バイクがガードレールに激突し、俺は宙を飛んだ。 曲がり角を直進したのだから当然だ。それほどに速度が出ていなかったのが幸いだった。 投げ出された俺は、上手いこと死への道は免れた。……頭と右肩を思い切り地面に打ち 付けたけどな。 ちょっと家から離れたところにある高校に進学したのでこいつ――200ccのTWとい うバイクで通っている。免許を取るまでは自転車だったのでえらいしんどかった。でも、 最近はこいつに跨って快適な登下校を満喫している。 で、その愛車がガードレールとの衝突でひどいことになっている。……下手すりゃ、全 損。おさらばすることになるかもしれん。 これまで無事故、こいつに乗ってヘマしたことは無かったのに、とうとうやっちまった か。 この俺がこの度、なんでまたガードレールへの正面衝突なんてしちまったか、っていう とよそ見をしていたからだ。顔見知りが歩道を歩いていたのに気付いて、速度を落としな がらそれを見ていた。 フルフェイスのヘルメットを被っているせいで、あいつは俺だと気付かなかったようだ。 それをいいことに見続けていた。 声をかける、ということは初めから考えなかった。たぶん、あいつは俺のことを今でも 嫌っているだろうからな。 それにしても、俺もしつこく見過ぎていた。そのせいでガードレールに突っ込んだんだ が。 あいつが男連れだったのは原因じゃない……と、思う。俺は、あいつのことは完全に吹 っ切っていたから、別にそれはいい。 それよりも、あいつの右腕に俺の目は釘付けになっていた。 いつもそこに巻かれていた黄色いバンダナがそこに無かった。あいつが、それを取られ まいとして必死に泣きながら抵抗していたバンダナが無かった。 どこを見ても無かった。 それを探していた。 あいつの体のどこにもあの黄色いバンダナは無いのに、探していた。 そうしたら、衝撃が来て、俺は前方に飛んでいた。 咄嗟に受け身、しかし、頭と右肩を打つ。 痛え……。 ヘルメットを被っているといっても、限度がある。脳震盪の感触に俺の気分は最悪にな る。 「わぁ、大変だよぉ」 久しぶりに聞くあいつの声が近付いてくる。 「往人くん、お姉ちゃんのところに連れてこうよ」 往人っていうのか、あの男。 「頭を打ってるみたいだから、下手に動かさないほうがよくないか?」 「それじゃあ、救急車を呼ばないと」 なんか、話を大事にしてくれてるな。大丈夫だ。立てるよ。 「あ、立てるの?」 上半身を起こした俺を見て、あいつがいった。 「ああ」 答えた。その直後に、俺の上半身は倒れていた。 あいつ……霧島佳乃とは中学一年の時に同じクラスになった。広くもない街だ。歩いて 行けるところに小中学校はそれぞれ一つしかないので小学校の時も同じ学校ではあったの だが、同じクラスになったことが無かったので、それまで一度も意識することは無かった。 ただ、おっかない姉貴がいて、あいつをイジめると十倍にして返される、という話は耳に していた。 あいつは、明るい性格で友達も多かった。顔も、かなり可愛い方なので、意識していた 男は多いはずだ。 ただ、イジめられることも多かった。いつもその発端となるのは、右手に巻いた黄色い バンダナだった。 おしゃれにしてはびらびらと鬱陶しいそれを、あいつはいつも、プールの時間にまで右 手に巻き続けていた。なぜなのかは教えてくれない。あいつと親しい女友達も知らないよ うだから、誰にもいっていなかったのだろう。 中学一年も終わりの頃、ちょっと揉めた。 クラスの男が数人、あいつのバンダナのことを馬鹿にしていた。そんなのは別にその一 年珍しい光景じゃなかったんだが、その日は少し様子が違った。そいつらが、手を伸ばし てあいつのバンダナを取ろうとした。あいつは必死になって抵抗した。そいつらの手をば しばし叩いた。それで、そいつらがムキになった。 髪の毛を引っ張られて泣き出したあいつを助けたりする予定は全く無かったのだが、あ いつと仲のいい女子が俺に助けを求めてきた。その連中とは知らない仲じゃなかったので、 しょうがないので助けてやることにした。 「てめえら、止めろ、この野郎」 俺は喧嘩になるのを覚悟でそういったんだが、俺がそういうと他の男子で何人かそれに 同調する奴もいてそいつらはブツブツいいながら引き下がった。 二年にあがった時もあいつと一緒のクラスになった。そして、クラスの係を決める際、 いつの間にやら(俺がHRで寝ている間ともいう)俺はあいつと一緒に「生き物係」にな っていた。 そんな面倒な係は嫌だったので俺を推薦したという女子連中に抗議したところ「だって 佳乃のお気に入りだから〜」とか笑いながらいいやがった。俺はお気に入りらしい。 「君を生き物係二号に任命するよぉ〜」 ……任命もへったくれも無いと思ったが、担任のところに抗議しに行ったら「寝てるお 前が悪いんだ。馬鹿」という、ありがたい言葉をいただいていたので任命されるままに生 き物の世話をすることになった。 生き物係の何がしんどいといえば、長期休暇中の世話に尽きた。あいつは飽きもせずに 一日一回餌や水を取り替えたり掃除をしたりしに来ていた。俺は毎日は勘弁してもらって 二日に一度だったのだが、その内に結局毎日行くことになった。最初は認めたくなかった のだが、あいつと一緒にいると楽しいということを、俺は認めざるを得なかった。 半年で委員会や係は交代するんだが、後期もあいつはもちろん生き物係であった。そし て、相方は俺だった。なんと、恥ずかしいことにあいつが自分が立候補した直後に推薦し やがったのだ。……散々冷やかされるのはその時点で決まっていた。 冷やかされながらも開き直ってあいつと一緒に生き物係を勤めていた。 俺は、もうすっかりあいつに惚れていたし、自惚れでなく、あいつも俺に好意を抱いて いるようだった。 そして、二年生も最後の終業式の日のことだった。俺たちは飼育小屋の大掃除をしてか ら帰途についた。その途上、俺が何気無く尋ねたのだ。 「結局、そのバンダナはなんなんだ?」 って。 それまでにも何度か同じことを聞いたのだが、そのたびに「内緒だよぉ」と教えてもら えなかったことであって、その時も、教えてもらえるとは思っていなかった。 でも、あいつはいった。 「……特別に教えてあげるけど、みんなには内緒だよぉ」 こいつ、そこまで俺に心を許しているのか。 とにかく、嬉しかった。クラスの誰にも、仲のいい友達にまでこいつはそのことを話し ていない。それを、俺に教えてくれるという。俺は、浮かれた。 「おう、絶対いわないから」 「あのね、これを大人になるまでつけていると、魔法が使えるようになるんだよぉ」 「は?」 俺は、冗談かと思って、あいつを見た。真剣な顔をしていた。ひそひそと、声を潜め周 りを気にしていた。 「……お前、本気でいってるのか?」 俺がそういうと、あいつは不安そうな目で俺を見た。 「本当だよぉ、お姉ちゃんがいってたんだから、本当だよぉ」 あいつの真剣さはわかった。でも、頷ける話ではなかった。 「それ、姉ちゃんに騙されてんだよ」 だから、その言葉があいつをどれだけ傷付けるかなどわかりもしない俺はいってしまっ たんだ。 「魔法なんて使えねえよ」 「……」 あいつは、俺の方を見ないで俯いていた。しばらく、無言のまま歩いた。 「お姉ちゃんが嘘つくわけないよ」 やがて、小さな声でいった。俺の方を見ていなかった。 なんだか、腹が立った。どういうつもりか知らないが、その姉の嘘をこいつは信じて、 それで無用にイジメられたりしているのだ。 「取っちまえよ、そんなの」 俺は、それまで他の連中がなんといおうと、あいつの右手のバンダナを馬鹿にしたりし たことは無かった。でも、真相を知ったその時、やたらとそれを取り去ってしまいたくな った。 俺の手がバンダナに触れた瞬間、あいつが凄い勢いで身を引いた。信じられないという ような顔をしていた。 「嫌いだよ」 「おい」 「好きだったのに、もう嫌いだよぉ」 走り去っていくあいつの背中を見て、俺はようやくわかった。あいつにとって、俺が今 したことはとんでもない裏切り行為であることに。 「おい、待てって」 追いかけたが、しばらく呆けてあいつの背中を見送っていたのがまずかった。だいぶ差 がついていて、それは縮まらなかった。 結局、あいつの家まで追いかけて行ってしまった。あいつの親父さんはこの街では有名 な医者で、診療所を開いていた。 母屋の方に行き、インターホンを鳴らすと、女が出てきた。髪の長い、あいつとは印象 の違う女だ。 あいつの姉貴だろうと見当をつけて尋ねると、やっぱりそうだった。 「なんの用だ」 というので、名前を名乗って、あいつを呼んできてくれるように頼んだ。あいつの姉貴 は、君がそうか、といってから奥に入っていった。あいつに聞いたらしく、俺のことを知 っているようだった。 なかなか好感触だと思っていたのだが、戻ってくると表情が一変していた。 「二度と佳乃に近付くな」 一方的にいってドアを閉めようとするので、俺は思わず足を割り込ませて閉めさせない ようにする。 「おい、待てよ」 「話は聞いた。佳乃には会わせん」 「俺も、話は聞いたよ。あんた、妹に嘘教えちゃ駄目じゃねえか」 それを聞いて、ただでさえ険しかった姉貴の顔がさらに険を深くした。 ドアが開いた。次の瞬間には横薙ぎに平手を食らっていた。奥歯が折れたんじゃねえか ってぐらいの強烈なやつ。 「ってえな」 「……」 何もいわず、おっそろしい目で睨んでいた。 「あんなもんつけてたって、魔法なんて使えるわけねえだろ」 思わず、姉貴の襟首を掴んでいた。 「あいつがあんたを信じているのをいいことに騙しやがって」 思いっきり、拳がぶつかってきた。真正面から鼻っ柱に炸裂した。 どうやら、その一言は逆鱗に触れたらしかった。 片膝をついたところに蹴りだ。腹につま先がめり込んでくる感触がはっきりとわかった。 それなりに喧嘩には自信があったのだが、あん時だけは殺されるかと思ったもんだ。 「ちゃんと、教えてやんなきゃ駄目じゃねえかよ」 それでも、朦朧とする中、そんな言葉を繰り返していたように思う。 意識がはっきりとした時には、ドアは固く閉ざされて鍵がかけられていた。インターホ ンを何度も鳴らしたけど、返事は無かった。 それから、あいつの家には行っていない。 三年生になった時のクラス分けではあいつと別のクラスになってしまい、廊下で見かけ ても、あいつは俺の顔を見ると逃げていった。 あいつが進学するといっていたこの街の高校を俺も受ける気でいたけど、少し離れた所 にある男子校に変更した。男ばっかりのむさい学校だが、それを日常にしているうちにあ いつのことを少しずつ忘れていくことができた。 あれも、これも、昔のことになりつつあった。 「ん?」 目覚めた時、自分の状況を確認するのに少し時間がかかった。 まず自分のいる場所がベッドの上であることを確認し、どうやらここは自分の部屋では なく、病院の一室らしいことを悟る。 「あー、そっか」 俺は、無意識のうちにいっていた。 「コケちまったんだったな」 「気付いたか」 声は、突然聞こえてきた。……いや、ベッドの傍らにいたその女に、俺が気付いていな かっただけだった。 白衣を着た髪の長い女。若いが、この女は医者のようだ。 「ん、あんたが診てくれたのか」 「ああ」 「そりゃどーも」 頭を下げながらも違和感がある。どこかで見た顔だ。 俺は、確か事故っちまって、その場にいたのは……そうだ。あいつだ。 あいつ、「お姉ちゃんのところに連れてこう」っていってたな。 そういやあいつの親父さん、あれからすぐに亡くなって、あいつの姉貴が診療所を継い だって聞いたな。 以上、思い出したことを並べて考えりゃ答えは一発で出る。 「久しぶりだな」 「ああ、二年半ぶりぐらいか」 そうか、もうそんなに経つんだな。 病室を見回す。ここにいるのは、俺とあいつの姉貴の二人きりだ。 「あいつは、いないんだな」 「佳乃なら、出かけた」 「俺の顔、あいつに見られてないな?」 「君はヘルメットを被ったままここに運ばれてきたからな、見ていない」 「そうか」 俺は、ほっと胸を撫で下ろす。 「どうやら、大したことなさそうだな」 俺は、ベッドから離れて立ち、全身を軽く動かしてみる。 「世話になったな、そんじゃ」 正直、あまり二人きりでいたくなかった。こっぴどくやられたのがトラウマになってい るのかもしれない。慰謝料請求してやろうか。 「待て」 「ごめんなさい。慰謝料なんていりません」 「何をいっているのだ、君は」 「……治療費だったら後にしてくれ。今は持ち合わせが無い」 「そうではなくてだな」 「なんだよ」 自然と手の届かない位置まで距離をとる。 「佳乃の話では、君は佳乃たちの横をノロノロ走っていてガードレールに突っ込んだらし いな」 「ん、まあな」 「佳乃を見てたのか?」 その声に少しでもからかうような響きがあれば、俺は否定しただろうが、その声も表情 も真剣そのものだった。 「ああ、見てたよ」 「では、気付いたか?」 「なにが?」 「右手だ」 何をいわんとしているのかは当然すぐにわかったが、黙っていた。何をいえっていうん だよ。 「色々、あってな」 「そうかい」 俺には、関係無いことだ。 「だから、あの時わからなかったことも今はわかるつもりだ」 「……」 「佳乃から君のことは聞いていたよ。バンダナを取られそうになった時に、助けてくれた 男の子だとな」 「……そういうこともあったな」 「それだけに、君がバンダナを取ろうとしたと聞いた時は腹が立った。佳乃を裏切り傷付 けた酷い奴だと思ったからな」 「ま、そう思われてもしゃーないわな」 「だがな、ついこの前、佳乃があのバンダナを取ってから、君のことを思い出した」 俺は、目を合わせたくなかったんだが、最初に合わせてしまったそれを外せなくなって いた。真剣な目。こんな目で見られたらそっぽ向くなんてできやしない。 「すまなかった」 「別に、昔のことだよ。最後の蹴りは効いたけどな」 「君は、佳乃のことが好きだったのだろう」 「さぁ……」 あっさりと答えてやろうとして俺は失敗した。一度深呼吸をせざるを得なかった。 「昔のことだ。忘れたよ」 「あの時の私にはわからなかった。君が君なりに佳乃のことを考えていたことを……」 「忘れたっていってんだろ」 せっかく、忘れてたんだからさ。 「思い出させるなよ」 俺は、病室を出た。待合室のソファーの上にヘルメットが置いてあったのを見つけて拾 い上げる。 「じゃ、治療費はあとで持ってくら」 「いや、タダでいい」 「そりゃ、どーも」 俺は、表に出ると無残な姿になった愛車を見てさすがに凹んだ。 エンジンをかけ……いや、見事にかからなかった。 押していく。 前の方から見覚えのある二人連れがやってきたので、慌ててヘルメットを被った。 「あ、さっきの人だ」 あいつが、俺を見つけて走ってくる。その後ろを男がゆっくりと追いかけてくる。…… ちょっと、ヘバってるようだった。 「ありがとう」 俺は、礼をいった。ヘルメットを被ったままなので声が変わっていて、俺とはわからな かったようだ。もちろん、その方が好都合だ。 「もう、大丈夫なのかなぁ?」 それでも、あまりベラベラ喋るとバレそうなので、俺は黙ったまま力強く親指を立てて みせた。 「大丈夫みたいだねえ」 あいつもそういいながら、ぐっ、と親指を立てる。 「お姉ちゃんは名医さんだもん、大丈夫だと思ってたよぉ」 誇らしげにいった。相変わらず、姉貴のことが大好きらしい。 「それじゃ、今日はありがとうな」 俺はそういって、あいつらと別れた。その間際、さっきはよく見てなかった男のことを 見てみた。 あった。 さっきあれほど探した黄色いバンダナ。 男の右手に、巻かれていた。 俺は、懐かしいそれに引かれながらも、視線を前に向ける。 肩越しに聞こえる、仲の良さそうな会話が、段々と遠ざかっていった。 あの男が、一体どんな魔法を使ってあのバンダナをあいつの手から取り去ったのかはわ からない。 俺は、性急過ぎたのかと思ったことがないでもない。あれを取り去るのに、もっと時間 をかけるべきだったのではないかと。 でも、もう、全部昔のことだ。 俺は、魔法なんて使えない。 だから、壊れたバイクは押していくしかなかった。 終