第91話 後悔しないこと

 いいものだ、と素直に思えた。
 青い空がだ。
 空の色などどうでもいいと思っていたのだが、空は青くなくてはいけないとまで思った。
 その時の空が今まで見たことのないほどに青かったからなのか。
 そのまま、背中を地につけて見ていたかった。
 今まで、野試合を何度か行ったことがある。
 多くの場合は、その日その場所でやることをあらかじめ決定していたようなものではな
い。
 最も極端な例としては、道を歩いていて見かけた自分とは全く関係の無い喧嘩に無理矢
理に介入していったこともある。
 倒されることなど滅多に無かったが、それでも中には骨のある奴もいて、背で地を打っ
たことはある。
 そういう時、地面を背中の触覚でただ感じているだけであった。
 そこに、背中の下に地面があるという認識を固めるための情報の一つであった。
 今は不思議と地面が暖かい。
 いや、暖かいというのは正確ではない。
 陽光の照った部分は暖かいが、それは腰から下の部分が接している所であり、頭部が触
れている所は、円形に設けられた芝生の真中に立っている木によって木陰になっており、
そこの地面は少しひんやりと冷たかった。
 暖かく、冷たかった。
 このまま、自分の体は地に帰っていってしまうのだろうか。
 月島拓也は、その時、確かに地面の温度を感じていた。
 身を起こして、地面に同化していくような快感から離れる。
 なぜ立つのか?
 立てるからだ。
「まだやるか」
 柳川裕也がいた。
「空がね……青いんですよ。すごく」
 そういいながらも、開いた口に上唇を滑って鼻血が流れ込んでくる。
「でもね……まだ……空を見ている気分になれない……」
 青い空はすごくいい。
 でも、この人のいる風景もすごくいいな。
 踏み出す。
 脚が、震えた。
 力が、思うように入らない。
 でも、前に出る。
 前に出ることができるからだ。
 柳川も前に出てくる。
 だが、その歩みに力は無い。
 無理をしている。
 拓也の場合はこれまでに蓄積したダメージがあるが、柳川のそれは拓也ほどではない。
だが、やはり極限まで首を絞められていたのが尾を引いている。深呼吸をしたところで、
少し会話する程度ならばともかく、身を削り合うような闘いを行うにはまだ回復が足りな
い。
 だが、それでも前に出てくる。
 前に出ることができるからだ。
 ならば、こちらも前に出る。
 出て行く。
 引かれ合うように出て行って、近付いていく。
 手を伸ばせば届く距離だ。
 つまり、パンチが当たるな。
「っぁ!」
 右腕を真っ直ぐに突き出してストレート。
 柳川が顔面を庇って上げた左腕に当たった。
 地に根を張った幹を叩いたような感触。
 それが心地よい。
 すぐに、入れ替わりに左。ワンツーだ。
 鼻の頭に軽く接触する。
 パンチが伸びていく最終地点を見切られた。
 その時、彼我の距離はほぼ拓也の腕のリーチの長さそのままであった。
 柳川の右足が空に斜線を引くように疾走し、その描かれた線の先に拓也の左脇腹があっ
た。
 左腕を戻すのは到底間に合わぬと見て拓也が左膝を上げてこれを防ぐ。
 続けて、柳川の左ストレート。
 かわしざま、拓也が柳川の左腕を掴むが、すぐに振りほどかれた。
 これまでずっと関節技、すなわち掴み技を主体にして闘ってきた拓也の握力が徐々に、
衰えてきているのだ。
 これでは、柳川の四肢を掴み取って色々といじくってやるには心許ない。
 と、柳川の右拳が拓也の顔を掠める。
 顔を横に傾けつつ前に出る、というきわどいかわし方であった。
 だが、そのおかげで瞬間、柳川の右腕を左肩に担ぐことができた。
「む!」
 伸び切った右腕を戻すよりも早く、拓也の腕が右肘を押した。
 外側を向いていた肘を両腕で引きつけるように内側へ押す。
 その際に首を横に倒して、柳川の手首を肩と頭の間に挟んでいる。
 右腕を折られまいとすれば、上半身を左前方に向けて倒すしかない。
 手首を返しながら引けば肘の向きが変わるのだが、手首は拓也の肩と頭部に挟まれて捕
らえられている。
 上半身を倒しながら、下方に何かの影を認めて柳川は左手を顔の前に掲げた。
 それに寸瞬だけ遅れて、拓也の右膝が跳ね上がってきた。ガードに使った左手をふっ飛
ばされて、左手の甲で自分の顔面を叩く羽目となった。
 柳川の左手と顔面が衝突した刹那と刹那の間を縫うように拓也の右足が素早く回って後
頭部を踵で刈るように柳川の後ろに回った。
 同時に、左足も地を蹴って跳躍している。
 このまま飛びついて、左足を右足に引っ掛けて、引きずり倒す。
 この腕を取った体勢からならば、腕ひしぎ逆十字固めにも三角絞めにも行ける。
 握力の弱まった今ならば、三角絞めが妥当か。スリーパーでの窒息から立ち直りつつあ
る柳川には特別効くだろう。
 よし、三角絞めだ。
 絞め落として、泡を吐かせて、白目を剥かせてやる。
 どんなだろうな。
 歓喜と期待が拓也を揺るがす。
 鬼が泡を吐いて、白目を剥いたらどんな顔になるんだろうな。
 いや、鬼は鬼だろう。
 泡を吐いても、白目を剥いても、きっとこの鬼のような人は素敵な顔に違いない。
 そう思ったらたまらない。
 早く、早く、早く。
 早く、泡を吐かせて、早く、白目を剥かせて、早く、見たいぞ。
 その時、ずるり、と抜けた。
 柳川の右腕が抜けていた。
「な!」
 左足で地を蹴った時に、その反動でどうしても頭部と左肩による右手首への挟み込みの
力が緩むことが一抹の不安ではあった。
 だが、一抹であった。
 しかし、そこを衝かれた。
 ほぼ完璧に近かったはずの攻めの僅かな綻びから抜けられた。
 柳川は右手首を右向きに返しながら腕を引いて拘束から逃れていた。
 勢い余った拓也の両腕は柳川の右肘の内側に挟まれるような格好になっている。
 それだけではなく、バランスを崩して、蹴上げた左足で拓也の首を刈っていくというわ
けにもいかなくなってしまった。
 柳川の右手がすぐ目の前に見える。
 戦慄が拓也の顔を撫でた。
 柳川の右手と自分の顔面の間に何も無い。
 戦慄を感じたその瞬間に拓也は顎を引いていた。
 右手で顔面を攻撃してくるとしても、その距離があまりに短いためにその攻撃の種類は
限られる。
 顔面を叩いて大ダメージを与えられるほどに打撃に威力を持たせることのできる距離で
はない。
 だとすれば、狙いは急所以外に無い。
 目、喉、念のために人中、眉間も警戒した方がいい。
 瞬時にその判断へと至って拓也は顎を引いた。
 顎を引くことによって喉が守れるし、顔が斜めになることによって眉間、人中への打撃
は滑ってしまって十二分の効果が発揮できない。
 注意すべきは目――。
 だが、衝撃は喉に来た。
 下げた顎が胸と合わさって喉を隠す寸前、何か棒状のものが捻りを加えながら食い込ん
できたのである。
「げう!」
 喉から声、というよりは音を漏らしながら、拓也はそれが柳川の親指によってもたらさ
れたものであることを悟っていた。
 息が、吸い込めない。
 左足を着地させる。
 極めた腕を外された今、柳川の動きをコントロールすることができない。
 退く……にしても、先程自分で引っ掛けた右足が今は柳川によって肩に担がれて左手で
押さえつけられている。
 どうやって退こうにも、どうしてもそのために一つ二つ、余計な動きが増え、それが隙
になってそこを衝かれる。
 ならば、攻めよう。
 もう、勝ちとか負けとかを通り越していこう。
 勝ちたい。
 負けたくない。
 それは確かだが、それはこの瞬間にはどうでもいい。
 強烈な攻撃を叩き付けることのみ考えろ。
 そう考えれば簡単だ。
 柳川の右腕を左手で掴んでその動きを制しつつ右手が柳川の頭髪を掴む。
 そして、飛ぶ。
 狙いは顔面。
 左の膝蹴りで叩く。
 膝を蹴上げた瞬間に拓也がそれに気付いた。
 そうか、こうしてこうやって、左膝で顔を――。
 考える前に動いた。
 動いた後に考えた。
 思考の速度を本能のそれが上回った。
「!」
 柳川の両目に初めてそれとはっきりわかるほどの動揺が浮き上がった。
 その両目の間に擦るように拓也の左膝が当たる。が、拓也の口から漏れたのは舌打ちで
あった。
 髪を掴んで顔を下に向けさせて、顔面のど真ん中を狙ったはずだ。
 柳川が強引に頭髪を引き千切られることなど頓着せずに顔を上げたために、額の上を滑
るようになってしまったのだ。
 未だ、右足は捕らえられている。今の膝蹴りでそれほどのダメージを与えられなかった
となると、次は自分が守勢に回らされる番だろう。
 柳川が、左肩に担いでいた拓也の右足を自らの左手で頭上に持ち上げた。
 当然、姿勢が崩れる。しかも、それは拓也が左足を地面に着けようとしていた寸前であ
った。
 それだけでも倒れそうだったところへ、柳川が右足を疾走させて刈ってきた。
 後ろ向きに倒れながら、拓也の右足は自由になっていた。
 柳川が投げ捨てるように離したのだ。
 瞬間、拓也は宙に浮いた。
 受け身を取って地に接触した時には上から降ってきた右足をかわすために転がらねばな
らなかった。
 転がって体勢を立て直して、柳川の足を手で刈っていこうとしたが、予定の位置に足が
無い。既に半身をずらしていたのだ。
 視界が真っ暗になるような一撃。
 横から、顔に突き上げるような一撃だ。
 柳川の右足が下を向いていた拓也の顔をしたたかに叩いたのだ。
 拓也が引っ繰り返って腹を見せる。
 すぐに起き上がったものの、また右の蹴り。ガードした腕などおかまいなしに痛烈なの
が来た。
 転がる。
 起き上がる。
 蹴られる。
 その一連の運動を五回は続けたであろうか。
 月島拓也は、遂にその場に両膝と両手と額を着いて動かなくなった。
 奇しくも、平伏している格好に似ていた。
 柳川が、呼吸を整える。
 深呼吸をしながら去っていく。
 その先には御堂静香がいた。
 拓也の顔が上がった。
「ま……」
 誰にも聞こえぬようなささやかな声であった。
「待て……」
 右手が上がった。
「行……くな……」
 行ってくれるな。
 頼むから、行ってくれるな。
 その女性があなたにとって大事な人だというのはわかった。
 自分にも瑠璃子という大事な人がいる。
 だから、気持ちはわかる。
 過酷で酷烈な心身の競い合いに疲れた今、そこに行きたいのはわかる。
 よく、わかる。
 だけど、待ってくれ。
 まだだ。
 すぐに立つから、すぐに立ってみせるから、すぐに立って闘ってやるから、待ってくれ。
 闘えるから、待ってくれ。
 まだやれるから、待ってくれ。
 まだ、帰らないでくれ。
 僕も、瑠璃子のところにはまだ帰らない。
 だから、あなたも帰らないで欲しい。
 もう、勝つとか負けるとかはいい。
 後一度でいいからあなたを殴ってやりたい。
 後一度でいいからあなたに殴られたい。
 どっちでもいいんだ。
 でも、どっちかじゃないと嫌なんだ。
 このまま倒れて、おしまいなんて駄目なんだ。
 立つから、待ってくれ。
 いや、立ち上がったら、きっと振り返ってくれるはずだ。
 そうでしょ――柳川さん。
「ぬああああ!」
 拓也は立った。
 そして、倒れた。
 後ろ向きに、背中で地を打った。
 地面の温度が包み込む。
 でも、まだだ。
 一度振り返ったあの人が、また背を向けて行ってしまう。
 今のは、今のは違うんだ。立ち上がるのに勢いがありすぎて後ろに倒れてしまったんだ。
 だから、待ってくれ。
「まだだ!」
 上げられる限りの大声で叫ぶ。
「まだやれるんだ!」

 拓也が起き上がり、そしてすぐにまた倒れた時、浩之は耕一の顔を見た。耕一も、浩之
を見返している。
 止めるべきか?
 二人は無言で意志を交わす。
 ここが、限界なのではないか。二人の位置から見えただけでも、拓也は側頭部と顎に思
い切り蹴りを喰らっている。
 その時、拓也が叫んだ。
 まだやれる、と。
「あ、英二さん」
 浩之がそういってから、耕一を改めて見る。
「英二さん、止めるつもりなのかな……」

 立てるぞ、立てる。
 顎を引いて頭を起こして、掌を地面に着いて上半身を押し上げる。
 ん……誰か側に立っているぞ。
 僕の無様さに我慢ならなくてあの人が止めを刺しにきたのか。
 それでも僕は全然かまわないぞ。
 蹴りでもなんでも落としてこい。
「立てるか、月島くん」
 立てるに決まっているじゃないか。
「立つ気か」
 当たり前だろう。
 しかし……この声、あの人じゃないな。
 誰だ。
「なぜ立つ」
 そういった緒方英二と拓也の視線が真っ向から合った。
「まだやれるからだ」
 震える両手が、地面と背中の距離を広げていく。
「まだやりたいからだ」
 膝を立てて、着く。
「充分だ」
 声に、満足そうな響きがあった。
「その二つがあるのならば、立って闘いたまえ」
 いわれずとも……立った!
「おおう!」
 叫んだ。
 自分がまだやれるということを知らせるためにだ。
 既に二人の間の距離は開いていたが、柳川裕也は振り向いた。
「ちょっと、もう止めなさいよ!」
 英二の肩越しに拓也に浴びせられた声は、その耳に届いてはいたが、もはや拓也に認識
されてはいなかった。
「理奈、いいんだ」
 英二が、理奈を制する。
「だって、あんな、フラフラして……もう足に来てるじゃない」
「まだやれるから立った」
 理奈が訝しげな目で英二を見る。
 拓也の背中を見る英二の表情になんともいえぬ……喜びとも苦しみともいえるような、
その二つの混合物を感じたからだ。
「まだやれると口ではいえても、実際に立ち上がり、強敵に向かっていくのは難しい」
 英二は拓也の背中を真っ直ぐに見ている。
「でも、なんのためにそこまでするのよ。あんなに蹴られたっていうのに……」
「後悔しないため――」
 英二の答えに淀みも躊躇いも無かった。




     第92話 特別

 衝撃が頭を突く。
 その度に、思考力がすとん、すとん、と押し出されていくようだ。
 せっかく立ったはいいが、これではまるで殴られるために立ったようなものだ。
 なんとかしなければ……。
 思いながら、守勢に回った状況をどうすることもできない。
 もう何発か強烈なのを貰ったら、そんなことを考えることもできなくなりそうだ。
 右手で殴ってくる気だな、っと、左か。
 なんだ。簡単なフェイントじゃないか。どうしてこんなものに引っ掛かる。
 左右のワンツーを受けて、かわして、足が揺れる。
 なんだ? ああ、ローキックか。そうだな、蹴りがあることを忘れていた。
 これは……相手の攻撃を読むどころじゃないな。
 複数のそれならともかく、簡単な単発のフェイントにもかかってしまうような状態だ。
思考力も、体力も、限界に近い。いや……自分でそう思い込むことでなんとか踏み止まっ
ているだけで、実際はもう限界を超えた後なのではないのか……。
 反撃は、時折、腕を振るだけだ。
 足に来ているためにタックルにも行けない。すなわち、組み付いて行けない。
 柳川はもう、このまま打撃で仕留める気だろう。
 柳川の関節技とその防御の技術は警察で習った柔道が基礎になっている。自然、関節技
嗜好症とでもいうべき拓也と関節技のみでやり合うのは避けたいところだ。その技のバリ
エーションの多さを警戒しているのだろう。
 腕ひしぎ逆十字固め。
 裸絞め。
 しっかりとした基礎力があれば、実際はこの関節技と絞め技を知っているだけでそこそ
こやれる。だが、おそらく柳川が恐れているのは拓也が持っているかもしれない未知のも
のである。
 知らない技を、知らない入り方でかけてこられた時に完全に防ぐ自信は無いはず。
 かつて、完全に殺し合いの技術であった武術流派が、その技を絶対に流派外の人間に知
らしめようとしなかったのはそのためである。
 右のストレートから距離を詰めての左フックをなんとか防いだ後、すぐに前蹴りを鳩尾
に直撃された。
 また、ごっそりと思考力が飛び出ていった気がする。
 頭の中が真っ白、というのはこういう状態をいうのか。
 よろめきながら距離を取って……取って……その後どうする……。後? 後に何かある
のか?
 横から何か来るようだ。
 身を沈めたすぐ次の瞬間にその何かが頭上を駆け抜けていく。
 なんだ。あの人が打った右フックだったか、あれを貰っていたら危なかった。
 また何か来るぞ、腰を落として身を低くしたところへ前から、顔をすくい上げるような
攻撃が来るぞ。
 上半身を後方に逸らしてかわす。
 上手くかわせた。で、この後何を? ……そうか、反撃をしなければ。
 思った時には次の攻撃が来ていて、それをかわさねばならなかった。
 このままでは反撃ができない。
 そう思いながらもなんとか攻撃をかわす。
 ほとんど無意識の内にかわしていた。
 こういう攻撃が来るからこう避けよう、ではなく、こういう攻撃が来たからこう避けた
のか、と後で確認するのに近い。
 まるで、第三者のようだ。
 その第三者の目から見て、拓也は小気味よく柳川の攻撃をかわしていた。
 疲れた体でよくやる。
 あの鋭い攻撃をよく見切る。
 思考力の衰えを嘆く自分はもういなかった。
 ああ来る、こう避けよう、こう来た、こうかわそう、そんなことをあれこれ考えていた
のが馬鹿馬鹿しくなるほどに、無意識の内に体が動く。
 目で、相手を見る必要すらほとんど無かった。
「む……」
 攻撃疲れした柳川が訝しそうに拓也を見る。
 宙に舞っている綿を打っているようなもので手応えが無い。
 こいつ……月島拓也か!?

「変……ですよね?」
 浩之がぽつりと呟いた。
「目の前で人が死ぬかもしれないってのにぼさーっと見てるあんたの方が変よ」
 耕一に向けた言葉に勝手に反応した志保をじろりと睨んでやると、あかりが志保の口を
塞いで志保をなだめていた。
「変……だな」
 と、いった耕一が苦笑しているのは、志保の言葉を受けてのものだろう。浩之に向けら
れたものであり、志保にその意図は無かったが耕一のことを指しているともいえた。
「で……月島くんだが……おかしいな」
「そうですよね」
「あんたの方がよっぽ、むぐ」
「あ、続けて続けて」
 あかりがまた志保の口をふさいでいる。
「あの、あれですよね……立ってから何発か貰って……おれはそれで終わりかと思ったん
ですけど……」
「急に動きがよくなったな」
「ええ……普通、ダメージが蓄積していって鈍るはずなのに」
「……普通じゃないことが起こったかな」
「普通じゃないこと?」
「おれの推測だけど……ほら、苦しいのもある線を越えるとなんだか楽になるっていうの
あるだろ」
「はい、走っていると……一番辛いのは最初の方だけだったりとかはしますけど」
「何か一線を越えたのかもしれない」
「……一線を?」
「どうも、見てると、目で見てかわしているんじゃないよ、あれは」
「確かに……」
 それは、浩之も感じていた。
「もう、相手の全身を見てもいないようだ……」

 なんといえばいいんだろうな、これは。
 僕は、あなたの顔を見ているだけでいいんだ。その表情の変化でも楽しみながら、攻撃
が来たら避ければいい。
 攻撃は……そうだな、光だ。
 パッと何かが光るから、その光をかわせば、あなたの攻撃をかわしている。
 わざわざ確認するまでもない。本能が教えてくれる。
 何かを考える前に、あなたの攻撃を鮮やかにかわしているイメージが脳裏に点滅する。
そして、気付いた時にはその通りになっている。
 なんだ、これは。
 足取りもなんだか軽いぞ。
 イメージの通りに体が動くぞ。
 右ストレートを顔を横に傾けることでかわす。
 スレスレだ。小指が髪の毛に当たったぞ。
 今、殴ってやればいい感じでカウンターになっていたな。
 よし、次は行ってみるか。いい加減に避けているばかりも飽きてきたぞ。やっぱり、攻
撃をしなければな。
 回避と反撃を同時に行う。
 そう思え、後は勝手に体が動く。
 回避と反撃。
 その時、光った。
 右腕に震動。
 柳川が両膝を曲げながらもなんとか倒れまいと踏ん張っていた。
 やった。
 僕がやったんだ。
 右ストレートをギリギリでかわして右でカウンターだ。顎に入った。
 地を蹴って距離を取ったけど、さすがに足元がおぼつかないようだな。
 それに、僕はもうぴったりとあなたに吸い付くように後を追っているんですよ。
 ボディーに一発。
 顔面に一発。
 右足に一発。
 面白いぐらいによく入る。
 教えてくれるんですよ、光が。
 今、あなたのどこに隙があるかをね。全身を常に完全にガードできる人間なんていやし
ないんだ。
 顔面のガードを中心にし出しましたね、わかるわかる、わかるんですよ、手に取るよう
にね……。
 がちッ、と何か人体ではないものを叩いた感触が拓也の右拳に生まれる。
 おや?
 と、思うまでもなく、すぐにわかる。
 さっきまで柳川の顔にあった眼鏡が無い。
 この機を逃す手は無い。
 接近して右で顎を突き上げるアッパーが、我ながらうっとりするようなタイミングで入
った。
 唇が、笑みを形作る。
 今の攻撃、見えていない。
 その後に放った左フックも見えていない。
 やはり、それほど目は良くないようだ。
 目で見るからいけないんですよ、と教えてやりたかった。
 もっとも、できたらの話ですけどね。
 あなたは……何やら普通の人間とは違う……得体の知れぬ何かを持っているようだが、
こういうことはできますか?
 体が勝手に動くんですよ。
 今なら勝てる。
 あなたにも、柏木耕一にも、藤田浩之にも、緒方英二にも、誰にも負ける気がしない。
なにしろ、攻撃が全く当たらないんですよ。そんな相手に勝てますか?
 勝てないでしょう。
 光が教えてくれるんですよ。
 光より速いパンチが打てますか?
 正直、あなたには勝てないと思ったことがあった。とてもかなわないと思ったことがあ
った。
 でも、勝てるぞ。
 勝てる、僕は強いんだ。
 僕以外の誰にもこんなことはできないんじゃないか?
 そうだ。
 僕は、特別だ。

 柳川が反撃に転じたのを見ながら浩之は唸っていた。
 あれを紙一重でかわすか!?
 あそこでそう避けてそう反撃するか!?
 拓也の動き一つ一つが驚嘆に値した。
 柳川の反撃は悉く虚空に吸い込まれるように拓也の体からは外れていく。
「つ、強いですよ、あれは……」
 浩之がうめくようにいった。はっきりと口にはしていないが、自分が今の拓也と闘って
勝てる気が全くしない。柳川のあれほどの攻撃をああも容易くかわしているのだ。自分の
攻撃が当たるなどと考えられなかった。
 攻撃が当たらない奴になど勝てるはずがない。
 だが、それでも、これはそんなにあっさりと勝てぬことを認めたくないという意地のよ
うなもののせいでもあったが、何かが引っ掛かる。
 拓也の表情だ。
 闘いの最中にも、いや、それ以外にも変化に乏しいそれだが、今ははっきりとした形相
を作っている。
 よくいえば自信に満ちた表情。
 悪くいえば見下した表情だ。
 あの顔……一発でも入れてやったらどうなるんだ?
 すぐに亀裂が入って、崩れてしまうのではないか?
 視線を転じる。
 長瀬祐介と月島瑠璃子。あの二人にも意見を聞きたいところではあるが……。

 二人とも、拓也の変化には気付いていたが、それについて言葉を交わしたりはしなかっ
た。
 なんといっていいのか、祐介にはわからなかった。ただ、拓也のああいった表情にあま
りいい思いは無かった。
 自分以外の全てを見下した表情。
 危うい。
 拓也のその表情がその精神の脆さから来るものであることを祐介は知っている。瑠璃子
はそれをより知っているはず。
 拓也の精神がどこか別の所に行ってしまっているように思えた。
 月島拓也に見えるそれがそうではない別のものになってしまうような……。
 あの人は、ここに……僕たちのところに帰ってくるんだろうか。

 自分は特別な存在だったのだ。
 記憶が曖昧ではっきりしないのだが、この無意識の内に相手の攻撃を紙一重でかわして
しまうこれ以外にも自分はなんらかの他の人間には無い能力を持っていたことがあった。
 それは、誰も逆らえないような素晴らしい力だったとおぼろげに記憶しているが、しか
し、その時自分は月島拓也であった。
 今は月島拓也であることすら曖昧だ。
 こんなことが他の人間にできるか?
 いや、人間に可能か?
 可能だとしても、それは一握りだろう。
 その一握りの中に自分は入っている。
 凄まじい快感が全身を浸す。
 かつて感じたことのある快感だ。
 そうだ。僕は特別なんだ。
 柳川さん……目を細めて、一生懸命僕の攻撃を見切ろうとして、辛そうですねえ。
 でも、ただでさえ今の僕の攻撃は的確に素早くあなたの隙を衝いていくのに加えて眼鏡
が無いじゃないですか。
 無駄です。ほら、また当たった。
 それにしてもタフな人だ。
 やっぱり、この人も普通の人間じゃないな。
「ねえ」
 こっちには声をかける余裕すらある。
 あなたも特別なんでしょう? 僕みたいに。
 あなたも柳川裕也ではない、それ以上のものになれるんじゃないですか?
「柳川裕也ではないものになったらどうです?」
 そういっている間にも浅いけど、二発入った。
 あれ? その顔はなんですか? 僕がそんなにおかしいことをいいましたか?
「あなたも、なれるんでしょう?」
 あなたなら、なれるはずだと僕は思うんだけどな。
「なれないな……」
 そうですか?
「ならない」
「なれるのにならないんですか? 勿体無いなあ」
 っと、反撃してきましたね。でも、こうやって紙一重でかわして……ね、すごいでしょ
う。ミリ単位でかわすことができるんですよ。
 柳川さんも、そうなればいいのにな。
 右ストレートがけっこういい感じに入った。
 ちょっと前なら、やったと思っていたんだろうなあ。やった、この人にいいパンチを入
れてやったぞ、って。でも、なんだかもう、なんだかなあ……。当たるのが当たり前なん
だからなあ……。
 ……なんだろう。
 何かが足りないような気がしてきたぞ。
「後戻りできなくなるからな……」
 ん? それはどういうことですか? 柳川さん。
 僕がいうように柳川裕也以上のもの、柳川裕也とは別のものになったら後戻りができな
くなるってことですか?
 おかしなことをいう人だなあ。
 後戻りの必要が無いでしょうに。
 なんで、後戻りしなきゃならないんですか? せっかく前に、上に、行くことができた
のに。
 ああ、そうか。
 この人がそんなこといっているのが物足りないんだ。きっとそうだ。そうに違いない。
 なんだ……最後の最後でこの人とは"同志"ではなれなくなったか。
 僕が踏み込んだ領域にまで着いてこれない人だったのか。
 ……ガッカリだなあ。
 だったら、この人ですら僕には不要なのかなあ。
 今まで物凄く楽しませてもらって、充実感も与えてもらったけど、もう駄目か。
 寂しいけど、お別れですね。
 次にパンチを打ってきたらそれにカウンターを合わせて、そのまま一気に沈めて差し上
げますよ。
 右の方で何かが光った。
 左手でパンチを打ってくるんですね。それじゃ、そいつに合わせるとしましょう。
 柳川さん、名残惜しいですが……。
 ありがとうございました。楽しかったですよ。
 バチンと音が……。
「え?」
 後方によろめきながら拓也は顔に、ぎこちない笑みを浮かべていた。



     第93話 決着

「当たった」
「左……左のジャブでしたよね、今の」
 左ジャブ。
 幾多のパンチの中でも素早く打てる種類のそれである。
「当てるだけの軽いパンチだったようだが……少しは効いたぞ」
 さらに、柳川のジャブは拓也の顔を捉えていった。
「なんて顔してるんだ。月島さん……」
 浩之が呆然と呟く。
 さっきまでの自信はどこへ行ったのか、不安そうな顔で叩かれている。
「崩れたな……」
 耕一の見るところ、拓也は極限状態を迎えて感覚が鋭くなり、その感覚によって柳川の
攻撃を見切っていた。それに、さらに精彩を加えていたのが拓也がいつからか持った不動
の自信だ。自分には攻撃が当たらない、という自信だ。
 それがあったから、柳川の鋭い攻撃を紙一重でかわそうとする、などという芸当が可能
になった
 長い修練の末に意識せずに相手の攻撃をかわしてしまえるという境地に人間は達するこ
とができる。
 それを自らの経験として語る格闘家も少なくない。
 様々な要因が重なり合っての結果だが、その境地に拓也は格闘技を本格的に初めて一年
そこそこで辿り着いた。驚異的なことである。
 だが、いくら感覚が鋭くなったといっても、かわしにくい攻撃は存在する。
 例えば、素早いジャブである。
 完璧に触れもせずにかわすには後方に下がるのが一番だ。実力者のそれを顔を横に少し
ずらして紙一重でかわし、ましてやジャブにカウンターを合わせるなどほぼ不可能に近い。
 もちろん、単発で、いや複数当てたとしてもそれほどにダメージを与えられる攻撃では
ない。
 だが、今の場合、とにかく当てることが拓也攻略の糸口だ、と耕一は思う。
 当てることにより、拓也の自信を破壊するのだ。
 長い間の修練を積んで辿り着いた“境地”ではない。
 肉体的、精神的に追い詰められて一時的に感覚が鋭くなり、それに「自分にはどんな攻
撃も当たらない」という絶対的な自信が付与してのものだ。
「ここで踏ん張れなければ……月島くんは……」

 ゾッとした。
 今まで、この男と闘ってきて、腕を折られる!? 目をやられる!? と思った時に悪
寒を感じたことはあったが、この時のそれは異質であった。
 柳川裕也ではないものになったらどうです?
 その言葉に心底、ゾッとした。
 その後に拓也はいった。
 あなたも、なれるんでしょう?
 と……。
 ならば、あいつはもう月島拓也ではないということか。
 急に異常に感覚が鋭くなって、信じられないような見切りで攻撃をかわすようにはなっ
たが……。
 おれはならないぞ。そんなものには。
 おれは、柳川裕也であることを止めない。
 それで、どんなすごい力が手に入るとしてもだ。
 嫌なことは一杯あった。
 父がいなかった。
 好きだった上司が自分のミスで死んでしまった。
 心を開きあった友が自分が至らなかったために死んでしまった。
 でも……。
 母がいた。
 あの人の娘が自分を頼りにしてくれている。
 貴之が自分を兄のようだと……。
 月島拓也。
 お前の目を見れば少しはわかる。
 あまり幸福とはいえない人生を歩んできたようだが……。
 父か母か、あるいはその双方がいなかったのか?
 でも、妹がいるだろう。
 お前は――。
 とにかく、どんな軽いものでもいいから攻撃を当ててやる。それで、もしかしたらこの
男の自信が崩れ、付け込む隙が生じるかもしれない。
 自分が優位に立っていたなどとは夢にも思わない。とにかく、小さく、軽くでいいから
一発当てる。
 月島拓也――。
 さっき、見事なカウンターを決められた時、一瞬だけお前に負けてもいいな、と思った
よ。
 でも、もう負けられないな。
 お前はここで勝ったら駄目になる。そんな気がするよ。
 だから、負けるわけにはいかない。
 何様のつもりで、おれはこんなお節介なことを考えているんだろうな。
 貴之――。
 阿部貴之――。
 そういう友達がいたんだよ。
 おれがお節介だったら今も生きていたかもしれない男だ。
 お前と貴之……似ても似つかないし、付き合い方もだいぶ違ったし、正直いって重ね合
わせて見るのは難しい。
 でも、やっぱり、どこかで重なるんだよ。
 その質も、理由も、やり方も、全然異なっていたが、貴之もお前も、おれを慕ってくれ
た数少ない人間だ。
 こうなったらもうしょうがない。
 諦めておれのお節介を受けてもらうぞ。
 貴之と少しでも重なる奴を放っておけん。
 お前のその顔――月島拓也以外の、それ以上のものだ――とでもいいたげな見下した表
情を打ち壊してやるぞ。
 おい……月島拓也よ。
 妹がいただろう。
 そして、まだいるだろう。
 お前は、月島拓也以外のものでいいのか?
 おれは柳川裕也だ。
 過去に何があったとしてもおれはそれでいい。
 お前は――。
 おい……どうなんだ……。
拓也っ!?

 真っ直ぐに左手が伸びていって、拓也の顔面を捉えた。クリーンヒットとはいえないが、
眼鏡無しでのぼやけた視界の中でしてのけたことだから上出来だ。

 一発、二発、三発。
 左のジャブが連打された。
 そして、右。
 ストレートが一直線に顔面を叩く。
 ぎこちない動きで拓也がかわそうとするが、かわしきれない。
 思い切り振りぬいた右のミドルキックが腹部へ――。
 拓也は、ふっ飛ばされた。

「月島くん、立てるか」
 この声……緒方英二か……。
 月島……それは僕のことか?
 ああ……僕がさっきまで“そうだったもの”の名前か。
 違うんですよ。僕はもう。
 緒方さん、僕はもう月島拓也じゃないんですよ。
 だって、それじゃあの人に勝てない。
 今まで闘ってきて僕はわかってしまったんですよ。
 月島拓也は柳川裕也に勝てない。
 勝てないんですよ。
 僕じゃ、月島拓也じゃ勝てない。
 だから、月島拓也なんかでいるのが嫌になったんです。
 だから、止めです。僕はもう、そうじゃない、それ以上のものになった。
 口でいっているだけじゃないんですよ。さっきの、さっきの見たでしょう? あの人の
鋭い攻撃を紙一重で、ミリ単位で、スレスレでかわして、あの人を手玉にとってた。
 あれはすごかったでしょう? あれなら柳川裕也に勝てますよ。
 今は、何かの拍子に軽い攻撃を貰ったんで戸惑ったんです。すぐに立つから、そうした
らもう何も貰いませんよ。
 立つぞ……。
 あれ? なんだか足に来ているぞ。
 おかしいぞ、これじゃ月島拓也みたいじゃないか。そうではないものになった時、こん
な疲労は無くなっていたのに。
 ん? なんだ? 何かが……緒方英二以外の何かが僕の側に……。
「英二さん、もう止めさせないと」
 拓也の傍らに片膝を着いていった御堂静香に、英二はゆっくりと頷いた。
 拓也がある一線を越えたことは英二も感じていた。
 越えて、本能が理性を超え、精神が肉体を越え、拓也は闘っていた。
 この辺りが潮時かもしれない。英二といえど、どちらかの死をもっての決着を望んでい
るわけではなかった。
 拓也の手が静香の肩にかかった。
「寝ててください。すぐに救急車を呼びますから」
「まだやれる」
 静香によっかかるようにして拓也は立ち上がった。だが、静香が拓也の手が置かれた肩
を少し引いたら、それだけで倒れてしまいそうだ。
「まだまだ」
 行ける。
 月島拓也ならばもしかしたらここで倒れたかもしれない。だが、それ以上のものである
僕はまだ行けるはず。
 柳川を見る。
 落ちていた眼鏡を拾ってかけたところらしかった。
 左のレンズがひび割れていてその向こう側はわからないが、右のレンズ越しに見える柳
川の左眼は鋭い視線で拓也を見ていた。
 鬼。
 拓也の全身から血の気が引いていった。
 あれだ。鬼の顔だ。
「おい……」
 拓也は見入られたように、その顔を見ていた。
 英二が何かを叫んでいるようだった。
「え? ええ?」
 すぐ横でそんな声がした。
 柳川は見ている。
 まだ、鬼の顔だ。
 何がこの男の顔をそうさせているのか。
 僕……か?
 いや、違う、そうではない。
「おい……」
 柳川が右腕を引いていた。
 あ、殴られる。
 そう思いながらも拓也は動けなかった。
 光が見えた。
 それでも、動けなかった。
「そいつに触るな」
 顔面を貫いたのは、拳というよりは、その形をした力そのものであった。
 一瞬、体が逆さになったのがわかる。
 爪先が大きく弧を描いた。
 うつ伏せになって倒れる。
 起き上がろうとしたが、引っ繰り返って仰向けになっただけであった。
 空が青かった。
 さっきの空だ。
 地面が暖かかった。
 さっきの地面だ。
 妙に頭がスッキリとしている。
 ああ……足音が幾つか近付いてくる。
 瑠璃子もいるのかな……。
 僕は月島拓也……それ以外のものになどなれなかった。
 月島拓也が柳川裕也に勝たねば意味が無かったのに。
 瑠璃子……僕はまたやり方を間違ったのかもしれないよ。
 月島拓也であることを止める必要など無かったのに……。

「浩之!」
「はい」
 浩之と耕一が足早に駆け寄っていった時、月島拓也は仰向けになって四肢を伸ばして空
を見ていた。
「大丈夫っすか?」
 浩之が拓也の顔を覗き込んでいる英二に尋ねる。
「なんとかね」
 あの時、咄嗟に静香に拓也から離れるようにいったのだが間に合わなかった。
 思い切り殴られていたのであわや、と思っていたが、なんとかなりそうだ。こちらのい
うことには何も答えないが、意識はあるようで、ただ、空を見ていた。

「柳川……さん……」
 怯えた表情で足を震わせた静香が柳川の前にいた。
「安心しろ」
 両手が静香の両肩に置かれた。
 嘘のように震えが止まる。
 震えの元だった柳川の鬼のような顔が、軽い微笑を浮かべただけで、それは収まった。
「おれがいるから安心しろ」
 そういわれただけで、不思議に不安がおさまっていく。
「今度は……失敗はしない」
「はい……大丈夫」
 静香は柳川に聞いて知っていた。
 かつていた彼の親友のことと、それが柳川曰く「自分のせいで」死んでしまったという
こと。そういえば、父の死に関してもこの男は責任を感じていた。
「大丈夫です。柳川さんなら」
 ふっ、と柳川の全身から力が抜ける。
 やはり、おれは柳川裕也でいい。
 力が抜けて、拓也のことが気になって見てみると、名前は知らないが彼の妹と一緒にこ
の場にやってきた青年の肩を借りて立ち上がっているところであった。
「……柳川さん……」
 澄んだ表情だった。
「負けです」
 あっさりといった。
「月島拓也が、柳川裕也に負けたんです」
「勝ちとか負けはどうでもかまわん」
 柳川はいった。
「楽しかったですよ」
 拓也はいった。
「おれも……別に楽しむつもりだったわけではないが、楽しかった」
 柳川が、背を向けた。
 拓也は、笑っていた。
 楽しかったというのが嬉しかった。
 自分だけがそうで、この人は仕方なく付き合っているのだろう、と思っていたのだが、
そうじゃなかった。
 そして、疑問に答えが出た。
 足りなかったものは、柳川が自分のところまで来ない、とかそういうことじゃない。
 喜びだ。
 相手の攻撃をかわした時の喜び――。
 相手に攻撃を当てた時の喜び――。
 それが足りなかった。
 負けたが、それを得た。
 嬉しくて嬉しくてしょうがない。
 おかしくなったか!?
 周りの人間が危惧せざるを得ないほどに、拓也の顔に次から次へと笑みが浮かんでいく。
 瑠璃子が微笑みかける。
「よかったね、お兄ちゃん」
「ああ……よかった……とてもよかったよ……」
 そういってから、拓也は自分が祐介に肩を借りて立っていることに気付いた。
「君にも世話になるな……」

「終わった……」
 浩之は時計を見た。
 約十分の死闘であった。
 レフリーもおらず、中途でのブレイクも無く、膠着状態がそれほど長くあったわけでも
ない戦いにしては長引いた方だろう。
「この馬鹿ッ!」
 そう叫ぶや、何かが浩之の背中に負ぶさった。
「何しやがる!」
「あんたの試合がもうすぐでしょうが! しっかり時計見なさい!」
 両足で胴を絞めながらのフェイスロックで浩之の顔を捻りながら志保が叫ぶ。
「あ!」
「あ、じゃない!」
 確かに、試合開始二分前になっている。
「浩之、走れば間に合う!」
「よし、志保、下りろ!」
 耕一に僅かに遅れて浩之が走り出す。
 走りながら、自分はこの男とこれから闘うと思うと様々な感情が泡立つように沸き上が
ってくる。
 今の闘い、勝者無き闘いであると浩之は思う。
 拓也ははっきりと負けを認めたし、柳川は自分を勝者であるなどとは思っていないだろ
う。
 そこにあるのは、勝利とか敗北とかいうものではなく、二人の男が死力を尽くして闘い、
傷付いたという厳然とした事実だけだ。
 だが、それでもそれをした二人にも、見ていた自分にも得るものはあった。
 これから自分が行くところには、レフリーがいて、明確なルールがあって、それが勝者
と敗者を決定するシステムがある。
 それでも、それに勝ちを認められるだけでは意味が無い、と思う。
 そのシステムに勝利を与えられても、自分で勝った気がしなければ無意味だ。
 この人相手に姑息なことをする必要は無い。
 願わくば、試合が終わった時に、さっきの拓也のような顔で笑いたい。
 耕一の背中が見える。
 それほど肩幅が広くないのに、不思議と大きく見える背中だ。
 その背中を見て走っていたら、急に抜きたくなった。
「お先ッ!」
 加速して耕一を抜く。
「あ、おい、待てよ」
「あはははは! どうすか、おれの背中を見て走る気分はぁ!」
「ガキか、お前はあ!」
 走りながら二人とも笑い出していた。
 笑いながら、二人は闘いの場を目指していった。

「なんか……競争してるね、浩之ちゃんたち……」
「……何やってんだか……」

                                     続く






一つ前へ戻る