鬼狼伝18












     第69話 踏み台

 二分の一……いや、三分の二か……。
 浩之は自分に浴びせられる歓声の音量、熱量を先に入場した加納久のそれと比べてそ
の程度に踏んだ。
 悪くはないな……。
 浩之は多くの観客が集まる大会に出場した経験は無い。今回のエクストリームが初め
てであり、先程の都築克彦戦を経たのみである。
 それでこの歓声量は悪くはない。
 別に、歓声量の多寡を過剰に気にするわけではないが、歓声が大きいということは、
見ていた人間が先の一戦に何事かを感じてくれたということだ。
 試合場へと上がるための短い階段を前にして浩之は立ち止まり、深呼吸する。
「よし」
 それまで、どことなく力の抜けていた表情が張り詰める。
 いい意味での緊張感がみなぎる。
 試合場へと足を下ろした時、浩之は爪先から頭頂まで渾身闘うための体勢を整えてい
た。
 試合場の下からは親友の佐藤雅史と後輩の松原葵が見守っている。
 葵は、試合場に上がった浩之に熱い眼差しを向けていた。
「先輩ってすごいですね」
 浩之から視線を逸らさずにいった。
 隣にいた雅史が少し間を置いて、それが自分に投げ掛けられた言葉であることを理解
する。
「浩之が、すごい?」
「はい」
 長年一緒にいて、雅史でも時々そう思うことがある。そして、雅史が本当に浩之をす
ごいと思うのは、浩之が日頃は全然すごそうに見えないということである。
「先輩、入場してくる時と試合場に上がった時で、全然違いました。表情も雰囲気も、
身のこなし一つ一つまで」
「……うん」
 それは雅史も感じていた。
 選手入場口を出て、選手が試合場まで歩く俗に「花道」といわれる通路を歩いている
時の浩之は、騒ぎ立てる観衆を他人事のように眺めていた。
 そして、通路の途上であかりたちが座っている方向に手を振った。
 試合場に上がった時、それらのものが程良く張り詰めた緊張感に取って代わられた。
「あの切り替えの早さはすごいです。……私、ちょっとそういうところ駄目なんで」
 確かに、駄目なのだろう。その辺のことは浩之に聞いている。
「最近はようやく前よりマシになってきたんですけど、それでも三十分ぐらい前から精
神統一しないと駄目なんですよ」
 そんな葵だから、ことさら浩之の切り替えの素早さをすごいと感じるのかもしれない。
 しかし、雅史とてそれはひしひしと感じている。
 今日、ずっと浩之と一緒にいる雅史は、あの男が一回戦の都築克彦戦を前にして、珍
しく緊張していたのを間近に見ている。
 その緊張は折良く出会ったあかりと志保によって適度にほぐされて事なきを得たが、
一回戦を戦い抜いて、どうも浩之は馴れてしまったらしい。この二回戦の前はリラック
スしたものだった。
 元々、練習よりも本番に強いようなタイプだが、一戦を経ただけであのリラックスの
しようはさすがに異様だと思った。雅史などはマイペースに見えて、実際その通りなの
だが、それでも中学のサッカー部で初めてレギュラーになった試合は緊張しっ放しだっ
たし、二回目の試合もそれを払拭するには至らなかった。
「緊張してる場合じゃねえって」
 試合前、そういっていた。
 都築克彦という男を倒し、その夢を断念させてまで進んだ二回戦で無様な闘いはでき
ないと浩之はいった。
 本来、それを気に止める必要は無い。
 だが、浩之は自然とそれを負っていた。
 気負うわけではなく、一人の男の夢を潰したことを自分が闘う理由にしていた。
 自然にそれができるのは浩之の強さだと雅史は思う。
 強さそのものでなくとも、強いことの原因の一つであると思う。
 その雅史の視線の先で、浩之は全身をほぐしている。
 調子はすこぶるいい。
 先の試合でのダメージの主なものは頭部を殴られた際に生じた脳震盪と擦過傷である。
脳震盪の方は回復しているし、擦過傷など大したことはない。
 だが、相手の加納久も決して油断はできない相手だ。
 いや、油断はできないどころか少しでも油断をすればすぐさま勝利を持って行かれる
かもしれない。
 それだけの実力のある選手だ。
 およそ「これが弱い」という点が見当たらないオールラウンドファイターである。
 打撃の攻防に関してはボクシングの技術を元に、パンチを主体とした安定した力を有
しているし、組み合いと寝技も、以前柔道をやっていただけに手慣れたものがある。
 加納は中條辰との試合後、それまで興味は無いと発言していた耕一に対して急速に興
味を示し始めている。
 自分よりも一回り大きい中條をKOした耕一の強さを認めてのことである。
 だが、純粋な格闘家としての興味だけではない。
 元プロレスラーとしての知名度もあり、それなりに実力も知られている中條を相手に
いい勝負をして場内を沸かせた耕一を評価する声が、観客の間にもマスコミの間にも多
い。
 そもそも、もう直弟子は取らないといっていた伍津双英が久しぶりに弟子にした男で
あり、さらにはこの世界では有名な加納が、伍津流のことを「なんとか流」と発言した
のに激怒した双英がその久しぶりの直弟子を加納が出場表明しているエクストリームに
送り出した。というだけでもそこそこに話題にはなっていたし、雑誌などでも小さく取
り上げられていた。
「加納は一分で潰せる!」
 という双英の発言が耕一のそれとして紹介され、なんとしても煽ってやろうという動
きが一部マスコミの間にあった。
 幾つかの雑誌が誌面を割いたために、話題にはなっていたが肝心要の耕一と加納があ
まりそれに乗り気では無かった。
 耕一は一回戦の前にコメントを求めて集まってきた記者たちに、別に自分は加納に対
してはなんとも思っていないといっているし、加納も何度かその話を振られてあの選手
に興味は無い、と明らかに煽られるのを迷惑……とまではいかないまでも、相手にした
くないという態度をとり続けていた。
 それが、耕一の一回戦勝利の後に変わった。
 耕一は変わっていないのだが、加納が大いに乗り気になった。
 中條辰をKOして注目を集めている耕一との対戦は「おいしい」と判断したのである。
この辺りは計算する男だ。
 さらにいってしまえば、加納は耕一が勝つとは思っていなかった。あらかじめ中條の
総合格闘での三試合をビデオで見て、中條の実力を高く踏んでいたのだ。
 打たれ強さとパワーに脅威を感じつつも、サブミッションテクニックが思っていたよ
りも高度なことに驚いた。
 組み合わせを知った時に、ごく自然に中條を相手にした対策を練っていた。二回戦で
緒方英二と当たっても中條が勝つと見ていた。
 だが、中條は敗退し、耕一が二回戦に進み、緒方英二も撃破して三回戦へと進んでい
る。
 耕一が中條に勝った後、記者に「興味は無いといっていたが、あれで少しは興味が沸
いたんじゃないのか」と聞かれた時に「是非やってみたい」といい出したのはそのため
である。
 どうせ当たることは無いだろうと思っていたのだが、どうやらこのままで行けば闘う
ことになりそうだ。そうなれば出来うる限り、それを盛り上げるために煽ってやろうと
考えていた。
 その辺りの思考法はアマというよりプロに近い。
 エクストリームがアマチュアの大会ながらこれだけ注目されているのはそのレベルの
高さもさることながら、これがプロへの登龍門となっていることがある。
 エクストリームでよい成績を収めた選手というのはプロへの道が開かれる。一般部門
で優勝すれば、ほぼ確実に声がかかる。
 既に日本に幾つかある総合格闘技の団体とエクストリームの観客層は完全に被ってい
る。それに、エクストリームだけを見ていた人間でも、そこで気に入った選手がプロに
なれば、その選手の出る興行に行ってみようと思うのは当然であり、新規の客の獲得に
もエクストリームで「顔見せ」をした選手というのはメリットがある。
 そういったことから、もはやエクストリームというのは単体のアマチュア大会とは思
われていないし、主催者側もそのつもりである。
 毎回、プロの選手が招待されて観戦に来るし、もちろんスカウトマンもやってくる。
 エクストリームは既にプロと地続きといっていい大会なのだ。他のアマチュアに比較
するとマスコミやファンからの注目度や大会規模が大きいのもそのためである。
 最近ではスポンサーも増えて、会場のあちらこちらに見られる企業名の入った広告も
より多くなった。
 加納久はそういったことを理解した上でそれを積極的に利用しようとしている。
 元々、エクストリームに出場を決めたのはプロでやっていくことを前提としてのこと
である。
 これまでもそれなりにアマチュアで実績を出し、プロにならないかと声をかけられた
ことはあったが、その条件というのが加納にとっては過小であった。
 エクストリーム出場はその条件を吊り上げるためである。マスコミにもはっきりとそ
ういっている。
 初めが肝心と考える加納は、プロデビュー戦をできるだけいい条件で行いたかったの
である。
 そのためにはエクストリームはいい。
 そして、そのために出場しているからには出来る限り自分に注目を集めるべきだ。
 当初はBブロック決勝は中條辰と争うと予想していた。そこで少々不遜だが、プロレ
スでよく見られる技を狙ってやろうと思っていた。
 中條のスタイルが相手の打撃は防御して、組み付いて投げて関節を極めるというもの
であることはわかっていたので、こちらから組み付いていけば打撃による迎撃は無いと
見ていた。そこで組み付くような素振りをしつつ、腕を横振りに振って相手の首の辺り
に叩き付けていく。
 後は、タックルで足に食らい付いて片方の足を取り、足を捻って引き倒す。その際に
掴んだ相手の足の周りを滑るように両足の間を潜る。
 前者がラリアット、後者がドラゴンスクリュー……に、見えないこともない。
 やった後は多くを語る必要は無い。
「ちょっと狙ってみた」
 とでもいっておけばいい、後は見た人間がそれぞれ勝手に解釈してくれる。そうなれ
ばマスコミの中にはそれを面白がって記事にしてくれるところもあるかもしれない。い
や、今までマスコミの人間にはかなりサービスをしたつもりだ。自分に好意を持って、
是非プロになって暴れて欲しいといってくれる人間もいる。きっと、取り上げてくれる
だろう。
 そこまで見越して、その練習までしたのだ。
 そういった意味で、この男はプロ格闘家としてやっていくことに「真剣」であった。
 浩之は、そのようなことまでは知らない。
 だが、加納久という男がどういうスタンスでこのエクストリームに臨んでいるかは彼
のコメントなどを見てわかっていた。
 気に入らねえ……。
 浩之は思う。
 加納のエクストリームに臨む姿勢が、ではない。
 加納が柏木耕一という男を、アマからプロへと進出する際の踏み台として利用しよう
としているのが、浩之には激しく気に入らなかった。
 浩之は耕一を目標にここに来た。
 それを、そんな風に利用されるのは嫌だ。
 理屈ではない。
 理屈の話でいったら、浩之には加納にそんなことをいえる筋合いは無い。
 理屈などではない。
 幸い、浩之はそれ以外のもので加納の意図を阻止できる立場にあった。
 これから、浩之は加納と三回戦進出を賭けて闘う。
 同時に、耕一との対戦権が賭けられている。
 勝てばいい。
 ようはこれで勝てばいいのだ。
 それ以外のことを、浩之は考えていない。
 浩之はレフリーに促されて中央線へと歩いていった。
 加納久がいる。その表情は余裕そのもので、この男は浩之以上に緊張とは無縁の人間
らしいことが見て取れる。
 それだけに、こっちが緊張しては駄目だ。
 耕一さんと闘うためにも負けられない。
 他人の夢を潰してやってきたところで無様な試合はできない。
「よし」
 小さく呟いていた。
 顔を上げて、加納の目を見る。
 横でレフリーが禁止事項について何か喋っているが聞き流す。
「はじめっ!」
 その声だけはしっかりと聞いた。
「シッ!」
 鳴り響いたゴングの余韻が消えぬ間に、呼気を吐きながら加納が右のハイキックを放
ってくる。
「おっ!」
 思わず声を出しながら上体を後方に逸らしてよける。
 いきなり来られたので驚いた。前方に倒れて足にタックルに行くべきだったか。
 いや──。
 生まれかけた後悔を打ち消す。そんな暇は無い。
 後屈させた上体を立て直して反撃に転じようとした浩之の眼前に黒い塊が迫りつつあ
った。
 なんだ!?
 夢中でそいつを右手で横から叩いて捌く。
 なんだ。オープンフィンガーグローブに使われている黒く塗られた生地がそう見えた
のか。
 思いながらも下がる。
 加納は追撃してくる。
 ボクシングのそれと思われるコンビネーションでパンチを打ってきた。
 矢継ぎ早に繰り出してくる。
 浩之はそれを嫌って軽く素早い前蹴りで押し退けて牽制しようとするがお構いなしだ。
 おかしい。
 浩之は今日のために集めた加納久のデータを思い出しながら思った。
 一回戦の相手だった都築克彦はあまり有名ではなかったが、加納はかなり知られた選
手なので情報を集めるのも容易だった。
 その数々の情報から弾き出した予想と違う。
 こんな短兵急な闘いを挑んでくる選手だったのか?
 攻撃もけっこう大振りだ。
 理解した。
 ナメてやがる。
 浩之の中で沸々と沸騰してくるものがあった。
 この野郎、ナメてやがる。
 少々大振りな攻撃を繰り出しても大丈夫だと思っている。
 大方、さっさと決めて最短記録でも作ろうとしているのだろう。今日、まだ一分以内
で終わるいわゆる「秒殺」の試合は一つも無い。
 それを狙っているのかもしれない。
 それをできると思っているのだろう。
「ナメるなよ……」
 思わず呟いていた。





     第70話 流派

 左右のワンツー。
 右のローキック。
 それを悉く弾いて、浩之は右ストレートを放っていった。
 無造作に打つ。
 打った際に左手を少し下げた。
 来るか!?
 来いよ、右のハイキック。
 思い切りぶん回して来いよ。おめえ、秒殺試合をやりたいんだろ?
 おれの左手が下がったところへ狙い澄まして右のハイだ。
 それで一発KOしたら目立つぞ、おい。
 来い。
 右のハイだ。
 すぐに間合いを詰めて威力を殺してやる。蹴りなんて、ミートポイントをずらして足
刀からスネの部分よりも内側の膝から付け根の方……腿の辺りが当たるようにすれば効
きゃしないんだ。
 そこからショートアッパーを顎に、ショートフックをテンプルに、どちらでもいい。
入れられそうな方だ。右か左かも同様。
 一発頭部に入れてから組み付いていけば、倒して有利なポジションを取るのがより容
易になる。
 来い。
 左手が下がっているぞ。
 ここが空いてるぞ。
 浩之は左手で手招きをしたい気分だった。
 が……。
 加納は動かなかった。
 一瞬の間を置いてから動いた。
 しかし、その動作が浩之の望んでいたそれとはかけ離れていた。
 後退したのだ。
「一分経過!」
 声が上の方から聞こえてくる。場内アナウンスが試合時間の経過を客に伝えているの
だ。
 なるほどね……。
 ゆっくりと、浩之の左手が上がる。
 下がった加納を追うように浩之が前進を始めた。
 右のミドルキックを打つ。様子見の一撃。
 加納は左膝を上げてガードした。
 これだ。と、思った。
 二試合ほど試合のビデオを見て、それから先程、一回戦を生観戦している。
 そこから弾き出したファイトスタイルが、今の加納とぴったりと重なっていた。輪郭
と輪郭が一本の線と化すほどに重なっていた。
 これが加納久の本来のスタイルだ。
 ふざけた奴だ。
 一分が過ぎて「秒殺」の報酬が無いとなったら短兵急なスタイルをいつものスタイル
に変えやがった。
 この男の頭の中には自分は無い。
 いや、無いといっては極端過ぎるか……。やはり対戦相手である以上、頭の片隅程度
には「藤田浩之」というものが存在しているだろう。
 だが、それが全てではないし、かといって「大部分」ではない。
 一部だ。
 腹の立つことに一部である。
 加納久の頭の片隅の一部分だけを自分は占めている。
 この男の頭の「大部分」を占めているのは客だ。正確には客の目、マスコミの人間の
目、世間の目だ。
 エクストリームを完全に「プロになる前の顔見せの場所」と割り切っている男だ。
 耕一のことすら、そのための踏み台程度にしか考えていない男である。
 浩之など、ただの地面ぐらいにしか思っていないだろう。
 そういうことされると……燃えるよ、おれは。
 おめえ、こっち向けっ!
 左右のワンツーを放っていく。
 そして右のミドルキック。
 加納が動いた。
 身を低くして腰に食い付くタックル。
 先程浩之が意図したように、蹴りが伸びきる前に間合いを詰めてミートポイントを外
して威力を減少させるとともに組み付いていく。
 蹴りを打とうとしている右足の膝が上がっているだろうから左腕を下方から突き上げ
て右の腿の裏に当てて右足を抱え込んでもいい。
 右足を捕まえながら残った左足をこちらの足で刈れば容易く倒れる。右足を抱え込ん
でいれば足関節を極めにも行けるし、そこを起点に転がせることも可能だ。
「!?……」
 加納の目に僅かに疑惑の色が滲む。
 加納が動いた時、上がっていた浩之の右膝が下がっていた。
 戻しが早いっ!
 そう思ったのは僅かな瞬間。
 誘ったか!?
 疑問が生まれたのにも、それが確信に変わるにも一瞬以上の時間を要しなかった。
 最初から右ミドルキックなどを打つつもりは無かったのだ。あれはただの「フリ」だ。
こちらのタックルを誘ったのだ。
 気付いた時には前に出ている。
 今更止められない。
 今、ここで前に出るのを止めたところで状況が悪化するだけだ。まだ悪い状態とは断
定できない状態からはっきりと「悪い」といえる状態に移行するだけだ。
 車でも電車でもタックルをしている人間でも、ある一定の線を越えたスピードで動い
ているものは急には止まれない。
 無理に止まろうとして止まれないこともないが、その時は一瞬だけ停止する。
 止まってすぐに後退というわけにはいかないのだ。必ず、一瞬だけ停止期間がある。
 そこを狙われたらたまらない。
 むしろ初志貫徹、組み付いて密着していった方がいい。
 加納はタックルの動作を続行した。足が抱え込めなくなったが不利というわけではな
い。有利になるチャンスが一つ無くなったというに過ぎない。
 組み付いて行けば元々が柔道でならした格闘家である加納には絶大の自信があった。
 頭を浩之の左脇に差し込むように突っ込んで行く。
 浩之の左手が動くのが視界の隅に視認できた。
 下方からせり上がってくるものがあった。
 肘!?
 瞬時に加納はそれを思った。
 エクストリームでは肘による打撃は禁止事項だ。
 それをやってくる気か!?
 この藤田浩之という男、どこの流派にも属していない。パンフレットの流派、もしく
は格闘技の前歴などを書く部分にはただ「我流」とのみ書かれている。
 それと、エクストリーム以前にこのような格闘技の大会に出たことが無いこともあっ
て情報を集めようとはしたのだが、よく集まらなかった。
 大したことはあるまいと思って、捨てて置いた。
 予想では、都築克彦に負けて当然、という程度に見ていた。
 反則をしてくるような奴だったのか!?
 それとも、苦し紛れに肘が出たのか!?
 だとしても、このまま突っ込んで額で弾く。
 こっちにはある程度の体重が乗っている。肘を弾いて組み付いていくのは十分に可能。
 加納は突進した。
 気をつけるべきなのは、肘の最も突起していて最も固い骨の部分を目や鼻などに喰ら
わないようにすることだ。
 目をやられて、眼球そのものは助かったとしても、試合中に目が開けられなくなって
しまえばいうまでもなく不利であるし、鼻血が出れば血が口に入るか、レフリーが一時
試合を停止してドクターの治療を受けることができたにしても鼻が塞がれ、どちらにし
ろ、呼吸が苦しくなる。
 額で受ければいい。
 回避するのはほぼ不可能、と加納は一瞬で断を下していた。
 左右にかわすのは、もし遅れた場合、目に直撃を喰う恐れが大きいし、下方に、さら
に倒れ込んで肘をかわしざま、足に食い付いていく手もあるにはあるがそれに気付くの
が遅く、この状態からでは間に合わないと思った。
 後退するのは、既述したように、急には止まれぬために僅かといえど停止期間がある
のがまずい。
 そうなれば、頭部の中では比較的打撃を受けてもそれに耐えうるだけの強さを持った
額で弾いていくのがいい。
 とりあえず、この肘を凌げば、すぐにレフリーが止めて浩之の肘を反則にとって注意
を与えるだろう。そうなれば、この後、加納が反則をしない限りは判定になった時に圧
倒的に有利。
 と、いっても、もちろん加納はこの試合を5分間3ラウンドを一杯に使おうなどとは
考えていない。その前に試合を自分の勝利で決めるつもりだ。
 と……。
 その時──。
 浩之が肘を振り抜かずに止めた。
 丁度、肘から先の下腕部をマットに垂直に立てたところで止まった。
 加納の額は、その肉の厚い部分へ接触した。
 肘打ち……ではない。
 加納の額が触れる寸前に、浩之の腕は動きを止めていた。
 動作としては、肘打ちで迎撃した……のではなく、腕で加納の突進を止めたように見
える。
 それを知った時に加納が思ったのは、試合が止まらずにこのまま続くこと。そして、
自分の頭部と浩之の右手との間に距離があることだった。
 そもそも、加納が組み付きに行った時に頭部を密着させていこうとしたのは、組み付
き間際に殴られないようにするためである。
 胸か脇の辺りに頭を密着させていけば頭を殴るのは困難だ。例え届いたとしても、肘
を屈伸させて小刻みに叩くような、あまり威力を得られないパンチになってしまう。
 だが、距離が──。
 加納が身を退いた。
 距離を多く取って届かない位置まで逃げる決断をしたのだ。
 浩之の左腕をこちらの手で弾いてあくまで組み付いて行った方がよかったか!?
 そう思った時には浩之の右フックが湾曲した線を空に描きつつ、加納の頬に到達して
いた。
 退く速度をパンチの速度が上回った。
 頬を左から右に打ち抜かれる感触が加納を襲う。
 斜め後方によろめいた体勢を立て直した時、浩之が組み付いてきていた。
 右腕を加納の左脇に差し込んで手先を後頭部の方へと回し、左手を胸前と首の右側を
通して、右手とクラッチ(結手)する。
 浩之は渾身の力を両腕に込めた。
 加納の頸動脈に軽い圧迫感が生じるが、もちろん、ギブアップするほどのものではな
い。
 加納が腕をほどこうとした時、浩之が加納を腰に乗せて投げていた。
 「ぬっ!……」
 それを右足で堪える。
 が、浩之の右足が加納の右足を刈る。
 両者の右足と右足の接触点を支点にするように、加納が回った。
 柔道の払い腰に近い技であり、原理はほぼ同じだ。
 受け身っ!
 元が柔道の選手であった加納は払い腰に近い投げを喰った瞬間に思った。
 この体勢で投げられれば、左手でマットを叩いて受け身を取るのがいいのだが、左腕
は首と一緒に浩之の両腕に拘束されている。
 左肩とマットの間に浩之の右腕が挟まっていて満足な受け身が取れない。
 顎を引いて、後頭部への衝撃は回避したが──。
 背中に衝撃が走り、内臓器官がマットと浩之の身体でサンドイッチの具になった。
 ごふっ──。
 空気の塊が、そんな音を伴って口から吐き出される。
 一本!
 思わず、そう叫びたくなる綺麗な投げだ。
 だが、柔道ではない。
 総合格闘では、ここからが勝負だ。しかし、投げた方が有利なポジションを取るのに
投げられた方よりも一歩先んじているのは事実。
 この場合も、浩之は投げて加納を倒した後も、加納の首と左腕を両腕で巻き込んでい
る体勢を維持していた。
 浩之の頭が加納の左脇の方へと移動する。
 頭で加納の左腕を頭頂方向へ向いた状態に固定しつつ、その左腕を巻き込んで両腕で
頸動脈を圧迫する肩固めに移行しようとしていた。
 加納はすぐにそれを悟って頭の位置を微妙にずらして技を極められないように持って
いく。
 浩之は両手のクラッチを解いてそれを加納の左腕へと差し向ける。
 腕を取ってアームロックへと移行。
 加納がさせじとフリーになっている右腕を救援に向かわせる。
 絡み合う。
 両腕が絡み合う。
 加納が腕の攻防を行いながら自分の足で浩之の足を絡め取った。
 すぐに、両足でも絡め合いが始まる。
 絡め合い。
 絡め合う。
 次第に、頭での押し合いまで始まった。
 全身、使えるものは全て使って有利なポジションを取ろうとする。
 その動きは緩急様々だった。
 単純な力比べになって、少しだけ動かないかと思えば、互いにその力を外してすかそ
うとした瞬間、素早く動き合う。
 こいつ……。
 浩之の顔に焦りが浮く。
 やるっ!
 ふと目が合った加納の表情が平静そのものだったことが浩之を急かせる。
 これは……互角……いや、グラウンドでは経験の差もあって加納が有利か。
 浩之の右肘がみしりと鳴る。
 腕拉ぎ逆十字固め。
 なんとか上半身を起こして回避することができた。
 浩之はそのまま立ち上がろうとした。
 加納の手が浩之の足を救おうとする。
「くあっ!」
 反応が一瞬遅れた。
 浩之は全力を籠めて足を引いた。
 汗が加納の手を滑らせる。
 抜けた!
 浩之が立ち上がって距離を取る。
 今のは……やばかった。
 こいつ、強い。
 レフリーが立っている浩之と寝転がった加納の間に入ってブレイクをかけて試合を仕
切り直す。
 立ち上がる時に加納が洩らした言葉が浩之の耳に入った。
「所詮、我流だな」
 その意味を浩之は瞬時に理解した。
 加納の表情と声の調子でわかる。
 思っていたよりやるようだけど、所詮、我流の選手などこの程度だろう。
 加納は、そういいたいのだ。
 加納のように柔道というしっかりとした前身があり、しっかりとしたコーチについて
格闘技をやっている人間にとっては浩之のようにパンフレットの経歴に「我流」などと
書いてある格闘家には、一抹の胡散臭さのようなものを感じているのだろう。
 しかし、浩之は我流ということにはなっているものの、松原葵に基礎を教えられ、家
の近所の空手道場に顔を出して、実戦に近い闘いをやってきている。それなりに、その
ことを誇りに思っていた。
 我流、ということに、それほどの気恥ずかしさは感じていなかった。
 加納の言葉を聞いても、恥ずかしいとは思わなかった。
 だが、加納の言葉に、少し腕自慢の素人が運良く一回戦を勝ち上がった……というよ
うな響きがあったと思った瞬間、浩之の中で瞬間的に何かが沸騰した。
 それは、なんであったか。
 煮え立ったものはなんであったか。
 神社……サンドバック……そして葵。
 葵との日々。
 浩之を格闘技へと誘った時間の数々。
 それが否定されたような気がした。
 そんな気がしたら、たまらなかった。
 我流じゃねえ。
 おれには、ちゃんと、先生がいて、それに色々と教えてもらったんだ。
 技術。
 それもある。
 だけど、それよりも──技術よりも心。
 それを教えてもらった。
 我流じゃねえ。
 我流じゃねえんだ。
「葵流だよ……」
 思わず呟いていた。





     第71話 背中を押す声

 加納久の使う打撃技にはボクシングの色が濃い。
 総合格闘をやるにあたってのベースはもちろん学生時代からやっている柔道であるが、
近年のスポーツ化された柔道には当て身(打撃技)が無いためにそれを何か別の媒体か
ら持ってくる必要があった。
 その時に加納が選んだのがボクシングである。
 パンチの攻防の技術を突き詰めた競技だけに、その面では最高峰のものをその体系の
中に孕んでいる。
 蹴りは必要無い。というのが加納の持論だった。
 先程、浩之に対して試合開始早々にハイキックを打ってきたが、あれは浩之を大した
ことはあるまいとたかをくくっていたためである。
 それに、既に何度か触れているようにこの男らしく、派手にKOすればマスコミの食
い付きがいいだろう、というような目論みもあった。
 それが変わった。
 試合時間が一分を経過し、いわゆる「秒殺試合」の目が消えたのもあるが、一連の攻
防で、派手な大技を無理に狙おうものなら、この藤田浩之という男に足下をすくわれる
可能性があるということがわかったからだ。
 いいかえれば、堅実に勝ちにこだわれば絶対に負けないと思っている。
 藤田浩之。
 非常にいい素質を持っているようだ。
 そして、それがいい具合に開花しているように見える。
 打撃にはキレとスピードがあるし、組み付いた時に相手を崩し、投げる技術もなかな
かのものだし、グラウンドに移行してからの関節の取り合いもいいものを持っている。
 しかし、我流である。
 所々、甘いところがある。
 グラウンドにおいて、一度こっちが優位なポジションを取ってしまえば仕留めるのは
難しくないと思う。
 その辺りを「所詮、我流だな」と加納はいったわけである。 
  もちろん認めていないわけではない。
 いいものはある。
 グラウンドで優位なポジションを取るのもそうそう簡単ではないだろう。
 だが、その上で絶対に勝つと思っているのは、負ける要素が見当たらないからだ。
 グラウンドで浩之の仕掛ける攻撃の全てを凌ぐ自信がある。
 後に残る不安点は打撃、それもラッキーパンチの類だ。
 それも、気をつけてさえいればいい。
 加納は本来、蹴り技を使う選手ではない。
 牽制に素早い前蹴りなどを時折使うぐらいである。
 蹴り、という動作はどうしても片方の足が浮く。
 加納はそれを嫌った。確かに蹴りは威力が大きいが、実際にそれを相手の急所に的確
にヒットさせてノックダウンするのは難しい。
 それよりも、パンチを数多く当てていく方がいいと加納は考えている。
 その結果、ボクシングジムへと通い、その技術を自らのスタイルに取り入れた。スタ
ンドでの打撃はほぼボクシングの技術であるといっていい。
 小刻みに左右のジャブを繰り出す。
 この試合、打撃はこれだけでいいと思っている。
 このジャブで相手との距離をはかりながら組み付くか、タックルに行く機会を窺うつ
もりだ。
 そして同時に、浩之の打撃とタックルを牽制する。
 最初の接触が勝敗を分けると加納は考えている。特にこの試合はだ。
 浩之の思う通りにタックルを決められてしまえば、グラウンドに移行しても容易に極
めることはできない。
 だが、その反面、こちらが浩之を思惑通りに倒してしまえば有利なポジションを取れ
る。
 そして、一度そうなれば勝ったも同然だ。気をつけるべきなのは、先程足を取ろうと
してそうなってしまったように汗で滑ることだ。
 浩之がパンチを放ってくる。
 それをかわしざま、右ストレートを打つ。
 倒すつもりのパンチではない。が、一発いいのを入れて隙を作り、そこへタックルを
入れていこうという意図はある。
 浩之はその辺りの加納の意図を悟っている。
 浩之は浩之で、加納のグラウンドテクニックを高く評価していた。特に、柔道でなら
した男だけあって押さえ込む技術が上手い。
 加納が抱いている自信も、その気になれば押さえ込みの体勢までは持っていけるとい
うことがあるからだ。
 浩之としてはスタンドで勝負を決めたい。
 加納が思っているほど、浩之はラッキーパンチを期待してはいなかった。
 普通の打撃で──葵に教えてもらった打撃で倒せる。
 だが、それには加納にも少し打ち合ってやるという意志を持ってもらわねばならない。
 浩之が一番恐れているのが、加納がスタンドでの打撃戦において防御一辺倒の殻に閉
じこもってしまうことである。
 そうやってじっと待たれてしまうと厄介だ。
 打撃の防御技術が大したことの無い者がその殻にこもれば何も恐れることはない。思
い切り接近していって乱打してやればいいことだ。
 しかし、この加納久という男は、それに関しては侮れぬものを持っている。
 ただ単に打撃をかわし、防ぐだけではない。
 相手の打撃をかいくぐってタックルに行く技術もある。いや、むしろ、単純な防御よ
りもそちらの方を得意にしているようだ。
 下手な仕掛けは隙を作るだけだ。
 手が出せなくなる。
 軽いジャブや前蹴りなど、出せる技が限られてくる。
 限られた技は限られたコンビネーションを強いる。
 焦るな……。
 浩之は加納から数歩分の間合いを取って止まった。
 腰の入っていない攻撃で相手を倒すことはできない。
 しかし、腰の入った攻撃がかわされてしまえば隙ができる。
 よって、腰の入った攻撃を繰り出すのは「ここぞ」という時だ。
 問題なのは、その状況を作り出す手段とルートすら現在の状況下では制限されている
ということである。
 加納はグラウンドに絶対の自信を持っているし、浩之もできればそこでは加納と争い
たくない。
 と、なるとスタンドだが、記述したように、スタンドにおいては加納はあまり積極的
ではない。
 軽いジャブと、時折ストレートを放ってくる。
 万が一判定になった時のためのポイント稼ぎ、と浩之には思えた。
 だが、ここで我慢だ。
 最後まで我慢し通しってわけじゃない。
 ここだけでいい、この一見打つ手無しに見える状況を打ち破るまでの時間だけだ。
 ここで討って出て行けば一回戦の時の二の舞だ。どうも自分はあまりにも消極的な闘
い方を相手がしていると思うとカッと来てしまう。
 これは悪いクセだ。
 相手がそれを見越して罠を仕掛けていればやられてしまう。
 ここで、少し落ち着く。
 ここで、動きを止める。
 加納が一気に距離を詰められないだけの間合いを取って全身の力を抜いた。
 両手を下げる。
 ダラリ、と下げた。
 顔面ががら空きになる。
 加納の回りをゆっくりと回り出す。
 加納との距離は加納が一歩を大きく踏み出して、思い切り腕を伸ばして拳の先端が届
く位置から数十センチ近辺を維持。
 ギリギリのところだ。
 これ以上接近すれば加納が一気に詰めてきて打ち出したパンチをよけられないかもし
れない。
 この距離ならばなんとかなる。
「加納、顔面がら空きだぞ!」
 そんな声が観客席の方から聞こえてきた。
 いいぞ、もっといえ。
 浩之は唇の端で笑う。
 今の距離は一気に詰められそうで半歩届かぬような微妙な距離だ。
 この状態で突っ込んできたらやれる。
 だが、加納もそれを熟知しているから来ない。
 二人だけで……若しくはそれを見る人間がごく少数で道場か何かで立ち合いをすれば、
加納は絶対に来ないだろう。
 だが、この加納久という男には特徴がある。
 力の強さ、身体の柔軟さ、動きの速さ。
 打撃の上手さ、寝技の上手さ。
 度胸の良さ、読みの鋭さ。
 そういったものとは全く別次元に存在するあるもの……。
 それが「観客の目を意識すること」であった。
 浩之とて多少は意識する。が、加納のように将来プロになることまでを見越した上で
の計算上に成り立つ意識ではない。
 加納にはそれが濃厚にある。
 下手をすれば、対戦相手よりもそちらを意識している。
 浩之が両手を下げたまま、ひょい、と顔を前に突き出して見せる。
「いいぞ、もっとやれ、藤田!」
「加納、どうした!」
「隙だらけだぞ!」
 いつもは鬱陶しいと思っている無責任な声援と野次の混合物が今ほどありがたいと思
ったことはない。
 いいぞ、もっとやれ。
 こっちがいいたいぐらいだ。
 そうやって騒ぎ立てて、あいつの背中を押してやれ。
 さあ、どうする?
 おれのことを恐れているのなら来ないだろう。
 観客に不興を買うことも、負けてしまうことに比べれば遙かにマシとお前は考えるだ
ろうからだ。
 でも、お前、おれのことナメてねえか?
 侮っている……とまではいかないが、無理なく勝てる相手だと思ってやがるんじゃね
えのか?
 さっきっから、お前の態度からはそういうもんを感じるんだよ。
 その気になれば、例えスタンドで打ち合ったとしても負けはしないと思ってるんじゃ
ねえのか?
 思っているんだろ?
 来いって。
 こっちは、ほれ、両手下げて、鶏みたいに顔を突き出しては引っ込めして誘いをかけ
ているんだぜ。
 ネックは距離だな。でも、さすがにこれは譲れない。
「来いよ、おい!」
 浩之が大声を張り上げる。同時に、両手で手招きする。
 わっ、と客が沸く。
 浩之はその声が聞こえないかのように加納を見つめている。
 どうだ?
 おれの行動で客が騒いでるぜ。
 ホントは、こういうのってお前がやりたかったんだろうな。
 それを先にやられちまったぞ。
 その上、お前に対してみんな不満そうじゃないか。
 さっさと来いよ。
 こっちだって、今の距離は絶対安全ってわけじゃないんだ。てめえの顔面エサにして
罠張ってるんだよ。
 食い付いて来いよ。
 上手くいきゃ、ノックアウトできるぜ。
 お前が待つならこっちだって待ってやる。お前、おれの一回戦を見て、おれがそんな
ことできないと思っていたのかもしれないけど、おれだって馬鹿じゃないんだ。
 学習能力だって一応あるんだからな。
 待ってやるぞ。
 残り時間はあと二分、次と次のラウンドも入れれば後十二分ってとこか。
 いいぜ、待ってやる。今の状況じゃ、判定で決着がつくほどポイント差は無いはず。
さっきのグラウンドはあいつが優位に展開したけど、その前におれはあいつにいいのを
一発入れて投げ飛ばしてるからな。
 待ってるから、早く来いよ。
 
「待てるようになったか」
 隣で兄がそう呟いたのを、理奈は聞いていた。
 先程の柏木耕一との一戦を終えてから取り乱したり、ぼーっとしていたりした兄が、
この試合が始まってから目に生気を取り戻して食い入るように試合を見つめているのを
理奈は横から目撃している。
 場所は選手入場口から少し出た位置。
 人目があるので理奈は再びサングラスなどで変装している。が、緒方英二と並んでい
るだけに近くに座っている人間にはバレているかもしれない。
 実際、一回だけカメラのフラッシュが明らかに自分たちに向けて光った。
 だが、英二も理奈もそれを敢然と無視して試合を見ていた。
 英二は試合に夢中でそれどころではないようだ。
「彼とも……やってみたかったな」
 英二がぽつりといった。
「おれにはもうその資格は無いが……」
 その声が空虚だった。
 ようやく、先の敗戦から立ち直ったと思っていた兄のその虚ろな声に、理奈は自分の
考えがまだ甘かったことを悟らされた。
「資格なんてどうでもいいじゃない。やりたいんだったらまた挑戦すればいいのよ」
 ことさら、声を弾ませていう。
「やりたい……うん、またやりたい」
「だったらやりなさいよ」
「でも、おれは……」
 英二が一瞬、言葉を口中に止める。
 やがて、吐いた。
「また、ああなってしまうかもしれない」
 その声もやはり空虚だった。





     第72話 眼光

 加納久は、本来待てる男である。
 もしも、時間が無限に与えられているのならば、そして、その勝負が絶対に負けられ
ないものであれば、いつまででも待っているだろう。
 下がって距離を取り、ちらりと電光掲示板に目をやると、時間は1ラウンドが三分を
過ぎた頃であった。
 残り試合時間は約十二分間。
 相手の藤田浩之がすぐに開いた距離を詰めてくる。
 また、一歩踏み込んで拳を打ち出してもギリギリで届かない、という位置まで出てき
て、両手を下げ、顔面を無防備にさらして時折手招きする。
 観客の中には、その浩之の行動に喝采を送る者と、討って出ない加納をなじる者とが
混在して生まれてきていた。
 加納の口が思わず舌打ちの音を洩らす。
 加納がいる場所に、加納と同じ手足の長さを持ち、なおかつそれを自ら熟知している
人間が立てばよくわかる。
 浩之が保っている両者間の距離が非常に微妙なのである。
 素早く前に出ても、一気に相手を間合いに収められない。
 グラウンドに引きずり込みたい加納と、スタンドで勝負したい浩之。この二人の勝敗
を分けるのは一番最初の接触の形態であると加納は判断している。
 もちろん、加納は組み付いて倒していきたい。だが、そこで組み付く前に打撃を貰っ
たら……。
 体全体でぶつかっていくタックルを仕掛けるにしても、この距離が微妙なのである。
 だが、最終的にこちらから仕掛けるとしたらタックルしかないとも加納は思っている。
 打撃を警戒して低くタックルに行く。
 警戒すべきは蹴りだ。基本的にタックルというのは一直線の動きのために、読まれる
と頭部が描く軌道を知られてしまう。
 それを防ぐには顔を上げずに、思い切り速く行くことだ。単純だが、下手に相手の蹴
りをかわすとかは考えずにとにかく高速で突っ込んだ方がいい。
 十分な威力を蹴りに持たせるには、蹴り足を引いて、反動をつけて蹴る。その足を引
く段階で距離を詰めてしまい、軸足に食い付く。もし蹴りが来ても振り抜く前に当たる
のでそれほどの威力ではない。
 それにしても……距離が遠い。
 パンチを当てるには二歩。
 パンチで打ち抜くには三歩の踏み込みが必要だ。
 だが、体ごとぶつかっていくタックルならば一歩踏み込んで突っ込めばいい。
 試みにゆっくりと前に出てみれば、浩之は下がって距離を崩さない。
 慎重を期したい加納としてはできれば自分からは出ていきたくはない。
 自分も顔面ノーガードにしてみたが、客が沸いたのは少しの間だけでまた加納をなじ
る声が上がり始める。
 加納ばかりがなじられる理由はわかっている。
 浩之が加納よりも「格下」と思われているからだ。
 浩之には公式試合での実績が無いに等しい。辛うじて、先程の都築克彦との試合があ
るだけだが、元々、都築というのが高い評価を受けていた選手ではない。
 それに勝利したとしても、藤田浩之という男に対する評価はまだ未知数であった。
 対して、加納には実績がある。
 選手プロフィールに堂々と「我流」と書かれている浩之と違って、柔道という極めて
メジャーな競技のバックボーンがあり、何度かの公式試合の勝率も八割に達している。
 ほとんど誰もが、加納が勝つと思っている。
 浩之が攻めていかないのを当然と思っている人間も多い。
 「格下」の相手に何をビビってやがる──。
 苛立っている人間の心情はおよそ、そのようなものであった。
 その上に、「格下」の浩之が顔面をガードしないで顔を突き出したりするものだから、
余計に加納が出て行かないのが歯がゆく思えるのだろう。
 眉間に皺を寄せた加納の心中が、浩之にはわかる。
 加納は優勝を狙っている。そうでなければプロ進出への弾みとならない。
 そのためには、ここで無名の選手に負けるわけにはいかない。
 だが、軽く料理できるというほどには浩之の実力を低く見積もってはいない。
 だが、このままでは勝てても印象は良くない。ファンとマスコミの目を意識する加納
にとっては苛立つ事態だ。
 結局は、この辺りのジレンマが加納の内部で葛藤しており、そのために、加納は動け
ないでいる。
 しかし、最終的には加納は来る、と浩之は考えている。
 浩之の強さと自分の強さ、消極的な戦法と積極的な戦法、それらを天秤にかけて熟考
した結果、加納が出すであろう結論はこうだ。
 この藤田浩之というのは侮れないが、自分が勝てないほどではない。
 このままこうしていれば印象は悪くなる。自分はプロとして大成するのを望んでいる
のだ。是非とも、プロ行きの前に、このエクストリームの大舞台でファンの心を掴んで
おきたい。
 自分の強さ。
 積極的に闘うことにより得られる評価。
 天秤は、そちらに傾くだろう。
 そういう意味では、加納久はプロ向きの人材だ。この男はただ勝つことを目的にはし
ていない。
 浩之は、耕一ともう一度闘いたくてここに来ている。
 耕一と当たるまでの試合で勝利することは目的ではなく「手段」だ。
 耕一ともう一度闘うのは簡単といえば簡単である。耕一を捕まえて「もう一回相手し
て下さい」といえばいい。
 だが、負けてすぐに再戦するというのも浩之は嫌だった。
 正直なところ、耕一に完膚無きまでに叩きのめされて自信を失いかけもした。
 だから、他の人間と闘って完全に自信を回復するまで再戦は無しにしようと思ってい
た。
 そんな思いの中、人伝に聞いた月島拓也という男と試合った。
 拓也が目つきを敢行し、浩之がその指に噛み付く、といった凄惨な──緒方英二曰く
「行儀の悪い」──闘いを経て、浩之にある程度の自信が蘇った。
 その場で緒方英二から、今度のエクストリームに柏木耕一が出場することを知ったの
だ。
 その時、浩之の中で闘志が沸騰した。
 拓也と、身を削り合うような死闘をした後だというのに、後から後から際限無くそれ
は沸いた。
 エクストリームへの出場を即座に決意した。
 トーナメントの一回戦で当たれば当たったで嬉しかっただろう。だが、Bブロックの
決勝で当たる組み合わせになった時、落胆はしなかった。
 耕一が負ける、ということは浩之は自然と考えていなかった。
 耕一と当たるまでの二試合が、自分を試す試練であるような気が自然とした。
 この二試合を勝てば、耕一とまた闘う資格が得られるんじゃないか……。
 やりたくてやりたくてしょうがない気持ちと──まだ自分にはその資格は無いんじゃ
ないのか──という気持ち。
 とてつもなく強い願望と、それを踏み止まらせる疑念。
 その両者に折り合いをつけるのが、その二試合だったのかもしれない。
 勝つ。
 勝たねば耕一とは闘えない。
 勝つことで、何かを得られればそれを耕一との闘いに持っていこう。
 一回戦の相手だった都築克彦は純粋に実力だけでいえば大した男ではなかった。でも、
勝ちたい気持ち、最後のギリギリまで追い詰められた時の執念では浩之が今まで闘った
相手の中でも群を抜いていた。あの月島拓也に迫るほどではなかったろうか。
 試合後、話をした。
 この男の夢を潰して勝ち上がった以上、無様な試合はできない、と思った。もちろん
それが無くとも無様な試合などしたいとは思っていないが、その気持ちがより一層強ま
ったのは、やはりあの男のおかげだと思う。
 そういうものを貰った。
 耕一と闘うに際して、いいものを受け取ったと思っている。
 加納久──。
 お前は、何をくれるんだ?

 加納の思考はほぼ浩之の予想通りの道を経て、結論に到達していた。
 出て行く。
 出て行って、倒す。
 自分はこんなところでくすぶっている人間じゃないはずだ。
 藤田浩之──。
 悪くない選手だが、それほど手間をかけているわけにはいかない。
 キレのある打撃技に少々慎重になり過ぎた。
 低めの、足を狙ったタックルを仕掛けて行こう。既述したように警戒すべきは蹴りだ
が、言い換えれば、警戒さえすればそれほど怖くは無い。ただ、頭のてっぺんの天倒と
いう急所に足刀を貰わないように気をつければいい。
「四分経過!」
 試合場下から聞こえたその声が、加納の背中を押した。
 大きく一歩踏み込んでタックル──を、直前で止める。
 浩之の右足が僅かに下がっていた。
 やはり、蹴りを狙っていた。タックルに蹴りを合わせるのは至難の技だが、上手くい
けばカウンターになって一撃で甚大なダメージを与えることが可能だ。
 加納は、それを浩之のいちかばちかの戦法だと判断した。
 まともにやり合っては適わぬと見て、挑発してカウンターを狙っているのだろうと思
った。だとすれば、奇しくも、浩之が一回戦で闘った都築克彦の常套戦法だが、それに
は加納は気付いてはいない。
 一度身を起こして下がって距離を取る。
 浩之が律儀といってもいいほどにきっちりとそれを詰める。
 加納が止まる。
 浩之が止まる。
 その次の瞬間に加納が一瞬の静から、動へと脱していた。
 低空で飛ぶ加納の視界にあった浩之の右足が上方へと消える。
 やはり、右足で蹴ってくる気か。だが、間に合うまい。
 軸足の左足を掴んで、右足による蹴りは肩で受ける。
 振り切れていない蹴りは元々大したことはないし、軸足をちょっと動かすだけでも威
力はさらに半減。
 そのまま左足を起点に倒して、極めに行く。
 加納は柔道にはない足関節技を得るためにサンボも少々かじっている。
 左足を──。
「!……」
 左足が無かった。
 右足ともに引いたのか。
 だとすると、浩之の狙いは蹴りではなく、上から覆い被さってタックルを潰すことで
はないのか?
 そうか。
 望むところだ。
 加納が唯一、恐れていたのは接触する際に浩之の打撃を貰わないようにすることだ。
 そっちが来るならこっちに異存は無い。上から潰されても、幾らでも体勢を入れ替え
る方法はある。
 さあ、上から来るぞ。
 ゴツッ、と来た。
「ぐぅ……」
 後頭部に何かが降ってきた。
 打撃!?
 蹴り……なはずはない。パンチか!?
 低空タックルに来ることを読んで、両足を引き、上半身を前屈させてパンチを後頭部
に打ち下ろして来たのか!?
 読んだといっても、距離があったといっても、タックルしてくる人間の後頭部にパン
チを合わせてくるとは。
 はっきりとしていた加納の中の浩之像に靄がかかる。
 こいつ、思っていたよりさらにやる!
 上から攻撃を喰らって、加納はマットに激突しそうになる頭部をかばって両肘をつい
た。パンチを貰った時、加納の両腕は浮いていた。両足もマットにスレスレに接触して
いたが、ほとんど浮いていた。
 ルール上、両足の裏以外の部分がついた場合を倒れている状態と見なすからには、こ
のパンチはルールに違反してはいない。
 ギリギリで打っていい領域での攻撃だった。
 起き上がろうと左腕を直角に曲げて掌でマットを押す。
 その左腕が浩之の両腕に絡め取られた。
 しまった!
 いきなり後頭部を叩かれて瞬間とはいえ、冷静な判断力を失ったか!? 身体の反応
が鈍ったか!?
 浩之はうつ伏せに倒れた加納の右手の方にいたが、そこから上半身を倒し、両腕を伸
ばして加納の左腕を取っていた。
 加納の左腕の肘を自分の方に向けて手首を掴んで引き寄せる。
 肘を逆に極められて加納がやむなくひっくり返るのに合わせて、浩之が後方に倒れ、
その際に両足が加納の左肩に巻き付いてロックしていた。
 腕拉ぎ逆十字固め。
 ガッチリと極まった。
「ぬうっ!」
 加納の声は、苦痛の悲鳴といっても差し支えないほどに苦渋が滲んでいる。
 負ける!?
 こんなところで、こんな奴に!?
 冗談じゃないぞ、おれをなんだと思ってやがる。
 将来、プロになって、総合格闘界にその名を残す男だぞ。
 誰がタップなどするものか、絶対に抜けられるはずだ。

 みりっ……。

 なんだ今の音は!
 左腕の靭帯がもう限界だというのか!?
 完全に極まっているのか。
 抜けられない!?
 ふっ、と浩之の力が緩む。
 レフリーが浩之の腕を掴んで、それを浩之が力をかけようとしているのとは逆の方向
に押しやっていた。
 なんだ!?
 まさか、このレフリーが自分の判断で試合を止めてしまったのか!?
 冗談じゃないぞ。
「ゴングだ! 止めろ」
 レフリーがそういって、なおも力を抜かない浩之を制止する。
「第1ラウンド終了です。これより一分間のインターバルに……」
 そんなアナウンスの声が聞こえてくる。
 ようやく、浩之は技を解いた。
 立ち上がって、舌打ちをしながら自分のコーナーへと戻っていく。
 左腕をゆっくりと屈伸させながら加納は立ち上がった。
 会場には、浩之を讃える声が満ちている。
 それは自分が浴びるはずだったものだ。
 許さんぞ、藤田……。
 完全に極まっていた。抜けようとしても抜けられなかった。あのままでは靭帯が千切
れていただろう。
 ゴングに救われた。
 許さんぞ、藤田……。
 加納の目に、今までとは全く別種の光が宿っていた。





     第73話 諦めない目

 インターバルの間、浩之は呼吸を整えながら、試合場の下にいる雅史と葵に手など振
っていた。
 ラウンド終了間際の腕拉ぎは残念だった。後十秒あれば決まっていただろう。加納が
タップせずとも折ってしまえばレフリーが試合を止める。
「惜しかったですよ、もう少しでした」
 葵の声に笑いながら手を振る。
「相手の目の色が変わってるよ、次の立ち上がり気を付けて」
 雅史の声に「わかってるよ」という風に頷く。

 第2ラウンドは加納の左ストレートで幕を開けた。
 それが防がれると、すぐに接近してくる。
 体勢が高い、タックルではなく、組み付いてくる気か? そうなれば相手の腰に手を
回して倒し合うという、相撲でいう「差し合い」の体勢に近くなる。
 近年、総合格闘においてボクシングと並んで、注目を浴びているのが相撲の技術であ
る。
 それなら腰を落として重心を低くして対応せねばならない。
 が、やってきたのは右のショートアッパーであった。
 顎が僅かにだが浮く。
 まず一発アッパーを入れてからか。確かに、今のは少し効いたが……。
 今度は横殴り。
 左のショートフックだ。
 これはちょっとたまらない。
 一時でいいから、加納のパンチを喰らわない位置に移動したい。
 下がるか?──
 出るか?──
 浩之は前に出た。
 下がっても下がっただけ距離を詰められてしまうだけだ。
 組み付いた瞬間。下方から顎を突き上げられた。
 組んだ状態からのショートアッパー。左手でこちらの後頭部を押さえ付けるようにし
て右手で小刻みに打ってくる。組み合った際の打撃では使い易い攻撃の一つである。
 ショートアッパーというのは、自分の胸前の辺りを強く連続して殴るのに最も適した
パンチといっていい。
 片方の手で相手の頭を胸に押し付けて、もう片方でショートアッパー。
 密着して打撃をかわそうとした相手を迎え撃つのに持ってこいといえる。
 浩之は舌打ちしながら、両腕で下を向いてしまった顔面をガードするが、それより前
に何発か貰っていた。
「やろっ!」
 思わず声を出して首と頭を捻って脱出する。
 頭部を押さえているのが片手なのでこれでも抜けられる。両手で抱えられて、いわゆ
る首相撲の形になっていたらこのような抜け方はできない。
 浩之はマットを蹴って後退しながら視線を加納の方へと戻した。
 下を向いて、上から押さえ付けられたところを、頭を捻って逃れたのだから、どうし
ても一瞬、加納から目を逸らすことになる。
 密着していて、打撃技の種類と威力が制限されている状態ならばいいのだが、離れた
からには打撃には注意せねばならない。
 そして、時に、注意をしても喰らってしまうことというのは多々あるものだ。
「!……」
 浩之が見ると同時に、加納が拡大した。一気に距離を詰めてきたのだ。
 右のストレートが伸びる。
 顔面に──。
 数歩後退。
 さらに追撃。
 左ストレート。
 後退。
 突き飛ばされた頭部の跳ねるような後退に、足が着いて行かなかった。
 背中がマットに接触する。
「ダウン!」
 レフリーのその声は聞こえていたが、不思議と浩之の意識の外にあった。
 カウントを、どことなく他人事のように聞いている。
 倒れた瞬間に思ったのは、終わってない、ということだ。
 それから、立てる、と思った。
 そして、カウントエイトぐらいまで休んでいよう、と思った。
「ってえ……」
 鼻の頭に貰ってしまった。
 指で探ると、幸いなことに鼻血は出ていないようだ。
「エイト!」
 その声に反応して浩之の上半身が起き上がった。
 レフリーが次のカウントを「ナイ」で止めて浩之の顔を覗く。
「やれますよ、まだまだ」
 そういって微笑した浩之の笑顔を見て、レフリーは立ち上がって試合再開を促した。
 浩之はすぐに立ち上がって、構える。
 ゴングが鳴った余韻が消える前に、加納が接近してきた。
 すぐさま、互いの拳の交換が始まる。
 右目の上辺りに加納のパンチがヒットした。
 浩之も負けじと殴り返す。
 グローブが肉を打ち、空を切り、腕と腕が噛み合って汗が散った。
 浩之は激しい乱打戦の中に身を乗り入れた。
 渾身の力で加納の顔でも腹でも、隙あらば攻撃を送り込む。
 こいつ、怒ったな……。
 浩之は、加納の対象物を灼きそうな視線を体の各所にじりじりと感じながら思った。
 先程の、完全に極まった腕拉ぎ逆十字固めが、この男の自尊心を著しく傷付け、闘志
を甚だしく掻き立てているのがわかる。
 俗にいう「キレる」というのとは違う。
 加納は冷静だ。
 攻撃も防御も足捌きも、冷静だ。
 だが、この男が浩之をぶちのめそうとしているのは間違いない。
 さっきまでのスタンドでの消極さが嘘のようだ。
 しかし、冷静だ。
 これも間違いない。
 この男、冷静に自分をぶちのめそうとしている。
 そう思った時、浩之の心が不思議と落ち着いていた。
 加納のパンチをかわす。
 冷静に──。
 加納を殴る。
 冷静に──。
 やってやろうじゃねえか。
 冷静に、ぶちのめしてやるよ。
 顔を打つ、胸を打つ、腹を打つ。
 顔を打たれる、胸を打たれる、腹を打たれる。
 蓄積していく痛みを、疲労を、冷静に計算しながら殴り、防ぐ。
 左フックが浩之の頬を叩いて、口からマウスピースを押し出す。
 薄赤く色のついた唾液にまみれたそれがマットに落ちる前に浩之の反撃の右ストレー
トが加納の顔面を叩いていた。
 浅いっ!
 踏み込んで追い打ちを……。
「ストップ!」
 レフリーが間に入りやがった。なんだ? おれなんかしたか?
 それとも、加納がなんかしたのか?
 加納が背を向ける。
 なんだ……第2ラウンドが終わったのか。
 おれたち、五分近く殴り合っていたんだな。

 残りは第3ラウンド。
 後五分間。
 それで仕留められるか?
 疑問が背中を刺す。
 こんな無名の相手に2ラウンドもかけてしまっただけで随分なマイナスだ。この十分
間で藤田浩之の評価は上がり、それと同等、いや、それ以上に自分への評価は下がって
いるに違いない。
 それを払拭するために派手に勝たねばならない。
 そのために、ノックアウト狙いの打撃戦を挑んでいったのだが、思っていたよりも遙
かにしぶとい男だ。
 どうする?
 また第1ラウンドのようにスタンドでは打ち合わないようにしようか。
 いや、弱気に過ぎないか。自分は十分にあの男を打ち合いの末にノックアウトできる
はずだ。
 思考の海に身を浸す加納の耳に、インターバル終了を告げるゴングの音が聞こえてき
た。
 行こう。
 加納は中央線へと向けて歩いて行った。
 第3ラウンド開始。

 開始四十秒後、加納のワンツーが綺麗に浩之の顔を捉えた。
 追撃はしないで下がって距離を取る。
 浩之の目が死んでいない。
 だが、じきにそれも変わる。
 諦めた目になる。
 今まで、そんな目をした奴を幾らでも見てきた。
 カウンターでパンチを入れてやった相手が崩れ落ちる直前に見せた目。
 関節を極めた相手がタップする直前に見せた目。
 そういう目をした時、そいつはもう”諦めている”のだ。
 こいつも、すぐにそういう目になる。
 もう何発かいいのを入れてやれば、そういう目で自分を見るようになる。
 そして、その時が終わりだ。
 この厄介な試合も、この厄介な相手も共に終わる。
 ほら、またいいのが入った。
 どうだ!
 目は……まだか。
 まだ諦めていないようだな。
 ここまで往生際が悪い奴は初めてだ。
 もう一発、入った!
 これはいいタイミングで入ったぞ。右のストレートが思い切りだ。
 こいつが入ったらさすがに”諦めた”だろう。
 ワンツー。
 右手を戻すと同時に左を打ち出す。
 念のために止めの左ストレート。
 空を切った。
 浩之の頭が沈んでいる。
 かわした!?
 そう思ったのは一瞬だけだ。
 かわしたんじゃなくって、その前の右で完全にやられてしまったのだろう。それで崩
れ落ちるのが左をかわしように見えただけだ。
 たぶん、今頃こいつは全てを諦めた目でマットを見ながら崩れていっているんだろう。
 何気なく下を見た。
 この、自分を散々手こずらせた男の”諦めた”目が見たい。と思ったからだが、崩れ
落ちる人間が上を向いているわけは……。
「!……」
 浩之と目があった。
 その目は違った。
 諦めて無い。
 加納と目が合った次の瞬間、浩之は加納の両足にしがみついた。
 タックル……には加納には見えなかった。
 倒れる途中に前にのめって足にしがみついたように見えた。おそらく、加納がそこに
立っていなければ前のめりにダウンしていたはずだ。
 いわゆる「ごまかしタックル」
「っ!」
 完全に終わったと思っていたので対応が遅れた。
 両足を引かれて、加納が後方に倒れる。
 まさか、こんなせこい戦法で!
 思った時には倒されていた。
 しかも、右足の先の方に激痛が走る。
 倒れきる間際にアキレス腱を極めていた!?
「があぁぁぁっ!」
 それは声というより、喉と呼気が擦れて発する音であった。
 浩之はアキレス腱を極めたまま胸を反らす。浩之とて、余裕があるわけではない。レ
フリーが止めるまで例えアキレス腱を切断することになろうとも、極め続けるつもりだ
った。
 その必死の浩之には見えようはずもなかったが……。
 加納の目がある種の色を浮かべて──。
 加納の手が、自分の右足をロックしている浩之の足を叩いていた。
 レフリーが、そんなもの見ちゃいないし、気付いてもいない浩之を即座に制止にかか
る。
「お前の勝ちだ! 藤田!」
 耳元でそう怒鳴りつけられて、浩之は技を解いた。
「おれの勝ちか……」
 呟いた。
 葵と雅史に向けて手を上げる。
 あかりたちが座っている方へと目を向け、遠目からでもよくわかる黄色いリボンを見
付けると、浩之ははにかんだような表情で握り拳を突き上げて見せた。
 第3ラウンド 十一分二十二秒 アキレス腱固めで藤田浩之が勝利したことを場内に
告げるアナウンスが繰り返し繰り返し行われている。
 上半身を起こした浩之の視界に、大の字になって天井を見上げている加納久が入る。
「よお、あんた」
 思わず何か一言いってやりたくなった。この男は先程「所詮我流」といわれたことを
少し根に持っている。
「さっきの一発で、おれが諦めたと思ったんだろうがなあ」
 浩之は立ち上がりながら、
「葵流は諦めねえんだよ」
 誇らしげにいった。
 背を向けて、立ち去る。
「おい……」
 完全に気の抜けた声が、背中に当たった。
「その……葵流ってのはどこに行けば習えるんだ」
「あん?」
 加納の思わぬ言葉に浩之は振り返る。
「おれは駄目だ」
「何がだよ?」
 いいながら、立ったままだと寝転がった加納と話しにくいのでしゃがみ込む。
「お前みたいなどこの馬の骨とも知れないのに負けちまったからよお」
「……馬の骨で悪かったな」
「諦めちまいそうだよ」
「何を?」
「プロになって、世界の格闘史に名を残そうって夢をだよ」
「ふうん、でかい夢でいいじゃねえか」
「その、諦めないっていう葵流ってのは一体どこで?」
「あー、んー、なんだ」
 浩之は返答に窮した。それはそうであろう。そもそも、葵流などというものは浩之が
でっち上げたにも等しい流派だ。ようは、後輩の松原葵の一番弟子ということでふざけ
てそう名乗っていいか? と葵にいって、先程の加納の「所詮我流」発言にカチンと来
て持ち出したものである。
「あれは習うとか、そういうんじゃなくってな……ようは、一生懸命で諦めない人間を
見付けて、それを見習う! そんだけだ」
 浩之は自分でそういいながらなんだか照れ臭くなって、苦笑いをしながら立ち上がっ
た。
「一生懸命で諦めない……」
 天井を見ながら、加納はそれを反芻する。
 自分が柔道を始めたのは、小学生の頃にオリンピックを見たのがきっかけだ。
 そこに出場していたある日本人選手が怪我した足を引きずりながらも内股で一本を取
り、金メダルを取ったのに感動したのがきっかけだったと思う。
 あのビデオ、まだ家にあったはずだ。もう三年ぐらい見ていないが。
 家に帰ったら、あのビデオを見てみるかなあ。
 そう思いながら目を閉じた加納の瞼の裏には、いつか見た綺麗な内股が再生されてい
た。

 第3ラウンド 十一分二十二秒 アキレス腱固め 藤田浩之の勝利

                                    続く
 



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