鬼狼伝













     第46話 プロ

「ねえねえ、次がお兄ちゃんの試合でしょ」
 チケットに付属していた大会パンフレットのトーナメント表を見ながら初音がいった。
初音は、格闘技の試合などというものを観戦するのは初めてなので、今までの試合を見
て、この娘には似合わずやや興奮気味である。
「お兄ちゃん、大丈夫かな? ねえねえ」
 これだけ試合があれば、中には凄惨なものもあり、蹴りを頭部に入れられてピクリと
も動かず、担架で退場していった選手もいる。
 初音は、元々殴ったり蹴ったりということをあまり身近にして生きてきたわけではな
い。精々、従兄弟が姉に蹴られているのを見たぐらいだ。
 そんな初音であるから、急速に従兄弟のことが心配になってきたらしい。
「うーん」
 問われた梓は梓で、耕一の実力というのは未知数なのである。
 耕一は、伍津という人に格闘技を学んでいるらしいが、その、伍津流というのは伍津
双英という人物が多くの他流派から技術を取り入れ試行錯誤した結果、いわゆる総合格
闘技の戦法に近いものになった。
 誰がいうともなく呼び始めた「伍津流」という呼称をそのまま受け入れて五人の直弟
子に日本各地に道場を開かせた。
 これが近年の総合格闘ブームによって注目を浴び始めたものである。
 そのことは、梓は耕一の口から聞いていた。
 だから、その気になればバーリ・トゥードでもやれる。と笑いながら耕一がいってい
たのを覚えている。
「大丈夫だよ、耕一はああ見えて強いから」
 梓は、初音を安心させるためにそんなこといった。半ばは、自分にいい聞かせたのか
もしれない。
「……でも、相手の人強そう……」
 初音がそういった時、既に、耕一の一回戦の相手である中條辰(ちゅうじょう しん)
は入場していた。
 黒いトランクスを履き、上半身は裸である。
 所々筋肉が盛り上がっており、一見して鋼のような印象を受ける。
「……」
 確かに、強そうである。
「大丈夫……」
 二人に挟まれた席に座っていた楓がいった。
「耕一さんは、大丈夫……」
 誰にいうともなく、呟いていた。

「あれですよね、プロレスのリングに上がったことあるってのは」
 例によって、浩之は選手入場口の辺りにたむろしていた。隣には、最近よくつるんで
いる緒方英二が立っている。英二は、自分の試合を終えた後、耕一の試合を見ようと急
いでやってきたというわけである。
「そうそう。確か、背広組と喧嘩して辞めたんだったかな」

 現在二十三歳、二十歳の時に日本では二大メジャー団体に次ぐ中堅どころといわれる
プロレス団体『新国際プロレス』の道場に入門。デビューは二十一歳の時に、同じくそ
れがデビュー戦の二人の選手と、それにデビュー二年目の五人の選手を加えた八人で行
われた「ヤング・バトルロイヤル」であった。
 そこで、デビュー組の他の二人を押し退けて先輩に突っ掛かっていったのが評価を高
め、その一ヶ月後には中堅クラスの選手とシングルマッチを組まれ、負けたものの善戦、
今後が楽しみと雑誌に書かれたのだが、その一ヶ月後に退団。
 原因はあるトラブルであった。
 中條はオフの前日に仲間のレスラーと道場近くの居酒屋で飲んで食って騒いでいた。
 やがて、隣のテーブル席に座っていた男たちが声をかけてきた。
 その場に居合わせた他の客によると、
「兄さんたち、すぐ近くにあるとこのレスラーだろ」
 と、三人いた内の一人がビール瓶を持って、中條の持っていたコップに、ビールを注
いだ。
 雑誌記者のインタビューに応じた店の主人によると、その三人は時々来る客で、見る
からに暴力団関係の人間であった。以前、他の、これまたそちらの方面の稼業人らしい
客と揉めて喧嘩寸前にまでなったことがある。主人にしたら、もう来て欲しくない客だ
ったが、いつも金はちゃんと払うし、それ以前に堅気の人間とトラブルになったことも
無いし、何よりも後難を恐れて帰ってくれとはいえずにその日も、酒を飲ませていた。
 主人は、その三人が近くにある道場にいるプロレスラーに声をかけたのを見てもちろ
ん眉をひそめたが、両者ともすぐに意気投合したようで和気藹々とした雰囲気になった
ので胸を撫で下ろした。
 やがて、三人の男の中でも兄貴分らしい四十歳半ばほどの男が、側に綺麗所が揃って
いる店があるからそっちに行こう、と提案した。
 酔っ払っている中條はともかく、もう一人の仲間のレスラーはいかにもやくざ風の人
間とあまり関わり合うのはどうか、と思ったが、なにしろ男ばかりの道場暮らしである。
綺麗所が揃っている店、といわれては心が動かないわけはない。
 その上、ここの勘定まで持ってくれるというので、中條もそのレスラーも、
「押忍。御馳走になります!」
 と、頭を下げたものだ。
 その居酒屋を出たところで、ことは起こった。
 以前に、三人組のやくざとこの店で揉めた連中が今正にこの店に入ろうとしていたの
だ。つい先日、不完全燃焼のまま喧嘩別れした双方であるから当然、睨み合った。
 相手方の方も、既にどこかで飲んだのか酒が入っており、喧嘩が始まる条件は揃って
いたといっていい。
 どっ、とあちら側が襲いかかってきた。あちらの人数は五人いて、自分たちが有利と
見て勢いにまかせて戦端を開いてきたのだ。
 その時、その五人の男たちはいずれも、喧嘩相手の三人組の後ろに続くガタイのいい
男を、全く関係の無い他の客だと思っていたらしい。
 人数の不利がそのまま反映し、三人組は押されていた。そこへ中條が、
「止めろ、止めろ」
 と、割って入った。
「なんだ、てめえは!」
 一人が激昂して腕を振った。身長一八六センチの中條の顔には届かずにその胸を叩い
た。
 もちろん、その程度は蚊に刺されたほどにも感じない。かえって殴った方が拳を痛め
てしまった。
「ふざけんな! この野郎!」
 中條は酒の勢いもあって激怒し、その男の頬を平手で叩いた。
 その一発で、敵と認識されてしまい。中條は四人の男に一斉に襲われることとなった。
 それを次々に殴り蹴り投げ、ものの十秒で全員を倒した。
 当然、後日問題になった。
 特にこれを問題視したのがいわゆる「フロント」と呼ばれる背広組であった。リング
に上がって戦うわけではなく、興行に際しての会場の確保、チケットの販売などを行う
人々である。

 暴力団関係者同士の喧嘩において、片方に加勢して大暴れした。

 まことに事実はその通りであり、プロレス関係の雑誌だけではなく一般紙にまでその
ことが取り上げられたのはフロント陣にとっては確かに頭痛の原因であったろう。
 解雇されるのではないか、という噂も流れた。
 将来が期待されていたものの、中堅どころながら人気レスラーを多数揃えていた新国
際プロレスにとっては中條辰はそれほどに惜しい人材ではなかった。
 中條はずっと禁足令を喰らって寮の自分の部屋で苛立ちながら日々を送っていた。
 やがて、新聞などで自分がまるで以前から暴力団と交際があったかのように書かれて
いるのを見て、フロントの方にその間違いを訂正したいと申し出たのだが、
「余計なことをするな」
 と拒絶され、さらに苛立っているところへ知り合いのプロレス雑誌記者の方から会社
を通さずにインタビューの申し入れがあった。中條はこれを受けた。
 そのインタビューに答えて、その自分が加勢したという暴力団関係者と自分はその直
前に偶然居酒屋で隣り合った席に座ったことから知り合ったばかりの人間であり、それ
以前からの付き合いは無いことを強くいった。
 これが雑誌に載ると会社からその雑誌に猛然たる抗議がなされ、中條は上の命令に従
わない不穏分子と見なされた。
 このことが、中條の解雇を決定したといわれている。
 だが、そのインタビュー記事は概ね好評であった。特に片方に加勢した理由を聞かれ
て中條が、
「酒を奢ってくれたし、綺麗な人がたくさんいる店に連れてってくれるっていうんで、
その人たちのこと凄いいい人だと思ってましたから、これは味方しなきゃいけないな、
と思ったんです」
 と、答えた部分が大いにウケて、元々、無茶な若手を面白がる傾向のあるプロレスフ
ァンから支持が集まった。
 先輩のレスラーの中にも、
「あの程度の『やんちゃ』は許してもいいんじゃないか。それはしばらくは出場停止と
か何らかのペナルティは必要だろうけど」
 などという人間もいたのだが、無断でインタビューに答えたのが致命的となり、中條
は解雇処分とされた。
 その後、他の団体から誘いを受けたのだが、もはや中條はプロレスと関わり合うのを
止めたくなっており、知人のツテを辿って、何度か総合格闘の試合に出たのだが、その
団体が経営不振から消滅してしまった。
 そして、今回、エクストリーム大会へと出場してきたのである。

「でも、プロじゃないんですか?」
 浩之が疑問を発する。エクストリームは原則としてアマチュアの大会である。
「アマとプロの間に明確な線引きは無いよ。まあ、一般的に『金を取るのがプロ』って
いう考え方はあるけど、そんなこといったらエクストリームだって、他の大会だって、
賞金が出るからね」
「に、しても……」
「彼はフリーランスだからね、しかもけっこう特殊な……」
 現役のプロの格闘技選手というのは、大体がどこかの団体と契約しており、自分の意
志で所属団体と関係のない大会に出場するのは困難である。
 そして、フリーの選手であるが、これもまたアマチュアの大会に出るようなことはほ
とんど無い。プロの選手というのは、それで食うために試合に出る。そうなると、それ
なりのギャラが出ない限り、試合をしようとはしない。
 だが、フリーの中でも特殊な例がある。
 中條のように、別のジャンルで有名になって総合格闘に転向してきたような選手であ
る。
 ネームバリューはある。
 何度か試合にも出た。総合格闘もやれるということは示してある。
 だが、いまいち実力が認められているとはいえない。
 中條は三度、総合格闘の試合に出たが、そこで急所をガードした上で打たせるという
戦法を実行していた。
 受ける、という意味でプロレス的な闘い方といえないこともない。
 三戦して全勝。相手が打ち疲れたところを捕まえてパワーで豪快に投げ、そして一転
して精密な関節技でタップを奪うというのが勝ちパターンであった。
 相手は三人とも駆け出しの選手でプロレスラーとして鍛えられた中條には物足りない
相手であった。当然、見る人間も、それでは中條のことを認めていない。
 そして若手を三人撃破したところで、いよいよ中堅クラスと試合を組んでもらい、自
分の強さをアピールしてやると意気込んだところでの団体消滅である。
 中條は宙に浮いた格好となっていた。
 そこに、エクストリームの話が来た。
 一応、自分はプロであるとの自負もあり、今までは見向きもしていなかったのだが、
最近のエクストリームのレベルの高さはプロにも迫るほどだといわれてビデオを見せら
れた。
 中條の目から見ても、なかなかいい選手がいるようであり、既に何人か、エクストリ
ームをステップにしてプロになって活躍している人間も多い。
 そして、なんとしても魅力なのはその知名度だ。まだまだ一般的とはいえないが、格
闘技ファンの間では年に一度の大イベントと認識されており、ゴールデンタイムではな
いが、試合はテレビ中継される。
 これは自分を総合格闘界に売り出すいい機会と中條はやる気になった。
 英二は、その間の情報も入手していた。芸能界と格闘界はまるっきり別物のように見
えて、アクション映画の俳優が実際に格闘技をやっていたり、格闘家がテレビ番組のゲ
ストに呼ばれたりとけっこう接触する機会は多い。
「エクストリーム関係者から誘いがあったんじゃないかって話もあるよ」
「え?」
 浩之は虚をつかれたように英二の方を見た。
「中條辰は色んな意味で知名度はあるし、総合格闘の経験もある。これが出場するとな
れば話題になると思ったんだろうね」
「……そうっすね」
 現に浩之も雑誌などを読んで、中條のことは知っていた。
「でも、いいんすかねえ、元プロレスラーが優勝さらっていって……」
「それは……彼の戦法が『打たせて勝つ』式だからねえ……長丁場のトーナメント戦じ
ゃ最後まで残れないと踏んでいるんじゃないかな」
「なるほど……」
「それから、これは別口の全然裏がとれてない情報なんだけど、彼がもし優勝したら、
前々回の一般男子の部の優勝者で今はプロに転向している佃忠久(つくだ ただひさ)
と試合が組まれるって話もあったな」
「……はあ……」
 浩之は、英二が出してくる「情報」にやや圧倒されたようである。ここまで精通して
いるとは思わなかった。
「お、柏木くんも入場したようだな」
 英二のいう通り、二人で話している間に、耕一は既に試合場に上がって、中央線に立
ち、中條と向かい合っていた。
 身長は耕一の方が少し低い。
 肩幅も耕一の方が少し狭い。
 全体的な筋肉量も耕一が劣っているだろう。
「さて……どう闘うか……」
 英二は呟いた。この試合で勝った人間が二回戦での自分の相手なのである。

「はじめっ!」

 レフリーの声に中條の両手が動いた。
 肘を曲げ、顔の両脇に持っていき、頭部をガードする。
 耕一が接近してきた。
 耕一とて決して軽量の選手ではないのだが、その動きは素早い。二人の能力を数値化
すれば素早さでは耕一が勝っているはずだ。
 耕一の右拳が一直線に眉間へ──。
 両腕のガードで覆い切れていない箇所がある。眉間と側頭部の耳より後ろの部分であ
る。
 その眉間へ、耕一の拳は走った。
 中條の上半身が僅かに動く。
 眉間に来ることを読んで、頭部を少しずらしたのだ。
 その動きは小さかったために、眉間への直撃は避けたものの耕一の右拳は中條の右腕
に炸裂した。
「!!……」
 耕一の口から、声にならぬ声が漏れた。
 分厚いゴムを殴ったような感触だった。





     第47話 猛攻

 なんといったらいいのだろう。
 やはり、分厚いゴムを殴った感触、であろうか。
 耕一は右拳を引きながら、すぐに今度は左拳を疾走させた。
 狙いはやはり、両腕のガードで覆い切れていない眉間。
 すっ、と中條が体をずらす。
 先程と同じだ。耕一の拳は腕に当たった。
 そしてまたあの感触。
「んー……」
 首を傾げながら耕一は距離を取った。別に本人は意識してやっているつもりではない
のだが、顔と仕草が「これは困った」と主張しているようで滑稽さを伴う。
 耕一は蹴りの間合いから一歩分外に出たラインから内側に入らぬように、ゆっくりと
中條の周りを回った。
 対する中條、微動だにせず。
 両腕で頭部をガードしたまま立っている。
 時間が過ぎる。
 二十秒……四十秒……一分。
 耕一は前に出た。
 出ていく。
 蹴りの間合いに入る。
 中條、動かず。
 突きの間合いに入る。
 中條、不動のまま。
 ぶん、と耕一の右腕が唸った。
 ボディに拳を叩き付け、次に左のフックで中條の右耳の裏の辺りを狙う。
 中條はまたずらした。ボディへのパンチはしっかりと水月を狙ったものだったので、
まずそちらの攻撃を外し、そして右耳の裏への攻撃をまたずらしで外す。顔を少し右に
向けるような感じで耕一の左拳を右腕で受けた。
「おっ!」
 耕一が後退しながら思わず声を漏らした。
 腹を殴った右拳にも、あの感触があった。
 耕一は、また蹴りの間合いの少し外に出た。
「よし……」
 軽く頷いて呟く。
 耕一が深呼吸をする。
 大きく息を吸い込み、耕一は改めて構えた。
 タッ──タッ──タッ──という軽快な音が耕一の足とマットが触れ合って生じた。
 一気に、間合いを詰めていった。
 右のストレート。
 左のジャブを二発。
 右のローキック。
 ぐっ、と接近して左右のフックのワンツー。
 離れて左のローキック。
 全て、中條の急所には入っていない。

 こいつ……。
 と、中條は思った。
 とにかくラッシュしてくる気か……。
 面白い。
 受けて立ってやる。
 そう、思った。

 頭部と水月。
 ここ以外は好きなだけ打たせてやる。
 その代わり、そこは死守する。
 防壁に使うのはおれの両腕だ。練習に練習を重ねて、その日の練習が終わった頃には
缶ジュースすら満足に持てなくなったこの両腕だ。
 そういう試練を乗り越えて鋼と化したこの両腕だ。
 打ち砕けるものなら打ち砕いてみろ。
 半端な攻撃じゃビクともしねえぞ。
 足もだ。
 歩けなくなるまでスクワットで鍛えたこの足もだ。何発かローキックを入れてきてる
が一発も効いちゃいねえぞ。
 腹もだ。
 両手を使わなきゃ起きられなくなるまで鍛えたこの腹もだ。さすがに水月に貰っちゃ
まずいが、そうでなきゃ何発だって入れてこい。
 がつんがつんと腕が、腹が、足が揺さぶられる。
 いい攻撃をしてやがる。
 おれじゃなかったらとっくにガードをぶち破られてるんだろうが……。
 おれはそうは行かねえぞ。
 これほど立て続けに攻撃をしてきているのにこれといった隙が無い。こいつ、かなり
やるな。
 少しでも隙を見せれば捕まえて、投げてやるんだが……おっと、一度捕まえちまえば
どんなに堪えても投げる自信があるんだぜ。
 それから投げたらそのままグラウンドで関節を極める。
 こう見えても、殴ったり蹴ったりより、そっちの方が得意っていってもいいぐらいな
んだぜ。
 そろそろか……。
 そろそろ息が切れて、両手両足に疲労が溜まってくる頃だろう。
 そうなったら必ずどこかに隙が出来る。
 それとも、そうなる前に一度退くかな。
 そうしたら食らい付いて行ってもいいな。
 こいつの攻撃は思っていたよりもきつい。あんまり受けすぎると二回戦以降に影響が
ありそうだ。
 ばちっ、と腕に来た。
 ……こいつ……まだ続くのか……。

「あ……」
「気付いたかい」
 浩之の呟きを聞き逃さずに、すかさず英二がいった。
「ええ……殴り方が変わりましたね」
「うん」
 耕一の左右のパンチが立て続けに中條の両腕に炸裂している。
 さっきまでは、そのパンチは眉間や耳の裏を狙って行って、それをガードされるとい
う形で腕に接触していた。
 だが、途中から耕一のパンチが初めから中條の両腕を痛めつけるためのパンチに変わ
った。眉間や耳の裏を殴ろうとしてその間に腕を入れられるのではなく、そこを狙うよ
うな軌道を描きつつ、最初から腕がそれを阻むのを予想している感じだ。
「まずは外堀からか……」
 英二がいった。
 耕一がラッシュを始めてから二分が経過していた。

 腕に衝撃が走り続ける。
 こいつ!
 まだ続くのか!?
 こんな重く、鋭い攻撃を延々と二分も続けてきて、その上まだ続くのか!?
 その上まだ重い。
 その上まだ鋭い。
 なんだ? こいつは!
 こんな奴、初めてだ。
 プロレス時代も含めて、こんな奴は初めてだ。
 まずい。
 いい加減こっちが保たねえ。
 なんて奴だ! おい!
 一瞬、攻撃が止んだ。
 その次の瞬間も、攻撃は来なかった。
 そうか、そうか、そうか。
 やっぱりな。この辺が限界だろうと思ってたぜ。
 今度はこっちの番だ。
 行くぞ、手を伸ばして掴んで──掴んだらもう逃がさねえ。休まれて回復されたら厄
介だ。逃がさねえぞ。
 ……?
 ん?
 腕に、力が入らないぞ。
 まさか、さっきまでのこいつのパンチでおれの腕が痺れてやがるのか!?
 くそ! そんなヤワじゃねえだろ、おれの腕は!
 もっと素早く動けるはずだろ、おれの腕は!
 あれだけ鍛えたんだぞ、おれの腕は!
 行け! 早く奴を捕まえろ!

 中條の手が思い切り、宙を掴んでいた。
 耕一はその手の届く範囲からは既に逃れていたのだ。中條の腕が試合開始当初の状態
であったら間違いなく耕一を捕らえていたであろう。
 が、中條の自慢の両腕は、耕一を逃した。
 中條の体が少し前に泳ぎ、両腕もまた前方に向かって出されている。
 耕一が素早く前進する。
 先程のラッシュ時から全く衰えぬ速度で、一瞬にして中條の懐に入った。
 獲物を捕らえようと中條の両腕が再び動こうとする前に、耕一の右拳が一直線に中條
の顎を真っ正面から打ち抜いていた。
 それを引く寸前に左足を踏み込み接近し、左のフックを中條の右側頭部に一閃させる。
 頭が揺れた。
 だが、まだ倒れない。
 まだその両腕が耕一を捕らえることを諦めていない。
 中條の両腕が耕一の腰に巻き付いたと見えた刹那、耕一の右腕が天に向かって突き上
げられていた。
 強烈なアッパー。
 中條の顔が上を向く。
 ぐらり、と大きく揺れて体勢を低くして……だが、まだ倒れない。
「シィッ!」
 低くなった頭へ、耕一の右の蹴りが食らい付くように走っていった。
 重々しい音が、後ろの方の席に座っている人間の耳にまで聞こえた。

「ダウン!」
 上から聞こえたレフリーの声が、中條の意識を繋ぎ止めていた。
 ダウン……。
 おれは、ダウンしちまったのか。
 このおれが、ぶん殴られて、蹴っ飛ばされて、ダウンしちまったのか……。
 全く……冗談じゃねえぜ……。
 あの野郎、見下ろしてやがる。
 手で、顔に浮いた汗を拭って、涼しい顔してやがる。
 軽く運動して一汗流した……っていうような顔だ。
 そして、いいやがったんだ。
 涼しい顔で、
「やっぱりプロレスラーは打たれ強いなあ」
 本当に、心底、そのことに感心してやがるようだった。
 全く……冗談じゃねえぜ……。
 ……レフリーのカウントがファイブまで行ってやがる。そろそろ立たねえとノックア
ウト負けだ。
 立たねえと……。
 おれはプロレスラーだぞ、この程度でノックアウトされるもんか。
 おれはプロレスラー……。
 って……。
 おれはもうプロレスラーじゃなかったっけか……。
 今のおれはプロレスラーじゃなくて総合格闘家なんだよな。
 ……。
 いや。
 違うぞ。
 例え今はそうでも、おれのこの肉体は、格闘技をやるための元手はプロレスラーの時
に出来上がったものだ。
 だったら、おれはやっぱりプロレスラーだ。
 今はプロレスラーじゃないだろうって?
 うるせえ!
 黙れ! 黙れ! 黙れ!
 おれはプロレスラーだ。
 おれの基礎は、全てプロレスラーだった時に培われたんだ。
 だから、おれはプロレスラーだ。
 何より、おれがプロレスラーであると思いたがっている。
 一度、もう自分はプロレスラーじゃねえ、もう自分はプロレスとは関係無い人間にな
るんだって、決めたな。
 でも、しょうがねえだろ。また、そう思いたくなっちまったんだからよ。
 だから、おれはプロレスラー。それでいいだろうが。
 立つぞ。
 プロレスラーだから立つぞ。
 おれはプロレスラーだ。
 殴られてなんぼのプロレスラーだ。
 蹴られてなんぼのプロレスラーだ。
 マットに背中を打ち付けてなんぼのプロレスラーだ。
 マットに頭を逆さに落とされてなんぼのプロレスラーだ。
 だから立つぞ。
 あいつのいう通りだ。
 プロレスラーは打たれ強いんだ。この程度で寝ちまうような往生際のいい人種じゃね
えんだ。
 さあ、立つぞ。
 ほら、立った。
 おい、レフリー、カウント数えるの止めねえか。
 今、ナインっていってたよな。だったら間に合ったってことだな。
 おう、ファイティングポーズか、んなもんお安い御用だ。
 さあ、ほら、どけ。
 どうだ、おい。
 おめえ、今ので終わったと思ってただろ。
 あの蹴りは強烈だったからなあ、あれで終わったと思うのは無理もねえ……。
 だがな……。
 プロレスラーは打たれ強いんだ。





     第48話 屈辱

 エクストリーム大会、一般男子の部、Bブロック第二回戦。
 柏木耕一 対 中條辰。
 第1ラウンド、三分過ぎ、耕一が中條からダウンを奪った。
 そして、カウントナインで中條が立ち上がり試合再開。

「……」
 重い沈黙に身を浸して中條辰は睨んでいた。
 柏木耕一をだ。
 自分をダウンさせた男をだ。
 睨み付ける。
 段々と腕から痺れが引いてきた。
 行ける、と思う。
 さあ、来い。
 両腕を広げた。
 一瞬で、視界の中の耕一が大きくなる。
 凄まじいスピードで間合いを一気に詰め、右のストレート。
 耕一の右拳が中條の額に接触する。
「っ!」
 耕一が呻く。
 打ち抜けない。
 中條がその太い首で頭部を支えきったのだ。
 耕一が右腕を戻すのを追うように中條の体が耕一に密着していった。
 両腕を腰に回してクラッチ(結手)する。
 耕一の両足がマットから浮いた。
 中條の背が、少しだけ後ろに反っている。
 耕一を浮かせたまま中條は足を移動させ、体を右に旋回させた。回しながら、倒れて
いく。
 耕一が両足を中條の腰に回していた。
 どん、と耕一の背中がマットにつく。中條が上になっていた。
 しかし、下になった耕一の両足が中條の腰に巻き付いているのでいわゆるガードポジ
ションになっている。
 甲高い舌打ちの音が中條の口から漏れた。
 グラウンドでの打撃が禁じられているエクストリーム・ルールにおいてはこのような
体勢になった場合、相手の腕を取ってアームロックか腕ひしぎ逆十字固めなどの関節技
に持っていくのが常道といっていい。
 だが、相手にガードポジションを取られると、自由に腕を取りに行けない。
 相手が巻き付けた両足で、こっちの腰の動きを制限することができるからだ。
 耕一が自らの腰を捻るようにして中條の体を横倒しにしようとする。
 中條の体が傾いた瞬間、耕一の体がするりと中條の下から抜け出ていた。
 左膝を一度マットについて、右足はそのまま中條の腰に触れたままその位置を変えて
いく。
 耕一の体が瞬きするほどの間に中條の背中に回っていた。
 左足が跳ね上がって、再び中條の腰に巻き付いている。
 耕一の腕が中條の首へと走った。
 胴締めのスリーパーホールドを狙っているのは明らか。
 一転、下になってしまった中條は自分の腕で耕一の腕が首に食い込むのを防ごうとす
る。
 そして、その攻防をしながらも、ゆっくりと中條の体が起き上がっていった。
 毎日、百キロを越える人間を肩車してスクワットをしていた中條にとっては、その程
度のことは造作も無い。
 完全に立ち上がった。
 会場に低い歓声がどよめく。
 耕一が足をほどいた。そのまま中條が自分を下敷きにして後方に倒れて来ようとする
気配を察したからだ。
 双方、ともにスタンディングに戻っている。
 中條は、自分の左腕が捻り上げられるのを感じていた。
 耕一が背後から、左腕を極めにきたのだ。
 肘に痛みが生じる。
 これに逆らわず体を前方に倒して行けば、やがて完全に前のめりに倒され脇固めで腕
が極められてしまうだろう。
 中條は逆らった。
 真正面から逆らった。
 自分の腕一本で耕一の腕二本による極めを少しの間なら堪える自信があった。
 中條は背すじを伸ばしたままだった。

 どうだ!
 そう簡単におれの関節を極めようったってそうは行かない。
 おれみたいにパワーのある人間に、そう簡単に関節技はかけられないぞ。
 パワーだけのでくの坊じゃねえぞ。
 パワーがあって、何度も何度も道場のリングの上で関節を極められて悲鳴を上げたお
れだ。
 そう簡単には……。
 ほら、おれの背すじはぴしっと伸びているじゃないか。
 まだしつこくおれの左腕を極めて、おれを前に倒そうとするのか。
 それ、右と左の手をクラッチしたらどうだ。
 お手上げだろう。
 それ、せっかくお前がそこまで捻り上げた左腕が、右腕の力を借りてどんどん元に戻
っていくぜ。
 倒されるものか。
 後ろに体重をかけて──。

 ふわり。
 と、中條の体が浮いていた。

 しまった!
 前に倒そうとするのはフェイントだ! 堪えるために後ろに体重をかけたのを利用さ
れた!
 意地を張って直立していようとしたのが災いした。
 せめて片膝をついておくべきだった。
 それにしても、その力を利用したとはいえ、おれを持ち上げるとはなんて奴だ!
 持ち上げられて、後方に投げられる。
 受け身を取らねば後頭部を打っちまう。
 この感覚……。
 不思議だぞ……。
 この感覚は以前に味わったことがあるぞ。
 奴の頭がおれの左脇に密着してやがる。
 で、後ろに投げて、相手の後頭部を……。
 あ!
 そうか!
 そうだ!
 これは、バックドロップじゃねえか!
 おれは単なるファンだった頃からこの技が大好きだったんだ。
 自分がプロレスラーになってからはこの技を練習して得意技にしたんだ。
 新国際プロレスに入門して半年ぐらい経った時、同じ日に入門した奴と、こっそりと
道場のリングでバックドロップの練習をしたよな。
 入門後半年ぐらいじゃ、まだまだ技を教えてもらえなかったからな。
 そしたら、それをデビュー十年目の高原さんっていう選手に見つかったんだ。
 「十年はやい!」ってぶん殴られたんだっけな。
 でも、高原さん、次の日から他の人には内緒でおれたちにコツを教えてくれたっけ。
 あん時は嬉しかったな。
 おれは、高原さんのバックドロップが好きだったからな。
 ファンだった頃から、あれが好きだったんだ。高原さんの試合を見る時はいっつもあ
れを楽しみにしてたんだ。
 だから、嬉しかったな。
 それからも、高原さんはおれに色々なことを教えてくれたよな。
 おれの解雇に最後まで反対してくれたのも高原さんだったしな……。
 高原さん、二ヶ月ぐらい前に新国際プロレスを抜けて、新国際よりずっと小さいとこ
に移ったって聞いたな。

 様々な思考も思いも──。
 ふっ飛んだ。
 後頭部がマットに接触した。が、落ちた角度はそれほど急ではないためにしっかりと
受け身をとった中條にそれほどのダメージはない。
 それよりもバックドロップで投げられたのが精神的にこたえた。
 と、いっても耕一はそういうつもりでこの技をやったわけではない。相手が後ろに体
重をかけるのを利用して後ろに投げただけのつもりだ。
 その証拠に、耕一が仕掛けたそれはプロレスのバックドロップとは異なる部分があっ
た。
 落とす寸前に、頭部を相手の脇から抜いて胸に密着させ、後ろから腰に回していた方
の手──この場合は右手──はそのままに、左手を相手の頭部に添えるような形になっ
ていた。
 この体勢だと、落とした次の瞬間には、左手で相手の首を抱え込み、右手で相手の左
腕を掴んで袈裟固めに持っていける。
 バックドロップというよりも柔道の裏投げに近い。
 事実、耕一は中條に袈裟固めを決めていた。
 さて、ここから腕を極めに行くか、と耕一が思案した時には、中條の右肩が上がって
いた。
 そして、右腕が耕一の腰に回る。
 その右肩が、両肩が押さえ込まれてからきっちり二秒後に上がったことに気付いた人
間は会場にほとんどいなかったであろう。
 中條が、強引にパワーで抱え込まれた首を逃がそうとする。
 首の筋肉が脈打った。
 そして、首が抜けた。
 尋常ではない外し方であった。
 尋常ではない首を持っているからできたことであった。
 中條は立ち上がり、耕一を見下ろした。
 耕一が中條の表情を伺いながら立ち上がる。

「第1ラウンド終了!」
 レフリーの声と同時に、ゴングが鳴っていた。

 試合場の隅に立って呼吸を整えている耕一を見上げてから、浩之はその視線を中條の
方にと転じた。
「すごいっすよ、あれ……」
「あれ?……」
 英二は、一体、なんのことをいっているのかわからずに問うた。
「耕一さんの攻撃ってね、ホント、すごいんですよ」
「ふむ」
「思い切りやられたのに……まだやれるなんて……」
「ああ……」
 英二は理解した。
 浩之は耕一の攻撃を喰らってなお、活動を続けている中條の耐久力に畏怖を感じてい
るのだ。
「あの人に殴られるとね、頭ん中のものがすっ飛んでくんですよ」
「ああ……柏木くんのすごさはわかっているつもりだ」
 英二は耕一が闘うのを過去、一度だけ見たことがある。そして、その相手はここにい
る浩之であった。
 耕一のフックを側頭部に貰った浩之の体が一瞬、逆さになったところを英二は目撃し
ている。

 体中が熱い。
 痛みもある。
 だが、それを熱さが覆い隠している。
 熱い。
 さっき、自分は両肩を押さえ込まれた時、思わず二秒後に右肩を上げていた。
 プロレスでは、両肩を押さえ込まれて三秒間フォールされると負けになる。
 そのクセが出てしまったのだ。
 あいつのせいだ。と、中條は思う。
 あいつがバックドロップなんかやるからだ。
 あいつがあんなことするからだ。
 ついつい「プロレス」をやっちまった。
 しかしなあ……。
 やっぱりなあ……。
 格好が悪いよなあ……。
 プロレスラーが素人にバックドロップなんかやられたまんまじゃなあ……。
 なんか最後の形は違ってたけど、あれは途中までは完全にバックドロップだったもん
なあ……。
 いけねえよなあ……。
 よりにもよっておれが一番好きで、一番得意だった技だもんなあ……。
 こんなの、高原さんが見てたら情けなく思うぜ。
 それは、いけねえよなあ……。
 どうするかな……。
 ……。
 そうだ!
 高原さんに教えてもらったバックドロップを、あいつにぶちかましてやりゃいいんだ。
 うん、そうだ。

「第2ラウンド! 両選手中央へ!」

 ああ。
 今行くよ。

 中條は中央線に向かって歩き出した。





     第49話 帰り行く

 中條辰は、掌を軽く広げて、腕を前に出していた。
 試合開始当初のように、頭部のみをガッチリとガードする姿勢ではなく、相手と接近
すれば即座に組み付いていけるような手の位置であった。
 耕一のローキックが数発、立て続けに足を襲う。
 右、右、左、右。
 その合間に腹に向けて前蹴りも放ってくる。
 一発一発が重い。
 打たれながら、中條はその攻撃のリズムを読んでいた。
 右のローキック。
 中條はそれに狙いを定めた。
 右のロー。
 右のローを打ってこい。
 ばちぃっ、と左のローキックが激しく中條の右足を打つ。
 このパターン。
 次辺りに来る。
 果たして──。
「シッ!」
 短く鋭い呼気を吐きながら、耕一の右足が低空飛行で襲いかかってきた。
 瞬間、前に出た中條の左腕が旋回する。
 肘を曲げて、拳が顔の前に来る位置に持っていっていた左腕の肘から先が右回しに旋
回し、左へ向けて低い裏拳を放っていた。
 その裏拳が耕一の右足の腿の辺りに当たる。
 耕一の右足がその衝撃で右に向かって泳ぎ、バランスをとるためにやむを得ず、上半
身も右を向く。
 中條の裏拳が耕一の右ローのミートポイントから遠い腿の部分に当たったので、逆に
弾き飛ばされずに耕一の右足を押し退けることができたのである。
 中條が持つ単純な腕力の強さも、もちろん、それに寄与している。
 耕一の体が右を向いた一瞬を中條は逃さなかった。
 即座に前進し、頭を耕一の左脇に向けてぶつけていく感じで組み付いていく。
 そして、体をピッタリと耕一の背中につけて、両腕を腰に回してクラッチする。
「くっ!」
 咄嗟に、耕一は腰を落として左脇に密着している頭部を左腕で抱え込んだ。
 観客席から低い、唸りのような声が沸き上がった。
 耕一が中條にヘッドロックをかけているこの状況。
 中條が頭を抱え込まれながら耕一のバックに回って腰に手を回しているこの状況。
 この状況が、中條が耕一にバックドロップを仕掛けんとして作り上げた状況であるこ
とを観客の多くが悟ったのだ。
 先程、もどきとはいえバックドロップに極めた似た形の投げを喰らった元プロレスラ
ー中條辰が、意地でも耕一をバックドロップで投げてやろうとしているのを皆、悟った
のだ。
「中條ォォォ!!」
 客席から幾つか生じたその叫び声は、きっと中條がプロレスラー時代だった頃からの
ファンのものだろう。

 いいね、いいねえ。
 客が沸いてきたじゃねえか。
 こりゃ、なんとしてもこいつをぶん投げねえとな。
 だけど……こいつ、頑張りやがるな。
 この体勢まで持ってくれば、後はパワーだけで投げられると思ったんだが。

 頭に、衝撃が来た。

 ぐっ!
 きついのくれるねえ……。

 耕一が左腕で抱え込んだ中條の頭部に、右のパンチを当てていた。テンプルを立て続
けに殴った。
 一発……二発。
 五発……十発。
 殴られ続けている。
 殴られ続けながら体勢は崩さない。
 しかし、もはや耕一の腰に巻き付いた中條の両腕の力は徐々に弱くなっている。
 ここは思い切り強く……。
 耕一が右腕を大きく振り上げた。
「!!……」
 腰に強力な圧迫を感じて耕一は目を見開いた。
 今の位置では中條の顔は見えない。
 だが、おそらくは笑っているのではないだろうか。
「ぬうん!」
 中條の声とともに、耕一の両足はマットを離れていた。

 持ち上げちまえばこっちのもんだ。
 へそで投げるつもりで後方に投げる。
 でも、ただ倒れ込むんじゃないぞ。
 背を曲げて、胸を反らして、ブリッジをするように落とす。
 そう、投げるというより落とす。
 プロレスの試合ではそんなに使わない投げ方だ。頭の落ちる角度が急過ぎて首がやば
いからな。
 相手に大怪我させちゃやばいからあんまり試合じゃ使わないが、こういう危ない投げ
方だってできるんだぜ。
 これはプロレスの試合じゃねえから遠慮なく行くぞ。
 高原さんに教えられた通りに──。
 落とした。

 持ち上げられた時点で、耕一は足掻くのを止めていた。
 これほどのパワーだ。下手に動くより受け身をしっかり取った方がいいと判断したの
だ。
 マットに落ちる瞬間、両手でマットを叩き、顎を胸に押し付けるほどに引いて後頭部
がマットに当たるのを避ける。
 何度かテレビで見たプロレスの試合でバックドロップがどういった形の技かはわかっ
ている。おそらくはこれで大丈夫なはずだ。
 頭がマットに向かって落ちる角度が思っていたよりも急角度であるということに耕一
が気付いた時には頭が直角に近い角度でマットに向かっていた。

 落ちた。
 落とした。
 わっ、と会場全体が沸騰するような歓声に満ちる。
 
 効いた。
 後頭部を両腕で抱え込んで、耕一は頭への痛みに耐えていた。
 ほぼ直角に近い角度で落ちたために、顎を引いたことがさしたる効果を及ぼさずに、
思い切り後頭部をマットに打ち付けてしまった。
 明らかに、自分がプロレスの試合で見た投げ方ではない。
 効いた。
 頭がクラクラする。
 が、そんなことばかりもいっていられない。すぐにグラウンドでの攻防へと頭を切り
替えねばならない。
 一瞬とはいえ、意識が飛んでしまった。それにより出遅れてしまった以上、まずは防
御に回ることを覚悟せねばならない、下になっても、三角絞めや腕ひしぎなど、幾らで
も反撃するチャンスはある。
 耕一が警戒しながら身を起こした時、中條は寝ていた。
「ん?」
 耕一はその顔を注意深く見た。もしかしたら「死んだフリ」ではないかと疑ったのだ。
しっかりとある程度の距離は取っている。
 中條がやがて目を開けた。
 どうやら「フリ」ではなかったようだ。
 バックドロップを敢行する前に頭に貰ったパンチが効いていたらしい。
 それほどに効いていながら投げたのだ。
 バックドロップという技に執着したのだ。
 中條がゆっくりと身を起こす。
 二人の距離は蹴りの間合いである。二人して膝立ちになっているこの状況では間合い
の外といっていい。
 双方、互いを警戒しながら立ち上がる。
 立ち上がる時、自然と、耕一の口から出ていた。
「……あんた……プロレスがやりたいんじゃないのか?」
 本当に、ごく自然にそれが出ていた。
「……」
 中條は一瞬だけ呆然としてから、微かに笑った。
 レフリーが二人に試合再開を促す。
 中條は前に出た。
 耕一は後ろに下がった。
 この試合で初めての耕一の後退であった。
 足下がおぼつかない。後頭部への強打で起こした脳震盪から完全に回復していないの
だ。
 行ける。
 中條は前に出た。
 もう一度──。
 ぱん、と耕一の軽いジャブが顔に入る。
 左が二回入った。
 そして右のストレート。
 中條の頭が沈んだ。
 瞬きする間に、耕一のバックへ回る。
 もう一度、バックドロップ。
「っ!」
 中條の目の前に耕一の目があった。
 相手の脇に頭を差し込もうとして前のめりになっていた中條の額に、耕一の額が当た
っていた。
 互いに、額で押し合うような形になっている。
 こいつ!
 脳震盪を起こしながら、おれの動きについてきている!?
 中條が耕一からほんの少し距離を取ってその周りを回ったのに比べて、耕一は体の位
置はそのままで向きを変えただけであるという有利さはあるにせよ、あの形のバックド
ロップで後頭部を叩き付けてやった直後の人間がこれほど素早い動きをそうそうできる
ものではない。

 こいつ……。
 なんだ……。
 目が……。
 気のせいか?
 こいつの目、一瞬、真っ赤に見えたような……。

 中條の背筋を悪寒が縦断していた。
 背中が引き裂かれるような悪寒。
 下方から、それは来た。
 顎に物凄い衝撃を受けて、中條は天を仰いだ。
 耕一が右のアッパーを放ったのだ。
 天井が見えた。
 煌々と照る照明が見えた。
 後屈していた首が自然と前に垂れるにしたがって、視界が天井から移る。
 中條の視界には耕一はいない。
 再び、下方から衝撃。
 再び、首が後ろに倒れる。
 そして、それに引っ張られるように、中條辰の肉体はマットの上に、大の字になって
寝転がった。
 アッパーを打った耕一がすぐに中條に近づき、その後ろに倒れた頭部が戻ってくるの
に合わせてほとんど真下といっていい角度から蹴りを放ったのだ。
 それで顎を突き上げた。
 レフリーがダウンカウントを数える間、耕一は腰を落として頭を振ったり、頭を軽く
掌で叩いていた。
「テン!」
 その声が、耕一の腰をマットに落とさせた。
 その場に座り込んで深呼吸をする。
 試合場の下にいる師の伍津双英が軽く頷くのが見えた。
「七分十九秒、ノックアウトで柏木耕一選手の勝利です」
 そのアナウンスを聞きながら耕一は立ち上がった。中條の方も意識を取り戻して、担
架を拒否して自分の足で立ち上がっているところだった。
 試合場から下りた耕一は、双英に軽く頭を下げた。
「ふう……手こずりました」
「よくやったな」
 という師の言葉に、耕一は驚かずにはいられなかった。かつてアメリカでプロレスラ
ーと闘ったことがあるという双英は試合前、
「プロレスラーというのは、確かに肉体は鍛えに鍛えてあるが、こういう闘いはあまり
上手くない。さっさと決めてしまえ」
 と、いっていたので、手こずってしまったことを怒られるかと思っていた。
「いい忘れておった」
「はい」
「プロレスラーの中にも、強い人間はいる。こういう闘いもな」
「……はい」
「……あの中條というのは、強い奴だったな」
「……はい、そう思います」
 ようやく脳震盪が収まってきた頭を掻きながら、耕一はいった。

「いい試合だったな」
 中條辰は控え室で、シャワーも浴びずに椅子に座って下を向いているところへ声をか
けられた。
 上方から降ってきた声の主を見んと、顔を上げた中條が驚愕を面に表す。
「相手は強かったな」
 その人物は、三十半ばと思われる男だった。
 中條はその男をよく知っていた。
「でも、お前も強かったぞ」
 太い腕が、ぶん、と唸って中條の肩を強すぎるほどに叩く。
 デビュー戦のバトルロイヤルの後も、この人に、こういう風に肩を叩かれたことを中
條は覚えていた。
「デビュー戦で物怖じしないで先輩に思い切りぶつかっていけるなんて、そうそうでき
ることじゃない。お前、見所あるぞ」
 そういって、思い切り強く、肩を叩かれたのだ。
 心地よい痛さだった。
 そして、今、肩に生じているそれも……。
「来てたんですか、高原さん」
 中條の声が湿り気を帯びていた。
「ああ、お前が出るというんでな」
 と、かつて新国際プロレスで中條の先輩であった高原はいった。
「強くなったな」
「……ありがとうございます」
 新国際プロレスで一番自分に目をかけてくれたのが高原だった。
 高原は中條に自分が持っている技術を惜しげも無く教えてくれた。
 そしてある日、いったのだ。
「強くなれよ……そうだな、お前にはおれの引退試合の相手をしてもらっておれに引導
を渡して欲しいもんだな」
 と。
 強くなろうとした。
 おれが強くなれたのは、あなたのおかげなんです。
 そういいたくなったが、なんだか照れ臭くていえなかった。
「中條、実はお前の試合を見に来ただけじゃないんだ」
「何か他に用ですか?」
「お前をスカウトしに来たんだよ」
「え?」
「おれが今、RRにいることは知っているだろう」
「はい」
 それは聞いていた。高原は今、新国際を辞めてRR、通称ダブルアールといわれてい
るレスリング・レボリューションという団体に属している。
「中條、お前プロレスに戻って来い」
「……」
「社長も、お前をうちのリングに上げることには大賛成だ」
「……」
「来い、おれとシングルマッチをやろうじゃねえか!」
 また、強く肩を叩かれた。
「おれと、高原さんがシングルで……」
「そうだ。もうほとんどそのカードは決定だ」
「おれ……」
「来てくれ、中條」
 高原が、中條に向かって頭を下げていた。
「今日の試合を見て思った。お前は戻ってくるべきだ」
「……お願いします……」
 その高原よりも低く頭を下げて呟くようにいっていた。
「お願いします。お願いします。また、高原さんと一緒に練習したいです。高原さんと
試合がしたいです。お願いします……お願いします」
 声に、嗚咽が混じっていた。
 震える肩を、また、強く叩かれた。
 心地よい痛みが、中條の肩を走った。

                                     続く








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