鬼狼伝









     第6話 本能的恐怖

 拓也は、折る気であった。
 腕ひしぎが完全に決まっている。
 この形になってしまえば、もう折ったようなものだ。
「ひあっ!……」
 喉の奥が掠れるような声は棟方が発したものだ。
 表情もそれに比例して顔中に苦悶を浮かべている。
 ここで仮定してみる。
 もし、棟方が苦しそうな声を出さなかったら。拓也は詰まらなくなって止めたかもし
れない。
 もし、棟方の表情に苦悶が浮いていなかったら。拓也は面白くなくなって止めたかも
しれない。
「や、止めてくれ……」
 それは、拓也を喜ばせただけであった。
 べきぃ。
 と、鳴った。
 ぱきぃ。
 と、聞こえないこともなかった。
 音は鳴った後、一切の余韻も無いまま消える。
 音が消えた後、あらゆる音が少しの間だけ聞こえなくなる。
 静まり返った世界に浸った全身を凄まじい歓喜、充実感、興奮が駆け抜ける。
 いつも通りだ。
 その感動の中、拓也はただでさえ細い目を、さらに細くして笑う。
 手を伸ばして頭髪を掴み、顔を自分の方に向かせる。
「まだまだ」
「ひいっ!」
 先程まであれほど獰猛だった男が、自分の顔を見ただけでこの恐れようだ。
 仕方があるまい、この男はもう、自分に対して本能的な恐怖を抱いてしまったのだ。
その恐怖はそうすぐには克服できるものではない。
「おい、止めとけ」
 後ろから肩に置かれた手を、拓也は握ろうとした。
 何者であろうとも、邪魔をする奴は許さない。
 拓也の手の動きは素早かった。が、先方がそれを上回った。
 手に触れた。と、感じた刹那、その感触が消失し、拓也の手は上から押さえ付けられ
ていた。
「もういいだろ、止めとけ」
 拓也はその手を振り払いつつ振り返った。
 今、腕を折ってやった男が「柏木」と呼んでいた男がこの状況下にあって穏やかな笑
顔を崩さずに突っ立っている。
 こいつも、恐怖させてやる。
 拓也は陶然としながら思った。
 僕を、本能的な恐怖に彩られた目で見るがいい。
「止めとけって……なっ」
 気付いた時には、拓也の両肩が掴まれていた。
「!……」
「確かに、そいつが先に手を出したけど……それ以上はやりすぎだ」
 殴るか、蹴るか。
 咄嗟に、拓也は考えた。相手は肩を掴んだ両手を思い切り伸ばしている。腕のリーチ
にはほとんど差が無い。
 と、なると拳は当たらない可能性が高い、ならば蹴りだ。
 間接技に対するほどではなかったが、打撃技だって一通りやっている。その気になれ
ばさっきの男程度だったら打撃技だけでもなんとかなったのだ。
 拓也は、右足での前蹴りを放とうと、膝を曲げて右足を上げた。
「止めろってば」
「!……」
 拓也は再び驚愕した。
 次の瞬間、膝を伸ばして右の前蹴りを打とうという時に、左足が伸びてきて、足の裏
でそっと拓也の右膝を押さえたのだ。
 前蹴りは封じられた。
 ならば、と拓也は考えた。この執念深いところは格闘家としては長所といっていいか
もしれない。
 足を横にずらしつつ引き、回し蹴りに変化させるか。
 だが、前蹴りを膝を押さえて封じたような相手である。そう来ることは承知している
のではないだろうか。
 ならば、フリーになっている両手で肩を掴んでいる相手の手の一方を取って間接を決
めに行くか。
 だが、少しでも手こずれば蹴りが飛んでくるだろう。
 ならば……どうする。
 拓也にとって初めての経験であった。
 何をやっても返されるような気がする。
 打つ手が全く無いような気がする。
「もう、いいだろ」
 その声が、天上から投げ掛けられたもののように絶対的に思えた。
「……」
 声には出さずとも、拓也の闘気が霧散したのがわかったのか、耕一は手を離した。
 拓也の目は、耕一を何か全く違う生き物を見るかのような光を帯びていた。
 何かが全身を貫く。

 本能的恐怖。

 拓也の全身を貫いているものは明らかにそれであった。
「さっさと逃げちまいな、こいつも一対一でやり合ってやられたんだ。警察に届け出た
りはしないだろ」
 耕一は棟方を親指で、ちょい、と指差して拓也に囁いた。
「あの……あなたは?」
「柏木耕一ってもんだ。ま、詳しいことは聞きっこなしってことで……なっ」
 そういって、耕一は笑った。
「月島拓也です。……失礼します」
 拓也は真顔のままそういうと、妹を促して去っていった。
 一度だけ振り返る。
 耕一が、棟方に肩を貸しているところだった。
 全身を貫くものはまだ消えない。
 だが、それとは全く別種の、正反対に近い感情が生まれていた。
 その二つが混じり合った時に拓也の中に芽生えたのは、
「あの男……なんだ?」
 と、いう凄まじい興味であった。

「うぎぎぎ」
 肘が思い切り曲がっている。
 伸ばす。
「うぬぬぬぬぬ」
 もう一回曲げる。
 伸ばす。
「浩之、ここにいたんだ」
「おう」
 浩之は視界に佐藤雅史を認めるとそういって立ち上がった。
「久しぶりじゃない、ここって」
「ああ、なんか変に初心に帰りたくなってな」
 浩之にとって、この、学校の近くにある神社の境内は格闘技の発端ともいえる場所で あった。
「雅史、親指立てふせできるようになったぜ」
 いいつつ、浩之は二本の親指を屈伸させた。
「へえ、一週間前まで無理だったのに」
 ここ一週間、雅史はサッカー部の方が忙しくて浩之の練習には立ち合っていなかった
のだ。今までもずっと思ってきたことだが、彼の友人の成長の速さには目を見張るもの
がある。
「そういえば、松原さんは?」
「葵ちゃんは、ここはもう使ってねえよ。綾香のとこで練習してる」
「そうなんだ。もうすぐだっけ、エクストリーム大会」
「おお、そん時は応援に行かなきゃな」
 現在の浩之の技はほとんど我流に近いが、ゼロから我流で始めて強くなれるはずがな
い。浩之は案外と基礎はしっかりとしているのである。
 その基礎的な部分を浩之に叩き込んでくれたのが後輩の松原葵であった。見た目より
も義理がたいこの男は、未だに葵のことを自分の師匠みたいなものだと思っている。
「浩之は出ないの? エクストリーム」
「ま、その内な」
 浩之は今のところ、エクストリームにはあまり興味が無いようだった。
「おれは、ええかっこしたいんだよ」
 と、浩之はいっている。つまり、確実に優勝できるというレベルになるまで出場した
くないらしい。
「そういや、九人目はどうした?」
「ああ、そのことなんだけどね、一昨日来たみたいだよ」
 浩之は今、「十人抜き」に挑戦中である。
 その中のターゲットに現在、黒輝館の双璧と呼ばれている東京支部の三嶋常久(みし
ま つねひさ)と神戸支部の柄谷光吉(からたに こうきち)がいた。
 三嶋の方は八人目に撃破し、柄谷が九人目のターゲットである。
 神戸まで遠征しようかと思っていたのだが、東京支部と神戸支部との対抗戦があり、
柄谷が神戸支部の代表としてこっちに来るというのでそれを待つことにしたのである。
「で、どこにいるんだ?」
「うん、それがね、昨日、対抗戦が行われたんだ」
「へえ、柄谷の相手は誰だったんだ?」
「辻さんだよ」
「ふうん」
 辻さんというのは黒輝館東京支部の辻正慶(つじ しょうけい)のことである。三嶋
のライバルと目されている人物で、東京支部に限定すれば三嶋と、この辻が双璧になる
だろう。
 過去の公式戦の詳細な内容を見て、三嶋の方が強いと浩之は判断して十人抜きからは
外していたのだが、とある理由から、十人抜きの相手が一人足りなくなってしまったの
で最後の一人の候補を色々と考えていた。
 その中に辻正慶の名もあった。
「で? どうなった」
「柄谷さんが負けちゃったんだ」
「なに!」
 と、浩之は一瞬驚いたが、辻だって三嶋と実力伯仲している猛者である。驚くには値
しないかもしれないと思い直した。
「柄谷は?」
「腕を骨折したみたいだよ」
「……」
「浩之……」
「九人目は辻だ」
 浩之はそういうと前方に倒れ込んで、両手を地面に着いた。
 八本の指が浮き、二本の親指だけが重みを支える。
「明日、やる」
 浩之の手がスムーズに屈伸運動を開始した。
「ところで浩之」
「なんだ?」
 ぐっと曲げて、ぐっと伸ばす。
「最近さあ」
「おう」
 額から垂れた汗が地面にシミを作った。
「あかりちゃんと会ってる?」
「ん、そういや……会ってねえなあ」
 十人抜きを開始してからは朝早く起きてランニングして学校に行き、サッカー部の部
室で軽く筋トレをしてから制服に着替えて授業に出て、休み時間には睡眠以外のことは
せず、授業が終わればまたもやサッカー部の部室でトレーニングである。昼休みもパン
を食べたら間髪入れずに寝てしまうので、そういえばここのところあかりと話していな
いような気がする。
「あかりちゃん……浩之に嫌われちゃったんじゃないかって心配してたよ」
「あ? なにいってんだあいつは」
「浩之、あかりちゃんはね、ずっと浩之のことが好きで、やっと恋人になれたんだ……
だから、嬉しい反面、いつか浩之と別れる時が来るんじゃないかって不安なんだよ」
「あいつが……そういってたのか?」
「うん」
「相変わらず心配性な奴だな」
「浩之……」
「わかったわかった。少し安心させてやればいいんだろ。とりあえず、九人目をやって
からだ」
 浩之は親指立てふせ五十回を終えて起き上がった。
「とりあえず、今晩電話してみるわ」
「うん、それがいいよ」
 そういうと、雅史は我がことのように笑みを浮かべた。




     第7話 死闘

  黒輝館三段。辻正慶はそれを待ち望んでいた。
 ことさらに、一人で夜道を歩いていたのはもしかしたら、それが来るかもしれないと
思っていたからだ。
「辻さんだね」
 相手は二人。
「どっちがおれとやるんだ」
「やる気満々だね、あんた」
 一人が嬉しそうにいって、親指を自分に向けた。
「おれだよ」
 藤田浩之である。
 一見、やる気が無さそうにも見える。
 だが、袖から覗く腕を見れば、相当の鍛錬を積んだ者であることはわかる。
「そこの公園でやろうか」
「うちの三嶋がこないだ野試合した公園だな」
「……」
 浩之は、何もいわずに歩き出した。
 辻は、あの晩のことは、正直いってあまり覚えていない。酒を飲んだわけでもないの
に、いきなり意識が飛んで三時間経っていた。その間の記憶が全く無い。
 その日は、二時間前に三嶋と東京支部の代表の座を賭けて勝負しているはずだった。
 約束の場所には、気を失った三嶋が倒れているだけだった。
「お前なんだろ、三嶋をやったのは」
「……」
「別にそのことをどうこういおうとは思わん」
「ふうん」
「格闘家である以上、いくら野試合でも負けたらグダグダいわないもんだ」
「へえ、あんたなかなか話がわかるね」
「だから、これからどうなっても……おれを恨むなよ」
「恨みっこなし……いいねえ」
 立会人の佐藤雅史は、二人の間の空気が張り詰めたのを感じた。
 言葉で告げられたわけではない。
 空気が、告げていた。
 辻の右拳が唸った時に聞こえたのは拳が空を切った音だけだったのか。
 否。
 筋肉のしなった音が聞こえたように、雅史は思った。
 拳は浩之の目の前で止まった。
 これ以上無理に伸ばそうとしても体勢が崩れるだけだ。
 辻が踏み込んだ瞬間、浩之はそこまで後退していた。
 この辺の見切りの技術は天才的といっていい。
 辻がかわされたと見てまた踏み込む。
 左の正拳。
 を、打ち出す前に、浩之の右拳が一直線に辻の額を捉えた。
「っ!……」
 浩之は右拳が押されるのを感じた。
 格闘でも戦争でも、戦いにおいて相手の意表をつくことは有効な戦法である。
 格闘戦においてもっとも相手の意表をつく行動は、実は自ら攻撃に当たりにいくこと
ではないだろうか。
 固い。
 辻の額を打った時の浩之の正直な感想だ。
 これほどに固い額というのは初めてだ。
 当たったんじゃない。
 こいつが当ててきやがったんだ。
 そう思った次の瞬間、浩之の右肘は、ガクン、と曲がっていた。
 効いて、ねえのか!
 浩之が目を見開いて後ろに仰け反ろうとした刹那を捕らえて辻の右拳が突き上げられ
た。
 浩之の顎が跳ね上がる。
「せあぁっ!」
 続けて、辻が打ち込んだ。
 彼とて、浩之の拳を受けた額が痛まないわけではなかった。だが、そこは耐えである。
「おれの代わりに頑張ってくれ」
 ベッドに横たわった三嶋はそういった。
「よし、お前ならやってくれると思ったぜ!」
 神戸との対抗戦で勝利したことを告げた時、頭に包帯を巻いた三嶋はそういった。
 勝つ。
 辻の放ったローキックに浩之の足は軋んだ。
 必ず勝つ。
「うぐ!」
 水月に貰って、浩之は嘔吐感が喉をせり上がってくるのを感じていた。
 横殴りの一撃はしたたかに浩之の頬を打った。
 あまりの威力に浩之の体が捻れる。
 背中が、見えた。
 だんっ!
 辻が踏み込む。
 浩之は体を戻そうとはせずにそのまま回転した。
 瞬間、体をずらす。
 後頭部をかすめて辻の右拳が疾走したのがビリビリとしたうなじへの感触でわかった。
 回転。
 浩之の右腕が鞭のようにしなった。
 回転によって勢いを得たその一撃は辻のこめかみを痛烈に叩いた。
 バックブロー。
 いわゆる裏拳。
 辻がたまらず後退する。
 浩之は追撃しなかった。
「う、げええええっ」
 吐いた。
 先程の水月への一撃が効いていたのだ。
 胃の中が空っぽになるまで吐いた。
 浩之の目が細く鋭く。
 唇は、明らかに笑みの形を作っていた。
 辻はそれを見ながら血の臭いを嗅いでいた。
 自分のこめかみから、つう、と一筋の血が皮膚の上を滑り落ちている。
「ぺっ」
 と、浩之は最後に、酸味のきいた唾を吐き出した。
「あんた、いいよ」
「……」
「久しぶりにいいのを貰っちまった」
「まだ。やるのか」
「思い出したからね、ピリピリする感じをさ……」
 格闘技を始めて初の実戦の時に感じた感じ。
 もっとも、その時は負けてしまい、五人ぐらいにわけがわからぬほどにリンチを受け
たが。
 痛いのは嫌いだが……。
「この感じは好きだぜ」
 棒立ちになっている浩之の顔に辻からの闘気が吹き付けた。
 浩之の両手が上がる。
「せあっ!」
 拳が、浩之の頬を打った。
 時が転じた刹那、浩之の拳もまた唸りを上げて辻の顔面を捉えていた。
 辻が蹴りを放つ。
 蹴りは、浩之の脇腹に決まった。
 次の瞬間、浩之の蹴りが辻を襲う。
 次の瞬間、浩之の拳は辻の顎を突き上げていた。
 辻が苦しい体勢から拳を放つ。
 浩之は、よけない。
 胸で受けた。
 次の瞬間、浩之の拳が辻の水月を直撃する。
 次の瞬間、浩之の蹴りが辻の右足に激突する。
 辻の拳が浩之の頬をかすめた。
 親指の爪が頬肉を削っていた。
 しかし、浩之はそれを気にも止めていない。
 次の瞬間、浩之の肘が辻のこめかみを叩いた。
 次の瞬間、浩之の拳が辻の脇腹にめり込んだ。
 速い。
 攻撃の速さなら浩之の方が段違いに上回っている。
 雅史は、これまで何度か浩之の闘いを見てきた。
 これほどに猛った浩之は見たことがない。
 一発貰うたびに二発お返ししている。
 やがて、二発が三発になり、四発になり。
 両手両足を振り回しているのは浩之だけとなった。
 手刀。
 拳。
 裏拳。
 肘。
 頭。
 足刀。
 膝。
 あらゆる武器を浩之は振るっていた。
「浩之!」
 雅史が叫んだのは浩之を人殺しにはしたくなかったからだ。
 浩之に、
「あかりとか志保には絶対秘密だぞ」
 と、いわれて浩之の「十人抜き」に協力していたが、それで、自分がいながら浩之に
殺人を犯させてしまっては二人に合わせる顔が無かった。
「おい、あんた……」
 浩之の攻撃が止まった。
「もう……倒れていいんじゃねえのか?」
「……」
「なんでそんなに頑張るのかは知らねえけど、もう、いいんじゃねえのか?」
「……」
「雅史!」
 浩之は無言の辻に背を向けて叫んだ。
 辻の目が光を帯びて足が動いたのを見て、雅史は叫び返した。
「浩之っ!」
 浩之が首をゆっくりと横に振るのと、辻が前のめりに倒れるのと、ほぼ同時であった。
 浩之も、もちろんただでは済んでいない。
 もろに相手の攻撃を受けていたのだ。
「浩之、大丈夫?」
「体中、いてえ」
 浩之はそういって頬を撫でた。
 手首から指先まで、べっとりと血が塗りたくられた。
「明日は、あかりとデートして御機嫌伺おうと思ったが、この顔じゃ学校は休みだな」
 雅史は黙って頷いた。その顔で登校しようものなら大騒ぎになって生徒指導の教師が
駆け込んでくる恐れすらあった。
「帰りに、匿名で救急車を呼んでおこう」
「うん」
 浩之は去り際、倒れている辻を見た。
「一番強くはなかったが……あんた、今までで一番こわい相手だったよ」

「浩之、十人目はどうする?」
 雅史がいった。十人目の相手がまだ決まっていないのである。
「いや、その前にやることがある」
 そういった浩之の目に、刃物のような輝きが宿った。
「確か……明後日だったよな、停学がとけんのは」
「浩之……」
 雅史は、心配そうに浩之を見た。
「忘れちゃいねえぜ、あの屈辱は……」
 浩之の独り言を聞くと、雅史は、さらに表情に不安を浮かべた。




     第8話 撮影現場の片隅で

 電気がついているということは妹が帰っているということだ。
「ただいま」
 帰宅した時に、そういったのは久しぶりだった。このところ、妹がドラマの撮影に入
っていて忙しかったのだ。
 妹は、そのドラマのヒロイン役であり、主題歌も歌っている。今年はそのドラマに賭
けているようだ。
 自分の方が後になるのは久しぶりであった。
「おかえりなさい」
 と、いう声を期待したわけである。が、家の中はしん、と静まり物音一つしない。
「うん、帰ってきてる」
 足下に、妹が朝履いていた靴を発見して一人頷く。
「ん?……」
 その隣に見たこともない女物の靴を見付けて、英二は首を傾げた。
「理奈! いるんだろ!」
 靴を脱ぎ捨てて廊下を進む。
 居間にはいない。
 台所にもいない。
 自分の部屋にもいない。
 屋内は人がいるとは思えぬほどに静かである。
「そうか……あそこか」
 あまりにも静かなことが英二の足を地下へ向けさせた。昨年、この家を作る時に思い
切って地下にスタジオを設置したのだ。これも、さすがミュージシャン緒方英二ならで
はとマスコミに騒がれ、テレビカメラが入ったことも一度や二度ではない。
 妹は、そこで歌の練習でもしているのだろう。と、英二は思った。その地下スタジオ
はもちろん完全防音なので、そこにいるとしたらこれだけ家が静かなのも頷ける。
「理奈」
 英二は地下に下り、スタジオのドアを開けた。
「お前が愛する兄さんが帰ってきたぞ」
 そういったきり、英二の口は開いたままになった。
「なにしてんの?」
 しばらくしてから、ようやく英二は尋ねた。
  我が愛する妹と、見知らぬ女性がレオタード姿で寝そべって体を重ねて、手足を絡ま
せているのである。
「見ればわかるでしょ」
 妹の返答は素っ気ない。
 見知らぬ女性の方は、軽く頭を下げた。
「い、いかんぞ! 同性愛は!」
 英二は叫んだ。兄として、妹を変な道に踏み入れさせない義務がある。
「あまりに男として完成されたおれを兄に持ってしまって、世の男性が皆、ろくでなし
に見えるのはわかるが、そっちに走ってはいかぁん!」
「なに馬鹿いってんのよ!」
 妹思いの兄の言葉に、理奈は激怒して立ち上がった。
「演技の練習よ! 演技の!」
「は? レズビアンの役だったっけ?」
 そんな話は聞いていない。
「違うわよっ! エクストリーム優勝を目指す格闘少女の役っ!」
「ああ、そうだったねえ」
 そういえばそうだったような気もする。確か、エクストリームの過去の優勝者などが
多数脇役で出演するドラマとして話題になっていた。
「えっと……そちらの美人は?」
「ど、ど、どうも、御堂静香(みどう しずか)です」
 年齢は二十代中盤といったところだろうか。お世辞ではなくて、けっこう美人だ。
「御堂さんはね、今回の格闘方面の演技指導の人なのよ」
「ああ、そうなの、それはそれは理奈がお世話になりまして」
「いえ、そ、その、そんな」
「……静香さんって……あがり症?」
「違うわよ」
「だって……」
 英二が視線を向けると、静香は真っ赤になって俯いている。
「……兄さんの大ファンなんだってさ」
「ああ、はいはいはいはい」
 英二は幾度も頷いた。自慢ではないが天才ミュージシャンなどと呼ばれている身であ
るからして、熱烈なファンというものと遭遇するのは珍しくない。
「どうも」
 英二は改めて一礼した。
「ど、ど、ど、ど、ど、ど、どうも」
「まあ、楽にして」
「は、はい、あ、あ、あ、あのっ!」
 びしいっ!
 と、静香は手を突き出した。
「ん……手刀ですか?」
「あ、あ、握手して下さい!」
「ああ、はいはい」
 英二はやたらと硬直している静香の手を取って、それを握った。
「ところで、寝技の練習してたのかい?」
「うん、今度の撮影でそういうシーンがあるから」
「あ、あ、あの、サインして下さい!」
「ああ、はいはい……後でね、ところで、すいませんねえ、家にまで指導に来てもらっ
て」
「い、いえ、そんな! あ、あの、緒方さんのCDは全部持ってます!」
「ああ、それはどうも……ところで、練習しないの?」
「し、しますよ! じゃ、理奈ちゃん、さっきの続きから」
「はい」
 英二は椅子を引っ張ってきて、練習を見物していた。英二に見られているせいかコー
チの動きがややぎこちないが、寝技の攻防としてはなかなかサマになっている。
 目まぐるしく二つの肢体が動き、最後には理奈が腕ひしぎを決めていた。
 ここでこうして、あそこでこうして、という約束の上で行われるお芝居なのだが、動
きが素早く、二人の表情が真剣なため、素人がなんの予備知識も無しにこれを見て、演
技であると看破するのは不可能ではないだろうか。
「それでは、今日はこれまでにしましょう」
「はい」
「二人とも、シャワー浴びるんだろ、お茶入れとこうか?」
「うん、お願い」
「お、お、お願いいたします」
 一汗流した後は、理奈はテレビに出る時に比べるとだいぶ地味な普段着に、そして、
静香は悲しいほどに露出度と化粧気の無い姿になっていた。
「静香さんはドラマには出てないのかな?」
「わ、私は格闘の演技指導だけです。お芝居なんてできないから」
 だいぶ、馴れたのか、どもりは少なくなってきた。が、英二の顔を正面から見ようと
しない。
「ふうん、なにか格闘技をやってるんですか?」
「なにいってんのよ、兄さん、静香さんは去年、エクストリームの社会人女子の部で準
優勝してんのよ」
「エクストリームで準優勝……って、すごいんだよねえ」
 日本で二番目に強い、といったら誇張になるが、それに近いとはいえる。
 なにしろ、近頃のエクストリーム大会は参加者の数もレベルも数年前の比ではない。
「あの、元々、父が警官でして……武道はかなりやってたんです」
「ああ、なるほど」
 人は見かけによらない、という言葉の生きた実例がこの人らしい。
 静香は見た目は背中に軽くかかっている黒髪が綺麗な純和風美人で、着やせするのか、
下手をすると小柄にも見える。
「趣味は生け花です」
 と、でもいうような台詞が、その口紅を塗っていない薄い桃色をした唇の間から出る
のが当然だと思えるような女性だ。
「失礼ですが、とてもそうは見えませんねえ」
「そ、そうでしょうか?」
「はい」
 英二は断言した。
「静香さんもドラマに出ないかって監督さんもいってたんだけどね」
「そんな……私、お芝居なんてできないから……」
 確かに、格闘技ができてこんな容姿をしている人が現場にいたら使いたくなるかもし
れない。
「明日も撮影あるの?」
「うん」
「ああ、そうなの、面白そうだから見物に行こうかな」
「……兄さん、もしかして暇なの?」
「うーん、由綺の新曲を作るんで昨日からまるまる一週間休みをとったんだ」
「そういえば、そんなこといってたわね」
「それがねえ、昨日一晩で終わっちゃった」
「え?」
「す、す、すごいです! 一晩で一曲書いてしまわれたんですか」
 静香の両目が放つ尊敬の眼差しが心地よい。
「だから暇なのよ、おれ」
「ふうん、だったら遊びに来れば……そういえば、明日は来栖川綾香が特別出演するの
よ」
「ええっと……エクストリームのチャンピオンだよね」
 英二も、テレビ放映されているエクストリーム大会を見ているので、知っている。け
っこう美人で、ファンもついているようだ。
「ふうん……歌手デビューする気はないのかな?」

 翌日。
 英二は、ノコノコと、としか表現できない風情で撮影現場にやってきた。
 どこかの空手の道場を借りて撮影現場にしているらしい。
「どうもどうも、理奈がお世話になってます」
 英二は撮影の合間をぬって監督のところに挨拶に行った。
 主演女優の兄であり、所属事務所の社長であり、番組の主題歌の作詞作曲をした英二
であるから、監督とは何度か顔を合わせたことがあった。
「あ、どうも、緒方さん、ご苦労様です」
「いえいえ」
 と、いいながら、英二の視線は現場の隅でメイクをしている少女に注がれていた。隣
に妹がいて、親しげに何か話している。
「どうですか? 彼女」
「ああ、来栖川綾香ですか? ……いいですよお」
 監督はやたらと力を入れていった。
「素人だっていうけど、演技もなかなかだし美人だし、性格は明るいし……いや、実の
ところ、あの来栖川のお嬢様って聞いてたから、ちょっと内心ビクビクでしたがね」
 くっくっく、と苦笑した監督に合わせて、英二は顔を綻ばせた。
「彼女、芸能界デビューしてもやってけんじゃないですかね……格闘技が強くて、気さ
くなお嬢様……ってのはなかなかいいキャラクターだと思うんですがね」
「歌唱力はどうなのかな?」
 英二のその言葉に、監督は大口を開けて笑った。
「ところで、演技指導の御堂静香さんはどちらですかね?」
「ん? 御堂くんがどうかしましたか?」
「いや、今日の目当ては彼女です」
「緒方さん……彼女と面識は……ああ、そうか、昨日会ったんですね」
 監督は勝手に一人で納得した。昨夜、静香が理奈に特別指導をするために緒方邸に行
ったことを知っているのだろう。
「彼女、出てもらいたかったんですけどねえ……おれが台本書き直してもいいと思って
たんだけど」
「そりゃ、あんだけ美人ですからねえ」
「初日に、ADが女優と間違えましたよ」
「ははは」
 英二は笑いを収めた後、会話を打ち切って、静香を求めて現場内を彷徨い始めた。
「お、いた」
 と、静香を発見したのはいいのだが、なんだかその側に見覚えのある人物がいる。
「静香さん」
 相変わらず、露出度と化粧気の無い美女は、英二を認めるとやや頬を染めて頭を下げ
た。
「どうも、え、え、え、英二さん、本当にいらっしゃったんですね」
「長瀬さんも、どうも」
「どうも」
 と、長瀬源四郎は一礼した。
「あ、あの……お知り合いですか?」
「ええ、まあ、そうです……ところで、なんで静香さんと長瀬さんが御一緒に?」
「お嬢様が転びそうになったのをこの方に助けて頂いたのです」
 そういった源四郎の背後に、来栖川綾香によく似た、それでいて全く別系統の美少女
を見付けて、英二は来栖川家には二人の御令嬢がいることを思い出した。
「芹香さんですか?」
「……」
 こくり、と頷いた。
「お祖父様から名前はうかがっています」
「……」
 かなり聞き取りにくいが、はじめまして、と、いっているらしい。
「ありがとうございました。感謝の言葉もございません」
 源四郎は静香に向かって深々と頭を下げた。彼にとっては芹香は命に代えても守るべ
き存在であるから、いくら礼をいってもいい過ぎということはないのだろう。
「いえいえ、そんな」
 礼を述べる源四郎と、謙遜する静香はしばらく言葉を交換し合っていたが、やがて、
現場が慌ただしくなり始めた。本格的に撮影が始まるらしい。
「あ、私、理奈ちゃんの演技見ないと……それでは、英二さん、失礼いたします」
「はい」
 静香は、理奈の方へと歩いていった。
 部外者の英二たちは本番が始まるので現場の隅っこの方にと移動した。
「今日は、見物ですか?」
 英二は小さい声でいった。
 もう、マイクが声を拾うことができない位置まで離れている。
「はい」
「ところで、綾香さんに格闘技を教えたのはあなただそうですね」
「……それは間違いです。綾香お嬢様が格闘技を始めたのは外国にいた頃ですよ」
「はは、でも、強くなり始めたのはあなたが練習相手になってからでしょう」
「……どこでそのようなことを?」
 昨日、あれから理奈に格闘技雑誌のエクストリーム特集の増刊号とかいうのを見せて
もらったのだ。
「有名ですよ、来栖川綾香の格闘技のコーチをつとめる執事がいるというのは……あな
た以外に考えられませんからね」
「そうですか」
「だいぶ、修羅場を潜り抜けてこられたんでしょうね」
「……それなりに」
 源四郎は言葉短く答えた。
「負けたことなんかないんでしょうね」
「……そう、甘いものではありませんよ……ここぞという時には負けたことはありませ
んがね」
「へえ」
「でなければ、こうして生きてはいません」
 死線を潜ってきた老人の言葉にはずっしりとした重みがあった。
「ほう、それでは、負けたことはおありになる……と」
「はい」
「どういう人なんでしょうね、あなたに勝てる人というのは」
「あなたは……」
 源四郎が苦笑を浮かべたのを、英二は軽い驚きを持って見やった。
 この老人が表情を動かすのは珍しいということを英二は知っていた。
「あなたは……ただの音楽屋だと思っていましたが……」
「……音楽屋……」
 英二は、表情を引きつらせるしかなかった。まあ、音楽を売っているという意味では
その通りなのだが……。
「強い人間に興味がおありですか」
「少しですけどね」
「よろしければ、つい最近、私が負けた人物を紹介しますよ」
「ほう、それは面白そうですね」
「大体、日曜の午後には道場にいます」
「日曜の……午後ですね」




     第9話 怨恨

 「あかりぃぃぃ!」
 友人の長岡志保は、平気で人の名前を大声で呼ぶ。
 恥ずかしいが、もう馴れたといえば馴れてしまった。なんといっても、中学生の頃か
らの付き合いである。
「あかり、こないださ、アンケートに参加してもらったじゃない」
 そういった志保はやたらと興奮しているようだ。
 アンケートといえば、この前、志保がメモ帳を片手に質問してきたことがあった。あ
のことをいっているのだろう。
 確か、学校で一番気になる男子は? とかいうのを筆頭にいかにも志保とその仲間た
ちが好きそうな質問群であった。
 どうせ、イベント好きの志保が立ち上げた企画だろう。
「結果が出たのよお!」
 やはり、やや興奮気味である。
「へえ、どうなったの?」
 あかりは、もちろん、気になる男子という質問には浩之の名前を答えておいた。なん
といっても付き合っている最中だし……浩之ははっきりいって無愛想なので、あんまり
票が集まらないだろうと思ったのだ。
「えっとね、1、2年を中心に158人に聞いたんだけどね」
「ず、随分、頑張ったのね」
「ま、これが結果なんだけど」
 ずいっ、と志保があかりの目の前に広げたメモ帳を突き出す。
 一位は……知らない人だ。
「あっ、雅史ちゃん」
 あかりは、三位のところに雅史の名を見付けた。
「そうなのよ、雅史が三位に入ってんのよ」
「ええっと、浩之ちゃんは?」
 やはり、気になる。
「それがねえ……」
 志保は困ったような表情でページをめくった。
 
 11位 ヒロのバカ
 
  と、書いてあった。
「あの馬鹿、もうちょいでトップテン入りするとこだったのよお! 信じられる!?」
「す、すごいね」
 と、いいつつ、あかりの中にはやはり不安が沸き上がらざるを得ない。
「浩之ちゃんって人気あるんだ……」
「なんかねえ、最近、クールでカッコいいっていう意見が多いのよ、ただ無愛想さに磨
きがかかってるだけなのにね」
 確かに、志保のいう通り、無愛想さに磨きはかかっているかもしれない。ここのとこ
ろ、笑顔を見せることが少なくなった。
「あ、怖い男子部門ではヒロの奴、ぶっちぎりのトップよ」
 確かに、近づきがたさにも磨きがかかったかもしれない。
「ん、どしたの、あかり、暗いじゃない」
 沈んだ表情に気付いて、志保がいった。
「志保……最近、浩之ちゃんの様子変じゃない?」
「ん……そういえば……そうかな」
 志保も思い当たるところがあるのだろう。ヘラヘラした笑いを引っ込めて、珍しく真
剣な顔になった。
「三週間前からだと思うの……浩之ちゃんが変わったのって……」
「三週間前……それって……」
「うん、あの時から浩之ちゃん、ちょっとおかしいの」
 さらに、その数週間前から忙しそうにしていて、会う時間が少なくなっていたが、明
らかに浩之の雰囲気が変わったのはその時からだった。
 最近、ちょっと休みがちなのも気になる。
 現に、今日も休んでいる。
「そりゃあ……恋人の前で情けない姿見せちゃったら気にはするかもしれないけど……
でも、相手は五人もいたんだし……」
 志保の声には弾みが無かった。
「……あ」
「どうしたの? 志保」
「あの時の五人って、明日停学がとけるんじゃなかったっけ?」

 放課後。
 校外を道着姿でランニングする一団があった。
 空手部の面々である。
 人数は十一人。内、六人が女子だった。
 先頭に立って走っているのは、その内の一人。
 坂下好恵。
 女子空手部の主将をつとめる、校内ではそこそこの有名人である。
 本来は、女子空手部と男子空手部は別々に練習する。
 だが、今は、五人の一年生らしい男子部員も好恵に率いられるように走っている。
 本当は、男子部員の方が女子部員より数が多いのだ。しかし、今はとある事情で、男
子部員の半数が停学中なのである。
 好恵は、右手に神社へと続く階段を見た。
 表情に、僅かに影が差す。
 個人的にも、そして、女子空手部主将としても、この階段の上に少々いやな場所があ
るのだ。
 その階段を、一人の男が下りてくる。
「よう」
 知っている顔だ。
 藤田浩之。
 ここのところ、目つきの悪さに拍車がかかったという話である。
 頬に、ガーゼを貼り付けている。
 好恵は思わず立ち止まった。
 彼女は浩之とは違うクラスのため、彼が今日、学校には顔を出していないことは知ら
ない。
 好恵の後ろに続いていた部員たちも仕方なく停止して、その場で足踏みをしている。
「ん……そうか……あいつらがいねえから、お前が男子の方も見てんのか」
 浩之は意味ありげな笑みを浮かべながらいった。
 今、停学になっていない男子部員は全員一年生で、ほとんど初心者である。しょうが
なく好恵が指導しているのだ。
「あんたは何を……もう、葵はあそこにはいないだろ」
 そういった好恵の目は、階段の上を見ていた。
「まあな、ちょっと一人でな……」
 その時、浩之は鋭利な視線を男子部員に向けた。
「てめえ……おれの顔になんかついてんのかよ」
 元々、あまり口調や態度が温和な男ではないが、この時の浩之は、明らかに好恵が知
っている藤田浩之ではなかった。
 好恵が知っている浩之は、いつもマイペースで、その表情からは常に余裕が消えるこ
とは無かった。もちろん、真剣になる時もあるが、そんな時でも浩之はどことなく、精
神的なゆとりを持っていた。
 しかし、今の浩之の焼き付くような視線はどうだ。
「てめえら、この上で会ったよな」
 殺気。
 というものを、好恵は話に聞くだけで、それを肌で感じたことはなかった。大事な試
合の時でも、せいぜい、相手から発されるのは、闘気であった。
 好恵の肌に鳥肌が立ち並ぶ。
 これが……殺気。
「待ちなさい」
 だが、好恵は浩之の前に立ちはだかった。
「あんた、うちの一年に手を出す気?」
「……いや、そんなつもりはねえよ……ただ、そいつらがおれの顔見て笑ったような気
がしたんでな」
「あんたたち、笑ってなんかいないだろ」
 好恵が振り返っていうと、男子部員たちは、震える声で、
「はい!」
 と、叫んだ。
「ふうん……だったらいいんだ……お前ら、おれの顔見て笑わない方がいいぞ」
「もういいだろ!」
 好恵が強く、叩き付けるようにいった。
「藤田、ちょっと話がしたい」
「あん? だったら、この上でいいか?」
「ああ……みんな、道場に戻って筋トレ始めてなさい」
 ただならぬ雰囲気を発散する二人に、女子部員たちは興味がありそうだったが、好恵
にいわれて、走り去った。男子部員としては、願ったりな指示であったろう。
「お前も大変だな、面倒見る奴らが増えてよ」
 階段を上り切った浩之は、振り返っていった。
「……」
「それというのも、あいつらが停学になんかなるからだよな」
「ああ」
「無期停だっていうからいつまでかと思ったら三週間か……けっこう早くお許しが出た
じゃねえか」
「……あんた」
「なんだよ」
「もう、空手部とのいざこざは無しにしてくれないか」
「なに……」
「どうせ、明日、あいつらが学校出てきたらやる気なんだろ」
「……」
 浩之は無言である巨木に歩み寄って、その幹を掌で叩いた。
 この木からサンドバックをつり下げて、それを叩いたものだ。
「引いてくれないか」
 好恵は真剣な表情でいった。このままでは、浩之の方がやられ損だというのはわかっ
ているのだ。
 それを知った上での頼みであった。

 ことの発端は、男子空手部が校外ランニングのコースを変えたことにある。
 今まで素通りしていた階段を上って神社の中を回ることにしたのだ。
 確か、神社では後輩の松原葵と、そのトレーナー気取りの藤田浩之が練習しているは
ずだ。と、いうことは好恵は知っていた。
 もしかしたら……何かいざこざの元になるんじゃないか。とも思ったが、葵に限って
もめ事を起こすようなことは無いだろう。と思って、男子たちには別に何もいっておか
なかった。
 よくできた後輩と一緒にいる男のことを失念していたのは今にいたるも後悔の種であ
る。
 男子部員と浩之が衝突したのだ。
 後で話を聞いてみると、男子部員たちは、練習している二人を見付けて、しばらく見
物していた。浩之は主に葵のサポートをしていた。
 そのことから、浩之のことを、ただ単に女の子といちゃつくのが目的の男と思ったの
だろう。彼らは、浩之を軽蔑した。
 その場は何事も無かったが、その内、校内で時々、一悶着あった。男子部員が浩之を
馬鹿にするようなことを本人に面と向かっていったのだ。
 浩之は自制しているようだったが、三週間前。
 とうとう、浩之が手を出した。
 中庭に、恋人の神岸あかりと一緒にいた時にちょっかいを出されて激怒したらしい。
「お前、あの子と二股かけてんのか?」
 それが直接の引き金となった発言だろう。
 その時、その場にいたのは、五人の男子部員であった。全員、二年生で中学校の頃か
ら空手をやっている。
 女の尻目当てでサンドバックを支えているような奴にひけをとるつもりはなかった。
 浩之の右拳が一番手近にいた男の顎をふっ飛ばした。

「引け……っていうのか?」
 浩之は好恵の方を向こうとはしなかった。
「頼む」
 好恵は浩之の背中に向かっていった。
「やだね」
 断固とした強い意志が感じられる声。
 
 あの時、一人目の顎をぶん殴った後、二人目を蹴り飛ばしたまではよかった。
 しかし、学校の中庭のような広い場所では、人数の多さは圧倒的に有利になる。しか
も、全員、素人ではないのだ。
 三人目を殴った時に、既に敗北していたといえる。
 その時、残りの二人が後ろに回り込んでいたのだ。
 後頭部に蹴りが来た。
 脇腹に拳が入った。
 息を吹き返してきた連中が前から殴りかかってきた。
 五人を相手にして、一度、形勢が不利になってしまえば、立て直しは難しい。
 二人に後ろから手を取られて無防備になった顔を、腹を、遠慮なく殴られ、蹴られた。
 とうとう、吐いた。
 前のめりに倒れたが、なんとか両手をついて持ちこたえた。
 目の前に、自分が吐いたものがあった。
 上から、後頭部を踏み付けられた。
 そこで教師がやってきて、その場は収まった。浩之は、先に手を出したということで
一週間の停学を貰ったが、その時の浩之の状況からして、停学にならずとも、そのぐら
いは学校を休まざるを得ないであろうことは明白だった。
 五人の空手部員は、空手をやっている人間が大人数で一人の人間をリンチしたことが
大いに問題視され、無期停学となった。

「坂下ぁ……」
 浩之が振り返った。
 刃のような眼光を、好恵は辛うじて目を見開いて受けた。
「顔中ゲロだらけになったことあるか?」
「……」
「どうなんだ?」
「……ないよ」
「だったら……おれの気持ちはわからねえよ」
 それだけではない。あの時、その場にあかりがいたのだ。
「一度、地面に落ちたゲロだからよ……土が混じってジャリジャリしてやがるんだ」
 あかりに、見られた。
「引け……っていうのか? 坂下ぁ」
 返答次第では、自分の身も安全ではないだろう。
 好恵は自然にそう思った。
 思った直後、我ながら驚いた。
 こんなに自分は弱気だっただろうか。
「どうしても……駄目か……」
「ああ」
 浩之は好恵に背を向けた。
 浩之の姿が見えなくなった時、好恵はその場に座り込んだ。




     第10話 渇望

 男子空手部主将、磯辺道孝(いそべ みちたか)は、道場に向かっていた。
 三週間ぶりの部活だ。
 少し遅くなった。他の連中はもう練習を始めているかもしれない。
 道場の前には、一年の前原(まえばら)という男が突っ立っていた。
 その背後の扉はぴったりと閉ざされている。
「あいつ……なにやってんだ?」
 磯辺ならずともそう思うであろう。
「おい」
「あ、お久しぶりです!」
 前原はギクシャクとした動きで一礼した。
 声にも態度にも、何やら恐怖のようなものが浮き出ている。
 磯辺は、後輩には舐められないようにしているが、ここまで怖がられるような覚えは
無かった。
「なにしてんだ?」
「は、はい……ここで、誰も入ってこないように見張っておけっていわれまして……」
「は? なんだそりゃ」
 何か中で悪事でも働いているのだろうか。
「あ、磯辺さんが来たら入れろと……」
「ああ」
 やはり、なんか部外者に知られたらやばいことをやっているらしい。今日は男子空手
部が道場を占有していい日だから女子が来ることはない。
「お前ら、なにやって……」
 絶句……するしかなかっただろう。
 四人の一年生が道場の隅っこで正座をして並んでいる。
 四人の同級生が寝転がっていた。
「よう」
 それを見下ろしていた男が顔を磯辺の方にと向けた。
 彼が昨日まで三週間の停学をもらっていたことの原因といえる男だ。
「随分、ゆっくりだったな」
 そういった浩之の顔に、点々と赤い飛沫が付着していた。
「前原……どういうことだ」
 磯辺は、背後にいる前原に、背中を向けたままいった。

 一年生は、先輩が来るまでに道場を掃除しておく決まりであった。
 特に、今日から先輩たちの停学がとけてやってくる。しっかり掃除しておかねば自分
たちがいない間にたるんでいたと思われてしまうだろう。
 彼らは、授業が終わるとすぐに教室を出た。
 廊下で順次合流して五人で連れだって道場に来た。
 先客がいた。
 先客は、既にある程度体を動かしたらしく、うっすらと汗をかいていた。
 やばい、と彼らが渋面になったのは、てっきり先輩の一人が自分たちに先んじて道場
にやってきていたのだと思ったからだ。
「おう」
 その男は、一度見たら容易に忘れられない印象的な眼光で彼らを射抜いた。
「!……」
 彼らは、声も無かった。
 その男がここにいることが一瞬、理解できず、理解した後は戦慄した。
 この男が、今日ここに、穏やかな理由でやってくるはずがないのだ。
 藤田浩之。
「ま、入れよ」
 浩之は彼らを招いた。
 彼らはその眼光に逆らえずに、道場の中に入った。
「なんの用ですか?」
 とも、彼らは尋ねなかった。
 目を合わせようともしなかった。
 とにかく、刺激してはいけない。
 笑ったら……殺されるだろう。
 少しすると、先輩の一人がやってきた。
 篠原(しのはら)という二年生の中では一番、弱い男だった。と、いっても、もちろ
ん一年生などよりは遙かに強い。
「おう」
 やや呆然として入り口のところに突っ立っている篠原に、浩之が手を上げた。
 前原たち一年生の背筋を悪寒が走った。
 さっき、自分たちに対した時には、確かに刃物を振りかざしたような凄みがあった。
が、それでも、唇の端が笑っていた。
 篠原に手を上げた浩之の唇は……さっきよりも曲がっていた。
 さっきよりも、にっこりと微笑んでいた。
 それでいて、さっきよりも遙かに怖い。
 目が、笑っていないのだ。
「入れよ」
 篠原は、何かに引かれるように入り口を潜った。
「扉を閉めろ」
 浩之がいった。
「なんでだ?」
 篠原は、生気の無い顔で聞いた。
「表を人が通るだろ」
「……」
 無言のまま硬直した篠原には何もいわずに、浩之は入り口に向かって歩いていった。
 篠原と擦れ違い、扉を閉める。
 篠原はまだ動かない。
 浩之が、後ろからその肩を、ぽん、と叩いた時も動かなかった。
 前原たちの位置からは、篠原がいきなり横に回転したとしか見えなかった。
 浩之の蹴りが後ろから篠原の側頭部を襲ったのだ。ということを理解した時、篠原の
目に光は無かった。
「ぼさっとすんなよ」
 浩之は篠原の襟首を掴んで引き起こした。
「止めてくれ……」
 篠原は両手で頭部を覆っていた。
「お前……もう駄目だな」
 到底、こいつが自分をピリピリさせてくれるとは思えない。
 浩之は、捨てるように篠原を振り払った。
「おう……端に転がしとけ」
 一年生に命じて、浩之は道場の真ん中を陣取って腰を下ろした。
「おい、お前」
 と、浩之がいった。
「お前だ。お前」
 指差した。
 その指の先にいたのが前原であった。
「表で誰も入ってこないように見張ってろ」
「は、はい」
 一瞬、そのまま職員室に駆け込もうか、とは思った。
 だが、視線を背中に感じて振り返った時、浩之は笑っていた。
「チクったりすんなよな」
 笑顔のままいった。
 前原は、表に出て、その場に直立して先輩の来るのを待った。
「おう」
 土井(つちい)という二年生がやってきた。
 主将の磯辺といい勝負の実力者である。
 扉を少しだけ開けて隙間から覗いてみたら右の蹴り、左の正拳、の二発で終わった。
 その十倍以上の攻撃を土井は繰り出していたが、浩之にかすりもしなかった。
 もうしばらくすると、酒木(さかき)と古橋(ふるはし)という二年生が来た。
 土井や磯辺にやや劣るが、二人でなら……と、前原は思った。
 右のローキック、体勢が崩れたところへの右の正拳で酒木が轟沈。
 後ろに回り込んだ古橋には後ろ回し蹴りが見舞われた。
「お前、あん時も、後ろっから蹴っ飛ばしてくれたよなあ」
 そういうと、浩之は倒れた古橋を引き起こして顔面を立て続けに殴った。
 そして、磯辺が現れたのである。
「藤田ぁ……お前、まだおれたちとやる気か?」
 磯辺の言葉が終わるか終わらぬかの内に、浩之が哄笑した。
「お前……おれとサシでやって勝てる気かよ」
 この前は、五人がかりだったから、お前らはおれに勝てたんだぞ。
 浩之は言外でそういっていた。
「来いよ……」
 浩之はそういいながら、自らも前に進んだ。
「おれは、まだ一発も貰っちゃいねえぞ」
 手がダラリと下がっている。
 磯辺は、息を飲んで待った。
 浩之が、射程内に入ってくるのを。
「なあ……来ねえならこっちから行くぜ」
 無造作に、浩之は一線を越えた。
 磯辺ほどになると、自分の腕と足のリーチは熟知している。
 磯辺の右足が床から跳ねた。
 中段回し蹴り。
 脇腹を狙ったその一撃は、浩之の左腕にガードされていた。
 右足を下ろすと同時に磯辺は前に出た。
 左の正拳を、打ち出そうとした刹那。
 何かに、ぶち当たった。
 崩れ落ちる直前に磯辺が見たのは、掌底を突き出して笑っている浩之だった。
「おう」
 倒れた磯辺の顔を覗き込んだ時、浩之はもう笑っていなかった。
「駄目だ。お前ら……ピリピリしねえよ」
 浩之はそれが不満であった。
 しかし、ピリピリ、などという非常に感覚的なことをいわれても、磯辺には何がなん
だか、この男が自分たちに何を求めているかがわからない。
「ふん、おれはもう行くぜ」
 浩之はひたすら不機嫌である。
「二度とおれと目ぇ合わすな」
 最後に、倒れた磯辺の顔を蹴飛ばして、浩之は道場を出た。

 坂下好恵は、空手部が使用している道場に向かっていた。
 いつもならば、今日は女子空手部の練習が無い日なので、さっさと帰って自宅でトレ
ーニングに励んでいるはずだった。
 しかし、今日は、気になることがあったのだ。
 六時限目の授業の終了が遅れた。
 好恵は急ぎ足になっていた。
「好恵さん」
 その足を止めたのは彼女を呼ぶ声であった。
 振り返ると、後輩の松原葵が立っていた。
「葵、あんた今日は綾香のとこに行く日じゃないのか?」
 例の浩之と空手部の一件があってから、葵はエクストリーム同好会設立を断念した。
 同好会が部活として認められる前に、「会員」である浩之が大問題を起こしてしまい。
これによって学校側の態度が厳しくなるであろうことは明白であったからだ。
 結果的に被害者になったが、先に手を出したのは浩之なのだ。
 好恵は、もちろん、この機会に葵を空手部に入れてしまおうと考えていた。
 しかし、好恵が行動を起こす前に、浩之と綾香の間で話がついてしまい。葵は週に何
日か、綾香の家で練習することになってしまった。
 自分のせいで葵の夢が失われてしまったことに責任を感じた浩之が、綾香に、葵に練
習する環境を与えてくれるよう頼み込んだのである。
 組手の相手ができていいわ、と綾香はいっているそうだ。が、綾香が組手の相手に不
自由するとは考えにくい、浩之と葵が気を遣わないようにする彼女の配慮であろう。
 こうして、結局、葵を「エクストリーム」から「空手」に引き戻そうという好恵の目
論みは無に帰してしまった。
「藤田先輩を見ませんでしたか?」
 葵がいった。
「今日は、先輩と一緒に綾香さんのところに行こうと思ったんですけど、教室にいなか
ったので……」
「帰ったんじゃないのか?」
「いえ、カバンが残ってました」
 葵は首を傾げつつ、
「好恵さん、どこか心当たりないですか?」
 と、尋ねた。
 好恵には、心当たりがあった。
「葵……着いてきなさい」
 そういって身を翻した時、
「あ、先輩!」
 葵が声を上げた。
「よっ、葵ちゃん」
 制服の上着を脱いで、それを肩からかけた浩之がこっちに向かってくるところであっ
た。
 そっちは、道場がある方向だ。
「先輩、一緒に綾香さんのところに行きませんか?」
 浩之は、視線をやや上の方に持っていって低く唸った。
「うーーーん、ちぃっとばかり今日は都合が悪いんだ」
「そうですか……」
 葵が残念そうに呟く。
「時間、大丈夫なのかい?」
「えっ」
 いわれて、葵は時計を見た。
「あっ!」
 ギリギリの時間だ。今から急いでなんとか間に合うといったところか。
「早く行きなよ」
「は、はい! それでは、先輩、好恵さん、失礼します!」
「おう、頑張ってな」
「じゃあな、葵」
「はい!」
 葵の後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで、二人はその場から動かずにいた。
「やったのか?」
 やがて、好恵が口を開いた。
 その、主語を省略した好恵の言葉が意味するところを浩之は知っていた。
「やったよ」
 と、何をやってきたとも思えぬ涼しげな顔でいった。
「面白くなかったな」
 しみじみと浩之はいった。
「ピリピリしねえよ」
 はっきりいって途中からはほとんど諦めていた。やられっぱなしだと舐められてしま
うからやったまでだ。
 浩之は、あの感じが決して錯覚や何かだとは思っていない。
 十人抜きの最中にも感じたし、その中でも、九人目の辻正慶との闘いの時には、それ
が全身に張り付くように感じた。
 また感じたい。
 拳や、蹴りを交わしながら。
 四肢を跳ね踊るような脈動に任せ。
 感じたかった。
「もう、気は済んだのかい」
 好恵の問いに、浩之はどことなく気怠げな声で答えた。
「気は済んだ……っていうか……もういいや」
 そういった浩之の顔は、とてつもなく貪欲に「何か」を求めているように、好恵には
見えた。

 今、手の中に一冊のメモ帳がある。
 そこに書かれた人名には大抵、横線が引かれていた。
 全て、浩之が撃破してきた人間たちだ。
 いや、一人だけ、例外がいる。
 長瀬源四郎に100パーセント勝てないといわれて、十人抜きから外した男だ。
 しかし、よくよく考えてみれば、あの爺さんは自分が闘っているところを見たわけで
はない。
 やってみなければわからないではないか。と、浩之は思った。
 それに、こいつならもしかしたら……。
 別のページに簡単なデータが書き込んである。
 柏木耕一。
 10年前に、もう直弟子は取らないといった伍津流格闘術の開祖、伍津双英(ごづ 
そうえい)がつい最近取った直弟子である。そのことからも、相当の素質を持っている
と考えられる。
 現在はある大学に通っていて、大体は日曜の午後には道場にいるらしい。
「日曜の……午後だな」
 ベッドの上で、浩之は呟いた。
                                    続く

 


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