自分は娘を愛している。 橘敬介は、自信を持って断言できる。できるのだが、どうにも他人にいわせると、彼の 娘への愛情は疑わしいらしい。 「あんた、父親らしいことしたったことあるんか? お?」 義理の従姉妹はいう。亡き妻の妹である彼女は、その後、散々に彼の娘への薄情の証拠 を列挙してから一升瓶で殴るという挙に及んだ。 娘を引き取ろうかと思う、と直談判に行った夜のことであった。娘は既に寝ていた。 さて、一升瓶で殴られた敬介は、翌日の午後、またその街へ来ていた。しかし、家に行 くとまた従姉妹に殴られた上にバイクで引き摺りまわされかねないので、通学路で娘を待 った。 やがて、夏の日差しの中に、ぽつりと孤影が現れた。その先を辿れば我が愛娘が歩いて くる。 「ジュース飲もうっと」 武田商店という店の前にある自販機の前で立ち止まると財布を取り出す。 「今月、ぴんちだったんだ。にはは……」 力無く照れ笑いをする。どうやら、持ち合わせが無いらしい。 「次のお小遣いの日までジュース飲めない。観鈴ちん、我慢我慢」 電信柱の影から様子をうかがっていた敬介にとっては天佑ともいえるチャンスであった。 「やあ、お嬢さん」 「え?」 神尾観鈴はとても純粋で純朴な少女である。 「僕がジュースを買ってあげよう」 「え、ホント?」 純粋で純朴であるから、電信柱から半身を覗かせた男にそういわれても怪しむことが無 いのも当然といえよう。 「ほら」 百円玉を渡すと観鈴は受け取り、それを自販機に入れた。 「今日はピーチ味にしようっと」 ボタンを押して、自販機からパックを取り出す。 「ありがとう、おじさん」 「お安いご用さ」 おじさん、というのがちょっと気にかかる。これでも歳より若く見られる方なのだが。 「神尾観鈴といいます。おじさんは?」 「ああ、僕は、橘敬介というんだ」 そういって、敬介は寂しく笑った。 翌日、敬介はまたそこにいた。昨日と同じ時間に観鈴が歩いてくる。 ちらりと自販機を見て、通り過ぎようとする。昨日は親切なおじさんがジュースを買っ てくれたが、今月はぴんちでお金が無いのである。 「観鈴ちん、観鈴ちん」 声に振り返ると、電信柱の影におじさんがいた。 「あ、敬介おじさん」 観鈴は嬉しそうに笑った。打算的な思考が抜け落ちている少女なので、今日もまたジュ ース買ってもらえるかも、という期待からの笑顔ではなく、純粋に顔見知りに会えて嬉し いのだ。 「観鈴ちん、今日はお土産があるんだ」 敬介は用意しておいた、ケーキの入った箱を観鈴に渡す。 「え、くれるの?」 「ああ、それとジュースも買ってあげよう」 気前よく、百円玉を自販機に投入する。 「ありがとう、敬介おじさん」 「なぁに、お安いご用さ」 「そうだ。おじさん、うちに来ませんか」 「えっ」 「一緒にケーキ食べませんかっ」 それは是非とも御一緒したいところではあるが……。 「でも、おうちの人とかに迷惑にならないかな」 問題は「おうちの人」である。観鈴と肩を並べて帰宅しようものならパチキから金蹴り から一升瓶殴打からバイクでの市中引き回しまでフルコースでシバかれるに違いない。 「お母さん、いつも夜遅いから、大丈夫ですよ」 「そうなのか」 義理の従姉妹であり、そもそも幼馴染でもある神尾晴子の仕事については敬介は詳しく 知らないのだが、観鈴がいうには昼まで寝ていて、夜は遅いという。 やっぱり、水商売なのかなあ……などと思いつつ、敬介は観鈴に手を引かれて神尾家へ と向かった。 「お父さんは、いないから」 歩きながら、寂しそうにいった観鈴の横顔に少し心が痛んだ。 家に着くと居間に通された。 「はい、紅茶を入れましたよ」 観鈴が湯気の立つティーカップを運んでくる。 敬介が持ってきたケーキは既に皿に取られている。ショートケーキとチーズケーキが二 つずつ。晴子と一緒に、という配慮だったのだが、まさかこうして自分が一緒に食べるこ とになるとは思わなかった。 ケーキを食べながら世間話に興じる。学校でどうしているかとか……お母さんは優しく してくれるのかとか……。 観鈴は純真無垢そのものの笑顔を敬介に向ける。随分と会っていなかったが、すっかり 大人に、だが、心は綺麗なままに育っているようだ。 これは、晴子に感謝しなくてはいけないかな……。そんなことを思いつつ、敬介は観鈴 がすすめる二杯目の紅茶を受け取った。 話せば話すほど、観鈴は魅力的な少女だと敬介には思われた。そうなると父親として心 配なのは悪い虫がついていないかどうかである。さりげなく聞くと、学校ではほとんど男 子と話すこともないというので安堵する。 「しかし……」 先ほどからいおういおうとしていたことを敬介はいうことにした。 「ノコノコと着いてきた僕がいうのもなんだが、知り合ったばかりの男性をうちの人が誰 もいない時に家に上げるのは、あまり感心しないな」 自分だからよかったが、これが違う男で、そして何かやましい目的を持っていたとした ら、今頃観鈴は酷い目に遭っていただろう。 「でも……」 「でも、なんだい?」 「敬介おじさん、なんだか他人のような気がしなくて……」 不覚にも、敬介は目頭が熱くなるのを感じた。何年も会っていなかった父親に、何かを 感じてくれているこの娘のことを抱き締めたくなる。父親だと名乗りたくなる。父親とし てこの娘を抱き締めたかった。 「そうか、それは嬉しいな」 だが、なんとかそれを自制すると、敬介は紅茶をすする。 それからしばらく話していると、観鈴がトランプをしようというので相手になった。 「あ……」 遊んでいると、突然観鈴が配ろうとしていたトランプを取り落とした。 ばさりと広がるカードたち。その上にゆっくりと観鈴の上半身が被さる。 「おい、どうしたんだ。観鈴ちん」 「痛い……痛い」 「い、痛いって、どこか怪我でもしてるのか?」 敬介は大慌てである。滅多に無いことだ。知人がこの場にいたらお前もそんなに取り乱 すことがあるのかと目をむくだろう。 「どこだ。どこが痛いんだ」 「……せ、な……か」 「背中か? 背中だな?」 確認するために何度もはっきりとした声でいう敬介に、観鈴は頷いた。 「よし」 敬介は観鈴の服を脱がせる。 やましい気持ちなどない。娘が苦しんでいるのだ。こうしない父親がいるだろうか。 背中の全景を見るために、観鈴の上着を全て脱がせる。白いブラジャーだけになったそ の身体を見て敬介がまず感じたのは、その成長であった。 膨らんだ胸も、少しくびれた腰も、健康とはいえなかった少女がこの海辺の町で健やか に育っていることを証明していた。 よくぞこれまで……。 やはり、晴子には感謝しないといけないな。 つくづく思いながら、敬介は観鈴の背中を撫でる。 「敬介おじ……さん」 「ん、なんだい?」 「あり……が、とう」 微かな弱い声。それを聞いた時、敬介は感情の揺れをはっきりと自覚することができた。 揺れている。とにかく、感情が揺れているのだ。観鈴。娘が、ありがとうといってくれた。 そして、敬介はその時、恐ろしい事実に気付いてしまう。気付かなければそのまま名乗 りは上げられずとも観鈴の父親として、娘の背中を撫で続けていられただろうに……。 それは、ずっと離れて暮らしていても観鈴は自分の娘であり、自分は観鈴の父親なのだ と固く思っている敬介にとっては、その思いの芯が折れるほどの衝撃であった。 「あ、あ、あ……」 敬介は、あまりのことに震える。 恐ろしい。 自分が怖かった。恥ずかしかった。情け無かった。 「これ、私、一人で静かにしてればおさまるから、敬介おじさん……は、もう、帰って。 お願いです」 観鈴がそういったのをいいことに、彼は、苦しむ娘から逃げ出した。 「うわああああああああああ!」 叫びながら、走った。玄関を出ると急ブレーキの耳障りな高音が辺りに響く。 「このアホ! 死にたいんか!」 バイクに跨ってそう叫んだ神尾晴子は、自分が轢きそうになった人影の正体を知り、そ してそれが自分の家から出てきたのに気付くと瞬間、怒気で全身をたぎらせた。 「敬介! おどれ、こんなとこで何しとんのや!」 「あああああああああ!」 しかし、晴子の声は届いていない。晴子の姿も見えていない。敬介は獣としかいいよう のない人間離れした咆哮を上げながら走り去っていった。 「なんや、どうしたんや」 その、あまりにも常軌を逸した様子に、晴子も毒気を抜かれてしまう。が、やがてすぐ にあることに思い至ってバイクから飛び降り、愛車が横倒しになるのもかまわずに観鈴の 名を呼びながら玄関をくぐった。 敬介は、走り続ける。 娘。愛する娘。観鈴。 長い間会っていなかった自分を「他人と思えない」といってくれた観鈴。 その観鈴の背中を撫でていた。そのブラジャーに包まれた胸が目に入った。何を意識す ることもない。娘だ。そう思った。そう思っていた。観鈴は確かに既に少女の時期から片 足を脱して、女としての身体になりつつあったが、それでも、娘なのだから、変な気持ち にはならないはずだった。 しかし、嗚呼、なんということであろうか。 橘敬介は、確かに――。 勃起していたのである。 隆々と、嗚呼、隆々と。 その夜、敬介は荒れた。普段はあまり飲まぬ酒を浴びるように飲んだ。何も考えず、何 も考えたくなくて傾けた酒瓶から大量の酒が溢れ、それが口におさまりきらずに文字通り 酒を浴びた。 酔いにまかせて、生まれて初めて女を買った。二十代後半と思われる「年齢は内緒ね」 という女だった。 ラブホテルに入るとシャワーも浴びさせずに抱き、一度目を終えて女が今度こそとシャ ワーを浴びに行くとその後を追って風呂場でまた抱いた。 商売女が足腰立たなくなるまでに抱き続け、少し眠った。 朝日に、目を開ける。女が既に起きていて、うっとりとしたような目で見ていた。 「ねえ」 頭を撫でながら、女はいった。 「イクコ、って誰?」 悪戯っぽく笑う。 「妻だ」 敬介は言葉短く答えた。 「いいの? 浮気しちゃって」 「妻は、もう死んでいる」 軽薄に見えた女の笑みが凍り付き、おずおずと、意外なほどに真面目な表情が覗いた。 「ごめんなさい」 「いや、いいんだ」 敬介は気だるげに首を振った。 「ねえ」 「なんだい」 「ミスズ、って誰?」 今度は敬介が凍りついた。 「な、なぜその名前を……」 「はじめは、イクコイクコっていってたけど、そのうちにミスズミスズって……」 「あ……」 「どしたの?」 敬介は枕元に置いてあったズボンから財布を取り出し、無造作に札を引き抜く。 「悪いが、すぐに帰る」 それをきょとんとする女の手に握らせて立ち上がり、手早く着替えをすませる。 女が放心状態から立ち直った時には着替えを終えていた。 「ちょっと、約束より多いよ」 戸惑ったような女の声を背に、敬介は部屋を出た。 翌晩、敬介は神尾家に電話した。観鈴が出たらどう話したものかと心配していたがそれ は杞憂であった。 「もしもーし、神尾やで〜」 電話に出たのは晴子であった。 「やあ、晴子」 相手が敬介だと知るや、途端に晴子の態度は冷淡になる。 「あんたなぁ……まあ、ウチのおらん間に家に上がり込んだことは千歩譲って、まあええ わ」 いつにない寛大さを発揮する晴子であるが、彼女が激怒しているのがその声音から容易 に知れる。 「苦しんでるあの子をほったらかして逃げるいうんはどういうつもりや! お!?」 「いや、晴子」 「ボケが! なんもいわんでええわ。ただな、二度とウチに、観鈴に近付くんやない。半 径百メートルに近付いてみぃ、轢き殺したる!」 「晴子、僕は……」 「あんたなんか、観鈴の父親やあれへん! 赤の他人や!」 晴子の一言に、敬介は全身を強張らせる。受話器を取り落とさないようにするのが苦労 であった。 観鈴の父親じゃない。 赤の他人。 「ええか、もう観鈴とあんたは……いや、ウチとあんたも赤の他人や! 親戚面してウロ チョロしよったらシバき回したるからな、おう!」 父親じゃない赤の他人。 それは……。 なんと……。 「ああ」 甘美な「事実」であろうか。 「僕は、観鈴の父親じゃない。赤の他人だ」 「ちょい待ち、敬介」 思わず、激怒していた晴子が心配そうな声を出してしまうほどに、敬介のその声は渇い ていた。 「それじゃあ」 「待ちぃや!」 晴子が引き止めるのも虚しく、受話器を置く音が晴子の耳に触れる。 「アホ敬介……ボケ敬介」 昔、喧嘩をする時に叫んでいた言葉が晴子の口から漏れる。 「……言い過ぎてもうたな」 彼女らしくもなく、弱々しい表情と声。 足から力が抜けて、背中が壁に着いていた。 そしてそのさらに翌晩。観鈴が眠った頃のことである。早寝の観鈴が眠った頃といえば、 晴子にとっては大いに活動期間中の時間を指す。 一升瓶を傾けて湯呑に酒を注いでいたが、それも面倒臭くなって直接一升瓶をくわえて 飲んでいた。 玄関から微かな音が聞こえてくる。無視していると、足音らしき音が玄関から庭を回っ て近付いてきた。 泥棒であろうか。はたまた、いい女と可愛い女の子の二人暮らしを狙う強姦魔であろう か。 どっちにしろ、シバく。 晴子は既に空けてしまった一升瓶を逆手に持って耳を澄ませる。 「晴子、僕だ」 庭から、声がした。 「……あんたかい。……入りぃな」 晴子は、縁側のガラス戸を開けて、敬介を迎え入れた。 「晴子」 敬介が、居間に、晴子の前に正座した。 言い過ぎたって謝らな。 晴子は決して敬介の行為を許したわけではない。しかし、昨日の電話はやっぱり自分が 言い過ぎだったと思う。 敬介があの時取り乱したのも、見ようによっては観鈴のことを思っているためだといえ る。 その敬介の弱さ迂闊さを責めることはできても、敬介の観鈴を思う気持ちを否定はでき なかった。 「敬介……あー、そのな」 だがしかし、昔から、神尾晴子は橘敬介に対して素直に謝るという行為を大の苦手とし ていた。 「その、昨日は言い過ぎたかもしれん」 それでも、その言葉を搾り出した時、敬介が上半身を前に倒した。 土下座である。 「敬介、なにもそないなこと……」 慌てて晴子が腰を浮かしかける。 「お母さん!」 「は?」 はじめ、敬介が自分にそれをいったとは思わなかった。しかし、ここには二人以外の人 間はいない。間違い無く、自分に向けてのものだろう。 「お母……さん?」 呆けたように、口をパクパクさせながら晴子はいった。 「娘さんを僕にくださいっ!」 一升瓶を逆手に持った。 がしゃーん。 「なにをぬかしとるんじゃ、このボケぇぇぇ!」 「このボケが、とうとうイカれてまいよったか」 散々シバき倒してボロボロにした敬介を見下ろしながら晴子が吐き捨てるようにいった。 実際、自分の家の中でなければ唾でも吐きたそうであった。 「いや、僕は真面目です。お母さ」 「ていっ!」 最後までいわせずに顔を踏んづける。 「観鈴はおどれの娘やろうが! あんたがそないな変態やとは思わんかったで!」 「いや、僕は観鈴の父親じゃないんです。赤の他人です。そうだ。そうなんだ。だから結 婚するのになんの問題も無い。観鈴ちん、観鈴ち〜ん」 「落ち着かんか、このどアホ!」 襟首を掴んで前後左右に揺すりまくる。 「にはは、観鈴ちんと結婚。観鈴ちんのウエディングドレス」 「現実を直視せんかい!」 がしゃーん。 一升瓶炸裂。しかも今度は中身入り。水と空気があっても、酒が無ければ死んでしまう 生き物にしては凄まじく気前のいい攻撃であった。 「うう……」 さすがに倒れる敬介。 「あんな、敬介。父親やないとか赤の他人やとかは、ウチが言い過ぎたわい。そやから、 あんまわけのわからんこというなや。頭痛いわ」 「は、晴子……僕は」 「なんやねん」 「僕は、父親失格だ」 「ワレ、ようやく自覚したんか」 「僕は、僕は、観鈴の身体を見て……」 敬介は、ごくりと唾を飲みこみ、いった。 殴られるのも蹴られるのも引き摺り回されるのも覚悟していた。 「勃起してしまったんだ」 なにしとんねん、このアホぅ! と、蹴飛ばされるかと思いきや……。 「うわ、怖っ」 晴子が、ずざざざざ、と音を立てて後ろに下がった。 「は、晴子……」 「怖ーっ、あんた、それシャレならんわ。もう近付かんといてや」 「晴子、そんなこというなよー」 もぞもぞもぞ、と尺取虫を彷彿とさせる不気味な動きで敬介が近寄る。 「いや、もうな、ごめん。ホンマごめん。ウチが悪かったから、もう、とにかく近寄らん といて」 ずざざざざ。 「晴子〜」 もぞもぞもぞ。 「近寄るないうとるやろ!」 べしっ。 「うわ、触ってもうた。ばっちぃなあ」 「晴子ぉ〜」 「わっ、このボケ、何しよんねん!」 にじり寄りまくった敬介が勢い余って晴子を押し倒すかっこうになった。 「うわー、離さんかい、このボケ! 気持ち悪っ!」 晴子は両足で敬介の胴を挟みこむ、わかりやすくいうとガード・ポジションである。 「そんなこというなよ〜」 敬介は前にのめって、顔を晴子の胸に埋めて泣き言三昧である。 「死ね、死ね、死んでまえや!」 話し合いで離れてもらう方針から殺すことにしたらしい晴子が左手で敬介の前髪を掴ん でそれを後方に引いて顔を上げさせ、その上がった顔に右肘を叩きこむ。 「昔は敬介お兄ちゃん大好き、っていってたじゃないか〜」 その敬介の言葉に思い出したくもない過去を思い出し、晴子の顔が怒りと恥ずかしさに 真っ赤になる。 「いつの話しとんのや。知らん、ウチはそんなん覚えとらーん!」 肘爆弾の落下速度が跳ね上がる。 ちなみに怒りと恥ずかしさは97対3ぐらいの割合である。 「晴子ぉ〜」 「ホンマええ加減にさらせよ、この……」 晴子は右手を伸ばしてさきほど敬介をぶっ叩いてやった一升瓶を取る。無論、敬介の頭 をカチ割る代わりに割れてしまっている。鋭利なガラスの刃が連なったそれを敬介の顔に 向ける。 さすがに昔馴染みやし、ここまでやりたなかったが……。 「はぁ〜るぅ〜こぉ〜」 このボケ、えぐったら。 今正に、色々あって歪みまくってはいるが元々は端整な顔立ちをした敬介の顔にガラス の凶器を突き立てようとした時である。 「な、なにしてるの……」 観鈴が、居間の入り口に立っていた。 えぐられそうになっている「父」とえぐって前科一犯になりそうだった「母」とどちら をより多く益したのはいまいち判然としないが、とにかく、その観鈴の一言、彼女の出現 が、いいか悪いかようわからんけど事態の方向性を変えたのは間違い無かった。 「なにしてるのかな」 事態を全く飲みこめていない観鈴は、重ねていった。 「あ、あれや!」 晴子は凶器をさりげなく手から離しながらいう。 「ふ、二人でバーリ・トゥードごっこしてたんや。のう、敬介」 「あ、ああ」 「今、お母ちゃんが上になられとるけどな、ガードしとるさかい。今から逆転狙ってんや で〜、のう、敬介」 「あ、ああ」 「お母さんと敬介おじさん、知り合いだったの?」 観鈴はそういって首を傾げる。 「お、おーぅ、そうや。ちょっとした知り合いやねん。のう」 「あ、ああ」 「仲良しさんだねっ」 観鈴はにこにこと笑っていった。 「お母さん、家に友達連れてこないのに……敬介おじさんは凄い仲良しさんなんだね」 「あ、いや、そのー」 「うむ、僕と晴子は仲良しさんなんだ」 ここぞとばかりに笑顔でいう敬介に、思わず捨てた凶器に手が行きかけるのを押さえて 晴子はにっこりと笑った。 「ごめんなー、ウチらが騒いでるから起きてもうたんやな。さ、もうウチらも止めて静か にするさかい、はよ寝なあかんで」 「僕が部屋まで送ろう」 という敬介の胴を思いっきり締め上げながら、観鈴からは見えない位置の肉を摘む。 「はよ、部屋に戻りぃな」 「ははは、そうしなさい。観鈴ちん」 「あっ」 観鈴が何か思い当たったようにいった。 「なんや、どうしたんや?」 「お母さんと敬介おじさん、結婚するんだね」 「はあ?」 出会ってこの方、ここまで合ったことはないというほどに二人の声が合った。 「え、え、だって、二人は恋人同士で」 「違うわい!」 「でも、夜に二人だけでバーリ・トゥードごっこしてる男の人と女の人は、恋人だって本 に書いてあった」 「そんなわけあるかい! 敬介からもいうたれ」 晴子にそういわれて、敬介も頷いた。 「そうだぞ観鈴ちん……」 いいかけたのに、観鈴の次の言葉が重なった。 「二人が結婚したら、敬介おじさんがお父さんになるから、嬉しいなって思ったから、に はは」 敬介の中で何かが弾けた。弾けざるを得ない。 「晴子! 結婚しよう!」 あんぐりと口を開けて呆然とする晴子。 「わ、プロポーズ」 驚きながら、少し嬉しそうな観鈴。 「いいじゃないか、愛なんか無くたって、それより僕が観鈴ちんにお父さんと呼ばれる方 が遥かに重要であって、悪いんだけど君の意志はどうでもいいというか」 「このクズがぁ!」 一瞬で敬介を跳ね除け上になり、殴りまくる。 「バーリ・トゥードごっこまだやるの?」 「おう、まだやるんや。こぉのボケカスだきゃあ今日という今日は〜」 ボコボコと殴る。 「観鈴ははよ寝んかい! うるさかったら耳栓してでも寝んかい! 寝んかぁい!」 晴子のあまりの剣幕に観鈴は「二人の邪魔したら悪いからね、にはは」と引きつった顔 をしながら部屋に戻った。 学校の帰り道。観鈴は武田商店の前で立ち止まる。 財布を取り出し、わざわざ開けてみる。 「にはは、買えない」 そりゃそうであるのだが、いちいち確認しないと気が済まないらしい。 「観鈴ちん、観鈴ちん」 道端の電信柱の後ろから声がする。 「……あ、敬介おじさん」 敬介が例の位置で観鈴を待っていた。頭をすっぽりと覆うほどに巻かれた包帯が痛々し い。 「ほら、ジュースを買ってあげよう」 百円玉を自販機に投じる。 「ありがとう、敬介おじさん」 観鈴がそういった時、敬介の目が光った。 「観鈴ちん、違うぞ」 「え?」 「これからは僕のことは、お父さん、と呼ぶんだ」 「え、え、え?」 「実はあれから僕と晴子は結婚したんだ」 「わぁ、そうなんですか」 「だから、ね」 「はいっ」 観鈴は嬉しそうに頷いた。 「お父さんっ」 「おおぅ」 喜びとか快感とかに打ち震える敬介。 馬鹿な真似をしているということはわかっている。本当の父親が、こんな遠回りなこと をして「お父さん」と呼ばれて喜んでいる。本当に馬鹿な男だ、と敬介は思う。 そして、しっかりと勃っていた。 「観鈴ちん、もう一度」 鼻息も荒くそういった時、敬介の首に何かが食い込み後ろに引かれて敬介は倒れてしま った。 「う、なにを……」 首に手をやると、ロープが巻きついていた。 「なぁーにをしとんのや、お?」 敬介の首に回った輪になったロープの元で、晴子がバイクに跨っていた。 「あ、お母さん」 「や、やあ、晴子じゃないか」 「おどりゃ、観鈴になに吹き込んどるんや」 いいながら、晴子はロープの先端をバイクの後部に縛りつけている。 「まあ、待て、晴子」 「観鈴、ウチらは話があるさかい。気ぃつけて家に帰るんやで」 「うん」 唸るエンジン、回る車輪、引き摺られる敬介。 「二人とも、仲良し。にはは」 観鈴は爆音と砂煙と悲鳴と怒声を残して去っていった「お母さん」と「お父さん」を見 送ると、自販機のボタンを押した。 大好きなピーチ味が、ごとん、と取り出し口に落ちてきた。 終