第94話 転章3 三人の必死の捜索も虚しく、試合開始時間は既に一分前に近付いていた。 一分前など、本来は控え室を出ているべき時間だ。 「もう一度だけ、探してみましょう」 息を切らせながらも、葵がいった。 「うん、頼むよ」 と、いったのは佐藤雅史である。 「……あの馬鹿……」 と、かなり本気で腹を立てながらも二人とは別方向に走り出したのは坂下好恵。 男子空手部とのあれこれの一部始終を知っている好恵は、元々浩之のことを高く評価し ていたが、今日でそれをさらに深めていた。 実際見て、ようくわかった。 エクストリームのレベルは高い。 初出場で、また、これほど大勢の観客の前で闘うのも初めてでいながら、二回戦を突破 した浩之のことを高く評価していた。 試合前にいなくなって、葵や雅史に要らぬ心配をかけなければ、藤田浩之への評価は上 がるだけであったろう。 「どこに行ったんだ。あいつは……」 あまりブツブツと独語する好恵ではないが、今回ばかりは、ついつい自然と浩之への悪 態が漏れる。 この無責任極まる行動に対して、葵と雅史が怒らず、心配する一方というのも好恵の浩 之への怒りを促進させていた。 どうしても、浩之が二人に甘えている、と思えてしまうのだ。 自分から、ガツンといっておく必要を感じていた。 二階の通路をぐるりと見て回る。試合時間はもう過ぎているのだが、選手が入場してか ら観戦しようと決め込んでいる人間が多く、通路にはまだ人が多い。 その人々の間、というよりも隙間を見事なフットワークでぬっていった好恵は会場の外 を探してみようと思い、出入口へと向かった。 会場から出た瞬間、好恵の視線は遠くへと向けられていた。 出入口を出てすぐの五段ほどの短い階段を下りようとした時も、視線の位置は変わらず。 階段を踏み外して転ぶようなことはない、という自信がある。 だが、横合いから何かがやってきた。 「危ねっ!」 と、叫んだそれに蹴つまづいて好恵の体が宙を舞う。 今の声――。 聞き覚えがある。 藤田浩之だ。 浩之に怒るよりも先に宙に浮いた我が身をなんとかしなければならないという防御本能 が働いた。 このままだと前から、うつ伏せに倒れていってしまう。 ならば、身を半転させて受け身を――。 好恵の体が引っ繰り返る。 来るべき、地面の衝撃を覚悟する。 飛んだ高さと感覚で、大体いつ頃自分が地面に接触するかはわかる。 おそらく、約一秒半後。 両手が交差する。 受け身を――。 約0.5秒後。 好恵の体は、固いが弾力を持った何かに接触していた。 それが、よく鍛えられた肉体であるということを好恵は悟った。 「坂下、危ないじゃねえか」 階段の最上段から浩之がいった。 「危ないのはそっちだろう!」 瞬間的にカッと来て叫びながらも、好恵は自分が今、どういう状態になっているのかを 正確に把握していた。 背を男の肩に乗せるようにしていた。男の手が腰に回っているので担がれているように も見える。 叫んだ直後に、体がするり、と滑るように落ちた。 両足で地面に着地しよう、と思ったが、またもや好恵の体はその途中で停止した。 男が、空いている方の手で好恵の両足を支えたのだ。 自分を抱きかかえる格好になった男を見上げる。 「大丈夫か?」 そういったこの男、覚えている。 確か、柏木耕一。 好恵が大丈夫そうだと見た耕一は、好恵の両足をゆっくりと地面に下ろした。 「浩之ぃ、お前が悪いぞ、今のは」 耕一が苦笑しながらいった。 「いきなり横から足元に来られたら避けようが無いだろうが」 という耕一の言葉で、何が起こったのかが理解できた。 横からやってきた浩之が回り込む時間を惜しんで階段をショートカットしようとして跳 躍して横から最上段に乗ろうとして好恵が足を蹴つまずかせた、ということらしい。 浩之が完全に悪い、と好恵も思った。 「あー、悪ぃな、坂下」 「……そんなことはどうでもいい」 押し殺した声で好恵はいった。実際、謝ってさえもらえればその程度のことはどうでも いい。それよりも、葵と雅史がこの男を捜していたのだ。 「何やってたんだお前は。葵と佐藤が捜していたんだぞ」 不純度無し。 純粋な怒りが声に篭もる。 「あー、悪ぃ、ちょっとな……」 「私はいい、葵と佐藤にいえ」 「おう」 「そういや……」 と、耕一が時計を見やる。 「試合開始……しているべき時間だな」 「あ、やべ!」 「急ごう」 耕一が早足で駆け出し、浩之もそれに続いた。 やがて、それぞれの控え室への分かれ道へとやってきた。 浩之は右へ。 耕一は左へ。 そして、再び会えばそこは試合場の上。 闘う場所だ。 「それじゃあな、浩之」 「はい……負けませんから、おれは」 「ああ」 そして、耕一は左へと……。 「ん?」 好恵が、その先に立っていた。 「先程は、ありがとうございました」 折り目正しく、一礼する。 「ああ、たまたまおれがあそこにいただけだから……えっと……浩之の知り合いだっけ?」 「坂下です」 「坂下好恵、おれの同級生ですよ」 少し離れた所で立ち止まっていた浩之が付け加える。 「好恵ちゃんか」 「……坂下です」 暗に「好恵ちゃん」と呼ばないでくれといったつもりなのだが、 「あれだな、好恵ちゃんはけっこう……」 効果が無かった。 はっきりと「好恵ちゃんは止めてください」といおうとしたところ……。 「いい体してるね」 好恵、固まる。 「さっき抱きかかえた時思ったんだけどね」 「そ……」 好恵は口篭もった。 浩之が「耕一さん、頭おかしくなったんですか?」といった表情をかなり本気でしているのには腹が立つには立ったが、あまりそちらにまでは気が回る余裕は無かった。 「何かスポーツやってるの?」 「……空手を少々」 「そう、こいつ、うちの女子空手部の主将なんすよ」 「あー、やっぱりね。筋肉質だったから」 「そーっす、いい体してますよこいつは。うん」 「……」 「睨むなよ、坂下」 「空手かあ。道着を着たらカッコいいんだろうね、好恵ちゃんは」 「ええまあ、なかなかいい男になりますよ、こいつは」 「……」 「今は普段着だから、普通の可愛い女の子に見えるけどね」 「あの……耕一さん……」 「……」 「道着を着たらもっと顔が引き締まっていかにも空手家になるんだろうね。一度見てみた いな」 「耕一さん……」 「なんだ、浩之?」 「こいつのどこが可愛い女の子なんですか?」 その時、浩之の表情にも声にも、好恵をからかってやろうとかいう茶化す様子は無かっ た。 真摯であった。 真剣に、心の底から沸き上がるどうしようもない疑問が、自然と口から漏れた……そん な感じだった。 真剣であった。 「……」 それはそれでふざけていわれるのよりも腹が立ったが一歩大きく踏み込んで中段蹴りを 放っても届かない位置に浩之がいたので、好恵はまずは静かに一歩、浩之に近付いた。 浩之も勘がいいので二歩下がる。 「えー、可愛いだろー」 「どこがですか、どこが!?」 刻々と時間が過ぎる。 既に試合が始まっているべき時間をとうに過ぎている。 尻を蹴飛ばしてでも二人の立ち話を制止すべきか、などと思わないことも無かったが、 その決断をできる精神状態ではなかった。 「おれ、ボーイッシュな子って好きだぞ」 「いや、ボーイッシュっていうか……その辺の領域は既に通り抜けて……」 いいつつ、浩之が三歩下がる。理由は推して知るべし。 「けっこうもてるんだろ? ……好恵ちゃん? ……好恵ちゃん!」 「あ……押忍、なんでしょうか」 「いや、好恵ちゃん、学校じゃけっこうもてるんだろ、って思って」 「同姓にはもてまくりだと思いますけど……」 「……同姓異性を問わず、そのようなことはありません、押忍」 なんでいちいち耕一に両手で十字切って礼してんだろうなー、と思いつつ、浩之が念の ために一歩下がる。 「えー、嘘だろ、もてんだろ、梓だってあれでけっこう同姓異性問わずもててるって話だ ぜ」 「……立ち入ったことをお聞きしますが、梓とはお知り合いの方でしょうか、押忍」 「ん、従姉妹だよ」 「耕一さん、そろそろ行かないとやばいっすよ」 「おう、そうか、好恵ちゃん、またな」 「はい、頑張って下さい」 「坂下、お前はどうする?」 「葵と佐藤と落ち合う場所を決めてあるからそこに行くよ」 「ああ、そうか、頼むわ」 「……ちゃんと二人に謝っておけよ」 「おう」 そういった浩之は、今度は下がろうとはしなかった。 「それじゃあな」 「ああ」 好恵が身を翻して去っていく。そして、耕一の姿が既に小さくなっているのを見ると、 浩之は慌てて駆け出した。 大きく、溜め息をつく。 「……一発ぐらい殴られるかと思ったけど……助かったな……」 好恵が約束の場所に行くと、既に葵と雅史が待っていた。 「どうでしたか?」 「どうもこうもない。さっき会ったよ」 「え、本当ですか!」 我が事のように葵と雅史が笑顔になるのと、場内がざわめいたのはほぼ同時であった。 「やっと入場が始まったか」 試合開始時間より十分近くが経過している。 「それじゃ、僕たちは浩之のところへ行くよ」 「私は、客席から見ている」 二人と別れて好恵が場内へと入ると、丁度、浩之が試合場の上に到達していた。 好恵が席に帰ると、前方と横に見慣れた顔が無い。 前にあかりと志保、横に綾香と芹香とそれに付属するように長瀬源四郎がいたはずなの だが、いない。 好恵はずっと葵と雅史に頼まれて浩之を捜していたのでいなかった。先の拓也と三戸の 試合が終わった後に休憩のために通路に出たりしていたようだが、試合開始時間をとうに 過ぎた今、既に席に戻っていると思っていたのだが。 「あー、間に合った。まだ浩之が入場してきたとこよ」 その声とともにやってきた綾香が好恵の横に腰を下ろす。 「……みんなしてどこへ行っていたんだ」 「んー、後で話すわ、けっこう面白いことがあったから」 「じょーだんじゃないわよ、あたしは見てるだけで疲れちゃったわよ、あんなの」 そういいながら好恵の前の席にやってきたのは志保。 「あー、よかった。間に合ったみたいだね、浩之ちゃん」 「っていうか……試合する二人とも行方不明になってたから」 綾香が苦笑する。 「片方だけだったらとっくに不戦勝になってるわよ」 「あ、そうかあ」 厳しい大会ならば、両者失格になっていてもおかしくはないが、エクストリームという アマチュアという枠に入れるにはプロ的な側面を多く持つイベントにおいては、もう一方 のブロックの決勝が、月島拓也の反則負け、そして勝者の三戸雄志郎が病院に担ぎ込まれ ている以上、この試合を両者失格にするのは避けたいところであった。 三戸の優勝決定戦棄権が濃厚であるからには、この試合の勝者がそのまま優勝者となる 可能性が高いのだ。 客もそれはわかっていて、これから始まるこの試合を優勝決定戦を見るつもりで観戦し ようとしているといって過言ではない。 ここで、このまま両者失格となり、腕を折られて病院に運ばれた三戸が優勝となっては イベントとして「格好がつかない」のである。 その辺りの事情があり「手違いがあり、試合開始時間が遅れる」というアナウンスをし て二人が現れるのをジリジリと待っていたというわけである。 耕一が入場してくる。 さっき別れた時と全く同じ顔だ。 当たり前なのだが、それが不思議だ。 浩之は我知らず自分の顔を撫でていた。 おれの顔はどうだろう。 さっき別れた時と同じ顔をしているのだろうか。 「浩之ちゃん……頑張って」 「絶対、勝ちなさいよ! あんた!」 そのあかりと志保の声を下方に聞きながら、綾香が隣席の好恵を見ながら口を開いた。 「果たしてどうなるかしら……浩之、思ったよりやるようだけど、一回戦二回戦ともに楽 に勝てたとはいいがたいわ……むしろ、苦戦」 「そうだな」 「相手の柏木耕一、強いわよ。一回戦のプロレスラーも、二回戦の緒方英二も決して弱い 相手じゃなかったのに、最終的にはほとんど一方的に打ち負かしている」 「ああ……あの人は強いよ」 「でも、浩之に勝機が無いわけじゃない」 「……ああ」 「変に恐れず、自然体に……って、まあ、私たちにはここから応援するしかできないんだ けどね〜、アドバイスは葵にまかせといていいと思うわ」 「そうだな」 「え、何? 姉さんも浩之を応援してるって? うん、してあげて、あいつには凄い効果 あると思うから」 こくり、と頷いた芹香の後ろに立つ、と後ろの人間の邪魔になるために横の通路に片膝 をついて控える老漢に綾香の視線が向く。 ちなみに、彼を注意しに来た大会係員は睨まれて退散した。 「セバス、どう思う?」 「柏木耕一が勝つでしょう。彼は強い」 即座に断言する。 彼が、伍津双英の道場で耕一と立ち合って敗れた、ということを知る者は少ない。 「ですが、お嬢様方が応援なさるのなら、私もあの小僧を応援してやろうと思います」 「あははは、それでOKよ、姉さん、セバスも浩之応援してくれるって」 「……」 「ははッ、御礼を下さるなど光栄です」 「好恵も浩之応援してあげるんでしょ?」 「私は……」 どっちを応援するとかじゃなくて、いい試合が見れればそれでいい。 そういおうとして、好恵は口篭もった。 一度、深呼吸して、それをいおうとした時、 「ん? 柏木さんの応援するの?」 綾香が口を挟んだ。 「……悪いか」 意図したのとは、全然別の言葉が出ていた。 「……悪くは……ないけど」 妙にむすっとした好恵を不思議そうに見ながら、綾香はいった。 第95話 潰される 柏木耕一が歩いてくる。 自分と闘うために、だ。 こんなに嬉しいことはない。 こんなに喜ばしいことはない。 ぶるっ、と震える。 武者震い、と思った。 歓喜が自分の体を揺さぶっているのだ、と。 震えが増していく。 耕一が近付いてくるにつれて、徐々に、段々と、身体の震動が大きくなっていくのがは っきりとわかる。 こんなので闘えるのか? いや……大丈夫だ。こんな震え、始まったらすぐに収まるもんだ。 耕一さん……さっき別れた時と同じ顔をしているじゃないか。 つまりは、いつも通りの普段の表情だ。 普通に日常生活をしているままの表情、そのままの顔で毎日飯を食っているんだろうと いうような表情だ。 自分で自分の顔を撫でる。 顔の筋肉が残らず強張っていやがる。 こんな顔で、飯は食わねえな。 なんだよ、これ。 おれ、ガチガチになってるぞ。 さっき別れた時はなんともなかったんだ。葵ちゃんと雅史に平謝りした時も、入場して くる時も、この試合場に立った時も、なんともなかった。 あの人が、入場口に姿を現してからだ。 ぶるっ、と来たんだ。 それまでは、嬉しくて嬉しくて、再戦できることを喜んでいたんだ。 それに割り込むように来たんだ。 ぶるっ、とな。 あの人がおれの正面に立ったぞ。 3メートルかそこいらしかない。 四方八方から声が来るみたいだけど、耳に入ってこねえな。 駄目だ。こんなんじゃ闘えねえ。 こういう時は、あれだ。イメージするんだ。 いい具合なイメージを浮かべてリラックスを……。 いきなりおれのハイキックがすぱーん、と側頭部を捉えて……。 そんなもん、あの人にそうそう当たるわけねえな、軸足蹴られて倒されるのがオチだ。 おれのワンツーがぱん、ぱーん、と顔面に……。 そんな簡単にいったら苦労しねえよな、そんなの難なくかわされるに決まってる。 タックルして倒して……。 倒せないだろうなあ、潰されるに決まってる。 「それでは、正々堂々、悔いの無いように」 ……? レフリーのおっさん、何いってんだ。おい。 「はじめっ!」 おいおいおい、待てったら。 もう始まるのか。 名前のコールとかルールの説明とかその他とかはもう済んじまったってのか。 おい、こっちは浮かんでくるイメージがどれもこれも後ろ向きで難儀してたとこなんだ よ。 カーーーン。 と、ゴングまで鳴っちまった。こりゃやるしかねえな。 少し救いがあるとすれば、あの人は立ち上がりからガンガン攻めてくるタイプじゃない ってことだ。 ほら、やっぱり、中央線から一歩も動かずにじっくりとこっちを見ているぞ。 構えてもいない。 あ、深呼吸した。 くそ、相変わらずこの人は憎たらしいほどに落ち着いてるな。 あの人に負けてから、あの人が学んでいる伍津流っていうの色々と調べたんだけど、闘 う時に気持ちを平静に保つことをやたらと口やかましくいっているところみたいなんだよ な。 理想は、戦闘時と非戦闘時の境界線を無くすことだ。 とか、耕一さんの先生がいってたな。 つまりは、戦闘になったら気持ちを切り替えるんじゃなくて日常の生活を送っている時 の気持ちでそのまま闘える。常に精神をそういう状態にしておく、ってことだ。 若い頃は無理かもしれない。自分も若い頃は闘志ばかりが先に立っていた。 って、こいつもあの先生の言葉だけど……あの人、二十歳かそこいらで実践できちまっ てんじゃねえのか。 お、動き出したな。 構えて、前に出てきた。 一歩踏み込んで打ったミドルキックが当たる、っていうようないいとこで止まりやがっ たぞ。 おれが手を出すのを待ってるんだ。 下手な仕掛けをしたらそれに合わされて潰される。 この距離は微妙だな。 さっき、おれが加納に対してやったのと同じような位置だ。こっちから仕掛けるには少 し遠い。 それに、今回ばかりは向こうから手を出させたい。 だったら、おれの方から近付いていくしかないな。 震えは……よし、止まってる。 前に出るぞ。 摺り足でミリ単位で前に――。 キックだ。 ミドルキックが脇腹に当たるぞ。 ……来ねえか。 前に……。 こめかみがむずむずするな……汗の雫が伝っているのか。 パンチだ。 ジャブで顔を撫でられるぞ。 ストレートなら打ち抜ける。 ……来ねえか。 と、いってもな、もうこれ以上前に出たら組み付くしかないぞ。 客もブーブー騒いでるな。 そりゃそうだ。お互いの距離、僅か5,60センチで睨み合ってるんだから。 しかも、体勢を低くして組み合っていくような感じじゃない。少しだけ背を曲げて、拳 は顔の下半分辺り。 つまり、打ち合いに行く体勢だ。 しかし、距離は完全に打ち合うようなものじゃない。 総合格闘ではこの距離は既にバカスカ打ち合っているか、どちらかがタックルに行って 仕掛けられた方が倒されるにしろタックルを潰して上に覆い被さるにしても闘いはグラウ ンドへと移行しているはずなのだ。 この距離でこの構えで、しかもどっちも一発のパンチも出していない。 考えてみりゃおかしな状況だ。 絶対先に手を出さねえ、と思いながらどんどん近付いていったらこうなっちまったんだ よな。 んで、耕一さんは……全然動く気配が無いな。 ついでに隙も無え。 あ、ちょっと笑った。 この状況、楽しんでるんじゃねえのか? おれは、これっぽっちも楽しくないぞ。 おっ、気配が変わったぞ。 見た目には全く動いていない。それでもなんか動きそうだというのがわかる。 もしかしたら、動くか。 よし、こっちはそれを待ちに待っていたんだ。 動いたら、それに合わせて仕掛ける。 動け。 耕一さんがすうっと……下がった。 下がる!? この期に及んでそりゃねえよ。 と、思ったら少し下がってすぐに前に出てきたぞ。 軽いフェイントだな、そうこなくっちゃ。 左でジャブを打ってくるような姿勢になってるな。 打ってくるかな? 顔面をガードして――。 来た! ホントにジャブか!? にしては強すぎるぞ。 右腕が痺れた。 骨を直接叩かれたみたいな震動だ。 もう一発、同じところに来た。 痛え。 もう一発。 んで、また一発。 まさか、とは思うけどよ。この人、まさか、このままおれの右腕破壊するつもりじゃな いだろうな。 まさかな……。 痺れなんてのはしばらくすりゃ無くなるし、急所以外へのちょっとした打撲程度の痛み は試合中は気にもならないもんだ。 でも……そのまさかがもしかしたら実現しちまうような気がするからこの人は怖いんだ よ。 連続して左ジャブを打ってくる。 接近して中に入ろうにも、ジャブだから向こうの重心が前に出てない。組み付いても倒 せないだろうし、それ以前に、右で迎撃される恐れありだ。 左半身をほとんど直角に近い角度でおれに向けて左ジャブを打ってくるのは、たぶん、 下手にこっちが突っ込んだら腰の回転に乗せた右でカウンターを喰わそうというのだろう。 そうはいかねえ、とはいうものの、このままじゃやばいな。 どこかで反撃をしないと……。 素早く間断なく繰り出されてくるこのジャブの連打の間になんとか隙間を見つけて……。 とにかく、反撃だ。 反撃するんだ。 一発でいいから反撃を――。 リズムを掴め。 このジャブのリズムをだ。 まるっきり一定のリズムで打ってくるなんていうことはないだろうけど、それでも、あ る程度は読める。 そろそろ来るってとこで前に出てやった。 右腕に走る衝撃が弱い。 やった。殺した。 ジャブが充分な威力を持つ前にこっちから当てて殺してやった。 よし、そのままその右でストレートだ。 ようやくこっちから攻撃ができる。 そう思ったら、押し潰されそうになっていた心が一気に解放されたみたいないい気分だ。 最高の気分だ。 心が解放された。 ずっと攻撃を受け続けて押し潰されそうだった心が――。 ちょっと待て。 なんだそりゃ、それが理由か。 この右ストレートのわけはそれか!? とにかく反撃をと願っていたのも結局、それか!? そうか。 怖くてたまらなかったんだな、この人がよ。 心が押し潰されそうで、それが怖くて、反撃したかっただけなんだ。 その証拠に、今おれが打っている右ストレート、すっげえ大振りだ。 怖いから、大振りなんだな。 こんな大振りなの疲れてもいない相手に当たらねえよ。 押し潰されそうだった心を解放したかったから、大振りなんだな。 当たらねえよ。 並の相手にだってこんなの当たりっこねえ。 ましてや、相手は耕一さんだぜ。 ほれ見ろ、伸び切った右拳の先にはなんにも無え。 おれがビビって打った大振りの右ストレートがどういうふうに伸びてくるかなんてのは とっくにわかっているってことかよ。 掻い潜って、思い切り懐に入られた。……やべえな。 とんでもねえ馬鹿だ。 もちろん、おれがだ。 以前に闘った時のことを少しでも思い出せる心理的余裕があったら、こうも馬鹿な真似 はしなかったはずだ。 剥き出しの闘気は忌むべし。 あの人が学んでいる伍津流の心得だってさ。 そいつをほぼ忠実に実行している耕一さんは攻撃してくる前の一瞬にだけ、闘気ってい うのか? いや、それ以外にいいようが無いもんを出す。 耕一さんにいわせるとおれなんかは全身から溢れさせながら向かってくるらしい。 さっきの左ジャブ、確かに強かったけど、それが無かったもんな。 それがわかってりゃ、一人で勝手にああもビビってあんな不用意な攻撃には出なかった んだろうが。 「いっ!」 思わず、情けない声が漏れちまったよ。 一瞬だけだけど、下から来たんだよ。 闘気ってやつが――。 掌底で顎を突き上げた。 右ストレートを掻い潜って接近し、その右腕を左肩の上に担ぐようにして左手で浩之の 肩を掴み、右の掌底で顎を突き上げた。 打ち抜いたわけではないが、それほど軽く打ったわけでもない。 浩之の顔が天を仰いで隆起した喉仏が晒される。 そこへ耕一の右腕が入った。 下から肘を突き上げるようにして入れていった。 耕一の右足が浩之の右足を後ろから、思い切り刈った。 上半身を左に巻き込むように刈った。 柔道でいう大外刈り、乃至は大外巻き込みと原理は等しく、その変形版といったところ だ。 浩之は当然受け身を取ろうとした。 下が板敷きやコンクリート、アスファルトなどよりも比較的柔らかいマットとはいって も頭を強打するのはまずい。 顎を引こうとして異物感を感じる。 この邪魔なの、この人の右腕か! 畜生。 声は出ずに、口がそういった形に動いていた。 選手控え室のモニターに、その試合の映像は流れていた。 男は、シャワー上がりで濡れた髪の毛をバスタオルで拭いながらそれを見ていた。 試合の後、色々とこれからのことを考えてついつい長い時間シャワーを浴びすぎて逆上 せてしまった。 出た結論は一つ。 エクストリーム二回戦敗退という非常に不満の残る戦績を引っさげてプロになる。 無名の相手に一本負けしてしまったこの戦績を持ってプロに殴り込む。 「なあに……」 それをあまり気に病むことも無かった。 この大会が終わった頃には、あいつは無名じゃなくなっているはずだ。 そうなれば、自分の評価だって地に落ちるというわけでもないだろう。 後は、実際に試合をして勝っていけばいい、彼にはその自信があった。 あいつ、まだ高校生だっていうが、将来的にプロになる気はあるのかな。だとしたら、 是非とももう一回やってみたい。 藤田浩之。 若くて、荒削りで、そのくせ妙に粘りのある男だった。 ゴングが鳴ったのはその時だった。 あいつの相手は柏木耕一。 こっちもこっちでどうやら只者ではない。 「勝てないにしても、無様に負けんでくれよ」 彼は願った。 契約金とか、その他にも色々と影響してくるのだ。 それはそのまま、そう遠くもない将来会いに行く恋人の両親の心証にも影響するのだ。 「頼むぜぇ」 開始一分後、藤田浩之はほとんど何もできないままに投げ倒された。 「……」 ジャブの連打を貰って、大振りの右ストレートを打って、すぐに投げられてしまった。 「……わかってんのか、あのガキ!」 加納久、二十五歳。 一瞬だけ頭を抱えた後、すぐに立ち上がった。 「堅くなってるな……」 まさかあそこであんな大振りのパンチを打っていくとは思わなかった。 あれほどのレベルの選手に、試合序盤でのあの不用意な大振りパンチは反撃してくださ いといっているようなものだ。 巻き込んで足を刈る投げを喰らって、そのまま袈裟固め、そこから横四方固め――サイ ドポジション――か、隙あらば腕拉ぎ逆十字固めも狙っているはず。 袈裟固めにしても、それでギブアップを容易に奪えるような技ではないが、強引に首を 極められれば苦しいのは確かだ。 まさか、このまま終わるのか? あの藤田浩之が、大振りのパンチを一発打っただけで終わるのか? 不思議なことではない。 どんなに素晴らしい素質を持っていても、負ける時はあっさりと負けてしまう、そんな ことは珍しいことではない。 藤田浩之。 若く、自分などとは比較もできぬぐらいに素質のある男だ。 若さと素質。 その両輪が生み出すのは可能性だ。 あの藤田浩之は、目が眩むような、羨ましいほどの可能性に満ちている。 その彼がここで、このまま終わるか。 そういうこともあろう。 そうなるのが当然といっていいのかもしれない。 格闘技の経験がそれほど無い上に、まだ若い。 "これまで"よりも"これから"の方が多い人間だ。 しかも、自分とは違って、多大な可能性を含んだ"これから"だ。 ここで負けても、また次がある。 むしろ、彼は敗北を次なる跳躍のバネにできる人間だと思う。 だが、こんな不完全燃焼といっていい形での負けは無念に違いない。 先程、完全燃焼した試合を終えた自分にはわかる。不完全燃焼のまま負けるのは嫌だ、 と。特に彼はそういう傾向が強いのではないか。 それを、彼は一階席の一番後ろから見ていた。 先程までの試合は医務室にあったモニターで見ていたのだが、医師の許可を貰えたので、 浩之の試合が始まる直前ここまでやってきた。 例えば、この時、彼が自分の部屋でこの試合を見ていたとしたら、残念だと思いながら も、あっさりと負けることもある、まだまだこれからがある、と納得して試合の行く末を 見守っていただろう。 だが、その時、彼はそこにいた。 敗退したとはいえ出場選手なのだから、一般客は入場できない選手用通路に入ることが でき、試合場のすぐ側にまで行くことができる。 ならば、行くべきだ。 あの藤田浩之がらしくもなく堅くなって、苦戦をしていて、そして、彼は自分が少し歩 けば行くところにいるのだ。 行くべきだ。 行って何ができるか? そのようなことを思う間も無かった。 既に足が動いていた。 思い当たった時には、もう試合場は近かった。 ここまで来たら、行くしかないではないか。 なんだ。結局、色々と屁理屈をこねてでも行きたいんじゃないか。 急ぎ足で歩いて行く。 前だけを見ていて、横に気を配るゆとりすら無かった。 肩が、擦れるように何かに当たった。 「あ、失礼」 そういった先に、見覚えのある顔があった。 「あんたは……」 「お前は……」 いいながらも、二人とも同じ方向へ向けて足を動かし続けている。 「加納久……」 「確か……都築だな……」 それだけいって、どこに何をしに行くともいわずに、同じ場所を目指して歩く。 袈裟固めをかけられていたが、それで済んで良かった、と思うべきであろう。 腕で顎を上げさせられて満足な受け身が取れず、後頭部を打った際に、耕一は隙あらば そのまま決めようとしていたのだ。 二人とも、その体勢のまま固まったように動かない。双方の位置関係からして、耕一が 攻めあぐねていたといっていい。 浩之は、じりじりと待った。 不利な体勢のまま待つのは精神を削る苦しい作業だったが、それでも下手に動けばさら に不利になる。 袈裟固めで一気に極めるのは難しい。下手な動きをせずにじっと耐えていれば、必ず向 こうが次の段階へ進もうと動く。 この状態のまま全く動かない相手もいようが、耕一に限ってはそれは無いだろうと浩之 は踏んだ。 長時間、じっと動かない状態が続いた後、耕一が仕掛けた。 体を返して、腕ひしぎ逆十字固めを極めに行こうとしたところ、浩之がそれを読んでい たとしか思えない動きで外しに来た。 耕一の動きに合わせるように身を起こして上になる。 だが、それでも下からの腕ひしぎを耕一は狙った。 浩之は狙われた右腕を引き抜くとともに後退する。 「ほう……」 奇しくも、師弟のそれぞれの口から同時に洩れていた。 柏木耕一と伍津双英。 耕一は身をもって、そして双英は間近で見ていて悟った。 袈裟固めをかけられて、脱出の機会を待っている間、浩之が絶妙にある時は力を入れ、 ある時はまた抜き、耕一の仕掛けを誘い、それに合わせるようにまんまと技を外してしま ったのことを看破したのだ。 「若いわりには……」 抜け目の無い駆け引きをする。 藤田浩之。 無名であるし、一回戦二回戦と苦戦を続け、さらには耕一に以前道場で立ち会って勝利 したと聞いていて、怖い相手ではないだろうと思っていたのだが……。 「これは……案外と手強いか……」 立ち上がった耕一が微笑む。 やるじゃないか。 その笑みがそういっていた。 確実に、以前やった時よりも強くなっている。 だが、それを誇るような素振りは浩之には無かった。 それだけの余裕が無かった。 見事な抜け方であったが、反面、それだけであらゆるエネルギーが尽きたように思った。 むろん、それは錯覚だ。実際には浩之の体にはその若さと日頃の鍛錬に見合うだけの力 が満ちている。 だが、精神の衰弱が激しい。 勝てねえ。 際限も無く、沸き立つ。 ただの左ジャブの連打で隙だらけの攻撃を誘われた。 やっぱり、あの人には勝てねえんじゃねえのか。 際限が無い。 勝てない。 勝てないのならば、どうすれば勝てるのか? それを考えるゆとりすら無かった。 いや、今の精神状態でそれを考えようとしてもすぐさま「どうやっても勝てない」とい う結論が出るだけだ。 勝ちたい。 負けたくない。 それだけでここまでやってきた。 その原動力が「勝てない」と思っただけで根こそぎ消失したかのような感じがする。 ここで「それでも勝たねばならない」と思うことができなかった。 それだけのものが無い。 なんだ。 ここまで薄っぺらかったのか!? おれの"理由"はこの程度でこうも脆く――。 おれは一体……。 なんのために闘っているんだ。 勝ちたいから。 負けたくないから。 それでいいと思っていたし、今までだってそれでよかった。 だけど、この相手は……この人は、それじゃ駄目だ。 足りない。 おれ一人の意志の力じゃ支えきれない。 「いかん……」 英二が歩き出す。 理奈はこの試合の前に自分の席に帰っていったので今は一人だ。 一人で、選手通用口の付近で観戦していた。 「いかん……」 また、呟いた。 浩之の心が折れる。 いけない。 あの悔しさを、浩之には……。 英二の視線の先で浩之が舞う。 「……まだ間に合う」 右のストレートだ。 試合再開後の立ち上がり、左ジャブの連打に怖気づいて後方に退いた瞬間を狙い撃ちに された。 思い切り踏み込んで右だ。 ダウンだ。 勝てないのか。 なんとか身を起こす。 視界に、葵と雅史をおさめる。 それとは別に見覚えのある顔と顔。 ……誰だっけか、こいつらは? 誰でもいい。 葵ちゃんでも、雅史でも、この二人でもいい。 誰でもいい。 誰でもいいから、おれに闘う理由をくれ。 第96話 打ち方 立ち上がろうとしていた。 立ち上がりながら、その顔が誰であるかを思い出した。 確か、都築克彦……一回戦で闘った相手だ。 カウンターが上手い、という以外はこれといったところの無い相手だったが、しぶとさ でいったら今まで闘ってきた人間の中でもトップクラスだ。 そしてその横、確か、加納久……二回戦で闘った相手だ。 優れたボクシング技術を持ち、柔道仕込みの組技と寝技が上手い奴だった。 「藤田! お前わかってんのか!」 加納がバンバンと試合場の隅を両手で叩いている。 「お前がここで無様に負けたらおれの評価がさらに下がるんだぞ!」 そうか、こいつはそういうの気にする奴だったな。プロになって格闘史に名を残すとか いってやがった。 「藤田」 それほど大きくはないが、はっきりとした声でいったのは都築であった。 「おれの分まで、なんていわないが……納得いくようにな」 その時、カウントエイト。 「ああ……」 浩之は立ち上がった。 「藤田くん」 英二が、都築と加納の背後に姿を見せていた。 「結局、最終的には自分だぞ」 奇妙なほどに穏やかな顔をしていた。 「どんなに闘う理由があっても、結局『ここでいいや』と思うのは自分だぞ」 穏やかな顔のままいった。 「辛い時にも『まだやってやる』と思うのは自分だぞ」 「……」 浩之は黙って英二を見ている。 「自分だ」 英二の目が一瞬だけ吊り上がった。 「そこには色々なものを持っていけるが、入れるのは自分だけだ」 また、穏やかな顔に戻っていた。 「はい」 少し、頭を下げた。 誰に対して下げたのか、下げた時にはよくわからなかった。 背を向けて、試合場の中央に向かいながら、なんとなくわかる。 あそこにいた人、全てだ。 葵、雅史、英二、都築、加納。 あそこにいた人間、全てに対して、思わず頭を下げていた。 自分をこの道へと誘い、基礎を教えてくれた葵。 自らにも道がありながら、色々とサポートしてくれた雅史。 闘う理由をくれた都築、加納。 「結局自分だ」といった英二。 色々な人に色々なものを貰った。 色々な人に色々なものを貰ってここにいる。 貰った色々なものを駆使してここまでやってきた。 だが、この場所に入れるのは自分一人。 「すんません」 浩之がレフリーと耕一に頭を下げる。 浩之は、立ち上がった後に試合場の隅でセコンドその他と話している浩之を咎めようと したレフリーを耕一が制していたことに気付いていた。 葵に教えてもらった技術も精神も――。 雅史が自分の時間を削ってまでサポート役をしてくれたことも――。 都築と加納がくれた闘う理由も――。 英二が教えてくれたことも――。 生かすも殺すも、自分次第だ。 闘う理由が、プレッシャーになるかバネになるかも自分次第だ。 自分だ。 中央線に戻り、耕一と向かい合った。 レフリーが腕を振り、試合再開を促す。 耕一が近付いてくるのに恐れは無かった。 耕一に近付いていくのに恐れは無かった。 強烈なジャブも怖くは無かった。 打ち返したストレートは大振りではなかった。 ようやく――。 ようやく、スタート地点に立てた。 結局、自分さ。 耕一は思う。 師匠もいっていた。最後は自分以外に頼るものは無い、と。 格闘技をやって、良かったと思っている。 肉体を苛めることをやって、良かったと思っている。 体を鍛えていて苦しい時、何度反復練習をしても技が身につかなくて辛い時、そこで諦 めるか否かの決断をするのは自分だった。 しかし、思えば、全部自分だったのだ。 親父を好きだったのも自分で、親父を恨んだのも自分で、親父を許したのも自分で――。 厄介極まりない"血"を持っているのも自分だ。 伯父さんは、自分で死んだのだ。 千鶴さんたちのことを思って、死んだのだ。 伯母さんは、自分で死んだのだ。 伯父さんと一緒に死んだのだ。 後を託された親父もまた、自分で死んだのだ。 千鶴さんたちのことを思って、死んだのだ。 その後を託されたのがおれだ。 柏木耕一だ。 おれは、自分で死ぬ運命から免れた。 だから、生きてやる。 この血のせいで死なざるを得なかった人たちに代わって生きる。 初めは動揺した。 理不尽だと思った。 なんで、おれだけがこんな血を持って、苦労しなければならないのだ。 だが、結局、自分だ。 それを全てひっくるめて柏木耕一なのだ。 この試合場というのはいい。 自分を試す格好の場所だ。 ここは、耕一の闘いの一貫でしかない。 あの血のことを知ってから、耕一の人生は常に闘いだった。 自分が自分であるための闘いだった。 背中にのしかかる。 闘う理由がだ。 それは、重量と同時に温度を持っていた。 ずっしりとした、熱いものが背中に貼り付いたように乗っている気がする。 ここで負けたらどうなる。 善戦できればまだいい、無様に手も足も出ずに負けたらどうなるか。 藤田浩之は弱い、といわれるかもしれない。 それはいい。 それはかまわない。 実際、自分はまだ未熟だ。そういわれるのはかまわない。 だが、それだけで済まないかもしれない。藤田浩之が弱い、といわれるだけでなく、そ の藤田浩之に負けた都築克彦、加納久も弱いのだといわれるかもしれない。 冗談じゃない。 強い奴らだった。 加納は素晴らしい技術を持った選手だったし、技術という点でいえば遥かに劣るが、都 築は凄まじい勝利への執念を持った選手だった。 加納の技術にも、都築の執念にも、戦慄を覚えた。 すごい奴らだった。 そいつらが、弱いといわれるのは浩之には耐えられなかった。 負けるよりも、それは辛いことだった。 背中に乗ったそれは、重い。 重いが、のしかかっているだけではなく、それは背中を押してくれた。 不安は、確かにあった。 浩之も試合開始直後よりもだいぶマシになったとはいえ、やはり耕一は強い。 立ち上がってから、ほとんど攻撃を貰ってはいないが、浩之の攻撃もまた突風を受け流 す柳のような体さばきと鉄壁の防御の前にクリーンヒットを許されていない。 それに、耕一は際立ったハードパンチャーというわけではないが、たたみ込むような間 断無い攻撃を送り込んでこれる選手だけに、一発のクリーンヒットがすぐさま敗北に直結 する恐れは十分にある。 まだ、油断はできない。 まだ、無様をさらす可能性が無くなったわけではないのだ。 負けたら、自分だけではなく、それ以外のものまで貶められるかもしれないのだ。 おれ一人の闘いじゃない。 それが浩之を駆り立てるとともに、不安の元でもあった。 嫌かと問われれば、はっきりいって嫌だ。 その背に乗っているものを投げ出せるものなら投げ出すのもいいかもしれない。 そんなの関係無いよ、と。 おれ個人の個人的な闘いなんだから関係無いよ、と思えれば楽であった。 楽ではあるが、とっくのとうに耕一の猛攻を喰って別の意味で楽になっていたかもしれ ない。 重いし、それを背負っているととても不安だ。 だが、やっぱり投げ出したくは無かった。 それを背に乗せて闘うのは、苦しいだけではなかった。 自分がそういう立場で闘うことが、嫌というばかりではなかった。 不安の元だが、それはそれだけではなかった。 それは、不安の元でありながら、一見それとは別のものの源泉でもあった。 背中に乗っているものがある。 重い。 だが、悪い気分じゃない。 背負って重いが、背負って潰されていないということは、おれもそれに耐え得るぐらい のもんだってことだ。 それを含めても悪くないよな。 「おう!」 重く速い蹴りを受けながら、浩之の口から洩れていた。 不安ともう一つのものが、浩之の唇を笑みの形に曲げる。 それは、恍惚であった。 恍惚も不安も浩之の中にあった。 二つとも、同じところから生まれてきていた。 「あっ!」 初音が目を伏せる。 「大丈夫! 当たってない当たってない!」 そういいながら、梓が手を初音の肩に置く。 「お兄ちゃん、大丈夫だよね」 「ああ、耕一の奴すごいよ、紙一重でかわしてる」 「それじゃ、大丈夫だね」 「大丈夫大丈夫、なっ」 と、右隣に座っているもう一人の妹に声をかける。 「うん」 楓は頷いた。 落ち着いている。 梓は、今日、楓が動揺するのを二度感じた。 一回戦、耕一が中條辰に急角度のバックドロップを喰らった時と、二回戦、緒方英二の パンチが立て続けに耕一の顔面を捕らえた時、この二回だけだ。 今、楓は動揺していない。 一回戦や二回戦ほどの危機にはまだなっていないということだ。大丈夫だろう。 梓は、楓のこういう勘のようなものには信頼を置いている。 「全然当たらないね」 声はまだ落ち着いているが、そういった雅史の表情は彼らしくもなく焦りの色が濃かっ た。 「いえ、いいパンチですよ」 葵が、声を励ましていう。 雅史は浩之のことをよく知り、さらには献身的なところもあり、サポート役としては十 分の資質を備えていたが、セコンドとしては、どうしても格闘技に対する造詣が浅いとい う欠点があった。 だから、浩之が繰り出す攻撃のことごとくがかわされるのを見ていると、段々と不安に もなってくる。 その部分は自分の役目だ、と葵は思っている。 「先輩、いいパンチを打ってますよ」 「確かにな」 と、いったのは加納久だ。 柔道家から総合格闘に転じるためにボクシングを習ったこの男は、出稽古先のジムで、 もう少し若ければ(当時、加納は二十三歳)プロボクサーになってやっていけたといわれ たことがある。 その加納の目から見ても見事なパンチであった。 空を切っている理由はいうまでもなく、相手の耕一もまた只者ではないからである。 忌々しいが、自分なら何発か喰らっているかもしれない。 だが、試合開始直後よりはだいぶいい感じだ。 「シッ!」 歯と歯の間を掻い潜るように出た吐気が音を出す。 ダウンから立ち上がって、体がスムーズに動くことを実感していた。 それまでが各所に錆の生じた機械であるとすれば、今は油をさしたようだ。 いいパンチが打てている。 そう思う。 しかし、当たらない。 いいパンチだと我ながら思っている。 が、当たらない。 ジャブからストレート。 直線の動きで耕一を捕らえようとするが当たらない。 ジャブは間合いを外して、ストレートは手で弾いてかわされてしまう。 第1ラウンド、四分経過。 ここで、浩之は休んだ。 明らかに、打ち疲れだ。下手をすると軽くジャブを貰うダメージよりもパンチが空振り した時の疲労の方が辛いものだ。 だが、体を休めつつも気は抜かない。 抜けばやられる。 案の定、浩之の攻撃が止んだのを見澄まして耕一が出てきた。 浩之は体力と、それよりも気力を振り絞って反撃した。 ここで下手に防御に回れば、そのまま回りっぱなしになって一度も攻勢の機会を与えら れずに潰されると恐れたからだ。 耕一の突進にはそれほどの威圧感があった。 カウンターを狙って拳を突き出すが、当たらない。 読まれたか。 そう思い、思うと同時に次の攻撃を送り込む。 ジャブ、ジャブ、ストレート。 もう自分はどのぐらいのパンチを打っただろうか。 十発……二十発……三十発、いや、もっとか。 一発も狙ったところへ当たらない。 おかしいぞ。 おかしい。 いくらこの人がすごいっていっても、これだけ打ち込んでるんだぜ。一発も当たらない なんてことがあるか? ってことは、おれはこれでいいと思ってたけど、知らず知らずの内にパンチの打ち方を 間違っていたのか? す、少し打ち方変えてみるか。 ほら、これならどうだ。……やっぱり当たらねえか。 それじゃあ、これなら……。 「?……」 それに一番最初に気付いたのはやはり、一時期、浩之と一緒に練習したことがあり、そ もそも格闘技の基礎を彼に教えた葵であった。 それに僅かに遅れて都築が気づいたが、それでもすぐに確信を持てたわけではない。 「……パンチの打ち方が……少し変わったか?」 誰にいうともなく問い掛けるような口調が、都築の迷いを現していた。 「変わりました」 断言したのは無論、葵。 「でも……」 悪くなってるじゃないか、という言葉を都築は心中で呟いた。 「悪くなっています」 断言したのはやはり、葵。 「腰が、入ってません」 「そう……だよな」 自分のように非才な者から見てもそれとわかるというのに、一体どうしてあの藤田浩之 があんなへっぴり腰でパンチを打っているのだろうか。 羨ましいぐらいの才能を持った男だ。 それは、隣に立っている加納久もそうなのだが、加納には子供のころから柔道をやって いたという実績がある。その加納を格闘技を始めてから一年たらずで倒したというふざけ た男があの藤田浩之だ。 色んなジムや道場に出稽古に行くことにより都築は凡才が遠く及ばぬ才能というものの 存在は嫌というほど知っている。 自分が何度も何度も練習してようやく得た動きや技をほんの数度、ひどい奴になると人 がやっているのを見ただけでマスターしてしまう。 そういう人間が少数ながら、確実に世に存在する。 藤田浩之もどちらかといえばそちらに属する人間だ。 そういう浩之がなぜだろうか。 何か考えがあってしていることであろうか。 だが、そうは思えない。 だとすれば、悩んだ末に、迷った末に出した結論があれだろうか。 天才の迷い、という話を都築は思い出す。 以前、出稽古先の師範代から聞いた話だ。なんでもない動きをマスターするのに長時間 を要して、自らの非才を嘆いた都築に彼はいった。 「しかし……ほとんど練習もせずに得たものって……いざとなったら弱かったりするらし いよ」 その師範代は「自分も非才な身だから自分の体験じゃないんだけど」と前置きして、彼 がかつて出会った格闘家についての話をした。 全身に才能が詰まっているような男で、その師範代の同期だったらしいのだが、ある大 会に出て決勝戦で敗れてしまった。 追い詰めたものの、逆転されてしまったのだ。 試合後の控え室でどうにも納得できなくて問い質した。 どう見ても最後の最後の詰めが甘かったというか、もう少しだというところで動きがお かしくなってしまい、そこに付け込まれたように見えたのだ。 「何やっても倒れないんで、迷った」 それが答えだった。 確かに、相当にしぶとい相手だったが……彼ほどの才能のある男がそんなことで迷うも のなのか。 「これじゃいけないんじゃないか……そんなことを考えてたらいいのを貰ってた」 男は悔しがる以前に呆然としていたという。 「天才は技を修得するのに苦しみが無い」 師範代はそういっていた。 非才を嘆き、実際に非才であった都築を励ますためにその話をしたのであろうが、今、 思い当たることがある。 ロクに練習もせずに得た技は、いざ通用しない相手が現れた場合に脆いのではないだろ うか。 凡人は練習をする。 一つの、天才から見ればくだらない技を得るのにも歯を食い縛る。 そこに苦しみがある。 自分は駄目な奴だという悲しみがある。 修得したものは、その上に乗る。 土台に、苦しみがある。 土台に、悲しみがある。 嫌なことは覚えているものだ。 喜びと同程度の鮮烈さで、苦しさも悲しさも記憶に刻み込まれる。 迷った時、その迷いを断つのは苦しんできた量だ。 天才にはそれが無い。 下手をすると、得た時の喜びすらない。 迷った時、その迷いを断てるだけのものが無い。 いっそ、自分が一番強い、自分のなすことは全て正しい、と思えるような独善的なもの がある方が救われる。そういう人間は迷わないからだ。 だが、浩之はそこまで傲岸不遜な人間ではない。 藤田――。 藤田、さっきのでいいんだ。 藤田、自分を信じろ。 そういってやりたかった。 もう少しで、第1ラウンドが終わる。 浩之がもしラウンド終了のゴングを聞いて帰ってくるところができたら、いってやろう。 だが、その都築の視線の先で浩之の体が右足を軸にして回転していた。 巻き込んで、片足立ちになったところを足を払う。払い腰に似た形で浩之が投げられて いた。 残り、二十秒。 「先輩、落ち着いて!」 葵の叫びが消えぬ内に、浩之は背後を取られた。 スリーパーホールド(裸絞め)が来る。 手を入れて防ぐ、と、その手を狙って腕ひしぎ逆十字固め。 投げられてしまった理由は明白。下手なパンチを打ったために浅いとはいえカウンター を貰って懐に入られてしまったのだ。 残り、十秒。 耐えられる。 危ない状態ではあるが、後十秒では極められまい。 腕ひしぎを両手のクラッチで防いだ時、ゴングが鳴った。 浩之が両肩を落として帰ってくる。 「先輩、どうしたんですか? 最後の方、動きがよくありませんでしたよ」 葵が心配そうに尋ねる。 「葵ちゃん」 浩之がいった。 情けない顔をしていた。 「わからないよ」 情けない顔のままいった。 やはり……。 都築は、当たって欲しくなかった予感が的中したことを嘆くよりも、これほどの男が、 こんな顔をしているのを見て悲しくなった。 「葵ちゃん……パンチ……」 浩之が試合場の隅にへたり込むように座りながら呟いた。 「パンチ……パンチの打ち方、わかんなくなっちまったよ……」 続く