第35話 悔し涙 第2ラウンド開始直後。 左のジャブを二発出した後に繰り出した右のストレートが静香に取られた。 捻りながら引かれる。 「せいっ!」 咄嗟に左手で我が右手を掴んでその捻りを止めると同時に左の前蹴りを静香の腹部に 当てる。 静香との間に距離を取りながら葵は改めて戦慄していた。 不用意な打撃技の仕掛けは即座に取られて関節技に持って行かれる。 葵は慎重になった。 手数がめっきりと少なくなる。 その途端、強力なバネに弾かれたように静香が突進してきた。 右足を狙っていることを葵は看破した。 右半身を後ろに引いて体の左側の側面を突き出すようにする。 完全に空かした。 外れたと見るや、静香は両手をマットにつき、空中で一転して仰向けになった。 タックルが外れたのならいち早く故意にダウンしてしまった方がよいと判断しての行 動だ。崩れた体勢で立った状態になっていると蹴りを貰う恐れがある。 エクストリーム・ルールでは倒れている相手への打撃は禁じられているので、中途半 端に悪い立ち方をしているよりいっそ倒れてしまった方がいい場合があるのだ。 葵は立って構えたまま静香とある程度の距離を取って不動。 静香は葵の動きを警戒しながら立ち上がった。 互いに接近して、葵が軽く右のローを放つ。 静香が距離を取ってかわす。 葵が左右のジャブを立て続けに連打する。 と──。 いきなり静香がほとんど準備動作無しの右のミドルキックを打った。 軽い。 そうと見た葵は左の脇腹にそれを受けた。 「っ!……」 多少ダメージは受けるが、それほど強い蹴りではないし、それと覚悟しているのだか らそれほどの痛みではない。 葵は左腕で静香の右足首を抱え込んだ。 葵がグラウンドでの勝負を得意とするタイプであれば、残った左足を刈って倒し、ア キレス健を固めに行くところであるが、葵の戦闘スタイルは明らかにスタンディング・ ポジションが主体になっている。 抱え込んだ右足を振って体勢を崩して左足に右のローキックを打ち込むつもりだった。 片足で立っているところにローを貰ってはミートポイントをずらすこともできず、足 に大打撃を受けるはずだ。 抱え込んだ右足を引いた。 そして残った左足にロー。 「!!……」 葵の視線の先に、静香の左足が無かった。 右足を抱え込んだ葵の左腕にずっしりと重量がのしかかってきて、葵は左半身を下げ る形となってしまった。 静香が右足を抱えられたまま飛び上がったのだと理解した時には、静香の左膝が葵の 顔目がけて飛んできていた。 右腕で顔面をガード。 瞬間、葵はその左膝の描く軌道から自分の頭部が外れていることに気付いていた。 静香の左足は膝を突き出した状態のまま葵の頭上を掠めて彼女の後頭部の方へ抜けて いた。 しまった! 葵が顎を引こうとするよりも早く、静香の左足が葵の後頭部を刈っていた。 葵の後頭部に静香の全体重が覆い被さってくる。静香もそれほどウエイトがあるわけ ではないし、葵も首を鍛えている。 とはいっても一人の人間の体重を支えるのは至難である。。 しかも、静香は容赦無く自らの体を上下に揺さぶった。 たまらず葵が両膝を着き、前のめりに倒れる。 額が、マットに接触し、脳が揺れる。 静香の右足を抱え込んでいた左腕が、逆に静香の両手に絡め取られていた。 静香が右足を引き抜かずにむしろ膝まで押し込んで、膝を曲げて葵の左腕による拘束 を弛め、フリーになっている両手で引き剥がしたのだ。 静香は身を起こしながら半転させ、両手で葵の左腕を捻り上げ、肩を右足で押さえつ けた。変形の脇固めといったところだ。 「極まったわ」 綾香が二つの体をジッと見つめながらいった。当然だ。次の試合に勝てば、綾香はこ の試合の勝利者と闘うことになるのである。 「場外へ!」 浩之は叫んだ。 だが、ラインは遠い。 「時間は!」 浩之は叫んだ。 だが、第2ラウンドはまだ二分を過ぎたばかりで、あと三分残っている。 浩之は握り拳を震わせた。 綾香との対決を夢見ていた葵に、これだけはいいたくなかった。 でも……。 「葵ちゃん、タップしろ!」 いわねばならないと浩之は思い、決断した。 このままでは、肘の靱帯をやられる。 「次がある!」 叫ぶ浩之の横で綾香は沈痛な面持ちで、激痛に耐える葵を見ていた。 浩之がそう叫ぶのに、どれほどの苦渋を飲んだかが綾香にはわかっていた。 「レフリー! どうなんだ!」 この大会ルールにはレフリーストップによる決着もある。 浩之はいっそ、レフリーにこの試合を止めて欲しかった。本心からいえば、自分が試 合場に飛び上がって試合を止めたかった。 だが、いくらなんでもそんな乱入紛いのことはできない。別に自分は葵の正式なセコ ンドではないのだ。 「レフリー! 折れちまうぞ!」 遂に、浩之は右足を試合場の上に乗せた。 「下がって!」 レフリーは浩之を制止し、しかし、この男のいうことも最もだと思ったのか、激しく 葵に向かって、 「ギブアップ!?」 と、叫んだ。 レフリーは、葵の目からこぼれる涙を確かに見た。 「ストップにするぞ! いいな?」 最後の警告のつもりでそういった時──。 ポン。 ポン。 葵の手が、マットを二回、軽く叩いた。 「御堂、タップだ!」 レフリーが叫ぶと、静香は大きく息を吐いて葵の左腕を放し、放心したような表情で その場に上半身を前に倒して荒く息をついた。 「松原、立てるか」 と、レフリーが手を貸す前に、試合場に飛び乗った浩之が駆けてきて葵の腕を取った。 「葵ちゃん! 大丈夫か!?」 「……」 葵は、歯を食いしばり、目をきつく閉じ、それでも溢れてくる悔し涙で頬を濡らして いた。 「医務室へ行くぞ、葵ちゃん」 浩之が葵に肩を貸して彼女を起こすと、両足がガクガクと震えた。 葵をこれまで支えていたものがプツリと途切れているようであった。 「ナイスファイト」 綾香が側に来て、葵を見ながらいった。 短く、ただその一言だけをいった。 「綾香さ……ん」 「さ、医務室へ」 拍手が沸き起こっていた。 葵にではない。 静香にでもない。 いうなれば、今行われたものに対する感動が人々の両手を自然と打ち合わさせていた のだろう。 浩之が葵を、ほとんど抱きかかえるようにして通路を下がろうとした時、通路の途中 で静香が待っていた。 「またやりたいね」 静香がいった。 「ありがとうございました」 葵がいった。 それだけだった。 「おめでとう、静香さん」 綾香にいわれて、静香は照れ臭そうにはにかんだ。 「勝ってね、次の試合」 「もちろん」 「ちょっとだけ、肘の筋が伸びているね……もうちょい早く降参すればよかったのに、 無理しすぎだよ」 氷水に左腕を浸しながら、葵は俯いて医師の言葉を聞いていた。 「でも、葵ちゃん、よく耐えたなあ」 浩之が葵の肩に手を置いていった。 「私ったら、なんだかもう少しもう少しって思っちゃって……」 「葵ちゃんはこれからの人なんだから、無理しちゃ駄目だぜ」 「これから……」 「ああ、これからだよ、葵ちゃんは」 「そうですね、一人目指す人が増えちゃいましたし……」 「いいもんだろ」 「え?」 「目指すべき人間がいるのって、悪くない感じだろ?」 「……はい!」 「目指す人がいれば、また頑張れるさ」 そういった浩之の脳裏にあの時のことが蘇る。 ある日曜の午後に道場を訪ねて行った。 そこで柏木耕一と試合をした。 負けた。 完膚無きまでに負けた。 いいわけしようのない敗北だった。 歯が一本、折れた。 肉体だけではなく、心にもダメージを受けた。 自分がいかに大海を知らずに井の中で泳ぎ回っていたのかを知った。 こんな人がいるのか。 一瞬、絶望した。 その男が強かったからだ。 どうにもならぬと思った。 一瞬、格闘技を止めようかと思った。 その男が強かったからだ。 どうにもならぬと思った。 いつか、あの男を倒してやろうと思った。 その男があまりにも強かったからだ。 どうにもならぬと思いながらも、浩之はその男を目指し始めた。 そして、今、ここにいる。 順当に行けば、男子一般部門のBブロック決勝で自分はあの人と闘うことになる。 だが、その前にBブロック準決勝で、緒方英二と耕一の対戦になる可能性がある。 緒方英二。 あの男にも、浩之はある臭いを感じていた。 あの男も、何かを目指している男なのだろうか? 「葵ちゃん、おれ、ちょっと綾香の試合を見てくるよ」 「はい」 試合場の下で、耕一が試合を見ていた。 「おう、浩之、やっぱあの来栖川綾香ってのは強いなあ」 「はい」 試合場では、綾香が一方的に相手を押しているところであった。 試合開始後、三分四十五秒。 タックルに来た相手の顔に膝を合わせて、これがカウンターで決まり、相手選手は気 を失って立ち上がることができずに綾香の勝利が宣告された。 これまで、全ての試合を1ラウンドで決める圧倒的な強さであった。 第36話 綾香VS静香 1 体の調子はいい。 去年の、高校生部門の優勝決定戦の前もこんな感じだった。 行ける、と思う。 「両選手中央へ」 試合会場をぐるりと見回す。 試合場のすぐ下で、浩之と耕一がなにか小声で話している。 その横で、片腕を吊った葵が自分を見上げている。 「肘と額は使用禁止、倒れた相手への打撃技は禁止」 好恵と目が合った。 すぐに視線を外して、前を向く。 御堂静香と目が合った。 「はじめ!」 声とゴングの音が重なった。 下手な仕掛けはできない。 特に不用意なミドルキックなどは禁物だ。腕で抱えられてグラウンドに持ち込まれる 恐れがある。 先程の試合、静香は葵の関節を極めて勝っている。 立っての打撃戦では明らかに葵が押し気味だったのだが、グラウンドに戦場が移ると ほとんど静香の独壇場となってしまった。 葵は柔道の道場にも通っており、そこで寝技も習っている。 さらに、綾香も敵に塩を送る覚悟で、相当、葵にはグラウンドの技術を教えたつもり ではあるが、静香のようなエキスパートにかかってはまだあんなものだろう。 葵の一回戦と二回戦の相手は、ともに実戦空手とキックボクシングをやっていた人間 だ。だから、相手も立っての打撃戦を受けた。 でも、静香のようなグラウンドを主体にしたスタイルの選手はとにかく倒して勝負を 自分の領域にまで持っていこうとする。 葵も自分と一緒に随分と練習したのだが、自分の方が葵よりも勝っていた。そして、 静香は自分よりもグラウンドでの闘いが上手い。 葵が負けるのも当然であったといえる。 グラウンドで静香に負けたからといって恥じることは無いのだ。 綾香の見るところ、間違いなく静香は日本でトップクラスの実力者だ。 これからは、どんどんグラウンドでの勝負を得意とする、非立ち技系の選手がエクス トリームに出てくるだろう。世界的に、格闘技の傾向がそうなりつつある。寝技もあり の場合は、全体的に立ち技系よりも寝技系の方が有利なのだ。 綾香は今日、ずっと立ち技でやってきた。 一回戦の相手は明らかに立ち技系の選手で、その上、緊張して体が固くなっていた。 ローを途中でハイに変化させるフェイントのキックが簡単に決まった。 二回戦の相手は寝技で挑みたかったようだが、綾香とはレベルが違い過ぎた。タック ルに来るのを読んで膝を顔面に合わせてKOした。 もしも、倒されたとしても、十分に綾香が勝てるレベルであった。 この静香は違う。グラウンドに持って行かれれば、すぐにはやられないが、自分が不 利な闘いを強いられるのは確かだ。 綾香は牽制のジャブをワンツーで放った。 右。 左。 この左のジャブに静香が掴みかかる素振りを見せた。が、綾香の戻しが早く、間に合 わないと見るや、あちらも素早く手を引いた。 右を打った時点で、次にワンツーで左が来るであろうことを予測されたのだ。 油断はできない。 闘気のようなものは感じられないが、妙に威圧感のある人だ。 この人と初めて言葉を交わしたのは、緒方理奈主演のドラマにゲスト出演した時だ。 彼女は緒方理奈の格闘方面の演技指導をしていた。 それ以前から、エクストリームの一般女子の部の準優勝者として顔だけは知っていた。 もう二十一歳になるはずで、綾香は一度も闘ったことが無かった。 実のところ、静香は外見だけで判断するとなると、格闘技などやっているようには見 えない。 だが、対峙してみてようくわかった。 隙が無い。 普段は床にバナナの皮を放っておいたら滑って転びそうな人なのに、道着を着て、試 合場に立ち、敵と向かい合うと別人のような顔になる。 研ぎ澄まされた表情。 澄んだ目。 澄んだ視線が自分の体を貫いている。 次の行動が全て読まれているような錯覚が綾香を襲った。 駄目だ。 距離を取って、自分の頬を叩く。 負けちゃ駄目。 心理戦で負けちゃ駄目。 向こうだって、こっちが怖いはず。 私が突きや蹴りをかわされて、それを取られて関節技に行かれるのが怖いのと同じよ うに、あの人だって、私の突き蹴りをかわせずにそれを喰らってしまうのを恐れている はず。 足を取られてアキレス健を極められるのが怖いのなら──。 タックルに行って、顔面に膝を貰うのも怖いはずだ。 結局、怖いのだ。 闘っているんだから、怖いに決まっている。 でも、私は闘う。 静香さんも闘うだろう。 葵も闘うし、好恵だって闘う。 闘うことで、得られるものだあるからだ。 怖さだけじゃない。 他のものが闘いの中にはある。 勝利の喜び──。 それもある。 でも、それだけじゃない。 他に、口では……言葉ではいい表せないものが、そこにはある。 何度かいわれたことがある。 「来栖川さんはなんで格闘技なんかやってるの? 来栖川グループのお嬢様なのに」 来栖川グループのお嬢様が格闘技なんかやる必要は無いのではないか。 と、つまりは、そういいたいのだろう。 わかっていないのだ。 そこにあるものが。 来栖川グループのお嬢様であることでは手に入らないものがそこにあるということが、 わかっていないのだ。 なんで格闘技を始めたのかは既に記憶の彼方だ。 でも、なんでそれにのめり込んだのかはわかる。 そこが、来栖川グループのお嬢様であるということが「無力」に近い世界だからだ。 もちろん、完全に「無力」だとはいわない。 トレーニングの環境は、他の人間よりもいいだろう。 健康管理の面だって、腕のいいドクターがついてくれている。 でも、強くなるために流した汗は、自分のものだ。 強くなるために食いしばった歯は、自分のものだ。 強くなるために痛めた体は、自分のものだ。 自分がやったのだ。 それが実感できる「世界」だ。 いつだったか、自分がまだ高校一年の頃、空手をやっていて、ある大会で優勝したこ とがあった。 決勝戦で、二つ年上の人と当たって、ボロボロになりながらも勝った。 その相手には一年前の同じ大会で負けていたので見事、雪辱を果たしたことになる。 一年間、その人を目標にやってきたので嬉しくてしょうがなかった。 家族に表彰状を見せて自慢した。 姉さんが頭を撫でてくれた。 執事のセバスも誉めてくれた。 準決勝で自分に負けた好恵も、悔しそうだったけど、やっぱり誉めてくれた。 まだ中学生だった葵は、一緒に喜んでくれた。 前よりずっと、格闘技が好きになった。 その大会から少しして、名前を忘れてしまったが、ある格闘技雑誌を読んだ。前から、 自分のことを小さくだが取り扱っていた雑誌だ。 やたらと「来栖川の令嬢」という言葉を多用するのが煩わしいといえば煩わしかった が、ただ単に来栖川のお嬢様が格闘技などやっているのを物珍しがって取り上げていた だけだったと思っていたので、それほど悪い感情は持っていなかった。 綾香は、自分が「来栖川の令嬢」であるといわれることに、馴れてしまってもいた。 だが、その時の記事には自分が優勝したのはおかしいと書いてあった。 なぜか? その時の決勝戦の相手と、綾香は前年の大会の一回戦で当たり、ほとんどいいところ 無く負けていた。それはその通りだ。天才といわれた綾香にとって久しぶりの敗北であ った。ちなみにその相手はそのまま勝ち上がっていって優勝していた。 だから、綾香が勝ったのがおかしいというのだ。 何をいっているのか? 一年の間に、自分が何もせずにいたとでも思っているのだろうか? 自分は、負けた悔しさをバネにして一年間努力に努力を重ねたのだ。 それがわからないのだろうか? 記事を読み進めていくと、どうやらそれだけではないらしい。 つまりは、綾香が来栖川グループのお嬢様であることに、相手選手が遠慮したのでは ないか、とかいうことが書いてあった。 ようは、それがいいたかったらしい。 馬鹿にしている。 自分を、相手を、なにより格闘技を馬鹿にしている。 これを書いた人間を殴ってやりたくなった。 「ぶん殴ってやるわ!」 実行しようとして、好恵と葵に止められた。 しばらくイライラした日々を過ごしていると、あの時の決勝戦の相手があの記事を書 いた人間を殴ったという話を聞いた。 その雑誌から、インタビューをしたいという話が来たので、あの記事のことで文句を いってやろうと思って、その話を受けたのだ。 インタビューに来た編集者からその話を聞いた。 突然、編集部にその記事の載っている号を持ってやってきて、これを書いた人間を出 せといった。丁度、その場にその人間がいた。 しばらく何かいい合っていて、やがて初めから不穏だった空気がより一層不穏になっ たのを感じて、周りにいた人間が止めに入ろうとした時、掌が唸って彼らの同僚はふっ 飛んでいた。 「馬鹿にするな!」 平手打ちで男をふっ飛ばしたその女は、そう叫んだそうだ。 「あたしがあいつより弱かったから、あいつがあたしより強かったからあたしが負けた んだ!」 その時持っていた雑誌を床に叩き付け、 「馬鹿にするな!」 もう一度、叫んだ。 そのことを聞いて、綾香は頭の中でモヤモヤとしていたものが瞬時に吹き払われたよ うな気がした。 わかってくれている人がいた。 そうだ。 自分と闘った相手は、わかってくれているはずだ。 やっぱり、綾香は格闘技が好きだ。 ビチッ! と、鳴った。 自分が放った右のローキックが、静香の左腿を叩いたのだ。 静香の体勢が崩れた。 大きく崩れた。 大きすぎる! と、思った時には足を掴まれていた。 軸足に使った左足だ。 するりと後ろに回られた。 足に密着しながらだ。 足首の辺りを左手で引き、膝裏を右手で押してくる。 前に倒れながら、綾香は右足を踏み出した。 右足をマットにつけ、右膝を曲げて、堪える。 一瞬、堪えて、体を後ろに振り向かせながら左足を回転させて静香の両手による拘束 を切る。 静香の拘束に力が無い。 故意に左足を外したのか!? 左足を引き抜いた瞬間、静香の右手がマット上を滑るように走ってきて、綾香の右足 を掴んだ。 すぐに左手もやってきて右足を掴む。 静香の腰が円を描くようにマット上を動いて、両足が綾香の右足に巻き付く。 足首を手で引き、腿の付け根の辺りを足で押してくる。 「くっっっ!」 綾香の背中がマットを叩いた。 「膝十字!」 試合場の上に乗りだした浩之が叫ぶ。 「まだ極まってはいないけど……もう少しで極まるぞ」 浩之のやや後方に立っている耕一が誰にいうともなく呟いた。 「……」 葵は、何もいわずにそれを見ていた。 歯を食いしばってなんとか逃れようとする綾香を見ていた。 「極めろ」 小さい声で、柳川は呟いた。 この試合、彼は静香に頼まれて静香のセコンドとして試合場のすぐ下にいる。別にセ コンドといっても特に何をするというわけではない。ただ、ラウンド間のインターバル 時にちょっとしたアドバイスをしてやるつもりだった。 極まった。 と、その時、 「待て!」 ゴングが打ち鳴らされていた。 第1ラウンドが終了したのだ。 「惜しかったな」 「はい」 「次もその調子で行け」 「はい!」 「綾香さん、さっきのローは効いてますよ。次もこの調子で行って下さい」 綾香は黙って頷いた。 そうだ。今、静香は立ち上がる時、だいぶ左足を気遣っているようだった。 辛いのは自分だけじゃない。 「ありがとう、葵」 第37話 綾香VS静香 2 綾香は、第2ラウンド開始早々、右のローキックを放った。 第1ラウンドで同じく、右のローで痛めておいた静香の左足を徹底的に攻めるつもり だ。 静香は主にグラウンドでの攻防を得意とするタイプであるが、もちろん、エクストリ ーム大会で準優勝した経験があるだけに打撃技に対する防御は一流に近いものを持って いる。 静香は左足を上げて、綾香のローキックをブロックした。 その蹴り足が戻るのと右拳が唸ったのとほとんど同時であった。 普通、強力な、力を十分に発揮したパンチを打つためには足による踏み込みが不可欠 とされている。 右のパンチを打つならば、左足を踏み込み、腰を回転させ、それに乗せるように右拳 を打ち出す。 だが、踏み込みと腰の回転は敵にパンチを打つということを知らせることにもなる。 そのことからボクシングでいうジャブのような、主に肘の伸縮運動で打つようなパンチ が使われることになる。 に、しても、ローキックに使った右足を戻してすぐに右で打ってくるとは静香の予測 を越えていた。 しかも、それが速く、強い。 上半身を後ろに反らしてスウェーでかわしたが、綾香は休む間も無くさらに攻撃を送 り込んでくる。 両手両足。 四本の槍が立て続けに突き出されてくるのに似ていた。 専ら、キックはローである。 ミドルだと脇に抱え込まれて、軸足を刈られて倒される恐れがあるし、ハイは打った 直後、蹴り足が上空にある内に軸足に片足タックルに来られると倒されてしまう。 ジャブにストレートを交えたパンチを数発打った後、綾香はまた右のローキックを放 った。 それが唸る前に、静香が左足を引いていた。 左足への右ローを静香が警戒しているであろうことは計算に入っている。 綾香の右足は静香の左足があった空間を抜けた。 駆け抜けた。 そのまま、静香の右足へと到達する。 バチッ。 と、音が生じた。 ローが横から静香の右膝を襲った。 喰らった瞬間、静香は咄嗟に右足を九十度、右回しに回転させた。 綾香の足刀が静香の右の膝裏に触れた。 下がっていた静香の左足が前に出ていた。 前に出て、右に走る。 「!!……」 まずい、と思った時には遅かった。 読まれていたのだ。 そうでなければ、こうまでスムーズに静香の足は動かない。 キックを放ったら蹴り足はすぐに戻すという鉄則を、綾香は忠実に守っているつもり だ。 その綾香の蹴りが戻る前に捕らえられた。 ローを喰らった右足と、前に出てきた左足──。 この二本の足に綾香の右足が挟まれていた。 静香はこれを狙っていたのだ。 右足の膝裏が綾香の右足の足の甲を左側に押し──。 左足が綾香の右足の膝裏を右側に押していた。 綾香の右足がその回転巻き込まれた。 体が左に向かって泳ぐ──いや、泳がされる。 左足が一瞬宙に浮き、またマットに着く。 静香が綾香の右足を挟んだ自らの両足を右回しに回転させつつ、膝を落とした。 どっ。 と、綾香の右膝がマットに着いた。 浮かせようにも、上から静香の左足が押さえ付けていて動かない。 静香の手が伸びきっていた綾香の右足を曲げる。 綾香の右の膝裏の上に静香の左足のスネが乗り、綾香の右足の膝から先がまたその上 にと来る状態になった。 さらにその上に静香の腰がのし掛かってくる。 綾香の右足の足首から足の甲にかけて体重をかけてくる。 「っっっ!!」 食いしばった歯の間から、苦鳴が漏れた。 右足の膝の裏の辺りに激痛が生じている。 膝の裏近辺の軟らかい部分に、スネという固い部分を乗せて、上から体重をかけられ たのだからたまらない。 体重をかけつつ、静香の上半身が綾香の背中と接触するほどに前に倒れた。 両腕が綾香の頭部へ巻き付いてロックする。 変形のSTF。(ステップオーバー・トゥホールド・ウィズ・フェイスロック) 足を極める。(トゥホールド) 顔を固める。(フェイスロック) その両方の言葉をその名称に含んでいるが、より効くのは足の方である。 むしろ、フェイスロックの方は、この変形STFの場合は、足に体重をかけた状態を 崩さぬために相手の上半身をうつ伏せのまま固定する意味合いが強い。 「くうっ!」 綾香が両手で自分の頭部をロックしている静香の腕を外そうとする。 頭を思い切り前に出す。 そして、一度押し出しておいて引き、引くと同時に自分の手を生じた隙間に割り込ま せる。 左右に広げて、静香の腕を外していく。 足を間断なく鈍い痛みが攻め続ける中、この作業をするのだからなかなか大変だ。 ロックされた頭を押し出す首の力と、頭部をロックした腕を外す腕力と、その間にも 容赦無くやってくる足への痛みを耐える力と、この三つのどれが欠けてもこの技は外せ ない。 上半身が自由になったので、綾香は思い切り右に体を返した。その際、右腕を伸ばし て、静香の道着の後ろ襟首を掴んで右にと引っ張る。 外れた。 だが、そう簡単に立ち上がらせてはくれない。 右足を腕に抱え込んでアキレス健を極めようとしてくる。 右足を引く。 左足にアンクルホールド。 相手の足を自分の足で挟んで固定し、爪先をどちらかの手でキャッチし、もう一方の 手を相手の足首の辺りに巻き付けるように回して、爪先を掴んだ自らの腕の手首を掴み、 相手の足首を横に捻る技である。 足を重点的に、そして矢継ぎ早に攻めてくる。 綾香の目の前に白いラインがあった。 無我夢中で転がる。 例え、指一本でもラインの外に出ればブレイクになる。 転がった瞬間、足首が捻られた。 横に伸ばした綾香の右手がラインの外に出ている。 「ブレイク!」 レフリーが綾香の足首から静香の手を引き剥がす。 「中央へ戻って」 いわれるままに、静香は中央線へと戻った。左足を少し引きずるようにしている。 綾香はなんとか立ち上がった。 一連の攻撃で、足が大きなダメージを受けている。 立っていることは可能だが、この分だと、蹴りが打てない。軸足一本で体を支える自 信が無い。 試合が再開された。 いきなり、静香が思い切った両足タックルに来た。 綾香の足が弱っているのを見越した攻撃だ。膝を合わせられても、その威力は大した ことは無いと踏んでいるのであろう。そして、その通りであった。 だからといって、これを喰っては倒される。 綾香は必死で身を横に引いた。 なんとかかわす。 静香の体勢は当然前のめりになっている。顔が、綾香の腰よりも低い位置にあった。 今なら、ローとミドルと間ぐらいの高さの蹴りで顔面を蹴撃できる。 ここは思い切って──。 蹴りを──。 先程のSTFで重点的に痛めつけられた右足を蹴り足に使い、右に比べてそれほどの ダメージを受けていない左足を軸足にすれば一撃、強力な蹴りが打てる。 だが、迷いが無いわけではない。 左足首はダメージは少ないといっても先程、アンクルホールドで捻られている。 果たして耐えられるのか? その、ただ一瞬の間に、静香の体が空中で反転して背中がマットに着いていた。 ダウンだ。 エクストリーム・ルールでは、腰から上の部分がマットに着くとダウン状態と見なさ れる。そして、今まで何度か触れてきたように、ダウン状態の相手への打撃技は禁止さ れている。 綾香は舌打ちした。 そういえば、さっきの葵との試合の時も似たような状況があった。 静香のタックルを葵がかわして、静香が自分からわざと倒れたのだ。 綾香がそのことを思い出していると、ゴングが鳴っていた。 第2ラウンドが終了したのだ。 インターバルの間、綾香は試合場の隅っこで座り込み、足を軽く捻ったりマッサージ したりしていた。 今のラウンドは初めから終わりまで押されっぱなしだった。いいとこ無しだったとい っていい。 やっぱり、違う。 高校生部門とは選手のレベルが違う。 高校一年生で、そして初出場で一般部門のAブロック決勝まで来た葵は、それだけで 褒められるべきだろう。一回戦と二回戦が、葵のファイトスタイルと同じな立ち技系の 選手が相手であったとしてもだ。 「綾香さん」 試合場の下にいる葵が声をかけてくる。 「行けます。綾香さんは強いんです!」 「……」 「行けます! 行けます!」 葵。 あんたの試合じゃないのよ、これは。 あんたがそんな泣きそうな顔をすることはないのよ。 「行けますよ!」 葵。 「綾香さんはいつだって強かったじゃないですか!」 「綾香」 浩之。 「最終ラウンド、頑張れよ」 いいながら、浩之が葵の頭の上に手を乗せる。 ポンポン、と軽く叩く。 「うん、頑張る」 「完全に押しているが、ラッキーパンチには気を付けろよ、打撃は一発で終わることも あるからな」 セコンドの柳川の指示に静香が黙って頷いている。 柳川は警察官だけに柔剣道、逮捕術の心得がある。暴れている人間を取り押さえるの に関節技は最適な手段であるから、その方の知識もある。 「あ、いいなあ」 静香がぽつりと呟いていた。 「何がいいんだ?」 「ほら、あれ、綾香さんは強いっていってるじゃないですか」 「ああ」 「さっきは、あの男の子があの子に葵ちゃんは強いっていってたんですよ」 「そうか」 「いいなあ、と思って」 「何がいいんだ?」 「あの、強い! ってやつです」 「そうか」 「いいなあ」 「……」 「柳川さんもいいと思いませんか?」 「……そうか?」 「私はいいと思うなあ」 「……お前もいって欲しいのか?」 「え、そんな……柳川さんがいやじゃなかったらいって欲しいかなあ、とか思ってるん ですけど」 「……」 いやである。 「いいなあ」 玩具を欲しがる子供の目をしている。 でも、いやである。 でも、玩具を欲しがる子供の目をしている。 「……なんていえばいいんだ」 「え! えっと……静香ちゃんは強おい、って」 「……ちゃん付けは勘弁してくれ……」 「だったら、お前でいいですから」 「……お前は強い」 「はい!」 玩具を買ってもらった子供の目をしている。 「第3ラウンドが始まる」 「はい」 「行って来い」 第38話 綾香VS静香 3 最終第3ラウンド。 張り詰めた緊張感が会場内にあった。 来栖川綾香。 御堂静香。 この二人の間にあるそれが、音も無く、あらゆる空間に漂っていた。 全体的に、試合を有利に展開しているのは静香である。 再三、綾香に関節技を極めている。 一方、綾香の方は第1ラウンドに強烈な右のローを静香の左足に炸裂させたが、それ きり、クリーンヒットが無い。 ジャブやローキックが浅く入ることはあったのだが、とても致命傷には繋がらない。 いつもここぞという時に彼女が放つハイキックもこの試合ではなりを潜めていた。 ハイキックのような片足を高く上げ、上半身をやや後ろに反らしてしまうような技は 静香のようなグラウンド主体の選手を相手に外したら、ほぼ間違いなく倒される。 そして、倒れてしまえば、グラウンドでの関節の取り合いには静香に一日の長があっ た。 曲がっていた綾香の右肘が伸びる。 右のジャブを打ったのだ。 静香の眼前で一瞬だけ停止し、すぐに戻る。 当たるとは思っていないし、当てるつもりもない。 今のは相手との距離をはかるためのジャブだ。 しかし、静香は動じない。 まばたきすらしなかった。 「シッ!」 もう一度、右のジャブ。 静香が僅かにだが動いた。 先程よりも踏み込んだジャブであったために、迷ったのだ。 踏み込んで、深く打つパンチならば、それをかわし、腕の横を抜けるように相手に突 っ込んで行き、パンチを打ったことにより空いた脇に入り込むように密着して倒してし まおうとしているのだ。 綾香が、静香を誘った。 ジャブを戻した次の瞬間、同じく右のフック。 左足を踏み込み、腰を回転させ、右拳を打ち出す。 静香が動いた。 右のフックを頭を下げることによってかわし、綾香の右脇に突っ込んでくる。 綾香の右フックがその弧線を描ききらぬ内に停止する。 それなりの力と速度が乗ったパンチはそうそう簡単には止められない。だが、綾香は それをやった。その右拳は、急停止といっていい止まり方をした。 急停止した綾香の右腕が再び速度を得て旋回する。 右脇に突っ込んできていた静香の頭部を右腕で抱え込んだ。 その時にはもう、綾香の上半身は後方に泳いでいる。 綾香の両足が浮いた。 自ら、浮かせたのだ。 同時に、静香の頭部を抱え込んだ右腕を下に引き落とす。 浮かび上がった綾香の両足が前のめりになっている静香の腰を挟み込んだ。 綾香の背がマットに接触した。 一瞬、見た目には、静香が綾香をタックルで倒したように見える。 が、二人揃って倒れ込んだ時、技を決めているのは綾香であった。 胴を足で固定して、抱え込んだ頭部を捻って、頸動脈を絞めるフロントスリーパーホ ールドという絞め技である。 その形からして、本来は相手が馬乗りになってマウントポジションになろうとする時、 下から胴を両足で挟み込み、その両足によって相手の上半身の動きを制限するという、 ガードポジションから狙うのに適した技であるが、綾香はこれをスタンディングポジシ ョンからやった。 万が一、倒れる際に腕と脇の拘束から、相手の頭部が逃れたとしても、両足を腰から 離さなければガードポジションが保たれることになる。 倒れた相手への打撃が禁じられているエクストリーム・ルールでは、マウントポジシ ョンは致命的な体勢ではないが、ガードポジションを取るのにこしたことは無い。 「そうか」 浩之は試合場下で頷いていた。 ルーズジョイントと呼ばれる特異体質で、異常に関節が軟らかい静香に対しては、グ ラウンドでは絞め技の方が有効だろう。 「上手い……けど、ラインが近いな」 今まで浩之の横でじっと黙って試合を見ていた耕一が呟いた。確かに、綾香の頭から ラインまで一メートルぐらいしか無い。 「ラインだ」 柳川のあまり大きくもない声が聞こえたわけではなかろうが、静香は両足でマットを 蹴って綾香を押した。 「場外!」 レフリーの声を聞いて、綾香は技を解いて立ち上がった。 静香は、その場にぐったりとしている。 落ちた!? 「御堂」 レフリーが耳元で声を上げた。 「はいぃ」 間延びした声で静香が答えた。 立ち上がる時に、ふらついた。一瞬だが、脳に酸素が全く行かなくなり、落ちていた のだ。 十秒ほどその場でぼうっとしていたが、やがて、 「わ、私、負けちゃいましたか!?」 ハッと気付いて、レフリーに尋ねた。 自分が場外に出ていたことをレフリーに聞かされると、大きく息をつく。 「できるか?」 「はい」 レフリーとしても、ここであまり長く試合を中断して静香に回復の時間を与えてしま っては綾香に不利なので、静香がある程度回復したら試合を再開しようとしているのだ。 頭を軽く叩きながら静香は中央線へと戻った。 「はじめ!」 レフリーの声。 振り下ろされる手。 爆発する歓声。 それらが全て、二人にとって、別の世界の出来事だった。 確かに、レフリーの声で、闘いが始まる。 確かに、振り下ろされる手で、闘いが始まる。 確かに、爆発する歓声で、闘志が掻き立てられもする。 確かに、それらは二人のこの闘いに密接に関係を持ち、厳然と、綾香と静香の世界に 存在していた。 だが、その一方で、確かに二人は、二人以外の者が誰も入り込めない一つの世界を形 成していた。 拳──。 脚──。 汗──。 感情──。 それらを混ぜ合わせてできている世界。 ここには誰も入れない。 拳を振らぬ者──。 脚を振らぬ者──。 汗を流さぬ者──。 感情を相手に叩き付けぬ者──。 どれか一つが欠けても、そこに入る資格は無い。 この全ての資格を満たしている者は、今この会場にただ二人。 来栖川綾香。 御堂静香。 この二人だけだ。 「シィッ!」 呼気が綾香の口から短く迸る。 前傾姿勢になっていた静香が素早く後ろに下がる。 タックルに行こうとしたところを、綾香が絶妙のタイミングで膝を蹴上げてきたのだ。 綾香が一瞬でも膝を出すのが遅かったら、静香のタックルを喰らって倒されていた。 静香が一瞬でも身を引くのが遅かったら、綾香の膝蹴りを喰らって倒されていた。 見た目では、静香が体を沈めながら前に出て、綾香が膝を蹴上げただけである。 二人の体は互いにかすりもしていない。 しかし、その間にあった無形の攻防を悟ったのか、観客の一部から「おおーっ」とい う低い声が漏れた。 先程の綾香のフロントスリーパーは効いていた。 静香の脳には、もうしっかりと血が酸素を運んでいるから、頸動脈を絞めたことによ るダメージはもう無い。 しかし、精神的に効いている。 第1、第2ラウンドよりも、思い切ったタックルをしてこない。 タックルに行って、頭部を抱え込まれてフロントスリーパーに行かれたことが、静香 の心に効いている。 思い切って仕掛けたフロントスリーパーだったが、思っていたよりも大きな効果があ った。静香が寝技を得意とし、綾香が立ち技を得意としている選手であるから、なおさ らだ。 静香が右のローキックを放った。 低く、会場がどよめいた。 静香が、自分から打撃技で攻めるのは非常に珍しいのだ。 右のローは、前に出ていた綾香の右足に決まった。 先程と、全く立場を逆にした状態であった。 先程は、綾香が右のローを打ったのだ。 しかし、静香の両足に蹴り足が絡め取られてしまい、変形STFに持って行かれてし まった。 あれと同じ事を綾香がやろうとしても無理だ。 あのようなことは、相当に練習をし、さらに相手がそのようなことを全く予測せずに にローを打ってきた場合にしか決まらない。 自分にできるのは、相手がローを打ってきたら、こちらも打ち返すということだ。 蹴られた右足で、静香の左足を蹴り返してやる。 鋭い綾香の蹴りは、したたかに静香の左足を打った。 静香は第1ラウンドに同じく左足に綾香のいい右ローを貰っている。 静香の体勢がやや崩れ、綾香が後方に退く。 第1ラウンド、静香がローを貰って崩れたと見せて自分の足を取りに来たのを覚えて いてそれを警戒したのだ。 果たして、静香はそれを狙っていた。 それが手の素振りなどでわかった。 だが、足を取ろうにも綾香は手が届く範囲から外に出ている。 静香の体勢は低くなっている。 「せいっ!」 この機を逃さず、綾香は静香の頭部を狙って左のミドルキックを放った。 「!……」 静香が顔をそらし、綾香の蹴りは静香の右肩と首の間、鎖骨が通っている辺りに食い 込んだ。 入った。 浅くは無い。 しかし、鎖骨を粉砕するまでではない。 ローで崩されたと見せた静香の体は右側に傾いていた。 そこへ綾香の左のミドルが走ってきて、静香の体を左側に飛ばした。 狙い通り。 静香を倒れさせないで、ミドルで起こし、もう一発入れようというのが綾香の狙いで あった。 静香の体が倒れていく。 先程も同じ状況があった。 葵との試合でも同じ状況があった。 体勢が崩れれば、いっそ自ら倒れてしまうという、倒れた相手への打撃技禁止という ルールを利用した戦法だ。 だが、綾香はそれも読んでいた。 綾香の両手が伸びて、倒れようとする静香の脇の下に入った。 まだ、静香の足の裏だけがマットについている。 まだ、静香はダウンしていない。 「立ってっ!!」 綾香の両手に力が籠もり、静香を引き起こす。 静香は一瞬の間、呆然としていた。 自分は倒れようとして、でも、綾香が自分を掴んで、引き起こした。 自分は立っている。 正確にいうと立たされている。 しかし、立っていることには変わらない。 打撃が来る! 一瞬は、綾香にとってそれほど十分な時間では無かったが、短い時間でも無かった。 左手で静香の脇を掴んで、倒れにくいようにしつつ、右腕を引く。 静香が、両腕を上げて顔面をガードしようとする一瞬前。 一瞬。 一瞬の差。 綾香の右のフックが、ガードをかいくぐって静香の左目の辺りに接触した。 静香が接触した瞬間、頭部を引いてダメージを軽減させようとする。 ここにも一瞬の攻防があった。 綾香は、一瞬を捉えた。 綾香の右フックのスピードは、静香が頭部を退くそれを上回った。 打ち抜いた。 続く