第74話 親しみ

 大会係員が呼び出しに来た時にすぐに同じジムの人間が来た。
 係員に促されて立ち上がり、控え室を出る。同じジムの人間は次の試合のために情報
収集に行ってくれていた。
 その話を歩きながら聞く。
「精英塾の奴に話が聞けたぜ、運良く、うちに出稽古に来たことある奴がいたんでな」
「そうか……それで?」
 と、三戸雄志郎(さんのへ ゆうしろう)が後を促す。
「やっぱりお前の睨んだ通りだ。あのスリーパーに行かれる前に、やられたらしいぜ」
 浅く、三戸が頷く。
 これから試合をする月島拓也という男について、三戸には少し懸念の種があった。
 二回戦、月島拓也は序盤で押されたものの第1ラウンド、約三分で相手を仕留めてい
る。この試合はいい。
 三戸が気になったのは一回戦、精英塾の深水征(ふかみず ただし)との試合の終盤
である。
 この試合、拓也がスリーパーホールドで勝利している。
 その直前、バックを取られてスリーパーが来ることを予測した深水が顎を引いて、腕
を首に入れさせないようにする場面があった。
 そこで拓也は腕を顔に押し付けて引き付け、顎を上げさせてからスリーパーを極めて
いった。
 その際の動きに三戸を刺激するものがあった。
 見た目にはごくごく普通のやり方の一つであった。
 だが、どうにも引っかかったのが拓也が深水の顎を上げさせるために使った腕の位置
である。
 あの時、拓也はまず右腕で首を極めようとし、顎にそれを阻まれるとその右腕を移動
させてそれで顎を上げさせ、左腕を首に入れて技を極めた。
 その時、右腕の掌……つまり手の先端部分が深水の左目の辺りに来ていた。
 控え室に設置されたモニターで三戸はその試合を観戦していたのだが、それを見た時
に何を思ったのかというと、浅いな、ということであった。
 あれでは、左側頭部が全くロックされていない、頭を思い切り左に捻られたら抜けら
れるぞ、と思っていた。
 もっと腕を左に持っていって深く、肘の辺りを顔の真正面に来るようにしてガッチリ
とロックせねばならない。
 そう思っていたのだが、ふっ、と深水が顎を上げた。
 首と顎の間に生じた隙間はすぐに拓也の左腕に埋められた。
 あれ? と思った時にはスリーパーが極まっていた。
 三戸は深水を高く評価していた。
 前述した会話でもわかる通り、三戸の通っているジムと精英塾には交流があり、実際
に手を合わせたことは無いながらも深水という男のことは聞いていた。
 その深水がどうも自分が納得できない負け方をした。
 幸い、自分のジムと精英塾には繋がりがある。そこで今大会で自分のセコンドについ
てサポートしてくれている人間にちょっと探ってくれるように頼んだのだ。
「やっぱりだ。あの時、目をやられたらしいぞ」
 と、三戸のやや後方を歩きながらセコンドの人間がいった。
「親指で閉じた目をグリグリいったってとこだろ?」
「その通り」
「ふうん」
 既に月島拓也が入場しているのだろう。遠くの方から聞こえてくる人の声のさざ波を
浴びながら三戸は唇を強く噛んだ。
「そういう奴か」
 いいながら、入場門を潜った。

 十六人が八人、そして八人が四人。
 四人の人間が「優勝」という可能性を抱いている。
 月島拓也。
 三戸雄志郎。
 柏木耕一。
 藤田浩之。
 この四人だ。
 既に二回戦を勝ち上がった男たちである。
 それだけである程度の実力と運を持っている証明であろう。
 月島拓也ほど、そのことを誇っていない男もいなかっただろう。
 三戸だって耕一だって浩之だって、準決勝にまで残れたことを少なからず誇りに思い、
嬉しく思っている。特に浩之などはこれで念願の耕一との再戦ができるということでそ
れも一際だろう。
 拓也はそれをどうでもいいと思っている。
 不意に、試合を目前にして荷物をまとめて帰ってしまう危険性があるのは唯一、この
男だけだ。
 ただ、次のために試合場にやってきた。
 柏木耕一。
 藤田浩之。
 いずれが勝ち上がってきてもいい。
 どちらもやりたい相手だ。
 耕一とは、以前にある病院の廊下で一触即発にはなったものの、耕一に拓也がいなさ
れる形になってしまって、以後手を合わせていない。
 浩之とは、かつて自分が通っていたことのある道場で試合った。心身を踊らせること
のできる闘いができた。明確に決着がつかずに痛み分けの形になったが、決着をつけた
い気持ちがある。
 そのために、準決勝を勝つ。
 三戸雄志郎という「道」を通る。
 歩いて通る。
 なんの気負いもなくまかり通るつもりだった。
 負ける気が全くしない。
 三戸の試合は一回戦も二回戦も見た。
 実力者だと思う。グラウンドでのテクニックに拓也が感心するだけのものを持ってい
る。
 でも、負ける気がしない。
 これに勝てば耕一か浩之とやれるから負ける気が塵ほどもしない。
 これに勝ったら絶対だ。
 はずれは無い。
 いずれかと必ずやることができる。
 だから、負ける気がしない。
 自分で自分のことはわかっている。
 自分が、強力な願望を実現するために常人にはできないことをできる、ということを
知っている。
 僕はそういう人種だ。
 三戸が試合場に歩いてくる。
 特に興味は無い。
 実をいうと、拓也は三戸の名前もよく覚えていない。三という字が入っていたな、と
いう程度の認識しかなかった。
 その「三という字が入っている」男が試合場に向かってくる。
 やってやるぞ。
 そんな気負いは無い。
 こいつを倒さないと美味いものが食えないから排除するだけだ。
 さあ、来い。
 排除されるために来い。

 三戸は月島拓也と向かい合った時に、初めて何やら薄ら寒いものを感じた。
 向き合って、いざ試合、となった時になって初めてわかった。
 こんな薄ら寒い奴だったのか……。
 細い目から放たれる細い眼光が寒い。
 全身から発している雰囲気も寒かった。
 なんだろう。
 拓也に見つめられた関節の節々が不可視の何かにつつかれたようにむず痒い。
 これは……思っていた以上に……。
「それでは、二人とも正々堂々、悔いの無いように」
 ルールについての諸注意を行った後、レフリーがそういった。
 正々堂々ね……。
 また、難しいことをいってくれる。
 三戸は機会があればいきなり仕掛けるつもりであった。
 控え室からここまで歩いてくる間、考えてはいたが決意には至っていなかった。
 それが、向かい合って決意した。
 やってやろう。
 レフリーが拓也を見る。三戸を見る。
「はじめっ!」
 その試合開始の声を聞き、三戸は身構えた。
 ……?
 二人の間に対流する空気に違和感を感じて三戸は念のため、数歩後退した。
 試合開始ともなれば、誰でも気が引き締まる。
 その気配は、いくら隠そうとしても自分から拓也へと流れていったはずだ。
 だが、拓也の方から自分へとそれと同種のものが来ない。
 なんといえばいいのか。
 寒い。
 とにかく、熱が無い。
 顔を見る。
 試合開始前と後で変化が全く無い。
 その顔が下方へ──。
 両肩の間に顔を埋めるように──。
 これまでに何度も見せた体勢を低くしたアマレス風の構えである。
 試合を見ていれば、この月島拓也という男がグラウンドを自らの領域としている選手
であることが三戸にもわかっている。
 ならば、それに乗ってやろう。
 正確には、乗ると思わせる。
 無造作……という表現をしたくなるような足取りで前に出る
 拓也が狙っているのはタックルだろう。
 それを読む。
 手足の位置、運び方、腰の重心の移動。
 手掛かりはそれだけではない。
 気配も重要な一項目だ。
 幾ら何でも、気配が全く感じられないということはありえない。
 絶対に、寸前に気配が来る。
 だが、寸前までは来ないだろう。
 厄介だ。
 その点では、そのようなことを三戸が知るはずもなかったが柏木耕一が実践している
伍津流心得の「むき出しの闘気は忌むべし」という条項を知らず知らずの内に、もしか
したら耕一よりも自然に無理なく実行しているのが拓也かもしれなかった。
 さすがにそのような細かい機微は観戦しているだけではわからないが、伍津双英がこ
の男と向かい合ったら驚愕するだろう。
 拓也の体が前屈に似た形で動く。
 そのまま倒れてしまうのではないか、と錯覚するほどにその動きに力が感じられなか
った。
 だが、その一瞬前に三戸は感じていた。
 拓也の方から寒さが来た。
 寒気が走る。
 泡立つように生じた悪寒でそれを感じることができた。
 二人の間の距離が瞬時に無くなる。
「おおう!」
 三戸が無意識の内に叫んだ。
 我が身を凍てつかせた気配を振り払うのに、叫ぶ必要があった。
 絶妙のタイミングでタックルを潰して上から被さった。
 まさか潰されるとは思わなかったのか、拓也から動揺の気配が伝わってくる。
 それを感じた時に三戸が抱いたのは安堵であった。
 なんだ。こいつも普通の人間じゃねえか。
 そう思ったら楽になった。
 楽になったら体がスムーズに動く気がした。
 よし、思い切って行くか。
 思うと同時に動いていた。
 被さったままクルリと回る。
 バックマウントを取った。
 スリーパーへ!
 拓也が顎を引いて防ぐ。
 機会があれば仕掛けるつもりだった。
 機会が思っていたよりも早く来た。試合開始からまだ二十秒も経っていない。
 顎を引いた拓也の顔へ右腕を──。
 親指を曲げて、それを他の四本の指で覆い隠すように──。
 左目!
 瞼を閉じてもその上から押す。
 押して顎を上げさせる。
 上がったら左腕でスリーパー。
 お前が一回戦に深水にやったやり方だ。
 どう返す!?
 三戸の親指に感触が生まれた刹那、拓也の右腕がまず脇に引き付けられて畳まれ、次
の瞬間に三戸の曲がった右腕と拓也の右側頭部の間にできた空間を突き上げるように潜
っていた。
 そしてそれを曲げ、三戸の右腕の湾曲部、つまりは肘の内側に自らの右腕の肘を当て
て外に向かって押す。
 三戸の右手の親指が拓也の左目からズレる。
 そして瞬間、拓也が顔を左に捻って抜ける。
 さすがに自分で仕掛けるだけあって、抜け方もよくわかっているし、いきなりやられ
る側に回っても素早く対応できる。
 拓也が深水に、そして今、三戸が拓也に仕掛けたやり方は目を押してただ顔を腕で引
きつけるよりも効果がある──もちろんバレたら反則──が、既述したように左側頭部
がロックできないために顔を左に捻ると抜けられ安い。
 さらには、今のように右側頭部と右腕の間に大きな空間ができてしまうのでそこへ右
腕を入れて腕を押し退けることができる。
 拓也がすぐに回転してバックマウントの体勢から抜け出す。
 三戸は拓也を離して立ち上がった。
 どうだ?
 おれにはそういうのは通用しないぜ。
 そう、威嚇したつもりだった。
 拓也がレフリーに促されて立ち上がる。
 試合開始をしても変わっていなかった表情に変化が見受けられた。
 恐怖。
 怒り。
 驚き。
 それらは無く、なんとも不思議な親しみ。
 拓也は微笑していた。
 タックルに来られる直前よりも凄まじい悪寒が三戸を襲う。
 なんだ、こいつは……。
 なんて……寒気のする笑顔だ。

 拓也はこの三戸との試合を目的へ行くためにこなさなければいけない「作業」のよう
なものだと思っていた。
 目的は、あくまでも耕一か浩之だ。
 だけど……こんなところに……。
 拓也は微笑む。
 いたか。
 こんなところにいたか。
 こんなところにいてくれたのか。
 同志よ──。
 この三戸雄志郎という男は自分の同志に違いない。
 これまで自分が求めているのとは違った試合を「作業」としてこなしてきた拓也の渇
いた闘志に潤いが染み行く。
 この男は一回戦の深水と自分の試合を見て、自分が「同志」であることを看破したに
違いない。そして、そのことを教えるために今、自分が先程深水に仕掛けた戦法を仕掛
けてきたに違いない。
 渇いた拓也はそう思った。
 ようし、やろう。
 同志よ──。

 三戸の背筋から悪寒は消えなかった。
 餓えたこの男に「同志」と思われたことが三戸雄志郎の不幸であった。





     第75話 無垢

 気色が悪い。
 三戸雄志郎の背筋を縦断した悪寒は消えない。
 この気色の悪さはなんであろうか──。
 悪寒の原因はこの男の気配だ。
 薄ら寒い、それに触れていると肌にぶつぶつと鳥肌が沸き立ち、背筋が凍り、寒冷が
全身を蹂躙する。
 そして、この男はいつ反則スレスレの危険な攻撃をしてくるかがわからない。
 それに裏付けられて寒さは一層に三戸の身を突く。
 しかし、三戸だって負けてはいない。
 この男が一回戦、精英塾の深水征に使った反則まがいの戦法をこっちが逆に仕掛けて
やった。
 惜しくもそれで仕留めることはできなかったが、やってやった。三戸は会心の気持ち
で立ち上がった。
 そして、その男を見る。
 タックルを潰して、バックを取って、こいつが使った戦法を逆に使ってやった。
 してやったり、という気持ちが強い。
 こいつも普通の、おれと同じ人間じゃねえか。
 そう、強く思う。
 だったら、恐くねえ。
 強く思う。
 恐くねえ。
 それを唱える。
 鳥肌が背筋の悪寒が、嘘のように引いていく。
 熱を持ち始めた身体を持て余すようにステップを踏む。
 さあ、早く立ってこい。叩き潰してやる。
 背中を向けてうずくまったその男が立ち上がるのを待つ。
 その男が、身を起こしながら振り返る。
 想像していたいかなる表情も無かった。
 怒ってもいない。恐れてもいない。驚いてもいない。
 笑顔──。
 その男──月島拓也──は笑っていた。
 しかも”無垢”と表現していいような不純物の無い笑顔だ。
 本来、このような場面で出てくる笑顔とは、三戸には到底思えなかった。
 このような場面で出てくる笑顔とは、不敵な笑みか、それとも冷笑の類であろうと三
戸は思っていた。
 そういう種類のそれならば何も恐くはない。
 何を余裕くれてんだ、おい。
 そんな感じに闘志も沸こうというものだ。
 だが、純粋に笑顔だ。
 その笑みは作られたものではなかった。
 それは本来の笑みであった。
 嬉しい時、喜んだ時に自然とこぼれてくる笑みがそこにあった。
 親愛の情がそこにあった。
 なんだ!?
 拓也の無垢な笑顔が三戸に目に見えぬ衝撃を与えてくる。
 それまで我が身の中で抱き、形成してきた「月島拓也」という名の人間に対するイメ
ージが根底から覆されそうになる。
 無垢な笑顔が、三戸の中にいる月島拓也を激しく揺さぶり、侵食する。
 どことなく不気味な奴だ……。
 そう思いつつも、ある程度のイメージは固まっていた。輪郭まではっきりと見えてい
た。
 それが一瞬にして掻き消える。
 輪郭がぼやけ、その中に入っていた月島拓也が空中に滲み出し、漂い、不定形の存在
となって笑っていた。
 滲んだその笑顔はやはり無垢。
 なんだ、こいつは!?
 惑う自らを叱咤するために三戸が左右の掌で思い切り自分の頬を叩く。
 まだ、笑っている。
 三戸の中の滲んだ拓也もまだ笑っていた。
「くそ!」
 思わず声が出る。
 ばちん!
 と、奥歯が震動する勢いで頬を叩いた。
 拓也が笑みを消さぬまま立ち上がってきた。
 その笑顔は無垢そのもの。

「……?」
 長瀬祐介は感じた違和感を音声にすることができずに首を傾げた。
 祐介には格闘技のことはわからないので、細かい攻防に関しては皆目見当がつかない。
 祐介が知っているのはスリーパーホールド、腕拉ぎ逆十字固め、アキレス腱固めなど
の比較的知名度の高い技の最終的な形ぐらいなもので、グラウンドでのやり合いになる
と何がなんだか不明である。
 初めは単純に上になっている方が有利なのかと思っていたらそうでもないらしく、下
になっている人間が首と片腕を両足でロックして勝つこともあった。
「えーっと、あれは三角だよ……うん、三角固め」
 と、教えてくれたのは彼の隣に座っていた恋人だ。
 正しくは三角絞めである。
「お兄ちゃんが練習してるの見てたら、教えてくれたよ」
 と、いうことらしい。まさか練習といっても二人で組んず解れつしているわけではな
いだろう、見てたっていってたし、きっとそうだろう。うん、そうだな、自分の恋人を
信じろ、長瀬祐介。
「長瀬ちゃん?」
 隣に座っていた彼の恋人にして月島拓也の妹、月島瑠璃子が不思議そうに尋ねる。
「……長瀬ちゃん?」
「……ああ、ゴメン」
 二回目に呼ばれてようやく気付いた。色々あって変わったつもりだが自分でも知らず
知らずの内に妄想を逞しく育ててしまう癖は抜けきっていない。
「お兄ちゃん……なんだか嬉しそうだね」
「え?……」
 嬉しそう……。
 そういう捉え方は祐介の中のどこを探しても無かった。
 祐介が立ち上がった拓也に感じたのは、ただただ不思議な念だけであった。それが違
和感となって祐介の首を傾げさせていた。
 祐介が感じたその違和感を瑠璃子が「嬉しそう」と表現したのがどうにも気になった。
 そうなのだろうか?
 目を凝らして、座っている一番安い席から拓也を見る。
 瑠璃子が「お兄ちゃんが試合してるとこを見たいよ」といったので、そんなら少し甲
斐性というやつを見せるか、と思って全額負担を申し出たものの、思っていたよりもエ
クストリームの席が高いのに驚きながら購入した3000円席だ。
 嬉しそう……には祐介には見えなかった。
 とにかく、試合開始当初と変わったような気がしてならない。
 嬉しい?
 そうなのか?
 その割りには今の拓也からは薄ら寒いものが感じられてならない。
 それがあの人の嬉しい、ということなのか?
 思考が乱れる。
 ふと、実際に向かい合っているあの三戸という人は自分よりも乱れているのかもしれ
ないと思った。

 乱れに乱れた思考をまとめ上げる前に試合が再開され、三戸はとりあえず本能的に距
離を取った。
 親しげな表情の拓也がそれをゆっくりと追う。
 時間だ。
 乱れた思考を正常に戻すためにとにかく少しでいいから、落ち着くための時間が欲し
い。
 来るんじゃねえ!
 後方にステップを踏む。
 拓也が親しげな笑みを浮かべたまま開いた距離を詰めてくる。
 なぜ、そういう顔で進むことができる。
 進んだ先には自分との闘争があるというのに……。
 闘争に向かって、なぜ、そんな顔をして進んで来られるのか。
 近付いてくる。
 にこやかに、親しげな顔が近付いてくる。
 相変わらず頭を両肩の間に沈めるようにしている。
 おれが何をした!?
 おれは、こいつに何をした!?
 そんな親しげな笑顔をさせる何をした!?
 元々薄気味悪かったこの男をさらに気味悪く、だけでなく不可解な存在としてしまっ
たのはなんだ。
 おれがした何らかの行為が原因なのか!?
 考えられるのは、その直前にやった行動だ。
 タックルを潰して、バックに回って、スリーパーホールドを狙い、それを防ぐために
拓也が顎を引いたのを閉じた瞼の上から左目を親指で押して上げさせようとした。
 かつてこの男が深水征に使った戦法をそのまま使ったものだ。
 それか……いや、それしか考えられない。
 現在、試合時間は第1ラウンド五十秒を経過したところである。この短い邂逅の間に
それと思えるものはそれ以外に無い。
 それに対する何らかのリアクションがあることは当然予期していたが、幾つもあった
想定の中にあんな笑顔は無かった。
 拓也があの笑顔のままやってくる。
 それから逃げて後退していた三戸は、自分の足がラインを踏んでしまったことに気付
いた刹那、横に飛んだ。
 ついつい後退し過ぎた。故意にライン外に出ることはペナルティになることは重々承
知していたのにだ。
 まずい、焦っている。
 それが苛つくほどに自覚できる。
 このままでは勝てるものも勝てない。
 とにかく、攻めよう。自ら動いてこの状況を打開しよう。
 横に飛んだ三戸を、ゆっくりと体の向きを変えることで追った拓也は、真っ正面から
目が合うと、また前進を始めた。
 今度は三戸もそれに呼応するように前に出ていく。
 後、二歩踏み込めばパンチが当たるという間合いになった時、拓也が左手を前方に、
泳がせるように出してきた。
 拳は握られていない。
 指が小刻みに揺れ動いている。
 アマレスによく見られる手の探り合いに近い動きだ。
 このルールの試合でアマレス流の手の取り合いをしようというのか。
 だが、当然相手がそれに応じず打撃を送り込んできた場合のことも想定しているはず
であり、むしろ初めからそれを見越して打撃を待っているのかもしれない。
 三戸は迷った時は相手の表情でその考えを読む。
 この時も自然と視線が表情を探った。
 見てから舌打ちする。
 やっぱり、あの笑顔だ。
 苛立ち、焦る。
 焦り、苛立つ。
 二つが交互に左右から心を揺さぶっているようだった。そしてそれが互いに相乗効果
を及ぼし合っている。
 この顔だ。
 この無垢な笑顔がいけないのだ。
 これのせいで自分は苛立ち、焦り、冷や汗で背中を濡らしているのだ。
 殴ってやる。
 思い切り、拳をぶち当てていく。
 別にそれを喰らわせたからといって拓也の笑顔に亀裂が入って砕け散るわけではない
が、少なくとも、笑ってはいられなくなるはずだ。
 獲物を求めるように宙を漂う拓也の左手に合わせて、三戸が右手を出す。
 五本の指では最も長い中指同士が軽く触れる。
 瞬間、三戸は右手を引きつつ、左手を振った。
 左のストレート、拓也の顔目がけて一直線に向かう。
 当たった。
 すぐに引く。
 浅い。
 左のそれが来ると察知して拓也がスウェーで上半身を引いていた。見事な距離の取り
方といっていい。
 だが、それよりも三戸に衝撃を与えたのは、左ストレートが入る前も、入った瞬間も、
入った後も、拓也の表情に一切の変化も見受けられないことであった。
 変化といえばただ一つ。
 鼻の穴から赤い筋が下っただけ。
 その赤い色は、唇から顎へと伝った。
 それでも、表情自体に変化は無い。
 無垢な笑顔。
「ぬあああっっっ!」
 張り裂けるような叫び。
 それと共に繰り出される右のストレート。
 それが空を切った時、拓也は三戸に密着していた。
 パンチを紙一重でかわして右脇へ──。
 三戸が触れたと感じた次の瞬間には感触が背中に回っていた。
「おおおっ!」
 その声もまた張り裂けるような響きを伴っていた。
 右足で、柔道の小内刈りの容量でバックについた拓也の右足を刈って倒す。
 体重を乗せて倒れる。
 潰れてしまえ!
 背中に衝撃が来た。
 倒れる寸前、拓也が刈られた右足をマットにつけ、それを起点に体を左に回転させて
三戸とマットの間から脱していた。
 横四方固め。
 それを跳ね返そうとする三戸の体に吸い付くように拓也が密着していた。
 跳ね返そうとする三戸の力にほとんど逆らわず、三戸が望んだのとほぼ同じ動きをさ
せ、その先手を行って有利なポジションを有し、右腕に腕拉ぎ逆十字固めを極めていこ
うとする。
 こいつは……!
 自分の心を読んでいるとでもいうのか!
 極められる!
 三戸の全身を寒気が巡った。





     第76話 軋む心

 戦っている最中に寒気を感じる。
 そういうことが今までに無かったわけじゃない。
 強烈なパンチを貰うと覚悟した瞬間、自分の腕が取られて極められる、と思った瞬間、
ここぞというチャンスを掴んだ瞬間。
 寒気が全身を貫いた経験はあった。
 だが、一瞬一瞬のものだ。
 寒気を感じっぱなし、というのは三戸にとって初めての経験であった。
 腕拉ぎ逆十字固めをなんとか逃れようと両手をクラッチさせながら足でマットを蹴っ
て上半身の向きを変えようとする。
 拓也が吸い付いたように三戸の右腕に貼り付いている。
 掌に汗が浮き上がってくる。
 歯軋りしながら耐えている。
 指にも汗が光り出す。
 今は親指を除く四本の指を鉤状に曲げて互いに引っかけているので耐えられるが、こ
の指が伸びたらすぐに汗で滑って解ける。
 寒気を感じながら指に力を込める。
 冷や汗で全身を濡らしながら十字を極められる直前で耐え続ける。精神をすり減らす
作業だ。
 クラッチを維持したまま左半身を上げていく。
 拓也がそれを両足で防ごうとするが……凌いだ!
 そのまま上半身を起こしていく。
 拓也の両手両足が即座に位置を変える。
 三角締め。
 凌ぐ。
 足をすくわれてアキレス腱固め。
 これも凌ぐ。
 しかし、次から次へと拓也の仕掛けが続き、三戸が攻勢に転じる暇が無い。
 こちらが力を入れる前にその方向を知っているかのようだ。
 凄まじい精神的な疲労感が蓄積していく。
 どのように足掻いても常に一歩先手を取られる。
 場外ラインは遠い、二人が転がっているのは試合場のほぼ真ん中だ。
 拓也が再び腕拉ぎ逆十字固めの体勢に持っていく、今度は右。
 絶え間なく続く拓也の執拗な攻撃に三戸の心はもはや挫ける寸前であった。これを凌
いでもすぐにまた拓也の次なる攻撃が来るだろう。それを凌げばまた次だ。
 拓也は相変わらず笑っている。
 無垢な笑顔をしたまま三戸の腕を極めようとしている。
 だが、三戸はそれとは別に純粋に技術面での拓也の怖さを既に嫌というほど実感して
いた。
 グラウンドでの取り合いになると人間というよりも精密機械に近い。
 極度にミスをせず、こちらのそれはどのように些細なものでも瞬時に見抜き即座に衝
いてくる。
 一度優位な体勢を許せば容易にそれを手放さない。
 そうなれば今の三戸のように延々と拓也に押されることになる。
 そして、いつしか極められる。
 三戸だからここまで凌ぎ続けられているのであって彼よりも実力の無い人間ならばす
ぐに極められているに違いない。
 その三戸も心が折れそうになっている。
 心の底から対戦相手に「こいつには勝てない」という感情を抱いてしまうことを心が
折れることだとすれば、今正に、拓也は三戸の心を極めてへし折らんとしている最中で
あった。
 どうしてもこいつには勝てないんじゃないか。
 その気持ちが三戸の中に芽生える。
 骨が軋む音とは全く異質な音が三戸の中だけに響く。
 心が軋む音だ。
 心が極められて軋んでいる。
 勝てない。
 こいつには勝てない。
 そんな音色をしていた。
 どうやったって、こいつに勝てるわけがない。
 このまま右腕を極められてタップして、それで負けか。
 その近い未来のビジョンが脳裏に閃く。
 だが、その一方で軋みに耐える音も上がる。
 まだまだ……。
 まだ、負けんぞ、これを凌げば、きっとチャンスが……。
 二つの音がぶつかり合う。
 三戸の右腕が拓也によって伸ばされようとしている。
 やはり、駄目か。
 思いながら視線をやった拓也の顔に、凄絶な寒さを感じて三戸は伸ばされようとして
いる右腕を強引に力任せに曲げた。
 折る気だ。
 それがはっきりとわかった。
 こいつ、おれの腕を折る気だ。
 タップをしても技を解くかどうか疑わしい。
 冗談じゃないぞ。
 左手を走らせてクラッチ──。
 だが、クラッチがいつまでも保つか。
 むしろ、左手で右腕を掴んだ拓也の手をはずした方がいい。片方を外してしまえば後
は力比べだ。力では、それほどに両者に開きは無い。
 だが、短時間で外さねば意味が無い。
 それを思った時──。
 恐怖が背中を押した時──。
 三戸の頭脳から呼び覚まされたのは、ある古流武術の一流派の道場に出稽古に行った
時の記憶だった。
 試合じゃ、こういうのは使えないだろうけど……。
 と、前置きしながらそこの師範代が教えてくれた方法だ。
 三戸は右腕を曲げて耐えつつ、左手を伸ばして拓也の左手の人差し指と中指を掴んで
手首を返して極めた。
「!……」
 たまらず拓也の左手が三戸の右腕から離れる。
 瞬間、指を話して左手を右手と結んでクラッチさせて思い切り左に転がるように拓也
の右手を外す。
 上手くいった。
 安心した瞬間、レフリーの声が降ってきた。今の指を取ったのを見られたようだ。が、
まあ、それはどうでもいい。
 レフリーが二人を立たせて中央線まで戻し、三戸に向けてイエローカードを提示した。
 禁止事項になっている「危険技」の使用によるものである。
 まあ、かまわん。
 三戸はそれをあっさりと受け入れた。
 見られていたのなら抗弁しても時間の無駄であるし、そもそも覚悟の上だ。あれをや
っていなければ腕が折られていたかもしれない。
 試合再開の瞬間、三戸の目に拓也の無垢な笑顔が飛び込んできた。
 この男、まだこんな顔を……。

 今度は指を取ってきた。
 歓喜がしみ出すような笑顔で拓也は笑っていた。
 やるじゃないか、同志。
 レフリーが見ていて、観客が見ている。そんな試合でも、いざ負けるとなれば躊躇無
く、例え反則を取られようとも手段を選ばない。
 次は自分の番だ。
 レフリーに悟られずにあなたの指を取ってみせよう。
 そして、指を極めて相手をコントロールして関節を極めてタップを奪ってみせる。
 こういう試合でなければそのまま指を折ってしまうのだが、ここで反則負けになって
次の試合に進めないというのも残念だ。なにしろ、次は耕一か浩之が相手なのだ。
 拓也の同志はほとんどいなかった。
 付き合ってくれる人間がほとんどいなかった。
 それもそのはず、拓也に付き合うということは、極められれば折られるということだ。
 そんな拓也と闘ってくれる人間などそうそういようはずがない。
 だが、藤田浩之という男がいる。
 この男との闘いには一応ルールがあったが、拓也がそれを無視すると浩之は抗議など
せずに自らも無視して反撃してきた。
 いいだろう、付き合ってやるぜ。
 浩之がそういっているように思えた。
 嬉しくなった。
 嬉しくてたまらなくて、浩之の腕を折ってやった。
 腕を折って終わりかと思っていたら、その油断を衝いて浩之は反撃してきた。
 馬乗りになられて顔を何発か殴られた。
 嬉しくなった。
 まだまだ付き合ってやるぜ。
 浩之がそういっているように思えた。
 腕を折られながらまだ付き合ってくれる人間がいたのか。
 浩之は片腕が使えないながらもさらに闘い、拓也の顔面に蹴りをくれた。
 鼻が潰された。
 でも、とても嬉しかったから、もちろん止めなかった。
 そこで、その場にいた緒方英二に止められた。そして、このエクストリームに耕一が
出場することを知り、さらに浩之も出るらしいことを知った。
 柏木耕一。
 この男も、気になる男だった。
 殴ったわけでもなく、蹴ったわけでもなく、極めたわけでもない。
 ただ、両肩に手を置いただけで、自分に本能的な恐怖を感じさせた男。
 この男とやれるなら……。
 もう一度、浩之とやれるなら……。
 そう思ってここに来た。
 組み合わせを見ると、自分だけ別のブロックにいた。
 なんだか妙に寂しくなった。
 でも、ここに同志がいた。
 一回戦で自分が使ったレフリーに見つかれば反則の攻撃を試合開始直後に仕掛けてき
た。
 やろうぜ、付き合ってくれよ。
 そんな声を聞いたような気がした。
 笑顔のまま、拓也が三戸のパンチをかいくぐってタックルを決めた。

 倒された時、三戸は少しでも優位なポジションを確保しようと激しく動いた。
 揉み合う内に指に痛みが走ったのは驚きの対象ではなかった。やはり来たか、という
予感が当たった感じだ。
 指を極めながらこちらの動きをコントロールして関節を極めやすい体勢に持っていこ
うとしているのだということを三戸は看破した。
 上手いぐあいにレフリーから死角になるようにしている。
 だが、そんなもの──。
 おれが教えてしまえば無駄だ。
「レフリー!」
 三戸は叫んだ。
 それは当然の行為であって、権利の行使であって、何もおかしなことではないと確信
しての行動だった。
「レフリー! 反則だ! 指極めてるぞ、指!」
 その叫びに応じてレフリーが位置を変える。その目に、はっきりと拓也の手が三戸の
指を掴んでいるのが見えた。
 拓也は、レフリーに見られているというのにそれを隠そうとも放そうともしない。
 力を入れてもいなかった。
 ただ、呆然としていた。
 微かに笑みが浮いていた。
 何が起きたかがいまいち理解できない笑みであった。
 レフリーによって三戸から放され、目の前にイエローカードを突き出されても、まだ
理解が及ばないらしかった。
 最初に、ふっ、と思い付いたのは、これも三戸の戦法なのか、ということだ。
 先程自分もイエローカードを貰ってしまったから、こちらにも同じだけの減点を与え
ようというのだろうか。
 理解できないことは無いが、それは違うのではないか?
 手段を選ばないといってもそれは違うのではないか?
 レフリーの力を借りるのは違うのではないか?
 自分がやったことはやられる覚悟をしていて然るべきではないのか?
 疑問が幾つも生じる。
 疑問の果てに、最大の疑問が生じる。
 ──この男、同志じゃないのか?
 違うのではないか?
 違うのか?
 お前、違うのか?
 同志じゃないのか!?
 お前、同志じゃないのか!?
 試してやる……。
 拓也の顔から無垢な笑みが消えていた。

 試合再開の時、何気なく拓也の顔を見た三戸の目が見開かれた。
 どうせ、また、あの薄気味悪い笑顔をしているのだろう。そう思っていた。
 違う顔がそこにはあった。
 張り詰めて、緊張したような顔。
 なんだ!?
 こいつ……。
 怒っているのか!?
 そう思った途端に、三戸の心が軋んだ。

                                  続く




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