友人たちの異変には、既に気付いていた。 そして、独自の情報網を持つ北川潤には、もはやその理由も知れている。 水瀬名雪は、母親が交通事故に遭い生死の境をさまよっているのに心痛して部屋に引き 篭もって出てこない。 美坂香里は、重い病であった妹が遂に危篤状態になり、学校にこそ来ているものの心こ こにあらず、授業は全く聞いていないしロクに昼飯も食べない。 川澄舞は、親友の倉田佐祐理が自分のせいで大怪我をしたと塞ぎ込んでいて、腹でも切 りかねないとか。 天野美汐は、親友の沢渡真琴が失踪して以来、以前にも増して暗く沈んだ表情で過ごし ている。 そして、相沢祐一――。 そもそも、名雪と香里以外の人間は、彼を介して知り合った人々である。 その相沢祐一が、放課後、北川に声をかけてくる。先日頼んでおいた情報はまだか、と。 奇跡を起こす少女。 それが、祐一が求めていた情報であった。そして、その情報を既に北川は得ていた。 たっぷりと悩んでから、彼はそれを友人に告げる。 その悩みの長さは、それが友人を修羅道へ誘う道とわかっていたからであろうか。 「奇跡の打ち手、名前は月宮あゆ。近頃じゃ毎日駅前の雀荘にいるぜ」 「……そうか、ありがとう」 祐一が身を翻す。 「待てよ、詳しい場所はわかんねえだろ、案内するぜ」 立ち上がり、祐一の後を追う北川の袖が何かに引っ掛かった。 「……美坂、離してくれ、急いでるんだ」 「今、奇跡っていったの?」 香里が呆けたような目で見上げていた。 「奇跡は、起こらないから奇跡っていうんじゃないの? 奇跡が、本当に起こせるの? ねえ?」 北川の顔に、一瞬、苦渋が滲んだ。 「……お前も、ついてこい」 煙草の臭いがする空気と、牌と卓が接触する音の世界。 月宮あゆはそこにいた。 牌を握り、打ち、そして哭く――。 七年の眠りから覚めたあゆは、十分に発育していない自分の体を持て余していた。萎え に萎えたその体を動かすためのリハビリの日々。 そして、ある日、牌を握った。手と頭のリハビリにいいということだった。 退院してからも、あゆは雀荘に足を運ぶ。彼女は常に勝った。 いつしか奇跡を起こす打ち手と呼ばれ、幾人もの人間があゆの前を通り過ぎていった。 ――ただ、やはり今、いえることは、あゆにとって勝負することが生きる証しであり。 闘い続けることが生きている証しであった。 卓が割れた。ずっとあゆの一人勝ちが続いて、他の三人が一斉に席を立った。 誰もいない。 卓に一人座って、何をするでもなく、あゆは待つ。自分の前にまた誰かが座るのを、待 ち続けている。 「お客様、新規の三人連れ様と一緒になりますが、よろしいでしょうか?」 店のメンバーが尋ねてくる。三人連れと一緒の卓になるのを嫌う客が多いので、わざわ ざ尋ねてきたのだろう。しかし、あゆにとってはそれはどうでもよかった。 「こちらです」 メンバーに案内されて自分の前に座る人間を、あゆは見ようともしない。 「久しぶりだな、あゆ」 対面からかかった声にも、動ずることはなかったという。 相沢祐一は、これが本当に、あのあゆなのかと思った。 元気で泣き虫なあの娘なのかと――。 青白い幽鬼のような顔で、青白い幽鬼のような手で、牌を握り、打ち、哭く――。 これが、本当に、あの月宮あゆなのか。 「おい、相沢」 上家の北川にいわれ、祐一は、ようやく自分のツモ番だったのだと気付く。牌を持って くる。何を捨てるか。あゆの捨て牌を見た。自然に、どうしてもあゆの顔が見えた。 これが、本当に、あの――。 「早く切りなよ」 その青白い顔が微かに動いた。あゆが口を開いたのだ。 「時間はキミだけのものじゃないよ」 色の薄い唇が動き、言葉を紡ぎ出す。 「七年間眠り続けたボクにとって、時の流れは貴重すぎるよ」 「……!」 声にならぬ叫び声を発して、祐一は牌を切った。 北川潤は、のちに述懐する。 辛そうな顔だった。あいつの、あんな辛そうな顔を見るのは初めてだった。 「ポンだよ」 無造作に、あゆの手が祐一の捨てた牌を持っていく。 「あゆ……」 結局その局はあゆが満貫をあがって終了した。 「あゆ……」 祐一は、呟いていた。局は進む。その間、呟いていた。 「あゆ! この勝負うけてくれや」 ようやくそういったのは、もう南場も二局目を迎えてのことだったという。 「俺が勝ったら、病院に、みんなのそばにいってくれ!」 いいながら、切った。 「ポンだよ」 あゆの手が、無造作に祐一の捨てた牌を持っていく。 「リーチ」 南二局。 それまで沈黙し続けていたあゆの上家の美坂香里が動いた。 何か、大物手だ。対面の北川はそれを直感的に悟っていた。 「ねえ、月宮さん」 香里は、憔悴しきった表情で呼びかける。 「チーだよ」 あゆが、香里が横にした牌を、やはり無造作に持っていった。 「奇跡、奇跡を起こせるの? 奇跡は起こるの? ねえ、あたしが勝ったら、あの子のと ころに来てくれるの? そうしたら奇跡は起こるの?」 「おい、美坂、落ちつけ」 うわごとのように呟く香里を見かねて北川がいう。 「ねえ、奇跡が起こるなら、あたしなんて、どうなったっていいから、ねえ」 先ほどのリーチ表示牌がなかれてしまったため、次にツモった牌を横にして捨てる。 「チーだよ」 無造作に、あゆの手が伸びた。 「ねえ、お願いだから、ねえ」 「チーだよ」 また、あゆの手が伸びる。 「ねえ、ねえ、ねえ」 次に香里が横にした牌を横目で一瞥するや、あゆは牌を倒す。 「ロンだよ」 南四局。オーラス。 美坂は、もう駄目だろうと北川は思った。起死回生の大物手があっさりと蹴られて、も う反撃する気力は残っていまい。 かくいう自分も点差が広すぎる。一人勝ちのあゆには、倍満直撃しないと追い付かない。 「あゆ! この勝負うけてくれや!」 祐一が、いった。辛そうな表情だった。 「――みんなに、お前の奇跡をささげてくれや〜っ!」 「うぐぅ」 あゆが祐一の捨てた牌を鳴いた。 「他人にささげる奇跡など持たないよ。ましてや……」 あゆがツモる。 「己れの奇跡に身をまかせるほど、愚かじゃないよ」 あゆが捨てた。 「……キミ、背中が煤けてるよ」 「ほざけや、あゆ〜っ」 祐一が手牌のうちの二枚を倒す。撥であった。 「ポン」 あゆが捨てた撥を持ってきてその二枚の横に添える。 祐一の手牌には、既に白と中のアンコが揃っていた。 大三元確定。 これなら、直撃せずともツモればひっくり返る。 「チーだよ」 あゆが香里の捨て牌を鳴いた。 出せ、出せ、出せ。 祐一は念じつつあゆの手を見ていた。 祐一の待ちは二萬伍萬の両面待ち。 だが、あゆが捨てたのは三萬。 祐一のツモ。 白だった。 カンしては、撥に続いて白をさらすことになり、余計な警戒をされてしまう恐れがある。 ここは何食わぬ顔で白切りだ。それにより、この上もない大三元のカモフラージュになる。 白切りだ。 白が四枚。真っ白い、雪を思わせる白が四枚揃っていた。 その横には、赤。 赤い。 白い雪。 それを赤く染めるは――。 「……っ!」 思わず、切っていた。 「あ!」 その直後に気付いた。 何をしているのか。 自分はなぜ中を切ってしまったのか。 「ちょっと待――」 しかし、既に河に投げ込まれた中から祐一の指は離れていた。 「うぐぅ、悪いね、それロンだよ」 あゆが牌を倒す。 中単騎待ちのホンイツ・イッツーだった。 「待て、相沢!」 北川潤は、ふらふらと歩く祐一の背中を追っていた。振り返ると、香里が弱々しい足取 りで店から出てくるのが見えた。 どちらも心配ではあったが、より危ういのが祐一であると判断し、北川は、祐一の後を 追った。 「おい、待てって」 ここは車がよく通る。ガードレールも無い。 そこでそんなふらふらしてたら危ないだろうが。 そういおうとした時だった。 耳を痛くするようなブレーキ音。 その時、相沢祐一の身体が宙に舞う。 ――まるで、紺碧の空に溶け込むかのように……宙に舞う。 何か、ぬるみのある液体が祐一の額を滑り、頬を滑り――そして、地面に落ちた。 雪に、白い雪に落ちた。 赤い。 赤い雪。 「相沢っ!」 声が近付いてくる。 「あゆ……」 赤い雪を見ながら、祐一はうわごとのようにいっていた。 「お前の奇跡を俺にくれや〜、みんなにくれや〜っ!」 祐一たちが麻雀を打ちに行った。 なんでも、奇跡を起こせるかもしれない人がいるという。その人と麻雀をしに行くのだ という。 自分も行きたかったが、自分は麻雀を知らない。 川澄舞は、とぼとぼと校舎の中を歩いていた。 廊下を歩いていると音を聞いた。 じゃらじゃら、じゃらじゃら。 雑然としたリズムともいえぬリズムのようで、なんだかそれでも一定のそれに乗ったよ うなその音に引かれて、思わずその音の元へと誘われる。 扉を開けた。 「げっ!」 中で麻雀に興じていた男子生徒たちが一斉に身構える。 「こ、これは川澄さんではありませんか」 こいつは知ってる。生徒会長だ。そういえば、ここは生徒会室だ。 「まずいところを見られてしまいましたね。しかし、決して金など賭けておらず、あくま で息抜き、知的ゲームとして楽しんでいる次第でありまして」 言い募る生徒会長の久瀬を尻目に舞は卓に歩み寄り、牌を摘む。 「……麻雀」 「いえ、ですから麻雀といえば賭け事というイメージがありますが、それは誤っていると 僕は主張したい!」 「私も……麻雀覚えたい」 「……は?」 その日、北川潤は生徒会長久瀬の訪問を受けていた。 「なんだよ」 「哭きのあゆ」 「あん?」 「どこにいる。君がよく来る雀荘を知っていると聞いたのでね」 「お前、打つのかよ」 「僕じゃない」 そして、今、川澄舞があゆと打っていた。 「……リーチ」 ぼそりと呟き、舞が牌を横にする。 そして、一巡回り、 「……ツモ」 リーチ一発ツモ。 北川はあの後、生徒会室で麻雀を勉強しながら打っている舞を後ろから見せてもらった のだが、舞が知っている役は「リーチ」だけである。 信じられないような引きの強さでとにかく形を作り、リーチをかけ、一発で持ってきて しまう。 久瀬は、この舞の脅威的な引きの強さを面白がってあゆと打たせたいようだったが、北 川には懸念があった。なき、とはツモ順を変えるものである。 不安はすぐに的中した。 舞の四連続のリーチ一発ツモあがりの後の東四局一本場。 「リーチ」 「チーだよ」 それまで一度もないていなかったあゆが動いた。 舞が、ツモり、不思議そうな顔で捨てた。 「チーだよ」 あゆがまたそれをないた。 舞がツモり、捨てる。 「チーだよ」 あゆが、なく。 「久瀬、おかしい」 舞が、ツモった牌を見ながら、対面の久瀬にいう。 「リーチしたのに、ツモれない」 舞が、牌を捨てる。 「うぐぅ、それロンだよ」 あれから、舞はなりを潜めてしまっている。時折リーチはかけるのだが、はかったよう にその牌をあゆになかれ、あがれないで終わってしまう。 「……無理だったか」 久瀬がいうのに、北川は溜息をついた。 「当たり前だ。いくら引きが強いといっても……」 だが、しかし、北川も、もしかしたらと思っていたのも事実であった。 「ツモだよ」 あゆがツモり、半荘が終わった。結局、あゆの一人勝ちだった。 「おい、久瀬、川澄さんに気ぃ配ってろ、おかしなことしそうだったらすぐ取り押さえる んだ」 「なんだと」 「……はねられる直前の相沢と同じ顔をしてやがる……」 舞が立ち上がった。北川と久瀬が身構える。 「佐祐理が傷付いたのは私のせい」 傍らに置いてあった鞄に手を入れる。 「それなのに、私はのうのうと……」 手を出した時、そこには、一振りのナイフが握られていた。 まさか――刺す気か。 北川が、それに一瞬遅れて久瀬が動いた。 北川が後ろから取り押さえようとするが、すぐに振り払われた。舞は見た目よりも遥か に力が強かった。 舞とあゆの間に入った久瀬は見た。 久瀬は、のちに述懐する。 ええ、なんの躊躇いもありませんでした。切っ先を自分に向けて、当たり前のように自 分の腹を刺したんです。 「ぐ……っ」 川澄舞、なんの躊躇いも無く、刃を自らの腹に突き立てる。 その相貌、さながら夜叉のごとし。 それを見るともなく見ながら、あゆは、いつものように次の人間が自分の前にやってく るのを待っていた。 翌日、北川潤は皆を見舞った。 水瀬秋子は、眠り続けている。回復の見込みは今のところ立っていない。水瀬家に電話 をしてみるも、誰も出る者はいなかった。 美坂栞は、眠り続けている。死が彼女を包むのは時間の問題と囁かれていた。香里は、 その傍らを離れない。あの日――あの祐一が車にはねられた次の日から、香里はもう学校 にも来なくなり、面会時間中、ずっとここにいる。 倉田佐祐理は、眠り続けている。そして、その横には川澄舞も眠っている。 そして、相沢祐一。 「あゆ……あゆ……あゆ」 いつも、祐一は呟いていた。 生死の境で呟いていた。 「お前の奇跡をみんなにやってくれや〜」 北川は、病室を出る。 相沢祐一も、美坂香里も、川澄舞も、皆、月宮あゆ――哭きのあゆの“魔性”に見入ら れてしまったのだと北川は思う。 本気で、あゆと打ってしまったために引き摺りこまれてしまったのだと。 だから、自分はそんなことはしない。 遊びでならともかく、もう本気で牌を握ったりすることはない。ましてや――。 相手が魔性であれば、尚更だった。 「おぅ、嬢ちゃん。オタ風ないてヤオチュウ牌(2〜8の牌)でチーとは、渋いなきをす るじゃねえか」 「……」 「ちゃんと役がわかってるんだろうなあ。それとも風をアンコってやがるのか」 「ポンだよ」 「……まさか、そんなことはねぇ! 今、牌が……」 「カンだよ」 「ひ……閃光(ひか)った!」 「ツモだよ」 「お、おめえ、まさか、哭きのあゆ!」 「うぐぅ」 あゆは今日もいつもの雀荘で打っていた。時折このように、雀ゴロ気取りのくせに自分 の顔を知らない者もいる。 「月宮あゆ」 上家の眼鏡をかけた男がいった。 「久瀬だ。僕のこと、覚えているかな」 いわれてみれば、昨日、川澄舞とともに卓を囲んだ中にいたような気もするが、あゆに とってはどうでもよかった。 「倉田先生が君に会いたがっている。来てくれるな」 いつのまにか、男たちが卓を取り囲んでいた。あからさまに暴力的な威圧を全身から出 している男たちだった。 「よう来なすった。あゆはん」 代議士の倉田は、その街では飛びぬけた力を持つ男だった。 無論のこと、裏の世界にも力を持ち、暴力団の組長がこの男にペコペコしている現場な ど当たり前のように目撃されている。 「今日はぶしつけなお誘いですまんかったの。まあ、囲もうやないか」 相手が誰でも関係無かった。そこに卓があれば座り、牌があれば握る。 それが、月宮あゆの、生きている証しであった。 「佐祐理はのう、昔からみんなに慕われとった」 クラスでの人気者。佐祐理は、常にそうであった。美人で優しくて成績優秀。 「そやけど、家に友達連れてきよったことはあらへん」 娘には、本当の意味での親友というような人間はいなかったのだろうと倉田は思う。 「その佐祐理が初めて家に連れてきよったのが……川澄さんや」 「チーだよ」 あゆが、なく。 「初めは、佐祐理はこんな無愛想な子の何が気に入ったんかと思うとったが、あれは、ホ ンマに心根の綺麗な子でな。いつのまにかわしの椅子に座って寝ていたこともあったわ。 ホンマに、安らかな寝顔でな」 「ポンだよ」 あゆが、なく。 「なんとしても、佐祐理もあの子も、助けたいんや。のう」 「ロンだよ」 あゆが、手牌を倒した。 「ほぅ、こりゃ厳しい」 南四局。オーラス。 あゆの一人勝ちであった。 「おもろいのう」 倉田は、いった。 「哭きのあゆ、いうんは伊達じゃあらへんのう。あんたのなきは天下一品や、なくたびに ドラが3つ4つと増えよる」 「カンだよ」 「いうたそばから、ドラが4つや!」 倉田は笑っていた。 倉田の側近、のちに述懐す――。 先生がああいう顔しとる時が……一番怖いんですわ。 「奇跡やのう、あんたを手に入れたらおそらく天下も取れるやろう」 「チーだよ」 「天下か……欲しいのう、天下を……のう」 「ポンだよ」 「ほじゃけんど、今のわしにはそんなもんいらんのや」 「うぐぅ、それ、ロンだよ」 あゆの一人勝ちで半荘が終了した。 「佐祐理……娘を、そしてその親友を助けたいんや! その奇跡が起こせるんなら、わし は天下なんぞいらん! のう、あゆはん、わしの頼みを……」 「キミ、背中が煤けてるよ」 「……背中が煤けてるったぁ、どういうことや」 うぐぅ。 「キミの背中には、一人の命もしょえない」 「……」 「やめなよ……代議士は」 「……この、小娘が!」 「久瀬」 「なんだ。北川君か」 「……あゆが死んだって噂を聞いた」 「……」 「本当なのか。お前がその場にいたそうじゃないか」 「ああ、殺された、と僕も思ったさ」 「くっ! なんてこった!」 「慌てるな、死んだとはいってない」 「なに?」 「僕もまだ信じられないよ。倉田先生にあれだけのことをいったというのに……」 「そうか」 「とうとう、君が打つのか、哭きのあゆと」 「……」 「君は、なかなかの打ち手だそうじゃないか」 「いや、オレは打たねえよ」 北川は、にべもなくいって、背を向けた。 「そうか、かなり興味があったんだが」 久瀬のその言葉にも、振り返らなかった。 ――後年、倉田は側近にふと漏らす。 “わしを前にして顔を変えんかった人間は……あゆ、あの娘一人やった……!” そして倉田、話の終わりにこう結ぶ。 “……殺せんかった。あの娘だけは殺せんかった。理由はわからん。 理由は、今でも……わからんのや” その日も北川潤は皆を見舞う。 水瀬秋子。 美坂栞と、その傍らの美坂香里。 「おい、美坂、髪ボサボサだぞ、お前」 努めて苦笑して叩いた軽口にも、反応は無い。 並んで眠っている倉田佐祐理と川澄舞。 そして――相沢祐一。 「あゆ、お前の奇跡をみんなにやってくれや」 相変わらず、いつものうわごとを呟き続けていた。 だが、いつもと違うのは、その傍らに一人の少女が座っていることだった。 「えっと、天野美汐さんだったね」 「……はい」 何か、本を読んでいるようだった。 「なんの本読んでるの?」 覗き込んで、北川はハッとする。 「あの……私、麻雀わかりませんから。覚えようと思って」 そうか――この子も、奇跡を欲している者。 北川は、美汐の手から本を奪い取る。 「あ……」 「別に覚えないでいい」 君は、あそこへ踏みこまないでいい。 「オレに任せとけ」 病院を出ると、北川は携帯電話を手に取る。 「久瀬か。これから、あいつと打つ。興味があるなら来い」 北川潤はこの時十七歳。 未だ、その横顔に童臭漂う――。 好漢だったという。 久しぶりに“本気”で握った牌は、なんだかひどく触り心地が良かった。 「ツモだ」 調子も、悪くない。出親の東一局で二つないてのタンヤオドラ2をツモって一本積んだ。 対面のあゆは、この局、3筒をポンしたのみでほとんど動きが無い。 「一局終わったところか」 後ろに、気配を感じた次の瞬間には声がした。 急いでやってきたらしい久瀬が息を切らしながら立っていた。 「すまないが、観戦させてもらう」 寄って来たメンバーにそういって、幾らか金を握らせたようだった。 北川は、あゆに対して何もいわない。店に入ってきて、すぐに入れますというメンバー に「あいつと打てるまで待つ」とあゆを指差していい、待っていた。 幸い、あゆの卓はすぐに割れ、北川が座った。 あゆは、もうこれで卓を囲むのが三度目になる北川を見ても何もいわない。 北川も、何もいわない。 勝ったら来いとも、何もいわなかった。 本当はいいたかった。 相沢が、呼んでいる、と。 人間一人が死にかけて、お前の名前を呼び続けているんだ、と。 だが、もうこいつがそんな呼びかけでは動かないことを北川は嫌というほど知っている。 「ポンだ!」 ドラの北を3枚叩く。 勝つ。 勝って、奇跡を――。 奇跡。 奇跡を自らの手にすることが、北川潤の望んだことであった。 みんな、待ってろよ。 「チー」 索子の123をないた。狙いはドラ3つのホンイツ。 「ポンだよ」 イーシャンテンから状況が動かなくなった北川を尻目に―― 「チーだよ」 あゆが、動き出した。 「チーだよ」 さらしたメンツは全てが索子。 こいつ! こいつも、索子で染めてやがる。 いいだろう。どっちが勝つか……! 「リーチ!」 下家が、牌を横にする。 この! 余計なことをするんじゃ……。 「ポンだよ」 ほら、なかれた。 四つ目。これで裸単騎。 あゆが先の三つのないたメンツの上に今ないてできた四つ目を――。 「!……」 その時、北川は確かに見たという。 牌が閃光を放つのを見たという。 「……閃光(ひか)った?」 目を擦っているうちにツモ番が回ってきた。カンチャンの要牌をすっぽりとツモり、テ ンパイ。待ちは2索5索。 下家がツモって顔を青くする。 索子を掴んだに違いない。 北川もあゆも染まっているのは一目瞭然。 「う……」 馬鹿が。 北川は、苛々としながら思う。 そんな顔するぐらいなら、最初っからリーチなんぞかけないでおとなしくしてりゃいい んだ。 「くっ!」 河に投げ出されたのは8索。 「うぐぅ、それロンだよ」 チンイツにタンヤオがついて、ハネ満になった。 「っしゃあ! ツモだ!」 南二局。北川が5巡目にしてメンタンピンをツモあがり、満貫。 しかし、それでもあゆとの点差は四万点近くあった。北川は凌いでいる方で、上家と下 家はどちらも一万点を切ってしまっている。 既に北川の親は前局で、あゆのあがった満貫で蹴られている。 残り二局で、その点差をひっくり返すのは無茶であろう。それどころか上家か下家か、 どちらかが親のあゆに満貫の直撃を受けただけで飛ぶのだ。 「久瀬、いい感じだ」 北川が、後ろを向いていった。 南三局の配牌を取って、もう一度久瀬を見る。 あゆの第一打、西。 「ロン」 西と1筒の、シャボだった。 「奇跡はお前の専売特許じゃないぜ」 その地和を見て、あゆは――。 初めて、北川の顔を真正面から見据えたという。 点差は完全に逆転した。だが、まだ油断はできない。あゆならば、3万点近い差をひっ くり返す手を作ってくるだろうからだ。 だから、もう北川は逃げの一手だ。どんな安い手でもいい、軽く、速やかにあがる。 オーラスの配牌は、悪くなかった。 ロウトウ牌(1、9と字牌)が多めなのでチャンタを狙いにいくのにうってつけの配牌 だった。 そこから北川は、なんの躊躇いも無く――。 三萬を切っていったという。 「!……」 久瀬が、咄嗟に腰を浮かしかけた。 チャンタに行くにしても、ロウトウ牌を捨ててタンヤオに持っていくにしても、三萬と いう牌は必要になる牌だ。 いったい、何を……。 口にしかけて、久瀬はその声を飲み込んだ。 「奇跡……」 北川が、呟いた。 「ポン」 一萬をポンした。 9索をツモってきて、トイツになる。 「ポン」 その9索をポンした。 1索をツモってきた。ドラの2索を惜しげもなく捨てる。 1索をツモってきて、トイツになる。 1索をまたツモって、アンコになった。 まさか……。 久瀬はこの時になって北川の意志を悟る。 「奇跡……」 北川が、呟いていた。 奇跡起こしちゃる。 奇跡起こして、奇跡持って、オレが行ってやる。 だから、みんな、待ってろ。 二局連続で役満。 北川が、それをしようとしていることに、久瀬ももう気付いていた。 「ポンだよ」 あゆも、動いていた。 「チーだよ」 続け様に、なく。 みんな、待ってろ。 1筒を、ツモった。 水瀬も、美坂も、川澄さんも、佐祐理さんも、天野さんも、秋子さんも――。 9筒を、ツモった。 待ってろ。 1筒を、ツモった。 ――相沢! 「おっしょい」 北川が、呟いていた。 「おっしょい」 北川潤は、博多のどんたく祭りが好きだったという。 「おっしょい」 雪深い地方に生まれ育った彼が、あの南方の勇壮な独特な掛け声で知られる祭りが、好 きだったという。 「おっしょい!」 上家から、1筒が出た。 「ポン!」 久瀬、のちに述懐す。 閃光(ひか)った、と。 北川がないた1筒が――。 微かに閃光を放っていたと――。 「おっしょーーーい!」 オーラスで清老頭テンパイ。 「カンだよ」 あゆが、ポンしていた中に四枚目の中を合わせる。 中がドラになった。 「ポンだよ」 あゆが、5筒をポンした。赤5筒が一枚、含まれている。 次巡――。 「カンだよ」 二枚目の赤5筒が、あゆの手から、滑っていった。 中が、ドラになった。 北川が、一筒をツモった。 一筒を捨てるか、カンするか。それとも、9筒を捨てるか。 おそらく、あゆは筒子で染めている。 奇跡……奇跡……。 奇跡を起こすと……。 1索を掴みかける指を叱咤して、1筒を掴む。 捨てた。 「うぐぅ、悪いね、それロンだよ」 ホンイツ、チャンタ、中、ドラ10。数え役満だった。 「それじゃ、ボクはもう帰るよ」 あゆが、席を立ち、店を出る。 北川潤は、それを待っていたかのように立ち上がったという。 「おい」 久瀬の声も聞こえてはいなかった。 「あゆ……」 店を出た。 「あゆ……」 走り出した。 「オレは……」 あゆが、歩道橋を渡っているのが見えた。 「オレは……」 階段を駆け登った。 「お前の魔性には飲まれねえ」 登りきった。あゆの、背中が見えた。 「オレは、飲まれやしねえ」 羽根のついたリュックを背負った後ろ姿が、微かに左右に揺れていた。 「あゆ〜っ!」 後ろから全身をぶつけた。 うぐぅ。 そんな声が、聞こえたような聞こえないような……。 あゆが、落ちる。 落ちていく。 その時、あゆは―― 驚く程に―― 幸せな笑みをうかべていた。 「あゆが生きてる?」 北川は、その男の襟首を掴んでいた。 「ああ、生きてる。見た奴がいるんだよ」 「なんだと……」 「あがれる方だよ」 「な、なんだよ、そのあがれる方って!?」 「……三色ドラ3だよ……甘いね」 「ひょってして、あんた」 「哭きの、あゆ!」 うぐぅ。 生きている。 あゆが、生きている。 北川は、あゆが住んでいたというアパートの部屋に行ってみた。周囲を見回し、鍵を素 早く開ける。 生活感の無い部屋だった。 「そうか」 ……あゆ、お前はしばらく、ここには帰ってない。そうだよなあ……やっぱり。 死んで――。 たん。 牌の……音!? それを、北川は聞いたような気がした。或いは、ただの幻聴だったのであろうか。 あゆ……!? それを、北川は見たような気がした。ただの、幻覚だった。 あゆ……あゆよお……! お前が落ちた日から、おかしなことばっかり続くんだよ。 お前を見たって奴が何人も出てくるんだよ。 あゆ!! ……あゆよお! おかしいだろ。おかしいよなあ。……お前はもうこの世にはいねえんだ! オレが……馬鹿なオレが、奇跡を手に入れられなかった愚かな男が、お前の命を絶っち まったんだ。 あゆ!! あゆよぉ〜〜〜っ! ――許してくれ! 許してくれよぉ。 ……もう一度。 オレの前に姿を出して、うぐぅを聞かせてくれよ。 あゆ!! ……あゆよぉ〜〜〜〜〜〜っ! 「嬢ちゃん、今、なにいった!」 「うぐぅ、それ、ロンだよ」 ドアを叩いていた。 いつまで経っても出てこないので、預かっていた合鍵を使う。 「名雪!」 美坂香里は、真っ直ぐにその部屋に向かう。 ドアを叩いた。 「秋子さんが、秋子さんが! 目を覚ましたのよ!」 「……うにゅ」 「それから、栞も、川澄さんと倉田さんも! それから、天野さんがものみの丘で倒れて いる沢渡さんを見つけて……」 「……」 ドアが開いた。 「失礼、北川君は来ていませんか」 久瀬が、水瀬秋子の病室を訪れた時、皆が揃っていた。 「いえ、来てないわ。さっきから朗報を知らせてあげようとしてるのに、携帯鳴らしても 電源切ってるみたいなのよ」 「そうか……」 「北川君が、どうかしたの?」 「さっき、電話があってね」 「うん」 「オレは、あゆを殺してしまった、と」 「!?……」 「ほ、本当なの!」 「彼はそういっているんだが……その、彼が殺したという日以降にあゆを見た人間が大勢 いるんだ」 「そ、そうだよ、北川君がそんなこと……」 「ん、失礼」 久瀬が、携帯電話を取り出す。 「ああ、わかった。すぐ行く」 久瀬は、皆に向き直っていった。 「いっているそばから、駅前の雀荘で今、それらしい人間が打っているという電話だ。ち ょっと今から見に行ってくる」 「香里、わたしたちは、北川君を探しに行こうよ」 「そうね。久瀬君、わかったら、あたしの携帯に連絡ちょうだい」 「よし、わかった」 あゆ……。 あゆよぉ……。 オレは、もう、こうするしか思いつかねえよ。 川澄さんみたいに上手くできねえかもしれないけど。 ……あ、携帯、電源切りっぱなしだ。 まあ、どうでもいいか。 ナイフ……。 切れ味よさそうだろ。 買って来たのを、自分で磨いだんだぜ。 さあ、こいつで……。 あゆ……。 あゆよぉ……。 ――許してくれ! 許してくれよぉ。 香里は震える携帯電話をポケットから取り出した。 「やっぱり、あゆだ。間違いない。あれは月宮あゆだ」 興奮気味の久瀬の声が聞こえてくる。 「そう、わかったわ」 後は、北川君を――。 とりあえず、北川の家に――。 チャイムを鳴らす。 ドアを叩く。 応答は無い。 無断だが、火急なので、庭に回る。 赤い雪。 その上に、北川は横たわっていた。 「北川君!」 柔らかいものに抱き上げられて、途切れかけていた北川の意識が微かに目覚める。 「美坂に……水瀬か……」 「あんた、何してんのよっ!」 「北川君、どうして……」 「聞いてくれ、オレは、あゆを……」 「馬鹿っ!」 「あゆちゃんは、生きてるよ」 「……なに?」 「久瀬君が確認したわ」 「あゆちゃんは生きてるよ、それに、お母さんも、栞ちゃんも、他のみんなも……」 「なのに、なんであなたはこんなことするのよ……馬鹿!」 「そうか……」 そうか、あゆが生きてるか。 それに、他のみんなも……。 ……よかった。 ……本当に…… よ……かった。 北川潤が死んだ。 赤い雪の上でのことだった。 北川潤が死んだその日、昏睡から目覚めた相沢祐一は、そのことを知った。 祐一は、ベッドから立ち、コートかけに自分が事故に遭った時に着ていたコートがかけ られているのを発見すると、それを手に取り、羽織った。 みんなが助かったと聞いて喜びに浸った直後に悲報を聞いた。 自分はどうなってもいいと思っていた。 それなのに――。 なぜ、自分を生かし、北川を殺したのか。 奇跡に代償が要るならば、自分の命を持っていくべきではなかったのか。 あゆ……。 あゆ!! 駅前の道を歩いていく。自分が車にはねられた辺りにさしかかる。 いびつに歪んだガードレールが、補修もされずにそのままにされていた。 「ぐっ」 身体の奥から、苦しみが沸いてくる。 やはり、まだ表を出歩いていい状態ではないのか。 雀荘への、階段を登る。 いつか登ったそれだ。 店の扉を開けた。 がらん、とした店内に、相沢祐一は、見たという。 月宮あゆの背中を、見たという。 「あゆ!」 キミ、背中が煤けてるよ……。 「ほざけや、あゆ〜っ!」 キミの背には、一人の少女もしょえない。 「なんで、俺の命を持っていかなかった!」 やめなよ。 「あゆ〜っ!」 ……うぐぅ、悪いね、それロンだよ。 哭きのあゆ 完