鬼狼伝9











     第39話 綾香VS静香 4

 暗転。
 遠くの方から声が聞こえる。

「ワーン! ……ツー!」

 えっと……なんだったかな? これは?

「スリー! ……フォー!」

 頬が、ひんやりとしていた。
 静香の右頬がマットに着いているのだ。
 自分は倒れている。
 ふと、顔を上げる。
 あ、柳川さんだ。
 柳川さんがこっちを見てる。
「!!!!」
 何か叫んでる。
 右の掌を上に向けて、それを上下させている。
 ……?
 立てっていってるのかな?

「ファイブ! ……シックス!」

 ……。
 あ! そうだ!
 このカウントがテンを数える前に立たなきゃいけないんだった。
 頭がすごいクラクラするけど……よい、しょっと……。

「セブン! ……エイト!」

 立ちましたよ。柳川さん。
「!!!!」
 柳川さんが拳を握って、両手を顔の辺りまで上げている。
 そうか、ファイティングポーズをとれっていってるんだ。
 よし! ファイティングポーズをとりましたよ。
 次はどうすればいいんですか? 柳川さん。
「御堂、できるか!?」
 誰だろ、この人?
 私の目の前で掌をブンブン振っている。
「御堂、続けられるのか!?」
 あ、この人、レフリーの人だ。えっと……私、試合してたんだっけ?
「御堂!」
「あ、はいはい、できます!」
 私はぐっと拳に力を入れて叫ぶ。
「それじゃ、中央線へ」
 中央線。
 ああ、あそこの線か。
 やっぱり私、試合の最中だったんだ。
 左目の上辺りがすごく痛む。
 いいのを一発貰って、少し意識が飛んでいたらしい。
 中央線に立つと、目の前に女の子が立っている。私より三歳か四歳ぐらい年下かな?
 えっと……来栖川綾香さん。
 そうだ。
 覚えてる。
 思い出した。
 私は、この子と試合をしてたんだ。

「はあっっっ!!」
 試合再開直後。
 綾香の右ハイキックが上空に放物線の軌跡を描いて疾走した。
 カウントエイトで立ち上がってきた静香の意識が飛んでいたらしいことを見越して、
思い切った。奇襲ともいえるハイを放っていったのだ。
 静香はそれを腰を落としてかわして、時が刹那を刻むのも待たずに突っ込んできた。
 まだ蹴り足である右足はマットから離れている。
 静香の狙いは軸になっていた左足だ。
 これに片足タックルをしかけてくる。
 さすがに素早い。
 でも……。
 さっきまでのキレがない。
 綾香は左のショートフックを突っ込んでくる静香の側頭部に当てた。
 一瞬、静香が怯む。
 だが、これも先程までなら絶対当たらないか、若しくは当たっても肩の辺りに命中す
るのがせいぜいの攻撃であった。
 一瞬、怯んだものの静香はかまわずに来る。
 しかし、綾香もその一瞬の間で、だいぶ体勢を立て直していた。
 右足を戻し、左足を引く。
 左足を狙った静香のタックルが空を切る。
 かわしざま、綾香は静香の左側に回り込んでいる。
 静香が前のめりに倒れたのに綾香が覆い被さろうとする。
 静香の腰が回転した。
 右足がマット上を滑るように左へと走った。
 左足がそれをまたぐように交差し、それと同時に、上半身も回転して仰向けになる。
 静香の左手を取ろうと伸びていた綾香の右腕が、開かれた左右の足の間に捕らわれた。
 静香の両手が綾香の右手に食い付く。
 そして、肩に両足が食らい付いてきた。
 このまま足で肩をロックされて、引き倒されては、裏十字固めが極まってしまう。
 腕ひしぎ逆十字固めをうつぶせになって仕掛ける技だが、仕掛けられる側が完全に胸
をマットにつけてしまえば、ほぼ脱出不可能といっていい。
 綾香は素早く体勢を低くして、静香の両足の中に首を突っ込んでいった。
 これだと足で肩がロックされることはない。
 だが、この体勢だと、おそらく三角絞めに移行してくるだろう。
 果たして、静香の足が綾香の右腕を巻き込んで首に巻き付こうとする。
 綾香は起き上がって、上から、前に前にと体重をかけていった。
 左手で、自分の右腕を掴んでいる静香の右手首を取り、引き剥がした。
 綾香が上になり、静香が下になり、両者の間に静香が足を入れて、それで綾香が攻め
てくるのを防いでいるような状態になった。
 これが膠着状態になって、やがて、第3ラウンド終了のゴングが打ち鳴らされた。

 エクストリームは、3ラウンドを闘ってなお決着がつかぬ場合は、三分間の延長戦と
なり、それでも決着がつかない時に、判定となる。
 延長戦の前には一分の休憩時間が挟まれる。

「……」
 綾香は黙って呼吸を整えていた。
 タックルのキレが悪くなっているのを見て、寝技を挑んでいったのが間違いだった。
 あの、一瞬の裏十字固めはなんとかかわせたが、もう少し頭を逃がすのが遅れていた
ら極まっていた。
 やっぱり、怖い人だ。
 でも、素晴らしい人だ。
 素晴らしい闘いだ。
 あと少しだ。
 あと、もう少ししかあの人と闘えない。
 もっとやりたかった。
 体は古い疲労を新しい疲労が次々に塗りつぶして、疲労が幾重にも溜まっている。
 でも、大丈夫だ。
 肉体の疲労はもう、それほど問題じゃない。
 ダメージでいえば、先程、クリーンヒットを顔面に貰った静香の方が大きいだろう。
 競い合いだ。
 闘う心の競い合いだ。
 先に、心が折れた方が負けだ。
 もう、この闘いはそういう段階に入ったと思う。
 久しぶりだ。
 こんな感じは久しぶりだ。
 肉体の強さを競い合おうとか──。
 技術の上手さを競い合おうとか──。
 そういう段階を越えた感覚。
 肉体の強さも、技術の上手さも、もう散々に競い合った。
 それでも決着がつかない。
 と、なれば、あとは心だ。
 どちらの闘争心がより強靭であるかを競い合うのだ。
「綾香さん!」
 葵の声に、綾香は、無言で手を振った。
 綾香は、ゆっくりと中央線に向かって歩みだした。

「さっきのパンチを喰らったところ、大丈夫か?」
 柳川が、試合場の隅に座り込んだ静香に尋ねた。
「あ、はい、ちょっとまだ痛いんですけど……」
 呟きながら、静香が左目のすぐ上の辺りをさする。
「あとは……キックを肩の辺りに貰っただろう」
「えっと、あれはそれほど深く貰ってないからなんとか大丈夫です」
「そうか、無理はするなよ」
「はい」
 綾香が、まだ時間ではないのに中央線にと向かっていた。
「相手はやる気のようだな……」
「ここまで来たら、もう心の強さの比べ合いです」
「心の強さ……」
「はい、力とか技とかは、もう通り越してるんです」
「そういうものか」
「そういうもの……だと、私は思ってます」
「そうか……御堂さんも見てるだろう、頑張ることだ」
「お父さんが見てるんですか?」
「たぶん、見てるだろう」
「そうでしょうか」
 静香の表情が引き締まったのを見て、柳川は「ああ」と短く頷いた。
 霊魂とかそういったものを柳川は信じているわけでも、信じていないわけでもない。
 今までそういうものを見たことはないが、いないともいいきれない。
 その程度の認識だ。
 ただ、そういった方が、そう思った方が、静香の足しになるだろうと思ったから、そ
のようなことをいった。
 三年前に死んだ父であり、静香が格闘技を始めたきっかけともいえる御堂巡査長に見
られていると思えば、これから来栖川綾香と行う「心の強さの比べ合い」とやらにプラ
スになるだろうと思ったのだ。
 それに、もし死んだ人間が生きている人間の世界を見ているのだとしたら、間違いな
く、御堂巡査長はこの試合を見ているはずだ。
「さあ、行け……おれも見ている」
「はい、行ってきます」
 おれは……御堂さんの代わりにここにいるようなものだ。
 あの娘の父親の代わりになれれば、と漠然と思っていた。
 年齢からいえば、父親というよりは兄だろうか?
 とにかく、十八歳の時に家族がいなくなってしまったこの娘のために何かをしてやり
たかった。
 彼女の父親の死の原因に自分のミスがあったこともあるかもしれないが、とにかく、
一人になった静香を放ってはおけなかった。
 なまじ、暖かく、優しく接してくれた父親だから、失った時の悲しみも格別なのだろ
うと、父親と会ったこともない柳川は思っていた。
 父親というものを全く知らぬ自分が、果たして静香の父親代わりとして上手くできた
かはわからない。
 家族を失って悲しみにくれる少女のところに夕食を食わせてもらいに行っていただけ
ではないのか、と疑問に思わないでもなかった。
「あの……柳川さん」
「なんだ……延長戦が始まるぞ」
 既に綾香は中央線に立ち、レフリーも出てきていて、静香が中央に行くのを待ってい
る。
「えっと、今までありがとうございました」
「……なんだ、いきなり」
「あの、お父さんが死んでから、私がここまでやってこれたのって柳川さんのおかげだ
と思うんです」
「……そんなに大したことはしていないぞ」
「いえ、絶対そうです」
「……」
 いつになく、強い調子で断言した静香に、柳川は沈黙した。
「今、ふと、そう思ったんです。試合が終わってからいおうとも思ったんですけど……
なんだか、すぐに御礼がいいたくて……」
「始まるぞ」
 レフリーが手招きしている。もう延長戦開始の時間はとうに過ぎているのだ。
「あ! そ、それじゃあ、行ってきます」
「ああ」
 柳川は、小走りで中央線へと向かう静香の背中を見ていた。
 年齢的には、娘というより妹のようなものだ。
 静香も、柳川を父親とは思っていないだろう。兄のように思っているに違いない。
 父親もいなければ、兄弟もいない柳川だが、かつて彼を兄のように慕ってくれた人間
はいた。
 柳川は、彼を弟のように思っていた。
 その死によって欠けた何かを、しばらく補うこともできずに心に空洞を抱えて生きて
きた。
 その欠けを、ここしばらく静香が補ってくれていたのではないだろうか。
 あいつがいたから、おれはここまでやってこれたのかもしれない。
 試合が終わったら、そのことを告げようと柳川は思った。
 そして──。

「延長戦、はじめっ!」

 ゴングの音が鳴った。
 透き通るような音色をしていた。

 



     第40話 綾香VS静香 5

 エクストリーム、一般女子の部、優勝決定戦。
 来栖川綾香VS御堂静香。
 3ラウンド十五分で決着がつかず、試合は三分間の延長戦へと入っていた。
 延長戦開始後三十秒。
 沈黙の内に、時が刻まれていく。
 試合開始の時の中央線の位置から綾香は動かず、静香がその綾香の周りを半円を描く
ように動いていた。
 はかったように、静香の身体はスレスレで綾香の足の射程外にあった。
 すっ。
 と、時々、その射程の中に入ってくる。
 すっ。
 と、すぐに外に出る。
 ギリギリのところで綾香を誘っている。
 猛獣の牙が届く間際の位置で自らの腕を前後させているのに似ていた。
 延長戦が四十六秒を過ぎた時、綾香が静香のリズムを読んだ。
 静香が、すっ、と射程内に入ったと同時に踏み込んだ。
 右のストレートが静香の顔目がけて疾走する。
 すぐさま退いた静香の口の辺りに軽く綾香の右拳が触れる。
 間を置かずに綾香が踏み込もうとした刹那を掴んで、静香がタックルを仕掛けてきた。
 胴に組み付こうとする胴タックルだ。
 綾香の右膝が天を向く。
 静香の頭部が微妙に動いて、それをかわした。
 勢い余った綾香の膝頭は静香の右肩のすぐ上を突き抜け、スネが右肩に引っかかる形
となった。もちろん、その位置では当たってもほとんどダメージは無い。
 静香の右腕が綾香の右足に回って、右足が肩に担がれた。
 と、同時に静香の右足がマット上を滑って綾香の左足を刈っている。
 右足を担がれ、左足を刈られ、綾香は後方に泳いで倒れた。
 マットの上に二つの肢体が接触するや、静香の身体が180度回転して両足で綾香の
右腿を挟み込んだ。
 そして、両手が足首を絡め取っている。
 アンクルホールド(足首固め)が極まりかけている。
「くあっ!!!」
 叫びざま、綾香がラインに向かって横転して行く。
 アンクルホールドで捻られているのと同じ方向に体を回転させて行った。
 だが、後少しでラインに達するというところで、技が完全に極まった。
 綾香の動きが止まる。
 静香は捻った。
 綾香の足首を、全力を籠めて捻った。
 捻る。
 捻っていく。
 綾香も、静香ほどではないが関節は軟らかい。が、それにも限度がある。
 捻っていった。
 足首が、みしみしと悲鳴を上げている。
「っっっ!!……」
 タップしない。
 綾香はタップしなかった。
 歯を食いしばって、足首を捻られる激痛に耐えていた。
「ギブアップ!? ギブアップ!?」
 レフリーが盛んに綾香に向かって問うが、その声が聞こえているのかどうかも疑わし
い。
 もう限界の寸前だろうというところまで足首は捻られていた。
「……」
 静香は一瞬躊躇った後、さらに捻った。
 向こうがギブアップしない以上、やらざるを得ない。
 そして──。
 静香の手に、いやな感触が生まれた。
 静香は、関節技は得意だが、月島拓也のように相手の靱帯を断ち、骨を折ることを趣
味にしているような人間ではない。
 むしろ、故意でなかったとしても、試合で相手の骨などを折ってしまうのはいやなも
のだ。
 やってしまった……。
 静香の心中に後悔が大きく両手を広げたその瞬間だった。
「!!……」
 綾香が、静香の手の力が緩くなった一瞬を逃さずに体を転がしてライン外に自分の右
手首から先を投げ出した。
「場外!」
 レフリーがそう叫んで、綾香の足首を掴んだ静香の両手を離すように促す。
「中央線へ」
 そういったレフリーに、静香は不思議そうな表情で尋ねた。
「まだ。続けるんですか?」
 と。
「ああ、早く中央線に戻って」
 レフリーは何をいっているのかといった顔を静香に向けていった。
 自分がそんなことをしている間に、綾香が立ち上がって右足を引きずりながら中央線
へと戻っていく。
 自分の勘違いか。
 と、静香は思った。
 確かに、かなりのダメージを綾香の右足首に与えることができたが、足首の関節を破
壊するまでには至らなかったようだ。
 先程の手応えは、筋が伸びた程度のことだったのだろう。
 静香は立ち上がって中央線へと向かった。
 綾香は、左足を前に出して構えている。明らかに右足をかばった構えだ。
 それを裏付けるように、綾香は体重のほとんどを左足にかけていた。注意して観察す
ればそれがはっきりとわかる。
 今ので決められなかったのは残念だが、これで俄然自分が優位に立った。
 それを確信した静香だが、さっき綾香にフックで殴られた左目のまぶたが段々と腫れ
てきたようだ。
 その腫れに押しつぶされるように、左目の視界が右目のそれよりも狭くなっている。
 おそらく、綾香もそれには気付いているはずだ。そうなれば、死角となった左からの
攻撃に注意せねばならない。
 負傷している右足はともかく、右のパンチを警戒しなくてはならない。特に直線的な
ジャブやストレートよりもフックやアッパー系の弧を描くパンチには要注意だ。
 試合が再開された。
 綾香はその場を動かない。移動するのにも難渋するほどのダメージが右足首にあるの
だろう。
 静香はジリジリと接近していくが、綾香はそれに対してやはり微動だにせず。
 前に出ている左足にタックルで食らい付いていって捕まえてしまえば、残る右足で体
を支えられるわけはなく、難なく倒せるだろう。
 しかし、それは綾香も十分以上に承知の上のはずだ。
 静香が、綾香の足が届く範囲内に無造作に足を踏み入れた。
 さらにそこから踏み込んで、ジャブで牽制しながら片足タックルの機会を狙おうと思
っていた。
 左の方で何が動いた。
 静香の狭まった左目の視界が、それを捉えていた。
 しかし、瞬時にはそれの正体がわからなかった。
 当然、瞬間的に右のパンチが来るのであろうと思った。
 だが、綾香の右手は脇に引きつけられている。
 と、いうことは──。
 綾香の右足がマット上から消えていた。
「っ!……」

 ばちっ。

 その試合を見ていた誰もが聞いていたその音を、静香は聞いていなかった。
 左目のすぐ上辺りに凄まじい衝撃を感じるのと同時に、聴覚などはふっ飛んでいた。
 意識も飛んで、どこかに行ってしまった。
 静香の頭部が右に激しく揺れ──僅かな時間を置いた後──静香の体は右にゆっくり
と倒れていった。
 綾香の右のハイキックが静香の頭を捉えたのだ。
「おおおおおおおおおお!!」
 会場全体を揺るがすような大歓声が上がったが、すぐにそれが訝しげな声に変わった。
 会心の右ハイを命中させた綾香が、その直後に左膝を着き、右足首を両手で押さえて
その場にうずくまってしまったのだ。
 レフリーは、既に静香のダウンカウントを数え始めている。
「ワーン! ツー! スリー!」
 刻まれていく。
 一刻一刻、それが刻まれていく。
 右足首の激痛と戦いながら、綾香はそのカウントを聞いていた。

 今日、二度目の感覚を静香は味わっていた。
  凄い衝撃が来て、目の前が真っ暗になって、遠くの方から声が聞こえてくる。
 暗い暗い世界に自分は放り出されて寝そべっている。
 立たなければならない。
 遠くから聞こえてくる声が「テン」といったら、自分は負けてしまう。
 立たなきゃ……。
 痛いけど、立たなきゃ……。
 お父さんがどこかから見てる。
 柳川さんが見てる。
 ようやく、優勝できそうなんだから、ここで負けられない。
 お父さんとの約束があるから、ここで負けられない。
 父は、何度も空手の大会に出たが、いつもいいところで優勝を逃していた。五回目の
参加が準々優勝に終わった時、父は、以後の大会参加を断念した。年齢的にも無理が来
ていたし、さらにはいよいよ、格闘技よりも警察官の職務の方へ熱意が移ってきており、
これを機会に決意したのである。
 静香は、「いつか優勝してやるぞ」といっていた父が大会にもう出ないということを
聞いてとても残念に思った。
「だったら私がお父さんの代わりに優勝する!」
 十二歳だった静香は、そんなことを本気でいった。
「優勝って……何をだ?」
 苦笑しながら尋ねる父に静香は、
「とにかく、大きな格闘技の大会に出て、優勝する!」
 いった。
「そうか……静香ならできるかもしれないな」
 父はそういって、静香の頭に手を乗せた。
「静香なら、優勝できるかもしれないな」

 意識が朦朧としている。
「立て!」
 お父さん?
 父は練習の時は厳しい人だった。少々のダメージで倒れると、すぐに叱咤の声が飛ん
でくる。
「お父さん……」
 ぼやけた視界に、ぼやけた人影がいる。それが、自分に「立て!」と、叫んでいる。
「落ち着け! おれだ!」
 人影が輪郭を持っていく。
 お父さん……じゃなくて、柳川さんだ。
「立て! お前なら勝てる!」
 その声に引っ張られるように、静香の上半身が起き上がった。
「お前なら優勝できる!」
 静香は、立った。

「テン!」
 と、レフリーがその一言をいえば、全てが終わる。
 なのに、その一言が聞こえない。
 顔を上げた。
 静香が、虚ろな表情で立っていた。
 左目をつぶり、作り物のように光の無い右目でこっちを見ていた。
 静香さん……なんて顔してるのかしら……。
 そう思ったのは一瞬だけだ。
 自分だって「なんて顔」をしているのに決まっている。
「来栖川! できるのか!?」
 綾香は、そう問い掛けるレフリーに向かって微笑んだ。
 何もいわずに、ただ微笑んだ。
 そして、ゆっくりと立ち上がった。
「来栖川!」
「やります」
 できます。とは、綾香はいわなかった。
 やります。と、いった。
 できるかどうかは正直、やってみなければわからない。
 でも、やるかどうかははっきりとわかる。
 やる。
 自分はやる。
 やってやる。
「やります」
 綾香は、自分が笑っているのだろうと思った。

「大丈夫なのか……おい……あの足首は……」
 試合場の下では、浩之が誰にいうともなく呟いている。
 葵は試合場にかじりつくように綾香を見ていて、先程から一言も声を発しようとしな
い。
 耕一は、腕組みをしたまま苦い表情で浩之の呟きを聞いていた。
 正直、自分にそういう権利があるのなら試合を止めている。
「ギリギリのところだな……」
 耕一のその声も、誰にいったというものでもない。
「おい」
 その時、葵に向かって男が声をかけてきた。
 耕一がその男を見て、軽く頭を下げる。
 男は、静香のセコンドについている柳川祐也であった。試合場をぐるりと回ってこっ
ち側にやってきたらしい。
「右の足首が完全にやられている。もう止めろ」
 柳川は、葵に向かっていった。葵のことを綾香のセコンドか何かだと思っているらし
い。
「いえ……私には……止められません」
 葵は泣きそうな顔でいった。
「あいつは優しい奴なんだ……」
 柳川が、ぼそりと、試合場の中央で綾香と向かい合う静香を見ながらいった。
「辛い思いはさせたくない……」
「私も……辛いです……本当に……」
 葵の目に滲むものがあった。
「仕方が無いな……」
 柳川はそういうと、耕一をじろりと一瞥してから去っていった。
 あいつは優しい奴だ。
 だから、明らかに相手が怪我をしている箇所を攻めるのに抵抗があるだろう。その点
では、静香は、生死の堺で行われるような死合には性格的に向いていない。
 だが、静香は、綾香の右足を攻めていくはずだ。
 容赦無く攻めていくはずだ。
 あいつは優しい奴だから……それで辛い思いをするはずだ。
 でも、手は抜かないはずだ。

「どんな時でも手は抜くんじゃないぞ」

 それがあの人の口癖だったから──。
 絶対に、静香は手は抜かない。

 柳川が元の位置に戻った時、静香の低空の右ローキックが綾香の右足首を横から痛打
していた。
 そしてすぐさま左足にタックルを仕掛けていく。
 左足が浮かされると、綾香は、右足一本では到底体を支えきれずに倒れた。
 静香が綾香の右足首を掴もうとするが、寸瞬の間、動きが鈍り、そのせいで綾香に逃
げられ、立たれてしまった。
「頭か……」
 柳川は呟いた。先程のハイキックで引き起こされた脳震盪が完全に収まっていないの
だろう。
 これは……まさか、まずいのはあいつの方か……。
 いや……時間の問題だ。来栖川の右足首はもう使えないはずだ。立ち技を得意とする
来栖川が足を故障していて、寝技を得意とする静香に勝てるわけがない。
 と、思うのだが……。
「いい目をしている」
 どちらもだ。
 静香も、綾香も、必死な目をしている。
 目が、死んでいない。
 生きた目が、相手を睨み付けている。

 痛い。
 ただでさえ、アンクルホールドで捻られた右足首だ。ハイキックでだいぶまた痛めて
しまった。
 静香が近付いてくる。
 体勢を低くして、組み付いてくるつもりだろう。
 その、低くなった頭へ──。
「はあっ!」
 綾香の右足が再び走った。
 来るはずのない方向からの攻撃。
「!……」
 左側のテンプルに入った。

「また右!」
 叫んだ浩之の横で耕一が首を横に振っていた。
「止めろ……止めろ……もう、いいじゃないか」
 耕一の声に苦いものが満ちていた。
 葵が、二人よりも試合場に近い場所で拳を握って綾香を見ている。

 綾香は、激痛に表情を歪めながら、それでも一筋の笑みを浮かべていた。
 怪我をした右足で二度目のハイキック。
 思い切った奇襲攻撃だったが、見事に決まった。
 私は、負けない。私は、エクストリームのチャンピオンだ。今までは高校生部門のチ
ャンピオンだったけど、今日から一般部門も制覇する。
 負けない。
 負けてたまるか。
 そのためなら足首ぐらい……。
 誇りを守るためなら、足首の一つぐらいくれてやる。

 ぐらり。
 と、揺れた。
 静香の頭がだ。
 倒れそうになる。
 けど、ここで倒れたらおしまいだ。
 もう、立てないだろう。
 倒れてたまるか。
 お父さんとの約束があるんだから、倒れられない。
 お父さんがやっていたから格闘技を始めたのだ。
 格闘技が、自分と父を繋ぐ最も太く、濃厚な線だった。
 休日はほとんど格闘技の練習に時間を費やしている父と一緒にいたくて始めたのだ。
「お父さん、私もそれやりたい」
 道着を着て、庭でトレーニングをしていた父は、一瞬、きょとんとした。が、すぐに
相好を崩して、
「そうか、やっぱり静香はお父さんの血を引いてるんだな」
 笑っていった。
 静香は、体に合ったサイズの道着を買ってもらって父と一緒に練習を始めた。静香は、
その時から今まで格闘技をやるのは好きだったが、それも父が一緒にいたからだ。
 父が死んでからは、格闘技を続けていくことが父と一緒にいることだった。
 父の死からしばらく、オーバーワークになるほどに練習をした。それによって父のこ
とを忘れようとしたわけではない。むしろ、それによって父を側に感じることができた
からだ。
 倒れない。
 お父さんとの約束があるから、倒れない。

 綾香は、大きく崩れた体勢を立て直した静香に対して、初めて畏怖を覚えた。
 尊敬はしていた。
 だが、畏れを感じたのは初めてだった。
 私の誇りを込めた一撃で倒れない?
 あの人は、私以上に誇りを持って格闘技をやっているのか。
 静香がタックルに来たが、やはりキレが無い。
 右のショートフックを難なく側頭部に合わせることができた。
 だが、静香は崩れ落ちながらも組み付いてこようとする。
 右の膝で、腹部を突き上げた。このように中途半端に接近されるのは、足首に負担が
あまりかからない膝蹴りを打ち込んで行くことができるので綾香にとっては好都合だ。
 もう一発、膝!
 どんっ。
 と、突き上げた。
 静香の腰から力が抜けて、足から崩れ落ちる。
「ダウン!」
 レフリーが叫んだ時、
「え!?」
 綾香が右足を後方に引いていた。
 マットに前のめりに倒れた静香が右足首を掴もうと手を伸ばしていたのだ。
「御堂!」
 と、レフリーが一声かけてからカウントを数え始める。
 静香は、右足を引きずりながら自分から距離と取った綾香を見ながらゆっくりと上半
身を起こした。
 が、すぐには立ち上がれずに中腰の状態で荒い呼吸を整えている。

 誇りがあった。
 自分が格闘技をやっていること、そしてチャンピオンであること。
 そのことに誇りを持っていた。
 今まで自分が闘ってきた相手は空手時代も含めて、誰もが自分がやっていることに誇
りを持っていた。
 その中でも特にそれが強烈だったのが好恵だ。
 彼女ほど空手に誇りを持っている人間はいないと綾香は思っている。
 静香も誇りを持っていて、それを守るために闘っているはずだ。
 さっきまではそう思っていた。
 いや、さっきまでは静香もそうだったのだ。
 何かが、徐々に変化しつつある。
 自分は何も変わっていない。
 誇りを持ち、それを守るために持てる力の全てを出して闘っている。
 と、いうことは、静香の方が変わりつつあるのだ。
 勝利のために誇りを犠牲にしようとしているのか……。
 静香が立ち上がり、レフリーが試合再開を促すが、どちらも疲労とダメージのために
すぐには動けない。
 やがて静香がゆっくりと前進を始めた。
 近付いてくる。
 綾香はできることならば尋ねたかった。
 なんでそんな目をしているのか?
 なんのために闘おうとしているのか?
 自分の誇りのためでないとしたら、一体なんのために闘おうとしているのか?
 自分は、自分のためにしか闘ったことはない。
 静香は、違う。
 さっきまでは、3ラウンドまでは静香も綾香と同じ闘う理由を共有していたはずだ。
それがズレ始めた。
 自分のためでないとしたらなんのために闘おうとしているのか?
 緩慢な動きで接近していた静香が、ある一線を越えると、急激に加速して突っ込んで
きた。
 やはり狙いは右足へのタックル。
 だが、そんなことは綾香だって承知している。
 かわしざま右のフックを静香の顎へ。
 すっ、と静香が退く。
 ある程度距離を取られてしまうと、右足首を怪我している綾香はそれ以上攻撃を加え
ることができない。
 まずい。
 こんなことをしていてはいつか倒される。
 そして、倒されたら負けだ。この右足首の状態ではグラウンド勝負になったらどうに
もならない。
 もう一度来た。
 今度は左足へ──。
「!……」
 正直、意表をつかれた。体力気力ともに充実している状態であれば、その程度のフェ
イントにはかからないのだが、度重なる疲労で判断能力にも鈍化が見られる。
 静香の両手によって、左足が持ち上げられた。
 左の補助を失った右足にウエイトがかかり、足首に激痛が走る。
 この右足では支えきれない。
 誇りでも支えきれない。
 凄まじい痛みが足首を侵食している。
 どこからか──。
「綾香さん!」
 声が聞こえたような気がした。
 葵が見てる!
 葵が、あの目で見ている。
 ずっと、葵は自分をそういう目で見ていた。
 自分が負けるなんて思ってもいないような信じ切った目だ。
 いつからか、自分が空手の大会で優勝した辺りから葵はそんな目で自分の試合を見る
ようになった。
 かつてない辛く、苦しい闘いをしている今、その目で見られていることが奇妙なほど
に強く意識された。
 あの目……。
 あの目に見られている以上、負けられない。
「っ!……」
 痛んだ右足で踏ん張った綾香の右手が弧を描いて、胸に密着した静香の頭部を叩いた。
 頭への衝撃によって、左足を抱え込んだ静香の両手の拘束が弛んだと見るや、綾香は
左足を強く引いて、それから脱するとともに左手を伸ばして静香の肩を押した。
 密着した静香を押し退けて距離を取り打撃を送り込もうというつもりだ。
 その狙い通り、綾香の右腕が唸って静香の顔を打った。
「せあっ!」
 静香が打ち返してきた。
 綾香にとっては意外であった。てっきり静香はまたひとまず距離を取るか、なおも密
着してきて倒そうとしてくるかと思ったのだ。
 既に静香も理性的で的確な判断を行うほどの確たる意識を失っているのか。
 ともかく、打ち合いなら望むところだ。
 これで……勝った。
 葵の、あの目に今回も応えられた。
 打ち合いだったらこっちが……。

「!!……」

 右足に圧力。
 右足首に激痛。
 突然の激痛から自分を拾い上げた時には、拳が既に眼前にあった。
 ゴ!
 と、頬骨が鳴った音を聞いた。
 この試合を間近で見ていた人間の耳には、
 ゴツッ!
 という、音が聞こえた。
 当たった瞬間の音を聞いたきり、綾香の聴覚が飛んだのだ。
 背中から倒れる。
 場内から、低く重く、呻くような声が沸き上がった。
 来栖川綾香が打撃で倒された。
 観客の中には、それが初めて見る光景である者も多かっただろう。
 去年の高校生部門、綾香は一度もダウンせずに優勝していたのだ。
「ワーン! ツー! スリー!」
 レフリーが数えるカウントが、なんだかわからなかった。
 こんな状態で……こんな、天井を見上げながらカウントを聞いたのは久しぶりだった。

「なっ!」
 浩之は、綾香の背中がマットに接触した時、そういったきり絶句した。
 目の前の出来事を信じられぬといった面持ちでいた浩之がようやく口を開いたのは、
カウントがセブンに達していた時であった。
「綾香が……打ち負けた……」
 呆然とそういった浩之の視線の先で、綾香がよろめきながら身を起こしていた。
「足だな……」
 横で起こった呟きを聞いて、浩之が弾かれたように視線を転じた。
「直前に、右足を左足で踏まれたんだ。たぶん、真上から足の甲をやったんじゃなくて
斜め上から足と足首の付け根を踏んだんだ」
 視線の先の耕一が、淡々という。
 だが、声こそ淡々としていたが、表情は暗い。
「もういい……止めろ……」
 浩之も同意見だった。
 葵が、身を試合場の上に乗り出すようにして立ち上がった綾香を見ている。
「葵ちゃん……まだ信じているのか……」

 やった。
 前から足と足首の付け根を踏みにじったのだ。
 斜めに力をかけて、足首の故障部分がマットと足の間で押し潰される形にしたのだ。
 柳川は、張り詰めた目でそれを見ていた。
 やられた綾香ではなく、やった静香を見ていた。
 そこまでやるか。
 お前は、勝つためにそこまでやるのか。
 お前は、そこまでして勝ちたいのか。
 約束……。

「柳川くん、うちの娘が格闘技やってるのは前に話しただろう」

 約束を、果たそうとしているのか。

「あいつ、十二の頃に大きな格闘技の大会に出て優勝するっておれと約束したんだ」

 あの時の約束……。

「こないだ、エクストリームとかいうのに出場するっていい出してなあ。……あいつ、
十二の頃の約束を覚えてたんだな……」

 まだ、覚えているのか。
 だとしたら……やれ。
 やってやれ。
 お前のやりたいことをやれ。
 おれはそれを支持する。
 おれはお前のやることを肯定する。
 だから、思い切りやれ。

「よくできた娘だよ」

 おれもそう思います。
「いい娘さんだと思います。御堂さん」
  知らず知らずのうちに呟いていた。

 立ち上がりながら、綾香は静香を見ていた。
 そこにいるのは、自分が知っている静香ではなかった。
 綾香がゲスト出演したドラマの撮影現場でコードに足を引っかけて転び、
「なんだ。またやったの、静香さん」
 と、スタッフの人たちにいわれていた静香では、もちろんない。
 かといって、自分が知っている試合場の静香でもない。
 第3ラウンド終了までは、確かに静香は、自分が知っている静香だった。
 それが変わった。明らかに変わった。
 あんなことをやる人だとは思っていなかった。
 あんなことをしてまで勝ちたいのか。
 怪我をした相手の足を踏んで、相手の動きを止めてから殴る。
 決して反則ではない。
 だが、堂々たる戦法とはいえないだろう。
 自分ならやらない。好恵だったらなおさらやらないだろうし、葵も……あの子の場合
は優しい性格のせいもあるだろうけど、やらないと思う。
 やらない……やれない。どっちでもいい、とにかくそういうことはしないのだ。
 誇りを持っているからだ、と綾香は思う。
 誇りがあるから、そういうことはしない。それをやったら誇りが崩れる。そんなの、
本末転倒だ。そんなの、なんのために闘うんだかわからない。
 この人は、やっぱり誇りを犠牲にしても勝利を得ようとしているのか?
 なんのために?
 綾香は、そんな相手と闘ったことはない。
 静香が、またタックルに来た。 
 かわして、ショートフック。
 さっきから、二人で何度も同じような動きをしている。
 つまり、何発もパンチを当てているということだ。
 でも、静香は倒れずに向かってくる。
 今までの格闘技人生で一番しぶとい相手だ。
 自分はもう限界に近い。おそらく、静香も人間である以上、そうに違いないが、わか
らない……。
 静香がいつ倒れるのかがわからない。
 勝利のために誇りを捨てようという人間が、いつ倒れるのか──いつ諦めてくれるの
かがわからない。
 そんな人間を相手にするのは初めてだから……わからない。
 全く、わからない。

「二分経過! あと一分!」

 試合場の下から声が聞こえた。たぶん、あれは浩之の声だ。
 二分。
 あと、一分しかない。
 あと一分で、静香を倒せるのか。
 三分間の延長戦を終えればあとは判定だ。ダウンの数は静香の方が圧倒的に多い。
 だが、エクストリームのような総合格闘では、グラウンドでの関節技、絞め技もポイ
ントに含まれる。
 綾香と静香、今どちらがポイントで優位に立っているのかはよくわからない。自分は
何度も関節を極められている。ダウンの数などははっきりとわかる事柄であるために、
大体の見通しがつくのだが、関節技は、どこまでを「極まった」としてポイントに取っ
ているのかが、試合中の選手にはわかりにくい。
 それこそ、判定をする人間によって、大きく結果は変わる。
 判定はあまり好きじゃない。しょうがないことなのかもしれないが、勝つにしろ負け
るにしろ、すっきりしない。
 静香さんが、また突っ込んできた。
 静香さんだって、この勝負を判定でなんか終わらせたくないんだ。
 私だって──。

 静香が組み付いてこようとするのを、綾香の左手が止めた。
 このようなことも、静香の動きが試合開始当初に比べて遅くなっているからできるこ
とだ。
 止めるのは一瞬で十分。
 すぐに入れ代わるように右拳を打ち出す。
 咄嗟に身を引こうとした静香の左頬を捕らえて、思い切り打ち抜いていった。
 静香の顔が右に半回転する。

「!……」
 綾香の目が見開かれていた。
 手応えが無い!

 静香の顔は、思い切り右を向いていた。
 打ち抜かれて、ふっ飛ばされたのだ。と、皆が理解した時には、それを覆すように静
香の両手が綾香の右腕を掴み、両足が跳ね上がっていた。
 開いた両足が、肉食獣の口のように綾香の右肩に食らい付いた。
 打ち抜くつもりでパンチを放った直後であるから、当然、体はやや前方に泳いでいる。
その動きをまんまと利用されて、綾香は前のめりに倒されてしまった。
 双方、ともにマットに倒れ込んだ時には、静香の裏十字固めが極まりかけていた。

「すっげえ……」
 呆然とした浩之の呟きが、「それ」に対する驚愕を物語っていた。
「あの、顔が回転したのって……まさか……」
 確信が持てぬのか、隣にいた耕一に尋ねる。
「うん……パンチを喰らう直前に首を捻って顔を横に向けたんだ。あれ、見た目は派手
だけどほとんど効いてないよ」
「やっぱり……」
「確か『すすめの三歩』っていう漫画に出てきたなあ、あれ」
「あ、おれもあれ読んでるっす」
「でも、プロボクサーでもそうそうできることじゃないぞ」
「あの人……天才かよ……」
 浩之は、今まで「格闘技の天才」といえば綾香のことだと思っていた。好恵はどちら
かというと堅実に上達していくタイプで、葵はもちろん完全な努力型のタイプだ。
 あの、御堂静香という人は、綾香を上回る天才なのではないだろうか。
 浩之は、葵に過去のエクストリームの試合ビデオを借りて見たことがあるのだが、綾
香がこれほどに苦戦しているのを見るのは初めてだった。
「いや……違うな……」
 耕一が浩之のいわんとすることを悟っていった。
「才能じゃない……もちろん才能もあるんだろうけど、あれは何度も練習したんだ」
「……」
「そうでなきゃ、こんな土壇場で『あれ』はできない。たぶん、何度も何度も練習した
んだ。失敗して殴られたこともあっただろう。何度も……」
「何度も……諦めずに、練習したんですかね……」
「ああ」
 何度も、諦めずに……。
 浩之の視線は葵の背中に注がれていた。
 拳を握って、試合場に乗り出して、食い入るように試合を見つめている葵の背中を。
「それじゃまるで……」
 綾香がなんとか静香の裏十字固めから逃れようとしていた。完全に上半身をマットに
つけていなかったので、胸とマットの間の空間に左腕を入れて、伸ばされようとしてい
る右手と左手をクラッチしたのだ。
 葵が、綾香に何か声援を送っている。
「それじゃまるで……葵ちゃんじゃないか……」
 浩之の呟きは、隣に立っていた耕一にも聞き取れぬほどの小さな声であった。

 疲れた。
 疲労が折り重なって体中に蓄積している。
 そして今も、それは間断なく積み重なる。
 もう、疲れた。
 正規の3ラウンド、そして延長ラウンドをもう二分闘っているから、計十七分間、ほ
ぼずっと体を動かしていることになる。
 普段のトレーニングやスパーリングならば、十七分という運動時間はそれほどに多い
ものじゃない。
 でも、本番の試合、ましてやそれが大会の優勝決定戦ともなれば、肉体的な疲労に加
えて、精神的疲労がトレーニングやスパーリングとは段違いだ。
 そしてその精神的疲労は、肉体的疲労をさらに重いものにしていく。
 裏十字固めをかけられそうになって両手をクラッチして逃れた。
 そのクラッチにさえ、今や試合開始当初に比べると比較にならぬほどの体力気力がい
る。
 クラッチしたまま右腕を自分の方に引き寄せる。
 と、瞬間。静香の力が弱まった。
 フェイント……ではない。裏十字固めを諦めたのだ。
 あ!
 踏ん張るために、思わず右足を前に出して膝をマットにつけていた。
 右足首を狙ってくるつもりに違いない。
 私は、右足を引いた。
 静香さんが私のバックに回ってくる。
 それを嫌って体を逃がそうとすると、しつこく追い掛けてくる。
 その間にも、執拗に右足首を狙っているのがわかる。
 一瞬たりとも気が抜けない。
 しかし……この人は疲労は無いのだろうか?
 いや……そんなわけはない。これまで、これほどの闘いをしてきたのだ。肉体的にも、
精神的にも膨大な量の疲労があるに違いない。
 これほどの疲労感は初めての経験だ。
 自分はやったことがないからわからないが、オーバーワークというのが、こんな感じ
ではないのだろうか。
 ……。
 !!
 オーバーワーク。
 つまりは、練習のし過ぎ。
 筋肉はある一定の運動をすると細胞が死ぬ。
 それが再生する時には、以前よりも細胞が増えて再生する。
 だから筋肉痛というのは、新しい筋肉がつく前兆のようなものだ。
 だけど、あまりやりすぎると、細胞が死にすぎて再生量が追い付かず、結局、筋肉量
が少なくなってしまう。
 だからオーバーワークというのは近代的な科学トレーニング法においては認めらてい
ない。
 格闘技を始めた時、両親がいいトレーナーをつけてくれた。まだ私が外国にいた頃だ。
 定期的にドクターにも診せられた。
 トレーナーもドクターも、どちらも一流の人物だったらしい。
「オーバーワークは禁物ですよ。お嬢さん」
 二人ともそういっていた。
 日本に帰ってきてからトレーナーもドクターも幾度か変わった。
 でも、オーバーワークを推奨するような人間はいなかった。
 いや、ただ一人、推奨とはいわないがそれとなく肯定した人間ならばいた。
 トレーナーでもドクターでもなく執事だが、相当に格闘技と、なにより実戦経験があ
る人で、長瀬源四郎という。
 姉さんが「セバスチャン」ってニックネームをつけて呼んでいるので、私は「セバス」
と呼んでいる人だ。
「オーバーワークの経験があると、限界を越えてもなんとかやれるのですよ」
 確か、そんなことをいっていた。
 私は聞き流していたので、正確になんといっていたかはわからない。でも、確かにそ
れに類することをいった。
 私も静香さんも限界を越えている。
 でも、静香さんの動きは、鈍ってはいるが私に比べると幾分かキレがある。正直、私
はもう、少し動くのにも物凄い気力を要する状態だ。
 この人、たぶんオーバーワークをやったことがあるんだ。
 だから、限界を越えた後の耐久力が私よりあるのかもしれない。
 オーバーワーク。
 好恵は、一度やって懲りたといっていた。
 葵は、何度かやったことがあるらしい。
 試合が近いとついついやり過ぎてしまう。好恵のように一度で懲りることもなく、つ
いつい何度もやってしまう。
 葵らしい、と苦笑しながら思った。
 この人も、そうなんではないだろうか。
 葵みたいに……。
 ふと、思う。
 葵みたい……。
 ふと、気付く。
 そうか……。
 それはある種の衝撃を伴っていた。
 これまでずっと闘っていて今まで気付かなかったのが不思議だった。
 この人、そうだ。
 この人、同じだ。
 この人、葵と同じタイプだ!
 この人、葵と同じだ。私が……実は密かに、一番恐れている葵と同じタイプの格闘家
だ!

 去年、準優勝だった。
 と、いうことは、去年も優勝決定戦までは勝ち上がったのだ。
 そこで負けた。
 2ラウンド、四分過ぎ。腹部に膝を貰って、ワンツーでパンチを顔面に貰って、ふら
ついたところへハイキックが側頭部へ。
 ダウンして、立とうとしたけど、立てなかった。
 その時、自分に勝った人はエクストリーム優勝の肩書きを引っさげてプロに転向し、
今は近頃設立された女子の総合格闘団体に所属している。
 決して勝てない相手ではなかった。試合後のインタビューで相手の選手も楽な勝負で
はなかったことを認めている。
「ただ、膝が入った後、御堂選手から……なんていうんでしょう……闘気のようなもの
が消えたんですよ。ワンツーパンチが軽く入って、行けると思って、思い切ってハイを
打っていったんです」
 そう、インタビューに答えていた。
 闘気のようなものが消えた。
 その言葉は静香にとってショックであった。
 あの膝を思い切り水月に喰らった時、自分は諦めたのだ。
 お父さんとの約束をようやく果たせるかと思ったけど、今年は無理だ。と、思ってし
まったのだ。
 それが相手に「闘気が無い」という形で伝わっていたのだ。
 やっぱり、諦めた人間が勝てるほど甘い世界じゃない。
 今度は諦めない。
 今度こそ……。
 お父さんとの約束……。
 なんでだろ?
 それにしても、なんで今回はこんなに頑張れるんだろう……。
 なんだか、去年よりもお父さんが身近にいるような感じがする。
 あ、そうか。柳川さんがいったんだ。
 お父さんがどこかから見てるって……。
 それ以外にも、柳川さん自身が見ているのが、側にいてくれるのが、頑張れる元だと
思う。
 柳川さんはお父さんのことが好きなのだ。
 お父さんも柳川さんのことが気に入っていた。
 柳川さんを通じてお父さんが身近に感じられる。
 優勝トロフィーを持って、お父さんのお墓参りに行きたいな……。
 柳川さんと一緒に……行きたいな……。

 辛い。
 苦しい。
 でも、葵が見ている。
 あの目で見ている。
 負けられない。
 でも、この無尽蔵にエネルギーがわき出てくるような人はなんなのだろう。
 一体、いつ倒れてくれるのか。
 一体、いつ諦めてくれるのか。
 ふっ、と影が差すようにある思考が芽生える。
 この人、諦めないんじゃないのか?
 絶対に諦めないんじゃないのか?
 ってことは、どうすればいいのか?
 首……。
 そうだ。首だ。
 首を絞めて、頸動脈を絞めて、落としてしまうしかない。
 この人、この様子だと関節技を極められてもタップしないだろう。そもそも、ルーズ
ジョイントと呼ばれる体質の上に関節技の名手であるこの人から関節技でギブアップを
取るというのが至難の技だ。
 もう……自分は限界を遙かに越えた位置にいる。
 この辺で勝負をつけなければ……やられる。
 この、いつまでも諦めない人にやられてしまう。
 右足を、取りやすい位置に持っていく。
 餌。
 食らいつけ。
 これに食いつけ。
 さっきからここを狙っているのはわかっている。
 腕を攻めながら、左足を攻めながら、実はここを狙っているのはわかっているのだ。
 食い付いて──来い。
「っ!……」
 上に覆い被さってアームロックをかけようとしていた静香さんの体が一瞬で転回する。
 やっぱり、狙ってたんだ。
 背中が、丸見え。
 バックから──。
 密着して──。
 腕を回して──。
 抱きしめる。
 そう、それは一見、抱きしめる行為に似ていた。
 抱擁。
 それは私にはそう思えた。
 抱きしめる。
 こんな素晴らしい人と闘えたことに感謝しながら抱擁する。
 スリーパーホールド(裸絞め)。
 後ろからガッチリと私の「抱擁」は「極まって」いた。

 脳に酸素が行かなくなる。
 頸動脈が押し潰されるような感覚。
 背後からのスリーパーホールド。
 怪我した右足首を餌にして誘ったんだ。
 見事に、誘われた。
 でも、私の両手の中に、来栖川さんの右足首がある。
 捻る。
 来栖川さんの呻き声がすぐ後ろから聞こえる。
 荒い吐息が耳たぶを撫でる。
 私は息を吸うこともできず、吐くこともできず、ただ、足首を捻る行為に没頭してい
た。

 経験したことのない激痛が攻め掛かってくる。
 でも、この激痛もすぐ終わる。
 こっちは頸動脈を絞めにかかっているのだ。
 頸動脈を絞めて、脳を無酸素状態にして、落としてしまえば──終わる。
 絞め落とされたら堪えるも何も無い。眠ってしまう。
 眠っている間に、私の勝利が宣告されるだろう。
 思い切り絞めた。

 視界に白く薄い膜がかかり始める。
 これは何度か経験がある。脳に酸素が行かなくなって意識が朦朧としてきているのだ。
 このままでは落ちる。
 落ちたら意識が無くなる。
 足首を捻る。
 強く捻る。
 それだけに意識と力を集中する。他のことはもうどうでもいい。
 意識がいよいよ朦朧と白霧の中へ埋没しようとしている。
 でも、私は手に意識を込めた。
 私の頭から意識が無くなっても、この手に意識が残るように──。
 思い切り捻った。

 まだなの!
 まだ落ちないの!
 なんで!?
 なんでよ!?
 痛い。
 足首が捻られてる。痛みの上に痛みを重ねられている。

 捻る。
 それ以外のことは考えない。
 とにかく、この手の中にある足首を捻ってやろう。
 目の前は、もう真っ白だ。
 頭の中もそれに近い。
 でも、両腕にはなぜかはっきりとした感触がある。
 私の頭から私の意識は消えようとしているけど、腕に意識が宿っているのだ。

 負けられない。
 なんの疑いもなく自分の勝利を信じている葵のためにも……。

 お父さん……。
 約束通りに優勝したら褒めてくれるかな……。

 激痛が足首を断ち切ろうとしていた。
 恐怖が翼を広げて覆い被さってくる。
 このままでは、二度と格闘技ができなくなってしまう──。
 それは、物凄い恐怖だった。

 ……。
  ……。
 ……。
 柳川さんも褒めてくれるかな……。
                                         
  手が震えている。
 タップしたがっている。
 手が、タップをしたがっている。
 全身がタップしろといっている。
 ただ、頭だけが、私の意識だけがそれを拒み続ける。
 限界だと思っていたラインを何度も越えた。
 自分はここまでできるのかと、何度も再確認した。
 でも……今踏んでいるライン。
 これが真の限界なのではないだろうか。
 葵が見てる。
 でも、葵は……もしかしたら私を許してくれるかもしれない。
 ここまでやったんだから……。
 自分の信頼を裏切った私を許してくれるかもしれない。
 もしかしたら……。

 ……。
 ……。
 ……。

 意識は白濁とした世界の中に埋まっていた。
 無意識の内に静香の手は綾香の足首を捻っていた。
 静香の口の端から、何かがこぼれた。

 綾香の手が、震えた。
 震えながらその手は、静香の肩へと──。
 ポン。
 と、叩いた。

 生きている人間との約束を守ること、若しくは信頼に応えることができなくても、相
手は許してくれるんじゃないか?

 死んでいる人間との約束は果たすしかない。
 何をしてでも……。

 微妙な誤差があった。
 微妙であった。
 寸毫の差といえる。
 僅かな差といえる。
 だが、それが明暗を分ける。
 それが闘いである。
 それが人間と人間との意思のぶつかり合いの最終形態ともいえる闘争の形なのかもし
れない。

 ポン。
 と、二度目を叩いた。                                                                     

 レフリーが試合場下の係員に手を振る。ゴングを鳴らせという合図だ。
 その際に東側を指差している。東側は中央線に立つ時の静香の立ち位置である。 
 ゴングが鳴り響き、
「勝者、御堂静香!」
 場内アナウンスが告げる中、レフリーが静香の肩を叩いていた。
「待て! ストップだ。御堂!」
 レフリーがいっても、静香は動かなかった。
 いや、ただその両手だけが、綾香の足首を捻り続ける。
「あっ!!」
 何かに気付いてレフリーが大急ぎで静香の手を綾香の足首から引き剥がす。
 凄まじい激痛と敗北感に挟まれながら、綾香もそれに気付いていた。
 静香の口の端からこぼれ落ちるものがあった。
 泡だ。
 泡を吹いている。
 目が、白い。
 白目を剥いている。
 御堂静香は、明らかに落ちていた。
 背の高い、眼鏡をかけた男が試合場に上がってくるのを、綾香は視界の端で捕らえて
いた。
 その男が静香を抱き上げた時、
「綾香さん!」
 葵が、自分に抱きついてきた。
 ひび割れたような、涙の混じった声で自分の名を呼びながら──。
 ああ……。
 私はこの子を裏切ってしまった。
 凄まじい虚無感の中に綾香はいた。
「ありがとうございました! 二人とも、ありがとうございました!」
 葵は、わけがわからぬ内に、綾香と、そして静香に礼をいっていた。

 十七分四十八秒(延長ラウンド) アンクルホールド 勝者 御堂静香
                               
                                     続く




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