第85話 瑠璃子

 現職警察官の喧嘩を止めるために、志保はひた走っていた。
「はぁ……はぁ……ぜぇ……ぜぇ……」
 実際のところ、彼女が汗だくになってまで走り回るだけの理由は無い。
 見ず知らずの人間同士の喧嘩を止めるために、なんで自分がこんなことをしなければ
いけないのか、という気持ちは一瞬といえども脳裏をよぎらなかった。
「ひぃ……ふう……はぁ……」
 とにかく、その場の勢いで発言して、その自らの発言に乗せられるように走っていた。
 長岡志保の人生では、そうそう珍しい情景ではない。
 ヒロのバカが頼んでも止めてくれないのならばもう力は借りない。
 なんとしても自分がなんとかしてみせる。
「ふう……はあ……ひい……」
 とはいうものの、いいかげんに走り疲れた。
 とりあえず、エクストリームの試合会場に戻っては来た。だが、とりあえずなだけに
その後の展望は特に決めていなかった。
 とはいうものの、選択の幅は悲しいほどに限られている。
 誰かを呼ぶしかない。しかも、浩之に「警察にはたれ込まない」といった以上、警察
以外に、だ。
 会場に戻ってくればなんとかなるだろう、と甘い考えでいたのだが……。
「喧嘩? 警察を呼べよ」
 出場選手らしきごつい体格の男に頼んだら胡散臭そうな目での一瞥と、そんな素っ気
無い一言を頂戴しただけであった。
 当然といえば、当然ではある。
「うーむ」
 志保が唸りながらも物色の視線を四方に飛ばすと、視界の隅を見覚えのある顔が横切
った。
「あ、松原さーん」
 声をかけたものの、葵はキョロキョロと辺りを見回しながら行ってしまった。追いか
けようかとも思ったが葵は小走りで追いつけるかどうかがわからないので止めた。それ
に、浩之からさまざまな話を聞き、さらに今日試合を見て、葵が強いのはわかるが、な
にしろ小柄な女の子である。大の男の喧嘩――しかも、見た限りでは相当に鬼気迫るそ
れ――を止められるとは思えない。
 志保は知るよしも無かったが、この時、葵は雅史に頼まれて浩之を探している最中で
あった。
 廊下をぐるりと回って歩いていくと、一角に三十人ほどの人だかりができていた。
 好奇心が平均よりも強いタチである志保は当然、引き込まれるように近づいていった。
 人々の壁が廊下の隅を取り巻くように扇状に展開している。
 そして、その中心で自分たちを見る人々の視線を全く意に介さず……というよりも気
付いていないかのように小声で言葉を交わしている二人の女がいた。
「ここで、こう」
「へえ、そういう入り方もあるのねえ」
「そうそう、この状態になったらもうどっちに逃げようとしても極まるから」
「あ、ちょっと待って、ってことは、こういうのもありですね」
「あ、それ、次に教えようと思ってたバリエーションよ、やっぱり来栖川さんってセン
スあるのね」
 確かに、少々の人だかりはできるに違いなかった。
 先程行われた女子一般の部の優勝者と準優勝者が廊下の隅で寝転がって、お互いの足を
取り合いながら何やら話し込んでいるのだ。
「ちょっと、来栖川さん、来栖川さんってば」
 人を押し分け掻き分け間を縫って、志保がやってくると綾香は立ち上がった。横からす
っと差し出された松葉杖を受け取って、それを床に着く。
「どしたの? なんか慌ててるみたいだけど?」
「ちょっと聞いてよ、大変なのよ!」
 志保は、喧嘩を止めてくれる人間を探している、といった。ヒロのバカがその場にいる
のに止めないで見ているだけだ、とも。
「どこで誰が?」
 人垣の目と耳を意識して声を小さくして綾香が尋ねる。
「えーっと、さっき反則負けになった月島っていう人と……もう一人は背が高くて眼鏡か
けてる現職警察官……名前はなんていったかしら……」
「あのう……」
 口を挟むのを恐れるように遠慮しながら声を出したのは、先程まで綾香と足関節の極め
方を話していた御堂静香だ。
「もしかして……柳川という人ではないでしょうか? 柳川裕也」
「……下の名前は知らないけど……名字はそんなだったかも」
 一度だけ浩之が名字を呼んでいたような気がする。確か、そんな響きの名前だったはず
だ。
「あの、柳川さん、なんで喧嘩なんか」
「それは、あたしもわかんないですけど」
「とにかく、場所はどこよ」
 綾香が急かすようにいう。
「ここからすぐ近くの公園よ」
 その時……。
「もし……」
 影のようにひっそりと彫像のように立っていた老いたる巨漢が声を発した。
 セバスチャンこと長瀬源四郎。来栖川家に数十年にわたって仕えてきた執事であり、
現在では来栖川芹香の送り迎えをしている。先程、綾香に松葉杖を差し出したのは彼で
ある。
 その芹香は源四郎以上にひっそりと彼の斜め後ろに立っている。
「柳川とは……先程、病院へ行く時に同乗した方ですかな?」
「あ、そうです。私のセコンドについていた方です」
「裕也……彼は……柳川裕也というのですか……」
「どしたの? セバス」
「いえ、聞いたことのあるような名でしたので、記憶違いでしょうが」
「ふうん」
 志保は源四郎のことを見て、浩之に聞いたことがある芹香の護衛兼運転手をしている
元ストリートファイターのことを思い出していた。
「えーっと、確か、長瀬さん!」
 記憶を辿って、志保はその名を口にした。
「そうですが……」
「うふふふ、お強いんですってね、そこで志保ちゃんが見込んでお願いがあるんですけ
どお」
「……なんですかな」
「喧嘩止めてやってください」
 両手を合わせた志保にさすがに困った顔をした源四郎がその顔を芹香の方に向ける。
「……」
 志保の位置からは全く聞こえぬ声で芹香は何かを呟いていたが、
「よろしいでしょう。その公園というのに案内していただきましょう」
 源四郎が頼もしげにいったことから、芹香が源四郎に志保の頼みを聞き入れてあげる
ようにいってくれたのだということは容易にわかった。
「よっし、さすが来栖川先輩! 話がわかる! で、その公園ってのは会場出たらすぐ
だから……」
「私も行きます。急ぎましょう」
 不安を隠し切れぬ表情で静香がいえば、
「そうね、急いだ方がいいわね」
 志保が呼応する。
「ちょっと待って!」
 松葉杖を持っておらぬ方の手を上げて綾香がそれを制する。
「私を置いて行く気じゃないでしょうね」
「……だって、来栖川さん、足怪我してるから早く歩けないでしょ。ここで待っててよ」
「嫌よ、その喧嘩っての私も見たいわ」
「……一応、止めに行くのよ」
 このお嬢様はもしかしたらあの場でただ喧嘩を見ていた浩之たちと同種なのかもしれ
ぬと思いつつ、志保がいった。
「セバス、お願い」
「……では、恐れながら……」
 かくして、志保を先頭にして御堂静香、綾香を背負った長瀬源四郎、そして来栖川芹
香は、志保の先導によって公園へと向かったのであった。

「……」
 志保の足が止まった。
「あのー、もう少し早く歩いてもらえないでしょうか……」
 源四郎を見て、さすがにこっちから頼んだことだけに遠慮がちにいった。
「そうは申されましても……」
 本来、綾香一人を背負ったところで、この男の歩幅も歩速もそれほどに衰えぬはずだ
が、志保にそんなことをいわれてしまう理由は明白。
 芹香の速度に合わせているからだ。
 芹香は、彼女なりに最高速度で歩いているつもりなのだろうが、それでもやはり遅い。
 源四郎が言葉を切った後に何がいいたいのかはいわれなくてもわかる。彼にとっては、
芹香の側にいて芹香に危険が降りかかればこれを排除し、どこの馬の骨とも知れぬ男が
近寄ればやはり排除し、彼女を守ることこそが第一の任務であって、この度、志保の頼
みを聞き入れたのも芹香がそういったからというのが大きい。
「うーん」
 どうしようか、と悩む素振りを見せながら志保がじーっと綾香を見る。
「……下りないわよ」
 綾香が下りて公園に行くのを諦めて、芹香を源四郎が背負っていけばいい、と提案し
ようとしていたのだがいきなり釘を刺される形となった。
「あああああああ! しょうがない! 先輩! 私におぶさって!」
 志保は叫ぶや、芹香に背を向けてしゃがみ込んだ。

 二つの肉体が距離を取る。
 砂煙が濛々と立ち込めていた。
「またか……」
 耕一の独白が指す意味を浩之は正確に理解していた。
 先程から何度も、似たような光景が続いている。
 二人が接触する。主に、拓也がタックルを仕掛けることが多かった。
 柳川はかわすか潰すかしてタックルを殺し、拓也は殺されながらも柳川の関節を極め
ようとする。
 それを打撃――主に手による――で迎撃し、一瞬の間隙にどちらからともなく距離を
取る。
 そんなやり取りがもう五回は繰り返されていた。
 あくまで関節を極めることに執着している拓也だが、接触する度に少なからず柳川の
攻撃を受けて、さすがにダメージは蓄積している。
 関節技というのは熟練した者が一度極めてしまえばそのまま相手の関節をへし折り、
大ダメージを与えることができるが、極めぬ内は大したダメージは無い。
 それに引き換え打撃は小刻みに入れることによってそのダメージが蓄積する。
 拓也が関節を極めるか。
 拓也がダメージの蓄積に耐え切れずに倒れるか。
 現時点では、その辺りに闘いの焦点がしぼられつつあった。
 柳川が、すう、と動いた。重さを全く感じさせない動き。
 拓也は錯覚する。
 突然風でも吹いたら遥か彼方に吹き飛ばされてしまうのではないか。
 この男が地を蹴れば何十メートルも上空に飛び上がるのではないか。
 右のローキックが来た。
 タックルで迎撃しようと身をかがめた拓也の機先を制してその顔を狙って疾走してき
た。
 見ただけでわかった。
 左腕で受けてようくわかった。
 とてつもなく重い一撃であった。
 ローキックといっても、横薙ぎの一撃ではない、爪先が地をかすめるように這いなが
ら命中の寸前に跳ね上がるような一撃だ。
 それを受けて、拓也の上半身が後方に仰け反る。
 柳川がさらに距離を詰めて右でフックを放つ。
 その描く軌跡の先に拓也の顔があった。
 拓也の全身が震える。
 たまらない歓喜が体を揺さぶる。
 その歓喜は悪寒を伴っていた。
 いや、正確ではない。
 悪寒、恐怖。
 背筋を凍らせるようなそれらを成分に多く含んだ歓喜なのだ。
 普通の歓喜じゃない。
 だから、こいつはたまらないのだ。
 拓也がやや前方に頭を沈める。
 明らかに顎の先端を狙ったフックである。一番リスク無くかわすには軽く顔を引けば
よい。
 だが、それでは相手と離れてしまう。
 それでは、かわすだけだ。
 それじゃ駄目だ。かわすことが即次の攻撃に繋がるものでなければ……。
 並の相手だったらいい、でも、この相手にはいつまで経っても勝てない。
 いつまで経っても駄目だ。
 この、底の知れない男に勝てない。
 いつまで経っても、その底すら見れぬ。
 一瞬でも遅れれば、柳川の右拳がテンプルに炸裂する。
 さあ、死ぬか生きるか。
 その渦中に身を躍らせる。
 歓喜が増幅する。
 ゾクゾクする。
 拳が、後頭部に擦れる。
 そんなものは効かない。少しの痛みも感じない。
 一発で勝負を決めようとしていた大振りの一撃だ。かわされれば急には止まらず、隙
ができる。
 果たして、外れた右拳に引っ張られるように柳川の体が回転する。
 背中を向けた。
 バックを取れる。
 バックを取って、足をかけて倒す。倒した状態でバックを取れればいかなこの男とて
自分の攻撃をそうそう簡単にはしのげぬはずだ。
 歓喜がさらに増幅。
 全身を満たしていく。
 それが極まった時――
「っぅ!」
 上方から降ってきた何かが後頭部にぶちあたって拓也を地に貼り付けた。
 虚無。
 あれだけあった歓喜がすっぽりと抜け落ちた。
 どこだ?
 どこからだ?
 二種類の疑問が同時に拓也の中に生じた。
 あれだけあった歓喜はどこへ行った。
 どこからどのような攻撃が自分を地に這わせたのか。
 後者の疑問はすぐに氷解した。右フックを振り抜いた直後であること、その時の拓也
の頭の位置、などから推測して、左の肘だ。
 右が外れて勢い余って背中を向けながら左脇に後ろから密着していこうとした拓也の
頭へ左肘を落としてきたのだ。
 間一髪であった。
 もう少し早く接触すれば頭の位置を効果的な打撃を貰わない場所に持っていくことが
できたのだ。そうなれば肘から先で打つようなコツコツ当てるパンチぐらいしか柳川は
拓也の頭部に当てられなくなる。
 だが、その寸前でやられた。
「えあああっ!」
 奇声を大音声で発しながら拓也が身を起こす。
 おお――。
 拓也の中に生じる新たな疑問。
 僕はこんな大きな声で叫ぶような人間だったのか。
 おそらく、蹴りが来る。
 それに備えながら立ち上がる。
 立ち上がって――。
 不用意な蹴りを打ってくるようなら受け止めて引っ繰り返してやるぞ。
 足でも手でもどこでもいい。
 僕は関節たちが上げる悲鳴が聞きたいんだよ。
 立ち上がって――。
「!……」
 拓也の視界に信じられぬものが飛び込んできた。
 なぜだ?
 なぜこんなところに……。
 ――瑠璃子。




     第86話 咆哮

 錯覚かと思った。
 なぜ、瑠璃子がこの場にいるのだ!?
 闘いが始まる前にはいなかったはずだ。
 それが拓也の心に間隙を生んだ。
 時間にして、約二秒。
 腰を曲げて体勢を低くしたその体勢のまま、拓也は約二秒の時を無為に過ごした。
 致命的である。
 一秒どころではない。秒を寸刻みにしたような一瞬一瞬の攻防で形成される闘いにと
って、二秒の遅滞というのは敗北に直結するものだ。
 思わぬところに瑠璃子がいた。
 そんなものは言い訳にならない。
 言い訳が全く通用しない闘いが、自分が望んでいたものだ。
 今、自分は負けていなければならなかった。
 二秒だ。
 二秒もの時間、相手から目を離して呆然としていたのだ。
 その間に顔に蹴りを貰って崩れ落ちていなければいけない。
 そうでなければおかしい。
 そうあるべきなのが、自分の理想の闘いだ。
 なのに……。
「……なぜだ……」
 拓也はその姿勢のままそこにいた。
 動きが止まった前と後で何も変わってはいない。
「……なぜだ……」
 もう一度いって、顔を上げる。
 少し距離を取ったところに柳川がいた。
 拓也の記憶の最後にある位置よりもやや後方だった。
 蹴りの一発も送り込んできていない。後ろに回り込んだわけでもない。ただ、少し後
退して拓也のことを見ていたのだろう。
 拓也の中に熱くたぎるものがあった。
 柳川が手を抜いた――。
 そうとしか思えなかった。
 自分は、手を抜かれたのだ。
 柳川が、妹に気を取られた自分を攻撃せずに距離を取った――。
 おそらく、間違いなくそうであろう。それ以外の理由が考えられない。
 自分は、情けをかけられたのだ。
 この男が全く自分を恐れていないからだ。
 相手が怖かったら、そんな隙は見逃さない。一気に付け込んで叩き潰すはずだ。
 自分なら、そうする。
 そんな大きな隙を故意に見逃すなど、そうそう無い。
 相手をよほど弱いと思っていないとできないはずだ。
 わざわざその隙をつかずとも、いつでも倒すことができると強く思っていなければで
きないことだ。
 それは屈辱であった。
 情けをかけられたのだ。
 お前なんか怖くないよ、といわれたのだ。
 お前になんかいつでも勝てるよ、といわれたのだ。
 屈辱だ。
 悔しかった。
 歯軋りした。
 瑠璃子が見ていることももはや気にならなくなっていた。
 できれば瑠璃子に見せたくないような顔になっているはずだった。
 屈辱が我が身の中で燃えていた。
 悔しさが屈辱を焼いていた。
 濛々と立ち上った黒煙は憎悪。
 柳川に対する憎悪と、それを遥かに上回る自分への憎悪。
 屈辱が悔しくて、歯軋りして、手を震わせて、憎悪が生まれていた。
 生まれ続けていた。
 後から後から、全く質も量も衰えぬ憎悪が湧き上がる。
 毛穴という毛穴から、何かが噴き出しているようだった。
 もしも憎悪が、本当に黒い煙として人の目に見えるのだとしたら、今、自分の全身か
ら間断なく黒煙が噴き上がっているはずであった。
 熱い。
 全身が火照るように熱い。
 溶鉱炉に叩き込まれたように熱い。
「つっ! つぅぅぅ! えぅ!」
 叫んだが、まともな音声が口から出なかった。
「――! ――! ――!」
 ついには、五十音に認識できぬような意味不明の音声が漏れ始めた。
 人間の声帯から出たものとは思えない。
 人外の声であった。
 いや――。
 声ですら無かった。
 それは、なんだかわからない音であった。
 怒りが詰まった音だった。
 相手への怒り――。
 自分への怒り――。
 それがごっちゃになって、どうにもならずに口からほとばしっていた。
 それが、その、人には理解できぬような音になった。
「こっ!」
 ようやく、拓也の口からまともな音声が出始めていた。が、その表情は依然、まとも
ではなかった。
 狂った!?
 見ていた人間のほとんどが思った。
 そしてそう思った人間のほとんどが、敵に情けをかけられて狂うのを、この男らしい
と思った。
「ろっ!」
 途切れ途切れに、声が出る。
「せえっ!」
 喉がかすれるような声であった。
 こおっ!
 叫ぶ。
 ろおっ!
 叫ぶ。
 せえっ!
 叫んでいた。
 泣きそうな顔をしていた。
 屈辱を悔しさが焼いてできた憎悪を全身にまといながら、泣きそうであった。
 憎悪を噴きながら、泣きそうであった。
 これ以上に無いという憎悪を浮かせた表情だが、泣きそうであった。
 憎悪に染まった目をしていたが、泣きそうであった。
 憎悪に染まった目から、涙がこぼれ出そうであった。
 泣くような顔には見えないはずなのに、なぜか、泣きそうに見えた。
 事実、月島拓也は泣きそうであった。
 今にも、目から溢れ出そうであった。
 涙の色はなんであろうか。
 赤い血涙が出ても驚かない。
 黒い涙が出ても驚くべきでない。
 透明の涙など、出ないのではないかと思った。
 理想の相手であった。
 理想の闘いができると思っていた。
 理想が、理想のまま、夢想となって終わることを免れた。
 歓喜が全身に満ちた。
 不思議と、憎悪は無かった。
 そういうものを通り越したものがあった。
 この柳川裕也という男を評価するのと同様に、その男と素晴らしい闘いをできる自分
にある程度の満足を得てもいたから、悔しさもなかった。
 どっちも手抜き無しだ。
 いつしか、この男が好きになっていた。
 瑠璃子と同じぐらいの位置にまでこの男が上がってきていた。
 この男も、自分のことを嫌いではないのではないか、と思うようになった。
 嫌いだったらこんなことに付き合ってはいない。ましてや、柳川は警察官である。
 そう思っていた。
 そう思わせる闘いだった。
 最後までそうあるべきであった。
 最後までそうだったら死んだってよかったのだ。
 殺されたって悔いは無かった。
 そういう生き方もいいだろう。
 自分は、そういう終わり方をするのもいいだろう。
 何度もそう思っていた。
 柳川の攻撃が当たる、と思った瞬間も、その次の瞬間には思うことはそれであった。
 この人に、このまま殺されるのならそれもいいな……。
 本気で、そう思っていたのだ。
 そう思っていたのに――。
 無用の気遣いだ。
 無用の情けだ。
 無用の手抜きだ。
 他の人間なら感謝するかもしれぬが、自分にはそれは無用なのだ。
 不意に、悲しさが襲ってくる。
 そのことがこの人に伝わっていなかったのか、と思う。
 自分は全身で語ったはずなのに、それがこの人に伝わらなかったのか。
 いらないのだ。
 気遣いなんかいらない。
 情けなんかいらない。
 手抜きなんかいらない。
 それらのいらないものがこの純度の高い結晶体のごとき闘いに仕上がるはずだった闘
いを濁らせてしまった。
 不純物が混じった。
 一度、それが混ずればもう元には戻らない。
 様々な感情も、結局行き着くところは憎悪であった。
 相手への憎悪か自分へのそれなのかも、もはや段々と不鮮明になってきている。
 何か、この世界とは別の次元のものを憎悪しているようでもあり――。
 この世界のありとあらゆるものを憎悪しているようでもあり――。
 ただ、向ける先の無い憎悪を向ける先の無いままに、生み出しているようでもあった。
 黒煙のような憎悪であった。
「こぉっ!」
 声が出る。
「ろぉっ!」
 重心が僅かにだが前方に移動する。
「せえぇい!」
 しなやかな拓也の体が静かに、沈んだ。
 一瞬だけ、止まる。
「こぉろぉせえい!」
 押さえつけたバネが跳ねる直前の危なっかしさが拓也にはあった。
「殺せっ!」
 動いた。
「殺せぇぇぇぇぇっ!」
 右手による横薙ぎの一撃。
 今まで、拓也はスタンドでの打撃を寝技に持っていくための牽制に使うのがほとんど
であった。
 が、それは牽制ではなかった。
 真っ直ぐに送り込まれた一撃。
 すぐに、左手による第二撃が行く。
 フェイントも無かった。
 真っ直ぐに、最短距離で柳川の体を目指してきた。
 両手による激しい攻撃の合間合間に、足による金的を狙った蹴りが挟まれる。
 柳川は後退により、それをかわしている。
「殺せえ!」
 細い目が目一杯開かれていた。
 血走った目が真っ直ぐに柳川を睨んでいた。
「しぇあっ!」
 それまでどちらかといえば寡黙な闘いをしてきた拓也の口からいつのまにか気合が走
った。
 走ってから本人が気付いた。
「きぇあ!」
 また出ていた。
「殺してみろぉぉぉ!」
 目一杯開かれた目から、今にも涙がこぼれそうであった。
 血走った目から、今にも涙がこぼれそうであった。
 ちっ――。
 と、微かな音が鳴る。
 鳴ったのは柳川の右頬であり、鳴らしたのは拓也の左手の爪であった。
 つう――。
 と、柳川の右頬に刻まれた細い朱線から赤い血が流れ出ていた。
「反撃しろ!」
 叫びつつ、拓也が攻撃を続ける。
「……」
 無言で、柳川が後退を続ける。
「殺せっっっ!」
 また、それを拓也は叫んでいた。
 わけがわからなくなっていた。
 もうこの闘いをどういうふうに終えればいいのかがわからなくなっていた。
 勝てばいいのか、負けるべきなのか。
 いや、むしろ、もうこの時点で負けを認めてしまうべきなのか。
 そもそも、何が勝ちで何が負けなのか。
 もう何もわからない。

「ああ……」
 それを見ていた緒方英二は嘆息していた。
 理由は違うながらも、自分がかつてなったのと同じ状態に拓也が置かれているのがわ
かった。
 殺して欲しがっている。
 殺されたがっている。

「殺してくれえっ!」
 どう考えても殺す気としか思えぬ攻撃を繰り出しながらも、拓也は叫んだ。
「殺して! くれ!」
 それはもはや哀願であった。

「ああ……」
 英二が再び嘆息していた。





     第87話 ごめん

 接した回数も時間も、決して多くは無い。
 その短い時間の中で、この男をどれだけ理解したかは心許ない。
 だが、その時間が皆、密度の濃い時間であったことは断言できる。
 夜、御堂家に行こうとした途中で、この男に会ったのだ。
 そこで、一度、闘っている。
 その次に会ったのは今日。試合を前にした御堂静香と話した直後だった。
 仕掛けようとした拓也を柳川がいなして、一触即発のまま激突は避けられた。
 そして、その次――。
 それが、つまりは今である。
 心身を削り合うように闘っている今だ。
 思えば、会えば穏やかならぬ雰囲気ばかりだ。ごく普通の世間話をしたことなど一度
も無い。
 その穏やかならぬ幾度かの邂逅を経て、柳川は柳川なりにこの男を理解したつもりで
はある。
 きっと、そうそう簡単に他人に屈服する男ではないだろう、と思っていた。
 きっと、人にものを頼むことなどほとんど無いだろう、と。
 他人にものを乞うようなことは無いだろう、と。
 その月島拓也が乞うていた。
「殺せっ!」
 そう乞いながら遮二無二両腕を振って襲い掛かってきていた。
 それをかわしながら柳川裕也は思う。
 殺すか……この男。
 殺せるわけはない。
 とも、思う。
 自分はもう、人の死が冷たいということを知っているからだ。
 そういえば、初めて会った時に、この男とそんな話をした。
 わかっていないらしい。
 人の死の冷たさを……。
 拓也が死ねばそれを感じるのは拓也ではないということを……。
 柳川もそれを感じるだろうが、よりそれを強く感じて寒い思いをする人間がいるという
ことを……。
 だから……。
「殺さない」
 思わず、声に出ていた。
 呟きながら拓也の突進をかわし、ついでに足を引っ掛けてやった。
 前方にのめっていた拓也はあっけなく地に倒れた。むろんのこと、普段の冷静沈着な
拓也ならば引っ掛かるわけがない攻撃だ。
 それでも、倒れてすぐに一瞬の間も置かずに体を柳川の方に振り向けたのはさすがで
あった。
「殺せ……」
「殺さない」
「殺してみろぉ……」
「殺さない」
「殺せ! 殺すんだ!」
「殺さない」
 血涙が滲むような拓也の懇願も柳川の拒絶に悉く弾かれる。
「なぜだ……」
 ぽつり、と漏れた拓也の言葉であった。
「なぜ……殺さない……いや……なぜ、さっき倒しに来なかった……」
 体勢を低くしたまま、上目遣いで柳川を見ていた。
 上目遣い、といっても、当然卑屈なものではない。下方からえぐるような視線だ。
「さっき……簡単に顔を蹴れたはずだ……そうしていれば終わっていた……」
「……」
「僕が瑠璃子に気を取られたからか……」
「……」
「絶好のチャンスじゃないか……」
「……」
「そんなの……違うぞ」
 微かに、声が震えていた。
「そんなので……僕が感謝するとでも思っているのか?」
 笑おうとして、失敗した。
 頬の肉が、引きつった。
「そんなことが……僕のためになるとでも?」
 ひきつれ、よじれ、歪んだような声だった。
「お前のためじゃない」
 柳川の声は落ち着いていた。
 既に答えを得ているというような落ち着きと自信がその声にはあった。
「お前なんかのためじゃない」
 少し、声が強くなる。
「お前なんかのためじゃないぞ」
 また、強くなった。
「無闇に死に急ごうとするお前なんかのためじゃないぞ」
 また、強く。
「あれはお前の妹だろう……」
 瑠璃子に一瞬だけ視線をやった。
「……」
 拓也は、何かが口中につっかえたような顔で沈黙している。
「妹を置いて一人で死んでしまおうとするお前なんかのためでは断じてないぞ!」
 強い声だ。
 音量の大きさ自体はそれほどでもない。
 だが、固い芯が真中に通った強い声だった。
 周辺の空気をまとめて揺らすような強い声だった。
「冷たいぞ」
 前に出た。
「人の死の冷たさはお前が思っている以上だぞ」
 前に出て行く。
「残された人間の辛さはお前が思っている以上だぞ」
 距離、2メートル。
「それでもやるか……」
 1メートル。
「そんなに冷たいんですか?」
 拓也が笑っていた。
 頬の肉がひきつっているのではない。満面の笑みだった。
「自分で経験しないと駄目なタチなんですよ」
「……馬鹿が……」
 経験をした時には、もう遅いのだ。
 あれはそういうものだと柳川は思っている。
 二人の間にある1メートルの空間はもう既に限界まで張り詰めている。
 どちらかが、動けば……いや、殺気とまで行かずとも、闘おうという気を発すれば弾
け飛ぶ。
 拓也が右足――。
 柳川が左足――。
 同時だった。
 
 迷いがあった。
 人の死云々。
 冷たさが云々。
 そういうことじゃない。
 それなりに覚悟はしている。この柳川という男は自分のことを全て知っているわけで
はない。
 それほど生易しい人生を送ってきたのではない。
 その程度、耐えてみせる。
 その自信が、拓也にはあった。
 だが……。
 ――瑠璃子。
 結局、これであった。
 僕が瑠璃子を置いて死に急ごうとしている――?
 いわれてみれば、そうかもしれない。
 いや……それに気付いたのは、柳川にそういわれたからなのだろうか……。
 違うだろう。
 これまで潜り抜けてきたものを思い起こせばそれは明白。
 自分の理想とする闘い、最悪の場合、死すらそれに含まれる闘いを熱望し、渇望し、
求めていた。
 その間に、瑠璃子に思いが及ばないわけがなかった。
 最悪の場合、瑠璃子を残して行ってしまうことになる。
 いわれずとも、わかっていたことだ。
 ただ、おそらくは無意識の内に、故意にそれを見ようとしなかった。
 その二つが自分の前に突きつけられた時、どちらを取るのか。
 その命題は自分の中にあったはずだ。
 だが、それに答えを出していなかった。
 そして今、それに直面している。
 ずっと先延ばしにしていた問題がいよいよ選択される時を得た。
 先延ばしていた理由も、なんとなくわかっている。
 そのための練習をし、そのことを夢見ながら、まさかそれが実現するということを拓
也自身が信じていなかった。
 格闘技を始めよう。
 そう思った時は、まだ瑠璃子がなによりも優先される位置にいた。いや、そもそも、
格闘を始めようと思った動機が、いざとなった時、瑠璃子を守るために「そういう強さ」
も必要なのではないかと思ったからなのだ。
 夢が実現したのだ。
 その相手を得たのだ。
 一人では絶対に実現できない夢だった。
 相手がいたのだ。
 最高の相手だ。
 だが、その相手に突きつけられたといっていい。
 瑠璃子と夢と――。
 どっちを取るのか。
 その男は、拓也の理想の闘いを汚すことでそれを突きつけた。
 拓也は、選択せねばならない。
 瑠璃子を取るならば……闘いを止めねばならない。改めてやるにしても眼への攻撃を
禁ずるなどのことをせねばなるまい。瑠璃子を取るということは、危険を押さえた闘い
しかできぬことだ、と拓也は思っている。
 夢を取るならば……このまま続ければいい。
 全力で叩き潰しに行く。
 隙あらば、殺してしまってもいい。
 理想の闘いを取り戻すのだ。
 この男の鬼を呼び覚ますのだ。
 この男、話し振りなどからして、どう考えても過去に人間を殺めた経験があるはず。
 ならば、それを……眠っているそれを覚ませばいい。
 そうすれば、理想の闘いが蘇る。
 さあ、目を覚ませ。
 思いながら腕を振る。
 顎にいいのを入れてやれば目覚めるか?
 鳩尾に強烈なのをえぐり込めば目覚めるか?
 関節を逆に極めてみりみりといわせてやれば目覚めるか?
 首を絞めれば目覚めるか?
 目を突けば目覚めるか?
 耳を噛み千切ってやれば目覚めるか?
 望みながら、恐怖もある。
 この男の鬼が目覚めたら……。
 この男が鬼になり、殺す気で攻撃してきたら……。
 だが、そのゾクゾクするような恐怖は、ゾクゾクするような快感と隣り合わせだ。
 どちらが表でも、どちらが裏でもない。
 どちらも表であり、どちらも裏なのかもしれない。
 ただ、背を合わせての隣り合わせだ。
 この二つだけならば、今のこの一時はなんと素晴らしい瞬間の連続であることか。
 ふっと影が差している。
 ――瑠璃子。
 それが、この恐怖と快感をなんの憂いもなく貪り喰らうことを妨げている。
 いうなれば、夢の邪魔をしている。
 どこかへ行ってしまえ! 消えてくれ!
 そういえればどれだけ楽か……。
 そう思えればどれだけ楽か……。
 だが、月島拓也はそのような感情を抱くことすらできなかった。
 瑠璃子は存在している。
 存在していなければいけないものである。
 だから、自分を見ている瑠璃子を追い払えない。
 瑠璃子が見ているということに一筋の迷い……後ろめたさに似たものを感じながら恐
怖と快感を喰らう。
 ごめん。
 拓也にできるのは謝るぐらいであった。
 ごめん、瑠璃子。
 謝りながら喰らっていた。
 ごめん、瑠璃子、馬鹿な兄さんでごめん。
「僕が守る」
と、いったことだってあった。
 ごめん、瑠璃子、兄さんは嘘つきだ。
 格闘技を始めるといった時に、兄の運動神経がいいことは知りつつも瑠璃子は心配し
て止めたのだ。怪我をするかもしれないと。
「大丈夫だよ」
 そういった。
 そんなにのめり込んだりはしないと、瑠璃子を守るためにやるんだと。
 それがどうだ。
 喰らっている。
 いや……瑠璃子のために始めたはずの格闘技――闘いに拓也が喰らわれたのかもしれ
なかった。
 ごめん、瑠璃子。
 拓也は夢の渦中にいた。
 甘美な夢だ。
 それから出たくはなかった。
 自分勝手な兄だ。
 ごめん。
 謝っていた。
 謝りながら腕を取った。
 柳川の右腕だ。
 下からの腕ひしぎ逆十字固め。
 先程同じ体勢にまで持っていったが、持ち上げられて外灯の鉄柱にぶつけられるとい
う力ずくのやり方で外されている。
 今度はどうだ!?
 今度こそ右腕をへし折れるか。
 それとも返されるか。
 その際に「鬼」が目覚めればただでは済まないかもしれない。
 瑠璃子を置いて行ってしまうことになるかもしれない。
「ごめん、瑠璃子……」
 謝っていた。
 極めながら謝っていた。
「この……」
 柳川の目が細くなった。
 切るような視線で拓也を見下ろした。
 拓也の体が浮く。
 浮く。
 浮いていく。
 少し持ち上げる、などという程度ではなかった。
 肩の上にまで持ち上げられた。
 2メートル以上の高さから見下ろす世界は普段とは全く違うものに見えた。
 瑠璃子はもちろん、まだ兄の自分が認めてはいない瑠璃子の自称恋人、長瀬祐介がい
て、緒方英二と理奈の兄妹がいて、藤田浩之がいて、柏木耕一がいて、名前は知らぬが
黄色いリボンをつけた浩之の知り合いらしい少女がいて……。
 遠くの方にそれとは別の人の群れが見える。こっちに向かってきているらしいそれを
構成する幾つかの顔に見覚えがあったが、名前までは知らない。
 高いところからだからよく見える。
「この……馬鹿が!」
 高いところにいれたのも短い時間であった。
 視界の中の地面が拓也に迫ってきた。

                                    続く




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