第81話 同志よ!

 双方の距離は約1メートル半。
 一歩を踏み込んで後に放ったタックルか蹴りが十分に届く位置であった。
 ゆっくりと柳川を中心にして円を描く拓也には生物ではなく精密機械のような雰囲気
すらある。
 距離、約1メートル半。
 それがほとんど変わらなかった。
 自ら動いて相手の様子を探りつつ、彼我の距離を崩さない。
 対する柳川裕也。
 不動であった。
 動かない。
 足を少し開いて地に乗せ、両手を脇から腰のラインに添えて掌は開かれていた。
 ようは柳川はその場に突っ立っていた。
 時々、まばたきをすることだけが生物の証のようであった。
 拓也がすり足で柳川の周囲を回る。
 やがて、拓也は先ほどまで腰を下ろしていた血に塗れたベンチを背にした。一回転し
て元の位置に戻ったということになる。
 すり足が描いた曲線が二筋、等間隔で地面に走っている。
 二人を見ていた浩之は、拓也が元の位置に戻った瞬間にそれに気づいた。おそらく、
耕一も英二も気づいているはずだ。
 拓也の足が描いた曲線がぐるりと回って始点と終点が重なった時に、それは生まれた。
 円であった。
 それは浩之が見る限り完璧な真円だった。
 別に拓也が意識してそれを描いたわけではあるまい。
 あるものを中心にして常に距離を一定にして一回転すれば円が描かれる。それだけの
ことだろう。
 だが、フリーハンドで真円などそうそう書けない。書けないからコンパスという道具
が開発された。
 やはり、この男は人間というよりも機械のような動きをする。
 右に左に、そして後ろに拓也がいても微動だにせず「中心」であり続けた柳川も並大
抵のものではない。
 その機械が描いたような真円が、この二人の非人間的と呼べるほどの精密さの現れの
ように思えた。
 拓也がその円の内側へと、中心へと、吸い寄せられるように移動する。
 距離が1メートルに縮まった。
 もうそれが始まるまでにいかなる予備行動をも必要としない距離だ。即座にお互いが
第一撃を送り込める。
 気づいた時には強く握られていた掌を開くと、既に汗に湿っていた。
 浩之はその掌をシャツに押し付けて汗を拭き取りつつ、横に立っている耕一に目をや
る。
 耕一は冷静なようであった。
 自分はさっきからあの二人の対峙を見ているだけで気疲れがしているというのに、こ
んなことでこれから始まる試合に自分は勝つことができるのかと、ふと不安になる。
 だが、耕一のこめかみから頬にかけて一筋、伝わるものがあった。
 英二が額に手をやって汗を拭っている。
 浩之は少し安心した。やはり、あの二人の睨み合いを見ていて平静でいられるわけは
ないのだ。
 全く動揺が見られず、一筋の汗もかいていないのは本人たちだけであったろう。
 理奈など、いつのまにか英二の傍に寄り添ってしまっている。
 正直な話、どのような闘いになるかは全く予想できないながらも、浩之なりにいかな
る展開を見せるのか考えてはいる。
 まず、これだけは自信を持って断言できることは、闘いの火蓋は拓也が切るであろう
ということだ。
 柳川が先程からさっぱり動かず、動く気配も無い。
 拓也から仕掛けるにしても打撃かタックルか、そのどちらかが考えられる。これが試
合場で行われている闘いならば間違いなくタックルで距離をつめて組み付いて行くだろ
うが、この闘い、禁じ手が無い。
 柳川が声をかけ、拓也がベンチから立ち上がった時点で始まってしまったこの闘いに
は前もってルールについての話し合いなど無かった。
 あの二人の自由意志によってルールは決まる。
 拓也はそう思っているはずだ。浩之は柳川のことをよく知らぬのでそちらは断定でき
ないが拓也ならば断固としていえる。
 拓也はこの闘い、何をしてもいいと思っているはずだ。
目を突いてもいいし、突かれてもいい。
金的を攻撃してもいいし、されてもいい。
相手が降参してもなお攻撃を加えたければさらに殴ってもいいし、殴られてもいい。
 降参などするつもりは無いのに、口で降参だといって相手が油断したところを攻撃し
てもいいし、されてもいい。
 結果として、相手が死んでしまってもいいし、自分が死んでしまってもいい。
 殺してもいいし、殺されてもいい。
 おそらくは、あの男はそこまで考えてこの闘いに望んでいるはずだ。
 だが、実際この二人がどこまでやるかについては浩之にはわからない。もし自分であ
ったら口で降参だというだけでは攻撃を止めぬかもしれぬが、例えば相手が完全に失神
したならばそれ以上の攻撃は控えるだろう。
 それを踏まえると不用意にタックルに行くのは考えものである。今やアマレスリング
の技術であるという枠を越えて総合格闘での定石の一つになっている戦法であるが、そ
れで相手にぶち当たり、即座に倒してしまえればいいがまごまごしていると後頭部に肘
を落とされる恐れがある。
 接触した瞬間に倒すか、肘が届かない、もしくは届いたとしても十分な威力を発揮で
きない位置にまで自分の頭を持っていってしまえればいいのだが、柳川はそれほど甘い
相手ではないだろう。
 と、なると打撃である程度のダメージを与えておいてから組み付いていく手が考えら
れる。試合場のマットと比べてこの公園の地面はおそらく人工的に打ち固められたもの
であり、遥かに硬質である。
 そうなると投げも有効になってくる。
 以前浩之が「十人抜き」などと称して野試合をしていた頃は相手を崩して体重をかけ
て地面に叩き付けるのが有効な戦法であった。
 拓也がさらに前へ――。
 もうこれ以上はもたない、1メートルは限界の距離だ。
 これ以上前に出るならすなわちその前進は攻撃に繋がる。
 いよいよ始まる。
 瞬間。
 拓也の攻撃よりも早く柳川の手が上がった。
 意外にも柳川が先制するのか!?
 浩之が身を乗り出す。横に同程度前に突き出された耕一の顔もあった。
「待て」
 またも意外。
 柳川が行ったのは「制止」であった。
 拓也が警戒した視線を送る。
 その警戒は柳川の物理的な攻撃を警戒するよりももっと別のものに対して向けられて
いた。
 この男もそうなのか。
 凄まじい不安が拓也を支配する。
 この男、さっきの三戸と同じなのか?
 同志と思わせておいて――自分を喜ばせておいて――違うのではないか?
 それはとてつもなく大きな不安であった。
 あまりにもそれは大きく、それが的中した時に拓也の内部に生まれる絶望は三戸の時
の比ではあるまい。
 そのように大きな絶望は拓也の体に入りきらない。
 外に出す必要がある。
 同志ではない男へ――。
 絶望を叩き付ける。
 その大きな絶望を人間にぶつけたらどうなるかは拓也にもわからない。
「おれは……別にお前と闘うつもりで来たんじゃない」
 !……。
 弾けたのは不安であった。
 生じたのは絶望であった。
 裏切られたのは渇望。
 自分の体に、それらはあまりにもきつい。
「けあっ!」
 それらを乗せた右拳が疾走する。
 それだけではなく全体重が乗っていた。やや大振りであることを除けば理想的な右ス
トレート。
 下方から電流が来た。
 いや、寒気か?
 いうなれば、電流のように伝わる寒気が下方から拓也を突き上げた。
「っ!……」
 即座に拓也の両膝が内側を向いて膝頭が合わさる。
 その一瞬後に柳川の右足刀がそこに激突した。
 柳川がバックステップで距離を取る。
 拓也の全身から寒気が去った後、すぐさま全身が発汗していた。
 右ストレートは途中で打つのを止めた。下半身の防御に気を取られてしまい、打って
も当たらなかったであろうし、むしろかわされて付け込まれる恐れが多かったからだ。
 危なかった。
 絶望とそれに付随する怒りに身を任せてしまった。
 今の柳川の右足による蹴りは膝の屈伸運動だけで放つ蹴りだが、それでも金的を直撃
すれば大きなダメージになる。
 深呼吸をする。
 微かに笑っていた。
「……やる気あるんじゃないですか」
 柳川はそれは誤解だといわんばかりに首を横に振る。
「おれはそんなつもりじゃない、ただ……」
 言葉に詰まる。
 ただ、の後が続かなかった。
 ただ、お前が気になった。
 ただ、おれに何かできることがあれば、と思った。
 そういおうとして柳川は口をつぐんだ。
 自分がこいつに何かしてやれることがあるとしたら一つしかないではないか。こいつ
が何よりも望んでいることだ。
 やるしかないのか。
 そんなつもりじゃなかった、といいつつ、この男が何を望んでいるのかはわかってい
たはずだ。
 何かを望まれる。
 それに応える。
 やってみるか。
 自分がそれをやることで何が起こるのかはわからないが、やってみようか。
 ただ、こいつが望んでいる。
 おれと闘うことを――。
 結果は知ったことではない、ただ、自分は望まれている。
「いいだろう……」
 両手がゆっくりと上がる。
「ご希望通りにしてやろう」
 拓也の面上を覆ったのは満面の笑み。
「ふ、ふ、ふふ……ははは……ふ、はは」
 途切れ途切れにぎこちなく拓也は笑っていた。
 だが、まだ安心できない。
 不安は拓也の片隅にしっかりと存在していた。
 まだ同志だと断定はできない。
 そうじゃないとわかった時、たまらなく辛いから、まだだ。
 もう少し、試してやる。
 拓也が横に移動しながら徐々に柳川との距離を詰めて行く。
 その際に、握り拳三個分ほどの大きさの丸い石を拾った。
 拓也はその石を右手で持って柳川に近付いていく。対峙した瞬間から、何かに使える
かもしれないと目をつけておいた石だ。
 柳川がその石に一瞬だけ視線をやった。
「少し大きすぎるな、重いだろう」
 拓也が、にぃ、と笑う。
 確かに、その石を持って頭にでも一撃を加えればそれだけで頭を割られてしまうだろう。
だが、その石は大きすぎて、それを握っていては素早く手が振るえないのだ。
 それを瞬時に察した柳川に同志の臭いを感じて拓也は笑ったのだ。
 もう一度……試させてもらう。
 拓也は突如石を投げ捨てた。
 柳川に投げ付けたわけではない、手首を捻ってやや横前方に放ったのだ。
 瞬間も間を置かず拓也は前進していた。柳川に肉薄する。
 視線と視線が真っ向から合う。
 柳川は"陽動"に拓也が放った石には目もくれていない。
 やっぱり、同志か。
 歓喜と寒気が満ちる。
 でも、もう一度だけ……。
 拓也の左手が下方から突き上げるようにカーブを描いて柳川の顔を狙っていた。人指
し指と中指が立っている。
 目突き。
 柳川が眼鏡をかけているため、下方から狙った。
 斜めにまぶたを突き上げるように突く。
 柳川の右手が走って拓也の人指し指を包み込んでいた。
「おおう!」
 その声ににじんでいたのは紛れも無い歓喜。
 表情に浮いていたのも間違いなく歓喜。
 それは――
 ぺき。
 という音を聞いてからも変わらなかった。むしろ増した。
 左の前蹴りを突き出す。柳川が右膝を上げて防ぐが、この前蹴りは元々、相手を突い
て距離を取るのが目的だ。
 思い切り、ガードの右足を蹴り付けて、拓也は距離を取った。
 不自然に湾曲した人差し指に慈しむような視線を注ぎながら拓也は笑っていた。
 よくぞこうまで鮮やかに折ってくれた。
 同志よ――。





     第82話 大蛇

 掌を前方に突き出している。
 左の掌だ。
 親指が右を、そしてそれ以外の指が上方を向いている。
 だが、人指し指一本だけが自分の方を向いている。
 自分を指差している人指し指を拓也はうっとりとした絡みつくような視線で捕らえて
いる。
 彼の左手人指し指は不自然に湾曲していた。
 その部分に鈍痛がある。
 だが、拓也はそれを痛みとして認識していなかった。
 人指し指をじっと見ている。
 その焦点が奥のものへと移る。
 人指し指と中指の間から、柳川裕也が見えた。
 同志だ。
 僕に付き合ってくれるらしい。
 どうだ。冷静で常識的で知ったかぶりなもう一人の僕よ――。
 どうだ。どんな気分だ。
 もう一人の僕よ。
 僕が毎日練習しているのを冷笑していたもう一人の僕よ。
 僕が心身を削り合うような闘いを夢見ていたのを嘲笑していたもう一人の僕よ。
 僕の夢想を笑った僕よ。
 どうだ。
 ここにいたぞ。
 僕の思い描く理想の闘いを否定した僕よ。
 お前みたいな狂った男に付き合ってくれる人間がいるわけないじゃないか、と知った
風なことをいっていた僕よ。
 ここに付き合ってくれる人間がいるぞ。
 そんな練習をしたって無駄だといった僕よ。
 相手がいないじゃないかといった僕よ。 
 無駄じゃなかったぞ。
 相手がいたぞ。
 そう……。
 僕の中のもう一人の僕よ――。
 無駄じゃなかったぞ。
 この人がいるから、僕のやってきたことは無駄じゃなかったぞ。

「速えっ!」
 思わず叫び声が漏れていた。
 それは突然のことだった。
 うっとりと、とても折られた自分の指を見ているとは思えないような目をしていた拓
也がそのまま前進していった。
 その先に柳川が立っていることに気付いているのかいないのか、目は変わらない。
 ギリギリの間合いに入ったところで拓也の目色が変わった。
 その後に彼が動く間に一瞬しか必要とはしなかった。
 上半身が沈む。
 タックルを仕掛ける、と浩之は思った。
 だが、拓也は上半身の姿勢をそのままに右手を上方に振った。
 肘と手首の運動で横薙ぎに引っ掻くように顔を襲う。
 柳川は上半身を後方に反らせてスウェーでかわす。
 そして、その直後にタックル。
 一度引っ掻き気味の攻撃をするために停止したので前進の勢いは無くなっていて、
膝と腰のバネだけで放ったタックルだが、これが速い。
 最前の柳川のスウェーが拓也を利した。
 上半身が後方に下がって下半身だけが踏ん張っている。
 その下半身に喰らいついていった。
 タックルを受け止めるには両足を後方に引くのが常道だが、それもできない。
「倒されるぞ」
 思ったままをいっていた。
 浩之は、それを隣にいる耕一に向けていっているわけではなかったし、少し離れたと
ころにいる英二や理奈にいっているわけでもなく、まして拓也と柳川にいっているわけ
でもなかった。
 ただ、何か声を出していないと落ち着かなかった。
 あの二人の闘いは――。
 あの二人の"削り合い"は――。
 見ていて、非常に落ち着かなかった。
 倒れる前に柳川が振った右肘が拓也の後頭部に落ちた。
 しかし、体勢がよくなかったので十分な威力を帯びるには至らぬ上に、後頭部の中心
を捕らえることができずに頭部の丸みで肘が滑った。
 完全に浮き上がっていた柳川の右足が地を踏む。
 堪えきれるわけはない。もう既に「倒れる体勢」なのだ。
 今から拓也が押すのを止めてももう倒れる。そこまでの体勢になってしまっている。
 だが、柳川は右足を踏ん張った。
 べったりと着いた状態の右足の爪先がすぐに地を離れ、踵だけを頼りにして柳川の抵
抗が続いた。
 柳川が腰を捻って上半身を密着させている拓也の体の位置を変えていく。
 踵は着いたまま踵と地の接触した部分を支点にして二人は地面に倒れ込んだ。
「危ねえ……」
 浩之が呟く。耕一も、ほう、と溜息をついていた。
 倒れた柳川の顔のすぐ横に外灯の柱が立っている。直径5センチメートルほどの太さ
の金属製のものだ。
 位置を変えずにあのまま倒されていれば後頭部をその鉄柱に打ち付けていたところだ。
 上になった拓也が素早く動く。
 腕を振って執拗に柳川の顔を狙っていく。
 やっぱり……。
 浩之がそれは声に出さずに呟いた時、
「やっぱり眼鏡か……」
 今度は耕一が呟いていた。
 浩之も耕一も先程のタックルの直前に拓也が見せたスナップを効かせた右手による攻
撃の意味を少しの間だけはかりかねていた。
 素早いには素早いが、力の入らないあの手の攻撃が効くとは思えない。
 初めに思ったのはまたもや目を狙っていったのか、ということであった。
 だが、それにしてはその攻撃は横から過ぎた。手首の運動による軽くて早い攻撃で目
を狙うというのならば掌の部分を相手に向けて外側から振るよりもその逆、手の甲を向
けて内側から振っていった方がいい、そちらの方が爪をより効果的に使える。
 だが、拓也は柳川の目を狙っているのではなかった。
 組み付いてからも横から薙ぐように手を振っていく。その行動で浩之も耕一も了解し
た。
 拓也の目的は柳川の眼鏡を落とすことだ。
 それほど度の強い眼鏡ではないようだが、普段から使用していることから考えてそれ
ほど視力はよくないだろう。
 眼鏡を取られてしまっては戦闘に支障が出るのはもちろんだ。
 特に打撃をしっかりと見切れるかどうか。
 グラウンドを得意とし、また本人も執着しているために拓也にスタンドでのスタイル
を重ね合わせて見るのは難しいが、決してまずいものではない。
 元々の格闘技のベースが寝技もありという空手流派だったために、その打撃の技術は
「グラウンド系の人間が相手の打撃を凌ぐため」などという範疇ではおさまらないだけ
のものを持っている。
 二人が揉み合う。
 柳川が下から右足を拓也に押し付けて柔道の巴投げのように拓也を投げようとする。
 長身の柳川の足に突き上げられて拓也の足が浮く。
 勢いよく投げる必要はない。
 地に叩き付ける必要もない。
 ただ、自分の背後に立っている鉄柱に頭をぶつけてやればいい。
 そう簡単に頭を割られるような奴にも見えないが。
「っ!」
 拓也は自分の進行方向に先程自分が柳川の後頭部を叩き付けてやろうとしていた鉄柱
を見出して反射的に右手を前に突き出した。
 右手で鉄柱への激突を回避する。
 それでほっとするような男ではなかったし、そのような暇も無かった。
 右手が塞がった!
 それを思ったのと右の頬にぞくりと悪寒が生じたのとがほぼ同時。
 浮いていた体が地に下りる。
 柳川が右足を曲げたのだ。
 柳川の左足が拓也の右頬を打ち抜く。
 思い切り革靴の爪先で蹴られた。
 柳川が再び右足を伸ばして拓也を突き上げる。
 拓也は右足を振って柳川の金的を蹴りつけようとしたが柳川が急に右足を曲げたため
に目測が狂った。
 右足が地を打つ。
 だが、その時に拓也は前方にのめっていた体勢を回復することができた。
 すぐさま柳川の右足首を掴んで足首を極めようとする。
 足先を伸ばさせないようにして折り畳み、足先と踵を掴んで足首を捻る。
 それに逆らわないように動けば裏返りになってしまう。つまりは、背中を見せてしま
うことになる。
 柳川の体が転がる。
 完全に裏返る前に左手をついて自らの体を浮かせ、左足を突き出してきた。
 狙いは拓也の右足の膝頭。
 真正面から突いて行く。関節蹴りだ。
 それをかわすために拓也のバランスが崩れた。
 柳川が右足を前後に振って拓也の両手から逃れさせる。
 一時距離を取ろうとした拓也の視界が紺色に染まる。
 立ち上がると同時に脱いでいたスーツの上着を柳川が拓也の顔に被せてきたのだ。
 拓也が直感的に思ったのは頭部のガードである。頭部をガードするために両手を上げ
てついでに上着を取り払う。
 視界が晴れたその瞬間に凄まじくくっきりとした異物感が腹部を侵食する。
 浮き立つほどにはっきりとした輪郭を持ったそれの正体は柳川の右足であった。
 右足を突き出して踵をえぐり込むように蹴られた。
 水月を僅かに逸れたものの思い切り突き刺さっていた。
「おおう」
 呻き声が自然と漏れていた。
 よろめくように後退する。
 柳川は……追撃してくる!
 凄まじい激痛に苛まれながら拓也は右腕を振った。
 右腕には柳川のスーツがまだ取りきれずに引っかかっていた。
「!……」
 広がりながら覆い被さってこようとするスーツを柳川が左腕で払いのけるように掴む。
 前方に拓也はいない。
 それを視認した時には右前方から何かが低く激突してきていた。
 きれいに両足を刈られて柳川がたまらずに倒れる。
 地を這うように拓也が動いてサイドポジションを得ようとする。
 柳川がスーツを使ってそれを防ごうとする。右袖で首を絞めようとしている。
 拓也が左袖を手にした。
 両腕で付け根と先端を持って柳川の首にあてて体重をかけ、喉を圧迫せんと試みる。
 柔道、柔術、サンボなどの衣服を着て試合を行う格闘技には相手のそして時には自ら
の着ているものを使って相手の首を絞めたりする技術が体系中に存在している。
 だが、それでも完全に脱いだ服で首を絞め合う状況はめったに見られないであろう。
「があっ!」
 拓也が首を前屈させて頭突きを落としていく。
「ぬ……」
 首を絞めるのに使っていたスーツの右袖をかざして柳川が防ぐ。
 さらにそのまま右袖を利用して拓也を左方にねじ切るように倒して体勢を入れ替えて
いく。
 柳川が上になった。
 上から右のパンチを打ち下ろしていく。狙いは顔面。マット上でも危険なこの攻撃を
固い地面の上で喰らえばどうなるかは推して知るべし。
 かわしざま、スーツの左袖で柳川の右手首を絡め取る。
 すぐに両足が跳ね上がって柳川の右肩に喰らい付く。
 下からの腕ひしぎ逆十字固め。
 二匹の大蛇が同時に疾走してきたのかと思った。
 思って、ふと柳川の脳裏にある感覚がよぎる。
 以前にも似たようなことを感じたことがあった。あれは確か静香の家を訪ねた帰り、
そうだ、その時の相手もこいつ、月島拓也だった。
 あの時は両腕だった。
 この男の両腕に足が絡め取られた時にそう思ったのだ。
 こいつの四肢は蛇だ。
 こいつの全身もそれで一匹の蛇だ。
 蛇みたいな奴。
 誉め言葉に使われることはあるまい。
「蛇みたいな奴だな……」
 柳川はそれをごく自然に誉め言葉のつもりで使っていた。
 蛇は嫌いじゃない。
 こいつのことも嫌いじゃない。
 必死に自分の腕を折ろうとしているこいつのことは嫌いじゃない。
 いや、むしろ好きなのかもしれない。
 必死に自分に噛み付いてくるこいつが、好きなのかもしれなかった。





     第83話 鬼の片鱗

 下からの腕ひしぎ逆十字固めが極まりかかっていた。
 仕掛けるは月島拓也。
 防ぐは柳川裕也。
 拓也が正確に極めるポイントをロックしていく、だが、動く相手に下から腕ひしぎを
極めるのは困難である。
 まず、いうまでもなく立っている相手に対して頭を下方に向けて逆さになっている方
が不利な体勢である。
 拓也は頭を支点にして位置を変えて攻めていく。
 よほど首が強くないとできない芸当だ。
「入るぞ、おい」
 誰にいうともなく浩之がいったその時、柳川の両手が動いた。左右の手をクラッチし
て右腕を伸ばされるのを防ごうとする。
 拓也の手が浩之の見たことのない動きをする。
 耕一も見たことのない動きであり、英二にも記憶は無かった。
 拓也が柳川の右手首に巻き付いたスーツを左手に巻いて縛ろうとしているのである。
 確かに、そのようなシチュエーションは今まで見たことが無かった。
 両手を拘束されてはたまらじと柳川が結手を解いた。
「ぇけあっ!」
 人間の声帯を通したとは思えぬ奇声が拓也の口からほとばしる。当然のように彼は至
福の笑顔であった。
 みり……。
 と、確かな感触。
 腕ひしぎ逆十字固めが極まっていた。
 
 みり……。

 と、皮の向こうで鳴った。

 みりっ……。

 と、肉の中で鳴っていた。
 凄まじい危機感が柳川を突き上げる。
 折られる。
 電流のようなものが全身を駈ける。
 それは本能が訴える恐怖。
 本能的恐怖そのものであった。
 それは顔に出た。表情に出た。
 それを見た拓也が心底嬉しそうに笑う。
 元々、拓也は無表情に淡々とした表情で闘っている男だった。それが、この柳川とい
う男と闘っている間は笑いっぱなしだ。
 とても嬉しい。
 嬉しいから笑う。
 嬉しいから笑みがこぼれる。
 不満はただ一つ。
 なぜ、この人も一緒に笑ってくれないのか。
 笑えよ。
 さあ、笑えよ。
 腕を極めるぞ。折るぞ。靭帯を引き千切るぞ!
 笑えよ。
 僕が他人の笑顔を求めるなんて滅多に無いことなんだぞ。
 あなたは二人目なんだぞ。
 瑠璃子とあなただけなんだ。
 笑えよ。
 瑠璃子の幸せを願うぐらいにあなたを壊したいよ。
 瑠璃子が笑顔でいて欲しいと思うぐらいにあなたの笑顔が見たいよ。
 瑠璃子に幸せになって欲しいんだ。いつも笑っていて欲しいんだ。
 あなたを壊してやりたいんだ。僕の闘いで笑って欲しいんだ。
 なんということだ。僕の中に価値観の一大変動が起きている。
 瑠璃子と同じぐらいに……。
 なんだ、それは。そんなことは今まで僕の中に存在していたことがあったか!?
 僕の中に、瑠璃子と同じぐらいのものなんて存在していなかったはずだぞ。
 柳川裕也――。
 瑠璃子と同じぐらいだ……。
 瑠璃子を慈しむのと同じぐらいに壊してあげるよ。
 さあ、まずは右腕!
 みり、と音が鳴ったぞ、靭帯が伸びたぐらいのダメージはあったはず。
 おお、表情が変わったじゃないか。
 まだ、笑ってくれない。でも、その表情もいいぞ。本能的恐怖に歪められたその表情
はたまらなくいいぞ。
 折ったら、どうなるんだろう。
 もっと顔を歪めて痛がるのだろうか。

 それはとてもいいな。
 でも……笑ってくれたらもっといいな。
 柳川の表情が変わった。
 激変した、といっていい。
 恐怖も怯えも無かった。
 歓喜も恍惚も介在する余地が無かった。
 憤怒も激情も、あるにはあったが僅かであった。
 いうなれば人間の顔ではなかった。
 その顔を、拓也はかつて見たことがあった。
 鬼。
 他に形容のしようがない。
 それは、鬼の顔だった。
 前にそれを見た時は、後頭部を蹴飛ばされた。
 今回はどうなる?
 なにはともあれ。
 その顔も、すごくいいぞ。
 拓也の頭が地面から浮き上がっていた。

 持ち上げた!?
 柳川が右腕一本で拓也の体を持ち上げているのを目の当たりにしても浩之も英二もそ
れをいまいち実感できなかった。
 柳川は細身ではないが、それほど膂力があるようにも見えない。
 片腕一本で自分とそれほど体格の変わらぬ人間を持ち上げるなど、そうそうできるこ
とではない。
 耕一だけは、それを冷静な表情で眺めている。
 柳川が右腕を振った。浮き上がった拓也の頭がゆっくりと弧を描く。体の角度は地面
に対して約四十度から五十度。
 拓也が両手による柳川の右腕の拘束を解く。
 戦闘が始まってから、自分を中心に半径3メートル以内に何があるかは常に把握して
いる。
 その記憶によれば、このままではまずい。
 拓也が両足でのロックはそのままに、両手を後頭部に回す。
 一瞬の間を置いて、その両手に衝撃が走る。
 先程柳川の頭をぶつけてやろうとした外灯の鉄柱だ。
 その位置を把握していなかったら、腕を極めることに気を捕らわれて後頭部を痛打し
ていたところだ。
 その衝撃で両足のロックも外れ、柳川が右腕を拓也の右足の下を潜らせるように脱出
させた。同時に、右腕で拓也の両足を弾く。
 拓也が引っ繰り返って柳川に背を向ける体勢になる。
 頭を蹴られまいと地を蹴って距離を取るが、背中に蹴りを貰ってしまった。
「くあっ!」
 呻きながらも拓也が体を返して背中を地につけて足を柳川に向けて上げる姿勢に移行
する。
 だが、その時既に柳川は右足を上げていた。
 踏みつけるつもりだ。
 固い地面の上に寝た相手を上から踏みつける。単純だが、当たればこれほど効く攻撃
もそうそう無い。
 それだけに拓也にとってはこんなものを頭に貰ったらそれ一発で勝負がついてしまう。
死線の上に投げ出されたようなもので、左右どちらに身を転ずるかで勝敗が決定してし
まう一撃だ。
 拓也は、それ一本で柳川の身を支えている左足を払うことを考えた。
 下手に防ぐよりもそれで相手の体勢を崩した方が、右足による踏みつけを逸らすこと
ができる。
 自らの右足で柳川の左足を刈ろうとした時。
「!……」
 柳川の左足が予定の位置に無かった。
 格闘によらず、他人との戦いにおいて、相手が自分の思う通りに動いてくれるとは限
らないというのは鉄則ではあるが、既に右足を浮かせたこの限定された状況において左
足が消えるなどということは予想の範疇に無かった。
 上!
 だが、その瞬間に範疇に無くとも次の瞬間にはそれを自らの範疇内にしてしまえると
いう域に月島拓也は達していた。
 柳川の左足は、右足に少し遅れて地を蹴って地上から飛翔していた。
 つまり、柳川の体のどの部分も地面に接触してはいなかった。
 飛んだっ!
 飛び上がって全体重をかけた右足で踏み潰すつもりだ。
 だが、跳躍しての攻撃の不利はその途中で攻撃軌道を修正するのが極めて困難である
ことにある。
 大体、どの辺に右足が落ちてくるかは予測できる。
 拓也は体の位置をずらしつつ、両腕で水月近辺をガードした。この距離と跳躍の度合
いからして頭部に攻撃はやってこないと判断したのだ。
 果たして柳川の右足は腹部に降ってきた。
 拓也はそれを右腕で受け、すぐに受けた右腕を傾けて柳川のバランスを崩した。
 倒れながらも左足で拓也の顔を狙ってきたのはさすがだが、バランスを崩しながらの
蹴りなので正確ではない。顔を背けて位置を変えることで難なくかわすことができた。
 前のめりに倒れた柳川が両手をついて地面との激突を逃れた時には拓也はその背後で
立ち上がっていた。
 柳川が振り向きながら身を起こす。
 蹴り――を打つには柳川の体勢の立て直しが早い。
 小さく舌打ちの音を洩らしつつ、拓也が体勢を下げて低空飛行で突っ込んでいく。
 立ち上がりかけていた柳川に衝突する。
 倒れざま、柳川が拓也の体に両手を回してしがみつく。
 拓也がそれを切る。
 柳川が切られまいと手を掴む。
 互いに両手を掴み合って力比べの体勢になった。それまでの目まぐるしさが一転、動
きの少ない攻防が展開される。
 両腕で互いの膂力を比べ合いながら激しく頭を動かす。
 お互いに、噛み付きを警戒してのことだ。特に危ないのが鼻や耳などの突起した部分
である。
 拓也が小刻みに頭突きを放っていく。
 その意図は直接的なダメージを求めてのものではないことは明白。
 何発目かのそれによって、柳川の眼鏡がずれる。
 柳川がそうはさせまいと顔を下に向ける。
 拓也が強引に救い上げるように頭突きを打つ。
 柳川の眼鏡が乾いた音を立てて地面に落ちた時に拓也の心に隙が生じなかったとはい
えない。
 眼鏡を落としてしまえば、確実に絶対的に自分が優位に立てる。
 そう思っていた。
 そう思っていたから眼鏡を狙った。
 眼鏡を落としたことによる心理的効果も計算に入れていた。
 だが、眼鏡が落ちた瞬間には、柳川の頭突きが拓也の顔面に炸裂していた。
 眼鏡を失ったことが大きく影響するのは離れて距離を取った場合だ。今のように接近
して、ましてやお互い触れ合っている状態ではほとんど意味をなさない。
 頭突きの衝撃から立ち直る前に蹴りが来た。
 顎を蹴り上げられたが、さすがに眼鏡無しでは正確な照準がしがたいのか、おそらく
距離を見誤ったのだろう、かすっただけであった。
 その蹴りよりも、その前の頭突きの方がダメージは大きかった。たまらずに拓也がよ
ろめく。
 その間に柳川は悠然と眼鏡を拾い上げる。落ちた場所は地面に接触した時の音の方向
と大きさで知れていた。
 浩之が、ほう、と溜め息をつく。
 二人の間に戦闘が交わされていた間は呼吸も満足にできぬほどに息苦しかった。二人
の動きを追うのに夢中になって、ついつい呼吸を忘れてしまうのだ。
 まだ、どちらにも致命傷は無い。
 時計を見る。
 ほう、ともう一度溜め息が漏れる。
 この闘い――始まってからまだ二分しか経っていない。
 凄まじい濃度が隙間無い密度で存在していた二分間だった。
 しかも……。
 まだ終わりではないのだ。

「ん?……」
 耕一が背後を振り返った。そちらは、公園の入り口の方向だ。
 その視線を追わずとも浩之にはわかっていた。
「あ、こんなとこにいたのね! ヒローっ!」
 と、いう声によって。
「うるせえのが来やがったな」
 全く、緊張感を削がれること甚だしいというものだ。
 そう思って、またいつ激突するかわからぬ拓也と柳川にも注意を配りつつ浩之が振り
向くと志保がどたどたと大股でやってくる。あかりが一緒にいるのも予想通り。
 ただ、それに僅かに遅れてやってくる人物に心当たりがあった。
 長瀬祐介といったはずだ。
 自分が拓也と戦った時にあちらの立会人としてやってきていた。後で英二に聞いたと
ころによると、なんでも拓也の妹の恋人であるらしい。
 と、いうことは、隣を歩いている少女が……。

 確か……瑠璃子といったはずだ。
 以前、ある病院で出会ったことがある。
 目が合うと、微笑んだ。耕一のことを覚えているらしい。

 瑠璃子が拓也を見る。
 拓也は柳川を見ていた。
 柳川は、瑠璃子をちらりと見たが、すぐに拓也に視線を戻した。
 拓也は全く視線を他に転じようとはせず、ただ一心に柳川を見据えていた。





     第84 走る

「あんた、こんなとこでなにやってんのよ、雅史が探してるわよ!」
「うるせ……」
 うるせえなあ、ギャーギャー騒ぐなよ、大体この緊張感溢れる場にお前が乱入してき
たらなんもかんもぶち壊しじゃねえか。いいから、帰って雅史には大丈夫だっていっとけ。
 と、志保にいおうとした浩之の言葉が止まった。
 気配が動く。
 音が鳴る。
 二つの気配が動いて近づく。
 地面が音を立てる。
 浩之は志保に向けて逸らしていた視線を元の位置に戻した。
 よく晴れた天候に乾ききった地面が砂煙を立ち上らせている。
 拓也が前のめりに身を低くして両手を地面に着いている。それとやや距離を取って柳
川が立っている。
 二人の動く前の位置、今の位置。
 そして立ち上った砂煙の形。
 ほぼ無風状態の今ならばそれで一瞬の間に何が起こったかは想像がつく。
 拓也が体勢を低くしてタックルに行ったのを柳川がかわした。直線の動きであるタッ
クルをかわすために横に、位置からしておそらく右足を旋回軸にして体を左に回しなが
ら拓也をすかしたのだろう。
 すかされた拓也はすぐに体の向きを変えつつ、前にのめった体を支えるために両手を
地面に着いた。
 それだけの動作が浩之が目を離した隙に行われたのだろう。
「……」
「ちょっと、ヒロ、聞いてんの」
「……」
「もう試合まで十分ぐらいしか無いわよ」
「……うるせえっ、お前のせいで今の見逃しちまったじゃねえか!」
 勿体無え。
 強く思う。
 今の一瞬の攻防を見逃してしまった。
「何よ、人が心配してやってんのに!」
「いいから黙って……」
 浩之の言葉が止まった。
 気配が動く、音が鳴る。
 今度は見逃さねえ。
 拓也が再びタックルを仕掛けた。それを柳川が身を旋回させながらかわす。タックル
に対しては足を後方に引いて上から体重をかけて潰すのが定石の一つだが、このように
身を触れずにかわしてしまう、というのは相当に困難なことだ。
 かわしざま横を向いた柳川に対して拓也が即座に体の向きを変え、両手を地面に着く。
 おそらく、ここまでは先程行われたのとほぼ変わらぬ攻防。
 だが、二回目となればどちらにも期するところがあろう。
 柳川が拓也の顔目掛けて左の蹴りを放つ。
 主に膝の屈伸で蹴り、蹴ってすぐに蹴り足を戻す、足で放つジャブともいえる。
 それを拓也はさらに身を低くしてかわす。
 柳川の靴が前髪に触れた時も、この男は細い目を開いていた。
 地べたに貼り付くように身を低くした拓也は柳川の左足が戻るのにぴったりと追尾す
るように前に出た。
 跳ねるように飛びながらの前進であった。
 右腕を突き上げる。狙いは金的。
 柳川が僅かに後退する。が、その僅かな後退が拓也の金的打ちを不発にさせていた。
 外れた。
 思う間もなく上空から柳川の左足が降ってきた。
 後方に逸らした顔を掠めて行った。少しでもかわすのが遅れれば頭頂から打ち抜かれ
ていたところだ。
 その足を拓也が掴んだ。
 上から柳川の右拳が頭に打ち下ろされる。
 重々しい音が鳴り、柳川が二発目を送り込もうとした時、拓也の頭が腕で攻撃できる
範囲から脱していた。
 だが、掴んだ足は離していない。
 上半身を後方に退きながら下半身を前に、そして両足を上に。
 両足で柳川の左足を絡め取って倒し、足関節を決めていくパターンの動きだ。さらに
その際に左足で金的を蹴るような素振りもして牽制している。
 倒して、ヒールホールド。
 膝十字も足首固めも威力のある技だが、この手の闘いにおいては関節技はとにかく、
「即効性」のあるものがいい。
 極めている間に、相手がどのような反撃をしてくるかわからない。
 ヒールホールドのように、全く可動しない関節を極める技は技に入った瞬間にダメー
ジを与えることができる。
 柳川の背中が地を打った時には拓也の右腕は柳川の足首から踵にかけて絡み付いてい
た。
 だが、間髪を入れず、柳川の右足がやってきて、踵が痛烈に拓也の右腕を叩いた。
 倒れる前に右足を蹴上げていて、倒れるとほぼ同時に足を落としてきたのだ。
 いわば、その時にはまだその場所に存在していなかった拓也の右腕を狙っていたこと
になる。
 身を起こした柳川が右の肘を思い切り拓也の左足に落としていった。
 一発で、緩む。
 二発で、より緩む。
 生じた隙間を利して、するりと左足を抜いた柳川の顔へ拓也が放った左の蹴りが突き
刺さる。
 柳川がすぐに立ち上がって距離を取り、拓也は寝転がって少し様子を見た後に立ち上
がった。
 柳川が右頬を撫でる。どうやら、奥歯は折れていないようだ。

「けっこう長引くな……」
 一度、クリーンヒットが炸裂すればそのまま勝負が決まってしまうような類の闘いな
だけにこの二人の勝負は、相当に長引いていると見ていい。
「ちょっと、ヒロ!」
「なんだよ、うるせえなあ」
「何よ、これ、喧嘩じゃないの」
 志保にいわれて、浩之は一瞬考え込む。
「ん、まあ、そうだな」
「なんで止めないのよ!」
「……え?」
「なんで止めないのかって聞いてんの!」
 止める。
 全く浩之が行わぬ発想であった。
「どっちか大怪我した後じゃ遅いのよ、あの二人、あんたの知り合いなんじゃないの?」
「いや……知り合いっていや知り合いだけど」
「あー、もう、とにかく、さっさと止めなさい!」
 止める。
 喧嘩を止める。
 ごく普通の発想かもしれない、が、それも時と場合による。浩之だって止めるべきだ
と思ったら止めに入る。
 この二人の喧嘩――闘い――を止めることはできない。
 浩之には、それはできなかった。
「あんたには頼まないわよ!」
 浩之の態度を煮えきらぬ、と感じた志保がそういってから辺りを見回す。
 拓也と柳川の間に動きが無くなったこともあって、二人のやり取りを眺めていた耕一
と目が合う。
「えーっと……柏木耕一さんね!」
「ああ、そうだけど」
「もうすっごいですよね、さっきのとその前の試合見ましたよー、もうヒロなんかじゃ
逆立ちしたって勝てないっていうか」
「……」
「そんな柏木さんにお願いがあるんですよ」
「な、なにかな?」
「あれです、あれ。止めて下さいよ」
「いや、それは……」
「あのまんまじゃどっちか再起不能になるまで終わりませんよ」
「そうかもしれないけど……」
「ここは一つ、柏木さんのお力で、ぱぱっとおさめて下さいってば」
 あの二人の闘いをぱぱっとおさめられたらなんの苦労も無い。
「それはできないな。あれは二人の意志で行われているものだから」
「うーーー」
 唸りながら、志保はさらに辺りを見回して、見覚えのある人間を見出した。
「え、嘘っ、あれ緒方英二じゃないの?」
「ああ、緒方英二だよ」
 袖をグイグイ引かれてしょうがなく浩之が答える。
「あーーー、緒方理奈までいるじゃないの!」
「……お前、ちょっと黙れよ」
「サイン貰っておこうかしら……あー! こんな時に限って色紙もなんにも持ってな
いわ! ねえ、この服にサインしてもらったら変かな?」
「変だな」
 暗に、止めろ、といいたかったのだが、浩之のその意図が伝わったとは思えぬ。
「あーーー! マジック、マジック持ってない、あんた!?」
「持ってるわけないだろうが」
「あああーーーーー!」
「今度はなんだ」
「喧嘩止めなきゃ!」
 案外と記憶力はあるらしい。
「ええい、もうあんたらには何も期待しないわ、警察呼んでくる」
「ちょ、ちょっと待て」
「何よ、だったらあんた止めなさいよ」
「いや、でも、それやばいっしょ、耕一さん」
「んー、警察官が非番に喧嘩……不祥事扱いになるのかなあ……」
「何よ何よ、何がどうしてやばいのよ」
「あの眼鏡かけた柳川って人、警察官なんだよ」
「……」
「だから、ちぃと警察に知らせんのは止めてくんねえかな」
「……何やってんのよ、警察官が!」
「いや、お前のいうことはけっこうもっともなんだが……」
「あー、もう、しょうがないわね」
「思いとどまってくれたか」
「あんたらじゃ頼りにならないから誰か呼んでくるわよ、警察にはたれ込まないから安
心しなさい」
「あ、おい」
 浩之が呼び止める前に、志保は駆け出していた。まいったな、といった表情で苦笑し
ながら浩之が耕一を見る。
「どうしようもないな、確かに、喧嘩してんの見たら止めようとするのが普通なのかも
な」
「んー、おれらがおかしいんすかねえ」
「まあ、おれはいざとなったら止めるよ。どちらかが死にそうになったらな」
 浩之はその耕一の言葉に考え込んだといっていい。果たして自分はそうなった時にど
うするだろうか。
 あの二人が納得して覚悟して行っているこの闘い、第三者が割って入っていいのかど
うか、死人が出るのはまずい、ということはわかるのだが、その辺りの決断が浩之は未
だにできていなかった。
「死んだら駄目だよ」
 そういった耕一の視線が一人の少女に行っている。
「死んだら、あの子はどうなる。そして……おじ……柳川にだっているはずなんだ。そ
ういう人が」
 そういう人……。
 自分にとっては、あかりだろうか。
「どんなに恨まれても、おれはいざとなったら止める」
 それは強い意志を孕んだ声だった。
 おれは……。
 浩之は自問する。
 おれは、どうする。
 止めるのには抵抗がある。だが、妹の目の前で兄が殺されるようなことは阻止しなけ
ればならないと思う。
 それが普通じゃねえか。
 おれは志保にいわせりゃ普通じゃないのかもしれないけど、そこだけは譲れないぞ。
 その月島拓也の妹だという少女に浩之も視線をやった。
 一体、何を思っているのか、その表情からは窺い知ることができなかった。

「お兄ちゃん」
 囁くような小声ではない。
 少し離れた位置にいる緒方兄妹にも、耕一にも浩之にもあかりにもその声は届いてい
た。
 柳川がそれに反応して僅かにだが、視線を逸らす。
 拓也の耳に聞こえていないはずはない。
 だが、拓也はまるで聞こえていないかのように例の重心を低く落として首を両肩の間
に引っ込めたような構えで柳川を睨み付けている。
「長瀬ちゃん」
 瑠璃子は兄を見たまま、祐介にいった。
「無視されちゃったよ」
「……瑠璃子さん」
「お兄ちゃん、すごく夢中になってるみたいだね」
「うん」
「嬉しいよ、お兄ちゃんがそんなに夢中になれるものが見つかって」
「うん」
「でも、ちょっと寂しいね」
「……うん」
 呼べば飛んでくるような兄だった。
 瑠璃子を愛して、愛し過ぎて狂気の狭間を垣間見たことすらある兄だ。
 今は、祐介を恋人とは認めぬというものの、殺そうともしていないので、だいぶ穏や
かに妹のことを考えられるようになったようだ。
 自分のことよりも瑠璃子を優先する兄だった。
 その兄に、自分と同等、もしくはそれ以上の何かが生まれた。
 それがなんであろうと。
「やっぱり……嬉しいかな」
「……うん」
                                                        続く




   


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