第88話 二人きり

 地面が迫ってくる。
 スローモーションのようにゆっくりと迫ってくるように拓也には思えた。
 小石が幾つ、どういう形であるのかすらわかる。
 一つ……二つ……三つ。
 無意識の内に小石を数えていた。
 無意識の内に体を捻っていた。
 このままだと頭を打つ、と思った時……いや、思うまでもない。感じた瞬間に体が動
いていた。
 頭は痛打を免れたが、右肩に衝撃が走る。だが、覚悟の上だ。
 肩が地に激しく接触しても拓也の両手両足は柳川の右腕を捕らえたままだった。
 体を捻るために右腕が外れたが、すぐにまた元の位置に戻る。
 肩が地を叩いた次の瞬間、拓也が動いていた。
 拓也を叩き付けるために柳川は中腰になっており、拓也が右腕にしぶとく食いついて
いる以上、もう一度持ち上げるには踏ん張る必要がある。
 だが、拓也がそれをさせじと体を振って柳川を倒そうとしていく。むろんのこと、柳
川が油断をすれば、このぶら下がったままの形でも腕ひしぎを極めて右腕をへし折るつ
もりだ。
 頭を地につけて、首の力で体を捻るように振った。
 柳川の左足が浮いて宙を踏む。
 右足を軸に回転することでなんとか体勢を立て直そうとするが体が僅かにだが後方に
傾いている。
 このまま行けば、例え左足を地面につけたところで、その時点では体勢が大きく傾き、
仰向けに倒れてしまうだろう。
 そして、倒れた時には腕ひしぎ逆十字がためが極まっているはず。
「おう」
 拓也の顔に笑みが浮く。
 靭帯を伸ばし、引き千切る快感は誰のそれをやっても得られるが、このような強敵の
それをようやく断てる時の喜びは尋常ではなかった。
 それは、初めての経験だった。
 初めての快感が拓也を揺さぶった。
 あの、藤田浩之の腕を折った時をも上回る快感が来る。いや、正確にはその予感が来
る。
 だが、それは予感だが、予感の時点で既に、自分に絡んできた素人の不良学生の腕を
折った時の快感があった。
 関節技なんて喧嘩じゃ使えない。足関節なんて片方を極めている内にもう片方の足に
蹴られておしまいだ、と高説をぶっていた自称ストリートファイターのアキレス腱をぶ
ちぶちといわせた時の快感に匹敵するものがあった。
 たまらない。
 その時点で拓也はたまらないのだ。
 予感でこれだ。
 "本番"が来た時、一体自分はどうなってしまうのだ。
 予感に心震わせながらも、正確に無駄な動きをすることなく右腕を極めに行く。
 柳川の頭が下がった。
「っ!」
 拓也が予期していた下がり方ではなかった。
 拓也が思い描いていたそれとは違う軌跡を引いて柳川の頭が落ちていた。
 耐えようとして耐え切れずに、後ろに向け、曲線を描いて後頭部から落ちていくので
はなく、直線が空中に引かれていた。
 真下に、すとん、と――。
 へえ。
 音声にはならなかったが、拓也の口がそういう形に動いていた。
 視線は柳川の左膝へと行っている。
 膝が地について柳川の体を支えていた。
 足を伸ばして立った体勢を維持しようとしてもどうせ倒されることを悟って、倒され
る前に自ら体勢を低くしたのだ。
 だが、まだ腕ひしぎの体勢が崩されたわけではない。
 やるな。
 本当にやってくれるな。
 往生際が悪い奴は大好きだ。
 えらそうな口を叩いていたクセにあっさりと極められ、あっさりと折られ、あっさり
と許しを乞う奴など興醒めもいいところだ。
 藤田浩之は腕を折られても闘うことを止めなかった。それどころか、あの時は拓也の
方が油断をして逆襲されたほどなのだ。
 この人はどうだろう。
 興醒めさせるような人ではないはずだ。
 出るか。
 鬼が出るか。
 あの、鬼の顔になるのか。
 その顔に光る二つの目で自分を睨むのか。
 それはいい。それはたまらない。
 愉悦の笑みが唇の端に浮く。
「おう!」
 押し出されるように、拓也の口から声が出ていた。
 柳川の右肩をロックしている右足に生じた衝撃がその声を押し出したといってよかっ
た。
 柳川が左拳を握り、それを拓也の右足の膝近辺へと横から当ててきた。
 二発目が来て、三発目が来て、四発目が来た。
 衝撃が足を震わせる。
 肉に鈍痛が走る。
 そして、それを通り越して骨に刺すような痛みが走る。
 これに負けて足によるロックを緩めてはいけない。拘束が弱まったと悟るや、柳川は
すぐに左手で足を外しに来るだろう。この体勢で足のロックが無くなってはそうそう腕
関節など極められるものではない。
 或いは、すぐに体勢を変えて別の形で、別の関節を極めに行く方向も選択肢としては
ありうる。
 だが、拓也は腕ひしぎを解くつもりはなかった。
 腕ひしぎが極まるか。
 右足のロックが緩んで外されるか。
 どっちが先か。
 その勝負だ。
「ぬっ!」
 極めに行く。
 両手で腕を引き、両足で上半身を遠ざける。
 倒してしまえれば完璧だが、今の状態でも拓也の両手両足が作り出すテコの中に柳川
の右腕を巻き込んでしまえれば十分に極められる。
 折ってやる。
 腕が折れても闘える、とはいっても戦力の低下は如何ともしがたい。
 それに、今日は違う。あの時とは違う。
 この間の藤田浩之との闘いの時のように油断はしていない。折ったら、すぐに次の攻
撃を送り込む。
 右腕を必死に曲げて堪えようとしているが、それもそろそろ限界だ。段々と腕が伸び
てきている。
 だが、その間に間断なく右足に骨を直接叩かれているような激痛が生じ続けている。
 攻撃の入っている箇所、そしてその角度からして折られるようなことは無いだろうが、
正直、気が遠くなりそうな痛みだ。
 遠い。
 遠いところへ誘うような激痛だ。
 もう、周りに何があるのかなど全く見えない。
 世界には何も無かった。
 いや、正確には世界も何も無く、ただ月島拓也という存在が、ただ存在していた。
 そこで拓也は右腕を極めようとしている。
 そこで拓也は右足の痛みに耐えている。
 ごめん、瑠璃子。
 謝りながら極めている。
 謝りながら耐えている。
 そして気付く。気付いてある疑問にぶち当たる。
 瑠璃子とはなんだろう?
 自分にとって大切なものだったはずだ。
 命の次に、とかいう程度のものじゃない、自分の命よりも……。
 ごめん、瑠璃子。
 とにかく、謝っていた。
 ごめん、瑠璃――。
 ごめん、瑠――。
 ごめん、――。
 謝っている内に、何に対して謝っているのかがわからなくなる。
 自分以外に何も無いのに、何に対して謝っている。謝る必要がある。
 待て……。
 だが、自分以外に何も無いのならば、自分は一体何をしているんだ。
 自分が極めようとしているのは誰かの腕ではないのか?
 自分の右足に激痛を与えているのは自分以外の誰かではないのか?
 誰かがいる。
 全てが無くなったかに思えるが、いるのだ。
 両手にしっかりと感触がある。
 右足にしっかりと激痛が走る。
 この右腕の先に誰かがいる。
 この激痛の先に誰かがいる。
 誰か――。
 おお――。
 柳川裕也。
 同志じゃないか。
 その時、月島拓也は柳川裕也と二人きりであった。

「うっわー」
 その声が背後から聞こえてきたのは、柳川が抱え上げた拓也を地に叩きつけた瞬間で
あった。
 その少し前に後ろから近づいてくる足音。そして気配などで誰かが――おそらくは人
を呼びに行ってくるといっていた志保が帰ってきたのだろう、という見当はついていた
が、その声に浩之は思わず振り返った。
「綾香か……それに先輩も」
 松葉杖をついた綾香と、それを支えるように寄り添っている芹香。そしてその背後に
付き従う長瀬源四郎と、さっき綾香と試合をした御堂静香がいる。
「志保に呼ばれてきたのか」
「うん」
「……肝心の志保はどこだ?」
「姉さんをおぶって走ってきたんで休んでるわ」
 綾香が指差した先で、志保が芝生の上で大の字になって右足を「芝生に入らないで下
さい」と書かれた看板に引っ掛けて荒い呼吸をしている。
 と、志保がむっくりと起き上がった。
「ふっふっふっふー、長瀬さん、あれが例の喧嘩です。ぱぱっと止めてやってください
な」
 近づいてきて、源四郎に向かっていった。
 その表情が勝ち誇っているのと横目で浩之をチラチラと見ていることで、彼女が何に
対して執念を燃やしていたかは容易に知れようというものであった。
「おい、爺さん」
 止めないでやってくれ。と浩之はいおうとして言葉を詰まらせた。
 耕一もそれに気付いていた。
 長瀬源四郎は食い入るようにそれを見詰めていた。
 既にその時には、拓也が腕ひしぎを極めようとして、柳川が拓也の右足を殴っている。
「素晴らしい……」

 強い奴と、素手で、一対一でできるだけ緩いルールで闘いたい。
 そんなことを夢想していた時期が確かにあった。
 ルールは、目をえぐる程度は禁じた方がいい。怨恨があって闘うわけではないのだ。
その闘いの最中に何かがあってそこで怨恨が発生すればそれはその時のことだ。
 怨恨がある相手だったら素手でなど闘わない。群れて他人を襲うのは生理的に嫌いな
のでしないだろうが、恨みのある相手ならばまともに勝負などはしない。
 武器を持って、寝込みを襲う。
 拳銃が手に入ったら、それで撃つ。
 それでいい。
 だが、やりたいことはそういうことではなかった。
 ただ、相手がいなかった。
 理想の闘いをするための相手がいなかった。
 復員後、目的の無いまま生きて、その過程で喧嘩も随分とやった。相手が素手である
場合はこちらも素手で応じたが、相手が棒きれ、ナイフ、日本刀などを持ち出してきた
時はそうもいかなかった。拳銃を抜かれた時は距離によっては逃げ、距離によっては向
かっていった。
 一度や二度は撃たれているが急所には貰わなかったのでこうして生き延びている。
 その中で夢に見たのだ。
 一対一。
 素手。
 できるだけ緩いルール。
 そういう条件で強い奴と闘ってみたい。
 そういう条件の元で自分の力を試してみたい。
 一度でいいから、それがしてみたかった。
 そして、それが来た。
 昭和二十二年。
 某月某日。
 長瀬源四郎はバラック街の一角に飯を食いに来ていた。
 ややスペースの空いた空地にブロックや石で組まれたカマドがあり、その上に巨大な
鍋を置いて、それでスープを作って売っていた男がいて、そこに行ったのだ。
 ろくな材料が無い、残飯を煮込んだようなものなのに妙に美味いということで評判に
なっていた。当時は味などおかまいなしで「食えればいい」という時代だったので特異
といえば特異であった。
 その一帯を仕切っていた岩国というまだ若いやくざ者がこの男の作るものに惚れ込ん
でいてその広々としたスペースを使わせていた。
 源四郎が見た限りではあまりショバ代も取っていないようだった。
「源ちゃん」
 と、岩国は源四郎を呼んでいた。
「源ちゃん、こいつぁあんなもんを材料にしてこれだけのもんが作れるんだ。……ちゃ
んとした……あんな腐りかけじゃねえ、新鮮な素材を使わせたらどれだけのもんができ
るか」
 そのスープをすすりながら、いった。
 その日、源四郎が飯を食いに行くと岩国とその子分たちと、見たこともない連中が揉
めている真最中であった。
 話を聞いてみると、ようはここが妙に賑わっているのが目についてショバ代を取りに
やってきた連中らしい。
 喧嘩になったのだが岩国一派が劣勢であったので、この男に世話になったこともある
源四郎が加勢してあっさりと追い返してしまった。
 礼をいう岩国の横にその男は何時の間にかいた。
 見たことのない顔だ。
「あんた……強いねえ」
 自分を見ている男に訝しげな視線を返した源四郎に男はいった。
「ついさっきここに来て……見てたよ。おれも岩さんに加勢しようかと思ってたんだけ
ど……その必要も無かった」
 源四郎が、知り合いなのか? という目で岩国を見ると岩国が、
「ああ、一年前から柴崎さんのところで用心棒をやってる奴さ」
「ほう」
柴崎というのは岩国のそれよりもさらに広範囲の"縄張り"を持つ顔役だ。と、いう
よりも岩国の縄張りというのはすっぽりと柴崎のそれに含まれていて、いわば岩国の上
にいるのが柴崎である。
「長瀬源四郎だ」
 一応、自己紹介したのだが、男はそれを返すことなく、妙に澄んだ目で源四郎を見て
いた。
「あんた……やろうぜ」
「……何をだ?」
「喧嘩だよ」
「なに……」
「サシで、ステゴロといこうじゃないか」
 つまりは、一対一で素手でやり合おうというのだ。
「そうだな……目をえぐるのは無しにしとこうか……」
「おい」
 岩国の声にも男は応じない。
「悪い癖だぜ、そーちゃん、強そうなの見ると誰彼かまわずにそんなこといって」
 そーちゃん、と呼ばれた男が、唇の端に笑みを浮かべながら源四郎を見ている。
「そういうさ……力の比べっこがしたいんだよ……でも、なかなか相手がいなくてね」
 そうだ。
 相手がなかなかいないのだ。
 その相手が――。
「いいだろう」
「おい、源ちゃん、何もこいつに付き合うこた無いんだぜ」
「よし」
 頷いた"そーちゃん"も、源四郎も真っ直ぐの視線をお互いに注いでいた。
「やる前に名前を聞いておこうか……」
「伍津双英――」
 そして、それが始まった。
 
「あのー、長瀬さん? 長瀬さんってば!」
「……む、なんですかな」
「えーっと、そろそろ喧嘩止めて欲しいんですけど……」
「申し訳ありませんが、止められません」
「は!?」
 頼みの綱の源四郎にそのようなことをいわれては志保が絶句したのも当然であった。
「……先輩!」
 と、両手を合わせて芹香を拝む。
「……」
 ぼそぼそ、と芹香が源四郎に頼む。
「申し訳ありません、お嬢様、止められません」
 浩之も綾香も驚倒したといっていい、この老人が何を最優先にするかはよく――綾香
は特に――知っていた。
「あのー」
 と、芹香と源四郎の間に入ろうとする志保の肩を浩之が掴む。
「諦めろ」
「……何よ、その勝ち誇った顔はぁ! なんかむかつく!」
「いいから、見てろよ、おれも耕一さんも死人が出るまで見てるつもりはねえよ」
 浩之が苦笑して、そして視線を転じる。
 そして、再び驚いた。
 爺さん……なんで目を潤ませてやがんだ?

「申し訳ありません……申し訳ありません……」
 芹香の手が、そっと源四郎の肩を撫でた。





     第89話 無いもの

 数えてはいないが、それで二十回目を越えているのは確かであった。
 自分の左拳が、月島拓也の右足を叩いた数がだ。
 いよいよ、絞め付けの力が弱まってきている。
 立て続けに同じ箇所を強烈に叩くことによって血行に支障が生じて痺れが走っているは
ずだ。
 もう少しだ。
 もう少し緩んだら隙間ができる。そこに左手を割り込ませて肘関節の屈伸を利用してテ
コの原理を使えば右足を外せる。
 だが、柳川の右腕も既に伸び切っている。
 ギリギリのところで耐えている状態だ。
 並外れた精神力が無ければできない。
 それが無ければいかに頭では、右腕を極められないようにしつつ、左手を使って技を外
しに行かねばならぬと思っていても、どうしてもどちらかに傾き、結局極められてしまう
だろう。
 柳川の左手が拓也の右足と自らの胸部の間に割り込んだのと、柳川の右腕がみちりと鳴
いたのはほぼ同時。おそらく、コンマ1秒の差も無かっただろう。
 靭帯の筋が伸ばされた。
 だが、拓也の右足は外れている。
 拓也が動いた。
 一瞬だけ遅れて柳川が動いた。
 あのまま極めにいけないこともなかったが、左手で睾丸を握られるのを恐れたのである。
 右手で柳川の右足を払う、というよりは叩いていった。
 左膝を着いた状態で右足を後ろから払えば体勢が崩れる。
 柳川の体が右斜め後方に向けて崩れた。
 と、見るや、否、見るまでもなく、拓也が左足で頭をまたぐようにして柳川の背後を取
りに行く。
 拓也が左肘を振った。
 後頭部に打撃を加えてから、スリーパーホールドで絞め落とす気だ。
 だが、そのために柳川への拘束に使えるのが右手だけになっていた。
「ぬっ!」
 柳川が強引に振り向く。
 血がしぶいた。
 赤い霧のようだった。
 柳川の眼鏡のグラスに、細かい粉のような赤い点が貼り付いた。
 拓也の左肘が柳川の額を切り裂いたのだ。
「っ!」
 二人の声ともいえぬ声が重なっていた。
 肘打ちや小刻みなパンチを打ち合いながら目まぐるしく体勢が変わっていく。
 腕を取られる。
 手首を返して拘束を弾くと同時に今度はこちらが腕を取りに行く。
 もう一方の手で殴ってくる。
 軽いパンチと見て歯を食いしばって受ける。
 肘が閃く。
 防いで、お返し。
 一瞬だけ、互いの視線が真っ向から合う。
 一瞬だけで、すぐに離れる。
 なんだ。その目は。
 問い掛けてやりたかった。
 月島拓也よ……お前は今、どこにいるのだ?
 体はここにいる。だが、精神はどこが別のところで、この闘いを闘っているのではない
のか?
 よし、上を取ったぞ。
 何も上を取るのが絶対的に有利ってわけじゃないが、上を取った。
 やったぞ。
 上から拳を打ち下ろして――くっ、なかなか粘るな。下手をしたら掴まれて関節を極め
られそうだ。
 崩れないな。本当によく粘る。
 さっき肘が軽くだが、いいタイミングで鼻柱に入ったから鼻血を流しているな。
 おれの鼻にまで血の臭いが……。
 いや、これは違うな。
 こいつのところから漂っておれの鼻に達しているのではないな、これは。
 そうか、おれの額の傷から流れ出たものが鼻梁を伝わってきているのか。
 ぽつん、とこいつが履いている白い道着のズボンに赤い点ができる。
 そうか、よし。
 攻めあぐねていたところだ。やってみるか。
 柳川がやや強引に体勢を変えて行く。
 その度に、赤い滴が落ちた。
 ぽつん。
 ぽつん。
 ぽつん。
 と。
 拓也の腹に落ち、拓也の胸に落ち、拓也の唇に落ちた。
 その血を舐め取りながら拓也が気付く。
 気付いた時には彼の左眼に向けて赤い塊が落下してきていた。
 命中。
「くうぅぅぅ!」
 息を吸ったら喉からそんな声が出ていた。
 柳川が左腕を上に引く。
 拓也が咄嗟に右手を突き上げてそれを制止した。
 左のテンプルに痛撃。
 半分になった拓也の視界の外からそれはやってきた。
 正体はわかっている。
 いうまでもない、柳川の右腕だ。
 拳を握って肘をほとんど曲げずに伸ばしたまま弧を描いて人差し指と中指をテンプル
に当ててきた。
 距離を取らねば。
 本能的に感じて拓也は足で柳川の体を押し退けた。
 距離を取って、一瞬にして起き上がる。
 頭の向きと体の向きを同時に逆転させて這うような体勢になる。
 右半分しかない視界では柳川は特に何もしていない。が、その右半身が見えにくい位置
になっている。
 と、いうことは、そっちで何かをやってくるということだ。
 拓也が左手を上げて頭部を庇った瞬間、何かが――おそらくは右のローキック――がそ
のガードの上から拓也を弾き飛ばしていた。
 地を這いながら距離を取っていく。
 指で目を拭っているゆとりは無い。腕は常に頭部をガードしているか地に着けてバラン
スを取らねばならない。
 そうでないと、この低い体勢が維持できない。体勢を高くすれば体のどの部分を攻撃さ
れるかがわからずに左からの攻撃に対応できないかもしれない。今の体勢ならば距離を取
っている限りは柳川の攻撃はほぼローキック一本に絞れるので対処しやすい。
 それよりも、涙だ。
 涙で目に入った血を洗い流せばいい。
 さあ、泣け。
 思いながら一抹の違和感がある。
 泣いてはいけない。
 かつて、何度もそう思ったことが思い出される。
 それが、今は泣こうとしていることに軽い皮肉を感じる。
 で……なんで泣いてはいけなかったのだろうか。
 自分のためではなかったような気がする。
 自分以外の誰か――。
 それが誰だったか、思い出せそうで思い出せない。
 とにかく、涙だ。
 泣こう。
 つうっ――と。
 拓也の左眼から薄い、赤い色をした涙が流れた。
 身を起こす。
 右のミドルキック。
 見える。
 身を引いてかわす。今のでタイミングを覚えたぞ。次にまた同じようなタイミングで打
ってきたら懐に飛び込んで倒してやる。
 次の攻撃も後退してかわす。
 その次も後退。
 後退して……背後に気配を感じて、その時にその声は聞こえた。
「瑠璃子さん、危ないから下がって!」
 その声を認識した瞬間に拓也の周囲に柳川以外のものが多彩な色を持って浮かび上がっ
た。
 瑠璃子。
 そうだ。瑠璃子だ。
 僕が泣いてはいけなかったわけは瑠璃子だ。
 僕の妹だ。
 そして、今の声はいつのまにか瑠璃子の自称恋人になっていた長瀬祐介だ。危ないから
下がれ……ということは下がらないと危ないということだな。
 柳川が距離を詰めてくる。
 目を逸らすわけにはいかない。
 逸らしてはいけない。
 癪である。
 非常に、癪であるが……
「長瀬くん!」
 柳川から視線を外さぬまま拓也は叫んでいた。
 瑠璃子に何かあったら骨の一本や二本は覚悟しておきたまえ、というメッセージを込め
た叫びだった。
 その拓也の思いはほぼ正確に祐介に伝わっていた。
 瑠璃子さんに何かあったら全身の関節をやられる、と思った長瀬祐介は瑠璃子の手を引
いた。
「瑠璃子さん、おれの後ろに」
 二人から距離を取りつつ、瑠璃子に自分の後ろに身を隠すように促す。
「おれたちもちびっと下がるぞ」
 祐介たちと近いところにいた浩之が呟いて後退した。あの二人を邪魔したくはなかった
し、なによりあかりである。
「お前はもっと離れてろ、間違いなくお前が一番巻き添え喰らいそうだ」
 浩之は自分よりもさらに3メートルほど後ろにあかりを移動させた。
 あかりを下がらせて視線を闘いに戻した浩之が思わずうめく。
 柳川の右のミドルキックに対して拓也が絶妙としかいいようのないタイミングで突っ込
んでいった。
 左腕で頭部をガードしつつ、素早く踏み込んで足刀の直撃を回避して膝を脇腹で受ける。
組み付いて軸足を刈ろうとしたのを読んだ柳川が左肘で牽制した。拓也はその肘で頭を密
着させていくコースを潰され、仕方なく組み合った状態で機をうかがった。
 右手で襟を掴んだまま左手でパンチを打とうとした柳川に対して拓也は後方に身を浮か
せる。
 柳川の右袖を両手で掴んで後方に体重をかけて引き込む引き込みつつ、左足で柳川の右
膝に正面から関節蹴りを叩き込む。
 柳川は膝を曲げることで、その威力を殺した。
 だが、それで体勢が低くなったと見るや、拓也が体を反転させて着地、そして着地とほ
ぼ同時に柳川の右袖を掴んだ左手はそのままに、右腕を曲げてそれを下から柳川の右腕に
添えた。
 背負い投げ、だが、普通の柔道の試合では使われない形で、御丁寧に柳川の右腕を返し
て無理に堪えれば右腕が折れるようになっている。
 柳川は逆らわずに飛んだ。
 投げられた、というより、むしろ飛んだ。
 空中で腰を捻って着地する。
 右腕を引いて拘束を切る。
 拓也の左フックが柳川の頬を叩いた。
 袖を掴まれているのを切るために強く引いた右腕が勢い余って後ろに泳いでしまった際
の隙を衝かれた。
 数歩後退して右のストレート。
 左の前蹴りを突き出して防がれた。しかも水月に入ったので軽い攻撃だったとはいえ、
柳川の喉を、瞬間、嘔吐感がこみ上がる。
 どうした。攻撃が読まれているぞ。読まれてかわされるならいいが、読まれた上で反撃
されているということは、余裕を持たれているということだ。
 原因はわかっている。苛立っているせいだ。
 少し攻撃が大振りになっている。
 なぜ、苛立っているか、それもなんとなくわかっている。
 ふと、気付いてしまったからだ。
 ここにいる男たちが、自分には無いものを持っているということを。
 月島拓也には瑠璃子という妹がいる。
 緒方英二には理奈という妹がいる。
 藤田浩之にはどうやら恋人らしいあかりという名の少女がいる。
 柏木耕一には四人の従姉妹がいる。
 自分には阿部貴之がいた。
 自分だけ過去形だ。
 そういえば、自分が警官になって初めて持った上司に御堂巡査長というのもいた。
 これも過去形だ。
 二人とも死んでしまった。
 二人とも、おれがやるべきことをしっかりとやっていれば死ななくて済んだ人間だ。
 新米の現場のことが何もわからない自分が足を引っ張らなければあの人は殉職したりは
してなかっただろうし、自分が、あんなことになる前に貴之の同居人にしっかりと対処し
ていれば、彼は死んだりはしなかった。
 自分がしたことは何か――。
 御堂巡査長を撃った男を御堂巡査長が死んだ後に半殺しにしただけだ。
 貴之を廃人同然にしてしまった男を貴之がもう戻らなくなってから殺しただけだ。
 そんなものだ。自分がしたことは。
 どいつもこいつも――。
 月島拓也。
 ごめん、瑠璃子……。
 どいつもこいつも――。
 緒方英二。
 妹に心配はかけられないさ。
 どいつもこいつも――。
 藤田浩之。
 お前はもっと離れてろ。
 どいつもこいつも――。
 柏木耕一。
 おれが守りたいからな……四人とも……おれの家族だから。
 どいつもこいつも――。
 どいつもこいつも――。
 どいつもこいつも――。
 どいつもこいつも――。

 守るものがありやがる。

 大振りの左ストレート。
 拓也はそれが放たれる前にその軌道を読んでいた。
 読んでくれといわんばかりに大振りだ。
 隙を作ってやるからそこを衝いてこいといわんばかりに大振りだ。
 それを僅かに怪訝に思いつつも拓也を本能が突き動かした。
「乱れた!」
 思わず、浩之の口から声が漏れていた。
 驚愕を成分に多量に含んだその声を聞くまでもなく、耕一の心中にも全く同じ思いがあ
った。
 あんな見え見えの大振りな攻撃を柳川が繰り出したのは初めてだ。
 それを浩之は「乱れた」と表現した。
 その乱れによって生じた隙間に、拓也が軟体動物のように入り込んでいた。
 左腕を掻い潜りながら横に回る。
 大振りな攻撃が外れたために、それに引っ張られるように柳川の体が横を向く。
 拓也の目の前に柳川の背中があった。
 しまった――。
 思う間もほとんど与えられぬまま、柳川の背中に何かが覆い被さってきていた。
 拓也が飛び乗ったのだ。
 両足を胴に回す。
 両腕が首に食い込む。
 スリーパーホールド。
 拓也の両手両足に力が篭もる。拓也とて疲労している。
 おそらく、最後にして最大のチャンス。

「えぁ!」
 そんな、声というよりも音が柳川の口から漏れていた。
 酸素が脳に行かない。
 警察での柔道でやられたことがあるのでよくわかる。
 白い霧が視界を覆っていく。
 その向こうに――人影があった。
 見覚えがある。いや、それどころかさっきまで一緒にいたような気がする。
 自分は何か重大なことを忘れていたのではないか。
 どいつもこいつもが持っているもの。
 おれにも……こんなおれにもまだそういうものがあったんじゃないのか。
 誰だ。
 顔を見ればすぐに思い出す。
 思い出して、それが自分が忘れていた人間だったら、おれが守ってやる。
 視界が白い。
 この距離じゃよく見えない。
「だ……れ……だ」
 顔を、見たい。
 スリーパーホールドで頚動脈を絞められながら、柳川裕也はゆっくりと前に向かって歩
き出した。




     第90話 空

 なんだ!?
 疑問が激しく浩之を刺した。
 背後から背中に飛び乗られて両足を胴に回され、スリーパーホールドで頚動脈を絞めら
れながら柳川裕也が歩き出した。
 何をする気か?
 疑問は結局のところそれであった。
 その行動が、スリーパーを外すための行動なのか、それとも頚動脈を圧迫されることに
よってもたらされた酸素不足のせいで思考が朦朧としているのか。
 柳川の歩いていく方に、ベンチがある。
 浩之たちがここにやってきた時に拓也が腰を下ろしていた血に濡れたそれとは別のやつ
だ。
 あれを利用してスリーパーを外そうとしているのだろうか?
 十分ありえることであった。背後に回ってスリーパーを極められているのは、試合場で
の闘いではほぼ「決まり」といっていい形だ。独力で外すのはほぼ不可能に近い。
 拳で相手の腕を殴る。
 肘で相手の足を叩く。
 それで相手が技を解いてくれればいいが、相手とて必死であろう。この場合の月島拓也
は間違いなく必死であった。全身全霊を傾ける、といっても過言ではない形相であった。
 それに頚動脈を絞められながらでは思ったように力が入らない。
 その場合に、ベンチでもなんでも地面よりも突起した物体を利用して、相手の後頭部が
それに当たるように後ろに倒れる、というのは有効であった。
 それを狙っているのか?
 そうであろう、と思いつつ、浩之に違和感がある。
 柳川がそのベンチの存在を気に止めている様子が無いのだ。
 拓也に悟られまいと振舞っているのか。
「耕一さん……」
 横にいる耕一の名を呼ぶ。
「なんだろうな……」
 耕一にも、柳川の意図がよくわからない。
 やはり、意識が朦朧として、わけもわからずに歩いているのだろうか。
 だが、首を絞められながら、その歩みにはなぜか力があった。
 行く先のわからぬ人間のそれには見えない。
「どこに……行こうとしているんだろう……」

 決まった。
 完全に入った。
 両腕が確かに首に食い込んでいる。
 落ちるのは時間の問題だ。
 勝てる。
 この人に勝てる。
「は、は、はぁ、はは」
 月島拓也の顔がぐにゃりと、笑み崩れていた。

「お嬢様方、お下がり下さい」
 長瀬源四郎が芹香を促す。ちらりと綾香を見るが、見ただけであった。綾香は芹香とは
違ってその辺りの判断を素早く行い、自分で危険の回避ができる。
 源四郎がいうのよりも早く、綾香は松葉杖を器用に使って向かってくる二人の男から距
離を取っている。
「静香さん、下がった方が……」
 少しも動かない御堂静香にいった。
「あ、でも……」
「危ないですよ」
「でも……柳川さんが……」
 綾香にそういった時、既に柳川裕也は彼女の前にいた。
 苦しそうな顔であった。
 いや、そういう段階を通り越えて、死の寸前にいるような顔をしていた。
「あの……柳川さん」
 その間にも柳川の脳からは細胞が少しずつだが死に至っている。
 視界は、既に真っ白い濃霧に覆われている。
「えっと……なんでこんなところで喧嘩しているのかはよくわかりませんが……ギブアッ
プした方がいいと思いますよ」
 よくよく考えてみれば、この闘いを前にしてこれほど滑稽な発言は今まで無かった。
「だ……れ……だ……」
 柳川の口から辛うじて途切れ途切れの声が漏れる。
 静香はそういう経験がかつて何度かあるだけに、今の柳川が目の前にいる人間が誰だか
わからないほどに酸素が欠乏しているのだということがわかった。
「あの、御堂静香です」
「み……ど……ぅ……」
 ちゃんとした声が出ないのがもどかしかった。
 みどう、といったら御堂か。
 御堂、といったら御堂さんの関係者か。
 御堂さんは、おれが下についたころには既に奥さんを亡くされていて……。
 ……娘がいるといっていたな。
 通夜に行って、葬式に行って、そこで見た。
 通夜でも葬式でも、少し話した。でも、あまりこちらのいっていることがよくわかって
いなかったようだった。
 まともに話せたのは葬式の後だ。
 今、目の前にいるのがそれか。
「しぃ……しぃ……」
 それは声ともいえぬ、声帯が微かに震えて発する音であった。
 だが、それが自分の名を呼ぼうとしているのであろうということを静香は悟っていた。
「はい、静香です。御堂静香です」
 そうだ。御堂静香だ。
 御堂さんの娘だ。
 おれに色々なものをくれた奴だ。
 おれが色々なものを上げなければいけない奴だ。
「あの、柳川さん。理由はわからないんですが、このままだと……落ちるだけじゃなくて
死んでしまいます」
 なんだ。その声は。
 怯えているのか?
 何に怯えているんだ?
 何に怯えているのかは知らんが、怯えるな。
 おれが目の前にいるんだぞ。
 安心しろ。
 おれがいるから……。
「あ……ん……」
 安心しろ。
 そういってやりたいのに、声が出ない。
 ……首を絞められているからだ。
 月島拓也。
 お前か。
 背後から裸絞めか。
 これを外さねば。
 安心させてやるどころじゃないな。
 なんとか……手を入れて防げないか。
 右手でこいつの右腕を掴んでその手を滑り込ませるように自分の首とこいつの腕の間に
入れれば……。
 隙間が……全く無いな。
 爪を立てて強引に、肉の壁などおかまいなしに……。

「っぅ!」
 微かに拓也の口から漏れていた。
 その声は小さく細く、離れたところにいた浩之や耕一の耳に届くものではなかったが、
少々砂埃に汚れたとはいえ、まだ白さを残していた柳川のYシャツに染みていく鮮やかな
赤は嫌でも目に入った。
 拓也の右腕から出血しているのだと、見ている人間たちが理解した時には柳川の右手が
首と腕の間に滑り込んでいた。
 柳川が爪を立て、指を肉にえぐり込ませてきたのだ。
 拓也の右腕の肉が削り取られて四本の溝ができていた。
 柳川の喉がか細い音を出す。僅かに、糸のような細さでだが、酸素を吸い込むことに成
功したのだ。
 拓也の歯がギリギリと鳴る。
 離すものか。
 最大のチャンスが今、両腕の中にある。これを離してなるものか。
 肉など全部持っていけ。
 骨だけになってしまった方がかえってより細く固くなって首に食い込むというものだ。
 腰を横に振って重心を移動させて、倒そうと目論む。
 柳川が後ろによろめきつつも、体を反転させる。後ろ向きに倒れるよりも、前向きに倒
れるのを堪える方が易い。
 だが、それと同時におそらく拓也は体重をかける方向を変えてくるだろう、と柳川は踏
んでいた。だが、それが無かった。
 後ろに体重をかけてこない。
 つまり……。
 後ろに何かがあるのか。
 後ろに倒れたらやばい、と思う何かがあるのか。
 ならば、倒れてやる。
 人一人を背負ってどこまで飛べるかわからないが、飛んでやる。
 柳川の両足が僅かとはいえ地を離れた。
 スリーパーの拘束力が緩む。
 思ったとおり、何かがある。拓也の左腕がどこかへ――おそらくは自分の後頭部を守り
に行っている。
 衝撃が来た。
 何も無い地面に倒れることを想定するよりも遥かに早いタイミングでそれは来た。
 やはり、何かがあったのだ。
 狙っていたその衝突の瞬間、狙い通りに拓也の右腕が緩む。衝撃による震動もあったし、
何より、左腕がどこかへ行ってしまっているためだ。
 柳川が両手で拓也の右腕を首から外す。
 ここで思い切り大きく息を吸い込みたいところだが、今もバックを取られている状況に
は変わりがない。まずは体の方向を変えねば。
 拓也の両足がそれほどの締め付けを持っておらぬとはいえ胴に巻き付いたままなので、
距離を取るのは難しいが、とりあえず方向を変えねばならない。
 まずは前に身を起こす。
 カッ――と音が鳴った。
 それが歯と歯が合わさって生じた音であることを柳川は瞬時に理解した。
 耳にすぐ近いところでその音は鳴った。
 背筋に悪寒が走る。
 大きく息を吸ってから、などという悠長なことをしていたら頚動脈ごと首の肉を噛み千
切られていたかもしれない。
 だが、その悪寒に身を凍らせることなく、柳川は即座に左肘を拓也の左足に落とした。
 瞬間、拓也の両足でできた輪の中で回転する。
 二人の顔が向き合った。
 体勢としては拓也の両足が柳川の胴に回っているためにいわゆるガード・ポジションで
あるが、通常試合などで見られるそれと大きく異なる点は、柳川が足の裏を地面につけて
立ち、そして拓也の腰がベンチの上に乗っているところであったろう。
 拓也の後頭部が背もたれのすぐ上にある。だが、後頭部にダメージを負った様子が無い
ところから見て、なんとか左腕で頭部をガードしたのだろう。
「けあっ!」
 すぐに拓也の両足が踊るように動いた。蹴りで柳川を遠ざけようとする。
 右足の蹴りをかわし、次いで突き出されてきた左のそれを柳川は前に出て受けた。
 膝が伸びる前に、顎で受けた。
 完全に威力は殺されていた。
 柳川が、笑った。
 靴底を顎に押し付けられながらだった。
「!……」
 拓也の顔に、浮き出た。
 恐怖だ。
 これまでに無くはっきりと浮き出ていた。
 ――鬼。
 右の拳が、鼻を真正面から叩いてきた。
 意識が飛びかかる。
 それをなんとか取り戻した時、見えたのは靴の裏であった。
 溝の形までよく見えた。
 頭部がさらわれるような衝撃がぶち当たってきた。
 両肩より下を残して首が千切れそうな錯覚。
 拓也は後方にふっ飛ばされていた。
 ベンチごと倒されていた。
 そして、見えたのは抜けるように青い空だった。

「おい」
 柳川が静香の前にやってきていた。
「おい」
 もう一度、いってから何度も大きく深呼吸をする。
「安心しろ」
 辛うじて、それだけをいっていた。
「安心するんだ」
「はい」
「安心したか」
 そういった柳川が一番安心しているように見えた。
「は……」
 答えようとして、言葉が詰まった。
 柳川はすぐにその動揺を悟った。
 なんだ。その不安そうな顔は。
 だが、それをいう前に、自分の肩の上を通っている静香の視線の先に立っている気配を
柳川は感じていた。
「まだやるか」
 月島拓也が、そこに立っていた。
「空がね……青いんですよ。すごく」
 夥しい量の鼻血を流しながら、拓也がいった。
 不思議と、穏やかな表情だった。
「でもね……まだ……空を見ている気分になれない……」
 そういって踏み出した拓也の脚が震えていた。
 それに応じた柳川が前に出る。
 その歩みに力は無かった。
 限界。
 既にそれは近かった。




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