第15話 弥生 緒方英二に取り次いでくれ、という浩之の言葉に、長い髪で右目を隠している美人が 返したのは沈黙であった。 冷たい沈黙。 と、浩之は一瞬思った。 その女の表情や振る舞いに冷然としたものを感じたからだ。 「お取り次ぎはいたしかねます」 そんな表情のままいった。 冷たい。 と、いうわけではなさそうだと浩之は思い直した。 冷たい。 と、いうより、手も足も出ない。という感じがする。 とにかく、そそり立つ鉄壁を思わせる人だ。 しかし、浩之も浩之でそう簡単に引き下がらない。むしろ、他人よりもしつこいタチ である。 「そこんとこ頼みますよ」 「駄目だと申し上げました」 「弥生さん」 と、森川由綺が女に声をかけた。 それにより浩之は彼女の名前を知った。 「理由ぐらいは聞いて上げてもいいんじゃないですか?」 おお、優しいお言葉。 イメージ通りだ。 アイドルなんて実際は性格悪ぃんじゃねえか、おう? とか、偏見を持っていたのは 間違いであった。森川由綺に限ってそのようなことは無いと浩之は断言できる。 「それもそうですね」 あんたもなかなか話がわかる! 「で……何の用でしょうか?」 「え?」 「だから、理由です」 「な、なんとなく」 「お引き取り願います」 いい終えない内に、弥生は身を翻した。 「ちょ、ちょっと待って下さい! 今のは冗談ですってば!」 浩之はそういってから理由を考え始めた。 昨日。浩之は柏木耕一と勝負をした。 その後に耕一とその場にいた緒方英二に運び込まれた病院で浩之は検査を受け、特に 後遺症の残るような怪我をしていないことがわかったのだが、浩之はしばらく気を失っ ていて、気がついた時には耕一しかそこにはいなかった。 浩之は、その耕一から緒方英二の名刺を貰ったのである。 「渡しておいてくれってさ、なんかおれも名刺貰ったよ」 耕一はそういって、緒方英二の名刺を眺めていた。 それで、名刺にあった緒方プロダクションの住所を見て、なんとなくここにやってき たのである。 「治療費、英二さんが払ってくれたよ」 とも、耕一はいっていた。 そうだ。これだ! 「ええっと、昨日、緒方さんに大変お世話になりまして、是非ともその御礼をいいたく 参上いたしました」 浩之は、辿々しくいった。 「……」 弥生が、探るように視線を注いでくる。 「……」 浩之は探られるままに突っ立っていた。 「頼みますよ」 それに弥生が何かいう前に、 「二人ともこんなとこにいたの?」 由綺の背後に、いつのまにか緒方英二が立っていた。 「弥生さん、話があるって?」 英二は弥生にそういってから、彼に気付いた。 「ども」 と、彼は頭を下げた。 「ん? ……藤田くんだったかな?」 「そうです。藤田浩之です」 「早速来てくれたかね……藤田くん」 「どうも、昨日はお世話に……」 「ま、なんか飲みながら話そうか……あ、弥生さん、おれはこの青年と話があるんで」 「あの……」 「エコーズにいるから、なんかあったら電話ちょうだい」 英二はそういうと、浩之の肩を叩いた。 「行こうか」 「はあ……」 エレベーターが最上階で停止しているのを見て、どちらがいうともなしに二人は階段 を使って下りた。 「由綺さんは中に入っていて下さい」 そんな声が後ろから聞こえた。 それに続いてハイヒールが踏み鳴らす独特の甲高い音が近付いてきた。 「待って下さい」 「ん? どしたの、弥生さん」 「お話があります」 「……ああ、はいはい、そんなこといってたね」 英二はほんの少し前に「話があるって?」と、いいつつ登場した人間とは思えぬよう な表情で振り返った。 三人は、三階と二階の間の踊り場で立ち止まった。 「おれ、外しますか?」 浩之がそういって階段を下りる素振りを見せる。 「弥生さん」 「……第三者が聞いても特に差し支えはないかと……」 「ああ、そう」 「一応、お耳に入れておこうと思いまして」 弥生は、もはや浩之などそこにいないかのように英二に話しかける。 「なんだい?」 「由綺さんにあまりタチのよくないファンがいるようでして……」 「タチのよくないファン?」 「はい、ここ数日、私たちを尾行しています。おそらく、由綺さんの住所を突き止めよ うとしているのではないかと……」 押し黙って聞き耳を立てていた浩之は、この場に志保がいたら狂喜乱舞するだろうな あ、と思っていた。 しかし、それにしても、やはり森川由綺ぐらいのアイドルになるとストーカー紛いの ファンがついてしまうらしい。 「大体、テレビ局の前で待ち伏せているんです」 「ほうほう、ま、アイドルの宿命ってやつだなあ……特に何をしてくるというのはない んだね」 「はい、今のところは上手くまいていますから由綺さんの住所も知られてはいません」 「その調子で頼むよ、直に手出しをしてくるようだったらすぐに警察に連絡してしょっ ぴいてもらっちゃって」 「はい……」 と、答えた弥生の表情が驚いたものに変わった。短い接触時間ながら弥生という女性 が容易にそのような表情を見せる人ではないということを知っている浩之はすかさずそ の視線の先を追った。 男が、階段を上がってくる。 特になんてことない、二十代中盤ぐらいの男だが、ただ、首からカメラをぶら下げて いるのが少々不気味といえば不気味だ。 男は、浩之を一瞥しただけで後は相手にせずに英二を見た。が、その視線もすぐに外 して弥生にと向ける。 「マネージャーさんですよね」 弥生をそう呼ぶことから、その男の目的に森川由綺が大きく関わっていることが知れ た。 浩之は自分を無視した男の背後で、努めて表情と気配を殺していた。一目見るとただ 直立しているだけのように見えるが、ポケットに入れていた両手を出してそれをやや上 げている。 「由綺ちゃんは上にいるんですか?」 やたらと、馴れ馴れしい態度で男は弥生に話しかけた。一瞬だけ、仕事の関係者かと 思ったほどだ。 だが、弥生の表情は、浩之に対するよりも冷然としている。 「なんの用ですか?」 その声も、ゾクゾクしてくるほどに低く冷たい。 「プレゼントを持ってきたんですよ」 男は、包装され、可愛らしくリボンで飾り立てられた箱を持っていた。 「わかりました。私の方から由綺さんに渡しておきます」 こりゃ、チェックして中身によっちゃあゴミ箱直行だな。 浩之はそんなことを思いながら男と、弥生を見ていた。 「直接手渡したいんですけど」 男は不機嫌そうな顔になっていった。弥生はやはり冷然とした態度で答えた。 「由綺さんはただいま手が放せません」 「いいじゃないですか、ちょっとくらい」 男は笑った。 あまり感じのいい笑みでは無かった。 「どいて下さいよ、由綺ちゃん、事務所にいるんでしょ?」 とん、と、軽くだが男は弥生を押し退けるためにその肩を押した。 「野郎っ……」 低く呟いて浩之が前に出ようとするのを英二が押し止めた。 「おれに任せて下さい。あの生き物、捨ててきますよ」 見るからに獰猛な気配を四方八方に放つ浩之に睨み付けられて男は後ずさった。 「この場は弥生さんに任せておいて大丈夫だよ」 「そうです」 弥生がいった。 いつの間にかまた男の前に移動している。 「由綺さんを守ることも私の仕事に含まれていますから」 男はその間、何をしていいのかわからぬ様子であったが、やがて、目の前の弥生に焼 けるような視線を向けた。 「どいて下さいよ」 「お引き取り下さい」 「この!」 押した。 先程よりも強く。 弥生が大きく後方によろめき、左足の踵が階段に当たった。 「この野郎!」 浩之が前に出るのを、また英二が止めた。 おれが叩き潰してやりますよ、あんな奴! そう、叫ぼうとした。 叫ぼうとして、浩之は口を開けた。 開いた口は、言葉を出すことなく息を吸った。 弥生を押した──というより突き飛ばした男はよろめいた弥生の横を抜けて階段に足 をかけようとしていた。 弥生の右足が浮き、上半身が僅かに下がる。 一瞬。 一撃。 見事なハイキックだった。 「すげえ……」 呟いた浩之に男がもたれかかってきた。 それを無造作に受け止めて、 「すげえ……」 もう一度いった。 このような美人が短いスカートをはいてハイキックなどかまそうものならすかさず下 着の色をチェックするところであるが、その暇も無い。 黒か──。 紫か──。 容易には判断しかねた。 「紫だったな、藤田くん」 背後で、英二がボソリと呟いた。 「!……」 浩之は戦慄した。 男は鼻血を顎にまで垂らして呻いていた。鼻っ柱を蹴られたらしい。 「弥生さん、もしかして彼かい? 例のファンは」 「はい」 英二の問いに弥生は頷いた。 「すみません、つい体が自然に……」 「いやいや、いいっていいって、これからもその調子で頼むよ」 頭を下げた弥生に、英二は悠々と答えた。あまり気にはしていないようだ。 「ファンになんてことするんだ!」 男は叫んだ。 女を突き飛ばしておいて今更それか……。 男を後ろから抱き留める形になっている浩之は元々あまり耐久力の無い忍耐に亀裂が 入ったのを実感していた。 次になんというかは大体想像がつく。 おそらく、自分が完全無欠な被害者だ。というような顔をしていうだろう。 それをいったら「行こう」と、浩之は思った。 「う、訴えてやるからな!」 言った。 行った。 「調子に乗んなよ! てめえ!」 掌を思い切り男の顔に押し付ける。ダメージの無い状態ならばなんということはない のだろうが、男はつい先程、鼻に強烈なのを貰っている。 「てめえ、そんなことしてみやがれ、鼻の穴に指突っ込んで引きずり回すぞ!」 浩之の指に力が籠もった。 「中指と薬指を第二関節まで入れて引きずり回すとよ、その内鼻がもげちまうんだよ」 浩之が男を離した。 男は、英二も弥生も見ていなかった。 かといって、浩之を見ているわけでもない。 「消えな」 浩之がいいながら腕を振った。 握り拳に血管が浮いている。 「消えろよ」 もう一度腕を振った。 次はぶん殴るつもりであったが、男は転げ落ちるような勢いで階段を下りていった。 「ありがとう、藤田くん」 「いえいえ、あの野郎、マジで訴えなんか起こしやがったら呼んで下さい。引きずり回 してやりますから」 浩之はどこまで本気かわからぬが胸を張って請け負った。 弥生が床に落ちている由綺へのプレゼントを拾い上げた。 あれは……ゴミ箱行きだな……。 浩之はそんなことを思いながら、英二に促されて階段を下り始めた。 「ありがとうございました」 背後でそんな声がした後、甲高い足音が遠ざかっていった。 第16話 あかり エコーズは落ち着いた雰囲気の喫茶店であった。 場所柄、芸能人などがよく訪れ、英二も常連らしい。 「緒方さんは、どうして昨日あそこにいたんですか?」 「英二でいいよ……知人に物凄く強そうな人がいてね……」 「はあ」 「その人が負けたっていうから、柏木耕一というのがどんな人間か興味があってね」 「はあ、なるほど」 長瀬源四郎はいっていた。 あれほどの男にようやく会えたのに、自分はもう老いてしまっている。と……。 「君は、どうするんだ? まあ、残念ながら負けてしまったわけだが」 「それなんスよ!」 浩之はホットコーヒーに息を吹きかけるのを止めて叫ぶようにいった。 「今、色々考えてんですけどね」 「何を?」 「リベンジですよ、リベンジ!」 喜色。 浩之は楽しそうにいった。 何か、吹っ切れたな……。 英二は、復讐を口にしながら笑み崩れている顔を見て思った。 「こないだは立ち技でやって負けちまったから、次は寝技系も絡めて挑んでみるかと思 ってんですが」 嬉しそうにいう。 一皮むけた。と、英二は思う。 この藤田浩之という男は勝ち続けている内は大した格闘家ではないのかもしれない。 長瀬源四郎はいった。 自分がもう少し若ければ……自分に全盛時の肉体があったら……もっといい勝負がで きただろうに……。 若さとは、可能性であると英二は思う。 数年前、プロデューサー業に転向した。そして成功した。 今や緒方英二といえば、ミュージシャンというよりもアイドルのプロデューサーだ。 しかし、英二とて必ずその転向が成功するとは思っていなかった。 周りから聞こえてくるのは好意的ではない声の方が多かった。 それを跳ね返したのは、自分の若さであると英二は思う。 あの時、年齢が十歳違っていたら、周りの声に負けていたかもしれない。 「とにかく、足掻いてみますよ、例え悪あがきでもね」 浩之はいった。 声にも、表情にも、若さがあった。 「あ、もうこんな時間か」 あかりが、自分の家に来る前に帰宅するのにギリギリの時刻だ。 二人は店を出た。会計はまたまた英二が支払ってくれた。 「どうも、ごちそうさまでした」 「うん」 「しかし……あの緒方英二とこういった話をするとは思いませんでした」 「はは、そうかね、まあ、再戦の時は呼んでくれ」 「色々ありがとうござました」 家の前でスーパーの袋を持っているあかりに会った。 「おう、ギリギリ間に合ったな」 「浩之ちゃん、どこかに行ってたの?」 「まあな」 緒方英二と茶を飲んできた。といったら驚くだろうか。 「えっとね、今日はね、ビーフシチューを作ろうと思うんだけど」 「そうか」 「えっとね、前に作った時、浩之ちゃん、すごくおいしいっていってくれたから」 そういえば、そんなような記憶がある。もっとも、浩之はあかりの料理をおいしいと 思わなかったことは無いが。 台所で立ち働くあかりの後ろ姿を、浩之は応接間のソファーに寝転がりながら見てい た。 ここ最近、あかりがエプロンを着ているところを見たことがなかった。自分は格闘技 に熱中していてあまり気にしていなかったがいかにあかりとの時間を減らしていたかが わかる。 一人暮らしで料理などほとんどできない浩之は以前からよくあかりに夕食を作りに来 てもらっていた。それが最近は無くなっていた。 久しぶりだな、この感じは……。 ソファーの上から、あかりの後ろ姿を見る。 包丁とまな板が接触して音を立てている。 その音を、全身をソファーに横たえたうっとりとした状態で聞いている。 まるで何かの音楽かのように耳に心地よかった。 こういう一時を自分は手放していたのか……。 その代わりに得るものはあった。 強さだ。 ここ数ヶ月で自分は見違えるように強くなった。今ならば葵のスパーリングパートナ ーも充分つとまるだろう。 だが、その代わりに失うところだったのかもしれない。 「あかりちゃんが、浩之に嫌われているのかもしれないと心配していたよ」 雅史がそういっていた。 格闘技を本格的に始めるだけならば、そのことをあかりに話しておいても良かった。 元々、あかりは自分が葵の同好会に顔を出していたことを知っている。 だが、浩之がやろうとしているのは危険極まりない「野試合」であった。 あかりが心配するだろうと思い、伏せておいた。 それで、あかりのことを気遣ったつもりだった。 結局、あかりを心配させてしまった。 「浩之ちゃん、もうすぐできるからね」 台所の方から弾むような声がする。 あいつ……嬉しそうだなあ。 おれの世話やくのが半ば趣味になっちまってるような奴だからなあ。 「ああ、食器出しとくよ」 浩之はソファーから立ち上がった。 あかりの料理は相変わらず上々の出来だった。いや、相変わらずどころかまた腕が上 達したように思える。 浩之は頻りに「うまいうまい」を連発しながら食った。このところ、味より栄養分を 優先した食事ばかりだったので余計にそう感じられた。 「ごちそうさん」 「おいしかった?」 「ああ」 嬉しそうに笑いやがる。 さて……どっから話したものか。 「あかり……」 名を呼んだものの、続けて言葉が出てこない。 「なあに? 浩之ちゃん」 「その……ここのところ、すまなかったな」 「え?」 違う違う、いきなりそんなこといったって駄目だろ。 「ほら、最近、あんまり会ってなかっただろ」 「あ……うん」 あかりは頷いて、その顔を完全には上げずに上目遣いで浩之を見た。 「ええっと……飯作りに来てもらったのも随分久しぶりだよな」 「うん……私、もしかしたら浩之ちゃんに嫌われちゃったかと思ってた……」 泣きそうな顔で、すがるようにいいやがる。 おれを見つめてる。 なんか、ドキドキしてくるだろうが。 切り出せ。 「そうじゃない、ここのところ、ちょっと用事があったんだ」 「そうなの?」 「ああ、おれはお前のこと好きだ。嫌いになんかならねえよ」 あかりがもたれ掛かってきた。 泣いてやがる。 その泣き顔は、おれの左腕に隠れて見えない。 あかりが、泣きっ面をおれの腕に押し付けているからだ。 いい女だよ、こいつは。 そんな女と、おれは十数年も一緒にいたのか。 なんだ。おれって自分で思ってるよりずっと幸せな人間だったんだな。 左腕が、暖かい。 まだ泣いてる。 こいつがこんなに泣いてるの見るの久しぶりだな。 昔はよく泣かしてたからこいつの泣き顔なんて見馴れてたんだけどなあ。 いい加減、泣き止めよ、あかり。 「格闘技?」 首を傾げるあかりの前で、浩之は上着を脱いでシャツ一枚になった。 「どうだ? 体つきが前とは違うだろ」 「うん……」 あかりは恐る恐る浩之の腕に触れた。 以前よりも明らかに固い、そして一回り太い。 「松原さんの同好会が無くなってから止めちゃったのかと思ってた」 「そっか」 「あの……浩之ちゃん?」 「おう」 「格闘技って……空手部の人たちに仕返しするため?……」 そういえば、そういうこともあった。 「違うよ」 そんな小さなことじゃない。 もっとでっかいことだ。 でも……。 「そうか……あいつら使えるな……」 浩之は小さく呟いた。 「浩之ちゃん」 「ん、ああ、なんだ」 「気をつけてね……」 「ああ」 止められるのではないか、と思っていた浩之は、やや拍子抜けして頷いた。しかし、 よく考えてみればあかりは浩之がやろうとすることに表立って苦言を呈したことは一度 も無い。 「近々、ある男と闘おうと思ってる」 「どんな人?」 「けっこう危ない奴らしい、下手すっと骨の一本や二本は折られるだろうな」 「……」 「腕折られたら、お前が飯を食わせてくれ」 「なんていう……人なの?……」 「月島拓也って奴だ」 その月島拓也。 浩之が自宅の居間であかりと深刻な表情を突き合わせていた時、道路を歩いていた。 通っている高校からはそれほど遠くない場所だ。 手に、一枚の紙片がある。 便箋か何かに地図を書き付けたものだ。 時々、それに細い視線をやりながら、月島拓也は歩いていた。 第17話 狂拳 月島拓也は門を潜った。 なかなか大きな家だ。庭も広い。 その庭の隅に、広さ六畳ほどのプレハブが建っている。 話に聞くと、物置に使っていたプレハブをこの家の息子が自分の部屋にしてもらって いるのだという。 拓也はそのプレハブの前に立った。 話し声が聞こえる。 拓也は、無造作にドアを叩いた。 しばらくして、声がした。 「誰だよ?」 警戒が色濃く浮き出た声だ。 「月島拓也だ」 「は?……」 拓也はノブを回した。鍵は閉まっていないようだ。 思い切り引いた。 引いたドアに貼り付くようにして男が転がり出てきた。拓也は、その男の襟を掴むと その体を屋内に戻し、自らも中に入った。 「な、なんだ。お前!」 その男とは別に二人、中にいた。 拓也が襟を掴んでいる男はゆったりとした普段着を身につけ、後の二人は制服を着て いる。 拓也が着ているものと全く同じものだ。 男たちの間に小声が飛び交う。 「前の生徒会長じゃねえのか?」 「ほら、うちのクラスの月島の兄貴だよ」 「あ、そうか」 理解の後には、新たな疑問が生じた。 「前の生徒会長がなんの用です?」 ここの家主らしい、普段着の男がいった。 「溝口くんだね」 拓也がにっこりとした表情でいった。 「それから……河東くんに……伊月くん」 やはり、にっこりとしていた。 「丁度いい……三人とも揃ってるじゃないか……」 やはり、にっこりとしていた。 だが、少し口の辺りの皮がめくれた。 唇の端が吊り上がっている。 「な、なんの用だって聞いてんですよ!」 溝口は叫んだ。だいぶ、拓也のことを気味悪がっている。その後ろで河東と伊月がな にか耳打ちした。 「相手は一人だ。そんなにビビることはねえよ」 「そうそう」 確かに、拓也は見た目はそれほど体格が良いというわけではない。背が高いには高い が横幅はそれほどに無い。 彼らが一対一ならともかく、三人いれば恐れるほどのものではないと値踏みしたのも 当然であった。 拓也は、そんな彼らのヒソヒソ話を聞きながら、鼻を鳴らしていた。 臭い。 「シンナーか」 テーブルの上に、小瓶が置いてある。鼻をつく臭いはそこから来ていた。 「月島さんも吸いますぅ?」 伊月が小瓶を指で摘んでいった。 「ここに来たのは他でもない」 拓也は、それを無視していった。 「君たち、一昨日、僕の妹に何をしたか思い出してみるといい」 「一昨日?」 三人とも、首を捻った。やがて、河東が呟いた。 「あのことじゃねえの?」 一昨日、彼らは三人揃って帰ろうとしていた。今日のように、そのまま溝口の家に直 行しようとしていた。いつも両親の帰りが遅く、プレハブの部屋があるので、格好の溜 まり場になっているのだ。 帰り道、一人で校門のところに立っている月島瑠璃子を見かけた。 瑠璃子は彼らのクラスメートであった。 けっこう綺麗な子だけど……ちょっと変なので遠慮したい。 抱いている感情は、三人とも他の男子と大差無かった。 いつもは挨拶もしないのだが、その日は、ある噂を聞いたばかりだった。 どうやら、男ができたらしい。 「月島、男を待ってんのか?」 河東がいった。 瑠璃子は、微笑んでいる。 透き通るように。 「男がいるってことはやることやってんだろ?」 伊月がいった。 瑠璃子は、微笑んでいる。 透き通るように。 「いいねえ、おれたちもお願いしたいもんだねえ」 溝口がいった。 瑠璃子は、微笑んでいる。 透き通るように。 「おい……」 伊月が、白けた。というよりも、気後れしたような表情でいった。何をいっても透明 な微笑で返す瑠璃子に何をいっても無駄だと悟ったのだ。 「行こうぜ」 「ああ」 他の二人も同感だった。 そのことを、この瑠璃子の兄貴はいっているに違いない。確かに、それほど親しくな い女の子に対して随分失礼だったかもしれないが、家にまで乗り込んでくるほどのこと ではないように思える。 しかし、最近、三人が瑠璃子と接触したのはその一件だけなのである。 それ以外に考えられなかった。 そのことをいうと、拓也は、 「その通りだよ」 頷いた。 「あれは……ただの冗談のつもりで……」 河東が憮然とした顔をしていった。 「君たちは冗談のつもりでも、相手がそう取らなかったら、それはもう冗談じゃ済まな い」 正論ではある。 拓也は、その場にいた知人からその話を聞き、妹を問い詰めてみた。 「瑠璃子は……なんといっていたと思う」 拓也の細い目が冷たい光を放つ。 「なんて……いってたんです?」 「お兄ちゃん、気にしないで……私も気にしてないから……」 「……」 「……」 「……」 拓也が一歩前に出た。ただならぬ気配を察して三人の中では一番前にいる溝口が後退 しながら叫ぶ。 「だ、だったらいいじゃないですか!」 「僕が気にするんだよお!」 後ずさる溝口を追って、拓也の右腕が伸びた。 拳が正確に鼻を捉える。 よろめきつつ、なんとか溝口は倒れずに持ちこたえた。鼻血が、顎にまで垂れた。 その横を拓也が通り抜ける。 横に突き出された肘が、溝口のこめかみを叩いた。 「ちょ、ちょっと待って……」 そういった河東の口が閉じた。 下方から、アッパーの掌底を顎に貰ったのだ。 歯と歯が激しく打ち鳴らされて音がした。 舌を挟んでいたらただでは済まなかっただろう。 後方に倒れていく河東の左手を拓也の左手が掴んだ。 引き戻し、引き落とす。 と、同時に、拓也の右足が河東の左腕をまたぐ。 次の瞬間、飛んだ。 拓也の右足が河東の首を刈った。 サンボの技である飛びつき十字固め。その足の勢いからいえば首刈り十字固めかもし れない。 二人揃って倒れた。 河東が背中に感じた衝撃に呻く内に、それを遙かに上回る激痛が左腕を走った。 「ぃぃぃぃ!!」 声が、噛み合わされた歯の隙間から漏れた。 「このっ!」 もはや次は自分と悟ったのか、伊月が倒れた拓也に蹴りを放ってくる。 「ぃぃぃぃ!!」 河東の絶叫が伊月の耳を打った。 伊月の蹴りを河東の左腕で防いだ拓也が笑った。 声を出さずに笑った。 伊月の腹部に拓也の頭がぶち当たって来た。同時に両手で両足が刈られている。 受け身を知らない伊月は、後頭部を打ってしまった。 頭を振った伊月は、気付いた時には、拓也に上に乗られていた。 テレビでやっていた格闘技の試合で見たことがある。 マウントポジションとかいうやつだ。 と、なると当然──。 拳が、顔に降ってきた。 降ってくる。 鼻血が出た。 まだ降ってくる。 口の中がズタズタになった。 止んだ。 目を、薄く開いた。 「君……さっきなんていった?」 拓也が笑っていた。 糸のような細目が、自分の目を捉えていた。 「さっき……あのシンナーの入った瓶を持っていっただろう?」 そういえば……いった。 「月島さんも吸いますぅ?」 と。 「シンナーなんか吸ったら骨が弱くなるだろう?」 拳が、降ってきた。 「毎日毎日、好きでもないにぼしを食べている僕の努力を無にする気かね? 君は」 「そんなこと……」 首を横に振った。 こめかみに、拳が降ってきた。 「冷たい牛乳を飲んだら胃を悪くするからわざわざ暖めて飲んでいる僕の努力を無にす る気なのか? 君は」 拳が、降ってきた。 「いや、その牛乳を温めてくれるのは瑠璃子だ。瑠璃子の僕に対する献身を無にする気 なのか? 君は!」 拳が、降ってきた。 「ええ! どうなんだ! 無にする気なのか? そんな権利が君にあるのか! 無いだ ろう! ええ!」 拳が、降ってくる。 「無いです……無いです。そんな……つもりじゃ……なかったん……です……」 伊月の顔が、親しい知人が見ても判別できぬほどに変形している。 拓也は立ち上がった。 その時、ドアが開いた。 ドアを開けたのは、三人の中では一番軽傷の溝口だった。 「そうか……」 拓也の表情に「何か」が蘇った。 伊月に拳を打ち下ろすのを止めて立ち上がった時に消えていた「何か」が。 「君はまだいけそうじゃないか」 溝口は、何もいわずに外に出た。 拓也は悠然とその後を追う。 足をもつれさせながら溝口が走って行くのを、拓也は背後から眺めながら追った。 あんな調子ではすぐに転んでしまいそうだ。 今の歩調で充分に追いつけるだろう。 何かが、横切った。 それに当たって、溝口がふっ飛ばされた。 その何かは、ビクともせずにそこに立っている。 岩の塊。 一瞬だけ、拓也はそんなことを思った。 あまりに、それが不動の姿勢を保っていたからだ。 それは、人間だった。 自分にぶつかって倒れた溝口を見下ろしている。 「た、助けて下さい!」 溝口が這って、その人影の方に進んだ。足が動かぬのか、手を使って、匍匐して前進 した。 「……行け」 その人影──どうやら声や体格からして男らしい──がぽつりといった。 溝口はなんとか立ち上がり、逃げた。 後ろを振り返ろうともしなかった。 「邪魔を……してくれましたね」 「一応、警察官なんでな……」 男がいった。 スーツ姿の背の高い男だ。年齢は二十代中盤といったところだろうか。 眼鏡の向こうの目が、鋭い光を放っている。 手に、菊の花束があった。 第18話 死の温度 「警察官?……」 拓也は薄闇の向こうにいる男に向けていった。声にも、視線にも、ただならぬ気が含 まれている。 「そうだ」 男は、簡潔に答えた。 風が男の背後から吹いた。 男が持つ菊の花の香りが拓也の鼻にまで漂ってくる。 「それじゃあ、僕を逮捕しますか?」 いいながら、足を進めた。 ジリジリと薄氷を踏むように慎重に。 「いや、そこまではしない」 男は、微動だにせぬままいった。 「今日は非番だ」 だから、面倒なのは御免だ。 そういいたいような表情であった。 拓也は、男の言い草におかしみを感じて笑った。 声を出さずに笑った。 とにかく、この男は自分の楽しい一時を邪魔したことに変わりはない。 自分は、これまで自分を邪魔した人間を許したことはない……。以前、瑠璃子の付き 添いで行った病院で柏木耕一とかいう男を取り逃がしたことはあるが、あれは特別な例 外だ。あの時はなぜか、こちらの気をくじかれてしまった。 目の前の男。 拓也が体勢をやや低くして近付く間も、動こうとしない。 間合いに、入った。 足がギリギリで届く位置だ。 もうだいぶ近い。 それでも、動かない。 警察官というからには、柔剣道や逮捕術の心得があるはずなのだが、依然、微動だに しない。 眼鏡のレンズ越しに、ひんやりとした目で、拓也を見ている。 足腰はそれほど強靱そうに見えない。 少し低くなっていた拓也の体勢がさらに沈んだ。 同時に、前に出る。 下半身を狙ったタックル。 その動きは迅速であった。これで思い切り腰にぶち当たり、手で足を刈って倒して寝 技に持ち込む。 そのつもりであった。 男の右足が跳ねた。 足を刈るために前に出ようとしていた拓也の両腕が眼前で交差する。 男が右膝を蹴上げて顔を迎撃してきたのだ。 ドンッ。 と、重い音がした。 音にひけを取らぬ重たい一撃だった。両腕を交差して十字受けしたからよかったもの の顔面に喰らっていたら一発でKOされていたはずだ。いや、顔面にもらわずとも、腕 を交差させず、腕一本で受けていたらしばらくその腕が使いものにならなくなったかも しれない。 それほどに、重たい一撃であった。 拓也の上半身が浮いた。 即座に大地を蹴って後方に飛ぶ。 「ほう」 男が嘆息した。 なかなかやるじゃないか。 そんな感じだ。感心はしているらしいが、強者が弱者を見下ろす時の感心であった。 拓也の内部に熱が生まれた。 しかし、その熱さに身を委ねて突っ掛かっていくほど拓也は愚かではない。 先程の一瞬の攻防でこの男が相当の実力を有していることはわかっている。こんな奴 に不用意に突っ込むのは死期を早めるだけだ。 タックルに行く寸前まで、男の体は動いていなかった。 拓也は、最高のタイミングで動作に入ったはずだ。あの時の彼我の距離から考えて、 こちらが動いた後にその動きを判断して対処したとは考えにくい。おそらく、状態や、 拓也の気配などでタックルに来ることを読んでいたのだろう。でなければ、あそこまで 正確に顔面を狙った攻撃があれほどスムーズには出てこないだろう。 ただならぬ相手だ。 思わぬところで、すごい奴に会った。 こうも短期間に、自分に冷や汗をかかせる人間に二人も巡り会うとは──。 戦慄が全身を駆け抜け。 歓喜がその後を追った。 こうも短期間に、たまらないほどに潰しがいのある人間に二人も巡り会うとは──。 拓也は震えた。 戦慄と歓喜が、交互に体を揺さぶっているようであった。 この前の柏木耕一は逃がしてしまったが、今度は逃がさない。 この人には……自分の遊び相手になってもらう。 拓也の体勢が沈んだ。 男の右膝が跳ね上がる。 腕を組んでの十字受け。 それが、先程の動作のリピートではなかったのは、その膝蹴りを受けた拓也の上半身 の浮き上がりがそれほど大きなものではなかったことだ。 先程は、思わぬ速度で膝が上昇してきたので驚いて腕を十字に組むと同時に体を後ろ に引いてしまったので大きく飛ばされてしまったが、初めからそれあるを期して体重を 前にかけていれば、それほどに大きくは飛ばされない。 「む!」 男が、目を見開く。 そうだ。そういう顔が見たかった……。 いい顔じゃないか。 そういう顔ができる人なら好きになれそうだ。 拓也の両腕が男の右足に絡みついた。 二匹の大蛇──。 男の表情から余裕が消えた。 余裕が消えて……鬼が現れた。 鬼というものを拓也は見たことがないが、これからは鬼と聞けば、この時のこの男の 顔を脳裏に思い浮かべるだろう。 菊の花束が宙に投げ出された。 拓也は右肩で男の腹を押しつつ、両腕の中の右足を引き、我が右足で男の左足を払っ た。 足首を左脇の中に捕らえる。 それでアキレス腱に圧迫を加えつつ、スキあらば金的を蹴る。 男が後方に倒れていく。 相変わらず鬼の顔をしていた。 拓也の右足に払われた男の左足が、苦しい体勢ながらも足の裏で着地した。 来る! 左足で蹴ってくる! 右足を取られたこの体勢では大した威力ではなかろうが、おそらく、股を狙ってくる に違いない。股には男の大急所がある。 右掌を下に向けて突き出した。 男の左足が、拓也の右掌に衝突する。 瞬時に、男の両手が伸びてきて手首を掴まれていた。 よほどの腹筋力と瞬発力が無ければ無理な芸当だ。 ぞくり。とした。 手首が氷付けにされたのかと思った。 それほどに「冷たい」ものが拓也の手首から全身に伝播した。 アキレス腱を固めるどころではない。 拓也は、男の右足を解き放って自らの左手を右手の救援にと駆けつけさせた。 左手で相手の右手首を掴んで引き離すと同時に右手を引く。 男が拓也の右手から手を離し、跳ねるように立ち上がりながら距離を取る。が、拓也 の左手は依然、男の右手首を捕まえている。 一瞬、互いに横に並んだ格好になった。 拓也の後頭部が鳴った。 ゴン、と鳴った。 拓也が体勢を立て直すよりも速く、男が右の上段回し蹴りを拓也の後頭部にぶち当て てきたのだ。 頭部への衝撃に拓也の手が緩む。 男は右手を引いて拘束から脱した。 「くっ!……」 脳が揺れている。 「その辺にしておけ」 男が菊の花束を拾い上げながらいった。 「……」 まだ、揺れが収まらない。 「おれは、闘うのが嫌いというわけではないが……今は……そういう気分じゃない」 顔が、鬼ではなくなっていた。 諭すような男の表情と声が気に入らなかった。 僕と似たような人種だろ? あんた? 否定したって駄目だ。自分はもうそのことを知ってしまったのだ。 「殺して……やる」 敵意は殺意にと変わった。 「殺す?」 男はスーツについた土を払い落としながらいった。 僅かにだが、先程の鬼の顔が覗いた。 「おれを……殺す?」 「そうだよ……」 自分は人を殺したことはないが……なんてことはないはずだ。 人を殺すなんて、なんてことはないはずだ。 自分は人を殺したことはないが……いつだって殺す覚悟はできているんだ。 いつだって……なろうと思えば僕は人殺しになれる。 僕はそういう人種なんだ。 「軽々しく口にする言葉じゃないな」 何をいってるんだこいつは? いきなり説教か? ついさっき、鬼の顔をして僕の後頭部に蹴りを叩き込んだ男が、人の命の大切さでも 僕に教えようっていうのか? 「おそらく……」 鬼の顔になった。 鬼の顔だが、拓也と攻防を繰り広げていた時の感じとは違う顔だった。 「お前が思っているより、人の死は冷たい」 拓也の全身を何かが駆け抜けた。 駆け抜けた。 うねった。 のたうち回った。 その何かが、拓也の体内で荒れ狂った。 「あなたは……」 「できれば……人なんて殺さない方がいいぞ……」 男は拓也に背を向けた。 「あなたは……」 拓也の手が小刻みに震えていた。 その震えをどうしようもない。 恐怖、ではないような気がする。 ただ、無闇に体が震えた。 自分は、似たような人間を知っている。 柏木耕一。 あの男は、どこかが柏木耕一に似ていて、どこかが決定的に違う。 とにかく、拓也の好奇心が激しく刺激されたのは確かであった。 「あいつら……なんだ? 一体なんだ?」 拓也が呟く内に、男の背中はだいぶ小さくなっていた。 「あなたは……」 人を殺したことがあるのか? それは、声にならなかった。 第19話 狂慕 その日は、御堂静香(みどう しずか 第八話参照)にとっては特別な日であった。 仕事から帰ると、彼女は仏壇の前に座り、線香の先端に火を灯した。 「お父さん、お母さん、私は元気でやってます。心配しないで下さい」 畳に額をつけるほどに頭を下げる。 その日は、父の命日であった。 仏壇には、彼女がエクストリーム大会一般女子の部で準優勝した時にもらったトロフ ィーが置いてある。 静香が格闘技をやり始めたのは、警察官だった父の影響である。父は、真面目な人で、 警察官となる以前から武道をやっていて、静香が産まれて物心がつく頃にはかなりの実 力者になっていた。 その父に教えられて格闘技を始めた。 彼女は今、エクストリーム大会を題材にしたドラマの撮影現場で主演女優の格闘部分 の演技指導をしている。 それが終わったら、女性向けにフィットネス性を重視した「フィットネス空手」の指 導員にならないかと誘われており、静香はそれを受けることを決心していた。 母親が死んだのはもう十年も前だった。幼かったために人目も気にせずに泣いた。 父親は三年前に死んだ。殉職であった。 年齢もあったのだろうが、静香は泣かなかった。一人っ子の彼女はもう誰も頼る者が いなくなり、それを思うと泣くどころではなかった。 母親が死んだ時には父親という、泣きながら我が身を委ねる存在があり、父親の死の 時にはそれが無かったというのも静香が泣けなかった原因かもしれない。 ただ、短期間だが父親に世話になったという部下の人がよく訪ねてきてくれた。 おかしな人だった。 ただやってきて、座っているだけなのだ。 特に慰めの言葉をかけたりするわけでもなく、ただ座っているだけなのだ。 なぜか誠意だけは感じられたので、別にいやな顔もせずに食事を御馳走したりしてい た。 その内に、異動で遠くへ行くということになり、来なくなった。 去年の命日には父の死を悼む手紙が来た。 無愛想で表情の変化に乏しい人だったが、妙に生真面目な人物であった。 帰りにポストを見たが、中には何も入っていなかった。 あの人……お父さんのことを忘れてしまったのだろうか……。 なんだか、ちょっと寂しくなった。 自分の部屋に戻って着替える。着替えながら音楽を聴くことにした。 お気に入りはもちろん緒方英二だ。もはやプロデュース業に転向してしまって新曲が 出ないというのが悲しいところである。 緒方英二初のアルバム「EIJI」が中でも一番のお気に入りだ。ジャケットで当時 の若い英二が見下すような視線をこちらに向けている。 前々からシングル曲をいい感じだと思っていた当時高校生の静香が初アルバムが出る というので見てみようとCDショップに行き、このジャケットの英二の視線の直撃を受 け「はぅぅぅぅ」な状態になってしまったのが全ての始まりであった。 やたらとミーハーな入り方だが、とにかく、気に入ってしまったものはしょうがない。 引退ライブにも行って、周りの一瞬前まで知らない人だった人間たちと手を取り合っ てともに泣いた。 一曲目の英二のデビュー曲が流れ始めた時、インターホンが鳴った。 丁度着替え終わった静香はタンスの上のナックルを拳に装着して部屋を出た。女の一 人暮らしなので用心は過剰なほどにしている。 ドアの覗き穴から来客を確認する。ここで、相手が体をずらしたりして覗き穴から見 えない位置にいる間は絶対にドアの鍵を開けない。 静香の目に映ったのは、よく知っている人物だった。ただ、まさか来ることを予期し ていなかったので驚いたことは確かである。 静香はドアを開けた。 「お久しぶりです」 「ああ」 若い、二十代中盤ぐらいの男だ。 「三日前から何度か留守番電話に、本日訪ねるとメッセージを入れておいたのだが……」 「え! ……あ、あの、すいません! 私、ここ数日仕事が忙しくて留守電聞いてなく て……」 「そうか……頑張っているんだな」 男は、安堵したような笑みを浮かべた。 「えっと、お父さんにお線香上げに来たんですよね、どうぞ、上がって下さい」 「ああ」 「柳川さん、今、警部補でしたっけ?」 廊下を歩きながら、静香が尋ねた。 「ああ」 男──柳川祐也は簡潔に答えた。 「すごいですねえ、もう、お父さんよりも偉くなっちゃってるんですね」 静香の父は死んだ時、巡査部長だった。 柳川は一年の巡査勤務、一年の巡査部長勤務の後に警部補試験に合格してのスピード 出世を果たしていたのでもはやかつての上司を追い越してしまっている。 しかし、警察官になって一番気楽だったのはあの頃だった。 と、線香をあげながら柳川祐也は思うのである。 御堂巡査部長の下にいた巡査時代が──つまりは、一番下っ端だった頃が一番気楽で 楽しかったような気がする。 警部補の今、なぜかあの頃が無性に懐かしい。 地位が上がるごとに、自分は笑うことが少なくなった。 元々、あまり笑顔を見せないような人間だったが、下っ端の巡査時代は、よく笑って いたような気がする。 笑っている時には、いつでも御堂巡査部長が傍らにいたような気がする。 柳川は、合わせていた手を左右に開き、頭を上げた。 仏壇の遺影が笑っている。 花瓶に、柳川が持ってきた菊の花が刺さっていた。 「生活の方は大丈夫か?」 「はい」 「女の一人暮らしは危険だ。防犯上の注意はちゃんとしているか?」 「はい」 「そろそろいい人は見つかったか?」 「いえ……それはまだ」 親元を離れた娘と久しぶりに会った父親のようなことを柳川はいった。この男は、も しかしたら少しでも、静香の父親の代わりになろうとしているのかもしれない。 「今日は……隆山の方からわざわざいらっしゃったんですか?」 「いや……つい先月、また異動になってな……こっちに来ているんだ」 「あ、そうなんですか!」 「住所だ。何かあったら連絡を……」 そういって、柳川はポケットからメモ帳の一頁を破り取った紙片を取り出して静香に 渡した。 「それでは、そろそろ帰る」 「あ、はい」 静香は、柳川を見送って玄関まで出ていった。 「あの……」 去り際の背中に、静香はいった。 「今日はありがとうございます。わざわざ父のために来て下さって……」 「いや……」 それまで、静香と一緒にいる間、この男としては珍しいほどに明るい表情をしていた のだが、この時、その相貌に影が差した。 「おれが殺したも同然だからな……御堂さんは……」 静香は沈黙し、硬直した。 「そんな……」 後に続ける言葉が見つからなかった。 「おれが足を引っ張ったせいで御堂さんは死んだ……」 沈黙。 「お父さんは……あなたをとても気に入っていました」 随分長い沈黙の後、静香は辛うじてそれだけをいった。 「何かあったら連絡を……」 柳川はそういって背を向けた。 「遠慮はするな」 背中を向けたままいった。 「……ありがとうございます」 「戸締まりをしっかりとな……」 柳川は、一度も振り返らずに歩き始めた。静香が、もう一度、礼をいっているようだ った。 自分がここにこうして「人間」として存在できるのは御堂のおかげだと、柳川は思う。 御堂が死んだことで、自分が人の死の冷たさを知っていたからだと思う。 段々と冷たくなっていく体を抱えて、柳川はその冷たさに怯えた。 その御堂の死から一年と少し経った頃……。 あれは……なんといったか……なんとかいうチンピラ……。 時間が経つごとに冷えていくその体に触れながら、柳川は思い出し、確認していた。 人の死とは、冷たいものなのだ。 御堂の死とは比べものにならぬぐらいに冷たかった。 自分が作り出した死だからであったろうか。 隆山から東京の方に異動になるという話を聞いた時、柳川はなんとか隆山に止まれな いかと上司の長瀬警部にいった。 長瀬は不思議そうにしていた。首都への異動は「栄転」であるからだ。 どうしても駄目ならば警察官を辞職してでも隆山に止まる覚悟があった。 その柳川が、未だ警察官として、ここにいるのは、ある日の朝に彼が隆山に執着する 理由が無くなったからだ。 「柳川くん……君が薬物中毒のチンピラから保護した阿部くんな、ついさっき……」 その死も、冷たかった。 格別、冷たかった。 警察病院に行った柳川は隣人だった阿部貴之の母親に初めて会った。 彼女は、柳川のことを知っていた。以前、貴之が電話で話したことがあるらしい。 警察官で隣に住んでいる……とても頼りになる……兄のような人……。 そんな風にいっていたらしい。 「あの子は……一人っ子でしたから……嬉しかったんでしょう……」 兄、といったか。 貴之は、自分のことを兄といったか。 正直、嬉しかった。 そして、重かった。 自分は、貴之を守れなかったから。 だから、重かった。 「いつまで……」 柳川は、肩越しに振り返った。 「つけてくるつもりだ?」 背中に、その男の「気」が吹き付けてきた。 「さすが……警察官ですね、バレていましたか……」 先程と寸分変わらぬ姿で、月島拓也は街灯の下に立っていた。 「まだ、懲りていないのか」 「さっきの人……恋人ですか?」 「あの娘のことは忘れた方がいいな……」 他人事のように、柳川はいった。 「ほう……」 「あの娘のことを知っていることが、お前に不幸をもたらす可能性がある……結果的に な……」 恐れるまいと拓也は思っていた。 この男と向き合った時、恐れるまいと思っていた。 絶対に気迫負けしてはいけないと思っていた。 しかし……。 ぞくり、とした。 「ふふ……女を狙おうなんて考えてはいませんよ」 「……」 「僕にも……妹がいますからねえ」 「……」 「よくできた妹です」 拓也の表情に恍惚としたものが混じった。 「なんの用だ……さっきの続きがしたいのか……」 このまま放っておけば、妹の自慢話を始めてもおかしくない雰囲気なので、柳川は、 素早く話題を変えた。 「とりあえず……今のところはけっこうです……ただ、このままあなたの名前も知らず に別れるのはどうかと思いましてね……」 「柳川祐也……警察官だ」 それだけいって、柳川は歩き出した。 「覚えておきますよ」 射るような視線を、柳川は背中に感じた。 物色するような視線だ。 どこを折ってやろうか……。 そんな視線だ。 構わず、柳川は前進した。 足音は聞こえない。 今度会ったらどうなるか。 漠然と考えたが、それも一瞬でしかなかった。 続く