鬼狼伝15












     第58話 差

 英二の顔に風が吹き付ける。
 あろうことか、油断をするとは。
 しかも、この相手に対して。
 今のをかわせたのは奇蹟だ。、本来、一瞬でも気を抜いたら即座に叩き潰されるよう
な相手なのだ。
 柏木耕一……。
 後ろに下がって右ストレートをかわした英二を追撃はしてこない。パンチを打った場
所で停止している。
 英二の様子をうかがっている。
 まさか……。
 英二の中にある考えが芽生える。
 まさか、英二が試合開始をしたにも関わらず呆然としていたので当てるつもりのない
パンチを打ったのか?
 ……そんな馬鹿な。
 ……いや、あり得る。
 そもそも、気が抜けているような相手にいきなり容赦の無い一撃を喰らわせるという
非情……いや、当然な行為すらやらないような男だ。
 優しい。
 否、甘いのだ。
 そう思った途端に、英二の全身が軽くなる。
 指の先にまで、爪先にまで、固くない、柔らかい力が満ちる。
 行ける。
 年齢的にも体力的にも技術的にも、全ての面で耕一が自分を上回っているが、付け入
る隙はある。
 自分はこの青年を怖がっているが、この青年は自分を怖がっていない。
 そこに、一筋の活路を切り開くことができるのではないか。
 英二はすり足で前に出た。
 耕一も出てきた。
 牽制の左ジャブを放つが、耕一はそれに少しも気を取られた様子は無い。当てるつも
りの無い攻撃であり、当たっても大したことは無いということを熟知している。
 双方、間合いのギリギリのラインにいる。
 手足のリーチは僅かに耕一の方が勝っているが、それほどに大きな差でもない。
 また、ジャブを打つ。
 耕一は微動だにしない。
 英二の左手にはめられたオープンフィンガーグローブは耕一の面前で一瞬だけ停止し
てすぐに戻っていく。
 一歩……いや、二歩踏み込まねばパンチは当たらない。
 行くか……いや、ここは少し下がって様子を……。
 思考から決断、そして行動へ。
 その一瞬の間に耕一の右足がマットから離れていた。
 キック!?
 ハイか、ミドルか、ローか!?
 膝の上がり方、彼我の距離からして、ミドルであると英二は判断した。
 足の付け根の部分とほぼ同じ高さのミドルは、三種類のキックの中でも最も遠くまで
届く攻撃だ。今の距離ではハイ、ローは当たらないか、当たったとしても爪先がかする
ぐらいであろう。
 果たして、右のミドルキックが来た。
 英二はそれを左腕で抱え込もうとする。
 抱え込んで、軸足の左足を刈って倒す。定石といっていいほどにオーソドックスなテ
イクダウンの奪い方といえる。
 耕一の右足が英二の左脇腹へ吸い込まれるように到達する。
 瞬間、英二の左腕がその足を抱え込もうとするが、
「うっ」
 英二の口から呻き声が漏れていた。
 耕一のミドルキックの威力が予想を遙かに上回っていた。受けた脇腹に激痛が走る。
 なんとかそれを堪えて足を抱え込んだが、気付いた時には耕一の右拳が迫っていた。
 右足を抱えられたまま、上半身を前に倒して、それに乗せるように右ストレートを放
ってきていた。喰らったらタダでは済むまい。
 英二は顔を横に逸らしてかわした。
 耕一の右腕が、風を生んで頬をかすめていく。
 今のをかわせたのは偶然に近い。
 そして、かわせたからには、耕一が向こうから近付いてきてくれたこの状況は好都合
だ。
 耕一の頭の後ろに右腕を回して抱え込み、軸足を後ろから刈るのではなく、正面から
膝の下の辺りを押す。
 押して足を刈って倒すのではなく、引いて足を押して倒す。
 だが、そうやって引き込んで倒すと、そのままでは自分が下になってしまうので、倒
しざま、体を入れ替える。そして、入れ替えると同時に、相手の足を抱え込んだこの状
況ならばアキレス腱固めを極めに行く。
 サンボや柔術に見られる型だ。
 どのような形であれ、いかに相手を一回転させようとも、相手を背中から落とさねば
ポイントにならない柔道には無い型である。
 投げを主体にした柔道に比べて、投げという行為を、相手を倒すための「途中経過」
と見なしているサンボや柔術には投げと、相手を倒した後の関節技が一体となった型が
多いのである。
 サンボが柔道に大きな影響を受けた。といわれると同時に、むしろ柔術の影響の方が
強いのではないか、ともいわれる所以である。
 そして、英二が目論んでいるのはサンボにより近い動きである。そもそも、アキレス
腱固めというのはサンボの技だ。
 その手始めとして、耕一の頭を右腕で抱え込みに行く。
「!……」
 英二の右腕が作った輪の中をすり抜けるように、耕一の頭が沈んでいた。
 まずい、外した!
 どのような動作であろうと、それが相手に外されてしまえば、多かれ少なかれ、その
余波として隙ができる。
 耕一は頭を沈め、そのまま上半身を後ろに倒すのではなく、腰を下方に落とすように
倒れていった。
 右足を抱えた英二の左腕に力がこもる。
 ならばこちらも後ろに倒れ、倒れると同時に右足を耕一の右足の上に乗せて倒れた時
にそのまま足を押さえ、さらに左足をも絡めていって押さえつけ、耕一が体を起こせな
いようにする。
 これをしないと相手に体を起こされてしまい、極まらなくなる。
 アキレス腱固めは、自らの手首を下から相手のアキレス腱に接触させ、脇を上から足
首に接触させ、胸を後方に反らしてテコの原理でアキレス腱を断ち切ろうという技であ
るから、相手が立ち上がり、足の裏がマット乃至は地面についてしまうと極めようがな
い。
 しかもその場合、極められないだけならまだしも、相手に上になられてしまい、不利
になる。
 英二が右足を浮かせようとした瞬間。
 耕一の両手が英二の左足を掴んでいた。
 左手で足首を前から掴み、そして右手で膝の裏を押して倒そうとしてくる。
 向こうの仕掛けの方が早かった。
 だが、後ろから押されている左膝をされるがままに曲げて、それをそのまま耕一の顔
に落として行けそうだ。
 相手に膝を曲げられて落とす、という形であれば打撃技とは認められないはず。
 よし、思い切り……。
 落とした。
 耕一の左肘がそれを受け止めた。
 読まれていたか!
 耕一の左足が英二の左足の付け根の辺りに激しく接触してきた。それと同時に膝の裏
に当てられていた右手が下方に走って足首を捕らえる。
 英二の体が一瞬だけ踏ん張り、一瞬後には後方に倒れていた。
 その際に耕一の右腕が英二の左足を抱え込む。
 双方倒れて背中をマットにつけた時には、

 みちっ。

 微かな音が鳴っていた。
 アキレス腱固め。
「くっ!」
「む!」
 英二も耕一も表情を歪めて、すぐに横に回転する。
 一転、二転、三転。
「場外!」
 レフリーの声が降ってくる。
 二人は、互いに互いの足を解放して立ち上がった。
 英二は左足を──。
 耕一は右足を──。
 それぞれ、何度かマットを踏んで具合を見る。
 二人がアキレス腱固めの掛け合いという状況を嫌ったために近くまで来ていた場外ラ
インへ転がっていくという行動が一致したのである。
 いわば、暗黙の了解の内に行われた仕切り直しであった。
 試合再開後、耕一が前に出た。
 パンチを主体に、時折ローキックを交えて攻める。
 すぐさま英二は防戦一方となった。
「つあっ!」
 何度目かのローを貰った右足が弾けるように浮き上がる。
 前に進み、手を伸ばし、耕一が組み付いて来ようとする。
 英二の上半身が前屈して耕一の左脇をすり抜ける。
 明らかにボクシングの動きだ。
 横につけた。
 右フックを思い切り顔面に──。
 振った。
 ばちん。
 と、鳴った。
 グローブと頬が当たって鳴っていた。
 頬に当てた。
 いや、頬で受けられた。
 英二の胸中に苦渋が滲む。
 顔にある急所の幾つか……。
 顎。
 人中。
 目。
 その内の顎を、英二は狙った。
 閉じられた目をその上から打ってもダメージは与えられるが、なんといっても目標物
が小さい。
 人中も同様で、この上唇と鼻の間にある急所を打つにはグローブをはめていては駄目
だ。素手で、唇を殴るつもりで、中指の付け根の拳頭と呼ばれる部分を当てて行くのが
いい。
 そうなると、やはり顎だ。
 顎を思い切り打てば、首を支点にして頭部が揺れ、脳が揺れ、脳震盪を引き起こすこ
とができる。
 それを狙った顎への一撃。
 それが頬で受けられた。
 完全によけるのは不可能と見るや、頬で受けたのだ。
 顔を横に回転させるだけでは横から顎に当たる。
 顎を引いて堪えるにしても、少しずれれば口に直撃を受けることになる。前述した理
由により、人中にダメージを受けることは無いだろうが、前歯を折られてしまうかもし
れない。
 顎を上げれば喉に直撃。
 結局、耕一は顔を斜め下にずらすことによって頬で受けた。
 そしてすぐに横に回った英二を追って体を横に回す。
 瞬間、英二の右ストレートが疾走する。
 顔面に命中した。
 きれいに一直線に入った。
 どっ、と会場が沸く。
 英二が続けて左のストレートを打った。
 耕一のガードが下がっている。
 これも当たる。
 英二は確信していた。
 その左が伸びていく。
 当たる。
 あと少し。
 当た──。
 当たる寸前で、英二の左拳は停止していた。いや、停止するだけでなく、耕一の顔か
ら離れて行く。
「ぐっ!」
 腹部で何かが炸裂したような衝撃が生じて、英二の思考はぷっつりと断ち切られた。
 体が、一瞬だけ浮いていたことだけはなんとか理解できた。
「おおう……」
 なんとか、息を吐き出す。
 水月だ。鳩尾になんらかの攻撃を貰ってしまった。
 おそらく、いや、間違いない。左右どちらかは知らないが前蹴りだ。
 あの、伸ばしきった左腕でのストレートが届かなかったことから考えて、手による攻
撃というのはあり得ない。腕よりもリーチのある足による攻撃、腹部を真っ正面から突
いてきたことから前蹴りに違いない。
 相手の顔にばかり視線が行きすぎていたので気付かなかった。
 だが、それだけではない、英二の左ストレートに匹敵するほどの素早さだったという
ことだ。
 英二ほどにボクシングをやった人間のパンチスピードと同等の前蹴りを放つのはそう
そう簡単なことではない。
 例え、それが威力よりもスピードを重視した軽い蹴りであったとしてもだ。
 今の前蹴りは、それによって英二に大ダメージを与えようというものではなく、英二
の左ストレートを回避するための攻撃だろう。
 それゆえ軽い、が、さすがに水月に貰ってはそれなりのダメージだ。
 後ろに倒れてしまったためにダウンを取られた。
「大丈夫、やれますよ」
 そうレフリーにいいながら、英二はカウントセブンで立ち上がった。
 耕一が、闘っている最中の人間とは思えぬ穏やかな表情でそれを見ている。

 参ったな……。
 ある程度は覚悟していたものの、まさかここまでとは……。
 まさか、ここまで基礎的な部分で差があるとは……。
 恐ろしい男だ。
 観戦している人間には、英二がほぼ互角に闘っているように見えるだろうが、実際は
そんなに楽観できるような状況じゃない。
 英二は何度かひやりとしたが、おそらく耕一は一度もそのような感覚を味わっていな
いはずだ。
 正攻法で行ったら……勝てない。
 英二の目が細くなっていた。





     第59話 疑惑

 立て続けに三発来た。
 耕一の右ストレートが顔面へ。
 三発とも、ガードした英二の左腕に当たった。
 後退しながら英二は戦慄していた。
 三発貰っただけで、もはや左腕にはほとんど感覚が無い。
 防御にはなんとか使えても、攻撃が駄目だ。強いパンチは打てないし、グラウンドで
関節の取り合いになった時に、相手の手足を掴んで自分が望む方向に動かすだけの力が
込められない。
 柏木耕一。
 飛び抜けて何が上手いというわけではない。
 立ち技も寝技も、攻撃も防御も、これが凄い、というものはない。
 全体的に強い。
 平均的に強い。
 そしてその平均が並みの選手では太刀打ちできぬほどの位置にある。
 そのせいだろうか、耕一は相手に合わせて闘い方を変えるようなところがある。
 立ってやろうという相手には立ったままで応じ、寝技に引き込もうとする相手の場合
は自らグラウンドにやってくる。
 ほぼ完璧といっていいオールラウンドファイターだ。
 英二は、寝技よりは立ち技の方が得手である。
 だが、その立ち技において圧倒的に耕一に押されている。
 第1ラウンドがようやく三分を回ったばかりだというのに、英二の進む先に勝利が全
く見えない。
 粘ることは可能だ。だが、最終的に勝てる気が全くしない。
 どうすれば勝てる──。
 さっきからそれを必死で考えている。
 進むための歩き方、道筋をどう変えれば行く手に勝利が見えるのか、そればかりを考
えている。
 スマートな体からは想像できない重い攻撃を受け、手足に伝わる衝撃に耐えながら。
 鋭利な空気を切り裂くような攻撃をかわし、顔や腹に吹き付ける風を感じながら。
 模索していた。
 暗中で模索していた。
 ほとんど手探りの作業だ。
 これなら行ける、という手段は未だに濃霧の彼方である。
 だが、一つだけ、これでは駄目だ。というものならはっきりとした輪郭をもってわか
っている。
 正攻法。
 とにかく、正攻法で行ったら駄目だ。
 正面から打ち合ったら絶対に勝てない。
 強く、そう思う。
 ならば、それとは逆──。
 絶対に勝てないことの逆はどうだ。
 正攻法とは逆の攻撃。
 それならば通じるか。
 英二は試合開始直後の耕一の大振りのパンチからあることを感じていた。
 ゴングの音に気付かずに呆然としていた英二の意識を呼び戻すかのように当てるつも
りのない大振りのパンチを放ってきた耕一。
 甘い、と思う。
 そこに付け込めないか。
 耕一は、ありとあらゆる、それこそ目突きや金的攻撃をも想定したような闘いの練習
をしている人間である。だが、彼のやった幾つかの闘いを見てみると、その時々の闘い
の「ルール」には忠実である。そして、その上に甘い。
 英二を唯一人の観戦者にして伍津道場で行われた藤田浩之との試合では、あらかじめ
目突きと金的攻撃を禁じることを両者の合意で決定していた。
 耕一も浩之もそれを守った。
 耕一に至ってはそれだけではない。ダウンして一瞬意識を失った浩之が立ち上がって
くるのを待っているような場面が何度かあった。
 倒れた浩之に蹴りを入れるのも、馬乗りになって殴るのも、関節を極めに行くのも、
その時のルールには反していない。そこで追撃していればあの闘いはルールを守った上
でもっと手っ取り早く勝利を手にできたはずだ。
 それをしなかった。
 藤田浩之という男の気持ちに応えたのだろう。
 だが、あの時は浩之の方もルールを守り、闘いの途中からは耕一に尊敬に似た感情す
ら抱いているようであった。
 殴り合いながら、蹴り合いながら、確かにあの時、二人の間に着々と信頼関係が築か
れていった。
 だが、どうだ。
 ここで、その耕一が思いもよらない攻撃をしてくるような相手だったらどうなのだ?
 いきなり、ルールで禁じられている攻撃をされたら、この男は対応できるのか?
 どうなんだ。
 突然、そのようなことをされたら、この人の好い男は崩れるのではないか?
 そこに一気に付け入って倒すことは可能か?
 英二の頭の中で幾多の思考が絡み合い、渦巻き、形を変えていった。
 耕一は英二と距離と取っていたが、やがて自ら前に出てきた。
 右のストレートを軽く放ってくる。
 左足が前に出ていた。しっかりとマットを踏みしめて右ストレートに威力を与えてい
る。
 その足への攻撃を警戒している様子は無い。
 双方スタンディングでの足への攻撃は大雑把に分けて二つ。
 ローキックで相手の足を蹴る。
 乃至は、足にタックルで食らい付いて倒す。
 耕一は特にそのどちらも警戒している様子は無い。
 ローキックならば一発ぐらい貰っても大したことないと思っているのだろう。
 タックルに来られてもそれは直接的なダメージにはならない。ただ、そのまま倒され
た時にグラウンドで相手に有利なポジションと取られてしまうかもしれない、という程
度のことであり、おそらく、タックルを喰らってもそう簡単には倒されないという自信
と、倒されて有利なポジションを取られてもそれをひっくり返す自信があるのだろう。
 英二は、数発のパンチを打ちながら思う。
 この柏木耕一という男の強さの一因がここにある。
 絶大といっていいほどの自信だ。
 気負っていない、自然体の自信だ。
 リラックスした体に満ちた自信である。
 リラックスしているから、攻撃も防御も固くならない。
 自信があるから、攻撃も防御も迷わない。
 固くならないから、自信が持てる。
 迷わないから、リラックスしている。
 それに比べて自分はどうだ。
 固くなっている。
 迷っている。
 そんな攻撃が、この男にクリーンヒットするものか。
 固くならずに、柔らかく──。
 迷わずに、決めたことを真っ直ぐに──。
 行くか。
 行こう。
 狙いは、次に耕一が右ストレートを打った時だ。
 上半身を右下の方向に振ってパンチをかわして、そのまま体の左側面を向けて、左足
で……。
 ぱん、と耕一の軽い左ジャブが英二の右腕に当たる。
 ぱん、ともう一発。
 来るか?
 次辺りに来るか?
 来るような感じだぞ。
 左のジャブを二発小刻みに打った後に右ストレート。
 耕一は今までにもそのパンチコンビネーションを見せていた。
 左足がマットを踏む。
 やや後方に引かれた右肩が次に来る攻撃の正体を英二に教えた。
 今だ!
 英二の上半身が右回しに、下方に向けて回転する。耕一の右ストレートが唸りを上げ
て後頭部から僅かに離れた空間を貫く。
 かわした。
 しかも、紙一重といっていいギリギリのところでかわすことができた。
 耕一の左足は踏ん張っている。
 右ストレートを打つための重心移動により、右足よりも、左足の方により多くの体重
がかかっているだろう。
 今だ!
 英二の左足が浮き上がった。
 そして、耕一の左足に蹴りを打ち込んでいく。
 横から振り回すように膝の横、若しくは、膝の裏を叩いていくのではない。
 曲げた膝を伸ばす屈伸運動によって足の裏、特に踵の辺りで蹴り抜くように蹴る。
 それを、耕一の膝へ──。
 不動のマットと体重の半ばに挟まれた状態の膝へ──。
 曲がらない方向に曲げるために──。
 蹴った。
「ぬあっ!」
 耕一が声を上げる。
 関節蹴り。
 重心を支えた状態の足の膝へ、正面か、それに近い角度から蹴りを打ち込む。
 危険技である。
 膝関節を破壊する。
 場合によっては、その先、死ぬまでずっと膝が満足に動かなくなることすらある。
 エクストリーム・ルールでは、ヒールホールドなどとともに禁止技になっている。
 だが、角度が微妙だ。レフリーが反則を取るかどうか?
 それは賭けだった。
 それに、反則を取られるにしても、レフリーがそれを認識して試合を中断させる指示
を出すまでに僅かだが時間がある。
 その間に……一気に──。
 その時、耕一の左膝に与えたダメージはそれほどではないだろう。
 靱帯も切れていないはずだ。
 英二が思い切り蹴っていないからだ。
 ここでこの青年の足を使いものにならないようにするのは本意ではないし、それに、
なんといっても今の蹴りにさらに威力を与えるにはモーションを大きくせねばならなか
った。
 それをすることで、耕一に時間を与えてしまうのを嫌った。
 耕一が左足を動かしてかわしてしまうことも考えられたし、ストレートを打った右腕
を戻すとともに曲げて、それで自分の頭を抱え込んで来ることも考えた。それをされれ
ばバランスが崩されて狙いが正確さを欠く恐れがあった。
 その辺りの利点と欠点のバランスを英二なりにはかった結果が、今の蹴りであった。
 これ以上遅れてはかわされる、耕一に次の行動を許してしまう。
 その限界のスピードで、そして威力のある蹴り。
 それを放ったつもりだ。
 そして、それは耕一の膝に大ダメージを与えるには至らなかった。
 だが、主目的はほぼ果たした。
 耕一の顔が驚いていた。
 痛みのせいではないだろう。
 確かに膝に激痛は走っただろうが、おそらくそれのせいではない。
 知っている人間である英二が、試合前に握手を交わした英二が、今まで普通に闘って
きた英二が、突然あのような反則技をやってきたことに驚いているのだ。
 英二さん、何をするんですか?
 そう、問い掛けたそうな顔をしていた。
 人の好さそうな顔だ。
 そうやってぽかんとしていると本当に好青年という感じだ。
 青年。
 もうしばらく、もう一秒だけでいいからそういう顔をしていてくれよ。
 関節蹴りに使った左足をマットに下ろす。
 ただ下ろすだけではなくて、踏み込む。
 それで、至近距離から右ストレートで顔面を打ち抜く。
 左足でマットを踏みしめ、腰を回転させ、その回転に右腕を乗せて──。
 打った。
 顔面のど真ん中、鼻っ柱に行った。
 予想よりも遙かに強い抵抗が右腕を伝わる。相当に首も鍛えてあるようだ。
 だが、打ち抜く。
 そして、続けざま左のストレート。
 だが、耕一は素早くそれをかいくぐって密着してきた。腰に両手を回してクラッチす
る。
 攻めきれなかった!
「待て!」
 レフリーがそういって二人の間に割って入ったのはその時だった。
「今の蹴り、膝にまずい角度から入っただろう。次やったら注意を与えるぞ」
 先ほどの関節蹴りを見咎めたようだが、どうやら、故意だとは思っていないらしい。
「はい、すいません」
 英二は軽く頭を下げた。
「君は大丈夫か?」
「はい、大丈夫ですよ」
 レフリーの問いに耕一が涼しい顔で答える。だが、実際は少なからずダメージを受け
ているはずだ。
「悪かったな、柏木くん」
 英二が、いった。
「いや、大丈夫ですから」
 にこりと笑った耕一も、先ほどのあれを偶然の産物だと思っているらしい。
 英二は、少しほっとして、レフリーに促されるままに中央線に戻った。
 その背中を見ながら耕一は、
「まさかな……」
 小さく、呟いていた。





     第60話 穏やかに

 試合再開後、英二の瞳に映る耕一は、穏やかな表情をしていた。
 柔らかい。
 だが、筋が通って張っている。
 そんな感じの表情だ。
 穏やかに、暖かさすら漂わせて、耕一の表情が近付いてくる。
 格闘家が相手の攻撃の先を読むのは既に以前より一つの技術として確立している。こ
れができるのとできぬのでは雲泥の差だ。
 手の位置、足の運びから次の攻撃を読むのは当然として、相手の目線からどこを狙っ
ているのかを読んだりする。
 今では、それを逆手に取ってチラリチラリと相手の足を見ながら、突然、それまで全
く見ていなかった顔にパンチを打ち込むようなフェイント技術もある。
 そして、相手の殺気や闘気を感じて先を読むことも可能である。
 これは非常に感覚的な領域に属するので技術と呼ぶほどにはその体系が確立されてい
ない。  
 サンドバックを幾ら叩いても身につかない能力だ。
 何度も実際に血肉を持った人間と闘わねば得ることのできない能力だ。それも、相手
が知った顔ではあまり効果は無い。その日初めて顔を合わせるようなほとんど未知の人
間とやり合ってこそだ。
 そいつの得意とする技は?
 そいつのスタミナはどの程度か?
 そいつのファイトスタイルは?
 その辺りのことは試合前の情報収集で知ることができるが、その情報を元に構築した
予想通りの動きを相手がすることは無いといっていい。
 結局、そのような知識は頭の片隅に置きつつ、その場その場で対処していくしかない。
 そういう闘いを幾度も繰り返すことによって、中には相手の次の攻撃を感じることに
よって読める人間が出てくる。
 一つの才能だ。
 英二も、その手の能力には恵まれているつもりだ。
 だから、感じようとしている。
 その英二に向かって耕一が前進してくる。
 闘気を全く感じさせない穏やかな表情のまま前進してくる。
 読もうとする。
 感じようとする。
 だが、感じられない。
 読めない。
 耕一の右手が少し動いた。
 その手で握手を求めてくるのではないか?
 そんな錯覚が英二を捕らえる。
 耕一の表情が穏やかなまま──。
「!!……」
 来た。
 確かに、耕一の方から闘気が来た。
 右ストレート……速い。
 その時、耕一の表情は引き締まっていた。
 英二は身をよじるようにしてなんとかかわす。
 先ほどから、この類の直前まで闘気を感じさせぬ攻撃に悩まされている。英二も、な
んとか感じ取ろうとし、手足の位置などでも読もうとするのだが、耕一は思わぬ姿勢か
ら思わぬ攻撃を送り込んでくることがある。
 耕一と浩之の闘いを英二は思い出していた。
 闘気をむき出しにして耕一に襲いかかる浩之。
 観ている英二にすら感じられる闘気。
 そんな浩之に耕一はいった。
「むき出しの闘気は忌むべし」
 なんでも、耕一が学んでいる伍津流の心得らしい。
 耕一は、インパクトの一瞬にだけ闘気が出る。だから、それで攻撃を読むのは難しい。
 穏やかな表情で、ゆったりと近付いてきて、瞬時に攻撃を叩き込む。
 耕一の攻撃を読むのは非常に困難だ。
 英二は、それで耕一の攻撃を読むのを諦めた。
 おれも、同じことをしてやろう、と思った。元々、英二もそういうのは得意な方だ。
 英二の表情は、穏やかなものに変わっていた。

 試合場の下で耕一のセコンドについている伍津双英は彼の弟子の闘いを静かに見守っ
ていた。
 なにも口は出さない。
 あの青年は突然やってきた。
 伍津は戦後間もない頃に、やくざの用心棒などをやっていた男だが、幼少の頃より学
んでいた空手がその戦闘スタイルのベースになっており、ある男に敗北を喫して後、用
心棒をやめた。
 既にそれ以前から彼は喧嘩──闘うこと自体に快感を覚えていて、近い内にその稼業
から足を洗おうと思っていた。その喧嘩も「商売抜き」のものであった。
 危険な用心棒稼業をやりながら生き抜くために行った鍛錬が、純粋に空手をやってい
た頃の気持ちを呼び起こしてしまった。
 それに引っ張られて心身を搾るように行った鍛錬によって得た肉体と技が、同じよう
に鍛えられた肉体と技との競い合いを求めていた。
 彼は飲み屋や賭場の用心棒にしては強くなりすぎた。
 素手で双英に勝てる人間はいなかったし、ナイフや段平を持ち出してきてもなんとか
撃退した。
 銃だけはまずかったがそんな時はさっさと逃げた。
 だが、結局、その仕事の過程で満足できるような闘いはできなかった。
 素手。
 一対一。
 ルールは……緩い方がいい。怨恨が無ければ目をえぐることと噛み付くこと、その程
度を禁じておけばいい。
 そんな闘いをやってみたい。
 そう思って時々、彼を雇っていた組織には内緒で旅の武道家などと立ち合うことがあ
った。
 そしてある日、負けた。
 絶対にそいつを倒してやることを誓った。
 誓った翌日にそいつは遠方に発っていて、何も考えぬままそいつを追った。
 結果的に、それが足を洗うきっかけになった。
 伍津はそのまま日本中を回って各地の武道家と立ち合い、その技術を学ぶと同時に、
自らの経験を元に一つの格闘術を作り上げることに情熱を賭けた。
 とにかく──。
 素手。
 一対一。
 できる限り緩いルール。
 それを想定して考え、錬磨し、作った。
 五人ほど弟子を取った。
 やがてその弟子たちに日本各地で道場を開かせた。
 その時、伍津流、と名乗った。
 その際、双英は伍津流を無理に教えることを強制しなかった。完全にそれだけを、と
なると入門者が現れないことはわかっていた。
 それが二十年前のことだ。
 そして……十年前。
 道場の一つから、選手をある大会に出場させると連絡が来た。てっきりどこかの空手
流派のオープントーナメントかと思っていたが、そうではなく、打撃も寝技もあるルー
ルでの試合だという。
 それで、その伍津流の選手が優勝した。
 双英が、その打撃も寝技もある試合形式が「総合格闘」などと呼ばれているらしい、
ということを知った時、ある格闘技雑誌から取材が来た。
 インタビューにやってきた記者から最近、一部で人気が出始めている「総合格闘」と
やらの詳しい話を聞いて双英はいった。
「なんだ……それなら三十年以上前からうちがやっている」
 と。
 伍津流の選手が様々な総合格闘の大会で活躍し、各道場に入門者が増える中、双英は
弟子たちに全てまかせ、かつて五人の弟子とともに汗を流した道場で一人、体を動かし
て、時折、雑誌の取材を受けていた。
 そんな一人の道場に、その青年はやってきた。
 やがて青年は六番目の直弟子になり、週末になると道場にやってくるようになった。
「実戦的なのがいいと思ったんで」
 何故? 伍津流なのかという問いに青年は答えた。
 この青年が何を目的にして格闘技を学んでいるのかを、双英は朧気に知っていたが、
正直いってそれはどうでもよかった。
 問題なのは、その青年──柏木耕一が素晴らしい素質を持っているということだった。
 教えることをすぐに吸収する。
 そして、あの若さで「むき出しの闘気は忌むべし」という心得を実践してしまうこと
には双英は驚嘆したといっていい。
 双英はかなり早めにそのことに気付いていた。
 緊張感のみなぎる真剣勝負では、やはり自然と人間の感覚が研ぎ澄まされて闘気或い
は殺気を感じ取る能力が増すように双英は思った。
 その感覚を意識して鍛えている内に、それならば、こちらのそれを隠すことが有効な
のではないか、と思い付いた。
 だが、まだ若い双英にとって、闘気を抑えることは困難であり、彼がそれに本気で取
り組み始めたのは三十も半ばになってからだった。
 耕一はそれだけではなく、身体能力もずば抜けている。
 無理な姿勢からの攻撃も難なくこなす。
 今も、双英の視線の先で、耕一の蹴りが放たれていた。

 行けると思った。
 こっちも闘気を限界まで隠して、穏やかな表情で、打ち合いにいった。
 一気に決めようとしたのか、耕一が放ってきた大振りの右フックをかわした。
 耕一が勢い余って回転して背中を向ける。
 後頭部にパンチを当てられる。耕一がパンチを喰らいながらも振り返ったらすぐに腰
へタックルに行く。
 振り返った直後に密着していけば、下方は視界の外だ。
 行ける。
 その時──。
 ざわっ、と来た。
 闘気が、耕一の方から来た。
「うっ!」
 本能的に身を仰け反らせた。
 腹部に何かが突き刺さった。耕一の左足であることを理解した時には後方によろめい
ていた。
 こちらに背中を向けたまま蹴ってきたのか。
 あの体勢、あの姿勢から蹴ってきたのか。
 まさか、その前の大振りの右フックは”囮”か?
 後ろによろめいた英二を耕一が追撃してくる。
 右のミドルキックが英二の左脇腹に炸裂する。
 ごふっ、と空気が口から漏れる。
 だが、まだ行ける。
 両手でその右足を抱えて引きずり倒す。
 倒して、すぐにアンクルホールドを極めに行く。
 耕一が左足で右手を押し退けようとする。片手ではアンクルホールドは極まらない。
 アキレス腱固めに移行──。
 だが、それを察知したのか耕一は右足を激しく動かして極めさせまいとする。
 耕一の右足の先が足の裏を外側に向けて脇腹と脇の下の間辺りに接触した時、英二の
左腕が反射的に動いていた。
 踵を、腕で抱え込む。
 そして、そのまま踵を内側に捻る。
 ヒールホールド。
 踵をテコの原理で捻ることによってその先の膝関節を捻って破壊する関節技である。
「くっ!」
 絶妙の極まり具合だったのだが、英二はそれを解いた。ついつい極めにいってしまっ
たが、エクストリーム・ルールではヒールホールドは禁止されている。
 全く「遊び」の無い膝関節を横方向に捻るこの技は非常に危険である。
 モタモタしている内に、耕一に上になられてしまった。
 のし掛かって来ようとする耕一と自分の上半身の間に、自分の両足を入れて距離を取
る。
 不用意に前にのめってくれば、両足で片足を絡め取って倒して膝十字固めに持ってい
ける。
 だが、耕一はすぐには出てこずに、自分を押し退けようという英二の両足を抱え込も
うとしていた。
 英二は素早く激しく、そして計算の内に両足を動かしながら距離を取り、やがて立ち
上がった。
 立ち上がる時にタックルで食らい付いてくるかと思ったが、それはなかった。
 耕一は悠然と立っている。
 英二が立ち上がった時には、悠然と構えていた。
 余裕だな。
 英二は苦笑したい思いを抱きながら構える。
 ふと、さっき、ヒールホールドで思い切り捻ってやればよかった、などと思う。
 反則負けになったかもしれないが、一矢報いることができたのではないか。
 ……。
 頭を振る。
 打ち消す。
 自分は馬鹿なことを考えている。
 一矢報いて負ける。
 そんなことを考えている。
 一体、なんのためにここへ帰ってきたんだ。
 ボクシングのリング──エクストリームの試合場。
 形状は違うが本質は同じだ。
 どちらも「闘う場所」だ。
 一度去って、また未練がましく帰ってきたこの場所で、自分はなんと弱気で消極的で
馬鹿なことを考えているのか。
 一矢報いて反則負け。
 結局、自分は傷付きたくないのか。
 結局、それまでか。
 結局、自分はここに戻ってくるべきではなかったのか。
 そんなような気が、ふと心中をかすめる。
 自分には、音楽があるじゃないか。
 そんな声が自分を──闘う自分を弱らせようとする。
 駄目だ。
 他にあれがあるじゃないか。
 自分にはこれだけじゃないじゃないか。
 そんな思いは、この場所では不要のものだ。
 この場所で必要とされているのは、そんな心じゃない。
 闘う心。
 まだ、死んでいないはずだ。
 まだ……まだ……。





     第61話 高鳴り

 耕一の右ミドルキックが英二の脇腹を襲ってくる。
 蹴り足を抱え込もうにも戻しが早く、防御をすれば、防壁に使用した左腕に効く。
 後ろに下がって完全にかわすしかない。
 耕一は、時折このミドルキックを放ってくる。
 それ以外では手による攻撃と、それからローキックを繰り出す。
 さすがにハイは打ってこない。仕掛けた後に隙が生じてしまうからだ。しかし、こち
らに隙があれば狙っているに違いない。
 そして、強力なキック以上に厄介なのが両手による攻撃である。
 第1ラウンド前半では、オープンフィンガーグローブを握って、通常のパンチ攻撃だ
けを送り込んできていたが、相当のボクシング技術を持つ英二にはそれのみでは通じぬ
と悟ったのか、掌を開いての掌底攻撃を交えるようになってきた。
 指の付け根には、やや突起した骨があり、拳を握るとそれが顕わになる。
 空手の正拳突きは、人差し指と中指のそれを相手に当てていくものだ。
 グローブをはめて行うボクシングなどでも、基本的にそれは変わらない。
 よって、拳を握ってのパンチには、ある程度軌道の制限が架せられてしまう。
 掌底とは、掌の下方、手首に近い親指の付け根近辺の肉の厚い箇所のことである。
 当然、拳とは攻撃の軌道が違ってくる。
 耕一は、この二種類の攻撃を同時に使い始めたのである。
 時には器用に右を拳、左を掌底にしてそれをワンツーで放ってくる。
 手を開いて両手を伸ばしてくるので、掴みかかってグラウンドへ引き込もうとしてい
るのかと思うと左右の掌での攻撃が来る。
 肘を曲げて位置を変えながら、手首のスナップで主に顎を狙ってくる。
 そんなに強くない攻撃でも顎に貰うのはまずい。脳が揺さぶられて脳震盪を起こして
しまうからだ。
 英二は英二なりに伍津流のことは調べた。
 拳による突きと同時に掌底を使う流派であることは知っていた。
 これは伍津双英の方針であるところの、素手、そしてできるだけ実戦的に、という二
つの条件を加味した結果であるらしい。
 例えば、空の手、すなわち素手を重んじる空手の一部流派では、拳を徹底的に鍛える。
 巻き藁を突く。
 それである程度鍛えられれば、今度はもっと固いものを突く。
 皮が破れても突く。
 多少の流血は気にしない。
 それを繰り返していく内に、その部分の皮膚が硬化する。
 それで殴る。
 流派によっては、拳ができぬ内は一人前ではないとするところもある。
 なぜ拳を鍛えるのか。
 固い拳でなら、より多くのダメージを相手に与えられる。そして自分の拳へのダメー
ジは少ない。
 双英は、素手で闘う以上、拳を鍛えるのも当然としつつも、打った側の手への反作用
のダメージが少なくて済む掌底に注目した。
 だから、耕一が突如やりだしたこの拳と掌底の複合攻撃は決して付け焼き刃ではない。
 彼が学ぶ流派が、元からその二つの複合を技術体系に取り入れた流派なのだ。
「むっ」
 英二はそれをかわす。
 握り拳による攻撃はボクシングのそれであるからその軌道をほぼ完全に読めるのだが、
掌底がやってくる道筋を読むのには苦労した。
 そして、その合間にローキック、ミドルキックが来るのである。
 まずい。
 段々とこちらの手数が少なくなってきている。
 一発出す間に三発出されている。
 パンチスピードでは英二と耕一のそれはほぼ匹敵している。
 だが、耕一の方が攻撃が重いのだ。
 英二のパンチを耕一は体勢をほとんど崩さずに受ける。
 一方、英二が耕一のパンチを受けると、時に体勢が崩れる。
 ガードした腕が弾かれる。
 ガードに使った腕に痺れが走る。
 そしてミドルキック。
 受けると足が浮くことすらあった。
 クリーンヒットを貰わないように今までなんとか凌いできたが、それも結局は敗北を
先に延ばしているだけだ。
 勝利を呼び込む行動とは、悲しいがいえない。
 勝利を呼び込む。
 それにはどうするか。
 ……もう一度、仕掛けるか。
 先程の関節蹴りのように、レフリーが反則と判断するかしないかのギリギリのライン
に賭けた危険な攻撃を行くか。
 それに、この人の好い青年が対応できるかどうか。
 そこに賭けるか。
 混濁する思考を断ち割るように、耕一の右ミドルキックが英二の左腕を打つ。
 それだけで左腕の筋が切れるのではないかという衝撃。
 だが、段々とそのスピードに目が馴れてきていた。
 確かに強烈だ。
 そして、耕一もそれを知っているのだろう、それ一撃でノックアウトしようというほ
どの勢いが感じられる。
 でも、さすがに多用し過ぎだ。
 耕一はリズムに乗って攻撃してくる。
 そのリズムが段々と英二には読めてきていた。
 百発百中とは行かないが、大体の攻撃パターンはわかり始めている。
 だが、それでも正攻法で耕一を一気に沈める自信は無い。
 一気に沈めねば、相手が相手だ。すぐに自分が一定のリズムにはまってしまったこと
に気づき、それを変えてくるだろう。
 そう考えるとチャンスは少ない。
 一回きりか……。
 パンチと掌底が続く。
 そろそろ……。
「シッ!」
 やっぱり、右のミドルキックが来た。
 それを左腕で受ける。肘を曲げて受けるのではなく、ダラリと下方に下げて上腕部で
受ける。
 いいタイミングで読めた。
 これなら、左腕で抱え込める。
 足首を抱え込んでアキレス腱固めに──。
 相手が耕一でなければ、そうするのもいいだろう。
 英二は、左腕で足首をロックせずに、踵を抱えた。
 そして、膝を落としながら右下の方向に捻る。
「くっ!」
 耕一の口から、そんな声が漏れていた。

「立ちヒール!?」
 思わず叫んだ浩之は、緊張の張り詰めた目で英二を見た。
 丁度、浩之の位置から英二の顔を正面から見ることができた。
 英二の目が細く開かれていた。
 その僅かな隙間から、鋭い眼光が覗いていた。

 スタンディングでのヒールホールド。
 グラウンドで仕掛ける場合と違って、一瞬で捻る。
 だが、このヒールホールドという、膝関節を横に捻り切る技は、一瞬でも十分といっ
ていい効果を生む。
 耕一は、反射的に英二のヒールホールドに合わせて体を左に捻っていた。
 それによってダメージは軽減されるが、うつ伏せに倒れてしまうことになる。
 英二が踵に引っかけた左腕を返して、左手で耕一の右足首を掴んでいる。
 レフリーは反則を取っていない!
 そのまま自分も倒れて、ヒールホールドで痛めておいた右膝に膝十字固めで追い打ち
をかける。
 自ら倒れていこうとした瞬間。
 ぐん、と英二の左手にかかる重みが増した。
 耕一の左足が浮いていた。
 英二の唇が微笑を象る。
 右足を捕まえられたこの状況、残された左足でマットを蹴って跳躍し、そのまま左を
蹴り足にして攻撃してくるであろうことは読みの内だ。
 そして、今の耕一の体勢では狙える箇所は限られる。
 とにかく、上半身を狙うのはほぼ不可能と見ていい。
 空中で下を向いているこの体勢では英二の下半身しか見ることはできない。その下半
身の位置から上半身の位置を予想することは不可能ではないが、至難の業だ。
 耕一の左足が、突き出されてくる。
 向かう先には英二の下腹部がある。
 金的よりも上、水月よりも下──筋肉の薄い部分を狙ってきた。
 英二の右腕が余裕をもってそれをガードする。
 蹴りを放つと同時に、耕一の両手がマットについて落ちる体を支えていた。
 だが、無駄なことだ。
 英二の右手が耕一の右足を掴む。
 このまま両手で右足を引っ張れば、マットについた耕一の手も支えきれまい。
 そして、足を引く時に、上半身を倒していって体重をかけると同時に、こちらの両足
を前に出して耕一の右足を挟み込んでロックしてしまえば膝十字が極まる。
「!!……」
 声無き気合が自然と英二の口から迸る。
 耕一の両手がマットから離れる。その際に耕一の体が僅かに上昇していた。
 英二の腰はマットに接触していた。
 両足で、耕一の右足を──。
「っ!……」
 耕一と目が合った。
 両手がマットから離れて上半身が宙に浮いた瞬間、上半身を前方に丸めていたのだ。
両手でマットを押して腰を上昇させ、その時にできたマットと腰の隙間に上半身を潜り
込ませたのだ。
 英二の右足が耕一の右足に巻き付く──。
 左足もそれをしようとするが、耕一の両手によって阻まれていた。
 耕一は、首をべったりとマットにつけている。
「ぬっ!」
 英二の左足が耕一の両手に捕まった。
 耕一の左足が強くマットを蹴る。と、同時に、捕まっている右足の膝を曲げようとす
る。
 右足首を捕らえた両手が上に引っ張り上げられる。
 僅かにだが、英二の上半身が浮く。
 化け物か!?
 浮いた瞬間、思った。
 思った瞬間、ひっくり返されていた。
 うつ伏せにされた。
 だが、右足はまだ捕まえたままだ。
 この状況からの逆転は不可能じゃない。
 足首を捻りに行く。
 おそらく、耕一も自らの手中にある英二の左足首を捻りに来るはず。
 ちらり、と英二が耕一を見た。
 耕一は、左手を横に伸ばしていた。
 何をする気か?
 耕一の左手がやがてマットに着く。
 手首の下辺りを腕と垂直に白いラインが通っていた。
「場外! 両者、中央線へ!」
 上の方からレフリーの声が降ってきた。
 英二の全身から力が抜ける。
 こんなにライン近くまで来ているとは思わなかった。耕一は、それに気付いていたの
だ。しかもあのゆっくりとした手の伸ばし方、余裕が感じられる。
 英二の表情に苦味が走る。
 と、その時、耕一がいった。
「さっきの……ヒールホールドでしたね」
 と……。
「……」
 英二は無言。
「やる気なんですか?」
「……」
 無言。
「いいじゃないですか」
 ぽつり、と漏れていた。
 弱々しい声だった。
「ルールがあるんだから、それを守って闘えばいいじゃないですか」
 弱い声だ。
 英二の眼光が鋭利さを増す。
 賭けが、成功したか──。
 やはり、この青年は「そういう闘い」に対応できないのか。
 技術的には対応できるだろう。
 だが、精神的に対応できないのではないか。
 その疑問から打った賭けだったが、それが成功したか。
 ならば、耕一に勝つことは不可能ではない。
「英二さん……」
 立ち上がった英二に対して、耕一はマットに座り込んだままだった。 
「ルールの中でお互いの技と力を競い合えばいいじゃないですか」
「……」
 立っている英二が、座っている耕一を見下ろしている。
 耕一の顔は、下を向いている。
 心なしか、両肩が落ちているように見えた。
 中央線へと戻っていたレフリーが何をしているのか? といった表情で試合場の隅っ
こで何やら小声で話している耕一と、それを見下ろす英二を見ている。
「おれは……そんな闘いしたくないです」
「……」
 英二は、何もいわなかった。
 何もいわぬまま、英二は身を翻した。
 中央線へと歩いていこうとする。
 背後で、声がした。
「そんな闘い、したくないですよ。ここでは……」
「……」
 引っかかる。
 耕一の言葉が含む何かが引っかかった。
 ここでは……?
 振り返る。
 耕一は顔を上げていた。
 悲しそうな顔。
 寂しそうな顔。
 思い詰めた顔。
 表情全体をどのように表現することもできる。
 だが、その目は──。
 怖い目。
 それ以外の形容のしようが無かった。
「……」
 英二は、胸中に生まれた一抹の不安を無理に押し潰しながら、ゆっくりと中央線へと
歩んでいった。
「おい、君、怪我をしたのか?」
 そういいながら、レフリーが英二と擦れ違って耕一の方に向かっていく。
「棄権するか?」
「いえ、できます」
 耕一は右膝を気遣うように立ち上がった。
「やりたく……ないのに」
 呟いていた。その声は誰の耳にも届いていない。
「人を相手に、そんな闘いはやりたくないのに……」
 既に中央線に戻っていた英二の背中が見えた。
 それを見ながら歩いていく。

 どくん──。

 耕一の心臓が高鳴った。
 一回だけ、大きく強く。

 どくん──。

 と……。

                                     続く







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