鬼狼伝16













     第62話 名曲

 ゆっくりと、耕一が立ち上がり、中央線に向かって歩いてくるのを見ながら英二はそ
の表情を観察していた。
 一見、普通の表情だ。
 だが、違う。
 先程までこの青年は、闘っている最中とは思えぬような穏やかな表情をしていたのだ。
  それが消えた。
 張り詰めた表情をしている。
 怒っている、のではない。
 怒りの成分はほとんどその表情に感じられない。
 何かを怖がっているように見える。
 ゆっくりと、歩いてくる。
 まるで、中央線に達することを恐れるかのようにゆっくりとした足取りであった。
 中央線に達して、試合が再開されてしまうのを恐れるかのようにゆっくりとした足取
りであった。
 ゆっくりと、耕一は中央線にやってきた。
 レフリーが目線を左右に走らせて両者の様子をうかがう。
 英二が構え、少し遅れて耕一が構えた。
「はじめっ!」
 両者の間にあった目に見えぬものが消えた。
 英二が前に出た。
 耕一が前に出た。
 耕一の右足がしなるように走った。
 右のミドルキック。
 英二が素早く前に出て距離をつめる。
 その行動によって耕一の右足の膝が英二の脇腹に当たる。もちろん、その位置ではほ
とんど効力は無い。
 右のショートアッパーを一発当てる。
 左のショートフックを一発当てる。
 耕一の両手が上がって頭部をガードしたと見るや、腹部に右フック。肝臓のある位置
に行った。いわゆるレバーブローというやつだ。
「ぐうっ」
 呻きながら耕一が後ろに下がる。
 英二は一瞬の躊躇いもなくそれを追った。
 左足を踏み込んで右ストレートを放って行く。
 下がっていく耕一の顔面を見事に捉えた。
 耕一の足が僅かに浮く。
 その足へ、右のローキック。
 確かな手応えが英二の右足を伝わる。
 この感じ……しっかりと入った。
 英二の視界のやや上方にあった長身の耕一の顔が、下にと落ちていく。
「ダウン!」
 レフリーがそう叫んでカウントを始めると、場内が沸騰したかのような歓声が沸いた。
 一回戦、元プロレスラーの中條辰をKOしたことにより観客の間で耕一の実力は相当
のものという認識が既に広まっていた。
 その耕一が、ついにダウンしたのである。
 しかも、どちらかというと細身で、ミュージシャンの緒方英二によってだ。
 おそらく……立ち上がってくる、と英二は思っていた。
 チラリと場内に設置された電光掲示板に目をやる。
 第1ラウンドは既に四分を過ぎている。
 カウントセブンの時点で耕一は立ち上がってきた。
 肩が落ちている。
 表情に覇気が感じられない。
 英二は、軽く頷いた。
 思わず、そうしていた。
 やはり、柏木耕一というのはそういう闘いをできない男なのだ。
 先程彼はいった。
「そんな闘い、したくないですよ。ここでは……」
 と──。
 少しの間はその言葉に戦慄した英二だが、試合再開後のそれ以前とは見違えるように
精彩を欠くようになった耕一の闘いを見ればすぐにわかる。
 耕一は、危険技もなんでもありの闘いをすることができる。それは実戦派の伍津流を
学ぶ以上当然であるが、耕一はそれをできない。
 その牙の使い方を知っていながら使えない。
 使うにも、おそらく心の準備が必要であるのに違いない。
 だから「ここでは」という言葉を耕一は使った。
 今日、このエクストリーム大会の試合場でそれを使う心の準備を耕一はしてきていな
いのだろう。
 ならば、勝機はある。
 電光掲示板が四分二十秒に達した時、
「はじめっ!」
 レフリーが試合を再開した。
 残り四十秒……。
 行けるか……。
 先程の耕一の様子から判断して、なんとか行けるかもしれない。
 攻撃にキレが無いのだ。
 最前のダウンは、耕一の右ミドルキックを英二が一気に距離をつめてミートポイント
をずらしてダメージをほとんど無といっていいほどに減少させるとともに即座に攻撃を
送り込んでの結果である。
 実際に耕一をダウンさせたのは右ストレートと、右ローキックであるが、それ以前に
ミドルキックを見切って懐に入っていけたのが最も大きい。そもそも、それが無ければ
攻勢に転じることはできなかった。
 それというのも、耕一が先程放った右ミドルキックに、それまでのキレが感じられな
かったからだ。
 一瞬の間ほどの遅れ。
 そこに英二は付け込んだ。
 迷っている攻撃だった。
 耕一の強さに「迷わない」ことがある。
 迷わないから攻撃に無駄が無い。
 迷わないから防御に隙が無い。
 その耕一が迷っている。
 崩れた──!
 目の前にそそり立つ絶壁──それに一点の穴が穿たれたような解放感。
 それが英二を駆り立てる。
 その穴から垣間見えるものが何かははっきりとはわからない。
 だが、その向こうにあるのがなんであろうと──。
 勝利であろうと、栄光であろうと、そして、敗北であろうと──。
 ようやく穴が空いたのだ。
 行くしかない。
 右ストレートが耕一の顎をかすめる。
 もう少しだ。
 左フックが耕一の頬を叩く。
 今のはきれいに入った。
 左ローキックが耕一の右足を軋ませる。
 見ろ、さっきまで微動だにしなかった男がよろめいているじゃないか。
 ワンツーを立て続けに顔面に当てていく。
 左──右──入った。
 手によるガードが全然間に合っていない。
 渾身の右ストレート──これも入った。
 側頭部へ右のハイキック。
 これも行けるのではないか。
 今まで、耕一相手には怖くてハイキックは打てなかった。外した場合に生じた大きな
隙をつかれるのを嫌がったからだ。
 だが、このリズム。
 いいリズムだ。
 口笛の一つも吹きたくなるような小気味いいリズムで繰り出す攻撃が、悉く当たる。
 英二の胸中に熱いものが生まれる。
 とてもいい音を出す打楽器を楽譜など見ずに、アドリブで叩いて即興で作った曲が思
わぬ名曲になってしまったような感動にそれは似ていた。
 行ける。
 ここで右ハイだ。
 それを出すのが一番いい。
 直感が告げていた。
 ここで右ハイキックを打つことによってこの一連の「名曲」はよりよいものになるの
だ。
 行くべきだ。
 右足を高く上げて──。
「!!……」
 右膝を上げて、蹴りを耕一の頭目がけて打ち出さんとした時、英二の目が開かれてい
た。
 声を出さずに叫んでいた。
 英二の視線は、耕一のそれと真っ向から合っていた。
 獲物を狙う肉食獣のような目をした英二の視線と──薄い霧がかかったような耕一の
目が、真っ向から合っていた。
 英二は退いた。
 観客席の各所から溜め息が漏れる。英二の猛ラッシュに、これで決まるか!? と固
唾を飲んで息をすることすら忘れて見入っていた人間の気が一斉に抜けたのだ。
「なんで下がるんだよ!」
 僅かにだが、そんな声もした。
 そのような野次を飛ばすのも無理はない、第三者の目から見て、どう考えても英二が
退くべきところではなかった。特に耕一に反撃の素振りは見られなかったし、なんとい
っても、英二のラッシュはいいリズムに乗っていた。
 だが、退いた。
 耕一の目が、はっきりとした戦意を宿していたならば、英二は行っていたかもしれな
い。
 英二が恐れたのは、耕一の目にかかっていた薄い霧だ。
 その目が帯びた光を覆い隠していた薄い霧だ。
 その向こうにどんな輝きがあるのか?
 それがわからなかった。
 未知への恐怖が、英二を退かせていた。
 時が過ぎ行く。
 耕一と英二の間に五メートルほどの距離があり、電光掲示板は着実に時を刻んでいく。
 四分四十秒。
 二人の間を隔てる五メートルという距離は、一瞬でつめていけるものではない。
 まず間合いに入る行動をしてからでないと攻撃に移れない。
 一つの行動を起こしてからでないと相手と接触ができない。
 その位置のまま、二人とも動かない。

 四分五十秒。 
「理……」
 隣に座っている理奈に声をかけようとして、冬弥は思い止まった。
 食い入るように、兄の試合を見つめていた。
 試合前に、英二との間に何かあったのであろうということは冬弥にはすぐに知れた。
二人きりで何を話したのかと尋ねた冬弥に理奈は素っ気なく答えた。
「何も……いいのよ、あの人は一人で大丈夫なんだから」
 と。
 そもそも試合前、理奈に頼まれて英二を呼び出しに行ったのは冬弥である。
 あの時は、
「そんなこと無いと思うけど、万が一緊張してたりしたら励まして上げなきゃ、一応、
兄妹だし」
 などといっていたのだが……。

 四分五十五秒。
 観戦している人間の大半はもうこのラウンドに動きは無いと見て息を抜いている。
 それもそのはずで、二人の間には依然としてワンアクションでは交戦状態に入れない
だけの距離が空いている。
 既にトイレのために席を立った人間もちらほらと見られる。

 四分五十七秒。
 耕一の右足が前に出た。
 次いで左足。
 大きな歩幅で前に出た。

 四分五十八秒。
 英二が退いた。
 耕一が一歩前に出た次の瞬間、五歩退いた。

 四分五十九秒。
 耕一が身を翻した。
 英二が耕一の背中を見ながら、構えを解いた。

 五分〇〇秒。
 ゴングが鳴った。

 浩之は、隣にいた雅史がついた大きな溜め息の音を聞いていた。
「ふう……」
 それに僅かに遅れて、浩之の口からも漏れていた。
 雅史が声をかけてくる。
「ねえ、浩之」
「ああ」
「第1ラウンドの後半……英二さんが押していたんだよね」
「……ああ」
 そう答えながら、浩之の胸中に一抹の躊躇いがある。
「そうだよね」
 雅史は浩之の答えを聞いて頷いた。おそらく、浩之の意見を聞くことによってそれを
確信することができたのだろう。
 だが、そう答えた浩之からしてそれを確信はしていないのだ。
 ラウンド終盤、英二が押していた。
 それは疑いが無い。実際に、ほとんど一方的に攻撃し、それが確実にヒットしていた
のだ。
 だが、最後の最後。
 動きの無くなった最後の二十秒に限っていえば、押していたのは耕一の方ではないの
か。
 わからない。
 わからないが、明らかにラウンドの途中から耕一の雰囲気が変わったのだけはわかる。
いつからとはっきりとは断定できないが、浩之の見るところ、おそらく英二が耕一の蹴
り足をキャッチしてスタンディング・ヒールホールドらしき技を仕掛けた後だと思う。
「……わからねえな」




     第63話 決意

 ゴングの音と同時に、初音は肩を下ろしていた。
「よかったぁ……」
 互角か優勢に試合を進めていた耕一がラウンド終盤になって押され出してから心配そ
うに試合を見守っていた初音はうっすらと汗をかいていた。
「な、大丈夫だったろ」
 やや興奮気味に梓がいう。彼女は、初音が「お兄ちゃん、大丈夫かな?」といったの
に「絶対大丈夫」と頻りに答えていた。
「でも、最後の方は危なかったなあ」
「……梓姉さん」
「ん、なんだよ? 楓」
 梓は自分と初音に挟まれて試合中ずっと黙って座っていた楓を見た。
「あの……相手の人……」
「ああ、緒方英二がどうかしたのか?」
 思っていたよりもずっとやるなあ、というのが梓が英二に対して抱いている感想であ
った。そもそも、梓は……というより、極々一部の人間以外は緒方英二のエクストリー
ム参加をあまりまともには受け止めていなかったのので彼女と同じ感想を持っている人
間はこの会場に大勢いるはずだ。
「思ってたよりやるけど……耕一の方が強いよ、うん」
「うんうん、そうだよね」
 二人で頷いている梓と初音を横にして楓は黙っている。
 それが何もいう必要を認めないゆえの沈黙ではなく、いいたいことをいうかどうか躊
躇っているゆえのそれであることを梓は看破した。伊達に十年以上も姉をやっていない。
「どうしたんだよ?」
「……あの人に棄権するように……」
「え!?」
「いえないよね……そんなこと」
「そりゃあ、もう試合は始まってるし第一失礼だろ」
「うん、私もそう思う」
 そういって、また楓は沈黙へと浸った。梓も初音も釈然としない思いを持ったが、楓
は心配そうな顔をしながら、試合場で休息している耕一を見たきり、何もいわなくなっ
た。

 耕一さん……行かないで下さい。

「ん……」
 試合場の隅に座り込んで軽い柔軟体操をして体をほぐしていた耕一は、どこかから囁
くような、か細い声を聞いた気がして顔を上げた。
 なんだ……今の声。
 幻聴だろう……とは思うのだが、妙に聞き覚えのある声だったような気がする。
 千鶴さんか?
 梓か?
 楓ちゃんか?
 初音ちゃんか?
 四人の内の誰かのように思える。

 耕一さん……行かないで下さいね。と、千鶴さんがいったような気がする。
 耕一……行くなよ。と、梓がいったような気がする。
 耕一さん……行かないで下さい。と、楓ちゃんがいったような気がする。
 お兄ちゃん……行かないで。と、初音ちゃんがいったような気がする。

 そんな気がしただけだ。
 だが、どこに行くなというのだろうか。
 自問しつつ、耕一にはそれがなんとなくわかっていた。
 たぶん、あそこだ。
 あそこといっても、明確な「場所」ではない。
 ある線の向こう側だ。
 そっちに行ったら帰ってこれない。
 そういう線だ。
 危うく、自分は踏み越えそうになっていたのかもしれない。
 ルールの無い、相手に敬意を全く持たない、そういう闘い。
 歯止めの無い闘い。
 獣と獣の闘争に近いような闘い。
 そういう闘いをやろうとしていた。
 そういう闘いをしても自分が「線」を越えないという保証は無い。越えても帰って来
られるという保証も無い。
 それなのに無意識の内に踏み込もうとしていたのではないか。
 それをみんなが引き止めてくれた。
 耕一はそう思った。
 そして、そう思おうとした。
 思うことによってプラスになるならば、思うべきだ。
 立ち上がるのと、レフリーがこちらに向かってくるのとほぼ同時であった。
 そろそろ第2ラウンドが開始されるということを告げるレフリーに軽く頷いて、耕一
は中央線へと歩き出した。

 伍津双英のところへ通い始めてから少し経った頃の夜ことだ。
 稽古から帰ったら梓から留守電が入っていた。なんでも陸上の大会で準優勝して銀メ
ダルを貰ったらしい。
「一応、教えておいて上げるよ。別にわざわざそっちから電話してくれなくてもいいか
らね、本当に」
 などと、あからさまに電話が欲しそうな声が残されていたので、電話をした。
 その時に、話の流れで梓の口から、
「耕一もグータラしてないで何か運動でもしろよ」
 という言葉が出たので、耕一はそこで伍津流と呼ばれる流派の格闘技を学んでいるこ
とを明かしたのである。
 なんですぐに教えないんだよ、となじる梓に、隠すつもりは無かったと弁解しながら
も、耕一はちょっと早くバレたなあ、と思っていた。まだその時は基礎の基礎のそのま
た基礎といった辺りの段階であり、自信を持てるような状態ではなかった。
 やはり、格闘技を始めたからには従姉妹たちにそれを明かす時には「今じゃかなりや
るんだぜ」とかいいたかったわけである。
 この男は、無意識の内に、四人の従姉妹たちに自分の弱いところを見せるのを避ける
ようになっている。いいかっこをしたい、とかいう次元よりも一段高い部分の意識がそ
れを命じているのだ。
「なんでまたいきなり格闘技なんだよ」
 と、尋ねる梓に耕一は答えた。
「まあ、運動不足だしなあ」
 と。
 だが、実際にはより大きな理由が存在する。
 耕一の中には、耕一とは別の「もの」が棲んでいる。
 今の耕一は、完全にそれを「制御」している……はずである。
 そのことを知る数少ない人間の一人である千鶴もそれを保証してくれている。だが、
耕一はそれを確信できていない。
 もう大丈夫だろう、とは思っている。しかし、100%の自信が持てるかというと首
を縦に振ることができない。
 何かの拍子に「ヤツ」が出てくるのではないか。
 その不安は常にあった。
 その不安を抱いたまま、ごく普通の学生生活を送る内にトラブルに巻き込まれた。発
端はなんてことはない、友人連と飲みに行った先で酒に酔った友人と、これまた酔いに
酔った他の客が喧嘩になりそうになったのだ。
 それを止めたところ、いきなりぶん殴られた。なにしろ相手も酔っていたし、耕一が
友人に加勢して喧嘩を売ってきたと思ったのだろう。
 耕一は決して好戦的な人間ではないが、さすがにいきなり殴られればいい気はしない
しおとなしくもしていない。先方の酔態からして話が通じるとは思えぬこともあってつ
いつい殴り返してしまった。
 軽く、殴った。
 しかし、なまじ軽かったのがまずかったのか反撃を喰らってしまった。
 耕一はまた殴り返した。今度は、本気で腕を振った。
 その時、当然のことながら耕一の中にはその相手に対する敵意が芽生えていた。殺し
てやる、とは思わなかったが、痛い目に合わせてやる、という程度の気持ちは確かにあ
った。
 相手の男の顔目がけて振った拳は、耕一にも酒が入っていたせいで目標を逸れた。そ
れが良かった。素面になってから思えば、あれが顔面に入っていたら大変なことになる
ところであった。
 耕一が「敵意」を込めて振った拳は外れた。
 だが、振り抜いた瞬間に耕一の心底のさらに深奥の部分を駆け抜けたのはなんともい
えぬ……歓喜に近い気持ちであった。
 耕一は、自分を恐れた。
 歓喜を恐れた。
 その歓喜を抱いたのが自分であればよい。
 自分をぶん殴った人間を殴り返そうとしたのである。正直、怒ってもいた。その怒り
を晴らす時に一抹の歓喜を伴うのはまだいい。
 だが、問題はその歓喜を感じたのが、自分ではなく、自分の奥底に眠っているものな
のではないのか、ということであった。
 それからは、それを恐れて荒事は極力避けるようになった。
 不安は絶えずあった。
 不安は耕一に思考を強いた。
 その不安をぬぐい去るための方策を様々に思考した。
 とにかく、カッとしてはまずい、と思った。頭に血を上らせた拍子に「ヤツ」が出て
こないとは限らない。
 まず耕一が至った結論は前述したように、そのような危険性のある場面をとことん避
けることであった。
 はじめの内こそそれでもある程度の安心が得られたのだが、思考を繰り返す内に段々
と不安が襲ってきた。
 避けて避けて、避け通そうとしてもどうしても避けられない時と場所というのが来る
のではないか。
 一度、そう思ってしまったら、もうその不安はどうやっても消えなかった。
 自分一人で生きていくならばいい。
 だが、耕一は一人で生きていくつもりはない。
 四人もいる。
 守りたい人間がだ。
 時には自分が守られ、支えられることもあるだろうが、全員女性だ。やはり耕一とて
男の子であるから基本的に、女は男が守るべきだなどという考えを自然と持っている。
 自分一人を自己防衛するだけならばいい。
 危なくなりそうな場面は逃げてしまえばいいのだ。自信を持てるほどには逃げ足は速
いつもりだ。
 だが、自分以外の何かを守ろうとした時、一人の時よりも確実に身動きは効かなくな
る。
 いつか、荒事に巻き込まれる時が来るかもしれない。
 例えば、四人の従姉妹の内の誰でもいい、何者かに危害を加えられたとして、その何
者かが自分の目の前にいたら、平静でいられる自信は皆無である。
 間違いなく激怒する。断言できる。
 相手が機関銃でも持っていない限り、飛び掛かっていくだろう。これも間違いない。
 その時に、自分を、そして自分の中のものを制御できるかどうか……確固たる自信が
持てない。
 一度持った不安は消えない。
 その不安に追い立てられるように過ごした。
 そんな時に読んだのが格闘技の本だった。それも技術的なものではなくてどちらかと
いうと、精神的な面に目を向けていたので、武道の本だといった方がよいかもしれない。
 その中に、伍津双英のインタビューがあったのだ。双英は五人の弟子に道場を持たせ
て隠居してからは時折、出版社のインタビューを受けたりしていた。彼の弟子の道場の
人間──つまり彼にとっては孫弟子になる──が大会でいい成績を収める度にけっこう
インタビューの申し込みが来るのだ。
 耕一が目にしたのはその中の一つであった。
 そこで双英がいっているのが「馴れ」についてであった。
 実戦……つまり喧嘩では、力や技術と同等、時にはそれ以上に度胸というものが大事
であり、それについては馴れがものをいう、と双英は語っていた。
 どれだけスパーリングで強くても、一度も喧嘩をしたことのない人間がいきなり喧嘩
になると思わぬ不覚を取ることがある。双英がそこで実際に見た例を挙げていた。彼が
用心棒をしていた酒場で起こった喧嘩である。
 一人は双英もよく知っていた男で、一日一度は喧嘩をしていた喧嘩嗜好者といっても
いいような男であった。もう片方は知らない男だったが、いきり立って立ち上がった時
にした構えで、ボクシングの経験者であることを、双英は瞬時にして看破した。
 双英が、やるなら表でやれ、という前に、そのボクサーの右ストレートが走った。
 双英の目から見て、明らかに逆上して、あがっていた。おそらく、喧嘩ははじめてに
違いない。
 それをバックステップでかわされたことに舌打ちを洩らしつつ、男はすぐに距離をつ
めてもう一度右ストレートを打った。
 顔を狙った一撃だったが、そのにやけた笑顔──それが喧嘩の一因ではあった──は
下方に沈んだ。
 凄まじい音がして、男が絶叫した。
 勢い余って、後ろの壁を叩いてしまったのだ。
 本来、ボクサーというのは、そういう時にパンチを停止させる「止め」の技術も持っ
ているものだがその男はあまりにあがり過ぎていた。
 嫌な音だった。なまじ、パンチ力があるために、壁を殴った際に拳に返ってくるダメ
ージも多い。おそらく、拳頭部の骨にヒビぐらいは入っただろう。
 右拳の痛みに呻く暇すらほとんど与えられなかった。股間に蹴りが来て、前のめりに
なったところへ、ガラス製の重い灰皿で後頭部を叩かれた。
 そこで双英が止めに入ったのだが、ようは馴れぬ喧嘩にあがってしまって、リング上
とは勝手が違うということを瞬時に認識して気持ちを切り替えることができなかったの
が、その男の敗因だと双英はいっていた。
 それを読んで耕一の頭にはじめて格闘技という選択肢が現れた。
 それから、様々なことがあり、双英の直弟子になった。
 むき出しの闘気は忌むべし、という双英がいう心得は耕一にとってすんなりと受け入
れられるものであった。
 自分でそういっておきながら双英は驚いていた。大体、今までの例でいうと、格闘技
をする若い人間というのは、どうしてもその辺りは上手くいかない。ついつい、出てし
まうのだ。
 だが、双英は若い内はそれも仕方ないと思っていた。彼からして、若い頃にはそうだ
ったのだ。
 耕一は、段々と荒事を目にしても動じず、自分がその渦中に巻き込まれても高ぶるこ
とが無くなった。すごく落ち着いてきた、と学友にいわれたこともあった。
 道場でのスパーリング以外の闘いをしたのは今まで数えるほどだが、いずれの場合も
心の底の方で気持ちは落ち着いていた。
 最近では、同じ大学の空手部の男と、喧嘩まがいの闘いをやった。
 それから道場破りに来たという佐原という男と一触即発の雰囲気になったことがある。
あの時は闘わずに追っ払った。
 そして、藤田浩之との闘い……だが、これは一応ルールがあったし、双方それを守り、
お互いがお互いに敬意をもって行われた闘いであると耕一は確信している。
 一回戦の中條辰との闘いは、完全にエクストリームルールに則った試合であり、耕一
がこのような不安を抱く余地は無かった。
 だが──。
 緒方英二。
 この男はそれとは「異質」の闘いを仕掛けてきた。
 その「真意」を耕一ははかりかねている。
 英二が仕掛けたと思われる性質の闘いは、明らかにここですべきものではない。それ
をすべき場所ではないのだ。
 英二とて、それは承知の上だろう。
 だが、耕一はそういう闘いをするつもりはない。
 その耕一に対してそのような行為に及ぶ意味を英二がわかっているのかどうか。
「覚悟の……上なのか……」
 だとしても、その覚悟というのがどの程度のものなのか。
 果たして、英二はわかっているのか。自分がなんでそういう闘いをしたくないのか。
 いっそのこと、それに乗ってやろうかとも思う。
 運を天に任せて、行ってしまえば楽だ。なにも、必ず最悪の事態になるとは限らない
のだ。
 だが……。
 声が聞こえる。

 耕一さん……行かないで下さい。

 だから、行かない。
 夥しい決意を胸に顔を上げた耕一に、レフリーが第2ラウンド開始を伝えに来た。




     第64話 立つ

 第2ラウンドの立ち上がりは静かであった。
 英二が軽いジャブを送り込む度に、英二のオープンフィンガーグローブがそれを防御
した耕一の腕に当たって、パン、と乾いた音が鳴った。
 マットに足の裏がこすれて、キュッ、と音が鳴る。
 キュッと鳴り、パンと鳴る。
 二種類の音だけがそれを見る人々の耳朶に触れた。
 それに、段々と声が混じり始める。
 はじめは小さく、だが、音の間隔が狭まるにつれて、その声も大きく盛んに――。
「行け」
「どうした」
「行け、緒方」
「どうした、柏木」
 英二のパンチが次々にヒットするようになってきたのである。
 どうしたことか?
 弱い。
 脆い。
 こんなものじゃないはずだ。
 だが、英二のパンチが面白いように当たる。
 頬に当たる。
 額に当たる。
 鼻に当たる。
 こんなに当たっていいのか、というぐらいに当たり出した。
 しかし、油断はできない。まだ耕一の目は死んでいない。
 一気に畳み掛けていくのは耕一の目が死んでいるのを確認してからだ。それが無い限
りは駄目だ。
 右のストレートを一発。
 無意識の内に気が逸り、重心が前に出ていたかもしれない。
 だが、僅かなものだ。
 英二自身が気付かないような微々たるものだ。
 耕一がそこを衝いてきた時にはじめて我ながら気付いた。
 そして、驚愕した。
 耕一の顔が、英二の右ストレートの内側を通って突進してくる。右の親指の辺りが頭
髪に触れた。
 そのまま真っすぐに進めば胸部、若しくは腹部に衝突する。
 だが、触れるかと見えた寸前、刹那の時を捕らえて耕一は頭を左に振った。
 どんっ、と激突した。
 耕一の頭が英二の右脇に接触し、右肩が腹部に激突する。
 英二の両膝が僅かに曲がる。
 このように密着して押して来られた場合は足を引いて腰を落とし上から覆い被さって
潰してしまうのが常道だが、右ストレートを打った直後だったために踏み込んだ足を引
くことができなかった。
 辛うじて、右足だけを引いて踏ん張った。
 押してくる。
 こらえる……が、耕一がマットを蹴った。
 蹴った右足が軽く浮き――。
 蹴った左足が大きく浮いた。
 空に大きく弧を描いて、耕一の左足が英二の首に前から喰らい付いた。
 耕一の両手が瞬時の内に英二の腰から離れて英二の右腕を掴んでいる。
 そして、左足で首を刈りながら――両手で右腕を掴みながら英二の上半身を下方に引
き落としていた。
 飛び付き十字固め。
「くっっっ!」
 英二の体が落ちていく。
 両足が前後に大きく開いていたのに付け込まれた。この下半身の状態で上半身に喰い
付かれて横から引き落とされたら崩れざるを得ない。
 英二の体はうつ伏せに倒れていく。
 腕を掴まれ、首に足をかけられている。倒れながら、右足が右肩に触れて左足と組み
合わされている。
 このまま倒れていけば、倒れた時には裏十字固めが極められる。
 英二は左半身を右半身とマットの間に丸め込むようにしてうつ伏せになるのを防ぐと
ともに左手を伸ばして右手をクラッチ(結手)しようとする。
 耕一の体が回転した。
 英二の右腕を引きながら仰向けに。
 裏から表へ。

 そう来るだろうな。

 英二は思わずほくそ笑んでいた。
 腕拉ぎ逆十字固め。
 だが、その時には英二の左手は右手との邂逅を果たしていた。
 膝を曲げた右足を上半身の方に引き付けてそこを支点にして上半身を起こそうとする
が、すぐに耕一の両足によって押さえ付けられる。
 だが、しつこく、英二は上半身を起こそうとする。
「がっ!」
 声……というより空気の塊が英二の口から漏れた。
 ある程度浮いたところで一気に押さえ付けられてマットで背中を強打したのだ。
 内蔵が鷲掴みにされるような圧迫感を伴う衝撃が体内を走る。
 クラッチを切ろうと耕一が重心を後方に引いていく。それに負けてクラッチが切られ
てしまえば耐えられるのは一瞬だ。腕一本でそうそう保つものではない、すぐに腕を伸
ばされてタップする羽目になる。
 クラッチを維持すれば腕拉ぎは阻止できる。
 だが、純粋な力比べになっては耕一に分がある。
 狙い目は、耕一の引く力が弱まる一瞬だ。
 耕一の引く力が弱まる一瞬は必ずやってくる。今の引っ張り合いの状態で辛うじて両
者の力が均衡している以上、必ず強く引くためにもう一度体重をかけてくるはずだ。
 そして、その一瞬前に一瞬だけ、勢いをつけるために体重を前方にかける瞬間が来る。
 そこを衝く。
 無心になって耕一の体のリズムを読む。
 気配を読む。
 そろそろ……来るか。
 それを読み違えたら大事だ。逆効果になってしまう。
 ちらり、と横目で耕一の目を見る。
 あらゆる情報を求めて英二の五感が総動員されていた。
 そして、それらの情報が”それ”が近いことを告げていた。
 来るか。
 一瞬だ。
 捕らえる獲物は針の穴ほどの僅かな時だ。
 ふっ、と耕一の力が弛んだ。
 これか。
 今か。
 今がその時か。
 迷っている暇は無かった。
 決断より前に体が動いていた。
 クラッチした両手を思い切り左に動かす。
「おっ!」
 耕一の目と口が丸く開いていた。
 的中。
 英二の体が横を向いた。耕一に背中を向ける形になった。
 外した。
 耕一の両足による肩への拘束も解けた。
 否、耕一が自ら解いたのだと理解した時には英二は激しく体を動かしていた。腕拉ぎ
にさっさと見切りをつけた耕一が大きく体の位置を移動させて新たな攻勢を仕掛けて来
ようとしているのを看破したのだ。
 一転。
 百八十度体を回転させて横四方固め――サイドポジション――を狙ってくる耕一に対
して英二は背中を向けてうつ伏せになった。
 膝を曲げて腰とマットの間に畳み込んでいわゆるカメの体勢になっている。
 耕一は今度は九十度転じた。頭の位置は英二のそれと同じ、両足を左右から英二の脇
腹に差し込む。バックマウントポジションの体勢だ。
 耕一が見たところ、英二の顎が上がっている。その首に腕を差し入れてスリーパーホ
ールドを極めに行ける。その際に脇腹に接触している両足で胴体部を絞めてしまえばも
う逃げられない。
 耕一の腕が首に触れる寸前、英二が顎を引いた。
 誘ったのか!?
 生じた疑惑はすぐに確信に変わった。
 英二は右膝を立ててその近辺に空間を作った。すぐに両手が耕一の右足を掴んで外側
に向けて動かす。
 英二の両手が首から無くなってスリーパーを極めやすくなったチャンスと――。
 英二の両手に右足が捕われた危機と――。
 どちらを優先すべきか。
 攻めるか。
 守るか。
 耕一に僅かな間だが、躊躇いの期間が存在した。
 その間隙を縫うように、英二は上半身を大きく左回転させながら外側に振った。
「しまった!」
 思わず耕一が漏らしていた。一応、スリーパーは極められていなかったもののフェイ
スロックの体勢にはなっていたのだ。それを外された。頭が逃げられてしまったのだ。
 チャンスが消えて危機が残った。
 そうなると耕一の頭の切り替えは早い。
 英二が両手で耕一の右足を捕らえて、自らの右足を耕一の右足の付け根の辺りに巻き
付かせる。
 そして、その右足を旋回軸にして回った。
 左足が既に添えられた右足とともに耕一の右足付け根部分を挟み込む体勢になった。
 膝十字固め。
 素早く身を起こした耕一が転がり、巧みに極らないように膝の位置を変えていく。
 英二がなんとしても極めようとするが――。
 身を起こした耕一に上から覆い被られてしまった。右足は両手で捕まえたままだが、
今の位置では極められない。それどころか上に乗られてしまったのでその足によって腹
部が圧迫される。
 耕一が移動してサイドポジションへと移行していく。
 そこからアームロックへ――。

 耕一は、充実した一時の中に我が身があることを実感していた。
 やはり、思った通りだ。
 スタンドでの闘いよりもグラウンドでのそれの方が落ち着いて行なうことができる。
 今まで英二が反則スレスレの危険な攻撃を繰り出してきたのはスタンドにおいてだ。
グラウンドでは無い。
 それというのも、グラウンドでは耕一の方がスタンドにおけるよりも英二より優って
いるからだ。常に耕一が主導権を握っていける。
 そして、エクストリーム・ルールにおいてはグラウンドでの一切の打撃が禁じられて
いる。
 打撃が無いというのがいい。
 打撃というのは、一発一発のダメージが蓄積していくし、何よりも「刺激」が強い。
 自分の中の「モノ」が目覚めるのを極度に恐れている今の耕一にとってはこっちの方
がいい。
 どうも、この緒方英二というのは色々な意味で危険な人間だ。速やかに勝負を決めて
しまおう。
 このアームロックを極めてしまえばいい。
 英二がポジションを変えてそれを防ごうとするが耕一がその一手先を読んで英二の意
図を潰していく。
 取らせまいと英二が手を激しく振る。
 ならば、足を取って膝十字に……。
 行こうとした耕一の頬が鳴っていた。
 ばちん、と来た。
 英二が上半身を起こして右拳で殴ってきたのだ。
 効いた。
 それあることを期していたならばともかく、耕一はグラウンドで打撃が来るなど夢に
も思っていなかった。
 どんなに鍛えた人間でも、力と気が抜けている状態で攻撃を貰えばそれが素人でも、
相当のダメージを負うというが、それを実感した。
 わざとか?
 英二の目を見る。
 わざとやったのか?
 英二の目のさらに奥を見ようとする。
 何かがそれを阻んだ。
 白いYシャツ……なんだ? 邪魔をするなよ。
「注意!」
 それがそんなことを叫んだ。自分にじゃなくて英二の方にだ。
 なんだレフリーか。
「大丈夫か? 立てるか」
 いつまでも起き上がらない耕一を見て、最前の英二のパンチが余程効いたと思ったの
か、レフリーが身を屈めて耕一のそれと同じ高さに自分の視点を持ってきて尋ねた。
「だいじょ……」
 大丈夫です。立てます。
 そう答えて立ち上がろうとして、耕一は途中で言葉を止めた。
 そう答えて立ち上がろうとして、耕一は途中で立ち上がるのを止めた。
 本当は立ち上がりたかった。
 立ち上がって闘いたかった。
 正直、今のパンチにはだいぶ腹が立っていたのだ。
 そっちがその気ならこっちだって……。
 芽生えたその想いを耕一は恐れた。
 いけない。
 やっぱり、自分はそこから先に行ってはいけないのだ。
 このまま、試合を放棄しようか。
 このまま、倒れていればいい。そうすればレフリーが試合続行不可能と見做して試合
を止めるだろう。
 ルールについてはある程度は頭に入れてあるが、今までの判定例まで覚えているわけ
ではないから、負けが確定しないだけの反則攻撃によってそれを受けた方が戦闘不能に
なってしまった場合にどういう裁定が下されるかはよくわからない。
 だが、負けるにしろ勝つにしろ、この試合が終わるのだけは確かだ。
 これで負けたら……。
 梓の奴が悔しがるかもしれないけど……。
 師匠が、あの程度でへばるなって怒るかもしれないけど……。
 しょうがない。
 元々、勝つために始めたものじゃないからな。
 他の人間と闘って勝つのが第一の目的ではなかったからな。相手によっては闘うこと
自体が楽しかったが……。
 例えば、浩之とやった時なんてよかったな。
 ……ああ、浩之。
 この次に試合するんだ。
 えっと、浩之か……。
 おれがここで負けたら浩之が残念がるだろうなあ。
 あいつ、口に出してはそんなこといわないけど、きっとおれと雪辱戦がやりたいんだ
ろうなあ。
 あいつ、けっこう単純みたいだからな。
 何考えてんだかわかんないようなとこもあるけど、根は単純なんだよ、あいつは。
 強い奴と闘って勝ちたい。
 たぶん、あいつが闘う理由なんて、突き詰めていけばコレだろ。
 いいねえ。
 おれもそんぐらい単純明快に人をぶん殴れればいいんだけどな。
 そうも行かないのさ。
 色々あってな。
「おい、立てないのか? おい!」
 レフリーが目の前で手を振ってる。
 このまんま倒れてりゃいいだろ。すぐに担架で運ばれる。
 あ……おれが担架で運ばれるのなんか見たら梓たちが心配するかもしれないな。
 初音ちゃんなんか泣いちゃうかもな。
 ……まずいぞ、それはまずいぞ。
 おれは絶対あの子は泣かしたりしないことに決めてんだ。
 このまんまぴくりとしないのもなんだな、ちょっと顔でも上げて生きてることをアピ
ールしておくか。
 ひょいっ、と顔を上げた。
 浩之がいた。
 ……くそ……。
 ……畜生……。
 ……見るんじゃなかった。
 もう、この試合は捨てることにしてたのに、見ちゃったよ。
 浩之――。
 なんて顔してんだよ、お前はぁ!
 マットに上半身乗り出して、マットをバンバン叩いて。
 ほら、お前の友達の佐藤くんが止めてるぞ、お前、上半身ばかりじゃなくて腰から下
の方まで乗り上げようってのか? ほらほら、係員まで止めに来たぞ。
 ああ……もう……。
 おれにどうしろってんだよ……。
「立てぇ、耕一さん! 立てっていってんだよ! コラ!」
 一応、敬語を使えよ。
 わかってるよ、おれがどうすればいいのかなんて……。
「おい、担架だ。やばいかもしれない」
 レフリーのおっさんがそういっておれに背を向けた瞬間。
 ぱーん。
 と、おれの両手がマットを叩いた。
 そして……。
「やばくないです」
 おれは立っていた。

                                     続く




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