第43話 精神戦 エクストリーム大会、一般男子の部、Aブロック二回戦。 精英塾二段、深水征(ふかみず ただし)。 精英塾──。 早くから他の人間に先駆けてボクシングのパンチ技術を取り入れて「開明派」と呼ば れた空手家である塾長、姫迫泰三(ひめさこ たいぞう)が三十年前に作った道場である。 そのなんでも取り入れるという貪欲さが、この精英塾に十年前、寝技を導入するとい う現象を起こした。 当時、既に八十歳で一線を退いていた姫迫泰三の後を継いでいた、姫迫の高弟、音羽 幸二(おとわ こうじ)がサンボに魅せられたことがその原因だった。 サンボ。 ロシア──正確には旧ソ連──で生まれた格闘技である。 相似点が多いことから、日本の柔道によく似た……と日本では紹介されることが多い。 そのサンボが誇る関節技のバリエーションの多彩さは、かつて日本柔道が、柔術からあ る変化(進化とも退化とも断定するのを避ける)をした時に、立ち状態、すなわちスタ ンディングポジションからの関節技を禁じるルールを設けたために生まれようがなかっ た、組んだ相手に飛びついて関節技をかける飛びつき十字固めなどの技をその技術体系 の中に産み落とした。 十年前といえば、そろそろサンボが一般にも注目されていた頃であろうか。 その時期に音羽幸二は決断し、精英塾にサンボを基調とした関節技、及び、絞め技を 導入することを発表した。 当然「精英塾が変わってしまう」という反対意見も多く、それらに窮した音羽は前塾 長、姫迫泰三の病室を訪ねたという。 当時、姫迫泰三は病室にその身を横たえて、一日一本の注射によって薬物を体内に取 り込まねば生命活動の維持が困難なほどの病身となっていた。 注射を打って少し気分の良くなった姫迫は、音羽の意見を聞いた。 「正直、自分でも自分が正しいかわかりません」 思っていたよりも多い反対者に音羽は戸惑ってもいた。 「やれ」 と、一言、姫迫は呟いたといわれる。そしてしばらく沈黙し、 「精英塾の精神が変わらねばよい」 天井を見上げながらいった。 「押忍」 以後、音羽は自らの決断を実行に移した。 彼の師の「なんでも取り入れることが精英塾の精神であり、それが変わらねばよい」 という意を悟って力を得たからである。 精英塾の精神が変わらねばよい。という姫迫の言葉をもって彼は反対派の説得にあた り、残念ながら数名の脱退者を出しながらも、なんとか精英塾が潰れるようなことなく、 その道場の床の上で寝技の練習がなされるようになった。 だが、まだまだ寝技に未熟といえる音羽はたまたま、自宅の近所にサンボの経験者が 住んでいたのを良いことにその人物に師事しようとした。 彼は、それほどの実績のある選手ではなく、精英塾の塾長が教えを乞いに来たことに 恐縮して、自分のつてを頼って、全日本大会クラスの人間を紹介してくれた。 その人物のところに音羽は通い、後には、先方に、精英塾の道場へと出向いてもらっ た。 「ボクシングは、その面だけを突き詰めてきただけに、パンチの攻防の技術に関しては 空手を上回るものがある」 そう思い立った四十三歳の姫迫泰三は、三十七年前、あるボクシングジムに足を踏み 入れた。 道場こそ開いていなかったものの、姫迫は既に空手界では有名な選手で、畑違いなが ら同じ格闘技ということでボクシング関係者の中でも彼の名を知る者は多かった。 そのボクシングジムで、彼につくことになったトレーナーもその一人で、これまた、 三十七年後、彼の一番弟子に教えを乞われたサンビストのようにただただ恐縮していた。 ただでさえ、そのトレーナーと姫迫の間に十を数える年齢差があったことも、それを 助長していただろう。 「私が教えてもらいに来ているのだから、あなたは教えてやればよいのです」 姫迫のこの言葉は有名である。 その話を聞いていた音羽は「これも、精英塾の精神だ」と常々思っていた。 今や道場主である彼が、他人に教えを乞いに足を運んだのも、その精神を尊んでいた ゆえであろう。 その精英塾。 エクストリームには、今まで何人か選手を出していて、優勝者こそ輩出していないが、 既に開催当初からのファンにとっては、耳に馴染んだ存在である。 今回、精英塾は、若干二十歳の深水征を送り込んで来た。 まだ初段だが、その素質に関しては師範、先輩連中が折り紙をつけている。 若手の中でも最近、頭角を現してきた選手として雑誌などで紹介されており、注目が 集まっていた。 「両選手、中央へ!」 「押忍!」 レフリーの声に答えて、深水は試合場に上がった。 去年出場した先輩に聞いていたように、そこそこの固さがある。 足で数度、踏み鳴らす。 前を見た。 対戦相手が静かに、立っている。 異常に細い目をしていた。 一体、前が見えているのかいないのか。 「はじめっ!」 「おうっ!」 深水が気合を入れて構えた時、相手の細い目が、一瞬僅かに開いて輝いたように見え た。 全く、注目されていない選手であった。 格闘技の前歴は、空手。 小倉道場で一年学んだ。と、パンフレットの選手紹介にはある。 月島拓也。 細い目を持つ男だった。 相手が「期待の新鋭」などといわれている深水である。こっちに注目しろというのが 無理な話だ。 小倉四郎の小倉道場は、知っている人間も少ないし、格闘技の雑誌の取材なども受け たことはない。 だから、パンフレットを見た人間の中には、 「なんだ空手家か。グラウンドもできる精英塾の選手の敵じゃないだろ」 と、早くも勝敗を予想していた者もいた。 しかし、小倉道場は、精英塾ほどの知名度は無いが、元々空手道場でありながら、寝 技も教える道場である。 そして、そのことは精英塾の深水征も承知していた。 この辺りの情報収集は、やはり、大きな組織に属している強みであろう。自分以外の 他の十五人の選手の情報を深水は知らされていた。 細い目が自分を見ていることを深水は感知していた。 じっと見ている。 真っ直ぐに肘の辺りを見たかと思えば、膝へと視線が移る。 薄気味の悪い感じがする視線であった。 構えを取っている深水に対して棒立ちである。 ただ、見ている。 そのまま三十秒の時が刻まれ、焦れた深水が接近していった。 「……」 声と呼べるようなものは、拓也の口からは発されなかった。 ひぅぅぅぅぅ。 とでもいうような、掠れた口笛のような音色だった。 拓也の腰が落ちる。 いよいよ構えを取る気か。 深水が前身を止める。 どんな構えをするのか見定めてやろう、といった感じだ。 腰が落ち、頭が沈む。 両手を開いたまま前方に出す。 それが揺れる。 ゆらっ。 と、空中を漂うように揺れている。 空手の構えではない。 アマレスのそれに近い。 すり足で、拓也が前に出てきた。 明らかに組み付いていくことを前提とした構えだ。 頭部が両肩の間に沈み込むように首を下げているために、打撃を頭部へと炸裂させる のは困難であろう。 特に、足技でいえば回し蹴り、手技でいえばフックなどの横に弧線を引くような攻撃 を頭部へ当てるのはほぼ不可能だろう。 そのような攻撃が来たならば、おそらく、すぐさま体全体を沈めて攻撃をかわすとと もに腰か足にタックルで食らい付いてくるに違いない。 そっちがそう来るのならば……。 深水は寄っていった。 一発だけ、牽制の左ジャブを放つ。 一瞬だけ、拓也の前身が止まる。 そして、またすぐに前へ前へと進んでくる。 ほぼ体格に差異は無い。少し、拓也の方が背が高いぐらいで手足のリーチにはそれほ どに差が無い。 互いに、ほぼ同時に、互いの射程距離内に入った。 拓也の体勢が沈む一瞬前、深水の体が素早く前に出て組み付いていた。 右腕が拓也の脇の下を通って、拳が天井へと突き上げられる。 丁度、拓也の左脇に、深水の曲がった右腕がはまった形になった。 その右腕の拳を自分の顔に向けるようにして引きつけ、拓也の左半身を吊り上げるよ うに持っていく。 左手は拓也の右手首を掴んで下方に引き落とすと同時に自分の側へと引き寄せる。 拓也の左足が浮いた瞬間。 深水の背が拓也の腹部に叩き付けるように当たっていき、右足が右足へと重ねられた。 膝に力をかける。 深水の右足の上を横に回転して、拓也の体が舞い上がった。 柔道でいう払い腰。 綺麗にマット上に拓也を叩き付けたそれは、柔道の試合ならば一本を取っていたであ ろう。 だが、エクストリーム・ルールでは、いくら相手を綺麗に投げても勝負は決まらない し、延長戦を終えてからの判定でも、それほど大きなポイントが与えられるわけではな い。 拓也が倒れた時には、深水は左手で手首を掴んでいた拓也の右腕に、自らの右手を走 らせていた。 そして、自らも背中から倒れていく。 左足が跳ね上がり、拓也の首へと落ちていった。 払い腰からの腕ひしぎ逆十字固め。 ほぼ、セオリー通りの攻めである。 だが、払い腰で投げられた時点で、既に拓也もこれあるを予期していた。受け身をと った左手をすぐに右に振ってクラッチ(結手)する。 膠着状態が一分ほど続き、やがて、二人の腕に浮き出た汗が深水の右手を滑らせた。 「!……」 その寸瞬の好機を逃さずに、拓也は両腕を左に振った。 左手の拘束も切った。と、いうより、深水の方が、腕ひしぎを諦めて離した。 体を180度転回させて拓也の上に覆い被さる。 相手の胸の上に自分の上半身を横倒しにするように乗せて、下方になった側の腕で、 相手の首や頭部をロックする袈裟固めの体勢に持っていこうとした。 袈裟固めは、柔道では「押さえ込み技」とされ、三十秒間その体勢を維持すれば一本 勝ちとなる。 が、エクストリームのような総合格闘技では、袈裟固めや、柔術ではサイドポジショ ンとも呼ばれる横四方固めなどは、関節を極めに行く前の一つのステップのようなもの である。 相手を押さえ込んで、それから関節を極めに行くのだ。 袈裟固めからの関節絞め技への移行には、肘関節をテコの原理で極めるアームロック 系の技や、相手の腕を上げさせて、肩に自分の頭を押し付けて両手をクラッチして頸動 脈を締め上げる肩固めなどが最も無難で無理の無い形である。 深水も、柔道でいう腕絡みことV1アームロックへの移行を狙っていた。 肘が曲がって拳が頭部方向を向いている状態の相手の腕の手首をマットに押さえつけ、 空いている方のもう一方の手を、相手の肘の下を潜らせて手首を押さえた腕を掴み、肘 の下を通した腕を上方に上げていくことによって、相手の肘は破壊される。 そのためには手首と、そして肩とをロックせねばならない。 袈裟固めから深水がそれに移行しようとした時、 「上半身、下げろ!」 先輩の声がした。 上半身──。 そういえば、少し上半身が上がり気味かもしれない。 拓也の左足が跳ね飛んで深水の頭を刈ったのは次の瞬間の出来事だった。 会場に、低いどよめきが上がる。 確かに、深水は袈裟固めの時にやや上半身が高い位置にあった。しかし、それも、そ れほどに高いというわけではなかった。 観客たちは、拓也の体の柔軟さに驚いたのである。 試合場への花道のところでこの試合を見ていた浩之と英二は、あの男の軟体動物のご とき足の動きを一度見て、浩之にいたってはそれのせいで痛い目に合っているために、 今更驚くことでもない。が、やはり驚異なのは確かである。 首を足で刈られた。 すぐにこれを外さねば、肩を足でロックされて腕ひしぎ逆十字固めに持って行かれる。 深水は両手で首に絡みつくように密着している拓也の左足を引き離すと同時に、頭を 斜めに振って逃れた。 ほっと一息つく暇も無く。恐ろしく研ぎ澄まされた冷たい気配が自分の後背に回って いるのを深水は直感で悟っていた。 首に悪寒。 これは、もはや、予測というより予感に近い。 思った通り、拓也の腕がスリーパーホールドに来る。 が、深水は顎を引いて、腕の侵入を許さない。 拓也の腕が少し上にと移動した。力ずくで強引に顔を上げさせて首をがら空きにして しまおうとしているのだ。 負けるか! 首の筋肉だって鍛えている。この程度で負けるか。 そう思った深水の目の前に、拓也の右手の親指があった。 「あ!」 と、隣にいた浩之が苦々しげに叫んだのを、英二は、微笑ともとれるような笑みを口 辺に浮かべながら聞いていた。浩之は以前、拓也と闘って似たような手口を使われた経 験がある。 拓也は曲げた親指の関節部を深水の閉じた目の上に押し付けていた。目を閉じている とはいってもこれは効く。 しかも、ご丁寧に、親指以外の四本の指でそれを隠している。あまり長くやっていれ ばレフリーに見咎められたかもしれないが、それによって深水の顎が上がるのにそれ程 の時間はかからなかった。 左腕が即座に首に巻き付く。 右手が、顔から後頭部へと移った。 スリーパーホールドが入った。 頸動脈を締め上げるこの技は、一度入ればそうそう保つものではない。 完全に技が入ったと見るや、沸き上がった歓声は、レフリーが拓也の腕をほどき、不 承不承といった面持ちで拓也が立ち上がり、その後に残された深水が落ちていることを 知ると、より一層、爆発的に高まった。 「勝者、月島拓也」 勝ち名乗りを受けながら、到底、勝者とは思えぬ不満面で拓也は試合場を下りて行っ た。途中、試合場に駆け上がる精英塾の門下生に対しても一瞥もくれずに去って行った。 「ここは僕の居場所じゃないんじゃないか?」 その呟きを聞いた者は誰もいなかっただろう。 「深水、前塾長が呼んでるぞ」 目を開いた時に、いきなりそういわれて深水征は驚く以外の行為ができなかった。 なにしろ、さっきの試合がどうなったのかもわかっていないのである。 話を聞くと、スリーパーホールドで落とされてしまったらしい。 「で、なんていいました?」 「前塾長が呼んでる」 前塾長といえば今年で九十歳になる姫迫泰三のことである。 「会場に来ていたんですか!?」 確か姫迫は、五年前に退院し、自宅療養に移れたものの車椅子に乗らねば外出できぬ ほどに体は弱っていたはずだ。 深水は、ノロノロと起き上がって控え室を出た。廊下の隅に、ごつい体格をした数人 の男に囲まれて車椅子に座っている老人がいる。 「押忍」 「見てたよ」 その言葉が、重くのしかかった。 「は、恥ずかしいものをお見せしました」 「最後の……裸絞め(スリーパーホールド)の前に……目をやられたろ」 「!……」 レフリーも気付いていなかったことをこの老人は感付いていたのか。おそらく、長年 の経験による判断であろう。 「相手が悪かったな……」 「押忍」 「で、あの相手……どこら辺を凄いと思った?」 「……おれより若いのに……勝つことに対する執念とか……そういう……上手くいえな いんですけど、メンタル的な部分が……自分は完全に負けていました」 「……で、どうする?」 「見習います。あいつを見習って、肉体以上に……精神を鍛えます。……あ、いえ、決 して目を突いていくということではないです!」 「うん」 満足そうに、老人は笑った。 「そろそろ……昇段試験を受けてみなさい」 「……押忍」 頭が、自然と下がった。 「やります……やります……おれ、やります」 下を向いて、深水征は呟き続けた。下を向いたのは、この師匠に涙を見せたくなかっ たからかもしれない。 第44話 応援 自分に向けられている大歓声と好奇の視線を完全に無視して、月島拓也は花道を歩い ていた。 歓声。 全く無名の選手だった拓也が、優勝候補とまではいわないが今大会、かなりよいとこ ろまで食い込むのではないかと予想されていた精英塾の深水征を破ったことに皆、驚い ている。 それがこの歓声となっていた。 「やるじゃねえか!」 という声を発した人間は、おそらく拓也の負けを予想していたのだろう。 満員の会場には一万人以上の人間が入っている。 それらが上げる歓声が自分に向けられている。 それを喜ぶものは拓也の中には無かった。 そういうものを喜ぶ人間もいるだろう。 四方からの歓声に身を浸して快感を味わう人間もいるだろう。 だが、拓也はそれとは無縁の、別種の存在であった。 足りない……。 歓声の音量が足りないのではない。 もっと別のもの──それが足りない。 自分が求めているもの──それがここには無いのではないか? ふと、不安になる。 この不安は大きかった。 何人かの、気になる人間が出場するから、自分もここにやってきたのだ。 すぐに誰かと当たるだろうと思っていたのが間違いだった。自分は、一人だけAブロ ックであり──。 柏木耕一。 藤田浩之。 緒方英二。 それらの男どもは、全てBブロックにいる。 なんだか、自分だけがのけ者にされているような気すらしてしまう。 やはり、こんなことは自分の性に合っていないようだ。 例えば、やりたい男がいる。 その男が夜道を歩いている。 その進行方向に立って睨み付けてやる。 睨み付けながらいってやる。 「やろう……」 と。 自分にはそういうやり方が合っているのではないのか? 歓声。 賞賛。 栄光。 そんなものはいらない。 そういうものが欲しくてやっているんじゃないんだ。 花道の脇に、男がいる。 藤田浩之と緒方英二だ。 二人でそこから拓也の試合を見ていたらしい。 緒方英二の方は正直、どういう闘いをする人間なのかわかっていないが、藤田浩之の 方は一度、手を合わせたことがある。 いいファイターだ。 とてもいい闘いをする。 指で目を突こうとすれば、なんの躊躇もなくその指に噛み付いてくるような素晴らし いファイトをする。 拓也の表情が、この日、初めて歓喜に歪んでいた。 同志よ──。 勝手にそのように呼びかけられても浩之にとっては迷惑かもしれないが、ある一点に おいて、藤田浩之は月島拓也にとって同志であった。 「……」 無言の内に、拓也が浩之に何かをいっているように、英二には見えた。 つまらないものを見せたね。 そんなようなことをいっているように見えた。 浩之もそれには気付いているはずだ。 「……おっ、ここでやる気かよ」 おどけた様子で一歩退いてにやりと笑う。 拓也が浩之へと視線を向けた瞬間、その視界に入った浩之を、英二の体が隠していた。 「二人とも、止めたまえ」 拓也が、立ち止まった。 「藤田くんも、そういうことをいうなよ。彼は、本当にここで始めてもおかしくないん だから」 苦笑しながら英二がいった。 しっかりと浩之と拓也の間に入っている。 気勢を削がれたのか、それとも緒方英二という男に一抹の興味を覚えたのか、拓也は 唇の端に微かに苦笑を浮かべて、そのまま花道を下がっていった。 なんとなく、英二の顔を立てたような感じだ。 「あーあ、行っちまった」 「おいおい」 残念そうに呟いた浩之に、英二はまた苦笑せざるを得なかった。 「やりたかったのか」 「まあ……ここで始まっちまってもよかったっス」 浩之はいいながら握り拳を解いた。 「君らは……全く、なあ……」 呆れたように英二はいい、身を翻す。Aブロックの後二試合が終わればすぐにBブロ ックの第一試合が始まるのだ。英二はそこで角崎俊二(すみざき しゅんじ)という二 十二歳の選手と闘うことになっている。 「それじゃ、おれは少し体を暖めておくよ」 「はい、見てますよ、試合」 控え室にまで歓声が聞こえてきた。試合が終わったのだろう。 少し早いが、英二は立ち上がった。 控え室を出ると、丁度、自分を呼びに来た係員と鉢合わせした。 「緒方選手、時間です」 「ああ」 と、廊下を歩いていくと人がいた。 四人。係員とかには見えない。もう、この辺りは関係者以外は入れないところだ。 女が三人。男が一人。 男は知っている。よく行く喫茶店でバイトをしている青年だ。 女性の一人も、すぐにわかった。自分が代表取締役などというものをやっている会社 の社員だ。 そして、残りの二人も、よく見たら知っている人間だ。 英二は自然と頷いていた。誰もが緒方英二の身内と知っている人間ならば、頼めばこ っちに通してくれることもあるだろう。 「みんな、来てたのか」 英二は立ち止まった。 「試合、見に行くっていったでしょ」 笑いながら、藤井冬弥がいった。 「今日は由綺さんが夕方から仕事なので着いてきました」 と、業務報告をする時と寸分違わぬ表情と声で、篠塚弥生がいった。 「英二さん、頑張って下さい」 やたらと嬉しそうにいったサングラスをして髪をお下げにしている異様な風体の人物 は森川由綺であるらしい。 と、なると、 「……」 黙ったまま、じっと、英二を見つめているのは妹だろう。 やはり、目を隠すためか、サングラスをして、帽子を目深にかぶり、普段テレビなど に出ている時よりも大分地味な服装をしている。もっとも、このトップアイドルをやっ ている妹は、家にいる時はあまり化粧もせずにいる。 いつも下ろしている髪を結び上げてポニーテールにしているので、一目見ただけでは わからないだろう。 「応援に来てくれたのかい? 理奈」 「……とうとうここまで来たわね……兄さん」 と、緒方理奈はいった。 「うん、来た」 しばらくの間、顔を合わせる度にエクストリーム出場を取り止めろと兄にいっていた 理奈の表情は苦い。 「どうなったって知らないから」 「でも……応援はしてくれるんだろ」 「……寝たきりになられても迷惑だからね……」 「うん、頼むよ」 英二は、理奈に微笑した。 久しぶりに見る種類の兄の笑顔だった。 いつもは、どことなく人を小馬鹿にしたような、はっきりいってしまえば余りいい感 じのする笑顔は見せないのだが、その時のそれは珍しく純度の高いもののように理奈に は見えた。 久しぶりに見る種類の兄の笑顔だった。 アイドル・プロデューサーに転向した英二が、妹の理奈をデビューさせる直前、 「理奈、頼んだよ」 そういって、あんな風に笑ったことを覚えている。 当時、英二のアイドル・プロデューサー転向はファンには歓迎されず、そんなことし ないでミュージシャンとしての活動を続けてくれというファンレター、というよりも、 嘆願書が段ボール箱一杯に入っていたのを理奈は目撃している。 緒方英二にとって音楽家人生の正念場といってよかった時期だろう。 「頼むぞ」 と、その時期、理奈は英二にそういう類のことをいわれることが非常に多かった。 「応援してるから」 と、いう声も、自分がプロデュースしたアイドルを応援するのは当たり前なのだが、 よくよく考えてみれば、英二なりに、真摯な気持ちだったのだろう。 なんといっても理奈がその世界に足を踏み入れたのには英二の意向が大きく関わって いるのだ。ここで失敗させるわけにはいかないと思っていたはずだ。 兄の微笑が消えて、兄が自分に背中を向けた瞬間。 「兄さん」 少し大きめの声で理奈は兄を呼んでいた。 「ん?」 「応援してるから!」 「……ああ」 もう一度、ふっとあの微笑を浮かべると、英二は前を向き、軽く片手を振って試合場 へと向かっていった。 野球、サッカー、バスケット、バレー。 学生時代は、色々な球技を経験していて、二十歳を過ぎてから総合格闘技のジムに通 い始めた選手だった。 角崎俊二。 格闘家として見れば、純粋培養に近い総合格闘家(トータルファイター)である。 どうしても格闘技の経験自体が少ないというマイナス部分はあるものの、生まれて始 めてやった格闘技が総合格闘であり、それ用の練習のみをしてきただけに、総合格闘の 試合では不利になるようなクセがついていないという利点もある。 対戦相手よりも先に入場してきた角崎は試合場でいきなりバク転を見せた。 わっ、と歓声が上がる。 アマチュアであるエクストリームでは、あまりやる選手はいないが、それでもこの程 度のパフォーマンスはよく見られる。 特に、角崎はその傾向が強い選手で、もし勝ったら三回連続のバク転を見せるなどと 雑誌のインタビューに答えている。 「へえ……盛り上げるねえ」 沸き立つ歓声の中を、英二が試合場へと歩いてくる。 英二は、ボクサーのようにトランクスを履いて上半身には無地のTシャツを着ている。 英二に浴びせられる歓声はミュージシャンとしての彼のファンがけっこう多いのか、 概ね好意的なものだったが、やはり時折、 「格闘なんかできんのかよ!」 という野次というか、本当に疑問に思っているのか、そういう声も混じる。 「英二さん、頑張って下さい」 花道のすぐ横から女性の声がした。見てみると、なかなか可愛い女性だ。どうも、見 た感じではエクストリームのファンではなくて緒方英二のファンのようだ。 「どうせ脱ぐんだ。あげちゃおう」 英二は小さく呟くと、その場でTシャツを脱いで、それをその女性に向かって放り投 げた。 咄嗟にそれを受け取った女性が、一瞬呆然としたが、やがて顔を赤らめた。 歓声が高まる。 緒方英二はどうも一般的には「気障」という印象があるらしい。 今のは、英二がその一般的にイメージされているキャラクター通りの行動をしたので、 「あ、こいつやっぱり緒方英二だよ」とでもいうような、ある種、安心にも似た感情が 見ている人間に生まれて、それが歓声となって表れたものであった。 だが、注意深く聞けば、女性の声を多分に含んだ嬌声に混じるように、へえ、とか、 ほう、とかいう感嘆の声が上がったことを看破し得るだろう。 Tシャツを脱ぎ捨てた英二の上半身は、その身長としては理想的といっていい量の肉 がつき、体全体が締まっていた。 試合場に上がった英二が軽く両手を上げて歓声に応える。 そして、その歓声が完全には静まらぬ内に、レフリーが英二と、角崎の間に入って、 細々とルールの確認をする。 それが終わると、レフリーが数歩退く。 二人の間には誰もいない。 後は「始まる」だけだ。 そして……。 「はじめっ!」 始まった。 第45話 非努力家 完全なボクシングスタイルだった。 その手の位置、フットワークに、試合を観戦している出場選手の数人が怪訝そうな表 情をする。 緒方英二の格闘技経験はボクシングであると紹介されているし、実際に、学生時代に アマチュアボクシングで優秀な成績をおさめており、格闘技雑誌『ザ・バトラー』誌上 において、アマチュア時代の現日本ウエルター級チャンピオンに勝利したことも記載さ れている。 だからといって、総合格闘技の大会であるエクストリームにボクシング技術のみで出 場してくるわけはないと誰もが思っていた。 しかし、試合開始直後に英二は、どう見てもボクシングの構えを取り、フットワーク を使い出した。 とりあえず、試すか……。 角崎俊二は数発のジャブを軽く打った。 それがことごとくかわされると右のショートアッパー。 英二は、上半身を後方に反らしてスウェーでそれを避ける。 どうしても、スウェーをする時は反らした瞬間は上半身を支えるために下半身に力が 入ってしまう。 そこが狙いだ。 角崎の体が沈みながら英二に密着していく。 左手で英二の右足を掴むとともに、ショートアッパーに使用した右手を胴に回す。 右肩で腹部を押していきながら右手で英二の胴を左に捻るように動かし、左手で掴ん だ右足を持ち上げる。 弧を描いて下方から突き上げるように英二の右の拳が角崎の顔面を捕らえた。 だが、右足を持たれてしまい片足立ちになっていた状態で放ったパンチなのだから、 十二分な威力が無い。 角崎は、英二を押していった。 左足だけで自分の体を支えている英二は、これに耐え切れまい。 ふっ、と──。 英二の左足がマットから離れた。 倒した。 と、思った一縷の瞬間を狙い澄ましたかのように、英二の右拳が再び弧の動線を虚空 に引いて英二の胸部に押し付けられていた角崎の頭部へ炸裂した。 左のテンプルに入った。 「くっ!!……」 しまった! 僅かにだが、油断してしまった。 油断、というより、これで相手を倒したと確信した瞬間に、頭を切り替えてしまった のだ。 エクストリームでは、既に幾度か触れたように、倒れた相手への打撃が禁じられてい る。そのルール用の闘い方を練習してきた角崎はこれで打撃は無し、と思ってしまった のである。 だが、英二のパンチが唸った瞬間、英二の体は宙に浮いた状態であり、角崎は上半身 を前に倒していたものの、マットに両足の裏以外の場所をつけてはいなかった。 足の裏以外をマットにつけた時にダウンポジションとなるので、その瞬間には、英二 も角崎も、ダウンしていなかったことになる。 その、スタンディングからグラウンドへと勝負の場が移る寸前のところで、英二の打 撃が角崎にヒットしたのだ。 今のは効いた! 気を抜いたところへ貰う攻撃は、気を張り詰めた時に貰うそれとはダメージが段違い だ。 しかし、倒した。 もう、これでボクシングの技術はほとんど役に立たない。 さあ、ボクシング以外の技術を持っているのなら、それを見せてみろ。 でないと、極めるぞ。 角崎は、英二の足首を極めに行こうと右足首を取りにいった。 が、英二はそれを引き抜き、左足でマットを蹴って角崎から距離を取ろうとする。 「この……」 角崎が多少ムキになって手を伸ばすが、英二はマットを蹴り続け、どんどん距離を広 げていく。 双方、真剣なのだが、はたから見ていると失笑を誘う光景ではある。 やがて、英二が立ち上がってしまった。 「くそ!」 叫びながら角崎も身体を起こす。 だが、今のでわかった。 こいつ、パンチをかわしたりパンチを当てたりする技術には侮れないものがあるが、 それ以外は駄目だ。特にグラウンドでの寝技はほとんどできないに違いない。 要するに、ボクサーだ。それ以上のものではない。 確かに強い。 ボクサーとして、ボクシングのリングに上がればそこそこのファイトができるだろう。 同年齢という条件であれば、相手がプロボクサーでも互角の闘いができるに違いない。 だが、総合格闘技ではプラスアルファが必要不可欠だ。 ボクシングのような制限されたルールを持つ格闘技の技術だけでは、とても、総合格 闘の闘いのバリエーションに対応できない。 英二が立ち上がった時点でレフリーの判断でブレイクがかかったために、二人とも中 央線へと戻った。 試合再開後、角崎は間合いを計りながら右のローキックを放った。 ローキックで足を攻め、機会を見てタックルに行ってグラウンドに持ち込む。 おそらく、ボクサーはこれに対応できないだろう。 「ハッ!」 角崎の右ローは、英二の左腿に綺麗に入った。 「あ、あ、あ、あ、あ」 「少し落ち着けって」 口をポカンと開けたまま、英二と角崎が動くたびに声を出している由綺に、右隣の席 に座った冬弥がいった。 「あ、あ、あ、当たっちゃった」 そういった由綺の視線の先では、丁度、角崎の右ローが決まったところだった。 「落ち着け落ち着け、そうそう簡単に英二さんがやられるもんか」 と、いいつつ冬弥、別に英二が闘っているところを見たことはない。ただ、閉店後の エコーズのカウンター席で英二がいった。 「おれの心が、やりたいっていうんだよ」 その言葉、その時の表情。 それを冬弥は信じていた。 あんな顔をして、あんなことをいった英二がそう簡単に終わるわけはない。 「兄さん、負けるんじゃないの?」 が、冬弥の右隣に座った実の妹がいうことは容赦無い。 「そ、そんな、理奈ちゃん」 と、冬弥は小声でいった。 冬弥たちが座っているのは最前列から二十八列ほど行ったところの席である。 緒方英二が出場することで色々な意味で話題になっているのである。アイドルで妹の 理奈がそう望めば、おそらく大会側から特等席ぐらいは用意してもらえただろうが。 「嫌よ、そんなの」 という理奈の一声で、普通に空いている席のチケットを買い、今ここに座っていると いうわけである。 だから、会場のほとんどの人間が、緒方理奈が英二の試合を見に来ているとは思って いない。精々、理奈たちを関係者立入禁止の選手用通路に通してくれた大会役員ぐらい だろう。 理奈は以前からマスコミにそのことを聞かれても、 「その日は、仕事がありますから」 と、答えていた。 そのことがまた、英二と理奈が最近不仲だという報道に繋がったが、二人とも、全く 気にしていない。 と、いうわけで冬弥は、会場に入ってからは由綺と理奈の名前はことさら声を小さく して呼んでいた。 「だって、兄さんはボクシングだけしかやったことないのよ」 と、理奈もまた「兄さん」という言葉を小さく発音している。 理奈は、最近、ドラマの仕事のためにエクストリームのビデオを見ているので、ちょ っとした知識はある。 「相手の選手がローキックばっかり使いだしたってことは、そのことをわかってるのよ」 「はあ……」 格闘技に関してはずぶの素人である冬弥は、そういわれれば英二が負けそうな気にな ってくる。 「……そうとも限らないのではないでしょうか?」 今までずっと沈黙していた弥生がいった。彼女は、理奈の右隣に座っている。 「もしかしたら、ボクシングの技術しかないように見せているのかもしれません」 「なんでそんなことを?」 「……人を驚かせるのが好きな方ですから」 「……」 冬弥は、なんか、そんなこといわれたらそんなような気もしてくる。 優柔不断な男である。 「でも、兄さん、そんなこと練習してるようには見えなかったわ。なんか時々、廊下を 歩きながらシャドーボクシングやってたけど……そもそも、ボクシング止めてからは、 『おれは音楽にかけては天才だから努力する必要は無い』とかいってたのよ、あの人は ……」 理奈が、なぜボクシングでもかなりいいところまで行っていたのに音楽の道を選んだ のか、と聞いた時に、 「だってさ、ボクシングは努力しないと……その点、音楽は努力しなくてもいいから」 などと平然と答えたこともある。 とにかく、たまには体を動かせといっても「疲れるのやだ」というような兄なのであ る。 「隠れてやっていたのかもしれませんよ」 弥生が静かにいった。普段から、無駄なことはほとんど口にしないような人間なので、 珍しく饒舌になると妙に説得力がある。 「私は、見たことがあります」 「え?」 一ヶ月前ほど、弥生は英二に承諾を貰わねばならぬ事柄があって、緒方プロダクショ ンの社長室へと行ったのだが、その際にドアが少し開いていたのでそのまま開けて入室 した。 日頃から英二に「別に中で大したことやってるわけじゃないから、声かけないで勝手 に入ってきちゃっていいよ」といわれていたために、特に何もいわずに入った。 「失礼します」 入ってからそういった弥生の目の前で、英二は右足を高く上げていた。 爪先が、英二の頭頂よりも頭一つ高いところに到達している。 ハイキックを放った直後の体勢であることを弥生は看破した。 「おっと、弥生さんか」 珍しく困惑を表情に浮かせて、英二が右足を下ろした。 「あー、何かな?」 これまた珍しくバツの悪そうな顔で尋ねる。 「幾つか、許可を頂きたいことがありまして」 「ああ、そう」 英二はうっすらと額を湿らせた汗をさりげなく拭いながらソファーに座って、弥生の 話を聞いた。 英二は、用件を済ませて部屋を出ていこうとする弥生に、 「弥生さん……やっぱりこれからは入る前に声をかけてくれるかな?」 と、いった。 「はい」 弥生はほんの少しだけ微笑んで答えた。 「へえ……」 と、理奈は、ようやく兄を少しは見直す気になったのか、感嘆を表情に表している。 「……人に努力しているところを見せるのが嫌いな方ですから」 弥生はほんの少しだけ微笑んでいった。 六発目のローキック。 そろそろ頃合いか……。 角崎は七発目のローを英二の足に送り込みながら、タックルに行く機会を狙いだした。 英二が左のジャブを連続して打ってきたので、角崎は少し後退して距離を取った。 英二の右腕が動いた。 この距離だ。届くまい。 そう思った角崎の予想を裏切って、英二の右ストレートが正面から角崎の顔面のど真 ん中に打ち込まれていた。 腕が伸びた!? 一瞬、角崎にはそうとしか思えなかった。 実際は、英二がストレートを打つのとほとんど同時といっていい絶妙のタイミングで 踏み込んできたのだ。 忘れていた。 この男がボクサーとしては一流であることを忘れていた。 「ぬあっ!」 後方に倒れていく上半身を立て直して角崎はすぐに倒れ込むように前進した。このま ま英二の足に食らい付くつもりだ。 それを察知した英二が後ずさる。 だが、それを追撃すべく角崎は体勢を低くして突進した。 今度は、こっちがあいつを逃がさない。 マットすれすれといっていいほどに低い。 ある格闘技雑誌の記者に「地を這うような」と形容された低空飛行の両足タックルだ。 移動距離も長い。 さらに、こんなに体勢を低くされては英二には攻撃の術が無いはずだ。 迎撃するには足技を使わねばならないからだ。 これは捕らえた! 確信した角崎の顎に右から衝撃がやってきて突き抜けていった。 脳が激しく震動するのを感じる暇も無く、角崎俊二は意識の途絶えた虚ろな顔をマッ トに着けていた。 英二の放った左のローキックが、角崎の顎を横から痛打したのだ。 カウントをとろうとしたレフリーが身を屈めて、角崎の顔を覗き込み、閉じている瞼 を指で無理矢理開いて眼球を見ていたかと思うと、立ち上がって緒方英二の勝利を宣言 した。 歓声が上がった。 「ボクシングだけじゃないぞ!」 そんな声が各所で混じる。 「あー、よかったぁ……」 いきなり肩の力を抜いた由綺の横で、冬弥も理奈も、呆然とした顔を並べていた。 とにかく英二が勝ったのが嬉しくて、よくわかっていない由綺はともかくとして、素 人の冬弥にも、多くの試合ビデオを見ている理奈にも、今の英二のローキックが、ボク シングだけをやっていた人間が苦し紛れに放ったものではないことがわかった。 明らかに、キックボクシング、それもタイ流のそれによく似た足のしなり方をしてい た。 「いいフォームでしたね」 弥生がいうのに、辛うじて頷く冬弥と理奈の向こう側で由綺が、 「そうですよね」 と、はしゃいでいた。 「余裕っすね」 花道から選手通路へと移る場所に、浩之が立っていた。 「いや、手強い相手だったよ」 英二は手を振りながらいった。 「最後のローが外れてタックルを決められていたら危なかった……」 「そうすか」 「それに……足を使わされてしまった」 「……」 英二は、君も頑張れよ、と浩之に声をかけて控え室へと向かって歩いていった。 その背中を見送りながら浩之は、 「やっぱり……余裕じゃねえか」 ぽつり、と、呟いた。