第11話 道場破り 日曜の午後。 英二はその道場の前に立っていた。 古い建物だ。 幾重もの年輪を感じさせる。 「こんにちわ」 そういって道場に入った英二は、逆さの顔と対面した。 「なんですか?」 と、両手の親指と人差し指の計四本の指を床につけ、足を天に向かって突き上げてい る青年がいった。 「あれ?」 と、いいながら、そのまま腕を動かして近付いてくる。 「えっと……ミュージシャンの緒方英二さんじゃないですか?」 「はい」 青年は両手を肩の辺りまで上げ、瞬間、くるりと軽やかに一転して着地した。 「その緒方英二さんがこんなところになんの用ですか?」 「柏木耕一というのは……」 「おれですけど……」 青年──柏木耕一は不思議そうにいった。 「なんの用でしょう?」 耕一はただの一介の大学生である。別に芸能界に知り合いはいない。あの緒方英二が 訪ねてくるような心当たりは皆無であった。 「いえ、少し練習を見せてもらいたいと思いまして」 「は? 格闘技に興味おありですか?」 「見るだけだけどね」 「はあ……」 耕一は納得がいかぬように首を傾げた。俳優かなにかがよく格闘技をやるという話は 聞いたことがあるが……。 「ええっと……お仕事の一環なんですか?」 「いえ、完全な趣味」 「はあ……」 「上がっていいかな?」 「あ、どうぞ」 と、耕一は英二を招き入れた。今日は、師匠の伍津双英が出かけてしまっていないの で大丈夫だろう。なにしろ、あの師匠は、 「ここに入っていいのは、伍津流を学ぶ者か、伍津流と闘う者しかいない」 などといって、ちょっと見学を、などという人間は速やかに追い返してしまう。 耕一はその点、甘いのか、器量がでかいのか、あまりこだわらない。 「今日はおれ一人で練習しますんで……見ててもあまり面白くないと思いますよ」 などと、せっかく見学に来た英二のことを気遣った。 「いえ、大丈夫です」 英二は道場の隅に正座した。 「それでは……」 耕一は英二に向かって一礼して、柔軟運動を始めた。 「誰かいるかい?」 と、入り口のところで声がしたのはその時であった。 「ん?」 妙に来客の多い日だ。と、思いつつ耕一は入り口の方に視線をやった。 「邪魔するぜ」 その男は、入っていいともいっていないのに、靴を脱いで上がり込んできた。耕一だ けだから少しムッとするだけで済んだが、師匠がいたら、 「耕一、やれ」 と、命令が下るか、師匠自らが奇声を発して飛び掛かっていただろう。 「なんだよ」 傍若無人な振る舞いに、かなり気分を害され、さらにその男が自分と同年齢のような ので、耕一はぞんざいな口調でいった。 その男は、スマートな耕一よりもやや広い肩幅と長身の耕一とほぼ同程度の身長を有 していた。 一回り、とはいわないが、半回りぐらい耕一よりも大きな体格をしている。 眼光は鋭く、常に前方を射抜いている感じで、決して温和そうには見えない。 「おれは佐原(さわら)って者だがよ」 聞いたことの無い名前である。 「知らないな……先生の知り合いか?」 「知らないのは当然さ……先生もたぶん、おれのことは知らないよ」 「入門か?」 佐原は、首を横に振った。 と、なると……思い当たるのは一つ。 「道場破りだよ」 「へえ」 耕一は困ったような顔で頭を掻いた。 「なんだってここに来るかなあ……看板も出してないのに」 ブツブツと呟いてから、佐原に向かっていった。 「ここからちょっと行ったところにさ、おれの兄弟子の熊木って人が開いてる伍津流の 道場があるから、そっちに行ってくれ」 なんだったら地図を……と、いいかける耕一を、片手を上げて制して、佐原はいった。 「おれはここに道場破りに来たんだぜ」 口調にも物腰にも、挑戦的な態度がありありと表れている。 「表に出してねえっていっても、看板はあるんだろ」 耕一の表情から、笑みが消えた。 「そいつを賭けて、やろうじゃねえか」 自分の目の前に突き出された握り拳を、耕一は別に気負うこともなく見つめた。 拳に、タコができている。 道場破りになどやってくるのだから、心得はあるようだ。 「経験は?」 「柔道二段……だけど……キックボクシングのジムにも通ってるからな……こっちの方 も」 と、佐原は右のストレートと右のローキックを立て続けに軽く放った。 「けっこうなもんだぜ」 耕一は、無言で佐原の目を見ている。 「やるのか? やらねえのか?」 佐原は、また握り拳を突き出した。 「やらねえなら、不戦勝ってことで、看板を持って帰らせてもらうぜ」 耕一が、笑った。 「何を笑って──」 やがる。と、続けようとして佐原は声を吐くよりも息を飲み込んだ。 「やめときなよ」 耕一の笑みは、一瞬だけ凍土のごとき冷たさを閃かせたのみで、氷解した。 にっこりと笑っている。 「おれがその気だったら今ので終わりだ」 耕一の右拳に、佐原の息が当たっていた。 ただの握り拳ではなく、親指を握り込んで、中指だけを突き出し爪を親指に引っかけ るようにしている。 その中指が、佐原の唇と鼻の間を狙って一直線に伸びている。 寸前──ほんの数ミリ前で拳は停止していた。 上唇と鼻の間には、人中と呼ばれる人体上の急所が存在する。 耕一が「その気」で打ち抜けば、今頃、佐原はただでは済まなかっただろう。 「やめときなよ」 もう一度、耕一はいった。 佐原は、チラリと道場の隅に正座して一連の成り行きを見守っている英二を見た。 英二は細い目をして佐原の目を見返した。 微かに、英二の肩が揺れた。 溜め息をついたように、佐原には見えた。 耕一が右腕を引いた。 もはやその体からは、闘気は感じられない。 入れ代わるように、佐原の右腕がしなり、右拳が走った。 当たった。──はずであった。 目の前に、耕一の顔があった。 耕一が佐原の拳を横にかわしつつ、互いの顔が密着するほどに前に出たのである。 攻撃──。 防御──。 いずれとも判断しかねる内に、佐原の頭部は耕一の両手に挟まれていた。 「やめとけっていってんだろう!」 至近で、目と目が合った。 「いい加減にしないと……どうでもよくなっちまうよ」 耕一の目が、怖かった。 怖くてたまらなかった。 これは、果たして人間の目なのだろうか。 「どうでもよくなっちまうよ、おれだってさ」 目を逸らしたいのだが、逸らせない。 こいつと目を合わせるのは怖い……。 「おれが刑務所に入ったら従姉妹が悲しむだろうなあ、とか」 だが、目を逸らすのはもっと怖い。 「お前にもしものことがあったら、御両親が悲しむだろうなあ、とか」 蛇と蛙だ。 「全部……どうでもよくなっちまうよ」 「……」 口を幾度か開閉した。 魚みたいだな、と耕一は思った。 佐原の口からは、音声は発されなかった。 ただ微かに、風を切るような、ふひぃ、とでもいうような音が出た。 「やめときなよ」 頭部から離した両手で、耕一は佐原の肩を軽く叩いた。 膝が、床を打った。 「いや、どうも、変なとこを……」 頭を掻きながら、耕一は英二の前にやってきて頭を下げた。 「いえ……」 と、英二は首を横に振った。 「おい! あんた!」 佐原が、立ち上がって叫んでいた。 「まだなんかあるのか?」 振り返った耕一は、佐原の瞳に、微笑んでいる英二の顔がうつっているのを確かに見 た。 「金は、いらねえ! おれは、もうやめるぜ!」 叫ぶや否や、佐原は入り口に幾度か倒れそうになりながら向かい、慌てて靴を履き、 踵を踏み潰したまま、ひょこひょことした足取りで出て行った。 「ふう……」 英二は、大きな溜め息をついた。 「英二さん……」 耕一の視線が少し痛い。 「彼はね……喧嘩屋なんだよ」 「喧嘩屋?」 あまり聞き慣れぬ言葉である。 「と、いっても、彼が自分でそう称しているだけなんだけどね……」 「はあ……」 「柔道二段でキックボクシングをやっているというのは本当だ。あれであの男、なかな かのものなんだよ、でもね……ちょっと自分の強さに自惚れるところがあってね」 「はい」 確かに、ここに入ってきた時の態度から、そういう感じは受けた。 「それで、金が無くて、でもコツコツ働くのはいやなんで、喧嘩屋なんてものをやって いたというわけさ。幾らかの金を貰って人を殴ったり蹴ったり」 「はあ……」 「いつもは一万とか二万とかで請け負ってるらしくてね、おれが十万出すっていったら 喜び勇んで引き受けてくれたよ」 「ええっと……つまり……」 「しかしね、やっぱり君の相手じゃなかったな……力不足はともかく、依頼主をバラし てしまうなんてね! 全く、しょせんアマチュアだよねえ、プロ根性ってものが無いん だよ! そうだろ、青年!」 「あ、はい……」 「探偵だって殺し屋だって依頼主が誰かは絶対にいわないもんだよ、常識だよ! ねえ」 「はい……ところで……」 「なんだい」 「つまり……今のは英二さんの差し金だったわけですね」 「そうだよ」 沈黙。 静寂。 溜め息。 「はあ……勘弁して下さいよぉ」 「いやいや、ゴメンゴメン」 英二は素直に頭を下げた。先程の耕一を見ていただけに、本気で怒ったらどうしよう とちょっと心配ではあった。 「うーん、君の闘っているところをどうしても見たかったんだよ」 「なんで、そこまでして……」 「あの長瀬さんに勝ったなんて聞いたら……見たくなるのも当然だろ」 英二がにやりと笑った。 「長瀬さんと知り合いなんですか?」 思わぬ人から思わぬ名前が出てきたので、さすがに耕一は驚いた。 「ま、ちょっとね」 英二がそういった時、 「すんません」 また、入り口の方で声がした。 「なんだってんだ。今日は……」 呟きながら、耕一が入り口の方を見ると、一人の男がそこに立っていた。 ごくごく普通の服装をした高校生ぐらいの男だった。 だが、眼光が先程の佐原以上に鋭い。 「えっと……どちらさん?」 「藤田浩之っていいます」 目が、研ぎたての刃物の光を帯びる。 「……面白いねえ」 小さな呟きは、目を細めて微笑んでいる緒方英二が発したものであった。 第12話 闘気 藤田浩之。 そう名乗った男は、鋭い……やや鋭すぎる眼光を耕一に向けていた。 「柏木耕一さんですか」 丁寧な物腰で尋ねたところを見ると、さっきの佐原よりは礼儀正しいようだが、全身 から触れれば切れるような鋭利な雰囲気を発している。 「なんだい?」 「おれと立ち合って下さい」 真っ直ぐに耕一を見ていた。 「道場破りか?」 「いえ……あなたと立ち合いたいんです」 「駄目だといったら?」 「打ち込みます」 視線は、やはり真っ直ぐに、浩之は握り拳をゆっくりと突き出した。 「おれが相手をしなかったら?」 「打ち込みます」 真っ直ぐに耕一を見ていた。 「あなたが無抵抗だろうが、後ろからだろうが、打ち込みます」 「否応無し……と、いうわけか……」 「すんません」 浩之は深々と頭を下げた。 耕一の右足の踵が僅かに浮く。 素早く、浩之の両腕が上がった。 「ほう……」 耕一が小さく呟く。 頭を下げたところを、顔を蹴り上げてやろうと思っていたのだ。先程の佐原のように 攻撃を寸前で止めて脅かすとともに、 「後ろからでも打ち込むとかいっている奴が、敵の前で頭を下げるなんていかんなあ」 などと説教を喰らわして追い返そうと企んでいたのだ。 こいつ、察したか。 今の位置からは耕一の足下は辛うじて見えるかどうかであろう。耕一の踵が浮いたの に気付いたということは、無防備に頭を下げたようでいて、しっかりと警戒していたと いうことである。 「なんだ……」 頭を上げた浩之は嬉しそうにいった。 「耕一さんも、やる気あるんじゃないスか」 にっこりと笑った。 嬉しそうに、真っ直ぐ耕一を見ながら……。 「いいだろう」 耕一は身を翻した。 「入れよ」 道場の中央で手招きする耕一に改めて一礼して、浩之は靴を脱いだ。 「着替えていいですか?」 浩之は右手にスポーツバッグを下げている。 「ああ」 浩之は、道場の隅でバッグを開け、下半身に道着のズボン、上半身に黒いTシャツを 着た。 「緒方英二さんですか? ……ミュージシャンの……」 着替え終わった浩之は、すぐ側に座っていた英二に向かっていった。 「ああ」 「なんで、ここに?」 心底、不思議そうだ。当然ではある。 「見学にね」 「はあ……」 浩之は納得しかねるようであったが、 「こっちはいつでもいいぞ」 と、道場中央で耕一がいったので、英二に背を向けた。 「藤田くんといったね」 その背中に、英二が声をかけた。浩之は振り返り、何もいわずに頷いた。 「君はまるで抜き身の刀だな」 「おれの理想ですね」 そういって、再び前を向いた。 「目潰しと金的」 耕一は親指と人差し指を折った。 「この二つは、一歩間違えたらやばい……無しにしよう」 「おれはそれでいいっスよ」 「うん」 耕一は頷き、やや腰を落とした。 「もう、始まってるんですね」 「ああ」 耕一は、いったきり動かない。 誘っているのか……。 浩之は前に出た。 近付いた。 完全に間合いに入った。 それほど手足のリーチが大きく違わない以上、耕一にとっても、相手が射程距離内に 入ったことを意味する。 しかし、動かない。 浩之は左の前蹴りを放った。 耕一は後ろに下がってかわす。 蹴った左足でそのまま踏み込んで、浩之は左右の正拳をワンツーで打った。 耕一の体が、風に飛ばされた綿のように軽やかに下がった。 右の回し蹴り。 下がる。 右の正拳から左のローキック。 下がる。 「このっ!」 浩之の中で何かが弾けた。 舐めてんのか、この野郎はっ! さっきから、耕一からはほとんど闘気らしいものが感じられないのである。 闘っている最中に、これほど気が静まっている奴は初めてだ。 耕一の背中が、道場の壁に接触するほどに接近した。 追い詰めた! 浩之の右腕が唸った。 耕一が、今までと一転して横に飛ぶ。 浩之の右拳は昭和三十一年に建てられた道場の壁に穴を作った。 「あ、やってくれたな……寒い時期だってのに」 と、いった耕一の顔に冷たい風が吹き付ける。 「耕一さん……」 浩之は突っ立っていた。 構えも取らず。 穴から吹き付ける寒風を浴びながら。 「真面目にやってくれませんか?」 怖い顔でいった。 「え?……」 「真面目にやって下さいよ」 また、怖い顔でいった。 いや、悲しい顔かもしれなかった。 怒りと悲しさが、見事に浩之の表情で同居していた。涙を流さぬ泣き顔というものを 耕一は初めて見た。 「決して、不真面目にやってるつもりはないぞ」 耕一はいった。本音であった。 「今、反撃しなかったのは、お前の攻撃に隙が無かったからだ」 これも、本当であった。 耕一は、浩之に先制させて隙が出来た瞬間に反撃に転じようとしていたのだが、浩之 の攻撃は一つ一つが素早く強く、その間に隙も無駄な間隙もなく、正直いってかなり驚 いていたところである。 「そんなことじゃねえっ!」 叩き付けるように、浩之はいった。 まだ、あの顔をしていた。 「闘気が……死に物狂いに闘おうって時に出る気っていうか……雰囲気っていうか…… そういうのが全然ねえじゃねえかっ」 「……」 「こんなんじゃねえだろ、あんた!」 耕一は、沈黙していた。 目の前で、さっきまで、闘気をその身を焦がすほどに放っていた男が、なんともいえ ない顔で、怒鳴り散らしていた。 「むき出しの闘気は忌むべし」 耕一が、ぽつりといった。 一瞬、浩之の表情に困惑が浮き上がる。 「伍津流の心得の一つだよ」 「へえ……」 「だから、それは勘弁してくれ」 「そういうことならしょうがねえけど……」 浩之は、そういって苦笑しながら続けた。 「伍津流ってのはおれには合ってねえみたいだなあ」 浩之の周囲の気配が変じた。 むき出しの闘気。 「行くぜ」 いわれないでもわかる。 こいつは来る。 「来い」 浩之の足が跳ねた。 右の中段蹴りを耕一は左腕でガードした。 ビリッ。と痺れた。 次の瞬間、浩之の左拳が疾走してくる。 それを右腕を跳ね上げて弾くとともに左足を踏み出し、左拳を打ち出す。 腹部に衝突した。 「くあっ!」 浩之が苦しげに呻く。 耕一もまた、顔を渋面にしていた。 ずらされた。 水月を狙ったのに浩之が体をずらしたために外れた。 それに、思ったよりも腹筋を鍛えているようだ。 「!!……」 声無き気合が、浩之の口から放たれる。 ややフック気味の右が、空を切り裂いてやってきた。 耕一の上半身が後方に下がる。 スウェーバック。 フックやアッパーなどの弧を描くようなパンチをかわすのに適したかわし方である。 フックがかわされるのを見越していたように、即座に浩之は右のローキックで追撃し た。 スウェーバックの直後にこれが来ると、非常にかわしにくい。上半身だけを動かすた めに下半身は踏ん張った状態になっているからだ。 耕一の左足が浮く。 上半身は既に立て直している。 さすがに立て直しも早い。 浩之は驚嘆しつつも、己の右足に全力を乗せた。 浩之のローキックを、耕一は左足のスネで防いだ。 「おおっ!」 しかし、その威力は尋常ではなかった。 耕一の右膝が僅かにだが曲がる。 崩れた! 左足を浮かせていて、右足が曲がってしまっている。 浩之は右拳を放とうとして、刹那、寒気を感じた。 耕一の右手が凄まじい速さで突き進んできた。 指が、ぴしっ、と伸びている。 足の状態が悪いので踏み込めないため、手による攻撃の射程距離が著しく短くなって いる。それを補うための貫手である。 これほどの実力者でしっかりと武道を習っている男だから、砂を突いたりして貫手は 鍛え上げてあるだろう。 これを喰ったらやられる。 その一撃には耐えうるかもしれないが、正面から首にでも当てられてしまっては呼吸 困難などの「副作用」が生じ、それが敗北の呼び水になるに違いなかった。 浩之は上半身を捻りながら後方に下がった。 耕一の貫手が迫る。 耕一の右手が伸びきった。 生き残った。 目の前で停止した貫手を凝視する浩之の額が冷たい汗で湿っていた。 浩之の左手が唸りを上げて走り、宙を掴んだ。 「ちいっ!」 浩之は激しく舌打ちした。 手首を取って投げを打つか、間接を決めてしまおうとしたのだが、さすがに戻しも速 い。 双方、バランスが崩れている。 ある程度の距離ができたこの時に、二人とも体勢を立て直した。 「ぬあああああっ!」 浩之が迸る気合とともに前進する。 一息ついて、などという悠長な男ではなかった。 「おう!」 叫びながら、耕一はなんだか嬉しくなってきた。 浩之の攻撃は連続して放たれてくる。 強く、速く、間隙なくやってくるその攻撃を防御するだけでけっこう大変だ。 パワーとスピードのバランスが非常にいい。 その上に、鬼気ともいえるような闘気を周辺の温度が変わるぐらいに発していて、耕 一だからよいものの、あまり喧嘩をしたこともないような人間だったら、その迫力だけ で気圧されてしまうだろう。 抜き身の刀。 とは、英二の言葉であるが、なかなかこの男の本質の一面を捉えた言葉であるといえ る。 「っらあ!」 抜き身の刀。 触れれば切れる。 だが、耕一から見て、浩之に欠点があるとすればそこだ。 ある一線を越えると、自分の闘気をコントロールできず無理押しをしてしまうような ところがある。 浩之の両手両足から繰り出される攻撃をもう三十発は受け、さばき、かわしている。 いくらなんでも、疲れが出てくるに違いない。 浩之の右足が浮いた。 右の中段回し蹴りを放ってくるようだ。 最前までは、それを察した途端にそれを防御すべく左足か左腕を動かしていた耕一で あるが、今回のそれの動きが遅いのを瞬間的に見抜いた。 今までに無い積極さで前に出た。 浩之の回し蹴りが放たれようとした一瞬前。 「せいっっっ!」 耕一の右拳が迅雷の速度で駆ける。 浩之が両手で顔面をガードしているので胸部を狙った。 浩之の体が飛び、耕一から五メートルほど離れたところに落ちた。 「刀なんてものは……」 耕一はその位置を動かずに、上半身を起こした浩之を見ながら……しかし、誰に向か っていうともなく呟いた。 「使わない時は鞘にしまっておくもんだ」 浩之の顔色が変わっていた。 第13話 応え合い 床が、やたらと冷たかった。 なぜ自分が後ろ向きに飛んで背中を床に打ち付けたのかが、咄嗟には理解できなかっ た。 なんだ? どうした? 何がどうなっておれは倒れてるんだ? 胸の辺りが痛い……ってことは……おれ、やられちまったのか。 理解は、痛みの後に着いてきた。 「立てるか?」 構えを崩さぬまま耕一がいった。 とにかく、立たねばならない。 浩之は立ち上がった。 「続けるか?」 耕一の問いに浩之は頷いた。 構える。 構えた途端に、全身に力が満ちた。 浩之の心を駆け抜けたのは安堵であった。 まだ……やれる。 「やろう」 呟くと同時に前進していた。 指先まで力が充満している。 まだまだ……やれるはずだ。 「おうっ!」 浩之の前蹴りを耕一は後ろに下がってかわした。 浩之はその後を追って踏み込もうとした。 踏み込んで、すぐに次なる攻撃を放とうとした。 だが、浩之の体は前蹴りを打った時の位置から一歩たりとも前に動いてはいない。 どうした? と、いうような表情を耕一はした。今までの浩之だったら絶対に踏み込 んできたはずだ。 先程の一撃で警戒心が芽生えたのだろうか。 耕一は浩之から三メートルほどの距離をとって、その場で浩之の出方を待った。 浩之の表情には焦りの色が浮き上がっていた。 踏み込めなかった。 踏み込まなかったのではない。 踏み込んで第二撃を耕一に送り込むという意思は浩之の中に旺盛にあった。 右の正拳を叩き込んでやろうと思っていた。 だが、足が止まった。 耕一が思ったように、警戒心によるものであったのなら、浩之はここまで焦らない。 無意識の内に足が止まっていたのだ。 先程の耕一の一撃のせいであるのは明白である。 踏み込めなかった。 自分が、この柏木耕一という男を恐れたのだ。 何を怖がっているんだ? 自分で自分に尋ねたかった。 さっさと前に進まねえかっ! 自分で自分を叱りつけたかった。 浩之はゆっくりと踏み出した。 やってやる。 おれは抜き身の刀だ。 おれに触った奴はみんな切り刻む。 行ける。 前に出たぞ。 なんだ、行けるじゃないか。 怖くなんかねえ。 それどころか、拳を、足を、思い切り叩き付けてやりたい。 やる気満々ってやつだ。 怖くなんかねえぞ。 左の中段回し蹴りを放った。 畜生、また下がりやがった。 今度はもう恐れたりしねえ、踏み込むぞ。 右! 左! 正拳のワンツーだ。 下がって、下がって、表情が変わりやがったぞ、これは出てきやがるな。ここは…… 仕方ねえ、後ろに下がるか。 しかし、それにしても……今、確かに闘気が来たよな。あの人の方から……。 さっき、なんかいってやがったな、なんだっけか? 「刀は使わない時には鞘にしま っておく」とかいったんだっけか? つまり、おれが抜き身の刀なら、この人は鞘に収まった刀ってことか。 でも、抜く時は抜く。 当たり前だよな。抜かれない刀なんて棒みたいなもんだ。 この人は、抜く時は抜くんだよな。 おっ、なんか目つきが変わったぞ、こりゃ抜く気だな。 ってえ! すげえ蹴りしてやがんな。 しっかりガードしたってのに手が痺れちまったぜ。 こんなの、素人が相手だったらガードした腕をへし折っちまうんじゃねえのか。 怖い人だな。 うん、本当に怖い人だよ。この人は。 あれ? ……今、怖いってことを認めたのか? おれは……。 さっきまで必死になって否定してたのによ。 でも、体は前に出るんだぜ。 怖い人に向かってどんどん前に出て行くんだぜ。 おらっ! おれの蹴りが当たったぞ。 今まで涼しい顔してやがったのに、今の一発でちょっと顔が苦くなりやがった。 抜くか? そろそろ抜いてきそうだぞ。 来た来た来た来た! 速いな、おい。 もう目の前にいるぜ。 真っ直ぐに右正拳だ。 すごく力がこもってる拳だ。見ればわかる。 ガード──した腕を弾き飛ばしやがった。おい、やべえな! 痛いな。 それに、周りの景色が前にふっ飛んだぞ。 いや、おれが後ろにふっ飛ばされたのか。 今のは、右でガードを飛ばしたとこに左が来たのか。力強くて速くて真っ直ぐで、な んの小細工もねえ気持ちのいい攻撃しやがるなあ。 でもな、おれだってただぶん殴られたわけじゃねえ。 右足を突き出してやった。 そのおかげで今の正拳は浅かったな。 立てる。 まだやれる。 なんか……随分激しく動いたのに随分と寒いな。 さっきの攻撃がそれほど「効いた」のか? 寒くてしょうがねえぞ。 それで、汗はダラダラ流れてきやがる。冷汗だな、こりゃあ。 おれは抜き身の刀じゃねえのか? 相手は鞘に入った刀だ。 おかしな話だぜ、鞘に入ってる方が平然としてて、抜き身の方が怖がってんだ。…… って、他人事じゃねえな。なんか、おれの考えることが自分でわけわからなくなってき たぞ。 おっと、闘わなきゃ。もう、すぐそこまで来てるんだ。 ローキックからワンツー。 悲しいほどに当たりゃしねえな。 この人がコソコソ後ろに逃げるからだ。 「来やがれっ!」 まだこんな大きな声が出るんだな。 ゴツッ。 と、音が鳴った。 ホントに来やがったな。 真っ正面から真っ直ぐに右の正拳だ。思い切り顔に貰っちまった。 よく、いいパンチ貰うと脳が揺れるとかいうけど、こりゃそんなもんじゃねえな。脳 なんてどっか飛んで行っちまったんじゃねえのか? あるか? おれの脳? なんて馬鹿なことでも考えられるってことは、まだ健在らしいな。 ところで、おれ、またダウンしちまったんだな。 これで何度目だぁ? とにかく立たなきゃな。 立たないと、終わっちまう。せっかくいい感じだってのによ。 なんか……口の中に固いものがあるな……。 なんだこれ? 歯か? ぷっ、と床に向けて吐き出したら、コン、と音がした。やっぱり歯だったんだな、ま、 どうでもいいや。 それより、立たないとな。 「しぶといな……」 へへへ、今ので終わったと思ったんだろ。おれもそう思ったんだけどよ、どうしても まだあんたとやりたくてさ。そしたら体が勝手に立ちやがったんだよ。 ん? 腕が、上がらねえぞ。 おい、上がってくれよ。 もうちょい付き合ってくれよ。 右の中段回し蹴りが来たぞ。 すげえな、ピリピリどころじゃねえな。そんな静電気みたいなもんじゃなくてよ、何 万ボルトも全身に流れてるみたいだ。 飛んだよ。 大の男が飛んで、転がったよ。 またダウンだ。 また立たなきゃな。 にしても……付き合いのいい人だなあ。 その気になりゃ、おれが倒れたのを追っかけてよ、マウントポジションとって殴りま くるなり、間接決めて折っちまうなりしちまえばすぐに終わるってのによ。 この人、最後までおれに付き合うつもりだな。 立たなきゃな。 立ち上がって、応えないとな。 申し訳ないぜ。 っっっ!! ローキックを貰っちまった。 その後、間髪入れずに踏み込んできてテンプルに打ち抜くような右フックだ。 強烈、としかいいようがねえな。 今、おれの体が一瞬逆さになったぞ。 今度こそ、脳が飛んでったかな? 自分が、どこでどうなってるのかもよくわからねえや。 何がなんだか、全然わからねえ。 そんでよ、頭ん中にあかりがいやがるんだ。 心配そうな顔してんだ。こいつが。 なんか他にもあんだろ。 この状況で、なんであいつのことが思い浮かぶんだよ。 でも、周りは真っ暗なんだよ。本当にあかりの奴しかいねえんだ。 なんかさ、真っ暗なとこに、おれとあかりしかいねえんだよ、他のもんはなんにもね えんだ。 おれ……なんか大事なことやってたはずだよな? おれ、まだやり足りねえよ。 まだ、あの人とやりてえよ! でも、あかりがおれのことを抱きしめようとしてるんだよ。 浩之ちゃん。こっちおいでよ。って、両手を広げてやがるんだ。 ええい、あっち行ってろ。 おれは今、やらなきゃいけないことがあるんだ。 なに? おれが死んじまうって? 馬鹿いってんじゃねえよ。 あん? 私のこと嫌いになったのかって? それこそ馬鹿いってんじゃねえよ。 立ったぞ。ほら、おれは前に進むんだ。 そんで、あの人と闘うんだ。 だから……頼むから……おれの前からどいてくれ。 耕一の足が、浩之の腹部へ吸い込まれるように一直線に突き刺さった。 意識が……飛んでいっちまいそうだ。 ん? まだいたのか。 何度もいわせんじゃねえよ、おれはお前が……。 「いい闘いだった」 いつの間にか、英二が立ち上がり、浩之を見下ろす耕一のすぐ後ろにまでやってきて いた。 「今日はいい日だ」 英二の目は、勝者にも敗者にも、柔らかく、暖かい視線を注いでいた。 耕一の闘いを見られただけではなく、面白い男を知ることができた。 満足そうな笑みが英二の表情の端に覗いた。 耕一は、しゃがみ込んで浩之の様子を見ている。 「一応、医者に診せた方がいいと思います」 「そうか、近くに車が停めてある。それで行こう」 「すいません」 「なあに」 観戦の代金と思えば安いものだ。 第14話 甘える 「なんですってえ!?」 月曜の昼休み、長岡志保が屋上で咆哮した。 寒い屋上で昼食などいやだったのだが、あかりが話がある、といって屋上に志保を誘 ったのだ。 この時期、寒空の元に好んで身をさらす生徒などそうそういないから屋上には人影は 少ない、と、いうか、皆無である。 人に聞かれたくない話ね。 と、志保は即座に察した。 と、いうわけで、二人は屋上に来ていた。 「志保、お昼ご飯まだでしょ」 あかりがそういって弁当を広げ、志保に、どこかで見たことのあるような弁当箱を差 し出した。 それを受け取ってじっと見てみる。 以前、ある知人がこれに顔を押し付けるようにして中身を口中に掻き込んでいたのを 目撃して、食べ方が下品だと苦言を呈したことがある。 どうりで見覚えがあるはずだ。 「あかり、ヒロと一緒に食べるつもりだったんでしょ?」 あかりは一瞬、困ったような顔をして、頷いた。 「うん、でも……浩之ちゃん、今日は食欲無いっていうから……」 そこで、冒頭部の咆哮が炸裂するのである。 「なんですってえ!?」 志保は我がことのように怒った。これはいつものことで、浩之があかりと付き合い始 めてからというもの、浩之があかりにひどいことをしている、と思った途端に志保は激 怒するのである。あかりはそれを志保の友情によるものだと思っていたが。実際には、 もっと入り組んだ感情が志保にはある。 とにかく、志保はこの場合も怒った。 「あの馬鹿! せっかくあかりが作ってきたんだから吐いてでも食べりゃいいのよ!」 志保は叫ぶや否や、浩之専用の弁当箱を顔に押し付けるようにして凄まじい速さで飯 を掻き込んだ。 「ごちそうさん!」 僅か三分後、叩き付けるように弁当箱を置き、跳ね上がるように立った。 浩之は、雅史と一緒に中庭にいた。 今、昨日のことを雅史に話し終えたところである。 「それじゃあ……その耕一さんに……」 「おう」 浩之は努めて無表情を装っているように見えた。 「食欲が無いっていうのは……」 「昨日、自棄食いした」 「そう……」 浩之は、不機嫌そうに沈黙していたが、やがて雅史を真っ正面から見据えた。 にっ、と笑った。……ように見えた。 しかし、浩之は笑ったのではなく、雅史に歯を見せようとして唇を動かしたのだ。そ の証拠に、目は笑っていない。 「それは……」 歯並びの良かった浩之の前歯に、黒い穴が空いていた。上の、中心から見て右に三つ ほど行ったところの歯がすっぽりと無くなっている。 「ぶん殴られた時に、折れちまったみてえなんだよな」 そういって、浩之はポケットからティッシュの塊を取り出して開いた。 中には、歯が一つあった。 「今度、差し歯作ってもらわねえとな」 浩之は自虐的な嘲笑を洩らすと、改めて雅史の目を見た。 「これ、あの人が拾っておいてくれたんだよ」 ほら、拾っておいたぞ、これ。 そういって耕一に折れた自分の歯を渡された時、浩之は、 「なんていい人なんだろう……って思っちまったよ」 浩之の表情が引きつるように歪んだのを、雅史は心配そうに見ていた。 「笑っちまうぜ、自分のことぶん殴って蹴っ飛ばした奴に歯を拾ってもらって感謝して んだぜ」 「浩之……」 雅史は穏やかに友人の名を呼んだ。 穏やかだが、強い意志を秘めた声。 「それは、素直な感情の動きだよ。恥ずかしがることはないよ」 「……」 「浩之は、その耕一さんと闘って……耕一さんを憎んだの?」 「いや……」 「浩之は、耕一さんと闘って……後悔したの?」 「いや……」 むしろ、尊敬に値する人物であると思った。 「だったらさ……」 「いや……わかっちゃいるんだ。たぶん……」 浩之はゆっくりと首を振った。 自分は、わかっているはずだ。 あの闘いが、かつてないほどに充実したものであり、心身をともに躍動させる素晴ら しい闘いであったこと、そして、尊敬すべき敵手を──。 自分は、わかっているはずだ。 「余計な手間をかけさせたな、雅史」 浩之の表情に余裕が戻っていた。 どことなく不適で、見る人によってはあまりよい印象を持たないようなその表情が、 浩之の一番「いい顔」なのだと雅史は思っていた。 「お前には甘えちまうなあ……」 「あかりちゃんに甘えたらいいのに」 「なに?」 浩之は、表情から余裕を無くして、弾かれたように雅史の方に向き直った。 「あかりちゃんに甘えたらいいんだよ」 自分が何をしているのか、そろそろあかりに話してしまえ、と雅史はいっているのだ。 「ああ、そうだな」 浩之の目に、柔らかい光が宿った。 「あかりに……甘えてみるか……」 雅史が笑った。 少しだけ寂しそうに、そして、とても嬉しそうに──。 「あ、浩之」 雅史が、浩之の方を指差した。 その指が、肩越しに自分の後ろを指し示しているのだと悟って、浩之は振り返った。 「ヒィィィィロォォォォォォ!!」 軽やかに舞い上がった。 跳躍距離は、縦に約1.7メートル。横に約3メートル。 相手が余程の長身でなければ頭部を強襲するのに十分な高さを有し。 頭部に命中すれば大ダメージを与えうる助走と横の飛距離を有している。 走り込んでの跳び蹴り。 いわゆる志保ちゃんキック。 「喰らうかよ!」 浩之は白い太股と靴の裏を視界に認めた刹那、両腕を跳ね上げて十字に組んだ。 その交差点に足刀が激突した時、十字を形作った腕は寸分も動かず、逆に足刀の方が 弾かれた。 ちぃっ。 舌打ちを洩らしながら、着地する。 「なにしやがんだ。志保!」 浩之は、腕についた汚れを払い落としつつ、目の前で舌打ちしている志保に怒声を叩 き付けた。 「あんた、どういうつもりよお!」 「何が? それよりお前、黒い下着は止めろ」 「み、見たわねえっ!」 「見えるわい」 志保ちゃんキックの欠点は、丈の短い制服のスカート着用時にやると、ほぼ間違いな く下着が露出することである。 「なんの用だよ?」 浩之が見るからに面倒臭そうに尋ねた。 「あんた! あかりがせっかく作ってきてくれたお昼ご飯をいらないっていったそうじ ゃない!」 「……その話か……」 浩之はバツが悪そうに、真っ直ぐに自分を睨み付ける志保の視線から逃れるように横 を向いた。 「今日は、食欲がねえんだよ」 そっぽを向いたままいった。 「だったら吐いてでも食べなさい! あかりがあんたのために作ってきたんだから!」 「なんだとぉ……」 と、低く呟いた浩之が、不意に、 「ああ……」 と、声を洩らした。 「そうだな……」 不意に、浩之は納得してしまった。 志保のいう通りだ。 あかりが自分のために作ってきてくれた弁当なのだから、吐いてでも食べるべきなの かもしれない。 本気でそう思った。 「お前のいう通りかもな」 浩之は、志保と視線を合わせていった。 「無理矢理にでも食うべきだな……せっかくあかりが作ってきてくれたんだから」 ありがたい連中だ。 浩之は雅史と志保を見ながら思った。 でも、もちろん口には出さない。 「……ま、わかればいいけどさ」 志保は、妙に物分かりのいい浩之にやや戸惑いつつも腰に手を当てて、大仰に頷きな がらいった。 「よし、じゃ、あかりんとこ行ってくる」 「あんたのお弁当もう無いわよ」 「なんで?」 「あたしが食べちゃった」 「なんだとぉ!」 浩之が叫んだ時、校舎の廊下を早足で歩いているあかりが見えた。 「おーい、あかり」 浩之が呼ぶと、あかりはキョロキョロと辺りを見回し、やがて浩之たちを見付けて中 庭にやってきた。 「浩之ちゃん」 「おう」 「志保……」 「なによ」 「二人とも……なんともないの?」 あかりは、心配そうにいった。 「なんともねえよ」 「なんともないわよ」 「そう……よかった……」 安心しきった笑顔になったあかりは、浩之からの視線を感じた。 じいっと浩之は、あかりを見つめていた。 「あかり、今晩、飯作りにきてくれないか?」 いつになく、真面目な顔をしていた。 普段、どのような緊迫した場面でも、努めてそれを表情に出さないようなところが浩 之にはあった。 だから、浩之のこんな顔はあかりもそうそう見たことはない。 「うん」 あかりは、ただそういって頷いた。 「六時頃来てくれや……そん時、全部話すから」 「え?」 「とにかく、頼むわ」 放課後、浩之は学校から家に直接帰らずに寄り道をした。 「ここか」 独語して立ち止まった浩之の手中に一枚の名刺があった。 緒方プロダクション代表取締役 緒方英二 と、あり、その後にプロダクション本社の住所と電話番号が記されている。浩之はそ れを頼りにここまでやってきたのである。 緒方プロダクションはテレビ局から近いとあるビルの3Fに入っていた。ガラス張り の自動ドア越しに中が見える。 何人かの人間が忙しそうに電話応対をしたり、書類に目を通したりしている。 「勝手に入って……いいのかな?」 浩之がさすがに入り口の直前でどうしたものか考えていると、 「兄さんも、暇ができたからってフラフラしてちゃ駄目よ」 張りのある女性の声がして、そのすぐ後に自動ドアが左右に開いた。 「えっと、次はどこだっけ?」 浩之とそう年齢は変わらないと思われる少女が、後ろに付き従うように付き添ってい る細身の男に声をかけながら、端に寄った浩之の目の前を通り過ぎた。 甘い臭いがふわりとした感触で鼻腔をくすぐる。 「ほ、本物の緒方理奈だ……」 浩之は悠然と去っていった理奈がエレベーターに乗り、その扉が閉まるまで、ぼんや りとした顔と目で、その姿を追っていた。 「何か御用ですか?」 ぼうっとして、顔全体に霧がかかっていたような浩之に誰かが声をかけた。 浩之は薄目になっていた目を開いて、声の元の方を向いた。緒方プロダクションの事 務員か何かだと思ったのだが、 「どなたでしょうか?」 ほ、本物の森川由綺だ……。 「ふ、藤田浩之といいます!」 踵と踵を打ち合わせるように浩之は「気をつけ」の体勢になった。 「ええっと、緒方英二さんに会いたいんですが」 と、いいながら、英二の名刺を取り出そうとポケットに手を入れた時、三人目の女性 の声がやってきた。 「由綺さん……一人で外に出てはいけません」 知らない人だ。 だが、美人である。 年齢は二十代後半に見える……三十路は越えてはいまい、と浩之は踏んだ。 「どなたですか?」 森川由綺と浩之の間に立ちはだかるようにその女性はさりげなく移動していた。いつ の間にやら浩之の視界から由綺の顔が消えている。 「英二さんに会いたいそうですよ」 ひょこっ、と顔を出した由綺が耳打ちした。 「藤田浩之っていっていただければたぶんわかります」 浩之は、ようやくナマで芸能人を見た、という衝撃から立ち直って落ち着いていた。 一度落ち着くと、そこまで落ち着くか? と、いうほどに落ち着く男である。 「取り次いでいただけませんか?」 続く