鬼狼伝10












     第41話 追われること

「葵……藤田……」
 控え室のドアの前で突っ立っていた浩之と葵は、静かな表情をしている坂下好恵を見
て沈黙したままだった。
「綾香は……中か」
「はい」
 と、葵が答える。
 女子の控え室には今、綾香一人しかいない。他の選手はもう試合を終えて引き上げて
いるし、御堂静香はもう一つの別の控え室にいるはずだ。
 試合前に、対戦相手とは別の控え室に入ることになっているのだ。
「医務室……行ったんだろ?」
「やっぱり右の足首をやっちゃったらしいです……そんなに重い怪我ってわけじゃない
そうなんですけど……」
「……無理するからだ……」
 好恵はそういってから、葵の吊られた腕を見て、
「あなたもよ」
 と、付け加えた。
 葵は、照れ臭そうに俯いた。
 本来、足首の関節が損傷しているのだから一刻一秒も早く病院に行った方がいい。だ
が、綾香はどうしてもシャワーを浴びて着替えたいと控え室に入ってしまった。
 そう、逃げるように……。
「あ……」
 俯いた顔を起こして、それを好恵の方に向けた時、葵が呟いた。視線は、好恵の肩の
上辺りを抜けて後方へと走っている。
 好恵が振り返った先には──。
「あれ、うちの高校に通っているっていう綾香さんのお姉さんじゃ……」
「ああ」
 と、浩之は葵の問いに応じながら壁に寄りかからせていた我が身を浮かして、執事の
長瀬源四郎を伴ってこちらに向かってくる来栖川芹香へと近付いていった。
「よっ、先輩」
「……」
 こくり、とゆっくり頷いた芹香は、やはりゆっくりと視線を控え室のドアにと向けた。
「ああ、綾香の奴なら中だよ」
 それを聞いた芹香がノブに手を伸ばすのを浩之は制した。
「先輩、今は一人に……」
「……」
 首を横に振る。
 ゆっくりと。
「でもなあ……」
 芹香にじっと見つめられて困惑した浩之が助けを求めるように葵の方を向いた時、ド
アが開いていた。
「どうぞ、お嬢様」
 源四郎が、ドアを開けたのだ。
「……」
 源四郎に軽く頭を下げて、芹香は控え室にと入った。
「おい、爺さん」
「……なんですかな」
「いいのかよ? 綾香……もう少し一人にしておいた方がよかったんじゃねえのか?」
「今は……二人でいた方がよいと考えます」
 源四郎はドアの前に立ちはだかるように、その場に佇立していた。

 ドアが開く音が聞こえた。
「姉……さん?」
 返事はない。
 でも、人の気配はする。
 とても、懐かしい気配。
 ゆったりとした気配。
 姉さんだ。
「やっぱり……」
 顔を上げた綾香は、微笑を表情に浮かせて呟いた。
 芹香が、黙って綾香の姿を見ている。
 綾香は、試合の時に着ていたレオタードのようなトレーニングウェアの上に、ジャン
バーを羽織っていた。
「……」
 芹香が、そのジャンバーをそっと持ち上げた。
「……着替え……手伝ってくれるの?」
「……」
 芹香は頷きながら、椅子の上にジャンバーを一度広げ、それを丁寧に畳んだ。
 その間に、ウエアを脱ぎ捨てて裸になった綾香はシャワールームに消えている。
 熱いシャワー。
 肌が焼けるようなシャワー。
 身体が火照った。
 熱く熱く──火照る。
 まるで、まだ闘いが続いているような錯覚に陥る。
 もう、終わったのに──。
 冷たいシャワーを浴びながら思う。
 もう、闘いは終わったのだ。
 身体が冷えていく。
 負け……なんて、随分と久しぶりだ。
 エクストリームに出場してからは負け無しだったから、空手をやっていた時以来では
ないだろうか……。
 と、いうことは、こんな気持ちでシャワーを浴びるのも久しぶりということだ。
 敗北は、やはり嫌だ。
 今までやってきたことが全て否定されたような気がする。
 全部だ。
 全部、無駄だったのではないか。
 どうすればこの自分を救うことができるのだろう?
 格闘技を止める?
 それで救われるのか?
 この「世界」から去ってしまえば、この「世界」でのことは忘れることができるのか?
 綾香がエクストリーム高校生女子の部で優勝を果たした直後、芹香に、負けたらどう
するのかと尋ねられたことがある。
「うーん……負けちゃったら、止めちゃうかもねえ」
 確か、そう答えたはずだ。
 笑いながら、軽い気持ちでそう答えたと覚えている。
 止める……。
 終わったから止める……。
 ならば、葵も止めるのか?
 葵だって負けた。
 でも、葵は、たぶん止めないだろう。
 自分に勝った御堂静香は前回は準優勝だった。
 負けたのだ。そして、今回、勝ったのだ。
 止めなかったから、勝つことができたのだ。
 止めたら……もう勝てない。
 負けない代わりに、勝てない。
 それでいいのか?
 終わったのか? 本当に終わったのか?
 確かに、足首を怪我した。でも、今回のこれは、再起不能になるような大怪我じゃな
い。
 終わった。──そう思っているのは自分だけではないのか?
 終わってないのに、負けたのが嫌で、また負けるのが嫌で──そう思っているだけで
はないのか?
 もう、勝ちたくないのか?
 もう、あの勝利の瞬間を掴むことができなくてもいいのか?
 自分が──たかが高校生部門で不敗のチャンピオンと呼ばれた程度の自分が──たっ
たの一度負けたからと格闘技を止めるなどと、ただの傲慢ではないのか?
 何様なのだ?
 空手を始めた頃は、幾らでも負けたではないか。
 強くなって、勝ち続けるようになって、自分は脆くなってしまったのではないか?
 数々の、様々な思いが綾香の中で渦を巻いていた。
 気持ちが揺れ動き、右に左にと思考が乱れる。

 もう、止めようか?
 もう、終わろうか?
 もう、ここから去ろうか?

 なぜ? 

 負けたから?
 もう、負けるのが嫌だから?

 甘ったれるなってのよ!
 そんなこという奴には私はそういってやるわ。
 うん……もしも、葵がそんなこといったら、私はたぶんその言葉を声にして、激しく、
叩き付けるように、葵にぶつけるだろう。
 私の中に、そういうことをいっている私がいる。
 だから、そいつにいってやらなきゃいけない。
 別の私が──。
「甘ったれるなってのよ!」
 まだ、終わってない。
 まだ、終わらせない。
 自分の闘争心は……闘う心は折れていない。
 足首が折れたって──。
 腕が折れたって──。
 なんなら、首が折れたって──。
 その音を聞かない限りは終わっていない。
 折れる音──。
 聞いていない。
 自分は、そんなものは聞いていない。
 だったら、終わってない。
 だったら、終わらせないことができる。
 それに……葵──。
 控え室まで、葵が肩を貸してくれた。
 その目が、試合中の自分を見る目と全く変わっていなかった。
 自分は葵を裏切ったのに……。
 全く同じ目で葵は自分を見ていた。
 まだ、自分は葵にとって「目標」であり続けている。
 目標がへばったら葵の歩みはどうなるのか。
 そうそう簡単に目標変更ができるほど器用な性格をしている子じゃない。
 今までずっと自分は葵の前を走っていた。
 今までずっと葵は自分の背中を見ながら走ってきた。
 今──葵と同じタイプの御堂静香に負けた後──背中に視線を感じる。
 追い抜いてやろう。とかいう野心でギラつくような視線じゃなくて、純粋な、ただた
だ純粋な「この人を追い掛けたい」という視線。
 あの目だ。
 あの目からそういう視線を放ちながら、あの子はずっと自分を追い掛けてきたのだ。
 あの子はその内に自分より強くなるかもしれない。
 そのことはずっと考えていた。
 だが、今ほどそれを「実感」したのは初めてだ。
 後ろから足音が聞こえてくる。
 後ろからあの目が見ている。
 なんの邪念も無く、自分を追い掛けてくる。
 自分の背中を慕って、葵が来る。
 今ここで自分が終わってどうする。
 格闘技を止めることは考えていなかった。その内にそういうことになるだろうとは、
漠然と、それこそ「人間、いつか死ぬのよねえ」といった程度の感覚で思っていた。
 葵に追い抜かれた時が、自分が格闘技を止める時なのだろうか?
 わからない──。
 その時になってみないとわからない。もしかしたら、負けた途端に闘志が沸き立つか
もしれない。
 そうなったら、今度は自分が葵の後を追う番だ。
 ただ、現時点でわかるのは、自分は葵が追ってくる以上は格闘技を止めないというこ
とだ。
 怪我や、その他の外的原因ならともかく、自分の遺志で五体満足な内に止めることは
絶対に無いと断言できる。
 葵が追ってくるからだ。
 今、その足音、視線をひしひしと感じるからだ。
 いつか、葵が自分に追い付くその日まで──。
 自分は全力で走り続ける。

 綾香の手が、シャワーの温度調節のつまみを右へ右へと捻っていった。
 降り注いでくる熱さに、綾香は身を浸して天井を向いていた。
「まだ……まだ……」

「あ、姉さん、ありがとう」
 手を壁に着きながらシャワールームから出てきた綾香に、芹香がバスタオルを差し出
した。入り口のところで、ずっとタオルを持って待っていたらしい。
 綾香は塗れた体を拭き、服を着た。
「……」
「ん? なあに? 姉さん」
 芹香が、自分のことを見つめている。
「どうしたの?」
「……」
 芹香の口に耳を寄せた綾香が、絶句してその顔を見やる。
 芹香はいったのだ。
 格闘技、止めてしまうの?
 と。
 ずっと前の、あの時のことを芹香も覚えていたのだ。
 そして、心配している。
「嘘」
「……?」
「嘘よ、あんなの」
「……」
 芹香が微笑んだ。
「さっ、早く病院行かなきゃ」
 綾香は、医務室で診断を受けてそこで足首を冷やしたものの、やはり正式にレントゲ
ンなどを撮って調べなければならない。
 試合会場のすぐ側に病院はある。
 今から急いで行って治療を済ませてくれば、男子の部の二回戦ぐらいには間に合うか
もしれない。

「セバス、病院行くから車回して!」
 芹香に肩を貸してもらった綾香はドアを開け、出入り口を塞いでいる大きく、広い背
中に向かっていった。
「は……」
 源四郎は、綾香の表情を見て、すぐに身を翻した。その時、微かに、小さく頷いたよ
うに見えた。
「あら、好恵、来てたの」
「ああ……」
 壁に寄っかかっていた好恵が無造作に答える。
「久しぶりにあんたが負けるとこ見たよ」
「……」
 綾香は笑っていた。
「あの試合、見てたのね」
「ああ、見てた」
「それじゃ、来るんでしょ?」
「……どこに?」
 不思議そうな好恵の瞳に、笑っている綾香が映っていた。
「来年のエクストリーム」
「……さあね」
 素っ気ない好恵の返事に、綾香はなんら心を動かされた様子は無い。
 笑っている。
「私が知っている坂下好恵は、あの試合を見てじっとしてられるような人じゃないわ」
「……」
「好恵……空手にこだわるのもいいけどね……空手の大会でやっていいことは、エクス
トリーム・ルールでは全部許可されているわ」
「……」
 好恵の表情に、僅かに影が差した。
「来なさいよ……クシャクシャにして上げるから」
「……」
 自分を睨み付ける好恵を、綾香は涼しい顔で見返していた。
「……しばらく私とやってないでしょう……私だって、前のままじゃないのよ」
 押し殺された怒りが、押さえようもなく、好恵の声の端々に滲み出ていた。
「あんたの方がクシャクシャになるかもよ」
「私をクシャクシャにしたかったら来なさい」
「……」
「なんだかあなたとやりたい気分なのよ」
 と、足をかばって壁によりかかりながら綾香はいった。
 足を怪我していなければ、ここで今すぐにでも始めそうな雰囲気があった。
 闘いたい。
 闘って勝ちたい──。
 今の敗北を埋めるための勝利が欲しい。
 敗北を勝利で塗りつぶすのだ。
 敗北を消すために考えついた極めてシンプルな方法である。
 好恵が精神的に気圧されて上半身を僅かにだが後ろに反らす。
 さっき会った綾香とは別人のように見えた。
 だが、好恵はそんな綾香を見るのが初めてではなかった。
 エクストリームに出場し始めて負け知らずになってからは見ていなかったが、その前
には度々、好恵は、こういう綾香を見たことがあった。
「今度こそ勝ちたいわよねえ」
 そういって、試合で負けた翌日、凄まじい形相で練習に打ち込んでいた時の綾香。
 あの綾香だ。
 勝利への渇望。
 勝利を至高の位置へと置き、あくまでそれを追求する。
 そんな綾香だ。
 勝利への貪欲さで、今の綾香に勝てる気が全くしない。
「……落ち込んでるだろうから、少しは慰めてやろうと思ってたけど……」
 好恵の口元に微かに笑みが浮かぶ。
「いい顔してるじゃない」
 ふふん、と綾香は笑い、
「じゃ、私は病院行ってくるから」
 身を翻した。
 綾香が身を翻すのに合わせて芹香が動こうとするが、どうもよろよろしていた危なっ
かしい。
「あ、私が……」
「ありがと、葵」
 葵が、芹香と入れ代わって綾香に肩を貸す。
「葵……」
 肩を貸されながら、綾香は呟いた。
「はい」
「早く私に引導渡してね」
「……え?」
 突然そんなことをいわれて戸惑う葵の表情を楽しそうに眺めながら、綾香は微笑んだ。
「頑張れってことさ」
 浩之がそういって、葵の頭を軽く叩いた。
「それじゃね、たぶん二回戦までには戻ってこれると思うから、浩之、一回戦で負けち
ゃ駄目よ」
「おう」
 綾香と、葵と芹香が去っていく。
 それを見送る好恵の目には、葵も、芹香も、映ってはいなかった。



     第42話 大切な人

 勝った。
 自分が優勝した。
 実感が、まだもやもやとした状態で静香の中でくすぶっている。
 自分が意識を取り戻した時、自分は二本の腕に抱き上げられて廊下を進んでいた。
「気付いたか」
 柳川さんが自分を見下ろしていた。
「はい」
 そういいながら、柳川さんに抱き上げられていた。
 壊れ物を扱うような丁寧さで柳川さんは自分に触れていた。
 ……。
 柳川さんに触れられたのは、よく考えれば初めてかもしれない。肩に手を置かれたり、
握手したり、その程度のことはともかく、抱き上げられるなんて……その……あの……
誰も見てないかな?
 幸い、廊下には私たち二人しかいない。
 だから、私は顔が赤くなるのが平気だった。
 この人になら、どんな自分を見せても大丈夫なような気がしたから。
 自分を控え室まで連れてくると、柳川さんは外に出ていった。
 道着を脱ぎ、シャワーを浴び、上下のトレーナーを着る。
 こうしてみると、何もかもが一瞬の間に垣間見えた夢のような気がする。
 試合は……終わったのではなく、これから始まるのではないのか?
 そんな気持ちになる。
 今にも、大会の係員がドアを開けて、
「御堂選手、時間です」
 と、声をかけてくるのではないだろうか。

 ぼーっとする。
 ぼーっと壁を見ている。
 何の変哲もないきれいな壁だ。
 真っ白い壁を見ている。
 左目の上辺りが熱い。
 綾香にフックとハイキックを喰らった箇所だ。
 痛いというよりは熱い。
 そこにあるのは痛さというよりは熱さであった。
 その熱さが一時の白昼夢を現実へと繋げている。
 現実に、自分は来栖川綾香と闘い──勝ったのだ。
 実感が、ようやく輪郭を持ち始める。
 やった……。
 去年、準優勝で終わってからずっと練習に励んできた甲斐があった。
 報われた。
 あの辛さも苦しみも──
 約束。
 そう、お父さんとの約束。
 果たせた。
 やっと……果たせた。

 静香は立ち上がった。これから、一応、病院に行くことになっている。頭部に攻撃を
受けたし、なんといっても一度落ちてしまったのだから、今はなんともなくとも念のた
めに検査を受けた方がいいといわれたのだ。
 柳川が表で待っているので急がねばならない。
 静香は立ち上がり、ジャンバーを拾おうとして何気なく、壁にかかっていた鏡を見た。
「……えぇーーーーっ!」

 その声を、柳川祐也は控え室のドアの前で聞いていた。
 優勝者インタビューのために控え室の前に集まっている雑誌記者たちが何事かと顔を
見合わせる。
 それ以前にも、試合場に上がって静香を抱き上げていったこの男に、静香との関係を
尋ねる記者がいたが、
「法的根拠は無いが保護者だ」
 柳川はそれだけいって後は答えようとしなかった。
「おい、どうした」
 柳川は、僅かにドアを開け、その隙間から中に滑り込んだ。
「おい」
「あ、柳川さん」
 静香はジャンバーを頭から被って右目だけを覗かせていた。
「……なんだその格好は?」
「……」
 沈黙した静香に近付いていった柳川は無造作に、その頭の大部分を覆っているジャン
バーを取ろうとした。
「あ! いや! 駄目です!」
 静香は物凄い勢いで後退した。
 ジャンバーを掴もうとして空かされた右手を引っ込めながら、柳川は憮然とした様子
でいった。
「一体、なんだ?」
「……」
 また沈黙。
「おれにもいえないことか?」
「……笑いません?」
「面白かったら笑う、という可能性は完全には否定できん」
「……じゃ、駄目です」
 いいつつ、静香が壁を沿うように柳川から離れていく。
 柳川は溜め息をついて微かに苦笑した。静香には見馴れた表情なのだが、彼の知人が
見たら目を剥くかもしれない。
「笑わんから話してみろ」
「……笑いませんね?」
「ああ」
「絶対ですね」
「ああ」
「ちょっとこっち来て下さい」
 ちょいちょい、と指先で静香が招くので柳川は部屋の隅の方に移動した。
「なんだ。部屋には誰もいないぞ」
「これ、見て下さい」
 そういって、静香が頭からジャンバーを取った。
「ふむ……」
 柳川が手を伸ばして、静香の左目の上、瞼の辺りに触れる。
「見事に腫れ上がったな」
 静香の左目はもうほとんど閉じられていた。赤く変色して膨れ上がった瞼が静香の左
目を押し潰しているのだ。
 どうやら、先程のハイキックのせいで腫れだしたらしい。
「……おかしくないですか?」
「試合の後だ。別におかしくはない」
 そういいながら、柳川は依然として静香の瞼に触れている。
 熱く、熱を持っていた。
「すぐに病院に行くぞ」
「あの……」
「なんだ?」
「表に、記者さんたち来てるんですよね」
「ん……ああ」
「うーん」
 と、唸りながら静香はまた頭にジャンバーを被った。
 他人の気持ちを汲み取るのが得意とはいえぬ柳川だが、彼女が腫れ上がった顔を他人
の目にさらしたくないという気持ちはわかった。
 しかし、できるだけ早く病院に行った方がよい。
「そのまま、ジャンバーで隠して行けばいいだろう」
「でも、それだとどうも視界が限られてしまって歩きにくいんですよ」
「おれが誘導する」
 と、柳川は右手を出した。
 静香はその手を握った。
「あと、もしジャンバーが取れて、もし写真なんか撮られたら……」
「そんな奴は殴る」
「でも、撮られちゃったら……」
「カメラを壊す」
「でもでも、撮ってすぐに逃げられたら……」
「地の果てまでも追い掛ける」
「じゃあ……お願いします」
「ああ」
 柳川が、左手でドアを開けた。
 柳川の後に静香が出てくると見るや、すぐにカメラのフラッシュが幾つもの光を静香
に浴びせてくる。
「どけ、インタビューは病院に行ってから受ける」
 柳川の声は連続して押し寄せる質問の声に流されて行った。
「あの……すみません。あとでお答えしますので」
 ジャンバーに包まれた頭を下げながら静香は柳川に引っ張られて行く。
「一言だけでいいんです!」
 叫んだ記者が勢い余って静香の体に触れた途端、その記者は横合いからやってきた手
に頭部を掴まれていた。
「のけ」
 その手の持ち主は眼鏡のレンズの奥で目を冷たく光らせながらいった。
「道を開けろ」
 前方を向いていった柳川の声が人垣を切り開く。
「行くぞ」
「はい」
 足早に去って行く二人を追おうとする者はいなかった。
 廊下を歩いている間、その珍奇な二人組に視線を注ぐ人間は多かったが、試合の時と
は服装が違い、さらには顔を隠しているので長身の無闇に眼光の鋭い男に手を引かれて
行くのが御堂静香であると気付いた人間はほとんどいないようであった。
「ありがとうございました。柳川さん」
「うむ」
 そういう間に二人は試合会場を出ていた。
 エクストリームが行われている試合会場は公園に隣接しており、会場を出るとすぐに
さくらの木が左右に植えられた並木道に出る。
「あの……柳川さん」
「なんだ?」
「今まで……お父さんが死んでから……色々とありがとうございました」
「……」
「さっきもいったけど……私がここまでやってこれたのって柳川さんのおかげだと思う
んです」
 柳川は、何もいわずに静香の手を引いて行く。
 この人はいつもそうだ。
 父親が死んだ後、毎日のように家にやってきた。
 線香を上げて、
「何か困っていることはないか?」
 と、聞く。
「特にありません」
 と、答えると、
「そうか」
 と、いって黙ってしまう。
 でも、この無愛想と無口の極みにいる男が側にいると、母を、そして父を喪って一人
になってしまった自分が、なんだか一人じゃないような気がして、嬉しかった。
「ありがとうございました……本当に」
 その声が消え、二人の間に沈黙が流れた。
 その沈黙を吹き払ったのは前を向いたまま柳川が口にした声だった。
「少し昔のことだ……」
 柳川の歩幅がやや狭くなる。
「おれには、友人がいた。年下の……弟みたいな奴だ」
「……はい」
「奴はおれのことが好きだったし、おれも奴のことが好きだった」
「その人は?」
「死んだ」
「……」
「おれがこうしていられるのも、お前のおかげなのかもしれん」
 話が、いきなり飛んだ。
 そして、柳川はまた沈黙を二人の間に置く。
 話が飛んだ部分にあるものを、静香はなんとなくわかっていた。
 大切な人が死んで──悲しんで──うずくまって泣いて──やがて立ち上がって──。
 そういう経験を、この人もしたのだろうと静香は思った。
 風が穏やかに吹く。
 陽光は柔らかく、暖かい。
 ずっと試合会場の中にいたから気付かなかったが、今日はいい天気だ。
 木々の葉が微風に揺れて互いの身を擦り合わせる音が、微かに耳に入ってくる。
 そして、手が引かれていく。
 引いて行くのは大切な人だ。
 今まで、彼にとって自分はどんな存在なのか、いまいちよくわからなかったのだが、
さっきの一言でわかった。
 自分は、この人にとっての大切な人なのだ。
「柳川さん……」
 静香は、大切な人に声をかける。
「なんだ」
 素っ気ない声。
「こんなところで手を繋いで歩いてて……周りの人にはどう見えるんでしょうね」
「……さあな」
「親子……には見えませんよねえ……兄妹かな? ……もしかしたら恋人とか……」
「……そうか?」
 丁度、容疑者を連行しているみたいだと思っていたところである。
「明日、お暇ですか?」
「暇にしようと思えばできる」
「だったら、一緒にお墓参りに行きませんか?」
「……ああ」

「静香さーん」
 その声は、公園の出口のところに止まった黒い高級車からのものだった。
 静香が声の元を見やると、そこには先程まで闘っていた少女が窓から身を乗り出すよ
うにして手を振っている。
「静香さんも病院行くんでしょ、一緒に行こう」
「え、いいの?」
「うん」
「え、それじゃお願いしちゃおうかなあ」
「そちらの人もどうぞ」
「ああ」
 綾香にそういわれて柳川は頷いた。元より、病院まで同行するつもりである。
 静香は綾香と並んで後部座席に座り、柳川は助手席に腰を下ろした。運転席の長瀬源
四郎を一瞥して、やや目を細める。
「いかがなさいました?」
「少し、知り合いに似ていたもので」
 正直、驚いた。隆山にいた頃の上司の長瀬が歳をとったら、おそらくこの運転手と全
く同じ顔になるだろう。
「そんで、そこのケーキが美味しいんですよ」
「え、そうなの。私、まだ一度も行ったことないの」
 後ろでは、てっきり黙っているか、言葉少なに先程の試合のことを語り合うのだろう
と思っていた綾香と静香が、おいしくて安いケーキ屋の話題で盛り上がっていた。
 よくわからないが、全力で闘った後の格闘家というのは、案外、こんなものなのかも
しれないと、柳川は思った。
「柳川さん、ケーキは好きですか?」
 静香がウキウキとした声で尋ねてくる。
「甘いものは好かん」
「そうですかあ……」
「……食えんこともない」
「あ、そうですか! それじゃ今度一緒に行きませんか。今、いいお店教えてもらった
んですよ!」
「……それはよかったな」
「食べ放題のお店ですから、十個食べても百個食べてもいいですよ」
「……」
 百個のケーキは、想像するだけで口の中が甘ったるくなる。
「おい……」
「はい」
「……甘くないケーキというのはあるのか?」





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