第97話 強さ

 会場から低いどよめきが上がり、次いでそれは歓声に変わる。
 第1ラウンドと第2ラウンドの間のインターバルでのことであった。
 一分間のインターバルをまだ三十秒残している時に、藤田浩之が試合場の隅で頻りにパ
ンチを打ち始めたのだ。
 それを見て、観客は浩之が試合再開を待ちきれずにそのエネルギーと闘争心を持て余し
てシャドーを始めたのだと思って歓声を送ったのである。
 だが、それは浩之の耳には全く入ってはいなかった。
「どうかな? 葵ちゃん」
 不安そうに尋ねる。
「いいですよ、第2ラウンド、その調子で行ってください」
「そ、そうかな」
 試合再開が十秒前に迫った。
 耕一が、中央に出てくる。
 第1ラウンド終盤に感じた突然のパンチの稚拙化も、あれは浩之に疲労が溜まったせい
だったのだろう、と思った。
 それが、僅か三十秒休んだだけで体力を取り戻し、闘争心が疲労を完全に駆逐したのだ
ろう、と。
 よし、第1ラウンドは少し様子を見過ぎた。次のラウンドはいきなり攻めてやるかな。
 以前闘った頃とどのようなところに変化があるのかを見たくて自分から積極的に攻めて
行くのを無意識の内に控えていたところがある。
 確実に上達している。
 だが、それを観察する余裕が耕一にはある。
 以前闘って勝った、という事実が耕一の自信に根を張っていた。
 そのことが侮りになり、油断になれば耕一の敗北を呼ぶであろうが、それに類するもの
は無く、いい意味での余裕が耕一にはある。
 第2ラウンド開始の時間、耕一は既に中央線へと立っていた。
 レフリーが、腕を振っている浩之を中央線へと促す。
「先輩! 今までやったことを思い出して!」
 背中に、葵の声が当たった。
 そして、第2ラウンド。

 今までやったこととはなんであろうか。
 練習。
 汗でずぶ濡れになるような練習をやった。
 だが、思えば練習でギリギリまで苦しんだことはあっただろうか。
 パンチもキックも、グラウンドでのポジション取りも関節技も、練習していればすんな
りと身についた。
 素質がある。と、葵が誉めてくれた。
 その眼に、自分を上回る天与の才への羨望と尊敬があった。
 僅かとはいえ、嫉妬すら混じっていたかもしれない。
 誉められれば悪い気はしない。
 すんなりと技が身につくことをいつしかそれほどには特別だとは思わなくなっていた。
 より高度な技、動きを習得しようとする時、その事前に不安は確かにあった。
 今度こそ、そうそう簡単には身につかないのではないか……。
 今度こそ、高い壁にぶつかるのではないか……。
 だが、思っていたよりもずっと楽にスムーズに自分の体は動き、干上がった地面に水を
垂らしたように自然と苦も無く吸収していく。
 それが楽しいのと、勝つのが嬉しくて格闘技をやっていたようなものだ。
 それは、確かにコンプレックスであった。
 才能が無い者がある者に抱くそれではない。
 この時の浩之が持ったそれは、特に決まった対象を持ったものではなかった。
 ただ、練習で限界まで苦しんだことが無かったというだけのことが、今は巨大なコンプ
レックスになっていた。
 それは錯覚であろう。
 必ずしも苦しみの量と強さ、正しさは比例しない。
 だが、錯覚も錯誤も一人の人間の精神を覆うには十分なだけの代物なのである。
 自然と浩之の思索は記憶の中より苦しかったことを探し出し、くみ出す作業を行ってい
た。
 空手部の連中に負けた時、あれは辛かった。
 あの時の自分ならば、迷いなどは受け付けぬ精神状態をしていたはずだ。
 だが、お返しに殴って蹴って極め倒したりしている内にその恨みも薄れていった。それ
にこういっては連中には悪いが、それほど強い感情を抱き続けるほどの相手でもない。
 格闘技をやってきて、闘ってきて、苦しかったことがもう一つある。
 いうまでもない、耕一に与えられた敗北だ。
 あれは苦しかった。
 あれは辛かった。
 こいつをいつかぶちのめしてやると思った。
 だが、それも今は無い。
 勝ちたいとは思うが、ぶちのめしてやろうとかいう気にならない。
 この柏木耕一という男をよく知ってしまったからだ。
 相手を完膚無きまでに叩き潰そうという強烈な感情が無い。
 それが無くてはどうにもならない。
 この後、修練を積み、刻々とその人格と思想が変化していけばどうなるかはわからない
が、現時点では、藤田浩之という男は闘いの原動力に強烈な感情を必要とする。
 相手をぶちのめしたい。というストレートな欲求はそれに最も適したものなのに、それ
が沸いてこない。
 相手を倒したいという焦がれるような感情も持たず。
 自分の力にも技にも信用が置けない。
 勝てる要素がまるで無い。
 始まる前はああでもないこうでもないと勝つための方策を様々に思考していたというの
に、それをするのにすら気力が足りない。
 だが、それを肌に吸い付くように実感しているというのに負けたくないという思いだけ
はしぶとく残っている。
 ろくな闘いもせぬ内に耕一と、そしてなによりも自分に屈服しそうになっているのに、
最後に残ったちっぽけなプライドだけが痩せ我慢して孤塁を守っているようなものだ。
 試合、再開。
 とにかく、攻撃だ。
 パンチを打っていく。
 さっきまで打っていたパンチだ。
 葵が「それでいい」といったパンチだ。
 正直、自分でもまだ自信、確信が取り戻せないでいるのだが、葵がいうのだ。間違いな
かろう。
 葵は信用できる。
 だから、打った。
 自然と、体は動いた。
 さっきまで刻んでいたリズム。
 それに瞬間瞬間に小さなアレンジを加えながら体を動かす。
 それが少しでも一定化すると耕一ほどの相手には即座に読まれて行く先に罠を張られる
ように反撃を喰らう恐れがあるからだ。
「いいですよ! その調子です!」
 その声に引かれるように打つ。
 耕一の口の端に笑みが浮いた。
 浩之の動きに精彩が戻った、と見たのだ。
 だが、その内実はひどいものだ。
 葵が肯定してくれなければろくにパンチも打てない状態だったのだ。
 なんだ。
 おれはなんだ。
 少し前まで格闘家だ、なんて気取ってたおれの正体はなんだ?
 こんなのが格闘家と呼べるのかよ。
 セコンドに自分を肯定してもらわないと何もできないような人間を格闘家と呼べるのか
よ。
 色んな人に色んなものを貰ってここに来たよ。
 でも、これはそんな次元の問題じゃない。
 都築に、加納に、闘う理由を補強してもらったのとは次元の違う問題なんだ。
 自分を励ます声援に力が湧いた、とかそういうことじゃないんだ。
 葵ちゃんの言葉――誘導――が無いと闘えないような体たらくだぜ。
 葵ちゃんがいなかったら、おれは闘えない。
 おれは、なんだ。
 格闘家――。
 格闘技をする人間。
 それに変わりは無い。
 だったら、なんだ。
 格闘家――。
 どんな?
 どんな格闘家だ?
 ああ、そうか。
 格闘家であるか否かは問題じゃねえ。
 弱いってことだ。
 おれは確かに格闘家だが、どうしようもなく弱い種類の格闘家だってことだ。
 弱い。
 弱い。
 弱すぎるぞ。
 たかがこの程度で心を潰されそうになっているような奴は「強い」とはいえねえんだ。
 幾つかの野試合に勝って――。
 月島拓也との死闘を潜り抜けて――。
 都築克彦の執念を退けて――。
 加納久の技術を超えて――。
 おれは、おれが強いんだと思っちまってたよ。
 弱いのにな。
 本当は、こんな奴なのにな。
 弱い。
 こんな弱い奴見たことねえぞ。
 これなら、おれに負けた都築の方が「強い」ぞ。
 これなら、おれに負けた加納の方が「強い」ぞ。
 守勢から一転、耕一さんが打ってきた。
 強烈なストレートを受け止める。
 重くて速い、いいパンチだ。
 そして怖い。
 弱いからだ。
 弱いから、強い者を異常に恐れる。
 なんで、おれはこんな負け犬みたいな心で闘っているんだ。
 負け犬の方がまだ潔い。負けを認めて降参しちまうからな。
 おれは、心は負け犬のクセに体は虚勢を張っていやがる。
 なんで、おれはこんな惨めな心で闘っているんだ。
 前に、この人とやった時にはこんなことは無かったのに。
 前――。
 もうけっこう前だな。
 あの人が通っている、伍津という人の自宅にある道場だった。
 確か、英二さんもその場にいた。
 英二さんは自分が行く前に、既に道場にいて隅に座っていた。
 耕一さんは、道着姿で英二さんと何やら話していた。
「えっと……どちらさん?」
 気負いも何も無い様子で尋ねてきた。
「藤田浩之っていいます」
 刃物の輝きを帯びた眼で睨みつけながら答えた。
 そうだ。自分はあの時、刃だった。
「君はまるで抜き身の刀だな」
 英二に、そういわれ、それが理想だと答えた。
 そして、あの人はなんといったか……。
「刀なんてものは、使わない時には鞘にしまっておくものだ」
 と。
 それでも、抜き身の刀たらんという気持ちが無くなったわけではない。
 月島拓也――。
 こいつはまるで自分と斬り結ぶためにいたような男だ。
 人間の関節を断つために作られた刃物のような男だった。
 挑発してきた都築も斬り付けた。
 高度な技術を持つ加納も斬って捨てた。
 なのに、なぜか耕一にはその刃を向けられない。
 あれほど熱望し、渇望していた耕一との再戦なのに、どうしたことか。
 あの時の自分ならば――。
 抜き身の刀の自分ならば――。
 こんなことにはならなかった。
 その確信が浩之にはある。
 なんで、自分は抜き身の刀ではない。
 二度目だから、ではないだろう。
 拓也にも都築にも加納にも、二度目をやっても自分は刀になり、それで斬り付けていく
自信がある。
 やっぱり、耕一さんが特別なんだ。
 あれから、耕一さんのことをさらによく知るようになった、というのもあるのだろう。
 なかなかいい切れ味をしていると自分でも思っていた刀がナマクラになっちまった。
 あの時、自分は何を求めて闘っていたのか。
 一言でいえばピリピリとした、闘いの最中に身を置くことで得られる独特の感覚が欲し
かった。
 麻薬のように甘美な肌の表面がざわつくような感覚。
 今も、肌を刺すような痛みが無数に沸いている。
 違う。
 これはあの感覚じゃない。
 いや、あの感覚なのだが、それが痛みなのだ。
 これが、快楽でなければならないのだ。
 あの時の自分はそう感じることができたのだ。
 痛みを快楽に――。
 ナマクラを鋭利に――。
 弱さを強さに――。
 しなければ、負ける。
 また、負けるぞ。
 どうすればいい。
 この人を憎めばいいのか?
 餓えた狼のように噛み付いていけばいいのか?
 できねえよ。
 おれは、この人が好きなんだから。
 どうする。
 負けるぞ。
 また、負けるぞ。

 おや? と思ったのは試合再開からすぐだった。
 打ち込んできた浩之のパンチに彼本来のスピードとキレが蘇っていたのを見て取って心
躍らせたのも束の間、激しい違和感が貫いた。
 一発一発を見た場合、しなやかで力強い、いいパンチに見える。
 複数のそれで組まれたコンビネーションでも、二つ、三つ、ぐらいまではスムー
ズに技と技が繋がっているように見える。
 だが、それ以上となると首を傾げざるを得ない。
 そのぐらいのことならば以前闘った時も浩之はしてのけたのだ。
 流水のようだった攻撃が所々で不自然に、ぶつん、と途絶える瞬間がある。
 なんとなく、ぎこちないような感じがした。
 おかしい。
 もっと無理なく連続して技を繰り出せるはずだ。
 まだ、疲労が残っているのだろうか。それとも、すぐに疲労が溜まって身体の各所にね
ばつくように張り付いてしまったのだろうか。
 一発、打っていく。
 受け止められた。
 刹那、浩之の面上をかすめたものを耕一は見逃さなかった。
 何かの間違いではあるまいか、とは当然耕一も思った。
 だが、それは確かに怯えであった。
 何を怖がる。
 浩之、何が怖い。
 そもそも、この男がなんであれ、闘いの最中にそんな感情を抱くのか。
 こいつは、もっと、ギラギラしてて……。
 そうだ。抜き身の刀だ。
 その刃の輝きが無い。
 それを隠す術を身につけたのかと思ってもいたが、どうも、そうではない。
 一体、何事がこの男に起こった。
 試合開始直後にはそのような様子も、その予兆も全く見られなかったはずだ。
 なぜ、こんなに鈍った。
 あの時の鋭さは、光はどうした。
 なんだ。
 なんだか……。
 お前が、なんだかさ……オープンフィンガーグローブをつけて構えて、パンチを打ち込
んでくるお前にこんなこと思うのはおかしいんだろうけど……なんていうんだろうな。
 浩之。
 なんか……初めて立ち上がった赤ん坊みたいだぞ……。
 なんだか、殴りにくいな。
 こういうところが先生の友人って人がいっていたおれの弱さなんだろうな。

 夏の到来を控えた六月末日であったと記憶している。
 もう既に暑さは本格化の兆しを見せ始めて少し動けばすぐに肌に汗が浮くような気候に
なっていた。
 その日も、空気は真夏日かと思われるほど熱を持っていたが、時折吹く風が救いであっ
た。
 耕一が約束の時間にやってきて道場に鍵がかかっていたので、住居の方へ師匠の伍津双英を訪ね、連れ立って道場へとやってきた。
 鍵を開けた双英が先に入り、後に続いた耕一が後ろ手で建てつけの悪い扉を閉めようと
した時、
「今日は暑いが風がある。せっかくだから開けておけ」
 そういわれたので開け放したままでおいた。
 その後、基礎の練習を行った。
 腕立て伏せなどの筋力トレーニングもするが、この週に3,4回訪れる道場でやるそれ
は筋力増強よりも体を温めるためである。
 純粋に筋力をつけようとするためのそれは、何もここでやる必要は無いし、そういう類
のものは毎日のようにやってこそ成果があるので自宅アパートの駐車場や近くの公園など
でやっている。
 ここではそういったものよりも、実際に耕一が技を繰り出し、双英がそれに注意を与え
たり、若しくは双英がどこからともなく呼んでくる人間とスパーリングをしたりするとい
うものが主になる。
 時には双英が相手をする。
 少し前から歳には勝てん、といって防具をつけるようになった。
 その日は、体を少し温めた後に双英と差し向かいで座り、雑談などをした。
「勘は鋭い方かね?」
 そう尋ねられた。
 そういうものの鋭敏さにはあまり自信の無かった耕一だが、郷里の隆山で遭遇したある
一件以来、第六感とでもいうべき感覚が研ぎ澄まされたような気がする。
「そうですねえ……」
 こう見えてけっこう自信がありますよ……といおうとした刹那、正にそのけっこう自信
のある第六感が耕一に何かを告げていた。
 その何とも形容しようのない感覚の裏を取るために耕一は耳を澄ませた。
 僅かにだが、床が軋む音がする。
 何かが後ろから近付いてくる。
 そして、それが自分に敵意に非常によく似たものを有していることを耕一は看破してい
た。
 双英には、耕一に背後から忍び寄るものが見えているはずだが、その表情にはそれほど
劇的な変化は無い。
 どういうことか?
 思うと同時に体が動いていた。
 腰を浮かし、次の瞬間には180度体の向きを変える。
 男であった。
 豊かだが、白い部分の方が多い頭髪。かなりの高齢に見える。
 着古した上下のトレーナーはゆったりとその体を包んでいる。
 幾筋かの皺の刻まれた顔には徹底的とさえいえるほどに緩さが無かった。
 だが、その厳しい表情は耕一を刺激したものの一貫に過ぎぬであろう。
 それは、その手に握った――耕一が振り返った瞬間に"棒状の光"に見えた――刀であ
ったろう。
 鍔などはついていない、シンプルなものだ。
 おそらく、無銘であろうが、輝きが尋常ではないように見えた。
 この老人の凄絶な意を帯びたせいなのだろうか。
 耕一は動かない。
 中腰でその老人に向き合っている。
 老人もまた、動かなかった。
 斜めに床を指した切っ先を頭上に掲げて上段から斬り下げてくるにせよ、中腰の耕一目
掛けて下段の攻撃を仕掛けてくるにしろ、距離が遠い。
 およそ、十メートル。いかに刀を持っているとはいっても、一歩や二歩の踏み込みで届
く距離ではない。
「遠い」
 老人の口から搾り出すような声が洩れた。
「気付かれるにしても……もう少し近づけると思ったが……」
 その言葉が消えるのを境に老人から流れてくる敵意が途絶えた。
「なかなか、いい勘をしているでしょう」
 と、いったのは師匠だ。
「うむ、全く」
 いいながら老人は背を向けて道場の入り口まで歩いていき、外に出て行ってしまった。
 この時点で耕一は大体の事情を了解していた。
 どうやら、この老人と師匠がグルになって自分の「勘」とやらを試していたということ
だ。
 開けようとするとどうしても音が鳴る建てつけの悪い扉を開いたままにさせておいたの
もそのためだろう。
 老人が戻ってきた時、刃は鞘に収まっていた。
 その白鞘の刀を傍らに置いた老人と耕一と双英で三角形を作るように座る。
「いい勘をしているね、耕一さん」
 先ほど、凄まじい殺気で耕一を振り向かせたとは思えぬ温顔であった。
「いえ……なんていうんでしょう。殺気……のようなものが凄かったんで、嫌でも気付き
ましたよ」
「さすが……というべきですかな」
 双英にいわれて老人が苦笑する。
「人斬り岩国か……まぐれだよ、あんなものは」
 老人は、岩国といった。双英の昔からの知り合いだという。双英のことを「そーちゃん」
などと親しげに呼ぶのでよほど親密な仲らしい。
「しかし、相手は正真正銘、剣道五段の猛者だったのでしょう」
「五段の先生とまともに立ち合ったわけじゃないよ。十人ぐらいが入り乱れていたからな
あ……あの人も身を持ち崩してからはほとんど鍛錬などはしとらんかったそうだし」
「右腕を斬ったと聞きましたが」
「横から無我夢中で斬りかかっていったらたまたまそこに当たったんだよ。腱が切れてし
まってなあ、用心棒なんぞできなくなって、その後はどうなったか知れん。気の毒とは思
うがあの時はやらねばこっちがやられていたよ、剣道五段の先生だって散々あっちの奴ら
がビビらせてくれていたからな、余計にそういう気持ちになっていた」
「剣道を本格的にやられたのはそれからでしょう」
「出所してからだ。人斬りなんぞといわれてな、少しは剣が使えねば格好がつかない、と
か思うておったよ、後で考えると馬鹿馬鹿しい限りだが……極道というのは見栄を張るの
が性といってもいい」
 岩国はそういって、また苦笑した。
「結局、こうなっちまったから今は満足には使えぬがね……」
 眼前に掲げた右手には親指が無かった。
「丁度、そーちゃんが源ちゃんを追っかけてどこかに行っちまった後だよ」
「そうでしたなあ……」
「しかし、耕一くんはいいねえ」
「……はあ……」
 突如、そういわれて耕一は上手い言葉が返せずに曖昧に頷いた。
「そーちゃんから面白い弟子がいると聞いたので、いっちょうその勘働きを試させてもら
ったが、予想よりもずっといいねえ」
「どうも、ありがとうございます」
「振り返った時の顔がいいよ。こんな老いぼれとはいえ、真剣を持った人間が睨みつけて
いるというのに、気後れ一つせん。よほどの修羅場を潜ってなさるね」
「……」
 正直、彼が以前向き合ったことのある"生き物"と比べれば真剣を持った岩国はそれほ
ど怖い存在ではなかった。
「それに、目の底が深いよ」
「目の……底ですか?」
 いまいち、岩国のいう意味がわからず、耕一は反問した。
「目が合った時、その底が見えんというかな……とにかく、底知れぬ気がしてな、その前
までは例え気付かれたとしても、形だけでも打ち込もうと思っていたのだが、そんな気も
失せた」
 岩国は、からりとした表情で笑っていた。
「君を斬るのには苦労するだろうな、なんだか、斬りたくない……そう思わせる何かを持
っているよ」
「……そうなんでしょうか」
「それも、耕一くんの強さだな」
「……」
「もうわかっとると思うが、わしは以前は極道稼業……つまりはヤクザをやっていた男だ
がね、そんなことを戦後の頃にしておるとね、人を単に腕力でねじ伏せるのとは全く別の
強さがあることがわかってくるものだよ」
「はい」
「でも、君はわしみたいもんが後ろから斬りかかってきても難なく倒してしまうだろうが、
よちよち歩きの幼児がナイフを持って近付いてきたら、それに刺されてしまうのではない
か、と思うよ。幼児がナイフというのはあくまで喩えだがね」
「はあ……」
「とにかく、そういう弱さがあるような気がするのだよ」
「弱さ、ですか……」
「でも、それがあるから、君にはさっきいった強さがあるのかもしれんね」
「弱いから……強い」
 何気なく呟いたその言葉が、なぜか耕一の心に残った。

 軽くだが、顔に入った。
 浩之の左ジャブだ。
「おう」
 不自然なほどに耕一がよろめく。
 ――よちよち歩きの幼児に刺された。
 そうとしか、思えなかった。
 浩之は依然としてぎこちないのに、思い切りパンチを貰ってしまった。
 なんだか斬りたくない……そう思わせる何かを――。
 まさか、浩之、そうなのか。
 おれを斬りたくないと思っているのか。
 だから、以前のような……抜き身の刀のようなお前になって斬りかかって来ないのか。
 それを失わせたのは、もしかしたら、あの時、あの人がいっていた「何か」か?
 それがおれの強さなのか。
 だったら、この機に乗じて浩之を倒してしまっていいということか。おれの強さが招い
たこの状況ならば十二分に利用していいということか。
 でも、なんだか嫌だな。
 藤田浩之と闘っている気がしない。
 浩之――。
 お前、らしくないぞ。
 なんだか、寂しいな。

 浩之の表情が変わる。
 耕一さん――。
 なんだよ、その顔……。
 なんだよ、その目……。
 ぞくり、と悪寒が浩之の中を這い上がった。
 まさか――。
 まさか――。
 この人の中で、おれの存在が取るに足らぬものになりつつあるのか!?



     第98話 防御無し

 どうした。
 浩之、何がどうなってお前はそんなになっているんだ?
 なんだか、また一段とお前が小さくなったように見えるぞ。
 あの時のお前は何処へ行った。
 抜き身の刀みたいなお前だよ。
 餓狼の牙みたいなお前だよ。
 技術論とかを越えたお前だ。
 精神論だって何処かへ放り捨てたようなお前だ。
 餓えた生物がものを食べるみたいに闘っていたお前だよ。
 腹が減って飯を食うのに技術論が要るか?
 腹が減って飯を食うのに精神論が要るか?
 要らない。
 そんなお前だよ。
 そんなもの要らない、というように闘っていたお前だ。
 第1ラウンド終盤、首を傾げるようなところはあったけど、技術は前より向上している。
 でも、怖くもなんともないぞ。
 前は、怖かったぞ。
 そうだ。
 浩之、お前が怖かったよ。
 これ以上、こんなお前は見たくない。
 正直いってな、今のお前ならすぐに潰せる。
 そろそろ、終わらせるぞ。
 左、左、右で決めてやる。
 左のジャブを二発。
 なんだ浩之、そんなに縮こまって……。
 くそ。
 なんだか、気に入らないぞ。
 おれが好きなお前はそんなんじゃなかったはずだ。
 右だ。
 この一発で決めてやる。
 ガードなんて打ち破って――。
「!!……」
 打ち出そうとした瞬間、浩之が前に出てきた。
 期せずして、カウンターになる!?
 思ったのは一瞬だけだった。
 浩之の頭部は斜めに前進してきて、耕一の右腕の表面を滑るようなギリギリの距離で掻
い潜ってきた。
 前傾姿勢のまま、左でフックを放ってくる。
 スウェーで後方に逃げるには距離が近すぎる。すぐ後に右でストレートを打たれたら避
けきれない。
 むしろ組み付いて、前傾姿勢になっているのを幸い、上から押し潰すか。
 そうすればフックの威力などほぼ完全に殺すことができる。
 組み付かんとした瞬間、浩之の体が左に捻れた。
「くっ!」
 その形、下方から駆け上ってくる気配、そのどちらもが次なる攻撃の正体を告げていた。
 右のアッパー。
 それも、肘を曲げて弧を描くようなそれではなく、ほぼ腕を一直線に伸ばして打ち上げ
るそれだ。
 普通はあまり見られぬ形だが、耕一の方がやや身長が高いのと、浩之の腰が落ちている
今は十分に威力を耕一の顎に伝えることができる。
 組み付こうと前方に伸ばした両手の間を縫って、それは昇ってきた。
 真上を向いた耕一の目に、スポットライトの光が眩しい。
 当たる寸前に思い切り顎を上げて身を後方に反らすことでダメージを幾分和らげること
には成功したが、この状態では浩之の次の攻撃に対応しようが無い。
 いっそ、倒れるか。
 そう、思わないでも無かったが、耕一は無意識の内に転倒を回避するためにマットを蹴
った。
 耕一の顎が、右に揺れた。
 左から、浩之の右フックが飛んできてそれを貰ってしまったのだ。
 次いで、鼻頭に一発。
 貰った瞬間、鼻血が出たのではないか、と思ったが、幸い、鼻腔には血が流れ出る時の
独特の、生暖かいものが滑り落ちるような感触は無かった。
 耕一の体勢が定まる。
 こうなれば、もうそうそう攻撃が当たるものではない。最前のそれは、耕一の体勢が大
きく崩れていればこそ、面白いように当たったのだ。
 体勢を立て直した耕一の顔に衝撃が走る。
 右のストレートだ。思い切り喰らった。
 まさか!
 耕一はよろめきつつ、その直前の浩之の姿勢を思い起こす。
 どう考えても、右のストレートを打ってくるようには見えなかった……。
 そのためか、威力もそれほどではないが。
 浩之!
 そう呼びかけてやりたかった。
 今度はどうした?
 今度は何が起きたんだ?
 こんな滅茶苦茶なパンチを打ってくるような奴だったか?
 思う間にも、二発、立て続けに貰う。
 藤田浩之というのは、流派を我流と公言している割には基礎がしっかりしていて、また
それに大きく外れるようなファイトスタイルではなかったはずなのだが……。
 それに、浩之。
 お前の、その顔はなんだ。
 必死だな。
 必死だ。
 それが一目でわかる顔だ。
 必死だ。
 それ以外の何物でもない。
 人間の表情がある一種類だけのものに染まることは滅多に無いが、その時の浩之の表情
はそれだけだった。
「はあっ!」
 浩之の口から気合が迸る。
「きえあっ!」
 喉を擦り切らせ、血を吐くような声だった。
「くきぃぇあっ!」
 人間の声帯を通した声とも思えぬ。
 耕一の耳に先ほどの公園での声が蘇る。
 月島拓也が、これとは違うが、やはりとても人間のそれとは思えぬ声を発していた。
 その時、拓也は真剣勝負の最中に、その相手にいらぬ情けをかけられたことを怒り、悲
しみ、鳴いていた。
 浩之の両腕が絶えず旋回して、凄まじく変則的な軌道を引いて耕一に拳を叩きつけよう
とする。
 何があったかは知らないが……。
 守りに入ってるお前より、こんなお前の方がいいな。
 そんなお前の方が好きだし……。
 そんなお前の方が怖いぞ。
 紙一重でかわした、と思った浩之のパンチが、耕一の耳に僅かに接触していた。
 じん、と熱が生まれる。
 打たれた痛みとは明らかに違うその熱さ――。
 ――斬られた。
 耕一の耳から細い朱線が宙にたなびいていた。

「きぃーあっ!」
 パンチが面白いように当たる。
 ガードに阻まれるものの方が多いのだが、それでも五発に一発はガードを潜り、その内
の二発に一発ほどは確実にダメージを与えている。
「いいね」
 誰にいうともなく、英二は呟いていた。
 視線は、浩之の顔と、絶えず旋回するその両腕に注がれている。
「彼は防御を全く考えていない」
 声に陶酔に近い響きがある。
 さすがに耕一も打たせっぱなしにはせずに時折反撃しようとするのだが、それが上手い
具合に行かない。
 浩之は防御らしい防御はしていない。
 パンチを弾くことも、防ぐことも、かわすこともだ。
 耕一の腕が伸びきる前に浩之が距離を詰めてきてしまうために十分な威力を発揮する前
に“当たってしまう”のだ。
 それでも、ダメージはある。それは蓄積していく。
 だが、そんなものにはおかまい無しだ。
「いいな」
 英二が呟いた。
 以前、理奈と由綺の二人で一度だけ全国ツアーをやったことがある。
 単独でならともかく、二人が一緒にというのは初めてだったためにかなり話題になった。
 沖縄から北海道までを転戦する間に、九州は鹿児島県にも立ち寄った。
 そこで、九州中の古武道諸流派が集まっての演武大会があるというので、忙しい中に暇
を作って見に行ったことがある。
 そこで、英二はそれを見た。
 英二が開場より少し遅れて到着した時、既にそれは行われていた。木刀を振っているか
ら剣術の一派なのはわかるのだが、今まで見てきたどれよりも単調であった。
 どの流派にも大体、上段、中段、下段、そしてそれから枝分かれした様々な変化がある
が、それには、上段一つしか無いようであり、さらにはそれを振り下ろす以外のことはほ
とんどせずに、例えば、小手を打つ――指を斬りに行く、といったような動きが無い。
 そして、響き渡るのはなんともいえぬ叫び声であった。
「あれが、示現流ですか」
 側にいた初老の男に尋ねると、果たして、そうだという。
 示現流。
 戦国末期、薩摩藩医、東郷藤兵衛重位をもって創始された剣術である。
 体捨流を学び、さらには自顕流を学び、示現流を興すに至る。
 関ヶ原の合戦後に薩摩藩主となった島津家久の目にとまり「お家芸」となり、以後連綿
と続き、廃藩置県を経てからは一流派として受け継がれ現代に至っている。
 示現流には防御の型が存在しない。
 あるのは、攻撃のそれであり、それですらそれほどの種類があるわけでもない。
 一言でいえば、大上段から振り下ろす、というだけである。
 真っ向からの唐竹割、右袈裟、左袈裟、おおよそこの三つほどに限られる。
 達人の斬撃になると太刀行きが速すぎて防御も回避もかなわず、半端な技術などは一撃
で粉砕されてしまう。
 先制して強力無比の攻撃を送り込むことによって相手の防御を砕き、一刀の下に決し、
防御を不要とする、正しく「攻撃は最大の防御」を地で行く剣法である。
 だが、防御の型の無い戦法というものを一藩六十一万二千五百石の士の多くが二世紀以
上にわたって鍛錬、継承してきたのは一種異様ではある。
 防御の型が無い、となれば、どうしても自分が攻撃を受ける側に回った時のことを心配
せざるを得ない。
 示現流というのは、ようは闘いとなれば捨て身になってあらん限りの気迫と渾身の攻撃
を先に叩き込めばいい、という無骨で、だが一理ある実戦の一つの原則を体系化したもの
かもしれず、その時代の武士たちはそれを知っていたのではないか。
 相当の剣術達者でも「実際斬りあいになったら捨て身でかかるしかない」といい残して
いる。
 その時に見たそれに、どうしても浩之が重なるのである。
 剣と拳の違いがあるから、当然、そうそう簡単に一撃で勝負を決めるというわけにもい
かぬが、
「ぃえぇあっ!」
 喉を擦るようなその声も、

 その声、猿(ましら)に似て

 と、いわれた示現流特有の叫び声を思い起こさずにいられない。
 ほとんど間を置かずに繰り出される攻撃が浩之にとっての「初太刀」であり、おそらく
これが途絶えた時、耕一が反撃すれば為す術も無く倒される運命であろう。
 問題はこの浩之の「初太刀」が耕一を仕止められるかどうかであり、それは難しいだろ
うと英二は思っている。
 耕一はやや背が高いものの、それほどに肉付きが厚いわけでもないのに見た目以上に打
たれ強く、ダメージの蓄積がそれほどに無い現在の状況では一気に沈めるのは困難であろ
う。
 倒せたとしても、問題はルールであり、それを行使させるべく二人の間に立っているレ
フリーだろう。
 浩之がこのままこの連打を間断なく続けていき、耕一を倒せたとしても、耕一が倒れた
らレフリーは当然、ダウンを取る。
 そして、そこでテンカウントが入るとは思えない。耕一は立ち上がってくるはずだ。
 そこで浩之の一連の攻撃は途絶える。
 一度、そのような「間」を持ってしまって、その後すぐにまたあのような攻撃ができる
とも思えない。
「難しいな」
 所詮、燃え尽きる前の蝋燭かとも思う。
 だが、それとは裏腹に浩之の攻撃はより素早く、より強く、よりその間隔を狭めていく
一方なのである。
 僅かにだが、耕一の後退が始まっていた。
 そのようなシロモノが、あのような無茶苦茶な連打によって見られるとは思わなかった。
 浩之の連打には技術的に見るべきところは無く、むしろそのような観点から見れば穴だ
らけであったろう。
 ただ、一発一発のパンチに稚拙なところがあるにせよ、それは連打として非常によくで
きた有効なものであった。
 一つ一つの攻撃の間がほとんど無い。
 結局、これである。
 連打というのは結局、矢継ぎ早に攻撃を送り込み続けるのが目的なのだから結局それな
のだ。
 全身全霊を傾けた攻撃であり、防御にまで考えも余力も回っていない。
「藤田くん、いいんだな」
 英二が、何度目かの呟きを発した。
 反撃を喰って倒されてしまったもいいんだな。
 ここで仕止められなければやられてしまってもいいんだな。
 次のラウンドのことなんていいんだな。
 今の、この瞬間に放つパンチで彼を――柏木耕一を――打ち倒すことしか考えていない
んだな。
 一発一発が全力だ。
 そうそうできることではない。
 フェイントも何も無い。
 この一発で誘って……。
 この一発で怯んだら……。
 この一発で決めると見せかけて……。
 そういった感情が浩之の両拳には全く無かった。
 その拳に遊びが無い。
 その拳に緩みが無い。
 その拳に迷いが無い。
 そして、駆け引きすら無い。
 もちろん、小細工などどこを探しても無い。
 浩之がどのような経路を辿ってあの「境地」に達したのか、詳しいことは英二にはわか
らない。
 だが、その場にいた誰よりもより多くそれを理解しているとの自負はあった。
 同じ相手と闘い、そして絶望した自分にはそれがわかる。
 絶対に勝てそうにも無い相手と闘わねばならぬ、という追い詰められ方をした人間には、
なんとなくわかるのだ。
 そこで、英二は考えた。
 どうやったら勝てるのか、と。
 考えて細工をした。
 策を弄した。
 それでも結局は負けたが、英二なりに必死に足掻いたつもりだ。
 きっと同じところに藤田浩之も追い詰められたのだ。
 そびえる壁を排除するのに、英二はその水も漏らさぬような壁のどこかに穴が空いてい
ないかと探し、ここだと見極めるとそこを徹底的に突いていった。
 浩之は殴った。
 両腕を旋回させて立ち向かっていった。
 この差を若さの差と断じてしまっては弱気に過ぎるだろうか。
 だが、英二にはとてもではないが、あそこであれはできない。
 逆撃を喰わされるのもおかまいましにあのような攻撃に行けるほど若くはないのだ。
 これで倒せなかったらやられちまってもいいぜ。
 全身でそう叫んでいるようだった。

 勝ちたい。
 負けたくない。
 そう、自分は思っていたはずだった。
 だが、自らの全身を白刃と化して斬り付けていく必要を感じながらそれができずにいた。
 だって、あの人が好きだから……。
 そんな言い訳をしながら鈍らなまま闘っていた。
 負けたくない。
 そう思っていた。
 だが、それは思っているだけに過ぎず、さらにはそれだけが思いの全てではなかった。
 負けたくはない。だが、このままでは負けるだろう。
 そうも思っていた。
 それが、嫌というほどわかっていた。
 そんなことで勝てるような甘い相手ではないのだ。それはわかっていた。
 そして、最も唾棄すべき気持ちも生まれていた。
 今日負けても……また今度。
 そんなことを考えていた。
 また今度があると思っていたのだ。
 今日負けても、また耕一は闘ってくれる、と。
 疑いも無くそう思っていた。
 それに影が差したのは耕一の表情に変化を認めてからだ。
 なんだか寂しそうな、突き放したような……。
 見放された――。
 その思いは恐怖を伴っていた。
 ここで、このまま負けたら、この人はもう闘ってくれないんじゃないのか。
 もう、お前には闘う価値が無いといわれてしまうのではないか。
 嫌だぞ、そんなの。
 嫌だ。
 嫌だ。
 絶対に嫌だ。
 気付いた時には叫びながら拳を振っていた。
 抜き身の刀。
 その決して上手いとはいえないパンチがその輝きを帯びるのを実感した。
 そんなことに――闘う価値がないなんていわれるぐらいなら――。
 耕一さんをぶった斬ってやる。
 何発目かに放ったパンチが耕一の耳を掠った。
 耕一の耳から、つう、と赤く細い線が下った。
 思わず、自分の拳を見た。
 こいつは――。
 ――斬れる。

「付き合うな、馬鹿者!」
 後退する耕一の耳に声が叩きつけられる。師匠の声だ。
 その声で、自分が無意識の内に浩之の全エネルギーを込めた連打に付き合ってしまって
いることに気付いた。
 こんな相打ち覚悟の捨て身の相手とまともに打ち合うことはない。
 一発二発は貰う覚悟で組み付いていけば……。
 接近してしまえばパンチなどそれ程の威力は無いのだ。
 肘はルールで禁止されている。
 今の浩之がそれを覚えていて、なおかつ律儀に守るという保証は無いが、一発ぐらいな
ら喰らってやる。
 肘が当たった時点でレフリーが試合をストップするはずであり、そうなればこの連打は
一時途切れる。
 一度途切れればまたすぐにこのような渾身の連打はできまいと、英二と同様に耕一も考
えていた。
「利用できるものは利用しろ」
 耕一は師匠にそう教えられた。
「ルールがあれば、それも利用しろ。勝つためになら使え」
 そんなこともいっていた。
 双英は戦後間もない頃に用心棒などをやっていた男だけに試合場で行われるルールある
試合と、そのようなものが無い闘争を明確に分けて考えている。
 前者で利用できるのは「ルール」であり、後者でのそれは「地形」だとよくいっている
し、雑誌のインタビューでもそう答えている。
 耕一は相手の体勢を崩して投げ倒す訓練をよくしているが、この時なども、
「側に机でも壁でも電信柱でもあったら、頭をそれにぶつけてやれ」
 と、いわれた、それが双英のいう「地形」を利用することの一端であるらしい。
 最近では、双英の弟子たちが開いている道場では、エクストリームや、その上にグラウ
ンドでの打撃を認められたプロでよく使われるルール用の練習が多く、そのためのコース
を設けているところもある。
 確かに、一対一でできる限り緩いルールで闘う、というのは双英がかつて持った理想で
あったが、それは所詮理想であり、実際に闘う際には相手が複数だったり武器を持ってい
たりすることが多かった。
 そういった場合を想定せぬのならばもはや武道ではあるまい、と双英は思っている。
 元々、そのような理想を持ちつつも用心棒稼業を営んでいた男が創始した流派だけに、
スポーツ格闘技と武道と、その両面を持っていたのが伍津流である。
その二面の内のスポーツ格闘技の面が重視されるのも時代の流れと隠居して第一線を退
いた双英だが、耕一という直弟子を新たに取ってからは、また指導者としての血が騒ぎ始
めた。
 そもそも耕一は大会などに出て試合に勝ちたいからやってきたのではなく、平常心を保
つためというのが第一目的であり、それに付随して闘争があった。
「可能性は低いのですが、いつかどこかで殺し合いに近い闘いをしなければならないかも
しれません。しかも、その相手はとてつもなく強いでしょう」
 そういった耕一に双英はしびれたといっていい。
 昨今、そのようなことを思って格闘技を始める人間は少ない。
 今回のエクストリーム出場は双英の意志が大きく、耕一が自ら望んだものではない。
 その意味では双英は耕一にすまないと思う気持ちもある。だが、このような場所で闘う
という経験も、何かしらの足しになるであろう。
 このことが耕一の考えを変え、プロになりたい、などと言い出しても双英は止めぬつも
りであった。
 むしろ、耕一の潜在能力に驚愕していた双英は、耕一が日の目を見る道を選ぶのは賛成
であった。
 もう、時代が違うのだ。
 あれほどの力を持った男は、ひっそりと二人だけの道場で終わるよりも、スポットライ
トの当たる場所で闘うのが良いのかもしれぬ。
 耕一の体が沈んだ。
 次の瞬間、跳ねるように前に飛んだ。
「見事」
 あれが自分の弟子なのだと思うと誇らしくなってくる。
「!……」
 だが、そのタックルが不発していた。
 上から、体重をかけて潰したのではない。
「ほお」
 感嘆の声が思わず洩れた時には、彼の弟子の顔が音を立てていた。
 腕をぶん回して前に出てくるだけの相手だ。カウンターを貰わぬ限り、タックルが決ま
るはずだった。
 なんだ!?
 手応えが無かった。
 体勢を低くしたタックルは、相手にとっては目標物が小さくなって突っ込んでくるもの
なので打撃が当たりにくくなる、という効果があるが、その代わりにどうしてもこちらの
視界が狭くなるというリスクがある。
 完全にかわされた、などということはありえない。浩之が前に出てくるのに合わせて行
ったのだ。瞬間移動でもしない限り無理だ。
 両肩に、何かが触れる感触があった。
 おそらく……。
 それ以外に無い。
 だが、耕一は半ば無意識の内に顔を上げていた。
 やはり、思った通りだ。
 浩之は両手を伸ばして耕一の両肩に当て、それを突っ張っていたのだ。
 だからといって押し返すわけでもなく、むしろ耕一のタックルの動きに押されるままに
後方に飛んでいた。
 タックルの勢いは既に無くなっている。
 すなわち、耕一の体は今、停止している状態だ。
 そして、両手を突っ張っていた浩之との間には距離がある。
 まずい。
 一瞬でそれを悟った。
 両肩に何かの感触があることから、おそらく両手を伸ばして押し当てていることは読め
ていた。しかし、それが視界の中に入っていないことからついつい自分の目で確認したく
て顔を上げてしまった。
 上げるべきではなかった。
 両手で頭をガードしながら体勢を立て直すべきだった。
 それで相手に与えた隙は一瞬だけだ。
 だが、寸刻のそれすらも許されぬのが格闘である。
 上げた顔に、膝が来た。
 両手をマットに突いた。
 いや、マットを両手で突いた。
 その場で跳ね上がって再度組み付いて行った。
 横から顎に何かが来た。
 肘!?
 だが、それにしては堅くない。この弾力はおそらくオープンフィンガーグローブのもの
だろう。
 しかも、横といっても真横からではない。と、いうことは既にある程度の距離を取って
いるということだ。
 甘く見た。
 一心不乱の前進しか知らぬような攻撃を受け続けて誤解してしまった。
 浩之は意外に冷静だ。
 拳を振り回しながら前に出てくるだけでなく、必要とあらば適度の距離を取ってからパ
ンチを送り込んでくる。
 これは……。
 てっきりそうであろうと思っていたが、これは、「キレた」というのとは違う。
 また、膝。
 腕によるガードが間に合わない。
 腕と腕の間を潜り抜けて上昇してきた。

 足元に、倒れていた。
 タックルに来る気配が察せられたので肩に手をついて打撃を叩き込める距離を保ち、丁
度いい具合に耕一が上げた顔に膝を打ち込んでいった。
 その耕一が執拗にタックルをしてきたのに右のショートフックを合わせていき、そして
もう一発、膝。
 遂に、倒したぞ。
「おおおおおおおおぅ!」
 叫んでいた。
 それに被せるように第2ラウンド終了のゴングが打ち鳴らされており、それが乱打され
る間に、耕一が起き上がっていた。
 やられた。
 見事だ。
 おれも、あんな風に闘えたら気持ちがいいかもしれない。
 浩之が、第3ラウンドもああいう風に来るのなら、それを真正面から受けて立ってやる
のもいいかもしれない。
 師匠に怒られたって構うもんか。
 付き合って、馬鹿みたいに打ち合いたい。
 だが……。
「そうもいかないんだよな、おれは」



     第99話 これ

「おう、雅史、サンキュー」
 下から差し出されたタオルを受け取りながら、浩之がいった。
 額に浮いた汗の玉を拭き取っていく。
「ん? どうしたんだよ?」
 浩之がはにかんだ笑みを見せながら、雅史に尋ねた。
 雅史が、いつになくジロジロと自分の顔を見ているのに気付いたからだ。横を見れば、
葵もそんな顔で自分を見ている。
「おれの顔、おかしいか?」
「いや」
 雅史が、首を横に振った。
「いい顔してるよ」
「なんだよ、いきなり」
 笑みが、苦笑に変わった。
「正直いってね、浩之が怖かったよ」
「ん? おれが?」
「最後の方の連打。浩之じゃないみたいで」
「ああ、あれか」
「てっきり浩之が『キレた』のかと思って……でも、今の浩之はなんだか穏やかな顔をし
ているよ」
「うーん、『キレた』のとは違うな……」
 俗にいう『キレる』という感情の動きは、堪忍袋の尾が切れた、という言葉がおそらく
語源なのであろうが、それの根源には「怒り」の感情があり、いわば、怒りが極まった時
の表現の一つである。
 先ほどの浩之に怒りなどは無かった。
 あの親の仇でも相手にしたかのような猛攻も、ただ攻撃に夢中になっていたら防御を忘
れていたに過ぎない。
 気付いた時にも、防御なんていいや、と思っていた。
 カウンターでもなんでも来ればいい。
 そんなもの、喰らってやる。
 喰らって駄目だったら、所詮そこまでだ。
 あそこで耕一に勝ちにいくのはあれしかなかったと今でも思っている。
 ああするしか、耕一からのプレッシャーを跳ね除けて、自分が――藤田浩之が藤田浩之
として闘うことを貫徹することはできなかったはずだ。
 これで負けちまったら、それでいい。
 あの、防御も何も無い、セオリーから外れたパンチを打ちまくる不恰好な攻撃に、全て
を賭けていた。
 駄目だったらおしまいだ。
 痛い目に逢って、一万を越える観客の前で無様をさらして、耕一に見放されて……。
 すっからかんの一文無しだ。
 だけど、勝ったら。
 一回戦二回戦を通じて実力者と認識された耕一を破れば、おいしい。
 いや、そんなこと以前に、耕一さんに勝つこと自体がとてつもなく嬉しいじゃねえか。
 おれは、あの人に勝ちたかったんだ。
 あの人に負けたあの日から……。
 あの人にだけ勝ちたかったんだ。
 都築も、加納も、そりゃそれぞれがそれぞれの強さを持った奴らだったよ。
 でも、あの二つの闘いはおれにとっては「過程」に過ぎない。
 その先に、あの人がいるからだ。
 そうでなければ、おれは都築の執念に――加納の技術に――負けちまってたかもしれな
い。
 強くなりたかったよ。
 格闘技を始めてからずっとだ。
 葵ちゃんが強くなろうとしているのを見て、おれもそうなりたかった。
 それで、葵ちゃんと頑張って……けっこう強くなったような気がしてたんだ。
 うちの学校の空手部の連中と揉めたのはその時だ。
 おれの強さってこんなもんだったのか、って思った。
 頭、踏んづけられたんだぜ。
 そんなの、初めてだったよ。
 葵ちゃんは、おれに何もいわないでいたけれど、見かねていってくれた。
「五対一じゃ……」
 あの日の保健室で、葵ちゃんはそういったきり、黙った。
 五対一じゃ、しょうがない。
 そう、続けようとしたのだろうと思う。
 でも、葵ちゃんは黙った。
 たぶん、おれが怖い顔で見返したからだろうな。
 顔中の筋肉が引きつって強張って、ろくな顔をしていなかっただろう。
 踏まれた時の跡が、消えてなかったはずだ。
 五対一じゃ、しょうがない。
 しょうがなくねえよ……。
 おれはさ、あの程度の連中なら五人いたって大丈夫だと思って喧嘩買ったんだからさ、
ショックはでかかった。
 先制攻撃には成功したんだ。おれがまず攻撃を入れていった。
 でも、五人を倒しきれなかった。
 いや、予想以上に連中が打たれ強くて、最初に叩いた奴らがすぐに復活してきて袋叩き
になっちまった。
 あれからだな。
 おれが本当に強くなろうとしたのは。
 あれからだな。
 おれが葵ちゃんと練習しなくなったのは。
 あれからだ。
 おれが葵ちゃんに、練習している自分を見せたくなくなったのは。
 畜生。
 野郎。
 ぶっ殺して……。
 そんなことを呟きながら拳を振るう自分を葵ちゃんにも、あかりにも、いや、誰にだっ
て見せたくなかった。
 だから、おれが練習するのは部屋の中とか、夜の公園とかだった。
 それを雅史に見られたんだったな。
 それから、あいつは何かと協力してくれた。あいつにもサッカーの練習があるはずなの
に……。
 一緒に走ったこともあったな。
 停学があけて学校に来た空手部の奴らを叩きのめしたけど……あそこで必要以上にやら
なかったのは、雅史のおかげだったと思う。
 雅史がいなかったら……。
 あかりだったら……駄目だったと思う。
 おれが、あかりの顔をまともに見れなかったと思う。
 雅史が、
「一緒に走ろうか」
 そういってくれたおかげだったと思う。
 あのまま、一人で……。
 畜生。
 そう呟いて拳を打つ。
 野郎。
 そう吐き出して足を突く。
 ぶっ殺して……。
 そう念じながら肘を振る。
 そんなことを一人でずっと続けていたら……人を殴り殺すことをなんとも思わないよう
な人間になっていたかもしれない。
 一線というものがある。
 それを境に向こう側とこっち側があり、笑いながら人を殺せるような人種が向こう側な
らば、おれはこっち側がいい。
 向こうに行ったら笑えなくなっちまう。
 あかりの前で笑えなくなっちまう。
 雅史の前で笑えなくなっちまう。
 ひしゃげた人間の顔を見下ろしながらでしか、笑えなくなっちまう。
 あそこでやらなくてよかった。
 だが、それで物足りなさを感じたのも事実だ。
 あんなに必死になって肉体をいじめてきたのに、奴らは拍子抜けするほどに弱かった。
 その時、あの人とやってみる気になったんだ。
 その前から、奴らへの復讐に備えて「十人抜き」と称して腕に覚えのある連中と野試合
をしていたが、その中にピックアップしていたのがあの人だ。
 でも、セバス……先輩のとこの長瀬の爺さんに「お前では絶対に勝てない」といわれて
外しておいたんだよ。
 その人と、やる気になった。
 あの時はまた、自分は強くなったと自惚れていたのかもしれないな。
 やって、負けて、今度はあの人が目標になった。
「雅史、今まで……」
 ありがとう。
 いおうとして浩之はいい止まった。
 ラウンド間のインターバル終了を告げるアナウンスが聞こえてきたし、何より、そこで
雅史にそんなことをいってしまったら気がくじけてしまうような気がした。
 終わってからでいい。
「なに? 浩之」
「いや、終わってからでいい」
 そう、全部終わってからだ。
 雅史たちに背を向けた。
 あの人も、こっちを向いたところだった。

 3ラウンド。
 作戦は特に無い。
 奇襲が通じるような相手でもない。
 特にここを衝いていけば、という弱点を抱えているわけでもない。
 正面から殴り合いに行こう。
 まずは、一発、思い切り……。
 外れたらどうする?
 外れたら……もう一発思い切りだ。
 それも外れたらもう一発。
 当たるまで思い切りだ。
 レフリーの手、邪魔だ。
 早くどけ。
 その手が、上がった。
 いいんだな?
 ゴングが鳴った。
 OKだな。
 行くぞ。
 浩之の足がマットを蹴っていた。
 まず一発……。
 その一発を打つ前に浩之にある予感があった。
 とんでもなくいい予感だ。
 信じられないほどだ。
 耕一に対してどのような攻撃を送り込んでもそれが当たるような気がした。
 こんなことは初めてだ。
 思い切り右ストレートを打つ。
 それが当たる。
 それ以外のビジョンが浮かんでこない。
 耕一の構えは前と変わっていない。
 それなのに、当たる気がする。
 おいおい……いーのかよ?
 思わず、心中に呟いていた。
 打った。
 一直線。
 十二分に体重の乗った遊びの無いストレート。
 最短距離を最大速度で突っ走って、耕一の顔に行き着く。
 それを阻むものはなく、耕一の顔の位置も変わらず。
 当たる。
 打ち抜く。
 首が曲がった。
「があっ!」
 わけもわからずに叫んだ。
 左のフックが弧線を引きながら耕一の顔を左に向かせたのは次の瞬間であった。
 また次の一瞬には右のパンチが入る。
 そのまた次の一瞬には左のそれが食い込む。
 手足を拘束された人間を叩くよりも易く、浩之は耕一を殴り続けた。
 思わぬ好機。
 おそらく、自分がこの男に勝てるかもしれない最初の瞬間だ。
 この機を逃せば、これ以上の僥倖は巡って来ないのではないか。
 だったら、殴るしかない。
 あまりにも脆いことに対して奇妙に思う気持ち、罠かと警戒する気持ちも無いわけでは
ないが、それらを考慮し、差っ引いたとしても、行く以外の選択肢が無かった。
「行っ!……」
 行ってやる!
 そう吼えようとして言葉になりきらなかった。
 パンチを食らい続ける耕一から、何も感じられない。
 罠でもなんでもねえ、こりゃ効いてるぞ。
 そう確信できるほどに、耕一からは何も来なかった。
 例え、彼が剥き出しの闘気を忌むべしという心得を実践しているのだとしても、これだ
け殴られて反撃も何も無いのは明らかにおかしい。
 物理的に反撃できぬまでも、そういう気配が――殴り倒してやる! という浩之が発す
るそれに反発する、やられてたまるか! という気配が返ってこないのはおかしい。
 結論。
 本当に効いている。
 だったら、行くしか無いではないか。
 こんな耕一は初めてだ。こんな好機はそうそう無い。
 いや……こんな耕一を一度……何処かで……。
 自らが相対した時の記憶ではない、誰か他の人間と闘っている時のそれの中にいた耕一
が今と同じような、彼らしくも無い不甲斐ない姿をしていた。
 パンチを送り込み続けながら、それが蘇る。
 きっかけは、聞こえてきた声だ。
 微かなそれが耳に入った時に、思い出した。
 英二だ。
 緒方英二との試合で耕一が今のようにほとんど反撃もせずに打たれ続ける場面があった。
 そのままノックアウトかと皆思ったであろうし、浩之も思った。
 それだけ英二の攻撃は鋭く素早く、いいリズムに乗って繰り出され、耕一の防御は「な
っちゃいなかった」のである。
 あの時は確か……英二が一気に勝利を決すべく、蹴り……足の運びや上体の動きからい
って、右のハイかミドルキック……を叩き込んで行こうとしたが、なぜかそれを直前で止
めてしまい、大チャンスを逃してしまった。
 以後、それ以上のチャンスは巡って来ずに、英二は敗れている。
 あそこでなぜ行かなかったのか……疑問に思ってはいたが、それを英二に聞く機会を逸
してしまった。
 あの敗戦に人が変わるようなショックを受けていた英二に、そのようなことを尋ねるの
は憚られたからである。
 だが、あの試合を思い出してどうにも引っ掛かるのはここであった。
 いや、本日この場で行われた無数の試合の全てを総括しても、これだけ疑問の残る試合
は無い。
 なぜ、あそこで行かなかったのか?
 耕一のあの時の状態――そもそも、あの耕一のいきなりの弱体化も疑問ではある――か
ら考えて頭部を強襲するような蹴りでも命中していた可能性は強い。
 闘いには流れがある。
 あの時、流れの主流は間違いなく英二であり、その勢いは一線を越えていたと浩之は思
っている。
 もう、勝っていたといって過言ではない状態だったのだ。
 あそこで強力な攻撃を当てることができたら……。
 英二がそれをわかっていなかったわけではなく、彼はしっかりとそれを察知し、自分が
闘いの流れに乗っていることを自覚し、止めの一撃を放たんとしていた。
 その流れがぶっつりと途絶えた。
 それを断ったのは耕一ではなく、英二だ。
 そこが、大疑問なのである。
 だが、考えてみれば、あそこで英二が攻撃の手を止めるのは明らかにおかしいのだから
あれは英二の意思によらぬ行動であったと考えるのが自然ではないのか。
 ならば、やはり。
 耕一だ。
 耕一が何かをしたのだ。
 具体的に何をしたということはなくとも、英二が何かを感じて攻撃を止めたのだ。
 あの時の耕一と今の耕一がほとんど鏡映しのように重なるからには、その英二に攻撃を
思いとどまらせた「何か」がこれから浩之を襲うことは十分ありうる。
 何が来るのかは知らないが、とにかく、この一連の攻撃を止めるつもりは無い。
 どちらかが倒れるまでこの攻撃は止まない。
 それがこの藤田浩之の意思だ。
 何が来てもこの意思は貫徹する。
 息の続く限りの連打を打ち込む。
 息が切れても一息入れればまた行く。
 何がやってきても、そんなものは意思で貫く。
 何が押し寄せてきても、そんなものは意思で押し返す。
 この人をぶっ倒す!
 それが意思だ。
 意思というよりも、強烈な願望であるというべきか……いや、この場この時に至ってそ
のような詮索は不要。
 これ、だ。
 意思、願望、或いは自分がこの人を倒すなどただの妄想に過ぎぬか。
 そんなことはどうでもいい。
 この人をぶっ倒す!
 これ、だ。
 これを貫徹する。
 これをもって、何が来ようと粉砕する。
 あの英二に、絶好のチャンスへの渾身の一撃を躊躇させたものが来ようと、そんなもの
は関係無い。
 倒すのだ。
 なんとしても倒す。
 どのようになっても倒す。
 一秒。
 否。
 それをさらに切り刻んだ秒以下の寸刻でもいい。
 自分が長く立っていられればよい。
 それで、いい。
 これ、だ。
 なんでも来い。
 おれにはこれがある。
 これがあるから、絶対に攻撃は止めない。
 これがあるから、絶対に倒れない。
 これがあるから、絶対に負けない。
 一体、何をぶつけてくるのかは知らないが、おれは英二さんとは違うぞ。
 おれは、もう「何か」が来ることはわかっている。それが何かは知らないが、あの英二
さんの手を止めたほどの「何か」であることはわかっている。
 それに対する覚悟もできている。
 それに対する武器も準備完了だ。
 これ、だ。
 来い。
 来ないなら、このまま倒しちまうぞ!
 ほら、左右のワンツーが小気味よく耕一さんの顔を揺らしている。
 顎が上がった。
 目玉がほとんど動いていない。
 視線が上に向いてやがるぞ。
 ってことは、下だ。
 下が死角だ。
 背中を、流れが押しているのを感じるぞ。
 ここだ。
 距離を詰めて、左のショートアッパー。
 戻りかけた顎をもう一度突き上げてやった。
 左拳を下ろしながら左肩を後方に捻っていって、同時に右を前方に――。
 腰も回転させる。
 膝もだ。
 今の、左のショートアッパーは死角からの攻撃であると同時に、身体を捻るための行動
だったんだ。
 この、次の一発。
 右フックに渾身の力を宿らせるために、左に身体を捻ったんだ。
 その捻れを戻すと同時に右を打ち出す。
 行くぞ。
 何か、来るのか!?
 何が来ても大丈夫だ。
 これ、がある。
 いや、それ以前に、もうどんなおっかないものが来ようと、後戻りできないほどにこの
一発に力を全部預けちまった。
 右のフックだ。
 頭を刈り取ってやる。
 首なんか千切ってやるつもりでぶん殴ってやるぞ。
 何かあるなら出して……。
「っ!」
 浩之の目に映ったのは、耕一の目であった。
 靄がかかったような、薄ぼんやりとした眼差し。
 なんだ!?
 どういう目なんだ。これは――。
 どういう感情を抱いているとこういう目になるんだ!?
 直接的な恐怖は無い。
 その眼光は鋭さなどは微塵も無い。
 むしろ、心配になるほどに弱々しい。
 どうしたんすか?
 思わず、そう尋ねてやりたくなるような目だ。
 だが、怖い。
 直接的には怖くなくとも、なんだか、怖い。
 どうしたんすか?
 どうしたのか?
 どうした? ……。
 そうか。
 わからないのだ。
 なんだか、わからないこの目。
 おそらく、いや、絶対にあの時の英二が見たのも、この目だ。
 未知の恐怖。
 なんだかわからないものへ、本能的に抱く恐怖。
 だが、それでもただ漠然としているだけならば、これだけの恐怖は沸き起こるまい。
 何か。
 人間に根源的な恐怖を与える何らかがその目の奥にいる。
 それが、見ている。
 その前にかかった薄い靄が、それを遮る防壁か――。
 そのようなもの、いつ破れてもおかしくない。
 怖い。
 悪寒が幾筋も尾を引きながら浩之の身体を縦断した。
 正解だ。
 後戻りできぬ状態に、自らの身体を持っていったのは正解であった。
 行くぞ。
 何があろうと、もう後戻りはできないのだ。
 それがなんなのか――。
 知るかよ!
 知らねえよ!
 わかんねえもん考えたってしょうがねえ。
 こっちは、後は打つだけだ。
 全身の捻れを戻して、右フックを――。
 打った。
 拳が半円を描いた。
 それは拍子抜けするほどにあっさりと、耕一のテンプルに到達した。

「よしっ!」
 試合場下で、英二があらん限りの大声で叫んでいた。
 耕一の防御がまずくなり、浩之の攻撃がよく当たるようになった時点で、英二はあの時
のことを思い出していた。
 最大のチャンスに右のハイキックを打ち込もうとした時のことだ。
 靄がかかった耕一の目。
 それに恐れをなして、自分は攻撃を躊躇った。
 それなのに、浩之は行った。
 断言してもいい、浩之が右フックを打ち込む直前、耕一の目に、あの時と同じ靄がかか
り、そして、その奥底の何かが浩之を一瞥したはずだ。
 それでも、行った。
 おれはまだ若い。
 いつもそう思っているが、この時ばかりは、自分がとんでもなく老いてしまったのでは
ないかと思う。
 浩之は、行った。
 右フックを打ち込んで……いや、身体ごとぶつけていくように行った。
 耕一が頭を引いたり、ずらしたりしてかわしたようには、英二の位置からは見えなかっ
た。
 あの勢い、あの速さ、あの体重の乗り。
 一撃必殺といって差し支えないほどに威力を帯びている。
 オープンフィンガーグローブをはめていなければ、耕一の頭蓋骨と、そして自分の拳も
もろともに砕くような一撃だ。
 渾身、根限りの一撃。
 おそらく、現時点の身体能力、技術、経験で、浩之が打てる最も強い攻撃だ。
 そんなことは無いだろうが……。
 まさか、そんなことは無いとは思うが……。
 これで倒れなかったら……もう浩之に耕一を倒す術は無い。

 どうだっ!
 十分な感触が拳を伝わり、手首を震わせ、腕を伝わり、全身を震わせた時、浩之は心中
に叫んでいた。
 どうだっ! 見たか!
 これだ。
 こんなパンチが打てるようになったんだ。
 こんなパンチをぶち込めるようになったんだ。
 どうだ、耕一さん。
 このまま、打ち抜いて……。
 打ち……。
 抜いて……。
 どうだ。
 振り切ったぞ。
 打ち抜いたぞ。
 おれのパンチが、耕一さんの頭を打ち抜いたぞ。
 おれが、耕一さんを貫いたぞ。
 おれが――。
 耕一さんを――。
 倒れろ。
 倒れるんだ。
 いや、んなこと願うまでもない。
 耕一さんは、倒れるしかないはずだ。
 もしも、倒れなかったら……あるわけが無え。
 あのパンチを思い切りテンプルに食らって立っていられるわけが無え。
 体重200キロで脂肪が一欠けらも無し、首が顔よりずっとぶっとい、とかいう奴じゃ
ない限り、無理だ。
 耕一さんの体重、首の太さ、その他もろもろ――。
 耕一さんの体のサイズで、あのパンチに耐えられるわけが無い。
 勝ったぞ。
 おれが――。
 耕一さんに――。
 倒れろ。
 おれの右フックを貰って、顔が右を向いているぞ。
 膝も曲がっている。
 倒れるぞ。
 もうすぐだ。
 すぐに、かくん、と行く。
 操り人形の糸が切れたみたいに崩れて――。
 その時こそが勝ちだ。
 おれの――勝ちだ。
 もう、すぐだぞ。
 倒れるぞ。
 かくん、とだ。
 糸が切れたみたいに――。
 かくん、と。
 倒れるぞ。
 これで倒れなかったら――。
 ――この人は人間じゃねえ。
 倒れるぞ。
 かくん。
 ほら、かくん。
 かくん、と。
 かくん、だよ。
 かくん……。
 かくん……。
 かくん……。
 ……おい。

 右に捻れた耕一の体がその反動を利するかのように勢いをつけて左に捻り返された。

 ……おい。

 右のフック。

 ……おい。

 空に弧を引いて――。

 ……おい。

 空を切る音が、聞こえた。

 ……んな。

 音の後に、すぐに衝撃が来た。

 ……馬鹿な。

 一瞬だけ途絶えた意識が戻った時、浩之は立っていた。

 ……これは……。

 一瞬だけ、立っていた。

 ……この人は……。

 すぐに倒れた。

 ……人間じゃねえのかよ……。

 倒れた浩之の身体に絶えることなく震えが生じていた。
 奥歯がカタカタと鳴った。
 泣きたくなってきた。

 浩之は、自分が倒れる直前、耕一の右フックによって一回転していたことに気付いては
いなかった。

                                     続く



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