃねえか、ってぐらいに「忠告」が集まってきた。 「今度こそ殺るつもりです。こないだみたいなあやふやなアレじゃなくて、確実です」 要旨はそれであり、要するに殺られるらしい。 「どうやら兄上の赤心も通じなかったようですな」 できるだけおれのいった通りじゃねえか、とかいうのは出さないで、むしろ慰めるよう に貞隆がいった。内心、集まりに集まった忠告に、絶対ほとんどは裏取ってねえよ、とか 思ったりもしていたが、中には、確かにこの人物の立場ならそういう情報を知り得るはず だ、という信憑性の高い情報もある。 「登城は見合わせよう。こうまで確実な情報が入っては、なんとしても止めざるを得ん」 「わかっておる。わしもみすみす殺されたくはない」 駿府への行き来の疲労からか病に伏せっております。という旨を使者に伝えさせて且元 は自邸に引き篭もった。計画が露見した、と看破した強硬派が襲って来ぬとも限らない。 やがて、一部強硬派の突出という事態を通り越して軍勢を催して攻め寄せてくる。とい う情報が入ってきた。あり得ない話ではない。 ――その時は迎え撃って我が武を示さねば。 そこは、戦国を生き抜きのし上がってきた男だけに、あっさりと決断した。主家への忠 義という概念が無いわけではないが、その主家が軍を差し向けてくれば抵抗し、自らの武 を辱めないようにする、という発想が当然の時代が、且元の生きてきた時代であった。 むろん、その迎撃準備にあたっては目立たぬようにすることを命じはしたものの、限度 がある。すぐに城内にそれと知れた。貞隆がメチャクチャ張り切ってたせいも少しある。 こうなると、互いに猜疑し合い、それを煽り合うことになる。根本的に信頼関係が失わ れているために、この悪循環を止める術が無い。 やがて、且元は「禄も屋敷も取り上げる、出てゆけ」という意味の、追放命令を受ける。 「上等じゃあ、これはむしろよい機会ですぞ、兄上」 貞隆などはサバサバぶりに拍車をかけて且元をけしかけた。 「うむ、もはや」 忠義の道もこれまでか。 「戦仕度じゃ!」 貞隆が命ずる。コソコソとやっていた仕度を大っぴらにやってよい、ということだ。な んといっても、戦や祭りのようなものの仕度ほどコソコソやっていて盛り上がらぬものは 無い。 「音を立てぬようにとかはもうよいぞ。今日中にも来るかもしれん。急げ急げ」 そういわれて、一気に活気付いた。この片桐屋敷にいる兵は三百程度。無論、城方がこ ぞって兵を向けてくればとても抵抗できる数ではない。しかし、城の者全てが且元を武力 討伐することに賛成しているわけではあるまい。動かせる人数は限られるはず。 ――鋭気を養い、刺し違えの気概を見せれば案外手は出して来ないやもしれぬ。 「兄上、何かあるか」 「うむ、ここに至っては弱気を見せてはならぬ。我ら一手で城内の敵を一掃するつもりで おれ」 「おう」 しかし、それは最後の手段だ。そもそも、この屋敷に籠もったところで支えきれるもの ではない。早々に退去せねばなるまい。 退去の準備が進んでいく中、且元は戦装束で床机に座っていた。 ――豊臣家家臣としてのわしもとうとう仕舞いじゃな。 ちょっとしんみりしたりしていた。自分が忠臣であったか、といえば今となっては自信 を持って断言することができない。或いは、大野治長こそが忠臣ではないか、とも思う。 しかし、もはやこのまま「忠臣」を貫いては我が片桐家が滅ぶのだ。主家滅びるならば 道をともにするのが忠義であろう、といわれれば一言も無いが、あくまでも我が家あって のことである。以前はそういうことは意識せずに、ひたすら秀頼のためを考えていたつも りであったが、豊臣家保全と片桐家のそれと、その二つが両立しなくなった時、後者を取 った。 今日ふうの言い回しを使って且元の心情を表現するとすれば、 「ボランティアは余力でやるもんですよ、そんなの!」 と、いうことになるだろう。(ちょっと違うかもしれん) 「兄上、誰か来る」 「なにぃ、よし、槍先にかけちゃれい!」 「いや、それが一人じゃ」 「軍使か」 自然と軍使という言葉を使ってしまったことが、既に且元の心の方向を表していた。 「速水甲斐守様、お話があるとのことです」 「よし、会おう」 速水甲斐守守久は、大坂城の七手組の組頭の一人である。七手組とは、豊臣家直属の精 鋭部隊のこと、秀吉が配下の兵から選りすぐった連中が集まっていた。しかし、そういっ た権力者の直属軍によくあることだが、常に手元に温存され、使うこともそうそう無かっ たために実戦経験を積む機会が与えられず、初代の秀吉直々に選抜した者たちが老齢とな り、子の代が増えてくると、実際の戦闘力には疑問符がつかざるを得なくなっていた。 しかし、とにかく、大坂城中の軍事力の大半は七手組であり、大野治長たち主戦派も且 元を討つのにはこれの力を借りねばならぬであろう。 戦仕度をした片桐家の一同が退去の準備を進めるに際して、城方のほうでは、追っ手を かけるべきではないかという声が出た。これも時代における「武門」というものである。 お互いに、武というものを重んじ、軽んじられないようにと思考が向く。 しかし、内心ではできれば一戦は交えたくないのが本音であった。 城方の方も、退去する且元を追討せよ、とまで叫んでいるのは一部であり、いざとなっ た時に人数が集まるか心許ない。 結局この場合は、一番数が多い――どちらの派でもなく、しかし、且元を討つのは止め た方がよいと考えている者が間に立った。 それが速水守久である。 「秀頼様の御為に、その膝下を騒がすようなことはすまい」 守久は、そういって且元を説いた。声を潜めて、 「ここで一戦に及べば、徳川殿がそれを口実に介入してくるかもしれぬ。そのことは、先 方も理解してござる」 と、いった。 「なにとぞ、秀頼様の為に」 秀頼のため、という名目を立てれば、とりあえずは城方主戦派の顔は立つのである。且 元の方も、いかに追放されたとはいえ昨日までの主家に自分から攻撃をするのはいささか 心苦しく、幸いあちらが手を出してこなかったのでそのまま退去した。とでもいえば、こ の時代とはいえ十分に面目を保てる。 「承知いたした。甲斐殿、お心遣い感謝いたす」 「それでは、確かに」 守久は念を押してから辞去していった。 「貞隆。聞いての通りじゃ」 サバサバ派の貞隆としても、無闇に戦いたいわけではない。黙って退去させてくれると いうのならそれが一番よいと思っている。 「退去の準備を急がせる」 「頼むぞ」 かくして完全武装した両者は一発の矢も弾も放たないまま一定の距離をとりつつ移動し た。間に速水守久の手勢がおり、且元側はかなり安心することができた。 且元の手勢がある程度大坂城から離れると、追っていた城方の兵が退き、別れた。 ちなみに、ここで且元退去の際に話がある。「難波戦記」というものがある。歴史を、 面白おかしかったらいいじゃない、というこの小説と似たようなスタンスで脚色してある 面白おかしい物語である、らしい。(原本読んだわけではないので断言を避ける) この中に退去する且元を、木村長門守重成が追いかけてきて、その真意を質す、という 場面がある。木村重成いうたら、人気者である。若く勇敢で凛々しく美男子で、身分の低 い者へも思いやりがあって、討死の報が入った時大坂城の侍女たちが大いに悲しんだとい う、もうなんかこれへ賢しらげに疑いを挟んだら負けなのではないか、と思われるほどの 出来た男である。 「なんと清々しい男よ」 「涼やかな若武者よのう」 「重成さま、好き」 とか、キラキラした目をした人々に真正面から褒め称えられるのが似合う男である。我 らが且元さんのように、 「いや、まあ、一概に不忠者とかいうのも間違ってると思うよ」 「いや、まあ、時代というものがあるんだし、現在の価値観で裁くのは、ほら」 「いや、まあ、悪い人じゃなかったと思うよ」 とか、伏し目がちの人々に搦め手から肯定される男とは違うのである。(そろそろ片桐 家の人に怒られそうな気は少ししている) この重成へ、且元は、忠心を信じられずこのようなことになってしまったが、貴殿はよ く秀頼様へ仕えて欲しい。ついては、真田幸村という真田昌幸の息子がいるが、これが優 秀な人物なので召し抱えるとよい、と忠告して去っていく。直接間接で二人の人気者と絡 みがあるわけである。いい扱いである。さすがに同情者がいたと思われる。話としては面 白いのだが、この小説では不採用にする。 さて、且元。 「茨城城へ戻るぞ」 且元とその勢は、居城の摂津茨木城へと退去していった。しかし、大坂城と茨木城は近 い。一時は矛を収めた主戦派が盛り返して七手組を動かし、攻め寄せてくる可能性が無い わけではない。防戦の準備を、且元は命じた。 さらに板倉勝重と駿府の家康に一部始終を報じた。 且元からの報告を受けた家康は、得たりとばかり豊臣討伐の命を発する。 大坂の陣が始まった。 防戦準備をしつつ家康の到着を待っていると、堺奉行の芝山正親から援軍要請が来た。 家康に味方しようとしていたところ、豊臣より物資の供出を迫られている。なんとか返答 を引き延ばすから助けに来てくれ、とのことであった。 「堺を押さえる気か、さもあらん」 戦略上、堺を押さえ、そこに集積されている武器弾薬兵糧を確保するのは絶対に必要な ことだ。どれも、籠城戦には欠かせぬ物資である。 ――よりにもよってわしんとこに来やがったか。 とか、思わないといえば嘘になるだろうが、しかし、且元は決然として立った。 「これは、早くも大御所さまへの忠義の見せ所じゃぞ、皆、勇めや」 とりあえず、先発隊として二百人の部隊を繰り出し、尼崎城まで行かせた。位置関係を 大坂城を中心にいうと、南西に堺、北西に尼崎城、北東に茨木城がある。且元は、尼崎城 で船を借りさせ、それで堺へと部隊を送らせた。 且元自身も後を追ったが、尼崎で船の調達に手間取るうちに、大坂城から兵が出てこち らへ向かっているとの報が入った。ほぼ同時に、堺に先発した部隊の到着前に大坂方の軍 勢によって堺は占拠されており、離脱しようとしたが退路を絶たれ、先発隊は壊滅四散し たとの報せも得た。 「逃げぇ!」 茨木城へと退却したが、途中で補足されてしまい、戦闘になった。敵の馬印を見れば、 大野治長の手勢であった。 「来おったな、豊臣家随一の忠臣が」 ――わしは、片桐家当主、片桐且元じゃあ! とか心の内に叫んだかは史書に残っていない。(正直に吐いてしまうとこの小説、史書 に残ってないことばっかり書いてある) で、まあ、負けたのだが、弁護するなら数が違い過ぎた。 「おのれ、修理!」 とかいいつつ、且元は逃げた。茨木城へと戻ると、 「ええい、やられたわ」 貞隆に向かって叫ぶや兜を脱いだ。 「今更ここまでは押し出してこぬとは思うが、一応気をつけい」 こうして、且元の大坂の陣はほとんど終わった。この一連の戦いで大打撃を受けたため に、以後決戦に繰り出されることは無かったのである。 やがて、家康の率いる部隊が到着し、秀忠の主力軍も到着。全国から大名たちも集まっ てきて、大坂城を大軍団が取り囲んだ。 結局、豊臣家の檄に応じる者はおらず、豊臣家は浪人を召し抱えてこれに対抗。大坂城 を頼りに戦を進めることになる。 さすがに、攻めあぐねた。ここで勝って浮き上がるか、さもなくばまた浪々の苦しい暮 らしになるのなら、いっそ死んだるか、という追い詰められた気持ちを持つ者が多く、寄 せ集めの割には大坂方はよく戦った。 ――大丈夫であろうか。 且元は、後方にあって、秀頼のことを案じていた。忠臣ではないが、不忠ともいえぬ且 元は、我が身と家の安全が保障されるとにわかに秀頼のことが気になってきた。 悶々としながらも、もちろん秀頼のためになることなどもう何もできない。 そして、この戦は、且元に最後の一幕を用意していた。 家康に呼ばれて行って見ると、難しい顔で差し招く、何事かと思っていると、家康はぼ そりと、 「落ちぬ」 と、呟いた。 「槍、鉄砲ではどうにもならぬ。被害が増えるばかりじゃ」 「あれだけの城ですからな」 家康は和議の話を持ち込んで揺さぶりをかけているらしいが、ほとんど相手にされてい ない状態らしい。 「大筒を持ってこさせた」 大砲である。これを城に撃ち込むのだが、 「秀頼と淀殿の居室へ撃ち込みたい。ついては、その場所を教えてやれ」 大筒の撃つ者に、秀頼と淀殿の居場所を示せ、というのである。 ――そこまでせねばならんか。 思ったものの、そこまでせねばならんことは嫌になるぐらい速やかに理解できた。それ まで、後方でどこか他人事のように一連の戦いを眺め、もはや安全が保障された、いわば 高みの見物のような気分で、それゆえに秀頼への哀憐の情を沸き起こしていたのだが、こ うなれば且元の行動は決まっている。 「お任せあれ」 迷うことなく請け負ったのである。 且元が指し示した場所に砲弾は命中した。この時の砲撃で侍女数人が傷ついたという。 顔を見知った侍女が怪我をするのを目の前で見た淀殿はヒステリーを起こした。それによ り、和議の話が進んだ、という。だが、それ以外にも弾薬の欠乏等の理由はあっただろう。 そこで踏ん張るのが籠城なのだが、そこで大坂方は折れた。 濠を埋めて、城を無力化することを条件に和議は成った。この時、強引に約定に無い濠 をも埋めたというが、いや、約定通りだったのだ、という説もある。事実としては、この 時濠という濠が埋められ、大坂城の要塞としての機能は激減したということである。 こうして大坂の陣の前半戦「冬の陣」が終わった。 家康は当初の予定通り駿府に戻ると、すぐにまた詰問の使者を送った。濠を掘り返して いるのは約定違反である、とのことであった。 間を置かず家康は再び大坂城へと軍勢を向けた。もう濠が無い裸城である。容易く攻め 落とせるはずであり、恐れるに足りなかった。大坂方から釈明の使者が来てもまともに相 手もしない。もはや攻め潰すのみ、と断固とした決意であった。 濠を埋めるのを許した時点で、もう大坂方は運命窮まったといえるだろう。一歩引けば 二歩踏み込んでくる。それが連鎖してさらに不利になる。 それでも、大坂方は善戦はした。家康の本陣に突入し、家康は逃げなければならなかっ た。しかし、退却した敵を追撃してもその後を埋める余剰兵力を持たないため、散った敵 が集結してくると包囲されてしまった。 主だった将を討たれ、大坂方の主力軍は壊滅した。大坂城は総攻撃を受け、濠が無いた めにあっさりと敵の侵入を許した。 ――燃えとるなあ。 且元は、炎を上げる大坂城を見つつ、慨嘆した。かつてそこで暮らし、かつて守ろうと した城である。感慨深いものがあった。 「秀頼様は大丈夫であろうか」 横にいる貞隆にいった。サバサバの貞隆は少し呆れ顔で、 「それは、今更わしらが案ずることではないでしょう」 当たり前のことをいった。 やがて、秀頼と淀殿は、数十名の侍女を含む家臣たちとともに、山里郭の土蔵の中にい るという情報が入ってきた。且元の兵は無論大坂城内に知り合いがいる。顔見知りを見つ け、それを保護してやるつもりで捕まえたところ、そのことを勝手に吐き、その情報と引 き換えに命ばかりは、と頼み、安心しろ、といってやると倒れて寝てしまったという。 「あそこか」 且元は、無論そこを知っている。あんなところに追い詰められているのか。 少し騒がしくなった。何かと思って貞隆が調べに行くと、秀頼の正室として大坂城にい た千姫が大野治長の計らいで生きて送り届けられたという。それをもって秀頼の助命を願 っているそうだ。 家康は、千姫のことは喜んで受け取り、これを送り届けてきた者には感謝の言葉など述 べたが、もちろん、秀頼を助けるつもりなど無い。 しかし、殺すにしても場所がわからない。どこかで知れずに死んでその遺体が焼けてし まえば、秀頼がまだ生きている、などと不穏な噂の元になりかねない。 「知らんか」 と、且元の所に、家康の使者が来た。 且元は、唾を飲み込んだ。思案は、一瞬で終わった。 「先ほど、わかり申した」 且元がそのことを既に知っている、ということを知っている兵が何人かいる。知らぬと 答えた場合、それが漏れれば、知っていて隠したということで当然、家康の不興を買う。 山里郭の土蔵は取り囲まれ、探りを入れられた。まず、助命のことは叶った、と大嘘を つき、確かにそこに秀頼がいるのかと呼ばわった。いる、との返答を受け、さらには念を 入れて、理由をつけて中にいる何人かの侍女を呼び出した。全て、間者として情報を漏ら していた者である。 「確かに、おられます」 その報を得ると家康は満足げに頷き、後は何をどうしろともいわなかった。 ――腹を切るであろう。 と思っていたし、むしろその時間を与えたつもりであった。しかし、土蔵の中にいる人 々は生きている。 「鉄砲を撃ちかけてやれ」 家康は面倒臭そうに命じた。 鉄砲の弾は土蔵の壁を貫きはしなかったが、その壁土が爆ぜる凄まじい音は、中に聞こ えたであろう。 「……大丈夫であろうか」 ふと、且元は、いった。ことここに至って大丈夫なわけはないのだが、我が身の安全が 確保された今、秀頼の身が気になる。結局この老人は、どちらにも針を振り切れぬ中庸な 人物だった。 やがて、火が出た。土蔵の内側からである。少数の者を残して中にいた人間の自刃が済 み、火をかけたのであろう。その者たちも炎の中で主の後を追ったはずだ。 「……仕舞い、か」 感慨深げに呟いた且元であった。 そこへ、本多正純が通りかかった。 「市正どの、ご苦労に存ずる」 正純は、親切のつもりであろう。顔を寄せて囁いた。 「大御所さまは、この度は、市正に辛い役目をさせてしまった。あれほどわしに忠実な者 はおらぬ、との仰せでしたぞ」 「本当でござるか」 且元、思わず顔を弛緩させていった。正純は何度か頷いてから去った。 「兄上、これで安心ですな」 「うむ、うむ」 貞隆に向けて、何度も頷いてみせた。 「兄上、泣いておるのか」 「ああ、泣いておるな」 自分でも気付かず、泣いていたらしい。 「大御所さまの言葉がそれほど嬉しかったのか。それとも……」 秀頼の死を悼んでか。それは貞隆は口には出さなかった。 「わからん」 且元の偽らざる本音であった。 「いったい、わしは何に対して泣いておるのか、自分でも、わからん」 片桐且元は、大坂の陣終結後、つまり秀頼の死後すぐに死んでいる。病だったと幕府に は届けられているが、あまりにも間が無いため、秀頼を見殺しにしたのを悔やんで喉を突 いたのだ、ともいわれている。 終 付記 歴史小説だが、大いに詰まった。実をいうと、これを書く前に丸々一本 没にしている。 一応真面目に書いていたのだが途中で「これ、つまらんな」と思ってし まい没にせざるを得なかった。 この話を書いてる途中で酒見賢一氏の「泣き虫弱虫諸葛孔明」を読んだ ことが転機になった。 「なんてえ無茶をしくさる」 とプロレススーパースター列伝語で驚嘆しつつ、 「これ、アリか」 と思った。アリだアリ。 子孫に怒られるのではないか、という危惧は無いでもないのだが、戦国 BASARAが大丈夫なら大丈夫だろう、という思いもある。しかし、あ れはやっぱりちゃんと子孫に挨拶(なんぼか包んで)が行っているのであ ろうか、とか思わないでもないんだが、もう知らん。 子孫がカチ込んできたら、おれの且元への愛をわかったから止めてくれ、 というまで語ってやるしかあるまいて。 念のためにいっておくが 「この物語は歴史に題材を取っていますが、まあ、フィクションと考えて おいて下さい」