第100話 勝利

 気付いた時には、浩之が倒れていた。

 なんだ。
 おれがやったのか!?
 浩之――。
 倒れた浩之の顔を覗き込む。
 お前、眼球がくるっと上向いてるぞ。
 大丈夫なのか?
 大丈夫じゃないんなら、そのまま倒れてろよ。
 で……。
 おれがやったのか?
 あいつに強烈なの……右のフックだった……そいつを貰って体が捻れて、後の記憶が無
い。
 微かにあるのは、この野郎、だ。
 この野郎。
 ……そう強く思っていた。
 右腕に感触が残ってる。
 ってことは、右のパンチ。あそこから頭に当てていけるとなると、フックか。
 フックで捻られて、お返ししたのか。
 でも、お返しした記憶が無いぞ。
 この野郎、と思って、その次の瞬間が今なんだ。もう浩之は倒れていた。
 おれが、やったのか……。
 いや、間違いなく、おれがやったんだろう。
 まさか、誰かが乱入してきて浩之を殴り倒したわけじゃないだろう。
 おれが、やったんだ。
 おれのこの身体が……。
 この、右腕がやったんだ。
 無意識の内に、反撃したのか……。
 それなら、いいんだけど……。
 もしも、これをやったのがおれじゃなかったら……。
 いや、おれのこの身体が浩之を殴り倒したことは間違い無い。
 でも、その時におれの身体を動かしていたのが、おれじゃなかったら……。
 ヤツだったら――。
 浩之――。
 おい、大丈夫か!?
 死んじゃいないよな?
 そんなことになったらおれは何のために……。
 誰も死なせたりしないために……おれは……。
 あの前の段階で、「ヤツ」がおれの中から這い出してくるのを恐れるあまり、じっとし
て打たれるにまかせていたけど――それが裏目に出たか。
 英二さんの時は、それで上手く行ったんだ。
 でも、浩之は……。
 あいつは、思い切り打ち込んできた。
 ああいう男に、あの手は通用しなかったか。
 思い切ってこっちから打って出ておれの意識がはっきりとしている間に、おれがおれで
ある内に、おれが、柏木耕一が、藤田浩之を沈めてやるべきだったのかもしれない。
 浩之の奴、ぴくりとも動かないな。
 あいつを倒した時のおれが「ヤツ」だったとしたら、その拳にどれほどの威力が秘めら
れていたのか想像もつかない。
 いや、だが、明らかに首が曲がっているようには見えないし、レフリーがその顔を覗き
込みながら悠長にカウントを刻んでいることからして、死んではいないのだろう。
 それに……今、おれはおれだ。
 今の一瞬、意識が途切れたのは、純粋に、おれの記憶が一瞬飛んでいただけなのかもし
れない。
 そうだよ……。
 ヤツなど、もう出てくる余地は……おれの中には……。
 無いはずだ。
 千鶴さんだって、そういってたじゃないか。
 大丈夫だ。
 不安なことは何も無い。
 おれは、おれで――。
 柏木耕一で――。
 ん?
 浩之。
 立ったのか。
 ……なんだよ。
 人を化け物でも見るみたいに――。

 立った。
 ……。
 立ったぞ。
 ……。
 立っちまったぞ。
 ……。
 立たない方がよかったかな。
 震えがよ、止まらねえんだ。
 全身だぜ。
 奥歯はガチガチうるせえぐらいだし、膝だってしゃんと伸びやしねえ。
 こんなの、駄目だろ。
 闘えっこねえ。
 試合開始後の緊張していた状態が生易しいほどにやばい。
 試合が開始してからしばらくの間、おれが感じていた恐怖は、いわば幻想だ。
 自分で想像していた耕一さんの幻影に怯えていたようなものだ。
 それが、ようやく吹っ切れて……。
 攻めて攻めて、後一歩のところまで行ったってところで……。
 冗談じゃねえ。
 怖がっていたのは幻想だと気付いてぶち当たっていったら実像が幻想よりもでかかった
んだぜ。
 おれは、あんなのと闘っていたのか。
 おれは、あんなのに勝とうとしていたのか。
 人間――。
 だよな――。
 でも、とてもそうとは思えねえ。
 強烈なの、思い切りだぜ、テンプルにさ。
 物凄い手応えがして、弾き返されるかと思うぐらい腕に反動が来て、でも、打ち抜いて
やったんだ。
 首、捻じ切れるぐらいにさ。
 力、速さ、タイミング。
 最高だった。
 その、おれの最高の攻撃が効かなかったんだよ。
 そりゃ、全然痛くねえなんてことは無いだろう。
 相当に衝撃を与えたのは間違い無い。
 でも、それでも、ぶっ倒れてさ、よろめきながらカウントセブンぐらいで立ち上がって
くる、とかさ。それだったらいいさ。
 でも……。
 膝を着きもせずに、打ち返してきたんだぜ。
 効いてねえ。
 こりゃ、効いてねえ、ってことだよ。
 あれが効かないんなら、おれはどうすりゃいいんだよ。
 気を持ち直して――。
 そんな、気の持ちよう一つでやり直しがきくようなもんじゃないんだ。
 全身全霊の一撃だったんだぞ。
 これで駄目だったらもういいや、って思って打ったんだ。
 あれが、おれの全部だったから、これで駄目なら諦める。
 そこまで決意して、全てを乗せた一撃だったんだぞ。
 それが――。
 あんな返され方を――。
 畜生。
 なんなんだよ。おれはなんなんだよ。
 全てを賭けたって、効きゃしないんだぜ。
 なんなんだよ、あの人はなんなんだよ。
 おれのパンチが入って、あの人が倒れて――。
 おれの蹴りが入って、あの人が倒れて――。
 おれが腕を取って、あの人がタップして――。
 おれが首を絞めて、あの人が落ちて――。
 そんなことを、夢見ていたおれはなんだ。
 本当に、夢に見たことだってあるんだよ。
 馬鹿じゃねえか。
 極まりきった馬鹿だよ。
 そんなこと、夢に見ていいような男じゃねえだろ、おれは。
 くそ。
「藤田ぁ! わかってんのか!」
 背中に、声が当たってる。
 二回戦で闘った加納久の声だ。
 わかってんのか、っていうのは今度プロ入りするつもりのあいつが、自分を負かしたお
れが無様に負けて自分の価値が落ちて契約金その他に悪影響が出るのを恐れていて、それ
を「わかってんのか」っていう意味だ。
 まあ、加納なりの応援だな。
 でもな、加納さんよ。
 おれもさ、心の片隅にあんたのことを考える気持ちはあったんだぜ。
 おれが無様な試合したら、あんたの評価が下がっちまうから頑張ろう。とか、思っては
いたんだ。それを多少なりともバネにしていた部分はあったんだ。
 可愛いもんだろ。
 まあ、それもついさっきまでだけどな。
 駄目だぁ。
 ……悪ぃ。
 ……ゴメン。
 ……すまねえ。
 もうあんたの評価がどうなろうが知ったこっちゃねえや。
 評価が地に落ちようが、そのせいでプロ活動が上手くいかなかろうが、あんたが路頭に
迷おうが、んなこと知ったこっちゃねえや。
 それどころじゃねえんだ。
 あんたに貰った闘う理由も、もう効き目が無さそうだよ。
 くそ、おれは……それなのに……。
 なんで立っちまったんだろうな。
 あの最高の攻撃、全身全霊を賭けた――こいつが外れたら負けでいい――とまで思って
放った攻撃が効かなかった今、なんで立ったんだ。
 あのままテンカウントを聞いてりゃよかったんだ。
 負けでいいや、って思っているはずじゃなかったのかよ。
 なんで、立つんだよ。
 震えながら、なんで立っちまったんだ。
 負けるぜ。
 あれをあんな風に返してくるような人に勝てっこねえじゃねえか。
 なんで――。
「藤田――」
 誰か、おれを呼んでるな。
 ああ、うん。
 声でわかるよ。
 一回戦で当たった都築だな。
 あんた、おれとやった時にさ、最後に立ち上がってきた時、どんな気持ちだったんだい?
 まさか、あそこから勝てるとは思ってなかったはずだ。
 いかに、カウンターという、逆転劇を演出するのに最適の武器を持っていたとしても、
だ。
 だって、そのカウンターをぶち当てておれを倒したっていうのに、おれが立ち上がって
いる間に、当のあんたは力尽きて倒れちまってた。……そんぐらい、消耗していたんだも
んな。まさか、勝てるとは思っていなかっただろう。
 それでも、立ったんだな。
 なんでだい?
 ああ――。
 行けるもんなら、今すぐ聞きに行きたいな。
 おれはさ。
 気付いたら、立ってたんだ。
 止め止め、もう立つな。潔く負けを認めようや――。
 そういって、立とうとしている身体をたしなめるおれは確かにいたんだ。
 でもさ、まだやるぞ、まだやれるぞ、っていうおれもいてさ、そいつが立っちまったん
だよ。
 おれの99%は「もう止めようや」っていってるんだよ。
 でも、残りの1%がいうこと聞きゃしねえんだ。
 こいつ、99%を道連れに心中するつもりじゃねえだろうな。
 負けたくない、とは思ってるさ。もちろん。
 99%だって、そうだ。
 負けたくない。
 でも、しょうがないじゃねえか。負けは負けだ。
 でもさ。
 1%が認めないんだよ。
 少しでも負けの瞬間を先に先に押しやろうとしてやがる。
 まるで、そうやってたら勝ちが転がり込んでくるみたいにさ。
 ……。
 なんだ。
 つまりは……。
 おれの中に、この期に及んでもまだそんな気持ちがあるってことか。
「納得いくようにな」
 そういっていたのは、確かこの都築だったな。
 くそ。
 しょうがねえな、全く。
 まぁだ勝てると思ってやがる。
 まぁだ納得してねえってのか。
 どうしようもねえな。
 そんでさ。
 おれが、この1%がたまらなく好きなんだわ。
 99%がさ、この頑固でしょうがねえ1%をすげえ好きなんだわ。
 だから、もしかしたら……。
 心中してやるつもりなのかもな。
 この、何がどうなっても負けたくねえって気持ちとさ。

 レフリーが浩之の状態を確認する。
「できるか?」
 と、聞いたのは、浩之が震えていたためだろう。
「なんだ。武者震いか」
 怖くてこんなに震えている人間が、わざわざ立ち上がってくるとは到底思えなかったの
であろう。
「……やります」
「……よし」
 レフリーが中央線へ戻るように促す。
「はじめっ!」

 やります。
 って、いったものの。
 いざ向かい合ったらどうしようもねえな。
 怖え。
 手足の届く位置に入ったら一瞬で殺されちまいそうだ。
 でもよ、逃げるわけにはいかねえよな。
 柏木耕一と藤田浩之の闘いなんだぜ。
 逃げるわけにはいかねえ。
 でも……。
 怖え。
 雅史ぃ。今まで手助けありがとうな。本当に助かったよ。
 あかり、ついでに志保。色々、心配かけちまったな。
 都築、加納。あんたらと闘えてよかったよ。本当に……。他にも、野試合とかした人ら、
今ではすげえ感謝してます。
 英二さん。あなたにも、ここぞという時に助けてもらいましたね。
 葵ちゃん。おれが格闘技を始めたのも、葵ちゃんがいたからだよ。
 親父、お袋。……まあ、ほったらかしだけどさ、おかげで気楽にやれてるよ。
 その他にも、おれが関わってきた大勢の人。
 その誰が欠けても、今のおれは――この藤田浩之は無かった。
 みんなのおかげで、おれはいるんだな。
 みんなのおかげで、藤田浩之はいるんだな。
 その藤田浩之なんだけど……。
 おれは今――。
 すっげえ逃げてえ。
 おれは今、藤田浩之を止めて逃げちまいたい気分です。
 でもさ。
 やっぱり、止めようたって止められるもんじゃねえってのはわかってんのよ、おれだっ
て。
 ちょっと、弱音吐いちまったな。
 だけど吐きたくもなるだろう。
 いや、もう、止めるよ。
 試合、再開しちまったもんな。
 自分だもんな。
 藤田浩之は――。
 自分だもんな。
「結局、最終的には自分だぞ」
 そういっていたのは英二さんか。
 うん、自分だよな。
 そして、自分っていうのは、藤田浩之だ。
 藤田浩之で行くしかねえだろ。
 おい、1%。
 お前だ、お前。
 藤田浩之の中でも、一番負けず嫌いで頑固で、負けないためなら死んじまってもいいと
思ってるお前だよ。
 藤田浩之がまるごと、お前に付き合ってやらあ。
 進むぞ。
 怖えけど。
 進むぞ。
 前に――。
 やっぱ怖えな。
 でも、進むぞ。
「っっっ!」
 なんか、いっちょう叫ぶか。
「っだぁぁぁぁぁぁっ!」
 おお、いい感じじゃねえか。
「おおおぉぉぉぅぅぅ!」
 足が、前に出るぞ。
「ういあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!」
 行ってやれ。
 行け。
 行くんだ。
 行っちまえ。
「落ち着いて、浩之!」
 雅史。忠告ありがとう。
 でも、こうでもしねえと前に進む気にならねえんだ。
 別に、狂っちまったわけじゃないから安心しろ。
 マットを、蹴り付けろ。
 前に、跳ね出していけ。
 思い切り、右のストレートだ。
 ぶん、と。
 打ち抜いて、顔に穴開けてやれ。
 右のストレートが、顔面に届くまで動くんじゃねえぞ。
 あ、消えた。
 やっぱり、無理な注文だったか。
 下に、消えたぞ。
 ただ、かわしただけじゃないだろう。
 うぶ!
 やっぱりそうだ。腹に凄い衝撃。ストレートをかわしざまタックルだ。
 そいつがカウンターになって肩が腹にぶち当たったんだ。
 倒されねえように両足を引いて……。
 引いて……。
 引こうとして……。
 引こうとした両足が浮いて……。
 ごふっ!
 落とされた。
 胴体に両手を回して、強引に持ち上げて背中から落とされた。
 くそっ、この人の方がちょっとタッパ(身長)があるからなあ。
 うわ。サイドポジション――横四方固めになってるじゃねえか。
 動……動けねえ。
 動……動かねえ。
 左腕だ。そこを狙ってる。
 V1アームロックで肘を極めてくるつもりだな。
 早くなんとかしなきゃやられるぞ。
 早く、早く。
 んなもん、肘を返して、ほら、外れた。
 あ!
 やべっ!
 おれが肘を返したのにぴったり合わされた。
 狙ってやがったな。
 V1を極めようとしながら、おれがこういうふうに外そうとしたらこう来るつもりだっ
たな。
 肩が――。
 みきっ、と。
 チキンウイングアームロック――!!

 アームロックという言葉をその名称に含みながらも、V1が痛めつけるのは肘であり、
このチキンウイングのそれは肘と肩である。
 相手の手首を取って、もう一方の手を肩の下を潜らせそれで相手の手首を取った自らの
手を掴んで安定させその腕を引き付けることによって肩を上げさせる。
 肩が浮いて出来た空間に掴んだ手首をねじ込んでいくことで主に肩が、そして肘も極ま
る。
 警察などで採用されている逮捕術に、立った状態で腕を取りそれをねじりながら後ろに
回って相手の手を背中に押し付けて腕を極め前に倒して制圧する型があるが、痛める箇所
はそれと同じである。
 それを寝た状態で、しかも仰向けになっている相手にかけると、チキンウイングアーム
ロックの形になるのである。
 耕一の技はほぼ極まりかけていた。
 浩之は必死に力点をずらしてその瞬間を先送りにするのがやっとだ。
「……浩之」
 極められそうで極められない状況がしばらく続いた後、不意に耕一が浩之の名を呼んだ。
 未だに技は解けておらず、浩之が一瞬でも隙を見せれば即座に持っていかれる状態だ。
「……」
 浩之は警戒を色濃く表情に表しながら無言。
 無言のまま、じりじりと技が極まらない方向へと身体をずらしていた。
「極めようと思えばすぐにでも極められる」
 静かな、声だった。
 その静かさが落ち着きを、そしてそれが自信を窺わせる。
 そういう類のハッタリを吐く人間ではないだろう。
 と、いうことは、本当に耕一は極めようとすればすぐさま浩之の腕を捻り上げてしまう
自信があるのだろう。
 だったら、さっさと極めちまえばいいじゃねえか――。
 既に極まりかかっているために、肩にキリキリと痛みがある。それに耐えながら浩之は
思った。
 一体、なんのつもりでそんなことをいうのか。
「浩之、ギブアップしろ」
 ……は?
 ……なんだって?
 浩之は呆然とした。
 それが耕一の策であったならば、その瞬間に極められていただろう。
 今更、なんだってんだよ……。
 しぶとく技を外そうとしながら浩之は自問する。
 一体、なんでそんなことを……。
「わけありで、とことんまでやるわけにはいかないんだよ、おれは」
 なんだよ……それ。
 どんなわけだか知らないけど、そんなこというなよ。
 わかっちゃいたよ。
 耕一さんが格闘技をやっている理由がおれとは違うんだろうな、ってことはさ。
 自分は闘って勝つため。
 結局は、それであった。
 始めたきっかけとなると少し違うのだが、続けてきた理由はそれだ。
 しかし、耕一にはそれとは違った理由があるのだろうとは、漠然とだが思っていた。
 そう思ったのは、耕一が今まで「勝利」というもの自体への執念を見せたことがないか
らだ。
 最初に自分と闘った時も、今日の第一試合も第二試合も、どこかに「ここで負けても別
にかまわない」とでもいうような雰囲気がある。
 それがプレッシャーと無縁の耕一の闘いの一因であろう。
 でも……。
 それにしたって……。
 そりゃねえよ。
 そんなこというなよ。
 耕一さんはおれのよりでかい理由があるのかもしれねえよ。
 でも、試合場で闘っているんだぜ。
 もしかしたら、耕一さんが格闘技をやっているのは、こんな「ルール」の介在する生易
しいものじゃない闘いのためなのかもしれねえよ。
 でも、ルールはあるけど、ハンデがあるわけじゃないんだ。
 対等なんだ。
 対等で、闘っているんだ。
 こいつは男と男の勝負だぜ。
 そんなこというなよ。
「……まあ、いい」
 いつまでもギブアップせずに技を外そうとしている浩之の耳に微かに、そんな声が聞こ
えた。
 後は、まばたきの間も無い。
 チキンウイングアームロックだ。
「ぎっっっ!」
 浩之が叫ぶが、口から出たのは声とはいえなかった。声帯が発したには違いないのだろ
うが、それを人の声と呼ぶのには抵抗があった。
 だが、よほど我慢強い奴でなければ関節を逆に捻じ曲げられるとこういうふうな「音」
が出てくる。
「折れるぞ! 浩之」
 その声も、押し寄せ続ける大歓声に消されがちであった。もはや、この形になっては決
着はついたと観客が騒いでいるのだ。
「ぐぎぃ!」
 そんな音を声帯から搾り出しながらも、浩之はまだ諦めてはいなかった。
 堪えながら、この体勢から片腕でも反撃する術を探している。
 もはや折らせて、そこから反撃しようというのだ。
 かつて月島拓也と闘った時に使用した戦法である。
 それにしても、耕一が折った時に油断してくれなければおそらく成功は万に一つをさら
に微塵に刻んだほどしかあるまい。
「ぅぅぅぅぅ……」
 浩之の声が低く、くぐもったものになっていた。
 あまり大声を上げて痛がってはレフリーストップがかかるという懸念が浮かんだからで
ある。
「浩之っ!」
 耕一の声がする。
 だが、それよりも靭帯がぷつりぷつりと伸びて、切れていく音が遥かに大きな音量で聞
こえてくるような気がしてならない。
 実際は、まだ靭帯に損傷は無い。
 幻聴であろう。
 ぷつり。
 切れたかっ!
 浩之の耳には確かに聞こえていた。
 肘と肩に聴診器でも当てているみたいに鮮明に聞こえたような気がした。
 ぷつり。
 ぷつり。
 ぷつり。
 まだだ。
 まだ切れてない。
 それはわかる。痛みがまだそれほどではない。”一線を越えた”痛みではないのだ。
 だが、音は確かにはっきりと聞こえるのだ。
 ぷつり、と――。
 今にも、切れるかもしれない。
「浩之っ! ギブアップするんだ!」
「やだ!」
 叫んでいた。
 もう、そんな段階じゃないんだよ。
 できるものなら、穏やかに耕一を諭してやりたかった。
 自分がこの試合場に耕一と相対して立った瞬間から、幾度も揺れ動いてきたのだ。
 耕一の幻影に怯え、色んな人の力を借りてそれを振り切り、だが、自分の力に対するど
うしようもない疑惑が生じ、葵のおかげでそれも振り切り、全身全霊を傾けてぶつかって
いって、幻影よりも巨大な実像にぶち当たり、もう駄目かと思って――。
 それで――。
 最後に残った「負けたくない」という気持ち。
 もう勝てないと思い、もうこの人には負けた、と思い、だが、今なお頑強に孤塁を守る
その気持ち。
 ちっぽけな、藤田浩之の気持ちの百分の一ぐらいのそれに付き合うともう決めたのだ。
 元より無謀。
 腕の一本ぐれえなんだってんだ!
「浩之っ!」
 うるせえっ!
 折ってみろ、畜生!
 折れ、折れ、折っちまえっ!
「ギブアップするんだ!」
「そんなに……」
 そうだよ、そんなに……。
 そんなに試合を終わらせたいなら……。
 終わらせたいなら簡単だ。
 とことんまでやりたくないなら方法は一つしかないだろ。
 いくらなんでも、そんな生半可な気持ちでいる耕一さんに屈服するわけにゃいかないん
だよ。
「耕……一さん」
「浩之っ!」
「だったら、そっちがギブアップしろ!」
 瞬間。
 耕一の左肩越しに、二人の視線が正面からぶつかっていた。
 耕一が技を極めている側とは思えない弱々しい顔をしていた。
 奇妙であった。
 腕を破壊されつつある方が、相手にギブアップを要求しているのだ。
 だが、浩之は大真面目であった。
 そんなに試合を終わらせたいなら、耕一がギブアップすればいいのだ。
 だって、そうじゃねえか。
 それが一番手っ取り早いんだぜ。
 おれの腕をギリギリいわせながら、そんな情けない顔してまいったしてくれ、なんてお
れにいわねえで、そっちがさっさと試合場を下りちまえばいいんだ。
 そうだろ。耕一さん。
 あんた、わけありだとかとことんまでやれないとかいいながら結局……。
 結局……。
 ん?
 なんだ……。
 技の極まりが緩くなったぞ。
 まさか、本当にギブアップするつもりか?
 いや、でも、それにしては完全に技を解いていない。
 ええい、こっちはこんな大チャンス逃さないぜ。

 自分がギブアップする。
 その選択肢は耕一の中にあっておかしくないはずであった。
 現に、反則スレスレの攻撃を仕掛けてきた緒方英二との闘いで、その人間性よりも獣性
を要するような闘いに応じてしまい、自分の中の「ヤツ」が目覚めてしまうのを恐れた耕
一は反則のグラウンドでのパンチを貰った時に、そのまま倒れていて試合を放棄してしま
おうとしたことがある。
 自ら負ける。
 それは、ありえるはずであった。
 しかし……。
 結局、こいつか。
 耕一は、思う。
 あの時も、必死に、立てという浩之の姿を見て、ついつい立ち上がってしまった。
 そして今も――。
 自ら負ける。
 それが一番いいはずなのに……なんでおれはこいつにギブアップしろ、ギブアップしろ
と頼んでいるんだろうな。
 そうか……。
 「ヤツ」を目覚めさせないために、とかいいながら結局。
 結局。
 ん?
 しま……った。
 つい、力を抜いてしまったか!?

 浩之が渾身の力でブリッジをして耕一を跳ね上げる。
 その際に極めた腕が逃げられてしまっていた。
「くそっ!」
 耕一が苦渋を舐めた顔をしながらまた上に覆い被さる。
 まだ依然としてポジションは耕一が有利。
 だが、浩之の両足で右足が絡め取られてしまった。これでは先程のようには自由に動け
ない。

 しまった。
 耕一は強く思っていた。
 思ってから、内心苦笑する。
 自分は何をそんなに悔しがっているのだろう。
 このエクストリームは自分の中でそれほどの価値があるわけではない。師匠にいわれた
のと、少し腕試しのつもりだった。
 それなのに……。
 そうか、やっぱり。
 結局、おれは……。

「ほう」
 その師匠の呟きはもちろん耕一の耳には届いていない。
「あやつ……」
 伍津双英は耕一の顔を見ていた。
「闘いながらあんな顔をするのか」

 ゴングが鳴った。
 第3ラウンドを終わって決着つかず。
 勝負は延長戦に持ち越されることになった。
 両者、立ち上がった。

「耕一」
「……先生」
 係員が用意してくれたパイプ椅子から立ち上がって、双英が試合場の傍らにまでやって
きていた。
「いい顔だな」
「そうですか」
 少し、笑った。
 ボクシング、キックボクシング、柔道、サンボ、空手、テコンドー、レスリング。
 そして、時には総合格闘家。
 色んな奴を呼んでこの弟子と闘わせたが、こんないい顔をしているのは見たことがなか
った。
 その双英が呼んだ人間との闘いに耕一は悉く勝利したが、その勝利の瞬間でさえ、こん
ないい顔はしていなかった。
 一分間の休憩はすぐに終わった。
 再び、耕一は闘いに赴く。
 やはり、いい顔をしていた。

 そうか。
 浩之の顔を見ながら思う。
 そうか。
 結局、おれは……。
 藤田浩之。
 この男に……。
 こいつに……。
 勝ちたい。
 こいつに……。
 負けたくない。

 おれは、勝利だけを目的に闘いたい。

 おれは、こいつに……。
 勝ちたい。
 負けたくない。

 耕一の眼光が鋭さを増していた。
 勝利に貪欲になった人間の目であった。



     第101話 闘争

「本気だよ……」
 試合場の隅に大の字に寝転んでいた。
 その姿勢のまま、浩之はいった。
「本気だよ……」
 何度か、呟いた。
 延長戦を前にした一分間の休憩。浩之は自らのコーナーに戻ってくるなり、その姿勢に
なっていた。
「本気の本気だよ……」
 奥歯と奥歯がカタカタと小刻みに音を立てている。
「浩之、嬉しそうだね」
 雅史がそういうように、浩之の顔は満面笑みであった。
「ああ、そう見えるか」
 自分で、自分がどういう顔をしているのかがわからなかった。
 そうか、おれはそんなに嬉しそうか。
 奥歯がカタカタと……。
 こんなに震えているのに、そんなに嬉しそうか。
 そうか、おれはそんなに耕一さんの本気を喜んでいるのか。
 奥歯が鳴り続ける。
 そうか、おれはこんなに耕一さんの本気を怖がっているのか。
 そうか、おれは――。

 一分経った。
 浩之は立ち上がった。

 本気でやっていいのか。
 耕一の中に絶えず湧き上がる疑問であった。
 そのような疑問は既に何度も感じたことがあった。その度に自分は答えてきた。
「やってはいけないのだ。やるべきではないのだ」
 と。
 それで今までやってきた。
 そのためにはこういった試合での敗北は厭うべきではない。
 自分にとっての敗北とは、もっと違った形でのそれを指すのだ。
 そのはずであったし、そのために行動してきたつもりだ。
 だが……。
 こいつに、負けたくない。
 我が身が二つに引き裂かれるように思いながら耕一は中央線へと向かっていた。
 いい顔をしている、と師匠がいった。
 そうか、おれはいい顔をしているのか。
「わしは、お前が自分などとは全く違う人種なのかと思っておった」
 そう、いっていた。
 闘いを――そのための技術、精神を学ぶのに多大な意欲を見せ、そのために行動を費や
しているわりには闘いそのものを楽しむような様子が全然無かった、と。
 今は楽しそうだ、と。
 そうか、おれは楽しそうか。
 だが、それでもこいつを吹っ切るわけにもいかないのさ。
 本気でやりたい――こいつに勝ちたい。
 そして、それとは全く逆の想い。
 二つに裂かれながら耕一は中央線へ向かっていた。
 だが、こんなものは始まってしまえば……。
 そんなものは、始まってしまえば、吹っ飛ぶ。
 もう、自分の気持ちはそこまで巨大化してしまったのだ。
 これか。
 元々、妹を守るために始めたはずの格闘技に月島拓也が取り込まれてしまったのも――。
 伍津双英や長瀬源四郎が護身のために身につけたはずの技術をもって自ら進んで闘いに
身を投じたのも――。
 これか――。
 二つに裂かれている耕一の双方がそれを感じていた。
 片方は歓喜に打ち震えている。
 そもそも、その片方は歓喜そのものであり、耕一から闘うことへの歓喜が浮き上がり、
隆起し、別たれていったのが二つの気持ちの誕生であった。
 もう片方は、困惑している。
 その味を覚えてしまったか――。
 と、それがいつか必ず来るべきものであったとでもいうように困っている。
 今更、もう戻れないな。
 そう思っていた。
 今更、人類の大部分が文明というものに浸った後に、山野で食料を採取するのみの生活
に戻れないのと同様に耕一も、もう戻ることはできなかった。
 前に進むしかない。
 進んで、そこにある「勝利」を掴むしかない。
 浩之にそれは絶対に渡せない。
 浩之の手がそれに向かって伸びてきたら弾き飛ばし、へし折ってでもだ。
 そこで手を引っ込めることはできない。
 浩之が全身全霊を賭けて掴もうとしている、自分から奪い取ろうとしているそれを、は
いどうぞと譲ることなどできない。
 そんな浩之をコケにしたようなことはできない。
 よし、行くぞ。
 待ってろ、浩之。
 さあ……。
「耕一……」
 ん?
 誰だ。呼んだのは?
 振り返って確かめたいけど、もう浩之が――。
 レフリーが手を上げて――。
「はじめっ!」
 確か、今の声は……。
 ――。
 一瞬。
 少し考え事をしていた。
 あの声の主について、少し記憶を辿っていた。
 その僅かな時間に、浩之との距離が無くなっている。
 顎に軽い衝撃。
 体の真ん中を通っている芯をいきなり抜き取られたような喪失感が耕一を襲ってくる。
 こういった、肉体と骨に直接ダメージを与えぬながらも、脳を揺さぶってくるような攻
撃が「やばい」ということを耕一はよく知っている。
 それ自体、それ単発で昏倒するようなことはないが、次――。
 そう、例えばこの時の耕一のように、その次にやってきた身体状態が万全の時であれば
喰らうはずがないような――右のフックで頭を刈り取られてしまうことがある。
 左のストレートから思い切って距離を詰めての右フックのコンビネーションだ。自分が
大嫌いになるくらい綺麗に決まった。
 体が右に傾いて倒れてしまいそうになった。
 おっ、浩之。止めに左の膝で蹴り上げようっていうのか。
 だったらこっちは、それを受けて――。
 やっぱり来たな、左膝。
 その軌道は読んでいたぞ。
 寸前に顔を横によけさせて、お前の膝頭を頭と左肩の間に挟んでやる。そして、左手を
回して左ひざを抱え込む。
 ん、髪の毛掴みやがったな――レフリーは気付いてないのか流したのか咎めない――。
 で――右膝か!
 効いたぞ、今のは。
 左足を捕まえられたまま右の膝蹴りか、思い切りのいい攻撃だ。
 そうだよな、こういうのが――。
 っと、尻餅ついちまった。
 よし、グラウンドで勝負するか、来いよ。
 オーソドックスにアキレス腱でも極めに来るか?
 それともジャンプしておれの足を飛び越えて上半身を攻めてくるなんて真似も今のお前
ならしてきそうだ。
 それとも――。
 ルールを無視して寝そべったおれに足を落としてくるか?
 そんなことしたら足上げた時に軸足の膝を正面から蹴飛ばすぞ。
 浩之――。
 そうか……距離を取ったか。ここではグラウンドには来ないというんだな。
 それじゃ、レフリーも促していることだし、おれも立つか。
 それにしても、さっきの声は……。
「耕一……」
 そうだよ、この人だよ。
 顔にガーゼ貼り付けて試合場の下に立っている。
 柳川裕也。
 なんだっていうんだろう?
「耕一……」
「……」
「いざとなったら、おれがなんとか止めよう」
「……」
「おれはな……」
「……」
「お前は、もっと自分を信じていいと思う」
「……」
 よし、立って中央線へ向かおう。
 まったく――。
 そんなこといいにわざわざ来たのかよ……。
 おかげで、いいのを三発も貰っちゃったじゃないか。
 もっと自分を――。
 そんなこといいにわざわざ来たのかよ……。
 まったく――。
 ありがとう。
 おじさん。

 右のミドルキックだった。
 後ろに下がってかわせる間合いではなかった。
 畜生。
 この人、足長いなあ。
 浩之は左腕を脇に引き付けて縦に立てながら前に出た。
 衝撃。
 どんっ――。
 膝が当たった。
 ジャストミートは避けることができた。
 でも効いた。
 ガードに使った左腕の肘が押されて左脇に食い込んだ。
 冗談じゃないぞ、このキック。
 浩之は戦慄しながら密着していった。
 組み付いていこうとしたところで、右肩が後方に弾け飛んだ。
 耕一が腰を回転させて自らの右肩を浩之の右肩に当ててきたのだ。
 肩による当て身。
 浩之の体が捻れて体勢が崩れる。
 左足が曲がってしまい上半身が後ろに倒れそうになる。
 体勢を立て直すために後方に反ってしまった上半身を元に戻さねば……。
 思った時には、耕一の左拳が顔目掛けて降ってくるところだった。
 立て直すどころではない。
 いや、立て直すということは上半身を戻すということになり、そうなれば当然、背筋を
酷使して自分の顔を耕一の拳に近付けるという羽目になる。
 むしろ、このまま後ろに倒れてダメージを軽減させた方がいい。
 喰った。
 口だ。
 唇とその近辺を拳で塞ぐようにヒットしてきた。
「んがっ!」
 浩之が左右の手で耕一の左手首を掴んだ。
 顔の前にかざして防ごうとしたのだが間に合わず、手首を掴んでしまったのである。
 このままでは倒れる。
 思った刹那、浩之はマットから両足を跳ね上げていた。
 左膝が水月へ――。
 右足が弧を描いて後ろから、後頭部へ――。
 目的地への到達は、大きく湾曲した道筋を辿った右の方がワンテンポ遅れた。
 水月への膝を、耕一は右手で止めて防いだ。
 そして一瞬遅れてきた右足。
 そう、これだ。
 これが浩之の狙いだ。
 膝へ気を取らせておいてのワンテンポ遅れた後頭部への蹴り。
 耕一は頭を前に倒してかわした。
 後頭部を掠っていくぐらいは覚悟していたが浩之の蹴りは予想よりも高い位置を狙って
いたらしく微かにも触れぬまま足刀は空を切った。
 おかしい。
 なぜ、そのように高い蹴りを打ったのか――。
 浩之の体勢は大きく崩れており、上手く蹴りを放てるような状態ではない。
 その体勢から高い蹴りを打つのには低いそれよりも困難が生ずるのは当然であろう。
 ならば、なぜだ?
 耕一が左の膝蹴りの囮に騙されなかった場合――それは浩之の予想の範疇にあったはず
だ。それほど甘く見られてはいない、との自負が耕一にはある。
 ならば、頭をできるだけ沈めて右足をかわそうとするということも当然予想できるはず
だ。
 低い蹴りでいいのだ。
 首の後ろ、いわゆる延髄に当たるぐらいの高度の蹴りでいいのだ。
 そこを狙えば、耕一が頭を下げても後頭部に当たる可能性が高い。
 高い蹴りは困難な上にメリットはほとんど無いのだ。
 すなわち――。
 これは……蹴りじゃない。
 その結論を導き出した時には、浩之の右足が前から耕一の首を刈っていた。
 こいつが狙いか!
 飛びついての腕拉ぎ逆十字固め。
 マットを蹴って左足が昇り来る。
 また右手で弾く。
「!……」
 その右手を左手で掴まれた。
 その内側を通って浩之の左足がやってくる。
 ほとんど垂直に耕一の体とその右手、そして浩之の左手でできた輪の中を駆け上がって
きた。
 首を刈っている右足に左足を引っ掛けてロックする。
 体重をかけて耕一を後ろに倒そうとしてくる。
 させじとこちらは前に重みを持っていこうとした時、何かがやってきて耕一の顔を痛烈
に叩き、その顔を仰け反らせていた。
 左目だ。
 左、それも下方から何かがやってきて耕一の左目を叩いた。
 咄嗟に瞼を閉じたので眼球に直接ダメージを喰ったわけではないが、それにしても目へ
の攻撃は効く。
 顔が仰け反れば、この状況である。それだけで済まずに体全体が後方へと倒れてしまい
そうになる。
 そうはいくかと立て直しをはかった時、最前の何かがまた来た。
 ――そうか!
 心中に叫ぶ思いであった。予想が当たった。
 この状況で耕一の顔を左方から狙う攻撃など限られている。
 右足、左足は論外。
 左手は耕一の右手を掴んでいる。
 と、なれば右。
 右手だ。
 耕一の右手首を掴んでいた右腕の肘を返して裏拳で殴ってきたのだ。
 人指し指の付け根の部分が眼窩にめり込むように殴ってきた。グローブをつけていると
いっても、ボクシングなどのそれに比べると遥かに薄手のオープンフィンガーグローブだ。
 もう一発。
 耕一が後ろに倒れていく。
 だが、浩之よ――。
 耕一はそれを恐れてはいない。
 焦ったな、浩之。
 お前、このまま後ろに倒して腕拉ぎを極めたいらしいが、肝心要のおれの左腕が自由に
なってるじゃないか。
 お前の右手がおれの顔を叩いている間に、おれが左腕を曲げてしまえば倒したとしても
腕拉ぎは極まらないぞ。
 すぐに右を戻したって右手と左手の腕一本同士の力比べになったらそうそう極められる
もんじゃない。
 左手を戻せば、おれの右手が自由になるから、それを駆けつけさせてクラッチ(結手)
させればいい。
 あの不利な体勢からここまで持ってきたのは凄いけど……惜しかったな。
 左腕を曲げれば……。
 あ……。
 なんだ?
 重い。
 ずっしりと、なんだか左腕が重いぞ。
 馬鹿な。
 浩之はなんの拘束もおれの左腕に加えていないはずだ。
 また一発、右が顔に来た。
 体勢が崩れる。
 やばい。
 倒れる。
 左腕は、まだほとんど伸びた状態だ。
 浩之の右手がおれの左手首を掴んだ。
 左手も戻ってきた。
 おれの右手が自由になったけど、左手が遠い。クラッチできない。
 こいつ、一体――。
 背中に厚くて広いものの感触。
 倒れた。
 腕拉ぎ逆十字固め。
 ――やらせるか!

 耕一が強引にブリッジで背中をマットから上げ、体を返しながらその隙間に差し入れる
ことにより仰向けからうつ伏せになり、さらにその時の肩の回転によって左腕を回転させ
て肘関節の位置を裏返しにしてしまった。
 これでは極まらない。
 ならば、三角締め。
 だが、耕一は左腕を引き上げて防いだ。
「浩之〜っ」
 思わず、口から出ていた。
 耕一の視線の先に自分の左拳を覆っているオープンフィンガーグローブがある。
 黒い表皮が二箇所、反りながらめくれあがっている部分があり、それから僅かに覗く白
いもの。
 中に詰められているスポンジだ。
 まさか、とは思っていたがそれ以外考えられなかった。
 その傷付いたグローブを見て確信した。
 先程、左腕を曲げようとして果たせなかったあの重みだ。
 こいつ――グローブに噛み付いてやがった。
 耕一の中に生まれたのは忌々しさであり、感嘆でもあり、結局は自分が藤田浩之と闘っ
ているという実感だった。
 そうだ。油断してるとこういうことをやってくる奴だった。
 こいつ。
 やってくれる。
 セオリー通りの闘いをするだけの技術を持ち合わせていながら、即座にそれから外れた
ことをやってのける。
 しかも、基礎の次の段階の応用などというわけでもない。
 技術のレベルの高さがどうこういうことではない。
 全く技術の体系が違うのだ。
 それを、いきなりこの場でやってきた。
 レフリーは気付いていない。
 耕一だって仕掛けられて少しの間は気付かなかったのだ。
 ルールある闘いにおいて噛み付きと並んで禁じられている率の高いのが目と金的への攻
撃である。
 これら二つは、攻撃を受ける側の体の箇所である。
 だから、そこに攻撃が入ればほとんどの場合はレフリーにわかる。
 巧妙に仕掛けたとしても受けた側のリアクションでわかる、自らレフリーに反則をされ
たことをアピールもするだろう。
 対して噛み付きである。当然、口を使った攻撃であるが、こちらの場合は攻撃を仕掛け
る側の体の箇所である。
 どこに噛み付くかは仕掛ける側の任意であり、レフリーがその口元を見れない位置にい
ながら即座にそれを見抜くには、やはり受けた側のリアクションを見る。
 だが、オープンフィンガーグローブに噛み付かれたので耕一に痛みは無い。そのために
耕一は痛がったりせずにレフリーもそれを見抜くことができなかった。
 今からそれを言い立てることもできる。
 証拠はグローブの傷跡だ。
 あわや三角締めを仕掛けられている最中であるから、それをして試合を中断させること
によるメリットはある。
 だけど……。
 いいや。そんなの。
 ルールでもなんでも利用できるものは利用しろ。
 師匠の言葉だ。
 ここは、ルールを……レフリーを利用すべきなんだろうか。
 ルールを利用しろ。
 っていうからには利用すべきなんだろうな。
 でも、それをやったら先生、後で怒りそうだよなあ。
 これまで、おれと浩之の攻防はおれが肩をあいつに当てていってから今の瞬間まで停滞
なく一気に進んできている。
 いい感じだ。
 おれが、ここでレフリーに訴えて試合を中断させたらその流れが途絶えてしまう。
 それは嫌だ。
 おれが見ている立場でもそう思うだろう。
 で、たぶん先生もそう思う。
 で、たぶんそう思ったら普段いっていることとか関係無しに怒るだろう。
 で、「ルールを利用しろっていってたじゃないですか」とかいおうものなら張り倒され
るだろう。
 理不尽だ。
 でも、そういう人だ。
 で、おれもそれに関しては同意見だ。
 この流れを断ち切るなんて嫌だ。
 三角絞め?
 こんなものは……。

 英二は思わず呟いていた。
 延長ラウンドが始まってすぐ耕一が倒れ、立ち上がり、再び二人が接触してからほんの
少しだけ時間が経ってからだ。
 呟いていた。
「迷いが無くなった」
 と。
 そう。この試合が始まってから、初めて、二人ともにその動きから表情から迷いが失せ
たのである。
 遅かったと思わざるを得ない。
 3ラウンド、十五分の時を迷いと逡巡によって過ごしてしまったのか、この二人は。
 凄い試合だ。
 手に汗握る闘いだ。
 だが、常にどちらかが迷っていた。
 それが無くなった。
 ようやくだ。
 なのに、もう試合の残り時間は三分足らず。
 そして、その三分も一秒ごとにその身を細らせていく。
 あと三分。
 たったのそれだけで決着がつくのか!?
 いや、もう一分半しかない。
 おおーっ、と会場からどよめきが起こる。
 浩之が高々とその身を抱え上げられていた。
 耕一が左腕と首を両足で包み込んで三角絞めを狙う浩之の体を持って立ち上がったのだ。
「危ない」
 雅史が悲鳴に似た声を上げる。
 このまま落とされたら……。
「落としてくれたらチャンスなんだけど……」
 そういったのは都築であった。
「え?」
 雅史が訝しげな表情を見せる。
「あそこで落とすと……客は沸くんだけどなあ」
 そういったのは加納だ。
「あのまま正面に落としてくれたら、その衝撃で三角絞めが極まるかもしれませんよ」
 葵が雅史に解説する。
 叩きつけることにより、耕一の首と左腕がより深く浩之の両足の輪に入って技が極まる
かもしれないのだ。
 この体勢から落とされても顎を引いて思い切り背を丸めれば頭部へのダメージはほとん
ど無い。
 それでも下がコンクリート、アスファルトなどであったら背中へのダメージが軽視でき
ぬものになるがこのエクストリームの試合場はそこそこの弾力がある。
「落としてくれたら……」
 葵がもう一度いおうとした時、歓声が沸きあがった。
 雅史が叫んでいた。
「落とした!」




     第102話 孤影


「!……」
 落とされたら、その衝撃で……。
 そのことは浩之も当然思っていた。
 内心、是非とも思い切り落としてくれと願っていた。
 だが、耕一とてそのことはわかっていよう、そうそうこちらの思惑通りに落としてくる
とも思えない。
 だが――。
 落とされた。
 いいのか、極まるぞ!
 背を丸めて衝撃に耐えようとしていた浩之を衝撃が襲う。
 背中への衝撃ではなかった。
 物理的な衝撃ではなかった。
 マットに接触する直前に止めた!?
 ずるり、と抜けかかる。
 勢いをつけて落とそうとしてそれを直前で止めれば、浩之の拘束が外れる。
 理屈ではそうだが、そのまま引き込んで倒されないためには相当に足腰が強くなくては
いけない。
 このぐらいは予想の範疇内のはずだ。
 その時、耕一の左腕と首を絞め付けていた浩之の両足に生じた僅かな間隙に乗じて右腕
を侵入させた耕一が内側から拘束を破ろうとした。
「しま!――」
 った。
 首の後ろに回した左足に引っ掛けていた固定させていた右足のフックが外れた。
 ここが外されてしまえば三角絞めなど極まるものではない。
 耕一の右腕が外に向かって浩之の左足を押し退ける。
 さらに、大きく口を開けた隙間に耕一が右膝を突き入れ、中腰から腰を落とし、体重を
乗せたその勢いに浩之の左足は耐えられず、膝によってマットに打ちつけられてしまった。
 跳ね上げようにも耕一が体重を乗せているためにビクともしない。
 絶望的ともいえる状況だが、それも左足に限っての話だ。
 むしろ、相手が体重をかけている場所がはっきりしているということは、重心の位置も
大体掴めるということだ。
 左だ。
 浩之から見て左。
 今、耕一は体の中心線からやや左寄りに重心がずれている。
 ならば、崩せる。
 かといって馬鹿正直にその方向に崩そうとしても無理だろう。却って耕一にそれを悟ら
せてしまうかもしれない。
 耕一の左脇に触れている右足で思い切り押す。
 耕一の体が左に倒れかけた。
 気付いた。
 自分の重心が傾いていたことに耕一が気付いた。
 崩れた体勢を耕一が直す瞬間。
 ここ。
 この一瞬。
 ここで耕一が寸分の狂いも無く重心を中心線上に戻せるのならば浩之の企図は露と消え
る。
 だが、なにしろ咄嗟のことだ。
 左に戻す際に必ず少し余計な力がかかる。
 そこを、さらっていく。
 そこを、持っていく。
 浩之の右足が膝の位置はほぼそのままに、その先を旋回させた。
 踵が耕一の右脇に食い込むように接触する。
 右上の方向に吊り上げる。
 耕一の右脇を右回しに持っていくようにだ。
 浮いた右膝の下から左足を脱出させた。
 その左足が右から耕一の左膝を払った。
 左に――。
 右と同じく耕一の左足は膝立ちになっていた。
 重心が後ろにかかっていれば膝から脛、足の甲にかけての長い「線」にほとんど均等に
体重が乗っているために横から払ったぐらいでは微動だにしないのだろうが、この時の耕
一の重心は前にのしかかっており、左足とマットの接触ポイントは膝だけの「点」になっ
ていたので、これを横から腹って動かすことは可能であった。
 それにしても、左右の足の位置に無理がある。極度な柔軟さが要求される動きである。
 浩之の左右の足が作り出した円運動に完全に巻き込まれた耕一は右に――耕一自身にと
っては左に――倒された。
 そして体勢を直そうとした時には背筋に気配が当たる。
 後ろ――。
 取られた――。
 浩之の両腕が縦横に頭部を包もうとしてくる。
 裸絞め。
 これを防ぐ術はほとんど無い。
 女子の部決勝において来栖川綾香がこれを極めながら負けているが、それも綾香が既に
足首に甚大なダメージを負っていたからだ。
 先程、柳川が完全に極まった状態から外しているが、それに使用したのは技ではなく公
園に置いてあったベンチだった。
 浩之の体のどこにも、触れられただけで激痛が走るような故障箇所は無いし、ここは試
合場のど真ん中だ。
 一度極められればそのまま落とされる。
 耕一にできるのは何よりも技の成立を邪魔することであった。
 反撃は後回しだ。
 顎を引き、自らの両手を使って浩之のそれを弾き、掴み、捻り、目的地への到達を妨げ
る。
「浩之、三十秒!」
 あれは……確か浩之の友人、佐藤雅史の声。
 三十秒。
 もうそれしかないのか。
 この状態からではあと三十秒では決着はつきそうにないな。おれだってそう簡単に極め
させるつもりは無い。
 本戦十五分、延長戦三分。
 十八分というのは二人の人間が死力を尽くして闘う時間としては決して短いものじゃあ
ない。
 たぶん、ことの初めから二人とも迷い無く躊躇い無く全力で闘っていたら、こうも長引
かなかっただろう。
 随分、遠回りしちまったな。
 なあ、浩之。
 今、どんな顔してる?
 この位置からじゃ見えないんだ。
 お前、どんな顔しておれの首絞めようとしてるんだ?
 おれか?
 おれはな――。
 って、自分の顔なんて鏡が無いとわかんないんだけど……。
 たぶん、いい顔だ。
 たぶん、おれ、微笑んでる。
 お前の裸絞めを防ぎながら、たぶん、微笑んでると思う。
 お前は――。
 その時、ぞくりと走った。
 悪寒。
 耕一の尾底骨の辺りから脊椎を駈けてうなじまで一気に来た。
 それが通った後もじわじわと寒冷の余韻が残るような嫌な悪寒だ。
 一見、どこにでもいそうな人のよさげな青年に見えて実はかなりの修羅場を潜ってきた
耕一の背筋にこれほどの凍てつく感覚を縦断させるのは容易なことではない。
 外見からはとてもそう思えぬほどに肝が座っている耕一である。
 殺気!?
 そこまではいかなくとも、限りなくそれに近いもの。
 わかったよ、浩之。
 こんなに自分を凍えさせてくれるお前がどんな顔をしているか、見なくてもわかったぞ。
 おれも……笑ってられないぜ。
 耕一がマットに着いていた両膝を起こして立ち上がろうとする。
 浩之が飛び付いて両足で耕一の胴を巻き付けしがみつこうとした一瞬前、耕一が上半身
を動かした。
 裸絞めを仕掛けるために耕一の頭部を両腕で絞め付けていたため、浩之の体もその動き
に振られて動いてややバランスを崩し、両足を跳躍させるタイミングを逃した。
 その僅かな遅れに付け込んだ形で耕一が浩之の腕を外した。
 横になって首を絞めようとしている右腕の肘を下から自らの右手で押し上げた。
 と、ほぼ同時に体ごと右に九十度回転する。
 鼻が潰れるかと思ったが、なんとか脱した。
 ちらりと浩之の顔が見えた。
 やっぱり――。
 いい顔してる。
 耕一に勝つためにその瞬間瞬間に全力を尽くすことしか考えていないような顔だ。
 あと三十秒しかないから……。
 そんなことでは塵ほども戦意を減退させていない顔だ。
 危ない。
 この顔を見ぬ前にその顔に気付かず、甘い考えで微笑んだままでいたらやられていたか
もしれなかった。
 たぶん、あと二十秒ぐらい。
「浩之、あと二十秒!」
 ぴったり的中。
 しかし、耕一が聞いたその雅史の声を浩之が聞いているかどうかは疑わしい。
 耕一が裸絞めから抜けて、そのままするりと浩之の背後に回ろうとする。
 背後から浩之の腰に回してその腹部の上でクラッチしようとしていた両手の内、右手は
予定の位置まで難なく到達したのだが、左手が捻られた。
 バックを取らせておいてアームロック!
 いや、取らせておいて、などという真似を今の浩之ができるかどうか。この場合、その
場の状況に本能的に応じてのことと考えるのが自然であろう。
「ぬっ!」
 耕一の本能もまた危機に際して動いていた。
 極められないように体を回転して逃れる。
 後ろ手に捻られた左手がもう少しだけ上に上げられればチキンウイングアームロックが
極まる。
 だが、背後を取っているならともかく、横から仕掛けている場合、立った状態ではこの
技を極めるのは難しい。
 こっちも自由に動けるからだ。
 耕一はぐるぐると回転しながら極めさせない。
 だが、浩之は愚直に、それしか知らぬかのように狙ってくる。
 ぐるぐる回る。
「あと十秒!」
 あと十秒か。
 あと十秒凌げば……。
 凌げば……。
 あと五秒ぐらいか……。
 悔いは無い。
 本当に、悔いは……。
 あと、ほんの少し。

 ゴングが、鳴った。

 ありがとう、浩之。
 そういおうとした耕一の左腕に激痛が走った。
 チキンウイングアームロック。
 極まった。
 だが、ゴングは既に乱打されていた。
 鳴り響いていた。
「……ゴングか」
 浩之は耕一の左腕を解放し、ぐったりとした全身をゆったりとした足取りで運んで中央
線へと戻っていった。
 勝負は判定に持ち越された。
 三人のジャッジによって判定は下される。
 これには1ラウンドから延長ラウンドまでの全てが加味される。各ラウンド5ポイント
を振り分ける形式であった。
「20対19……柏木耕一!」
 そのアナウンスを浩之は無感動に聞いていた。
 そのアナウンスを耕一は歯軋りしながら聞いていた。
「19対19……ドロー(引き分け)!」
 そのアナウンスを浩之は無感動に聞いていた。
 そのアナウンスを耕一はほっとしたような表情で聞いていた。
「19対18……柏木耕一!」
 歓声が爆発した。
 柏木耕一の勝利が決定したのだ。
 もう一方のブロックの決勝戦が月島拓也の反則負け、そして反則勝ちをした三戸が病院
に運ばれたとあって、これが事実上の決勝戦と思われていた。それゆえの大歓声である。
 その歓声を浩之は無感動に聞いていた。
 その歓声を耕一は歯軋りしながら聞いていた。
「……どうも」
 浩之がぽつりと呟いて耕一に頭を下げ、背を向けて去っていった。
「……最後のアームロックは危なかった」
 耕一が、その背中にいった。
「……」
 浩之は無言。
「あと十秒あったらおれがギブアップしていたかもしれない」
「……3ラウンド……延長ラウンド……十八分闘って耕一さんの勝ちですよ」
 浩之はいった。
 声に抑揚が無い、張りも無い。
「そういうことですよ」
 故意に感情を押し殺した声であることに、耕一は気付いた。
「あり……」
 ありがとうございました。
 と、いおうとしたのだろうが、それを途中で切って、浩之はそのまま試合場を下りて行
った。

「どっちが勝者だかわからんな」
 そういったのは英二だった。
「納得してない」
 確信に満ちた声であった。
「そんなこといっても……」
 と、いったのは理奈であるが、英二はものの見事にそれを無視した。
 曲を作っている時の顔に似ていた。
 理奈がどんなに声をかけても聞いていない。
 少し叩いても無視する。
 かなり強く蹴飛ばさないとこっちを向かない。
 その時の顔だ。
「よし、おれがプロデュースしよう」
 英二が笑った。
 碌なことを考えていない時の笑顔だった。

「勝ったな」
 控え室に帰ると師匠が待っていた。
「はい」
「負けたような顔をしておるな」
 心底愉快そうに笑う。
「そう……ですか?」
「最後の腕絡みは危なかったな」
「……あと、十秒あればやられていたかもしれません」
「それで、そんな顔か」
「かもしれません」
 双英がふっと遠くを見る。
「どっちが勝ったかを決めるのは結局は本人だよ」
「はい」
「お前は自分が勝ったと思っていないのに、第三者がそれを決めてしまった」
「はい」
「それが気に入らないのだろうが」
「……なんだか、モヤモヤします」
「……たぶん、あの藤田とかいう若いのもモヤモヤしておるだろう」
「だと思います」
「やるか?」
「……?」
「うちの道場でもどこでもいい、あの藤田ともう一度勝敗がはっきりするまでやってみる
か?」
「……」
 迷いは一秒にも満たなかった。
「やります」
 いっていた。
「やります」
 自然と口から出ていた。
 自分が格闘技を始めた理由がなんであったのかを思う間も無かった。
 少なくとも、このように自ら闘いを求めるためではなかったはずだ。
 だが、手段が目的を凌駕した。
 いや、手段が目的と摩り替わった。
 手段である「格闘」に耕一が取り込まれた。
 本来の目的を忘れたわけではない。
 だが、間違いなくいえるのは、この納得のいかないモヤモヤした状態では先に進めない
ということだ。
 もう格闘技を止めてしまうというのならいい。
 だが、そうでなければ拳を振る度に、足を振る度に、モヤモヤとしたものが手足に絡み
つくだろう。
 決着だ。
 浩之と闘って決着をつけるのだ。
 判定による敗北を受け入れたように見えつつ、茫然自失とした浩之の顔が忘れられない。
 突然現れた男だった。
 とにかく自分と闘いたいといってやってきた男だった。
 闘うこと自体を目的としたような、その時の耕一にとっては少々理解しがたい種類の男
であった。
 闘って勝った。
 エクストリームで再び会った。
 自分への雪辱を期してやってきた浩之は見違えるほどに強くなっていた。
 優勝などではない。自分ともう一度闘って勝つために来たのだ。
 優勝を狙うというのなら、浩之は高校生の部に出場すればもっと楽に勝ちあがり優勝も
夢ではなかったろう。
 闘って勝つことが目的ではなかった。
 闘うための技術や精神を学ぶことにより平常心を保ち、自分の中にまだなお眠っている
かもしれない狂おしいほどに血肉に餓えたものの眠りを永遠ならしめるために。
 そして、家族を守るために……。
 だが、その前に闘って勝つことだけを目的に格闘技をやっている男が現れ、やがてその
男の目的は自分と闘って勝つことになっていた。
 こいつに、嘘はつけなかった。
 第一試合の中條辰、第二試合の緒方英二。
 彼らも強い男たちであり、耕一も手抜きしたつもりは無い。
 だが、彼らを相手にとことんやるつもりはなかった。
 中條との試合ではそこへ行くまでに勝負が決まった。
 英二との試合では危なかったが英二の心が折れてくれたために助かった。
 だが、浩之だ。
 とことんやるつもりで浩之は来た。
 とことんやってきた。
 異常なほどのしぶとさを見せる男だった。
 突然怯え出したり、突然狂ったような連打をしてきたり、突然開き直ったり、突然達観
したような表情で攻めてきたりと目まぐるしくその表情と戦闘スタイルを変えながらも、
結局倒されなかった。
 不思議な闘いをする男だった。
 だが、常にどのような状態でもいえるのがこいつが全力だったということだ。
 渾身、根限りの全力。
 その時々で出せる力は全部出してきた。
 へっぴり腰の妙なパンチを打っていた時も、この男にとってはそれがその時の全力だっ
たのだろう。それが耕一にはわかる。
 こんな男相手に手抜きはできない。
 そんなみっともないことはできない。
 そして――。
 おれも、こいつに勝ちたい。
 目的は、こいつに勝つためだけでいい。
 そう思った時、耕一は決断していた。
「失礼しますよ」
 思索を打ち切ったのはドアの開く音とそれに僅かに遅れてやってきた緒方英二の声であ
った。
「どうしたんですか?」
「納得している顔じゃないな」
 英二は、嬉しそうに笑った。

「一人に……なりてえ」
 そういわれて、雅史も葵も、控え室のドアの前で立ち止まりその中に立ち入って行こう
とはしなかった。
 シャワーを浴びる気にはなれなかった。
 じわ、と眼球が潤んだ。
 眼窩の奥から熱く滲み出てくるこの感触。
「ははっ」
 軽く、笑った。
 嘲笑に似た笑いだった。
 泣いてるぞ。
 部屋の壁にかかっている鏡と向き合った。
 ははっ。
 なんだこいつ。
 泣いてるぞ。
「負けた」
 呟いた。
 つう、とそれが頬を伝った。
「ははっ」
 情けねえ奴だ。
 泣いてるぞ。
 負けて、泣いてやがる。
 ははっ。
 涙だ。
 ははっ。
 目が真っ赤だ。
 ははっ。
 いい歳こいた男がよ。
「ははっ」
 泣いてるぜ。
「ひはっ」
 無理して笑おうとして、笑い声が裏返ってやがるぜ。
 泣いてるよ。
 何が不満で泣いてるんだよ?
 簡単さ。
 納得してねえんだよ。
 判定で負けを宣告されたのに、それを受け入れられないで泣いてるんだよ。
 あんなもん、試合全体を見ればどっちが優勢だったかは明らかだろうに。
 ははっ。
 涙が止まんねえぞ。
「負けた」
 そんなこといって、心のどこかで認めてねえクセによ。
 未練がましい男だぜ。
 で、なにしてる?
 ――控え室で泣いてる。
 ははっ。
 馬鹿じゃねえのか。
「おおぅ!」
 叫んで、拳を振る。
 右のストレートだ。
 へなへなしたパンチだな。
 こんなの蝿に受け止められちまわあ。
 全身に力が入らねえ。
 もう、おれは終わりかもな。
 なんか、このまま不完全燃焼のまま腐っていくんだろうな。
 ははっ。
 元々、おれなんかはそれがお似合いの……。
「失礼するよ」
 英二が控え室に入ってきた。
 部屋にいた浩之は知るよしもないがその前にドアの前で雅史と葵を説き伏せてようやく
入室がかなった。
「いい顔してるじゃないか」
 満更、皮肉でもからかっているでもなさそうな英二の声だった。
「……おれは君よりもっとまずい負け方をしたのに、涙が出なかったよ」
 そういった英二は、際限無く溢れてくる浩之の涙を羨ましそうに見詰めていた。
「……なんの、用ですか」
「オファーだよ」
「……?」
「納得いってないんだろう?」
 英二が、嬉しそうに笑った。
 浩之の涙が止まっていた。

                                     続く




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