鬼狼伝









     第1話 浩之         

 決闘の場所は、夜中の公園だった。
 人通りが少ないわりに、広さがある。
 側に民家が無い。あるのはオフィスビル群であり、その時間にはほとんど人がおらず、
少々騒がしくしても気付かれる心配はほとんど無い。
 黒輝館三段。
 東京支部、次期支部長候補。
 三嶋常久(みしま つねひさ)であった。
 そこでは、彼と同門の黒輝館三段、辻正慶(つじ しょうけい)が待っているはずで
あった。
 三嶋と同じく、黒輝館東京支部に籍を置く者である。
 入門は一日違い、初段になったのも、二段になったのも、三段になったのも同日。
 公式試合での勝敗は、九戦して四勝四敗一分け。
 誰が見ても、今のところこの二人に優劣はつけがたい。
 一週間後、神戸支部との対抗戦があった。
 現東京支部長が代表に選んだのは三嶋だった。
「辞退しろ」
 と、いうのが、辻が三嶋に対していった言葉であった。
 そのやたらとストレートな言葉に対する三嶋の返答にもまた、小細工は一切無かった。
「どうしても納得がいかないなら、勝負しよう」
 これからの決闘、負けたら三嶋は代表を辞退する。
 まだ十月だというのに、身を切るような冷たい風が吹いていた。
 僅かだが遅れた。辻はもう待っているに違いない。
 入ってすぐの所だと、辻はいっていた。が、少し奥まで入ってきたのに人影が無い。
 さては別の入り口があったのか、と三嶋が思った時、後ろから足音が聞こえてきた。
 辻の方が遅れたか。
 だが、振り向いた三嶋の視線が捉えた人影は二つ。
 辻だとしたら、誰か立会人を連れてきたか……。
「黒輝館の三嶋さんだね」
 人影の一つが聞いたこともない声でいった。どうやら男のようだ。
「誰だ」
「辻さんは来ないよ」
 三嶋の眉が逆立つ。
 今日、三嶋と辻がここで立ち合うことを知っている人間はごく僅かである。上の人間
は知らない。後輩が数人、知っているだけだ。
「おれ、あんたとやりたかったんだけどさ」
 そいつは、空手や柔道の道着のズボンをはき、上半身は黒いTシャツをまとい、その
上に皮のジャンバーを羽織っていた。
 顔立ちはそう悪くない。
「道場に行ったって、あんたぐらいになるとすぐには相手してくれないだろ」
 男は、どことなく退屈そうであった。
「ぞろぞろ群がってる下っ端なんかあてがわれちゃたまらねえ」
「辻はどうした」
「そんな時にな、こいつが、面白い話を聞いてきやがった。なっ」
 そういって、そいつが笑みを向けたのは、もう一つの人影であった。
 それも男であったが、表情が柔和である。小綺麗なスポーツウェアに身を包んだその
男は、相棒とは違って人当たりのよさそうな雰囲気を漂わせている。
「あんたんとこの連中がね、話しているのを小耳に挟んだ。っていうか、まあ、おれが
頼んで黒輝館に偵察に行ってもらったんだけどな」
「随分と危険なことをする……」
 黒輝館には荒っぽい連中も多い。
「チャンスだと思ったね、今日この時間にここに来れば『やる気になってる』三嶋常久
とやれるんだからな」
 まだ、男は退屈そうだった。
「そういうわけで、辻さんにはちょっと眠ってもらってる」
「辻を、やったのか……」
「おれがやりたいのはあんただ。辻さんの方は薬で済ませたよ……」
「貴様……」
「やろうぜ、三嶋さん」
 男は楽しそうに笑った。
「お前とやる気はない」
 背を向けた三嶋を、男は追おうとはしなかった。
「そんなに穏やかな気性じゃねえだろ、あんた」
 ジャンバーの袖から、男は腕を出した。
「おい、三嶋、黒輝館三段ってのは金で買ったのか?」
 振り向いた。
「なっ、おれのいった通りだろ、受けなくてもこういえば大丈夫だって」
 男は後ろの男を顧みた。
「でも……怒らせちゃったみたいだよ」
「かまやしねえって」
 ジャンバーが広がって舞った。
「預かっておいてくれ」
「うん」
 ポケットから取り出した、くしゃくしゃになった薄手の黒い手袋をはめながら、男は
三嶋の顔を見ていた。
「おれが三段になったのとおれの家のことは関係ない!」
 三嶋の実家が大地主であることは一部では有名であった。
「なんだ。あんた気にしてたのかい、あの噂」
「貴様っ!」
 だんっ、と地を蹴る。
「待ったあ! ルールは!」
「いらん!」
「OK!」
 蹴りが、下方から伸びてきた。
 遠慮も何もない。いきなり金的蹴りをかます気だ。
 空手の高段者の蹴りは凄まじい力を秘めている。木製のバットを折るところなどを、
映像などで御覧になったことがあるかもしれない。
 あれで金的を蹴られると、当然のことながら痛い。だけでなく、「その気」ならば、
殺すことも可能である。
 男は、交差させた両腕を下に向けて構えてこれを防いだ。腕の交差点に蹴りがガッチ
リとはまった。
「はあっ!」
 その足が地に下りると同時に、三嶋の上体が前に出て互いの胸が接触するほどに接近
した。
 これほど接近した時の攻撃は限られる。
 組むか……打撃ならば肘か膝か頭か。
 打撃である。と、瞬間的に男は確信した。日頃から空手を習っているからにはここで
組んでくる可能性は低い。
 膝も無い。
 と、男は断定した。すぐ前に三嶋は蹴りを放っている。その蹴り足を下ろしながらの
動作であるから続けて蹴り技は出しにくい。
 さらに、上体が前に出ていることから、それに乗せるような肘打ちか頭突きが来る確
率が高い。
 両手の位置から、右の肘であると男は判断した。
 男が上半身を後ろに反らした時、まさに三嶋の右肘が唸った。
 男の眼前を、当たっていれば男のテンプルに大打撃を与えていたであろう肘が駆け抜
けた。
 男は上半身を元の位置に戻すと同時に左手を三嶋の後頭部の前を通過させるほどに伸
ばしてその左肩を掴んだ。
 三嶋の体が固定された。
 それによって三嶋は見えていた掌底突きをかわすことができなかった。
 男が突き上げた掌底は、思い切り三嶋の顎に激突した。瞬間、三嶋の足が浮く。
 左肩を掴まれていなければ先程の男のように、上半身を後ろに反らしてかわすことが
できたのだが、その逃げ道は塞がれていた。
 三嶋の足が地に付くか付かないかの内に、男は足払いを放った。さらに、抜け目無く
両手を前に出して三嶋の道着の襟を掴んだ。
 柔道の小外刈りによく似た形であったが、もちろん細かい部分は違うし、柔道では倒
れ込むと同時に顔に掌を当てて、相手の後頭部を地面に打ち付けるなどという型は無い。
 ゴンッ。
 と、いう重々しい音にたった一人の観戦者は思わず目を閉じた。
「待って! もう!」
 目を開けた瞬間、叫んでいた。
 彼の友人が右手を振り上げていたのである。
 それを下ろした時、三嶋の体が一回だけ震えた。
「終わったぜ……やっぱなかなかだったな。ほれ、あの金的蹴りの後の肘打ち、あれ、
なんとかかわせたけどよ、貰ってたら一発でこっちが終わってたぜ」
「浩之、最後のは……」
「あん、最後に掌底叩っ込んだのがやりすぎだってか? やりすぎなもんか、あいつ、
まだ目を爛々と光らせてよ、左手でおれの襟掴んで引き寄せて、右をぶち込むの狙って
やがったんだぜ」
 浩之と呼ばれた男は人差し指と薬指で額の汗を拭った。
「へえ……」
 男は素直な感嘆を漏らして、動かなくなっている三嶋の顔を上から覗いた。
「やっぱり、黒輝館の三段だけあるね」
「おう、見た目にはおれの『圧倒的勝利』だったけどよ、一歩間違えればやばかったな」
「うん、じゃ、黒輝館三段、三嶋常久さんを撃破と……」
 そういって、その男はメモ帳に何かを書き込んでいた。
「どうだ雅史、確かあと二人だったよな」
「うん、十人抜きまで後二人だよ、ええっと……後は黒輝館神戸支部の柄谷光吉(から
たに こうきち)三段と……」
「おい、待て」
 浩之は、雅史と呼んだ男に、メモ帳を指差しながらいった。
「その最後の奴。外して、誰か他の奴見繕っておいてくれ」
「うん、わかった……知ってる人なの?」
「いや、又聞きだけどな」
 大胆不敵、傲岸不遜を体現(自称)する浩之が雅史の選んできた相手を拒否するのは
初めてであった。
 雅史が理由を知りたそうにじっと見るので、浩之は重い口を開いた。
「おれよ、こないだ先輩んとこの爺さんにそれ見せたんだよ、五人抜いた時だったかな」
「長瀬さん、なんていってた」
「特に何も……ありゃ小僧がはね回ってる……ぐらいにしか思っていやがらねえな……
ただよ、その最後の奴の名前見たらよ」
「うん」
「今のおれじゃ100パーセント無理だから止めろとさ」
「……」
「おれはな……こう見えてもあの爺さんのことはそういう方面に関しちゃ信用してるん
だ。たぶん、本当に勝てないんだろ」
 雅史は浩之のそんな言葉を聞いたことが無かった。
「だから、その最後の奴はもうちょい修行を積んでからにするわ」
 雅史から受け取ったジャンバーに両腕を通しつつ浩之はいった。
「うん、わかった」
 そういうと雅史は、メモ帳に二本の横線を引いた。
 伍津流 柏木耕一
 という名前が消される。
「さて……祝杯を上げようか、雅史」
「うん」
「来週は神戸に遠征だ」
「うん」
 浩之と雅史が去った後、三嶋の体がぴくりと動いた。
 寒かった。
 敗者に吹き付けるのはただただ寒い風のみであった。




     第2話 接触

 浩之は体勢を低くしていた。
 その目には隙が無い。
「頼む」
 真摯な声であった。
「やだ」
 返した方もまた真剣。
「いいじゃねえか、かませ犬」
「かませ犬って呼ぶな!」
「ちょっと様子見てきてくれるだけでいいんだよ」
「なんで自分で行かないんだ」
「万が一ってのがあるだろ。壊されたらたまらん、それに今のところは手の内を見せた
くない」
「壊される可能性があるようなとこへ行かそうとするなっ!」
「お前にしか頼めないんだよ」
「どういう意味でだ……」
「どういう意味ってお前、わかってんだろ」
 浩之は親しげにその男の肩を叩く。
 さらに肩に手を回して親愛の情を示そうとすると、男はいやそうに身を引いた。
「なっ、頼むわ、ちょっと行ってさ、ちょっと技かけられてさ、さっさとギブ(ギブア
ップ)して帰ってくりゃいいんだ」
「どんな奴なんだよ、狂った奴じゃないだろうな」
「人間できてる人らしいから大丈夫だよ」
「くそ……てめえ、なんかあったら慰謝料払えよ」
 男は浩之に対して敵意みなぎる視線を向けていたが、結局渋々いいながらも浩之の申
し出を受けた。
「よくいった! ここが場所だ。日曜の午後には絶対いるらしいから」
 浩之はいいつつ、住所が書かれた紙を取り出し、それをいまだにいやそうにしている
男の手に強引に握らせた。
「そんじゃ、頑張ってこいよ、できれば腕の一本ぐらい折ってこい」
「無茶いうな」
 ぶつくさいいながら去っていく男の背に向かって浩之は手を振った。
「ねえ、浩之」
 そういったのは、今まで無言で二人のやり取りを見ていた雅史であった。
「なんだ」
「矢島くんってさ、なんか弱味でもあるの?」
「いや、友情にあつい奴なんだよ、あいつは」
 浩之はそういうと雅史を促した。
「行こうぜ」

「えっと、すいません」
 日曜の午後二時、空は穏やかに晴れていた。
 知人の藤田浩之が行け、というのでやってきたが、そこには誰もいない。
 道場、らしい。
 だが、誰もいない。
 数歩後戻りして入り口の所を見てみる。
 特に何もない。
 大体、こういうところには看板か何かがかかっているものではないのだろうか。
「なんか用かい?」
 背後からの声に、彼は飛び上がったといっていい。
 前にのめって、道場の中に転がり込みそうになるのを、後ろから腕を掴まれてなんと
か止まる。
「あ、どうも」
 後ろから声をかけてきたのは自分よりも少し年上と思える男であった。ジーンズにト
レーナーというラフな格好が、短く刈られた頭髪と精悍な顔立ちに合っている。
「なんか用かい?」
「は、は、はいっ!」
 彼は、背筋を伸ばしていった。
「い、一手御教授願います!」
 ぺこり、と頭を下げる。
 こうするのが作法だ。と、教わったのである。
 男は、複雑そうな苦笑を浮かべていた。
「あ、あの……」
「道場破り、じゃないよな?」
「い、い、い、いえいえいえいえいえ! そんな滅相もない!」
「こういうとこに来てさ、いきなり一手教えろ、ってのは道場破りだと思われても仕方
ないんだぜ……」
 男の口の端に自嘲的な笑みが浮かんだのは、彼が過去に苦い経験を持っているからで
あった。
「ちっくしょう、藤田の奴……」
「んん?」
「あ、いえ、こっちのことです!」
「うん、それで、入門かい? だったらここじゃなくて、ここからだと……」
「あ、あのっ、あなた柏木耕一さんでしょうか」
「ああ、そうだけど」
「ぜ、是非とも! あなたの技を見たいんです!」
「は?」
 耕一は、一瞬、返答に詰まった。
「つまり、俺が目当てなのか?」
「まあ、その……そういうことです」
「偵察かい? ……君、もしかしておれの『兄弟子』さんとこの刺客じゃないだろうな
あ」
「し、刺客だなんて!」
「どっちにしろ、偵察だろ」
「お、お願いします。ちょっとでいいんです。おれとしても、そうしないと色々と不都
合がありまして……」
「うーん」
 と、真面目な顔して悩んだ。
 確かに、藤田のいっていた通り、人間ができている人なのかもしれん、と思った。
「こんな感じかい?」
 耕一の手刀が首のすぐ側で停止している。
「え……いつの間に……」
 呆然としたところへ、耕一は追い打つように、
「今、二発連続で入れたんだけど」
 と、驚愕することをいった。
「え、二発?」
「うん、これの前に、同じ手で水月にパンチを入れたんだけど……気付かなかった?」
 こくこくと頷く。
「これだけじゃわかんないかな」
「いや、もう十分で……」
 いい終える前に、目の前の人物はいなくなっていた。
 左の方で何かが動いたように思った時には、首に何かが接触していた。
「このままこう絞める……プロレスか何かで見たことないか?」
 耕一が真後ろにいるのも驚きだが、その腕が自分の首に巻き付いている。
 首を圧迫されながら、我が身と耕一とを見て、耕一が自分にかけているのが、プロレ
スでいうスリーパーホールドという技であることを思い出した。
 完全に決まれば、すぐに落とされる。
 そして、今、耕一の技は完全に決まっていた。
 もちろん、耕一はほとんど力をこめていない。
 しかし、鬼気とでもいおうか、何やら異様な気が耕一の両腕から感じられる。
 殺される。と、思った。
 この人はやらないだろう。しかし、この人が「その気」になったら自分は十秒とかか
らずに殺される。
「あ、あ、あの、もういいですから」
「ん、こんなもんでいいか?」
 耕一は腕を解いた。
 戒めから解き放たれ、首筋を撫でていると、耕一が、
「もういいかな?」
 と、いった。
「あ、ありがとうございましたっ!」
 それは、耕一に向けた言葉だが、死ななかったことを感謝する言葉でもあった。

 自分を支えているのは二つの掌。
 掌はベッタリと床に付いている。
 少し、浮かせる。
 これで、自分を支えているのは十本の指になった。
 ここまでは、昨日と同じ。
 小指を上げた。
 八本になった。
 両腕を折り曲げ、胸が床とスレスレになるまでに体を下げる。
 行ける。
 これなら百回は行ける。
「藤田ぁぁぁぁっ!」
 うるさい。
「藤田ぁっ! やっぱりここにいやがったな!」
「待ってろ」
 ぐっ、と腕を伸ばす。
 行ける……けど、あんまり待たせるのもなんなので三十回で止めておいた。
「なんだ。矢島」
 浩之は起き上がり、傍らにあった椅子に腰を下ろした。
 ここはサッカー部の部室である。
 日曜日、サッカー部は試合前でも無い限り休みなので部員は誰もいない。
 いや、一人だけ次期部長内定済の佐藤雅史がいる。
 浩之は、サッカー部の練習が無い時は、ここを使っていた。ある程度の広さがあって
ある程度のトレーニング用具も揃っている。
 なにしろ、サッカー部のエース(本人は否定)がいるので既に部室の合い鍵を手に入
れてある。
 三年生はもうあまり部活に来ないとはいえ、部外者の浩之が中に入るのを好んではい
なかったが、雅史が真剣に頼むとけっこうあっさり「黙認」してくれるようになった。
 雅史がいかに先輩に信用されているかということであろう。
 どうしても駄目なようなら浩之が出ていこうとしたのだが、その心配は無用だったよ
うだ。
「どうした。あそこには行ってきたのか?」
 そういいながら、浩之はペットボトル入りのミネラルウォーターを一口だけ飲んだ。
「行ってきたわい!」
「報告だったら明日でよかったのに」
「文句がいいたくて探し回ってたんだよ」
「あら、なんかあったの?」
「なんかあったの、じゃねえっ!」
 いつになく矢島は忍耐の限度のロックが弛んでいるようだ。
「てめえ、あんなおっかない人んとこ行かせやがって」
「怖かったか」
 浩之はとても嬉しそうだ。
「怖かったよ!」
「具体的にどう怖かったんだ?」
「上手く、説明できないな……」
 そういった矢島の顔は真剣であった。
「そりゃあ、じっくりと聞きたいな、どっかで飯食いながら話すか、おごるぜ」
「……」
 飯おごってもらうぐらいでなだめられないぞ。
 矢島の無言はそれを語っていた。

「緒方くん、送らせよう」
 来栖川の会長にそういわれたからには好意を受けねば却って無礼であった。
「お願いします」
 緒方英二はなぜか会長に気に入られているらしい。
「若いのにあんたはよくやっている」
 そういわれたことがあった。
「身を立てようとしている世界は違っているが、思い出すようだ」
 そう後を続けた。
 来栖川の会長は、昔、若くして来栖川グループの陣頭指揮をとっていたという。
 
 若僧。
 と、いう言葉が最も嫌いな言葉だった。だから自分は、頑張っている若い人間にそう
いうことはいわないようにしている。
 
 とは、来栖川会長の自伝の一節だったと記憶している。
 自分も、
『音楽界の重鎮』
 とか、
『音楽評論家』
 とかに、昔は随分と「若僧」「若気のいたり」などといわれたものだ。最近では、よ
うやく静かになったが。
 この人は、第一線で頑張っている若僧に好意を抱いているらしい。
 最近では、会長は相当のクラスの人物とでも同席しないという話だが、英二はけっこ
う頻繁に同席しているような気がする。
 車が来る間、英二はロビーで待っていた。
 あちこちにポスターが貼ってある。
 HMX13型─セリオ。
 来栖川電工が売り出しているメイドロボだ。
 その隣にいるのは我が妹。
 そもそも、来栖川と自分との間に繋がりができたのは、来栖川グループの広報部から、
「緒方理奈を是非、うちのCMに使おう」
 という企画が出てからである。
 このポスターの他に、テレビCMでも理奈とセリオが共演している。
 天下の来栖川である。当然、ゴールデンタイムにもバンバンCMを流す。理奈の宣伝
にもなるだろう。と、英二はそのメリットを考えてその話をOKした。
 評判は上々で、駅の構内に貼ったポスターが頻繁に盗難に遭った。
 それに気をよくした広報部で、
「森川由綺とマルチで第二弾を」
 と、いう企画が立ち上がっているらしい。
 英二は、振り返った。
 後ろに、会長の執事が立っていた。
 老齢だが、それを思わせぬ堂々たる体躯を持っている。
 腰などいささかも曲がっていない。
 眼光も鋭い。
 英二は、何度か会っている内に、どうしても好奇心が勝ってこの人物のことを調べて
みた。
 なんでも、随分と前から来栖川家に仕えている人物らしい。普段は会長の孫娘に付き
従っているというからよほど信用されているのだろう。
「車の用意ができました」
「いや、どうもすみませんね」
 英二は車の後部座席に座った。
「長瀬さん……でしたよね」
 しばらく走ってから、英二はいった。
「はい」
 バックミラーにうつる顔は微動だにしていない。
「なんか、格闘技か何かやってましたか?」
「少々ですが」
 やはり、表情に変化は無し。
「やっぱりねえ」
 英二が呟いた。それを独り言であると判断したのか、彼は何もいわず、英二も、それ
から特に何もいおうとはしなかった。




     第3話 餓え

  車が緒方家の前に停まった。
 昨年、新築したばかりのこの家は完成当時マスコミに「緒方御殿」といわれて騒がれ
たものだ。
 いわれるほどでかくも豪華でもないと英二は思う。確かに、妹と二人だけで住むには
大きい家だとは思うが。
 ドアが外から開けられた。
 英二は悠然と車から出る。
「到着いたしました」
 この車を運転していた来栖川家の執事、長瀬源四郎が恭しく一礼している。
「あの、長瀬さん」
「はい」
「さっき、格闘技をやっていたっていってましたよね?」
「……はい、申し上げましたが」
「例えば、こうパンチを打ったとしますね」
 そういって英二は右のストレートを突き出して、それを源四郎の胸のすぐ前で止めた。
「そうしたら、普通の人はたぶん、後ろに下がるか、掌で受け止めるか、手を振って弾
くか……まあ、そんなものだと思うんですが……」
 源四郎はこの自分の息子よりも若い男のいうことに何ら心を動かされた様子は無かっ
た。ただただ関心が無いようだった。
「格闘家としては、どうしますか?」
「……」
「こうです。こう」
 そういってまた英二はゆっくりと右ストレートを放った。
「こう、ですな」
 源四郎は渋々ながら上体を動かした。
 足の位置はほとんど動かさずに上半身を、右肩を英二の方に向けるように捻って、捻
りつつ、右に反らして英二のストレートをかわしている。
「それじゃ、次はやや早めに行きます」
 英二はそういって、構えた。
「……」
 源四郎もやはり渋々と付き合って形だけとはいえ構えを取った。
 英二は、打った。
 空を切り裂いたその右ストレートは虚しく外れた。
 源四郎は、先程のように上半身を捻るようにそれをかわし、そして、同時に右拳を英
二に向けて放っていた。
 やや横から、英二の顎を狙ったパンチであった。
「こうして反撃します」
「へえ、さすが」
「あなたも……」
 英二の左手が源四郎の右に反応して上がっている。はっきりいって全然間に合ってい
ないが、反応しただけでも見事といわざるを得ないほどに源四郎の反撃は滑らかで、素
早かった。
「全くの素人ではないでしょう」
 源四郎の英二を見る目が一変している。
 今の英二の右ストレートは自分だからかわせた、と源四郎は自慢でも慢心でもなく、
そう思っていた。
 全くの素人ならば右ストレートが来る、とわかっていても貰ってしまっただろう。
「はは、学生時代に少しだけですけどね」
「……ほう」
 ほんの少しだけ、源四郎は、この緒方英二というミュージシャンに興味を持ったよう
であった。
「今度、機会があったら教えて下さい、色々とね」
 英二は意味ありげな笑みを唇に浮かべた。

 別に特にムシャクシャしていたわけではなかった。
 戦いに餓えていた。というわけでもない。
 戦いならば、毎日のように組手をやっている。
「ごめん……な、さい……」
 途切れ途切れにいったその口に、正拳を叩き込んだ。
 手応えがあった。
 前歯が何本か折れただろう。
 その、どう見てもチンピラの予備軍にしか見えない高校生たちが黒帯の先に道着をぶ
ら下げて歩いている彼に、
「黒帯かよ……ホントに強いのかよ」
 と、やや大きめの声でいったことは、十分に理由になるだろう。
 だが、普段の彼ならば、そんなものは無視して通り過ぎることも可能だったはずだ。
 一週間前に手に入れた念願の黒輝館初段の称号。
 それを象徴する黒帯を馬鹿にされたことがどうにも許せなかった。
 黒輝館初段。
 張本剛(はりもと つよし)。二十歳。
 連中は公園の入り口のところにたむろしていた。
 いきなり、一人を蹴って公園の中にふっ飛ばした。
 それを追った張本を追って、全員公園の中に入ってきた。
 十月初旬。
 この時期、そろそろ日が落ちるのが早い。
 午後六時半。
 既に、辺りは闇であった。
 相手は四人、おそらく格闘技の経験は無し。
 素人だ。
 面白いように回し蹴りが決まった。
 奴らの攻撃は宙を切り、奴らは蹴り一発でダウンする。
 面白かった。
 それで、少々やりすぎた。
 だが、気を高ぶらせた張本は、倒れている奴を引き起こして蹴った。
「なあ」
 声は、張本の気を現実に引き戻す効果があった。
「あんた、力が有り余ってんのか?」
 道着のズボンに黒いTシャツ、そして皮のジャンバー。
 張本はその名を知るはずもなかったが、藤田浩之であった。
 張本の兄弟子、三嶋常久を入院させた男だが、もちろん、そのようなことも知ってい
るはずがない。
 今日は、いつもの相棒、佐藤雅史を連れていない。
 浩之は夕食前のジョギングの途中だったのである。公園の中で喧嘩しているのを見て、
思わず、引かれるようにやってきたというわけだ。
「なあ、おれとやんねえか? 勝っても負けても恨みっこ無しでさ」
 張本は、突然現れた乱入者に、胡散臭げな視線を向けていたが、やがて足で倒れてい
る男をひっくり返した。
「暗くて見えないか? 地面に倒れてる人数が」
「いや、見えてるよ……あんた、一人で四人とはなかなかやるね」
「それがわかっていておれに挑むのか」
 声に張りがある。気が、再び高ぶってきた。
「ここ何日か餓えてんだ……」
 浩之の声には渇望の響きがあった。
 今にでも「食いつき」そうだ。
「いいだろう。ルールは?」
 張本とて、好戦的な心境にある。
「喧嘩でいいだろ」
 張本の腰が僅かにだが落ちた。
 右拳が伸びた。
 少し退く。
 拳は、浩之の顔の少し前で止まった。
 これ以上伸ばそうとすれば上体を崩さねばならない。張本は右を引いた。
 右を引いて、踏み込むと同時に左……は、フェイントだ。
 軽く宙を打っただけで左は引っ込み、再度、右拳が唸った。
 浩之は、右手を上げていた。
 もちろん、張本の左拳を防御するつもりであった。
 かかった!
 と、どっちもが同時に思った。
 正確無比に顔面に向かってくる右を、浩之は辛うじて左手で弾いた。と、同時にやや
フック気味に弧を描いた張本の左が浩之の頬を叩いた。
 素早い!
 浩之は首を捻りながらそう思った。
 今のを、かわした!
 張本は絶対にクリーンヒットすると思ったパンチを外されて一瞬、当惑した。
 むろん、完全に外れたわけではない。確かに、拳が浩之の頬に接触した。が、浩之は
瞬間、首を捻り、顔を思い切り左に向けて、さらに上体を後方に反らすことによってダ
メージを最小限に止めたのである。
 拳は、浩之の頬をかすっただけであった。
 だが、浩之の体勢は後ろに向かって崩れた。
 張本が、だんっ、と踏み込む。
 右拳が来る。
 浩之はそれをガードした。よく鍛えられた腕の筋肉はその正拳突きに耐えた。
 しかし、大きく後方に飛ばされることとなった。
 遂に、浩之は背中で地を打った。
「えあっ!」
 浩之を見下ろした張本は、すぐさま右足を打ち下ろそうとした。
 突然、左足が地面から離れた。
 張本の右足が高く上がった瞬間、浩之が左足の膝を蹴ったのだ。
 左足が後方に弾け飛ぶ。
 もはや、右足を浩之に見舞ってやるような状況ではなかった。
 体勢を立て直さねば、と思った時には、浩之が天に向けて突き上げた右拳が張本の鼻
に炸裂していた。落下しているところへ入ったのでカウンターになった。
 張本の体が一瞬、宙に停止した時、入れ替わって左が打ち上げられた。
 立て続けに猛打を顔面に食らって、張本の意識が一瞬だけ飛んだ。
 浩之が横に跳ねて、張本と地面のサンドイッチの具になるのを回避した。既に張本の
目は光を放ってはいない。
 だが、浩之は容赦せずにうつぶせに寝そべった張本の後頭部に肘を叩き下ろした。
 ゆらり、と立ち上がる。
 足で後頭部をグリグリ踏んでも張本は反応しない。
「いい運動になったよ」
 屈託の無い笑顔。
 こういう状況でこういうふうに笑えるのはこの男の特技といっていいかもしれない。
 浩之は、頬を手でさすっただけで、後は何事も無かったかのように、公園を出て行っ
た。
 九人目を前に、いいウォーミングアップになった。

「なに、九人目がこっちに来やがるのか」
 翌日、昼休みの屋上で浩之は声を上げた。
 前に、雅史がいる。
「うん、そうらしいよ」
「どういうことだ」
 浩之の「十人抜き」の九人目の標的、柄谷光吉(からたに こうきち)は黒輝館神戸
支部の人間である。
 よって、浩之はそのために神戸まで遠征しようとしていたのだが。
「毎年、東京支部と神戸支部での対抗戦があるんだ。今回は東京支部でやるんだけど、
柄谷さんは神戸支部代表に選ばれたんだよ」
「それで、向こうから遠征してきやがんのか……よし、そいつはいいぞ」
 浩之の目が輝いている。
 実をいうと神戸までの交通費が「痛い」と思っていたところである。

「なあ、ちょっと来てくれるか」
 道着を着た男たちにそういわれる心当たりが皆無というわけではなかったが、やはり、
いきなりそういわれて耕一は戸惑った。
「え、なんだよ」
 男たちは五人いた。中に二人ほど耕一の知っている顔がある。
 そういえば、こいつら空手部だっていってたな、と耕一は思い出した。
 一体、なんであろうか。
 耕一が伍津流格闘術を学び始めた。というのは一部の人間は知っている。
「是非、少し教えてくれ」
 と、いうお願いであろうか。
 しかし、それにしては連中の腰が低くない。もっとも、師の許しも無く他人に教える
ことはできないが。
 空手部っていえば……張本の奴が、黒輝館で空手やってて、時々うちの大学の空手部
にも顔出してるっていってたな……。
 そんなことを考えていると、
「張本のことで話がある」
 と、いわれた。
 張本とはちょっとした知り合いではあるが、それほど深い付き合いでもないし、受講
している講義があまり重なっていないので、耕一はここ三日ほど顔も見ていなかった。
「張本がどうかしたのか?」
「とぼけるな」
 と、いったこいつは棟方(むなかた)とかいったっけ。
 などと思っている間に囲まれた。
 ごつい男たちに包囲されるのはあまり気分のいいものではない。
「来てくれるな」
 なんか勘違いされているらしい、と耕一は思いつつも、
「ああ、いいよ」
 と、いった。
 張本のことなんか知らないのだ。どうせ誤解だろうから、話し合いでどうにでもなる
だろうと、この案外平和主義な男は思っていた。




     第4話 火の粉

 なんでここでこいつと相対しなければならないのか、と耕一は不満であった。
 通っている大学の空手部の道場。
 自分がここにいるのはいい。自分で望んだ、というわけではないが、少なくともここ
にいることには、自分の意思が大きく関係していた。
 しかし、目の前にいる棟方という男とピリピリした空気の中で睨み合っているのは、
決して耕一の意思から生じた状況ではなかった。
 張本のことで話がある。と、いうので着いてきたらいつのまにかこんな始末である。

「張本が入院した」
 と、耕一を道場に連れてきた棟方はいった。
 初耳であった。
「お前がやったんだろう」
 冗談ではない。
 そういえば、いわれて思い出したのだが、一週間ぐらい前、格闘技に関して耕一は張
本と口論になったことがあった。
 違う流派の格闘技を学ぶ者として、意見や考え方にやや相違があったのが原因であっ
たが、それほどに根の深いものではなかったはずだ。
 それが原因だろうと彼らはいうのだ。
「実際に、この中の誰でもいいから、おれと張本が口論をしているところを見た奴はい
るのか?」
 もちろん、耕一はそう尋ねた。
 耕一をここに連れてきた五人と合わせて、道場には十四人の男がいたのだが、一人も
首を縦に振る者はいなかった。
 口づてに「柏木と張本が格闘技のことで口論していた」という話を聞いて、早とちり
したのだろう。
 もちろん、耕一は疑惑を否定したのだが、それほど物分かりのいい連中では無かった。
 何をいってもしらばっくれていると思われてしまう。
 そんなわけで、耕一は今、棟方と向かい合っている。
 棟方はこれから自分に「制裁」を加えるらしい。
 理由は当然、張本の仇討ちだ。
 
 耕一は張本を入院させた覚えは無い。
 こいつらは口でいってもわからない。
 痛いのはやだ。
 
 以上、三点の理由から、耕一は棟方を前にして構えていた。
 棟方は耕一の見る限りはけっこうやる奴だ。そもそも、
「一対一で勝負だ」
 と、伍津流を学ぶ耕一にいっただけでも、相当の自信があるということだ。
 棟方が右拳を放った。
 スピードはなかなかのものだ。
 耕一は左手で弾いた。
 相手が空手家だという認識が、耕一を捕らえていた。
 右拳を弾かれた瞬間、棟方が半回転しながら耕一のふところに入ってきた。
 棟方の背中が耕一の腹にぶつかった。棟方の体勢が低い。
 投げられる!
 思った刹那、耕一は逆らわずに飛んだ。
 棟方は耕一を背負い、投げた。
 手を離す。
 投げっぱなしか!
 危険である。柔道の練習などでも危ないので「投げた時、絶対手を離すな」と、禁止
されている。
 耕一は宙に跳ね上がった。
 頭が思いっきり下を向いている。こうなると非常に受け身が取りにくい。
 柔道の道場ではないので、床は板の間だ。頭から落ちたらただでは済むまい。
 耕一は両足を振った。
 その動きに合わせて耕一の体が空中で回転する。
 両足が床に着く。
 即座に振り向いた。
 追撃を恐れての機敏な行動だったが、棟方は呆然として元の位置から動いていない。
 あれで仕留めた、と確信していたのだろう。
 このまま呆然としたまま戦意を喪失するか。
 おのれ小癪な真似を! と、怒るか。
 まあ、大体こういう時の反応はこの二通りに別れる。
「野郎っ!」
 怒った。
 タン、タン、と床を蹴って突進してくる。
 しかし、耕一だっていつまでも平和主義者ではないし、無制限に寛大でも、人格者で
もない。殴られれば殴り返してやろうと思うし、あまりに聞き分けが無い人間には、口
でいってもわからないのなら痛い目にあってもらおう、という対策を立てることもある。
 右、右、左。
 耕一はそれを片手でさばいた。
 右手が伸びてきた。
 拳を握っていない。やや掌が開いている。
 左の袖が掴まれた。
 あっちはしっかりと道着を着ているからいいが、こっちは普通のトレーナーである。
「伸びるだろ」
 耕一は呟いて、その手を取った。
 右手で手首を掴んでいる。
 ここから左手を相手の肩の上を掠めるように伸ばして、手を巻き込みつつ引き倒して
右手をロックすれば脇固めになる。
 その気になれば腕の一本ぐらいへし折るのはわけはない。
 だが……腕の一本も折ってやるほどでもないかな……。などと考えていたら振りほど
かれた。
 うん、指の一本ぐらいに止めておこう。
 拳が飛んできた。
 拳を握られていると指を一本だけ取るというのは難しい。
 棟方は続けて打ってきた。
 右、左、右、そして右の蹴り。
 左、右、左、そして左の膝を上げて耕一はこれを防いだ。
 そして左。
 拳を握っていない。
 掴んで、投げてくるつもりだ。
 耕一は右手を振った。
 耕一の手刀が棟方の左手の内側を掠めるように伸びる。
 瞬間、棟方の左肘が弾かれるように曲がった。
 手刀は、ぴたりと棟方の首筋の直前で停止している。
 十三人の観客たちは、寸止め──と、思ったであろう。
 しかし、耕一はそこまで甘くはない。
 一拍置いて、棟方が絶叫して退いた。
「う! ぐ……」
 左手の親指を押さえて呻く棟方に耕一の視線が刺さる。
 その視線を外すと、耕一は無言のまま道場の隅に置いてあったバッグを取って、沈黙
を保ったまま、道場を後にした。
 親指を折られた棟方がどう出るか、と思ったが、彼は追っては来なかった。
「張本と話をつけておくか……」
 どこの誰が張本をやったのかは知らないが、えらい迷惑である。
 と、いっても今更引き返してあの連中に張本の入院先を尋ねるのもなんなので、空手
部関係ではない張本の知人をとっつかまえて話を聞いた。
 張本は自宅の近くの病院に入院していた。
 耕一のアパートからは正反対の方角だ。
 確か、この近くに黒輝館の道場があるはずだ。
 張本の病室は四人部屋であった。
「おう」
「……ああ」
 意外。
 と、いった感じの張本であった。特に深い付き合いでもない耕一が見舞いにやってき
たのだからそれも当然であろう。
「どうだ?」
「ん……特になんてことはない。頭を強く打ったんでな……念のためだ」
「相手は誰だったんだ?」
「……」
 張本は何もいわない。
「おれ、じゃあないよな」
「……」
 今度の無言には明らかに困惑が含まれていた。
「ほら、お前の知り合いに棟方っているだろ、空手部の」
「ああ、棟方がどうしたんだ」
「あいつらがさ、おれがお前をやったと思ってるんだよ」
「なに……」
「そんで、さっき道場に呼び出されたよ」
「そ、それでどうした」
「まあ、おれはなんともなかったけどさ」
 耕一は、先程の一件を張本に語り聞かせた。
「そうか……すまん、おれのつまらんプライドのせいだ……」
 張本は苦い顔をしながら、頭を下げた。
「たぶん……あれは高校生だ……高校生に負けたなんていえやしないからな……あいつ
らにはそのこと黙ってたんだ」
「へえ、高校生」
 この張本というのはけっこうな実力者だ。
「棟方たちにはおれの方からいっておく」
「ああ、頼む」
 耕一は一安心して病室を出た。
 その目の前に、先程親指をへし折った男の顔が出現した。
「……」
「……」
 突然のことなので、さすがに双方言葉が無い。
「てめえっ!」
「よう」
 双方、距離を取って、しばしまた無言。
 棟方の親指に包帯が巻かれている。ここで治療を受けて張本の見舞いに来たのだろう。
「……」
「……」
 耕一は、どうしたものかと思案した。この男、どうやら先程はいきなり親指を折られ
て瞬間的に戦意を無くしただけであるらしい。
「そんじゃ」
 何気なくさり気なく何事も無かったように去る、という耕一の策は通じなかった。
「待て」
 肩に手が置かれた。
 反射的に耕一の体がピクリと震える。後ろから肩に手をかけられた時の対処法、とい
うのを昨日練習したばかりであった。
 ぐっ、とこらえて耕一は振り向いた。
「なんだよ」
 まさか、病院の廊下で喧嘩などしないだろう。とは思うものの、いかにも単純そうな
棟方の顔を見れば見るほど自信が無くなってくる。
「あのな、おれにどうこういう前に、張本に話を聞け」
 耕一は、こうなっては却って逆にこれを好機として、張本からこいつにいってもらお
うと思った。幸い、張本は壁一枚隔てたところにいる。
「どいて下さい」
 男の声がした。
 それが耕一と棟方に向けられた言葉であろうことは容易にわかった。二人である程度
の距離を取っているものだから、ただでさえあまり広くない廊下が余計に狭まっている。
「うるさい、黙ってろ!」
 棟方が怒鳴る。
「おいおい」
 耕一はさすがに止めた。このあまり思慮が深いとはいえない男の牙が自分はともかく
他の人間に向けられることは避けねばなるまい。
「止めろって……邪魔になってんのは確かなんだから」
 耕一は棟方を止めることで、この場を収めようとしたが……。
「病院の廊下で騒ぐとは……とことん非常識な人ですね」
 耕一が「助け」ようとした男が見事にその努力を無にしてくれた。
「なんだと……」
 棟方の馬鹿はもはや耕一など眼中に無しといった感じだ。
「病院ではお静かに……常識でしょう?」
 耕一はやっと、その人物に注目した。
 背はけっこう高い……が、それほどごつい体格ではない。一目見て、なにか格闘技を
やっているようには見えない。
「喧嘩売ってんのかてめえ!」
 こういう状況でそういう台詞を吐く奴こそが喧嘩の売人であるが、わざわざそんなこ
とをいっても棟方の頭に血を上らせるだけだろう。
「おれはこう見えても空手をやってんだ」
「へえ」
 馬鹿にしたような響きの声が、棟方の癪に触った。
「ん?……」
 棟方を止めねば、と思った耕一の表情に変化が生まれた。
 棟方に喧嘩を買わされそうになっている男の背後にいた少女に気を取られたのである。
 神秘的。
 と、いう言葉が即座に耕一の頭に浮かんだ。
 男が後ろを向いて、少女に向かっていった。
「瑠璃子……下がってなさい」

「実はね、もうここにはいないんだよ」
 そういわれて、浩之は落胆した。
「そうなんですか……ちょっと手合わせしたいと思ったんですが……」
「うん……まあ、君ならいい勝負をするかもしれんな」
 浩之と対座してそういった男。
 小倉四郎(おぐら しろう)という。
 浩之の家の近くで空手の道場を開いている人物で、ほとんど我流の浩之に辛うじて師
と呼べる人物がいるとすれば、それはこの小倉ともう一人ぐらいであったろう。
 基本的に空手だが、間接技もやる、というのが小倉の道場の特徴であった。
 浩之は今日は相棒の雅史を連れていなかった。大会が近付いてきて雅史もサッカーの
方が忙しくなってきたのだ。
 今日、浩之はこの道場に手合わせに来たところであるが、小倉がいった通り、目当て
の人物はもうここにはいないらしい。
 入門してから一年たらずで道場でも並ぶ者が無いほどに強くなったと聞いて、浩之は
興味を持ったのだが、残念である。
「ところで、そいつ腕は上がってたんでしょう? なんで来なくなっちまったんスか?」
 浩之にはそれが疑問であった。大体格闘技というものの醍醐味は自分が強くなってい
くことにある。どんどん強くなっている途中で止めてしまうには、それなりの理由があ
るはずだ。
「彼がやめたんじゃない……私が破門にしたんだ」
「破門?」
 浩之は思わぬ言葉を聞いて驚いた。
 この小倉四郎という人はけっこうな人格者で、道場生も皆、彼を慕っている。練習を
離れればとびきり温厚で、今までどんなに素行が悪い道場生も無闇に破門にしたことは
ない。
「そいつ……そんなにワルだったんスか?」
「いや……そうじゃない……彼を破門にしたのは特殊な理由なんだ……」
「へえ……そいつは、是非話を聞きたいものですね」
 改めて、浩之の興味が激しく刺激された。
「そいつ、名前はなんていうんです?」
「月島拓也」
「……月島……拓也……」
 浩之はその名前を噛みしめるようにゆっくりと口にした。
「是非、聞かせて下さい。そいつの話」




     第5話 歓喜

 「彼がここに来たのは一年前だ」
 一年前、その男は小倉の道場にやってきた。丁度、稽古が終わり道場生が帰ってしま
った後なので、小倉は彼を道場に上げて話を聞いた。
 空手をやってみたい、ということだった。
「僕に、できますか?」
 いかにも素人らしい問いだった。
 やる気さえあれば誰にでもできる、という小倉の答えに、男は入門を決意した。
 その男というのが月島拓也である。細い目が特徴的な青年であった。
 元々運動神経は良いようで、拓也は練習にはしっかりと着いてくることができたが、
どことなく物足りないところがある男だった。なんでもそつなくこなすのだが、意欲が
乏しいように思えたのだ。
 ある日、間接技を教えてみると、これが余程性に合ったのか熱心に練習するようにな
った。やはり、上達の糧に一番よいのは本人の意欲である。拓也の腕は上がり、それに
引っ張られるように打撃技にも以前より熱心に取り組むようになり、次第に道場でもト
ップクラスの実力者となった。
「ところがね……いつごろからかな……彼が怖くなったんだよ」
「怖く……ですか?」
 小倉がそれに初めて気付いたのは寝技の組手の時だ。
 拓也が腕ひしぎ十字固めを使った。
 それはいい。
 完全に決まり、相手が拓也の腕を二回叩いた。
 相手を二回叩くのはギブアップの合図である。もちろん、拓也はそのことを知ってい
た。
 骨が軋んだ。
 相手は計八回拓也の腕を叩いた。
 相手の腕が折れなかったのは、拓也が技を解いたからではなく、小倉が割って入って
無理矢理に技を解いたからだ。
「彼はね、嬉しそうだったよ」
「嬉しそう……」
「ああ、顔がね、恍惚としているんだ」
「それで……破門っスか」
「同じようなことが何度も続いたんでな……他の道場生のことも考えて破門にした」
 正直、その話だけでは月島拓也という男のことはよくわからなかった。
 寸分の無駄もなく技が決まれば、我ながらそれに惚れ惚れとしてしまうという経験は
浩之にもあった。
 だが、小倉が恐怖を感じ、破門にしてしまうほどだ。おそらく、何か浩之が考えてい
るようなことを超越した「歓喜」が月島拓也の面上に浮かんでいたのかもしれない。
「もしやるのなら、間接技に気を付けることだ。決められたら折られると思っていい」
「はい、そん時は気を付けます」
 浩之は一礼して小倉の元を辞した。

「瑠璃子……下がってなさい」
 その一言で、妹は後ろに下がった。素直なよい妹だ。
 我ながら、平地に乱を起こすような真似をするとは自覚しないでもなかったが、通行
の邪魔になっていることを指摘すれば怒り、病院では静かに、といえばまた怒る。
 そのような人間を穏便に扱うのは、彼──月島拓也には不可能であった。
 見たところ相手は二人、だが、片方には戦意が無く、むしろ好戦的な連れ(?)を制
止しようとする素振りが目立つ。
「せあっ!」
 棟方は、耕一が瑠璃子に気を取られている隙に、だっ、と踏み込み右拳を打ってきた。

 何か格闘技をやろう、と思ったのは、妹の瑠璃子のためらしい。
 いざとなった時、瑠璃子を守るのに少しは肉体的な強さが必要なのではないか、と漠
然と思っていたような覚えがある。
 とりあえず行動してみようと思い。通学路の途中にある空手の道場に行ってみた。
 しばらく、義務的にそこで練習していたのだが、ある日教えてもらった間接技という
のが妙に気に入ってしまい、ハマった。
 あれは、一年ほど前だったろうか。
 拓也は道着を肩から吊して帰り道を急いでいた。
 なぜか二人組の男に絡まれた。
 今でもよく理由がわからない。
 道着を吊していた帯が白い色をしていたのでナメられてしまったのかもしれない。
 ただ喧嘩がしたいだけの連中だったのかもしれない。
 それとも、案外、自分の顔が他人に不快感を与えるのか。
「てめえ、ガンつけてんじゃねえ!」
 と、いわれても拓也はそんな連中は一瞥すらしていない。
 そういったきり、拓也の弁明も聞かずにいきなり殴りかかってきたので拓也は道場で
教えられたように夢中でそれをさばいた。
 次の瞬間、顔面に拳をぶち込んだのも教えてもらった通り。
 その一発でそいつがダウンしたのは予想外であった。無我夢中で狙う余裕など無かっ
たのだが、偶然にカウンターになったらしい。
 どっ、と男が背中を地に打ち付けた時、拓也は構えを取った。もう一人の奴がどう出
るか、一発で仲間を沈めたのを見て戦意を無くしてくれれば、と拓也は思った。
 しかし、そいつは仲間が倒れるのを見ると激昂して向かってきた。
 左足で横蹴りを放った。
 素人だ。キレも速さも無い。
 右手を上げてガードした。
 足の動きが止まった刹那、その右手を一転させて、足を潜らせ膝の裏に持っていく。
 そして、左手ですねを掴む。
 左手を固定したまま右手を一気に左回りに半転させると男はあっさりとうつぶせに倒
れた。
 習った通りだ。体がスムーズに動く。
 拓也は即座に両手で男の足首を挟んだ。
 右手が踵を、そして左手が爪先を掴んでガッチリと挟んだ。
 それを、思い切り全力で捻る。
「痛っ!」
 男が叫んだ。
「や、止めろ! 離せ!」
 拓也はただただ力を籠める。
「!!……」
 抵抗が無くなった。
 どうしても越えられないラインをひょい、と越えたような感じ。
「っっっ!!」
 やった。
 折れた。
 折った。
 練習の時にはもちろん本当に折るわけにはいかないので、ある程度力を抜いて、相手
がギブアップすればすぐに外す。と、いうより、間接技が完全に決まった瞬間に相手は
ギブアップするし、こっちもそれを見越してあまり力は入れない。
 しかし、実戦では関係無い。
 折るのだ。
 折っていいのだ。
 いい。
 こんなに気持ちのいいものだとは思わなかった。
 男は左腕を後ろに振った。
 後ろを見ずに夢中で振ったその腕は難なく拓也に受け止められてしまった。
 相手がうつぶせになっていて、腕を取っている。
 この体勢からだと、脇固めにすぐに行ける。
 拓也は半ば無意識の内に男の左脇に移って左腕を決めていた。
「や、止めろ!」
 折ってやろう。
「離せ!」
 駄目だ。
 折れる。折れる。もうすぐ折れる。
 またあの快感が全身を駆け抜けるのだ。
「くあぁっ!」
 確かな感触。
 やはり間違いではなかった。
 拓也はある種の感動に打ち震えながら立ち上がった。
 しばらく、重苦しい悲鳴を聞きながら拓也は陶然としていたが、やがて我に返ると、
さすがにやりすぎたような気がして男の顔を覗き込んだ。
「ちょっと……」
「う……ああ……ひぃ」
 掠れるような声。
 男は、明らかに拓也に本能的な恐怖を感じていた。
 理性ではない、本能が感じる根源的な恐怖だ。
「ふふ」
 自然に笑みが浮かんだ。
 それから二週間後である。通っている道場の主に破門をいい渡された。このままでは
いつか練習中に間違いが起こると思ったのだろう。拓也に異存は無かった。基本は既に
学び取った。後は独学で行ける。

 棟方の右拳は身を捻った拓也の頬を掠った。
「おい、止めろって」
 もはや手遅れかと思いながらも棟方を制止した耕一は、すぐに身を翻して拓也を見た。
「おい、君、大丈夫か」
「……見ましたね」
「え?……」
「その人が先に僕を殴ったんですよ、それをお忘れなく」
「おい、落ち着いて……な」
「いざという時には証言して下さい」
「おい!」
「どけ! 柏木!」
 棟方の馬鹿が喚いている。
「ええい、待てっていってんだろうが」
 くい、と袖が引っ張られた。
「誰だ」
 振り向いた耕一の目の前で一人の少女が微笑んでいた。
「えっと、君は」
「月島瑠璃子だよ」
「あ、ああ、それはどうも」
「お兄ちゃんの好きにさせて」
「はあ?」
「うん、瑠璃子、僕に任せておけばいい」
「お前らなあ……そいつは空手やってんだぞ、けっこう強いんだ」
「お兄ちゃんも強いよ」
「うん、瑠璃子のお兄ちゃんは負けないぞ」
「どけ! 柏木!」
「ええい! お前ら好きにしろ!」
 とうとう、耕一はさじを投げた。
 瑠璃子の手を引いて離れる。
 だっ、と焦れに焦れた棟方が突進した。
 右拳。
 さっきと同じ。
 だが、拓也の動きは先程とは打って変わって流麗、かつ迅速であった。
 左に避け、棟方の右手が伸びきった瞬間、右手が手首に、左手が肘に。
「ぐあっ!」
 右手を引き、左手を押す。
「上手い」
 耕一が呟いた。
 右手の間接を取られて、棟方は仕方なく上半身を曲げた。
 瞬間、拓也の右足が上がって棟方の顔面に激突した。
 上半身が跳ね上がったところへ、拓也の左のローキックが膝裏を叩く。
 膝が曲がった。
 腕は拓也に取られたまま。
 拓也が棟方の右腕に飛びつく。
 左足が棟方の首を刈った。
 膝が曲がっているところに足で首を前から刈られては、後方に倒れざるを得ない。
 棟方が気付いた時には彼は仰向けに倒れていた。
 次の瞬間、右腕が拓也の両足に圧迫される。
 間隙を置かずに、激痛が右腕を走った。
「くくっ!」
 腕ひしぎ十字固め。
 完全に決まっていた。
 決まれば、後は折るのみ。
     
                                 続く



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