第三十話 群狼 「浩之ちゃん、あーんして」 「あーん」 右腕を吊った浩之があかりに昼食を食べさせてもらいながら屋上で雑誌を読んでいた。 「あ、藤田先輩」 「おう」 後輩の松原葵がやってきた。浩之を訪ねて来たらしい。 「ここにいたんですね、教室に行ったんですけどいないんで、もしかしたらここだと思 って……」 「葵ちゃん、なんか用かい?」 「藤田先輩。昨日、お医者さん行ったんですよね、どうでした?」 どうでした? と、いうのは、無論二週間程前に月島拓也に折られた右腕のことであ る。 「もう二週間したら完治するとさ」 「え、本当ですか」 葵が我がことのように喜色を表した。 「それじゃあ、二ヶ月半後のエクストリームに出場できますね」 「ああ、きれーに折ってくれやがったからなあ」 「でも、不便じゃありませんか?」 「まあな、箸が使えねえからパンとかばっかり食ってんなあ、後はあかりに食わせても らったりだな」 と、浩之がいった側から、あかりが御飯を摘んだ箸を差し出す。 「おう」 それに食い付いて顎を動かす浩之に、葵が顔を寄せた。 「ご、ごめんなさい。お邪魔だったでしょうか?」 小声で囁いた。 頬がほんのりと染まっている。 「いやいや、んなことねえって」 浩之がそういいながら手を振って、雑誌のページをめくった。 「おっ」 と、浩之が呟いた。知り合いの顔を見出したからだ。 「あ、それ今週の『格闘道場』ですね」 「ああ」 伍津流の刺客、柏木耕一豪語す。「加納は一分で潰せる!」 その文字を読んで、浩之は苦笑した。 「耕一さん、ヒールみてえだなあ」 「藤田先輩、その方御存知なんですか?」 「ああ、ちょっとね」 「ところで、藤田先輩。エクストリーム参加申し込み、明日までって知ってました?」 「あれ、そうだったっけ?」 「はい、申し込みをまだしてないんだったら、今日、一緒に行きませんか?」 「おう、そうすっか」 「綾香さんと待ち合わせしてますから、何かわからないことは綾香さんに聞けばいいし」 「そんじゃ、放課後、校門のところで待ってるよ」 「はい……神岸先輩、お邪魔しました」 葵は、腰を直角に近い角度で曲げて、去っていった。 「お邪魔なんかじゃねえのに、なあ」 浩之があかりにいった。 「うん、気にすることないのに……あ、浩之ちゃん、御飯粒ついてるよ」 「取ってくれ」 するなといっても水準以上のデリカシーのある人間ならば同席は遠慮するであろう。 「あんた、その右腕、大丈夫なの?」 開口一番に、綾香がいった。 「大丈夫だって、二ヶ月前には完治するから」 浩之は左手で右腕を包むギプスを叩いて見せた。 浩之は、葵と綾香とともに、エクストリーム大会の参加申し込みに来ていた。場所は 大会を運営している会社の本社受付である。 入り口のところで、綾香は悪寒を感じて、こちらに向かってくるある男を見た。 葵の視線も綾香のそれと同じところへ注がれている。 殺気、といっていい悽愴な気をその身にまとった男だった。 綾香にも、葵にも目もくれず、浩之のことを見ている。 浩之もその男を見ている。 細い目が印象的な男だった。 男と浩之が擦れ違う瞬間、綾香も、そして葵も、知らず知らずの内に拳を握っていた。 葵が、安堵の溜め息をついた。 二人が、何事もなく擦れ違ったからである。 男も浩之も、振り返らなかった。 「浩之、今の人知ってるの?」 しばらく歩いたところで、綾香が尋ねた。 「おれの右腕折ってくれた人だよ」 事も無げにいって、唇を曲げた浩之に、綾香と葵は沈黙した。 「色々と、面白そうなことがあったようじゃない」 ようやく口を開いた時、綾香の顔には笑みが浮かんでいた。 「今度、詳しく聞かせてね」 「おう」 受付は、それほど面倒なものではなかった。ただ、書類に必要事項を記入して、一ヶ 月後に体力テストを主体にした審査があることが告げられただけである。 エクストリーム大会は、アマチュア格闘家が出場する大会であるから、プロの大会に 比べて制限が厳しく、それなりの体が出来ている人間でないと出場はさせてもらえない のである。 特に、エクストリームは大会ルールがアマチュアにしては、グラブを着用していると はいえ、頭部を殴ることが許可されていたりと非常に激しいものであるので、その審査 もそう簡単には通れない。 「体力測定と、軽いスパーリングがあるだけよ、ま、葵だったら大丈夫よ」 綾香は頼もしげに請け負った。が、浩之の実力というのは彼女にとっては未知数であ る。 「落ちちゃ駄目よ、浩之」 「あんまし甘く見んなって、軽い軽い」 と、まあ、右腕を吊った状態でいってもあまり説得力が無いのは確かである。 申し込み用紙を貰って、ペンを借り、ロビーの方へ行くと、一人の男が椅子に座って、 用紙に何か書き込んでいた。 「耕一さんじゃないですか」 「あん?」 忘れるはずもない。浩之が本格的に格闘技を始めてから、もっとも恐ろしいと思った 男が、目の前に座っていた。 「おう、浩之か」 耕一も、浩之のことを覚えていた。彼にとっても浩之は、印象深い相手として記憶に 残っていた。 「浩之も出るのか」 「はい」 「高校生部門かな」 「いえ、一般部門です」 「へえ、じゃ、おれと当たるかもしれないな、おれも大学生部門じゃなくて一般に出る んだよ」 「そうらしいですね」 そのことは、『格闘道場』の記事に書いてあった。 「あの……この人……」 葵が、耕一を見ながら浩之に小声でいう。 「ああ、さっきの雑誌の人だよ」 「あ、やっぱりそうだったんですね」 「なんだ。お前ら、あれ見たのか」 苦笑した耕一が頭を掻く。 「松原葵です。女子一般部門に出場します。よろしくお願いします」 「おう、よろしく」 「どうも、来栖川綾香です。私もあの記事読みましたよ」 綾香は、そういって手を差し出した。 「ああ、やっぱりそうだったのか。なんか似てるなーとは思ってたんだけど」 「よろしく」 「ああ、こちらこそよろしく」 耕一は、綾香の手を握った。 綾香は、強くその手を握り返した。 握手を交わした一瞬の間に、綾香の脳裏には幾つものイメージが浮かんでいた。 この手を捻って関節を取ろうとした場合。 手を引っ張りつつ蹴りを突き出した場合。 飛びついて首刈り十字固めを仕掛けた場合。 なぜ、そのようなことを考えたのか、綾香は我ながら不思議に思っていた。格闘家の 本能という言葉で説明できないことはないだろうが、それにしても、別にさしあたって 自分と闘う可能性の無い人物である。 幾つものイメージが浮かんでは消える。 綾香は耕一に手を捻り返され、蹴りを防がれ、十字固めを外されていた。 何をやっても返されそうな気がする。 こんなことは初めてだった。 相手からは、殺気も、闘気すらも発されておらず、闘う姿勢もしていない。ただ、棒 立ちになっているだけだ。 そんな相手である。 しかし──。 イメージの中での綾香の攻撃の悉くが外れていた。 今の綾香と似たような気持ちを、かつて月島拓也が抱いたということを、もちろん彼 女は知るよしも無い。 「それじゃ、おれは行くから」 耕一はもう、申し込み用紙への記入を済ませていた。 「はい、予選会場で会いましょう」 「ああ」 去っていく耕一の背中に視線を注いだまま、綾香が呟いた。 「強いわね、あの人」 「ああ、強い」 浩之の目も、耕一の背中を見ている。 浩之の目は、綾香が初めて見る目の色をしていた。 なんといったらいいのか……。 尊敬の眼差しとでもいったらいいのか……。 「あの人と、何かあったの?」 綾香は好奇心を押さえきれなかった。 「負けたんだよ」 いいながら、浩之が椅子に腰を下ろした。 その隣──を葵に譲って、綾香は浩之の向かいに腰掛けた。 「私……加納選手にも会ったことあるのよ」 「え、そうなのか」 浩之は、加納久という男について、ほとんど知識が無かった。なにしろ、その名前を 知ったのがついさっき、『格闘道場』の例の記事なのである。 「何度か試合を見たこともあるんだけど……強いわよ」 「そうか……」 浩之は眉間にしわを寄せた。 「耕一さん……一分で潰すとかいって大丈夫かなあ」 「私、あの記事読んだ時、随分と大言壮語だと思ってたんだけど……」 「だけど……なんだよ?」 「私が間違ってたみたいね」 綾香がいった時、耕一の背中はもう見えなかった。 「あの人、強いわよ……一分で潰せるっていうのもハッタリじゃないわ」 「へええ」 打倒耕一を目指している浩之としては、やや怯んだが、考えてみれば、あの人の強さ はよく知っているつもりである。 「優勝しても不思議じゃないわよ、あの人」 てことは、おれがあの人に勝ったら、おれの優勝もありえるわけだ。 耕一に勝つということが容易なことではないということはわかっている。そのために は今まで以上の修練が必要であろう。 浩之は、ギプスに包まれた右腕を恨めしげに見やった。 浩之の腕からギプスが取れて一ヶ月後に、エクストリームの出場審査会があった。 百人ほどの希望者の約半数が体力測定で落とされた。それからスパーリングを行い、 優秀と判断された十六人が本戦出場の資格を得た。 浩之は審査に通った。 前回優勝者の綾香は審査無しであった。 葵も、耕一も拓也も英二も通った。 加納久も通っている。 「審査で落ちてくれりゃよかったのになあ」 などと、耕一はいっていた。 「ヒローーーーーーっ」 屋上に駆け込んできた志保に目もくれずに、浩之は腕立て伏せを続けていた。 右腕がスムーズに屈伸する。 「ヒロ、あんた、聞いたわよ」 「何をだよ」 浩之の傍らには、タオルを手に持ったあかりが立っている。 「あんた、エクストリームに出るって本当!?」 「情報遅いじゃねえか、一週間前だぞ。審査を通ったの」 「雅史に聞いたのよ、なによ、あんたら、あたしのことのけ者にしたわね!」 「雅史は前から知ってたんだよ」 「で、どうなのよ、まさか優勝狙ってなんかいないわよね、ちょっとした腕試しのつも りなんでしょ?」 「狙って悪いか」 「嘘ぉ!?」 「だからこうして練習してるんだろうが」 と、志保とやり取りをしながらも、浩之の体が上下するスピードは変わらなかった。 全く、ペースが乱れないのである。 そこで初めて、志保は浩之の体を見た。 上着は、薄いシャツ一枚だけしか着ていないので、体の線がよく見える。 志保が、最後に浩之の体を見たのは去年の夏にあかりと雅史も加えたいつもの四人で プールに行った時だったと思うが、その頃よりも体全体がやや大きく、いたるところの 筋肉が発達しているのがわかる。 「志保、ジロジロ見るなよ」 「見てなんかいないわよ!」 「で、なんの用だ? ひやかしか?」 「応援に来てやったんじゃない」 「どうだか」 浩之が腕立て伏せを止めて立ち上がると、すぐにあかりがタオルを手渡した。 「後、三週間だな」 そして──。 その時は来た。 続く 第三十一話 開会 開会式は当然ながら派手であった。 ショーアップされたそれをもちろん、好恵は好きにはなれない。 テレビ中継されるエクストリームを何回か見たことはあるが、いつも見るのは試合だ けで、そういう「余分な」ところはチャンネルを変えて見ないようにしている。 しかし、今日は、会場にいるためにチャンネルを変えるわけにもいかなかった。 「いい席なのよ、それ」 と、チケットをくれた綾香がいったように、最前列から三列目の指定席であった。 開会式が終わると、30分の準備時間を置いた後、男子高校生部門と女子高校生部門 が始まるとのことだった。 好恵は、席を立った。 選手の控え室に行って、葵と綾香の様子でも見てみようと思った。 なんだかんだいって、葵には頑張って欲しい。 角を曲がった瞬間、目の前に肉の壁が出現した。 急ぎ足だった好恵は止まれずにそれに当たった。 日頃から鍛えた自分の体が、ゴムまりが跳ねるように飛ばされていた。相手は微動だ にせず、好恵だけが飛ばされていた。 「っと」 好恵が体勢を立て直そうとした時、腰の辺りが引っ張られていた。 気付くと、傾いていた体が真っ直ぐに立っている。 手が、好恵の腰に触れて、引いたのだ。 「おっと、ごめん」 背の高い男だった。 ぶつかった瞬間は物凄い量の肉に当たったような感触がしたのだが、それから瞬間的 に想像したよりもスマートである。 ただ、好恵も素人ではないから、その体が引き絞られた筋肉と僅かの脂肪によって構 成されていることがわかる。 男は道着を着ていて、胸元が少し空いている。 そこを見る限りでは、筋肉と脂肪が絶妙のバランスでその体を包んでいた。 歳は若い。おそらく、二十代の前半であろう。 短く刈った髪の下に、人の好さそうな顔がある。第一印象で好青年という感想を抱い ておかしくないだろう。 「大丈夫だったか」 男が心配そうに声をかけてくる。 それはいいのだが、手が腰に回ったままである。 「大丈夫です」 と、いいながら、好恵は身を引いた。 「ところで、こっちに何の用だい? こっちには野郎の控え室しか無いぜ」 「え……」 どうやら、道を間違えたらしい。女子の控え室は男子のそれとはやや離れたところに あるようだ。 「坂下じゃねえか」 その、聞き覚えのある声は背後から来た。 振り返ると、浩之がこっちに歩いて来るところだった。後ろに佐藤雅史がいる。 「おう、浩之の知り合いか」 男がいった。 「この子、女子の控え室に行きたいらしいんだ。お前、案内してやれよ」 「はい」 「それじゃ、おれはトイレに行くから」 そういって、男は去っていった。 「藤田」 「おう、女子の控え室はこっちだぜ」 と、浩之は好恵が曲がろうとした角とは逆の方向の角を曲がった。 「あの人、誰だい?」 「柏木耕一」 「あの人、強いね」 綾香と同じことを、好恵はいった。 「ああ、強い」 浩之は同じ返事を返した。 控え室には人だかりができていた。丁度綾香が、マスコミに囲まれているところだっ た。 その人だかりから少し離れたところにいた葵を見付けて、浩之は声をかけた。 「よっ、葵ちゃん」 「あ、藤田先輩に佐藤先輩に……好恵さん、来てくれたんですね」 「坂下が迷子になってたんで案内してきたんだよ」 好恵は、一瞬だけ何かいいたそうな表情を見せたが、結局浩之を無視して葵を見た。 「葵……負けるんじゃないよ」 「はい!」 「それじゃ、頑張りな」 「おい、それだけかよ」 「ああ」 試合前にゴチャゴチャいわれるのは好恵は好きではなかった。だから、きっと葵もそ うだろう。 ただ、一言だけいいたかっただけだ。 控え室を出る寸前、人と人の間に綾香の顔が見えた。 冷静な落ち着いた表情だ。 あっちには何もいう必要はないだろう。 好恵は、控え室を後にした。 「あの、段々緊張してきました」 御堂静香は自分の心拍数が急激に上昇していることを自覚していた。 「一般部門はまだ先だぞ、今から緊張してどうする」 柳川祐也は落ち着いたものであった。 「ど、どうしましょう」 「掌に人と書いて飲め」 「はい」 トーナメント表を見た時、月島拓也は歯軋りしたといっていい。 Aブロック八人、Bブロック八人の計十六人で大会は行われる。 柏木耕一。 藤田浩之。 緒方英二。 その三人の名は、Bブロックにあった。 自分の名がAブロックにいる。 ぎりっ。 歯軋りした。 肝心要の連中と自分が引き離されてしまっている。 Aブロックの他の七人が決して弱いとは思わない。ここにいる十六人は全員、審査を 通って来た人間である。 だが、自分を受け止めてくれる人間は結局、あの三人なのではないか、と拓也は思う わけである。 自分の技を受け止めてくれる人間はたくさんいるだろう。 しかし、自分の「情念」を受け止めてくれる人間は何人いるだろうか。 情念を「狂気」といっても構わない。 そう思っていた時。 四人目を見た。 自分を受け止めてくれる四人目の男だ。 女子の控え室に近い廊下にその男はいた。 「ひ、人と書いて飲む」 「それは人じゃなくて入だ」 「は、はい」 いつか見た女性と何やら話している。 確か、柳川祐也、警察官をやっているはずだ。 トーナメント表のどこにもその名は無かった。選手としてではなく、観客として来て いるのだろう。見ると、女性の方が道着を来ている。 おそらく、彼女の応援であろう。 「じゃあ、頑張れよ」 「は、はい」 女性が去っていき、柳川が拓也の方にと来た。 「……」 柳川は無言で拓也の傍らを通り抜けた。その表情から察するに、拓也のことは覚えて はいるらしい。 拓也はその背中を慕うように体の向きを変えた。 受け止めてくれ。 僕を受け止めてくれ。 「待て」 柳川が、背中を向けたままいった。 拓也の手が、もう少しでその後ろ襟に触れそうだった。 「この位置だとおれの方が有利だ」 「!……」 拓也の顔色に疑惑の色が加わった。 背後から掴みかかろうとしている自分のどこが不利なのだ。 疑惑が生じたただ一瞬の間に、柳川の体はすうっと前に進み、進みながら後ろを振り 向いていた。 「これで互角」 「貴様!……」 拓也が踏み出すのに合わせて柳川が下がる。 「これから試合だろう。止めておけ」 「そんなの、どうでもいいんですよ」 拓也の体がゆらりと前に出た。 右手を伸ばす。 柳川の左肩に触れたかと思えた刹那、拓也の右手は空を掴んでいた。 ほんの僅かに、柳川が左肩を後ろに反らしていた。 左手を伸ばした。 空を掴んだ。 拓也の口から舌打ちが漏れた。 かわされたからではない、人が来たからだ。 「それではな」 身を翻して柳川が去るのを、拓也は歯軋りしながら見送った。 一般部門は高校生部門と大学生部門の後にあるので少々時間が空いている。 浩之は観戦しながらも、心はここにあらずといった表情で、二階席の一番後ろに立っ ていた。 あかりと志保は、わざわざチケットを買ってこの場に来ているが、浩之は一度も会っ ていない。会うのは、全てが終わってからでいいと思っている。 今、自分の横にいる雅史はセコンドとして付き添っていてくれることになっている。 既に、大学生部門が終わり、休憩時間に入っていた。 この後、女子の一般部門があり、そして、浩之が出場する男子の一般部門がある。 「ふう」 まじぃ、段々緊張してきやがったぞ。 今まで、かなり危険な闘いを何度もやってきて緊張などには慣れっこだと思っていた のだが、これだけの観客の前で試合をするとなると、また違った質の緊張が心を張り詰 めさせる 落ち着け、落ち着け。 ひつじの数でも数えるか……。 「浩之、あれ」 雅史が下の方を見ながらいった。 その視線の先に、男がいた。 階段に座り込んで、すぐ隣の椅子に座った女の子となにやら話している。 「耕一さんじゃねえか」 柏木耕一である。 順当に行けば、Bブロックの決勝戦で浩之は彼と対決することになる。 だが、少し気になることは……緒方英二が準決勝で先に耕一と対戦する可能性がある ことだ。 耕一が、女の子の頭を撫でていた。 「ちっきしょう、余裕だな」 浩之は、緊張していた自分が恥ずかしくなってきた。 「よし、ちょっと声かけて……」 浩之が階段を下りていこうとした時、 「どいてどいて!」 階段を駆け上がってきた女が、かすめるようにぶつかってきて浩之は捻れるように体 勢を崩した。 接触する寸前に自ら体を捻ってかわそうとしたのだが僅かに間に合わなかった。 「おい!」 「あ、ごめん!」 振り返ってそういった顔は、浩之とそう変わらぬ年齢の少女であった。 「くそ、なにしやがんだ。あの女」 姿勢を立て直しながら浩之がその背中に毒づく。 「大丈夫? 浩之」 雅史が心配そうな顔をしている。一応、浩之のセコンドというものになっている以上、 試合を前にした浩之の体を気遣っているらしい。 「いや、大丈夫だ……にしても」 浩之の肩の辺りに柔らかな感触が残っている。 「可愛いし、いい胸してたけど許せねえ」 「……」 「畜生、どうしてくれよう。帰ってくんの待ち伏せして揉んでやろうか」 「……」 はっきりいって、今の浩之は試合前の緊張と高ぶりで気がささくれ立っているため、 些細なことで怒りやすくなっている。 「浩之」 ぶつぶついっていたら、下の方に座っていた耕一が気付いて声をかけてきた。 「あ、どうもどうも、耕一さん」 浩之がいいながら下りていくと、耕一の隣にいた女の子が顔を覗かせた。 「お兄ちゃん、この人は?」 小学校高学年……ぐらいに見える可愛らしい子だ。柔らかそうな髪が背中に垂れてい る。 「藤田浩之、総合格闘家だ」 耕一が答える前に、普通の人間なら恥ずかしくて口にできないような自己紹介をして 浩之は、後ろの雅史を親指で指した。 「こいつは、おれのセコンドの佐藤雅史」 「よろしく」 「どうも、よろしくお願いします」 頭を下げたその子の隣にいたおかっぱ頭の子も、一緒に頭を下げた。 「耕一さんの妹ですか?」 「いや、従姉妹だ。……ところで、悪かったな」 「は? 何がです?」 「さっき、お前にぶつかったのもおれの従姉妹なんだ」 「あ、そうなんすか」 そういえば、おかっぱの女の子の隣の席が空席になっている。 「ま、許してやってくれ、携帯が震えたらしくてな」 「はあ」 「十回コール以内に出ないと怒られるらしくてなぁ」 「はあ……」 「ん?」 耕一が、浩之の後ろの方に視線を注いでいる。 浩之が背中越しに背後を振り返ると、階段の一番上でさっき浩之に激突してきた耕一 の従姉妹が手招きしていた。 「おれか?」 と、いいながら耕一が自分を指差す。 ブンブン頷きながら、ブンブン手招きする。 「ちょっと行ってくる」 耕一が立ち上がって行ってしまった後に浩之が腰を下ろす。 「もうちょいで女子の一般が始まるな」 呟いて、横からの視線に気付く。 「ええっと……」 「柏木初音です」 「柏木楓です……」 「おう、初音ちゃんと楓ちゃんはあれかな、格闘技とか見るの好きなのかな」 「あんまり……」 「私も……」 「あ、そうなんか。じゃあ、今日は耕一さんの応援か」 「うん、お兄ちゃんがこの大会に出るっていうから」 「お家はどこにあるのかな」 「隆山だよ」 「随分遠いな……そんなとこからわざわざ応援に来たのか」 「うん」 「そうか、偉いな、よし、お兄さんが飴を上げよう」 浩之が道着の上に着たジャンバーのポケットから飴を取り出して初音と楓に渡した。 浩之は初音を小学生、楓を中学生だと思っている。 周りに人がいなければ人さらいにしか見えない。 「浩之、始まるよ」 「おし、じゃ、葵ちゃんの様子でも見に行くか」 浩之が立ち上がり、初音と楓に手を振って階段を上がっていった。 女子の一般部門第一試合が始まろうとしていた。 続く 第三十二話 一生懸命 綾香さんが端っこにいる。 自分も端っこにいる。 綾香さんが一番右端。 自分が一番左端。 つまり──。 綾香さんがBブロック第四試合。 自分がAブロック第一試合。 距離は遠い。 道のりは遠い。 その道に、三人の猛者がいる。 みんな、自分と同じところを目指している。 倒さねばならない。 倒さねば通してもらえない。 みんな、倒して通ろうとしている。 この道はそういう道だ。 そういう道を自分は選んだのだ。 相手を倒す。 それ以外は考えないようにしよう。 それ以外は全て邪念だ。邪魔なものだ。 必死にやろう。 一生懸命やろう。 一瞬一瞬を全て一生懸命で埋めよう。 一生懸命なことが、自分が唯一つ他人に誇れることだから──。 行こう。 それで行こう。 ぱん、と両手で挟み込むように頬を叩いた。 控え室のドアが開く。 「松原選手、時間です」 立ち上がった。 「葵に、何か声をかけたの?」 控え室から出ていく葵を見送った浩之に、綾香が声をかけてきた。 「いや……」 浩之は首を振った。 「アガってもいないみたいだしな、黙ってたよ」 「ふうん」 「ここんとこ、おれ、葵ちゃんとは疎遠だっただろ」 「……」 疎遠、という言葉が的確な表現かには疑問があるが、確かにここ数ヶ月、正確には葵 がエクストリーム同好会設立を断念してから、浩之はあまり葵とは一緒に練習をしなく なった。 葵は綾香のところに行って練習していたのだが、綾香の目から見ても、彼女は時折、 寂しそうにしていた。 「だから、だいぶ心配してたんだ。その……葵ちゃんにはさ……良くも悪くも優しいと いうか……人を気遣うところがあるから……」 「うん」 浩之のいわんとするところを、綾香はなんとなく理解した。 葵には一生懸命なところはあるが、死に物狂いなところが無いのである。 格闘家としての資質はあると綾香は思っているが、性格的にはあまり格闘家向きでは ない要素が多いのだ。 それゆえ、実力はありながらそれほどの結果を出していたわけではなかった。 綾香が通っていた空手の道場でも、誰もが葵の実力を知っていた。その道場の女子の 部で双璧をなしていた綾香と好恵が特にそれを認めていた。 だが、公式戦での結果はあまり芳しくなかった。 「でも……今日の葵ちゃんは違ってた」 浩之の声に、この男らしくもない感傷的な響きがあった。 「お前と練習したおかげかな?」 「……あの子は、強い子だから……」 綾香はそういって首を横に振った。 「私もうかうかしてらんないわ」 綾香の目に研ぎ澄まされた光が宿る。 元々、綾香は葵のことを自分を越えうる存在であると、それほどまでに評価していた。 自分には、天賦の才があるらしい。 それを確信したのが中学生の頃だ。 平均的な人間の半分のスピードで技を覚えることができる。 葵には、そういう才能は無いと思っていた。 ただ、努力をできる人間だと思った。 最近、考え方が変わった。 葵には才能──それも天賦といっていい才能がある。 努力ができる才能だ。 努力を苦とも思わない。 努力することに喜びすら感じている。 ここまで行けば一個の才能であろう。 努力をする才能のある葵が積み重ねてきた努力の成果がそろそろ十二分に発揮されよ うとしているような気がしてならない。 それが今日なのではないだろうか。 綾香はゆっくりと柔軟体操を始めた。 「葵ちゃん、決勝まで来れるといいんだが……」 浩之が呟いた。 葵は綾香を目指してエクストリームに足を踏み入れた。 今回も、綾香が一般部門に出場するから葵もその道を選んだ。 葵にとって、綾香が目標だった。 綾香がいるところが目的地だった。 そんな葵には、綾香と思い切り闘って欲しい。 「お前の目から見て、なんか要注意って相手はいねえのか」 「そうねえ……」 と、いいながら綾香は、にわかに葵のセコンドのようになってしまった浩之を好もし げな目つきで見ている。 「あの子がAブロックの決勝で当たるかもしれないあの人なんて強いわね」 「どの人だ?」 「あの人」 と、綾香が指差した先に、一人の女性が座っている。 不覚にも見とれてしまった。 美人である。 花咲くような笑顔をしている。 なんかやたらめったら喜んでいるらしい。 「あの人、前回の準優勝者の御堂静香さんっていってね、ああ見えて強いのよ」 「へえ」 「今度やるエクストリームのドラマの主役やってる緒方理奈の格闘の演技指導してる人 でね」 「英二さん」 浩之は、思わず呟いていた。綾香が要注意だという前回準優勝者と何か楽しそうに話 している緒方英二に意識が引きつけられていた。 「む……」 英二の方も浩之に気付いて、女性に二言三言何かいってからこちらに近付いてきた。 「やあ」 「どうも」 浩之と軽く挨拶を交わすと、英二は綾香に手を差し出してきた。 「妹がお世話になってるそうで」 「いえ、こちらこそ」 互いの手を握る。 「英二さん、あの人と知り合いなんすか?」 「ああ、一度仕事の関係でうちに来たことがあってね……おれの大ファンなんだってさ」 「そうすか、なんか楽しそうに話してましたけど」 「食事に誘ったら思っていたより喜んでくれてね」 「へえ、いいっすねえ」 そういえば、英二は現役ミュージシャンの頃は年に二回ぐらいは女優とか歌手とかと 「熱愛発覚」していたものだ。 結局、未だに独身だが、英二の「婚約者候補」と報じられた女性は何人かいるはずだ。 「なんか可愛い人ですねえ、準優勝するような人には見えませんよ」 はたから見て明らかにウキウキとした様子で柔軟運動をしている静香を見ながら浩之 がいった。あかりや志保がいないので羨望の念を隠そうともしない。 「真面目な警察官の父親に育てられて、趣味らしい趣味は格闘技だけだっていうからね え」 「百戦錬磨の英二さんにかかっちゃそんな初心なお嬢さんはイチコロですね」 「まあねえ」 英二はヌケヌケといってのけた。 「さてと……んじゃ、おれは葵ちゃんの試合見に行かないといけないから」 「いや、おれも行こう」 丁度、葵の名前がコールされるのが試合場の方向から聞こえてきた。 エクストリームの試合場は観客席最前列からやや低い場所にある。 十メートル四方の正方形の形をしており、プロレスやボクシングのリングよりも少し 広い。 リングのように四方にコーナーポストが立ってロープが張られているわけではなく、 下にラインが引かれていて、そこから体の一部が出ると試合が中断して一度中央に戻っ て仕切り直しになるというルールであった。 押されて出るのはよいが、相手とほとんど接触せずに自らラインを割ると減点のペナ ルティが課せられる。 マットは、先程浩之が乗ってみたところ、シートの下にゴムが布いてあるらしく思っ ていたよりも弾力がある。しかし、学校の柔道場の畳などよりは遙かに固く、投げを喰 らって頭から落ちたらそれ一発で勝負が決まることもありうるだろう。 浩之たちが控え室を出て、廊下を通って、選手通路の入り口付近に行くまでに試合は 第一ラウンドを二分過ぎていた。 エクストリームは五分三ラウンド制なためにフルタイムで闘うと十五分間の戦闘時間 になる。 浩之が試合場を見た時、葵はレフリーの前でファイティングポーズを取っていた。 「松原、立ち上がりました」 アナウンスが聞こえてくる。 「葵ちゃん、ダウンしたのか!?」 浩之が思わず叫び、試合場に向かって歩き出した。綾香は少し躊躇った後、それに続 き、英二はその場から動かなかった。 近付けるところまで浩之は近付いた。試合場は場外も含めると十五メートル四方にな る。場外に五メートルの遊びが設けられているのだ。 その端っこの上に手を置き、身を乗り出して浩之は葵を見上げた。 目だ。 葵の目が見たい。 浩之は葵が背を向けている位置からぐるりとその反対側に回った。 葵が顔を上げていた。 浩之は離れた。 試合場から少し離れた位置に立って試合を見ていた綾香が自分の隣に来た浩之に一瞬 だけ視線を走らせてまた、試合場にそれを戻した。 「あの子、いい目をしてるわよね」 「ああ」 相手選手の右ストレートが伸びる。 葵の体が前のめりに倒れるように動く。 「当たってねえ!」 浩之が叫んだ。 確かに、少しだけ触れたが、相手のストレートは葵の頭を掠っただけであった。前に 出つつ、ギリギリの見切りで相手の攻撃をかわしたのだ。 相手はパンチを打つために踏み込んでいる。葵も攻撃をかわしながら踏み込んでいる。 両者の胸と胸が接触するほどに接近する。 「行った」 浩之がぽつりと呟いたのとほとんど同時に葵の両手が相手の腹部を立て続けに殴りつ けていた。軽量だが、それゆえのスピードとキレを有する葵にとって懐に入っての強襲 は一つの戦闘パターンである。 僅か一秒程度の間に四発のボディーブローを叩き込んだ葵が離れる。組み合っては不 利である葵は一撃離脱の場面が多くなる。 丁度、掴みかかろうとしていた相手をすかした形になった。 前方に泳いだところを逃さずに葵の蹴りが唸った。 ミドルとハイの間ぐらいの胸の高さに等しいぐらいのキックであった。 それが前にのめっていた相手の側頭部に炸裂した。 「立てねえだろ」 「ええ」 浩之と綾香が短く言葉を交わした十秒後、松原葵に勝利が宣告された。 勝った。 自分は勝ったらしい。 相手にくっついて腹を打ち、離れて──。 離れた時に、相手の選手の頭が下がっていた。 そこから記憶が一瞬飛んだ。 意識が繋がった時、相手の選手が頭を押さえて倒れていた。 蹴り──だったような気がする。 足に、そんな感触があった。 やっぱり、蹴りで決めたらしい。 こんなことは初めてだった。 時間が経って、試合場から下りた時、生々しい記憶が頭の中に蘇ってきた。 相手の頭の位置を確認した刹那、足が自然に動いていたのだ。 蹴りを──。 意識した時には足が頭に接触していた。 自分は勝ったのだ。 入退場の通路の脇に先輩がいて、掌を横に伸ばしていた。 葵は、軽く、その掌に自分のそれを合わせる。 「やったな、葵ちゃん」 「はい!」 続く 第三十三話 葵流 はじめの合図がかかり。 綾香コールが沸き起こってすぐ──。 しなった綾香の右足が低く走り、次の瞬間天空を望むがごとく跳ね上がり、相手の側 頭部を痛打していた。 綾香コールがどよめきと歓声に一変し、 「決まったのか!? 今ので決まったのか!?」 やや呆然とした声があちこちで湧いた。 レフリーが頭上で両手を慌ただしく交差させ、歓声はより爆発的に高まった。 「やるじゃねえか」 と、いったのは選手用に試合場のすぐ下に設けられた特別席に座った浩之であった。 「や、やっぱりすごいです。綾香さんは」 と、これは葵である。 「でも、葵ちゃんのさっきの試合もすごかったぜ、そんなおっかながることねえって」 「で、でも、私なんか一回ダウンしちゃったし、それに比べて……」 「綾香と比べることなんかねえよ、葵ちゃんは葵ちゃんだろ?」 「そ、そうでしょうか……」 「おれさ、葵ちゃんは何度もダウンしながら、何度も壁にぶつかりながら強くなってい くタイプだと思うぜ」 「何度もダウンしながら……」 「ああ、おれもちょっとそういうタイプかもな、やっぱし似てんな」 「え?……」 「師弟同士、似てるって思ってな」 「そ、そんな、師弟だなんて……」 「おれに格闘技の基礎を教えてくれたのは葵ちゃんだぜ」 「でも、強くなったのは藤田先輩の力ですよ」 「まあ、おれは葵流の一番弟子みたいなもんだろ」 浩之がそういうと、葵は恥ずかしそうに俯いてしまった。 「そうだ。今まで流派聞かれたら我流って答えてたんだけどこれからは葵流っていって いいかな?」 「そ、それは」 浩之はもちろん冗談のつもりでいったのだが葵は狼狽しまくった。その姿を見て、浩 之が笑い出してもまだ葵は狼狽えている。 「さて、そろそろ二回戦だろ」 綾香の試合がBブロックの第四試合であるから、この後、休憩時間を挟んで葵の第二 回戦が始まる。 「それじゃ、私はそろそろ……」 「おう、ここから見てるからな、頑張れよ」 「はい!」 いきなり、開始三十秒後にいいのを貰ってダウンしてしまった。 左のストレートが真っ正面から、浅いとはいえ顎に入った。 くらくらっとして倒れた。 カウント6で立ち上がった。 やっぱり綾香さんのようには行かないのか……。 右のローが左腿に痛打を加える。 強い。 でも、綾香さんならこの程度の相手は難なく倒してしまうのだろうか……。 それとも、綾香さんといえど、これほどの相手となると手こずるのだろうか……。 この相手選手、確か筒井瑤子(つつい ようこ)さんといったろうか、パンフレット に載っていた選手データによればキックボクシングをやっているらしい。 さすがに、時々放ってくるローキックが鋭く強烈だ。 キックで決めようとしている。 パンチはそのための下準備に使うつもりだろう。 ぶん。 と、凄い勢いで右フックが目の前を通り過ぎていく。 あれをテンプルか顎に貰っていたら危なかった。 確かにキックで決めようとしている。 でも、パンチだって一発一発が急所に入ればノックアウト確実の重さと速さだ。 駄目だ。 考えが甘かった。 そんな生半可な相手じゃない。 「シュッ!」 右のミドルキックが上手く脇腹に入った。 でも、筒井さんはダウンしないで向かって来る。 綾香さんだったら、今ので勝負を決めてしまっていただろうか……。 「待て!」 レフリーの人がそう叫ぶのと同時にゴングが打ち鳴らされる。 ああ、もう五分闘ったんだ。 基本的に、ラウンド間のインターバル時には何をしてもいい。でも、その場に寝そべ ったり座り込んだりする選手はいない。大体は立ったまま呼吸を整えている。 私もそうしていた。 荒くなった呼吸を段々と落ち着ける。 なんだか気分も落ち着いてきたような気がする。 「葵ちゃん」 後ろから藤田先輩の声が聞こえた。 「葵ちゃんは強い!」 私は思わず振り返る。 「だろ?」 藤田さんが親指を立てて、にやっ、と笑っていた。 それに釣り込まれて私も笑う。 「第2ラウンド開始。両選手中央へ!」 右のジャブが立て続けに打ち込まれてきた。 牽制だ。 それほど強くも無いし、打ち込みも浅い。 どこまで打ち込んでくるのか見切った後はそれほど大きく避けたり防いだりする必要 は無い。 頬に当たる。 でも、触れただけ。 大体、ジャブというのは目標物を打ち抜くことを主眼に置いたパンチじゃない。 でも、油断しているとすぐにストレートが飛んでくる。 読みが当たった。 かわして右のロー。 左の膝に横から入った。これは効いたはず! でも、筒井さんは後退しながらも倒れなかった。 今のが綾香さんだったら、筒井さんはダウンしていただろうか……。 「葵ちゃん!」 藤田先輩の声が聞こえる。 藤田先輩といえば、さっきの綾香さんの試合の時にいっていた。 葵ちゃんは葵ちゃんだろ? 私は私。 綾香さんだったらとか、そういうことは考えないようにしよう。 私は私。 綾香さんじゃない。 私は私だから──。 綾香さんみたいには勝てない。 でも、私は私だから──。 私らしく勝ってみせよう。 「行けぇぇぇっ! 葵ちゃんは強おい!」 あの時も……好恵さんとやった時も、そういって私を元気づけようとしてくれました よね。 私、やっぱり藤田先輩のその声を聞くと元気が出てきます。 でも、いつまでも先輩に頼ってばっかりはいられませんよね。 これからは自分でやらなきゃ。 右のロー、と見せかけて、たぶん途中で軌道を変えてハイキックにしてくるような素 振り……。 来た! その通りに来た! 私はそれを潜るようにかわす。 筒井さんが、自分の足が邪魔になって私のことを見失った瞬間に左手をフックとアッ パーを合わせたようなスイングで振って拳を顔に叩き付ける。 右のストレートを一発当てておいて、体勢が崩れている下半身に右のロー。 筒井さんの体が大きく揺れる。 藤田先輩が声援を送ってくれる。 「おーし、葵ちゃんは強い!」 私は強い! バチッ、と、音がした。 確かな衝撃が右足に走っていた。 私の右のハイキックが筒井さんの顎を横から捉えたのだ。 筒井さんの頭部が揺れて、彼女は背中から倒れて行った。その際に受け身を取らなか った。目が閉じている。失神しているのだろう。 私は呼吸を整えながら、レフリーのカウントを待った。 筒井さんは立ち上がれず、カウント10のすぐ後に担架で運ばれていった。 「ふう……ふう……」 「よっ、葵ちゃん、やったな」 「はい!」 次の試合は、一回戦をそれぞれ、二分前後で勝った御堂静香と三堀美久(みほり み く)の試合であった。 試合開始三十八秒。 御堂静香がグラウンドでの膝十字固めで三堀美久からギブアップを奪って勝利した。 試合が始まって二十秒は軽い突き蹴りでの牽制があり、三堀が両足タックルで静香を 倒して上に乗り、腕を掴んで腕ひしぎ十字固めに行った。 正直、それで終わったと葵は思ったし、隣で見ていた浩之の口からは「あー」と感嘆 の声が漏れていた。 「あれ?」 と、浩之が呟いたのは五秒ぐらい経ってからだった。 「タップしないのか?」 タップとは相手の体を二回軽く叩く運動で、つまりはギブアップだ。 静香の肘がかなり外側に曲がっているのだが、彼女がタップする気配が無いのである。 「おい、あれで極まってねえのか? もしかして」 浩之が慌ただしい様子で綾香に尋ねた。 「まだね……前回の大会ではあれよりももう少し曲がった状態で二分以上耐えたわよ、 あの人」 綾香がいうには、ほとんど異常ともいえるほどの関節の軟らかさを静香は有している らしい。 ルーズジョイントと呼ばれる特異体質である。 試合開始三十秒。 三堀が腕を極めるのを諦めて拘束を弛めた瞬間、静香が起き上がって腕を引き抜いた。 三堀の両足が静香の首を腕ごと巻き込んで三角締めに持って行こうとするが、足と足 が合わさる前に静香の上半身が三堀の右足の上を滑るように回転して脱し、両手が三堀 の右足を掴んでいた。 静香の両足が三堀の右足の腿を挟み込んでいた。 「極まるわよ」 綾香がいってすぐに三堀がタップした。 膝十字固めが極まっていたのだ。 「やりました。やりましたよ」 選手控え室の前に立っていた柳川祐也を認めると静香は小走りでやってきて柳川の右 手を両手で掴んだ。 「見ていた」 「腕ひしぎ行かれた時、もう駄目かなって思ったんですけど」 「話には聞いていたが、本当に関節が軟らかいんだな」 「はい」 「次は、松原葵か……見た限りではなかなかいい動きをするようだったが」 「ええ、今回初出場ですけど、彼女強いし可愛いし、いいですねえ、ああいう子は」 「まだ高校一年生なのになぜ一般部門に出ているんだ?」 と、柳川はパンフレットを見ながらいった。 「それはですねえ、彼女はあの来栖川綾香と同じ空手道場に行っていたらしいんですよ」 「そうなのか」 などといいつつ柳川、実は来栖川綾香のこともよく知らない。 「はい、それで今回、来栖川さんが一般部門に出るんで松原さんもそっちに出場したん だそうです。雑誌に書いてありました」 「ほう」 その辺の事情は『格闘道場』誌上において小さいとはいえ、記事になっていたので、 目ざとい者には周知のことであった。 「来栖川さんと闘わせてあげたいけど、私だって負けられません」 「お前も、前回は準優勝だったからな」 「はい、私、今回は優勝狙ってますから……それに、柳川さんも緒方さんも応援してく れてるし……負けられないです」 「緒方? ……」 「あ、柳川さんは会ってなかったですね」 そういって、静香は、自分が現在、あるドラマの撮影現場で緒方理奈の格闘方面の演 技指導をしていることを話し、緒方英二との経緯なども柳川に教えた。 「ふむ……その緒方英二とかいうのが好きなのか?」 「……は、はぃぃぃ」 静香の声が間延びする。 「さっき、お食事に誘われちゃいましたぁ」 「ふむ……で、その緒方英二とかいうのは元ミュージシャンで今はアイドルプロデュー サーをやっているんだな?」 「はい、そうです」 「収入はどの程度だ?」 「うーん、ああいう仕事だから決まった収入は無いと思いますけど……でもすごい豪邸 に住んでるし……プロデュースする歌は大ヒットしまくってますから」 「収入はかなりあるんだな」 「そうですね」 柳川は少し何かを考え込んで、やがて身を翻した。 「あ、柳川さん、どこへ?」 「挨拶してくる」 続く 第三十四話 保護者 綾香コールが控え室にまで聞こえてくる。 あの容姿と強さなら人気があるのは当然だろう。 野太い男の声援ばかりかと思ったら、女のファンにも物凄い支持を受けているらしく、 黄色い声援が甲高く響いている。 そういえば、ある雑誌で行われた「理想の女性」という女性を対象にしたアンケート で来栖川綾香は五位になったことがあるらしい。 歓声が一層大きくなった時、英二は綾香の勝利を確信した。 「おい」 上から声が降ってきた。 「は?」 「緒方英二だな」 「そうだが」 歳の頃、二十半ばと思われる眼鏡をかけた男が英二を見下ろしていた。英二もそこそ こ身長があるのだが、この男はそれよりも高い。 「御堂静香を食事に誘ったそうだな」 「は?」 なぜ、この男がそれを知っているのだろうかと英二は思った。静香の知り合いなのだ ろうか。 「誘ったけど、それが何か?」 「あいつはお前のことが好きだそうだ」 「はあ……」 「で、おれとしては、お前は収入の点では問題ないと思う」 「はあ……」 何かが、どこかで恐ろしく何かが食い違っていそうな予感を英二は抱いていた。 「幸せにできるのか?」 「は!?」 「幸せにできるのかと聞いている」 「……」 この男の意図するところは明確にはわからぬが、とにかく、ふざけた返答など許さぬ 真摯な態度が男にはあった。 「誰だね、君は」 「柳川祐也、警察官だ。しかし、今はそれは関係ない、私人としてお前と話している」 「はあ……で、静香さんとはどういった関係で?」 「法的根拠は一切無いが保護者だ」 「はあ……」 柳川が鋭い視線で英二を貫いている。 「幸せにできるというのなら、おれとしてはとりあえず付き合いを認めても……」 「ちょ、ちょっと待ってくれ」 英二は慌てて柳川の言葉を遮った。 「何か勘違いしていないか?」 「何をだ」 「別に静香さんを誘ったのはそういうつもりではなくてな」 「どういうつもりだ」 「ただ、ちょっと今度お食事でも、と」 「軽い気持ちだったのか」 「そうそう、軽い気持ち」 「つまり遊びだな」 なんだか話が不穏な方向に向かっているような気が英二はした。 「今後、あいつに近付かんでもらおう」 柳川がいい捨てて身を翻そうとする。 「待て待て」 英二としてはここで、はいそうですかと引き下がるのも嫌である。別に静香にそれほ どに御執心というわけではないが、いきなりこんな法的根拠は無いと自ら認める保護者 などに邪魔されてしまっては緒方英二の名折れである。 「君にとって、静香さんはどういった存在なのだ?」 この男、なんだかんだといいつつ、結局静香に惚れているのだろうと英二は見当をつ けた。 「法的根拠は一切無いが被保護者だ」 柳川の声に淀みは無かった。 「感情的にいえば、昔世話になった人の娘だ」 付け加えて、また身を翻す。 「待てって」 「なんだ?」 「もし、おれが静香さんに近付いたりしたらどうなるんだ?」 故意に、英二は挑発的にいった。 「近付けないようになるだけだ」 素っ気なく、柳川はいった。 それに含まれたこの男の怖さを英二は理解した。 少し前の自分ならどうということはない。 だが、今の自分は……こういう男を目の前にするとその男のことが知りたくなってく る。 何をしてでも知りたくなる。 知りたい。 一発入れてみようか。 どうしようもない欲望が、英二の中で息づき始める。 今の位置──。 英二が座っていて、柳川が立っている。 仕掛けるとすれば立ち上がりながらその反動を利してアッパー系のパンチで下から顎 を突き上げるか。 「思っていたよりも骨がありそうだな」 上からのその声に、英二は拳を握った。 この男、自分の思考を読み取ったのか──? 体は寸分も動かしていない。何か、気配のようなものの動きを察知されたのだろうか。 背筋が寒くなった。 氷柱に寄っかかったような感じだ。 怖い男だ。 「おい……」 柳川がいった。 「何を怖がっているんだ?」 と……。 英二の腰が浮いた瞬間。 英二の瞳に、柳川の背中が映っていた。 「ただチャラチャラしているだけの男かと思ったがそうでもなさそうだな」 背中を見せたまま柳川がいった。英二は中腰になってそのまま固まっている。 いきなり背中を向けられて、それと同時に射程距離からは外れられてしまったために 気が空かされた。 柳川に攻撃を届かせるには立ち上がって、さらに一歩踏み込まねばならない。 立ち上がるところまでは行った。 だが、踏み込みを決断する一瞬前に、柳川が話しかけてきたために、その決断を躊躇 し──いや、躊躇させられ──タイミングを逃してしまったのだ。 「あいつの試合が始まる」 そういって、柳川は控え室のドアを開けた。 松原葵の名前がコールされているのが微かに聞こえてくる。 次は静香の名前が呼ばれるはずだ。 ドアが閉まった。 「……」 英二が息を吐き出した。 控え室の隅で、月島拓也が閉じたドアを輝きを帯びた目で見つめていた。 開始三分。 右のハイキックが空を切り裂いた時、葵はその仕掛けが時期尚早であったことを悟っ た。 急ぎすぎた。 まだこんな大技を喰らうほど相手は消耗していない。 試合開始から今までの三分間、ほぼ一方的に葵が攻撃した。ストレートとジャブに時 折ローキックを交えて押していった。 リズムに乗った。 それに乗って右のハイを繰り出した。 だがそれが外れた。 相手が葵の攻撃リズムを読んでいたのだ。そして、まだ余力が十分に残っていたのだ。 そのどちらもが備わっていたからこそ、葵が渾身の力を込めた素早いハイキックをか わすことができたのだ。 腰を落として上半身を後方に反らして、葵の右足が描く軌道に体の線を合わせたよう な最小限度の動きでかわした。 蹴り足を戻す前に、体勢を低くしてタックルに来た。 まだ右足がマットに着いていない時点で両手で左足が刈られた。 とん。 と、右足がマットに着いた時には左足をすくい上げられ、葵の背中はマットに向かっ て倒れていくところであった。 この人──。 前回の準優勝者だけあってやっぱりすごい人だ。 この子、強い。 軽度の脳震盪でクラクラする頭を少し振りながら、御堂静香は葵の左腿を両足で挟み 込んでアキレス健固めをかけようとした。 できるならばこれで決めてしまいたい。 このアキレス健固めは外されても、もう立ち上がらせてはいけないと思った。 このままグラウンドで決着をつけるのだ。 立っての打撃戦では自分よりもこの葵という子の方が有利だ。 技術的、経験的なことをいえば決して自分が劣っているとは思わないが、とにかく勢 いとキレがあるために、一発いいのを貰ってしまうのが怖い。 葵は体をひっくり返した。 ロックされかけている左足首を回転させるために勢いをつけて返した。 回しながら引くと、左足は抜けた。 ほっとしたのも束の間、うつ伏せになった葵のうなじの辺りに電流のようなものが走 った。何かが来る、ということを葵が今まで鍛え上げてきた体が彼女に教えてくれたの だ。 背後から静香の右腕が葵の首を刈り取るように迫ってくる。おそらくスリーパーホー ルドを狙っているのだろう。 だが、背中に目は着いていない葵だが、それを察していた。 曲げた右手を横に突き出した。 葵の腕が静香の肘の裏に当たる。 右肩と右腕を思いきり上げて上からのし掛かっている静香の右半身を持ち上げその隙 間から這い出るように葵は静香の下から脱した。 葵は静香の腕を取ろうとか脚を取ろうとかということはせずに立ち上がって構えた。 自分の得意分野が何かはわかっている。 この大会のためにグラウンドでの関節技や絞め技も覚えた。でも、その領域では自分 は勝てない。 どちらかというと、その領域は静香の領域だ。 正直、エクストリーム・ルールで立ち技のみで闘うのは辛い。 その時、ゴングが鳴った。 立たれてしまった。 静香が立って自分を見下ろして構えている葵を見ながらゆっくりと体を起こした時、 ゴングが鳴った。 「よーし、葵ちゃん、いい感じだぞ」 「はい」 試合場下にいる浩之はすっかり葵のセコンドと化している。 「次のラウンドで決めてやれ、この後、優勝決定戦があるんだからな」 「はい」 「よし行け、葵ちゃんは強い!」 柳川さんにでもセコンドを頼めばよかったと静香は思っていた。 まあ、間違いなくいやがるだろうが、頼み込めば引き受けてくれただろう。 静香以外の人間ならば、どんなに這いつくばって懇願したところで柳川は見向きもし ないであろうということは、静香にはよくわかっていない。 それだけ、柳川という男は御堂静香──御堂巡査長の娘──に対する時はそれ以外の 人間と比べて、雰囲気から態度から時には行動原理までもが違う。 そんなことを考えていると──。 ゴングが鳴った。 「あ……あの、葵ちゃんは強い、っていうのいいなぁ」 「第2ラウンド、両選手中央へ」 続く